シロクマの屑籠

シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

インターネットで民主主義が加速して良かったですね

 
ビバ! デモクラシー!
 


 
民主主義が三度の飯より好きな人には、ともあれ好ましい選挙だったのではないだろうか。高い投票率。若い世代の意思表示。多くの識者が予想していなかった選挙結果。これらは、普段は投票に行かず選挙活動に関心を持たなかった人たちまで、民主主義が届いていることを示しているからだ。
 
先日の兵庫都知事選に限らず、昨今、識者やマスメディアが予想していなかった結果となる選挙が相次いでいる。そうした選挙で勝つのは“良識派”を嘆かせる候補だ。選挙活動の公正性は問われるべきだろう。が、そうした候補が登場してより多くの人が選挙活動に関心を持ち、それが高い投票率に繋がること自体は民主主義の観点からみて良いことだった、はずである。
 
 

「インターネットはテレビになった」わけではなかった

 
少し遠回りになるが、「インターネットはテレビを超えた」という話をする。
 
2015年1月1日、私は『ネットは“コミケ”から"“テレビ”になった。 - シロクマの屑籠』という文章をブログに書いた。インターネットが多数派のものになり、大多数を相手取ったメディアに成長したことでテレビに近い機能を持つようになった、といったことを書いたし、当時はそういう理解が似合う部分があったと思う。だが今日のインターネットがテレビに近いとは、あまり思えない。
 
なぜならインターネットの双方向的メディアらしさが際立つようになったからだ。テレビは、番組制作者と番組視聴者がほとんど一方向的なマスメディアで、どんな番組をみせるのか、どのような番組を見るべきなのかは製作者側の判断にかかっている。テレビ局はひとつではないとしても、テレビという業界、テレビ人という職業には一定の共通項が(倫理の基準なども含め)あるようにみえる。対してインターネットは、文章を書く側や動画を配信する側だけでなく、視聴者の側もコメントでき、「いいね」や「シェア」をとおして見るべきもの・みせるべきものを視聴者が選別できる。その選別は、テレビの視聴率以上にダイレクトだ。
 
インターネットは双方向的であるだけでない。その双方向的な状況に参入する敷居がものすごく低い。
その最たるものが「いいね」と「シェア」だ。文章では何も書けない人、イラストを描けない人、魅力的なSNSアカウントを作れない人でも、「いいね」や「シェア」を用いて著者や配信者やコンテンツを推せる。ひとつひとつの「いいね」や「シェア」はささやかでも、何十万~何百万も集まれば大きな影響力や政治力をなし、コンテンツビジネスなら売り上げを、選挙なら集票を左右する。そのうえ「いいね」や「シェア」がもたらす感覚は、テレビの選挙速報の数字よりもずっと主観的に体験されやすい*1。この、著者や配信者やコンテンツとの一体感や、他の支持者との一体感を体験しやすい仕組みのおかげで、「いいね」や「シェア」ぐらいでも推し活気分や選挙活動気分を味わえたりする。
 
SNSや動画にじかにコメントする、という方法もある。なにもコメントが秀逸である必要はない。凡庸なコメントでも、論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない。支持する人への応援コメントでも、敵対者への批判や非難のコメントでも、数多く集まりさえすれば強力なコメントたり得る。どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ。誰が言ったかや何を言ったかだけでなく、何人が言ったかも重要であることを、いまどきのネットユーザーが知らないわけがない。
 
だから、メディアとしてのインターネットが成りおおせたのはテレビとは異なる何かで、今日の言説空間はテレビの時代とは異なるどこかだ。私はそれに気づくのが遅く、不十分だった。インターネットのそうした性質は、2016年には『シン・ゴジラ』や『君の名は』をとおしてコンテンツビジネスの領域で露わになっていたし、政治の領域でも、一期目のトランプ政権が生まれる過程はそうだったのだろう。それらは従来型のマスメディアが機能した帰結でなく、双方向メディアとしてのインターネットが普及し、猛威をふるった結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとしてはびこるようになった、と表現すべきだったと思う。
 
 

