13時半の起床。残りもののおかずで昼食。着替えをし、歯を磨き、顔を洗う。(←パチパチ)。日光浴を心がけ、体は半分コタツに入りつつも、寝っころがったまま青空を見上げ、お陽様にふれる。「お雛様に差し上げるごちそう」の相談を、母様が親父様にしている様子とか、「私たちの高校(女学校)の授業料は50円だった」「ワシは(旧制中学)7円」という会話や、「○○は3月3日が卒業式です」というニュースに応じ「ワシの卒業式も3月3日やった」と親父様がテレビに向かって喋っている(ん、わたしに向かって喋っていたのかもしれんが)のを、耳にしながら、少しうとうと。本格睡眠に入らないよう、気をつけながら、うとうと。晩、シャケのムニエル、野菜炒め、などなど。それにしても、食事もろくに摂れない状態にカツ(!)をいれるため「食日記」を書き始めたわけだが、最近は不規則ながらも、一日1~2食は食べれるようになったのだから、もう「食日記」(=単に食事の内容を日記にメモ書きする)は卒業してもいいかもしれん。
朝7時の朝食。白米、豆腐とフキノトウの酒粕汁、玉子焼き、ホウレン草と長ネギと煮干とハムの炒め物、辛子明太子、など。午前、病院のお供。毎度のごとく、病院最寄の駅までは汽車で行き、そこから先は姉の車に乗って病院へ。信号待ちで停まった車中、親父様(76歳)、「コスプレェ~。ポパイでハッスルゥ、ハッスルゥ~? 全然、意味わからん。ん? ん?」とつぶやいておる。(窓外にはそういう張り紙があったのだな。彼はテレビなどで知らない単語がでてくると、すぐにその意味を質問してくるのである。こりゃ、どーみても、お色気系のサロンの宣伝文句でしょーが。近年めっきり、盛り場に行かなくなった彼にはピンとこなかったのだろうが)。昼、親の家に戻り、うどん。14時から20時まで、ぐっすり睡眠。晩、フクラギの煮付け、グッチ裕三の大根スープ(←NHK「きょうの料理」でグッチ裕三が紹介していた)などなど。今夜も親の家に泊。
夕べ、テレビに映ったイチロー選手が、「精神的な問題は精神では解決できず、技術で解決してゆくしかない」というようなことを言っていた。◆話題は変わるが、ウツウツ渦の住人である我に向かい、じっとしているからダメなんだ、コンビニのバイトでもいいからとにかく何か行動しろ、と助言してくれる人もいれば、あなたの症状は脳内のセラトニンが不足しているのだから薬物で補いなさい、世には画期的な薬があるのだよ、と助言してくれる人もいる。いずれも正しい方法ではあるだろう。それが最良かどうかは知らないが。◆このブログ、おのれの気持ちの免罪符としてのブツブツ事は、ひきこもりの温床になり、不細工な人間性の露呈になっているが、なによりわたし自身に伝わるのは、「なんてわたしは薄っぺらなのだろう」ということ。◆今月もあと一日。前よりわたしのなかの最上レベルのテーマであるのは、鈍感力。まさにこの名の通りのタイトル本が流行っていると、つい最近知った。ところで。鈍感力をもった個人に嫉妬するほど、煩わしいものはないかもしれない。
夕方の起床。日が長くなった。夕方起きてもまだ太陽が「いる」というのは救いである。寝巻きから家着に着替え、歯を磨き、顔を洗う。(パチパチ!)。しかし、そのままコタツにもぐりこみ、夕飯までずっと横になる。老母は夕食の支度をし、老父は風呂をわかし(スイッチひとつ押すだけだが)、彼らは朝から接骨院に行ったり、畑仕事をしたり、はたまたいつ我が起きても腹をすかせぬように食卓の用意をし「味噌汁は・・・暖めて」の手紙を書き、祖母の用事をしたり、一日中なんやかんやと働いているのを知っているくせに、この我のごく潰しぶり。いや「ごく潰し」なんてのは実に可愛げのある言い方で、今の我のあり方は、親の老後に泥をぬっているようなもんである。棺おけに足を突っ込む用意する年齢になった両親にとり、我は拭えない心配の種であろう。これが十代の子ならまだ救いもある。普段は立派にお仕事している社会人ならまだ救いもある。家の手伝いをしなくとも、親に笑顔のひとつでも向ける娘であればまだ救いもある。(今年に入ってから、笑顔どころか、つい最近まで「うん」の一言さえも発せなかった。最近になってやっと親に「うん」「いらない」「食べる」くらいの返事をできるようになった。まだ顔をまともに見ることはできないが)。まもなく40に手が届くという年齢の独身無職の女。目も当てられないとはこのことだ。夕食は、ポテトサラダなど。
こういう
ニュースを聞くと、実物が見たくなる。どこが美しいのだろう? こういう
ニュースに触れると、ただただ疲れる。いいじゃん、誰と性交しようと。ほっとけ。こういう
ニュースを知ると、幸薄い女のオーラが見えるようである。<幸薄い女>が<幸ありそうに見える女>に嫉妬するのはなんら珍しいことでもないだろうし、時に、同情の余地さえあるかもしれんが、<幸薄い女>が<他の幸薄い女>とツルむところが、なんか、醜い。この幸薄い女同士には友情などないだろう。あるのは醜さの共食いである。
風がぴゅーぴゅーの日。寝坊。朝11時起床。シャワー浴びて、親の家へ。イワシの梅肉煮などで遅めの昼食を食べていると、来客。前にも書いたが、来月、宴の司会を頼まれており、その打ち合わせ第二段。(普段、半寝込み生活の、誰とも口をきかん、独り事すら云わん、つまり声というものをまったく発していない人間がそんなことできるのか?とは誰も心配しておらん。だって、今のわたしの状態はわたししか知らず、そのわたし自身が「なんとかなるだろ」と楽観しているから。ふふふ)。夜、すき焼き。(夕べは早く寝るためにお酒を飲んだのだが、ワインフルボトルを空けてもちっとも酔えず、しゃぁないなぁと泡盛をストレートで飲んでいたら、今日は若干二日酔いになってしまった。なので、休肝日とする)。先ほど「NHKスペシャル」で、脳は何歳からでも鍛えられる、という番組をやっていた。前頭葉ってのは、簡単な計算・音読、やる気、行動・感情の制御をつかさどっているらしいな。我も、認知症のお年寄りを見習って、計算ドリルでもやるか。前頭葉を活性化させるために。
おー。週末、週末ですかい。それはようござんした。世界はちゃんと回っているのですね。人がどんなに落ち込んでも、どんなに傲慢になっても、たいがい最後の部分で「踏み外さず」に生きていられるのは、「自分がどうなっても、ちゃんと地球は周り続けている」という安心感からなのかもしれない。って、酔っているわけじゃないぞ~。また、「あんた、自分は踏み外していないと思っているの?」とまっとう業の住人は問うかもしれんが、はいはい、確かにわたしはレアケースの暮らしぶりではあるけれど、ギリギリの線より300センチほど上、根本的には踏み外していない、と思っているのですぞ~。(ま、踏み外しても、それまた大アリなのだろうけど)。■昨夜からの続きでずっと起きている。朝、あまりにも天気がいいので、お布団を干す。ぼー。なにをするでもなく、ぼー。小腹が空いたら、夕べの豚汁の残りと、五目飯の残りを、ついばむ。(食べるというより、ついばむ、って感じ)。午後も、ぼー。これ、本当に文字通り、ぼー、なのだ。過去に犯した罪の数を数えながら、爪の甘皮をはがしたり、過去にいじめた男の数を数えながら、懺悔の祈りをしていたわけでは、まったくない。ただ、ただ、ひたすら、ぼー。