みんな投票&選挙活動に参加できて良かったですね

 
で、昨今の選挙に立ち戻ると、双方向メディアとしてのインターネットが果たした貢献は大きいと思わざるを得ない。2024年のアメリカ大統領選挙や兵庫県知事選挙は、従来型のマスメディアが主導し期待したのとは異なる結果に終わった。インターネットでは大きな声が飛び交い、「いいね」や「シェア」が繰り返された。門外漢からみて、いったい何がフェイクで何がファクトなのか全くわからない様子だったが、ともあれ投票率は高かった。年齢別にみると、若い世代が斎藤前知事に投票していて、識者は今回の選挙結果に果たしたインターネットの影響をさまざまに語った。
 
フェイクやファクトの問題、県職員アンケートの結果等々があるため、この選挙が良かったのか悪かったのかは私にはまだよくわからない。それでも良かったと言えそうなことはある:それは、インターネットも含めた諸々をとおして、投票所により多くの人が足を運んだこと、より多くの人が選挙活動に参加したことだ。それって民主主義にとって基本的で必要不可欠なことでしょう?
 


 
上掲動画のなかで、選挙の渦中にあった立花氏が集票について持論を展開している。彼は「バカな人たちをどう利用するか」といったことを語っている。バカという言い方は礼を欠いている。が、バカという語彙を「普段は選挙活動に参加しない人」と読み直すなら、真剣に読み直しておくべき話ではないだろうか。
 
つまりバカかどうかはさておいて、普段は投票しない人・選挙活動に参加しようとも思わない人々を投票させたり選挙活動に参加させたりできた側が選挙に勝つのは民主主義における道理のはずだ。それはアメリカでもイギリスでも日本でも同じだろう。そして今の時代にはSNSや動画をはじめとするインターネットがある。それは双方向メディアとしての性質を持っているから、インターネットを介した選挙活動とは無縁な人を投票させるだけにとどまらない。あわよくば、そうした人々を自陣営の運動員に変えてしまう。
 
「バカを利用する」と言えば口が悪いが、「選挙活動に普段は参加しない人を掘り起こす」と言えばデモクラティックだ。さらに進んで「これまで選挙活動に参加できなかった人を参加させる」といえば、啓発的にすら響く。立花氏がやったことをバカの動員と言ってしまうのは簡単だが、別の一面として、有権者として自覚と経験の少ない人をも選挙活動に参加させた、という点ではデモクラティックなことじゃなかっただろうか。
 
民主主義体制下において、動員と参加はコインの表裏みたいなものですからね。
 
有権者が有権者であることを自覚し、自分で考えて投票や選挙活動をするのは民主主義の基本だ。さまざまに問題含みの選挙ではあり、結局何がどうなっているのか外部からうかがい知ることのできない選挙ではあったけれども、「従来は民主主義に十分に参加できなかった人たちが参加するようになった」こと自体は、喜ばしかった、いや、喜ばしいと言わなければならないでしょう?
 
 

本当に全員参加したら壊れる民主主義なら、壊れるしかないんじゃない? 

 
こう書くと、「それじゃあ民主主義政体がもたない」とか「良い民意もあれば悪い民意もある」みたいな意見も出るだろう。そうかもしれない。なら逆に、今までうまくいっていた民主主義政体と"良い民意"なるものが一体どういう与件に支えられていたのか、思い出して点検する必要があるよう、私には思われる。
 
民主主義は古代ギリシアや中世の都市国家にもあったが、それらの民主主義では投票者が限定されていた。近代以降の民主主義も全員が投票する普通選挙制として始まったわけではなく、たとえば男性ブルジョワが投票するものだった。女性や貧乏労働者に選挙が開かれるようになったのはもっと後のことだ。普通選挙制ができあがった後も、投票と選挙活動を誰もが平等にやっていたとは思えない。地方の田舎では、地元議員の話を聞くために公民館に集まった人々が素朴に地元議員に投票していたし、都市部の投票率が低いエリアには投票しない人・できない人がいた。選挙への関心には年齢差もある。時間がたっぷりあって経験も豊かな高齢者ほど選挙に関わりやすく、そうでない若者ほど選挙に関わりにくい構図は、少子高齢化の進む現代日本では注視されなければならない。
 
こうした民主主義の来歴を思い出すと、民主主義にかかわる人がだんだん広がっていったとはいえ、現実には投票が難しい人や投票する気になれない人もいて、選挙活動をやれる人はもっと少ないのが実態だったように思う。立花氏がバカと呼んだ人のなかには、投票慣れしていない人や選挙活動慣れしていない人が多く含まれているだろう。そうした人々に投票を促し、自陣営の運動員にすらしてしまう双方向メディアが今日のインターネットだ。毀誉褒貶はあるにせよ、今日のインターネットはこれまでよりずっと多くの人々に投票を促し、選挙活動に(「いいね」や「シェア」をとおしても含めて)参加させる土壌になっている。
 
で、もし、今まで投票や選挙活動に参加できなかった人々が参加するようになり、それで民主主義政体がもたなかったり"良い民意"が"悪い民意"に変わってしまうとしたら、民主主義は壊れるのがお似合いではないだろうか。でもって、民主主義に基づいて民主主義が壊れてしまったことを有権者は誇ればいいんでしょうかね?
 
民主主義はタテマエとしてずっと、全員参加を謳っていたし、少なくとも欧米ではだいたいうまくいっていた。 まれに、チョビ髭の伍長のような人物を輩出するとしても、だ。
 
しかし、そうやって民主主義政体がうまく回っていた時にも、本当の本当に全員参加でやっていたわけではなく、物言えぬ人(サバルタン)が存在していたのではなかったか。高額納税者だけに選挙権があった時代はもちろん、普通選挙制が導入されてからも投票しない人/できない人はいたし、選挙活動ができる人は限られていた。それだけではない。民意を問うプロセスにはマスメディアが関わり、これが制御弁のような役割を果たしていた。マスメディアという制御弁が民主主義政体を安定させる効果があったのは、たぶんそうだろう。しかしマスメディアという制御弁が機能する民主主義政体において、マスメディアはまさに第四の権力で、統治の片棒をも担っていて、民意は、マスメディアの提示する疑問文に基づいて問われなければならなかった。ちょっと前の時代の選挙とは、そういう、マスメディアからの影響が現在よりもずっと強く、マスメディアが問題提起能力の大きな割合を占めている選挙だった。
 
そうした過去と比較すると、昨今の選挙はもっと草の根っぽさがあり、ひとりひとりが投票や選挙活動に参加できて、(インターネットの仕組みのおかげで)参加している手ごたえを感じやすいものだった。それで投票率が上がり、選挙活動が盛んになり、民意がダイレクトに選挙結果に反映されるとしたら……民主主義の理念に基づいて考えれば結構なことである。しかしもし、従来の民主主義の正体が「本当の本当に全員参加するとぶっ壊れてしまう政治体制や統治様式」だったとしたら……その理念は間違っていたか、理念はあくまでタテマエでしかなく、本音としては投票する者も選挙活動する者も限定されているぐらいがちょうど良かったと疑わざるを得ない。
 
いまどきの民主主義の理念を作り上げた人というと、ロックやルソーやジェファーソンといった近世~近代の思想家を思い出す。ところが彼らが生きていた時、末端の大衆にまで選挙権が行き渡り、末端の大衆の選択までもが民意にフィードバックされる民主主義を想像するのは難しかったのではないか。たとえば、民主主義の始祖たちの眼中に、立花氏がバカと呼んだ人々はどこまで含まれていただろうか?
 
それでも長らくは問題なかった。普通選挙制ができあがるまでには時間がかかったし、普通選挙制になってからも全員が投票できるわけではなく、ましてや選挙活動できるわけでもなかったからだ。普通選挙制が浸透した後の民主主義政体にはマスメディアという制御弁がついていて、第四の権力として民意の調整をおこなう仕組みが組み込まれていた。だから、立花氏がバカと呼んだ人まで投票し選挙活動するような「剥き出しの民主主義」に(近現代の)民主主義が慣れていたとはあまり思えない。*2
 
 

ビバ! デモクラシー!