午後、窓の外をのぞいたら、白いものが舞っていて、それはまるで綿のようでもあり(ここは中国か)、しばし見とれていたが、よーく見ると、それは淡雪であった。天気はいいのになぁ。あわてて布団をとりこむ。■日が暮れるまで、ぼー。いよいよ辺りが暗くなり、「ああ、顔を洗わなくちゃ」とシャワーをあびる。もはや、シャワーを浴びねば、顔を洗えない体になってしまったようだ。その後、犀川を超えたスーパーへ。(運動不足を自覚しているので、少しは運動をかねて!と考えて)。お惣菜のタイムサービスになる時間帯にあたり、鶏モモ脚の照り焼き、マカロニサラダ、いわしフライ、サラダ巻き寿司、などなどを購入。■そんなわけで、今夜は出来合いの惣菜品と白ワイン。タイムサービスの惣菜は、わたしのような無収入人間にとって魅力的ではあるが、これに頼りすぎると、だんだんと心根が貧しくなり(誰が後ろ指を指すわけでもないが、自分自身がそう思ってしまうのだな)、ま、こういう晩酌はほどほどにしたいものである。
雨。16時半頃起床。シャワーを浴び、またまた帆立スパゲッティ。わたしはキッチンタイマーを持っていないので、いつも、茹で時間は勘頼み。ときどき箸でつまみ、様子を見、十分に芯の残っている状態で茹で上げたつもりでも、もたもたとソースの仕上がりが遅いと、出来上がったスパゲティは、なんとも間抜けな感触になってしまう。今日は、大蒜と帆立貝を炒め、酒と塩と胡椒で味を調えたところに麺をからめるというシンプルなパスタにしたのだが、ややスパゲッティのツヤツヤ感に欠ける(つまりは茹で過ぎ感のある)一品になってしまった。食後のコーヒーを飲んでいると、なまけ病がやってきて、体が動かなくなる。机の隅に、じぃーっと、ただただ座る。その後、せっかく畳んだお布団をまたひきずり出して、横になる。25時半頃、再起床。台所と居間を行ったりきたりしながら、映りの悪いPCテレビで『朝まで生テレビ』をところどころチェック。
大高美貴さんという方を初めて見る。その活動はまったく存知あげないが、いくぶんヒステリック調に(そうしないと自分の意見を取り上げてもらえない男社会で戦ってきたのだろう)私見を述べる他の女性参加者に較べ、大高さんは実におっとり口調で語り、しかも、世の「まっとうな意見」の下では口にしにくい個人の本音(意見)をおっしゃっており、なかなか好感を覚えた。28時頃、豚汁と、レトルトの五目ご飯。神様に生かしてもらっている、こんな自分がモウレツに情けない。
ごしごしごし、両手鍋の内側を洗っていたら、片方の「持ち手」がとれた。ただしく言えば、とれた、というより、割れた、というかんじ。木製の「持ち手」が見事、まっふたつに割れたのだ。この鍋を買ったのは91年の初夏頃だったと記憶。厚手で、銅チックなコーティングされた、内テフロンの鍋。数年前には蓋の持ち手(これも木)がとれ、蓋の頭はネジが剥き出しになっていた鍋。友人達からは「ははは、すごい年期モノ」と笑われながらも愛用していた鍋。煮こむ、茹でる、フライパンを手放してからは、炒め調理にも活用していた鍋。日々、この鍋のおかげで、わたしのお腹は満たされていたといっていい。これまでありがとう。さよなら、お鍋さん。
愚鈍であることの尊さ。その上に成り立つポジティブ。
それを手にしている彼女に、わたしはなにより嫉妬している。