 
誰もが参加し、誰もが討論し、誰もが政治活動することで政治が行われるタテマエの政体が民主主義で、それが尊いものだとしたら、今、私たちの眼前で繰り広げられている民主主義も尊いはずだ。修正すべき点は修正しつつ、それを寿ぐべきだろう。
 
もし、尊いわけでないとしたら、民主主義なんてやめてしまい、寡頭制や独裁制を望むべきだろうか? いやいや、それも極端だろう。それなら「制限民主主義」や「修正民主主義」みたいなものを考えるべきだろうか? 本当は、そうやって人を選びたがる民主主義こそが従来の民主主義の正体で、全員参加のタテマエがタテマエでしかないなら、いっそそう言い切ってくれたらいいものを、と思う。でも、大人の世界ではそんなことは起こらないので、せめてインターネットが深く介在する民主主義でもちゃんと機能しつつ、それでいてタテマエも尊重できる制度設計を進めて欲しいですね(というより私たちが進めなければならない)と思う。
 
個別の選挙結果が未来の制度設計の材料になっていくのも、民主主義のいいところだ。亀のようにゆっくりと、しかし着実に。ただし、こうした民主主義のドタバタを、ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう。未来が明るいといいですね。
 
 

*1:自分がシェアやいいねしたメンションがもっと「いいね」や「シェア」を集める過程を、いつでも眺めることができるからだ

*2:それに近いインパクトがラジオや映画が普及した直後のヨーロッパのどこかで起こっていたかもしれない。しかしそれとて、双方向メディアの特質に依っているわけではない

『犬の日本史』をとおして自己家畜化と文化を振り返る

 
少し前に、ある人から拙著『人間はどこまで家畜か』に関連した話題として「犬の自己家畜化」の話と「日本社会・日本文化の進展」の話について、いろいろなご意見をうかがう機会があった。
 
犬は日本人にとって身近な動物だ。
しかし、その犬は日本でいつ頃からいて、昔はどんな感じで日本人と共存していたのか? これについて拙著では寄り道する機会が乏しかった。そんな私に、ご意見を下さった方が勧めてくれた本がある。
 

 
本のタイトルは『犬の日本史』、犬と日本人との付き合いを歴史学の先生が紐解いている新書である。これが良かった。進化生物学的な視点、文化的な視点、どちらで眺めても面白いので、両方の視点から紹介してみたい。
 
 

進化生物学的な面白さ:日本で自己家畜化した犬という動物について

 
『犬の日本史』の前半には、日本人と犬の馴れ初めが書かれているのだが、まずここで私は驚いた。かつての犬についての記述について、著者が、犬が自己家畜化した動物であることを知っている書きぶりをしているからである。
 

 犬の祖先と人間との交渉がどうやって開始されたかは想像がつく。人間が攻撃する意思をもっていないことがわかれば、犬たちは人間の群の近くをうろつき、人間の残飯のおこぼれにあずかったであろう。
……そうした犬たちのなかでも、性質が人間に対して服従的な個体、あるいは特別な形質をもった個体が、好んで飼われるようになっただろう。色が変わっているとか、目がかわいいとか、耳が垂れているとか、そういう特別な個体が人為的に選別され、犬は家畜への道を始めたものだろう。
『犬の日本史』より

この記述内容は、犬が進化生物学的になしとげた、「自己家畜化」という生物学的変化に合致している。そして歴史学の先生が使い慣れていなさそうな「個体」や「形質」といったボキャブラリーが並ぶ。これらは生物学、とりわけ進化生物学で多用されるボキャブラリーだ。こうした犬の自己家畜化については『人間はどこまで家畜か』でも少し触れていて、
 

 
 自己家畜化が始まった頃のイヌやネコにとって、人間との共生それ自体が新しい環境で、過度に怖がったり攻撃的になったりする個体が定着できなかったのは想像に難くありません。なぜなら動物たちから見た人間はとても大きく、危険そうな動物だからです。その環境に居続けられた個体だけが人間と共生するメリットを享受しながら子孫を残し、そのプロセスをとおしてベリャーエフのギンギツネ同様、従順さのある個体が子孫を残し続け、みずから家畜化症候群を起こしていった=自己家畜化していったのでしょう。
 たとえばイヌとオオカミは祖先が共通していますが、その共通祖先のなかで人間に慣れ、人間の周囲で暮らせたのは一部でしかありません。その一部だけがイヌへと進化する道、つまり自己家畜化の道を歩んだのでした。
『人間はどこまで家畜か』より

人に慣れることのできた祖先が今日の犬へと進化していく過程をこのように書いた。『犬の日本史』が出版された2000年頃は、2010年代に比較して自己家畜化についての資料が整っていない時代だったが、同時代には自己家畜化に関連した書籍出版が国内で相次いだ。そうした当時の流行もあってかもしれないが、ともあれ、『犬の日本史』の著者が進化生物学について調べた形跡が伺える。
 
生物学的な自己家畜化に関して、『犬の日本史』でもうひとつ興味深い記述がある。それは縄文時代の犬についての記述だ。
 
2010年代の著作『家畜化という進化』によれば、日本は犬の自己家畜化が起こった「はじまりの地」のひとつと目されているが、結論はまだ急ぐべきではないとされている。一方、『犬の日本史』では、魏志倭人伝を引用したうえで「縄文時代の家畜は犬が唯一のものだった」と書き記している。その縄文時代の犬は、
 

……縄文時代の犬は、肩の高さが40センチ前後の小型犬で、現在の日本犬でいうなら柴犬くらいの大きさだった。ただし、茂原信生氏によれば、現代の犬とは、つぎのような点で相当の差があった。
1.頭蓋骨・四肢骨ともに頑丈である。
2.前頭部から鼻にかけての段差(ストップ)が小さい
3.頬骨弓の幅が小さく、顔の幅がせまい。
4.口吻部がふとい。
5.歯の異状萌出などがほとんどない。
6.歯の摩耗や生前の破損がいちじるしい。
7.雄と雌の差が現代の犬よりも大きい。
『犬の日本史』より

とあって、自己家畜化や家畜化症候群*1が起こった動物たちの特徴と一致するように読める。2010年代に出版された自己家畜化に関する書籍群によれば、自己家畜化や家畜化症候群が起こった動物はまず、(のちに品種改良などを経て大型化することはあるにせよ)野生種よりも体格が小さくなる。また、自己家畜化が進行すると性差は小さくなるとされるが、縄文時代の段階ではまだ、犬の性差は現在よりも大きかったという。
 
ここに登場する茂原信夫氏は獨協医科大学でアジア地域の家畜の広がりや進化、ひいては人間自身の自己家畜化について研究を続けてきた人で、だからだろうか、2010年代以降の資料と照らし合わせても違和感はない。
 
それから、これは著者が知らずに書いていることだろうけれども、『枕草子』に登場するかわいそうな犬・翁丸についての論述も、自己家畜化した動物としての犬らしさを反映している。『枕草子』のなかで清少納言は、「人に同情されて泣いたりするのは人間だけだと思っていたのに、哀れみの言葉をかけられると、身をふるわせて鳴き声をたてた翁丸の様子は、いじらしく感動的だった」と書いているのだが、実はこれ、自己家畜化案件である。
 
どういうことかというと、犬や猫の顔は自己家畜化をとおしてかわいくなっていて、犬にはオオカミにはない表情筋すら発達している。犬が表情筋を用いるのは、犬同士のコミュニケーションのためでなく、人間を相手取ってのコミュニケーションのためだ。いわば犬は人間と意思疎通するために表情をつくるのであって、清少納言はそれを敏感に読み取ったのだろう。
 
 

文化的な面白さ:日本社会における犬の位置づけ

 
その翁丸に限らず、犬たちは人間に飼育され、人間の都合によって虐げられたりかわいがられたりした。
 
かわいがられるの最たる例として同書に記されているのは、徳川五代将軍綱吉による『生類憐みの令』だ。その最盛期には江戸郊外に犬を養うための巨大な建物がつくられ、白米や味噌や干イワシなどが集められたという。江戸の街中で犬を殺そうものなら大事になり、密告も横行した。では、それで犬たちが幸福になったかというとそうでもない。合わない食事と運動不足で犬たちは早死にする羽目になったという。『犬の日本史』の著者は続けてこう書く。
 

 犬を捨てるな、犬が病気になったら医者にみせろ……、このような犬のあつかいかたは、現代の愛犬家にすれば、ある部分あたりまえに映るかもしれない。しかし、これは江戸時代の話である。江戸時代までの日本には、動物愛護のような文化は、ほとんどないに等しかった。その点をみあやまってはいけない。
 よしんば、百歩ゆずって、江戸時代にも、その程度の犬愛護がなされてもいいではないかとしよう。問題は、犬を重んじるあまり、犬にかかわる人間を軽んじた、という側面にあった。
『犬の日本史』より