午後2時過ぎ起床。シャワーをあび、歯医者。(本日をもち歯医者は卒業!)。古本屋。ぐるっと一巡してそのまま帰ろうとしたところ、出入り口のわきに「ここ、ここ」と呼んでる一冊が。『思想の花びら』(亀井勝一郎・著)。まだ値段もついていない、平積み山の一番上にのっているそれを迷わず購入。(家に帰り奥付を見たら、1966年1月に初版が出版され、同年12月には57版となっている本であった)。それにしても春のような陽気だ。アパートに戻り、自転車を停めていると、ちょうど階下のご婦人と出くわした。「ぽかぽかですねぇ」「気持ちいいねぇ」と微笑み合う。このやわらかい陽差しを素直に心に吸収できる。ありがたい。夕方、帆立スパゲッティ。夜食に、クロワッサンとカップスープ。
15時半くらいの起床。数日ぶりに東側の窓を開けると、お隣の庭、白い梅の花が咲き始めていた。シャワーを浴びて、自転車に跨る。コンビニで菓子パンと豆乳を買い、兼六園下のお堀を眺めながら、ベンチに座り、もぐもぐ。日が傾きかけたので、「ふるさと偉人館」へ直行。八田與一の生誕120年にちなんだ講演を聞く。(八田與一とは台湾・嘉南大圳の父と呼ばれ、台湾の農業に大きな功績を残した日本人土木技師。昭和17年没)。その後、えんえん遠いスーパーまで出かけ食料調達。家に戻り、TV「オーラの泉」(ゲスト・村冶佳織)を見ながら、食事。サーモン刺身、ホタルイカ茹でたの、蓮根メインの野菜サラダ(マヨネーズを使用!)、厚揚げのコチュジャン醤油、と、白ワイン。ところで、前世、があるとして、よく「前世は・・・だったから、その影響で~」という見方があるが、前世があるならば、前々世や、前々々世もあるはず。それら「前世」よりさらに前の世(生)の影響はどうなるのであろうか。
喧嘩をした場合、頬をあげ、先に笑ってみせた者のほうが、勝ち
なのだ
抜け出せない憎しみのなかにいる場合も同じ
春を通り越し、初夏に近いのではないかというくらいのお天気。南側の窓(駐車場に面している)を開けたら、ノースリーブに、ほらほらあれなんだっけ(名前を思い出せない)胸当てのついたジーンズ(女性の場合トイレに行くと苦労するやつ。アメリカの田舎の爺さんがよくはいていそうなやつ)をはいたオバサンが、駐車場に座り込んで、ネコと日向ぼっこしていた。■たいがい朝方に寝床にもぐりこみ、すっかり明るくなったころ眠りにつく、という最近のパターンであったが、本日は天気もよろしく、がんばって日中は起きていよう!と試みたのであるが、夕方近く、ちょっと横になったら、そのまま眠ってしまっていた。起床は27時少し前。■食事は、「寿がきや」の袋ラーメン(本店の味・メンマしょうゆ)のみ。自宅ラーメンはわりとよく食べるが、袋ラーメンってのは、めったに食べない。たいがいは「生麺」を、たまに「カップ麺」を愛食しており、こういう袋もののインスタントは軽く2~3年ぶりだ。で、感想なんだが、なかなかいけるっ! 貧弱ながら、乾燥メンマとコーンもついており、これにニンジンと若布をいれたので、まあまあボリュームもついたし。■わたしが住んでいるのは金沢だが、ここは、大いなる中部圏であります。関西文化も首都(東京)文化も導入されてはいるが、日々の暮らしのカテゴライズでいえば 日本>中部>北陸>石川>金沢 ね。愛知県に本社をおく「寿がきや」の影響力は、当地において並々ならぬものがある。という話は、いずれ、また。
ひきこもり&いじけ生活が長くなると、「案外、世界は単純だ」ということが見えてくる。どんな場所においても、行動(ときには「無為」もひとつの行動)をし続けたならば、そこに花は咲くものです。
環境が難点なんじゃない。天敵を挙げるなら、それは偏った「内なる思考」なのだろう。
昨年、「身の回りに起きていることは、自分の心の現われだ」ということを綴った本(タイトル知らん)がバカ売れしたらしいが、現実は心の鏡という説、まさにその通りだな、と、わたしは思う。
世界は自分の内面を描く紙芝居なのかもしれない。