犬を重んじ、犬にかかわる人間を軽んじ、さかんに罰する。その結果、犬は憎悪の対象となり、『生類憐みの令』が終わった後には迫害の対象となった。犬を勝手に持ち上げたり迫害したり、人間とその社会は犬に対して勝手なものである。
 
のみならず、人間は犬に対して勝手であり続けている。狂犬病が流行すれば犬を殺し、昭和時代にはどこにでもいた野犬たちは殺処分の対象になって激減した。今日では動物愛護の精神にもとづいて繁殖の抑制が行われ、犬の室内飼いが増え、犬小屋反対運動なども起こっているが、これらも人間の勝手であって、勝手でしかない。少なくとも、犬たちにそう懇願されて実施したものではない。
 
そして人間は犬を食べてもいた。『犬の日本史』には、昔から日本人が犬を食べていたさまが記されている。犬は自己家畜化し、人間のそばに暮らすようになり、そのおかげで野生種であるオオカミよりも繁栄している。しかし、それは人間の勝手にさらされることをも意味していて、生殺与奪を人間に握られた状態──まさに、家畜というほかない状態だ──での繁栄だったわけで、今日の犬たちは、繁栄はしていても人間から自由ではなく、今まさに人間の完全な管理下に入ろうとしている。
 
対して、昔の犬はもう少し人間の管理から距離を置いていたし、そもそも人間自身があまり管理されていなかった。なにしろ、犬の側もしばしば人間を食べていたぐらいである。
 

 達智門の捨て子の話では、捨て子が生きているのが不思議なこととされている。なぜ不思議なのかは、達智門周辺に居ぬが多くいるのに生きているからであり、すなわち、捨て子は犬に食べられるのが常識だったのである。
 ……病人もまた、抵抗する力をうしなっているのことは捨て子と同じであり、犬はそうした人の側の弱者を食うのである。ある状況下での人と犬との間には、まさに弱肉強食の世界が現出するのである。
『犬の日本史』より

犬が人の家畜になったといっても、しょせん、人間と犬の間柄とはこの程度だった。人が犬を食ったり殺したりするのと同じく、犬が人を食ったり殺したりすることもある。「犬や猫や人間に生物学的な自己家畜化が起こった」「生物学的な自己家畜化が進んで、犬も猫も人も穏やかになり、協力関係がもてるようになった」と言っても、ほんの数百年前まではこんな調子だったし、おそらく現在でさえ、人も犬も野性的な一面を残している。
 
そうしたうえで近代以降の犬、ひいては人を振り返ると、生物学的な自己家畜化の進展よりも迅速に、文化の側が、より穏やかで・より生命を大切し・より生命を管理するかたちで人と犬を包み込もうとしているさまがみてとれる。
 
今日、犬を食べる人はほとんどいないし、いれば変人扱いされるだろう。と同時に、犬はケージに繋がれるべきであり、愛護されるべきであり、管理されるべきであるとされている。『犬の日本史』の文化面から読み取れるのは、色々あったにせよ、人も犬も次第に管理されるようになり、野生的な一面を抑えて生きるようになったということだ。
 
著者は、明治から幕末にかけて放し飼いになっていた犬たちについて、「善悪は別にして、日本の犬は『あるがままの犬』であった。」と記している。逆に言えば、今日の犬は、もう、あるがままの犬ではない。物理的なケージに覆われているだけでなく、文化的なケージにも覆われ、管理されなければならない何者かである。おそらく人もそうだろう。そうした犬と人とが二人三脚で管理されていく歴史の流れを、私は『犬の日本史』から読み取った。手前味噌で恐縮だが、拙著『人間は、どこまで家畜か』とセットでお読みになると理解が深まるだろうと思う。
 
 
【もっと詳しく読みたい人には】
 

日本における犬の生物学的・文化的な歩みを通覧できる。古い本だが、生物学的な記述はそこまで古めかしくは感じない。面白いです。
 拙著。こちらは人間の生物学的な自己家畜化と、文化によって引っ張られている部分とを記した本です。
  序盤に犬の自己家畜化が結構すごいさまが記されています。中盤以降のお話も面白い。
 自己家畜化&家畜化症候群をおこした動物をたくさん挙げているので、色んな動物について知りたい人はこちらを。
 
 
 

*1:家畜化症候群:自己家畜化も含め、家畜化が起こった動物に起こる身体のつくりや行動の変化。

精神科状態像についてのまとめ

 
そういえば、日本の精神医療では頻出ワードだけれど世間ではあまり知られていない「状態像」について、ちょっと資料づくりしたくなったので、はてなの有料記事スペースを使ってできるだけ簡潔にまとめてみようと思います。常連読者の方以外が読むものではないし、常連読者の方も興味関心をそそらない話題かもしれないので、スルーでいいんじゃないかな、と思っております。
 

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無礼にならずに「なめる/なめられる」から降りるのは難しい

 
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
昨日の「なめる/なめられる」についての雑談は多くの人に読んでいただき、はてなブックマーク等で多くのコメントをいただき、勉強になりました。ただ、そこを眺めていて「なめる/なめられる」の構図から降りていると言っている人、自分は他人をなめることがないと言っている人も少なくなく、考え込んでしまった。
 
「そんなに簡単なものだろうか」、と。
 
まずはじめに断っておくと、「なめる/なめられる」が遅れた風習でしかない、と考えるのは間違いだ、と私は思う。
 


 
いわゆる進んだ文化や共同体、部族においても「なめる/なめられる」は存在し、それに対応する礼儀や礼節のプロトコルが存在する。そもそも、他所の文化や共同体をいとも簡単に遅れているとみなし、そちらには「なめる/なめられる」が存在し、自分たちには存在しないと考えること自体、他所の文化や共同体を、ひいてはそのメンバーをなめている──軽んじたり侮ったりしている──のではないだろうか。
 
いや、そもそも「なめる/なめられる」の問題はもっと構造的で根源的だ。
たとえばある人が、「私は『なめる/なめられる』の構図から降りていて、他人をなめることがない」と言っていたとする。もしその人が、分け隔てなく色々な人に礼節や礼儀を尽くし、異なる文化・部族の礼節や礼儀にも配慮を怠らない人だとしたら、なるほど、他人をなめることのない人だなと私は理解する。立派な人だ。ただし、その人は、そうして礼節や礼儀を尽くすことをとおして、「なめる/なめられる」の構図を結局は意識している。確かにその人の行いは立派だが、「なめる/なめられる」の構図から自由だとは思えない。むしろ、十分すぎるほどコストを支払ってそこに適応していると言ったほうが似合う。
 
また、同じことを言っているけれども、礼節や礼儀に無頓着で、異なる文化や部族のそれらにも配慮を怠る人はどうだろう? 意図のうえでは、その人には他人をなめる"つもりはない"かもしれない。しかし、礼節や礼儀に無頓着な人の実態は、無礼者である。たとえば旧twitter(X)やヤフコメのリプライ欄にいきなり登場し、口汚いメンションをばらまいてタイムラインを汚染する人を思い出して欲しい。そういう人がいきなりタイムラインにしゃしゃり出てきて、そういう風に言い放ったら、「この人、私のことなめているんじゃないか」と多くの人は思うのではないだろうか。あるいはインターネット上の異なる文化、異なるクラスタに対していきなり不躾なことを言い放ったら、喧嘩売ってるのかとか、なめてんじゃないかと、多くの人を思わせるのではないだろうか。
 
で、そうした無礼者でも、当人自身は「自由で」「平等な話し合いを」「希望しているだけだ」と思っていて、そのうえ「だというのに、なぜ人々は私をこんなになめてかかってくるのか?」と思っている人さえ、いるかもしれない。
 
ここから何が言いたいのかというと、【「なめる/なめられる」が起こりがちな娑婆世界のなかで、その悪影響を回避するためには結局礼節や礼儀を意識しないわけにはいかず、すると結局「なめる/なめられる」の構図から降りることはできないんじゃないの?】ってことだ。
 
「『なめる/なめられる』を避けるために、職場でもどこでも、他人とは最小限のやりとりしかしない」のが最適と考える人もいるかもしれない。が、これもどうだろう? 全員が最小限の業務連絡しかしないのが最適だと思っているなら、それこそが「なめる/なめられる」を回避する最適解かもしれないが、そんなことはあるまい。文化や部族によっては、それこそが最も人をなめている/なめられていることに当てはまりそうだし、そうでなくても受け止め方には個人差はある。極端なことを言えば、たとえば業務連絡だけに終始し、いっさい相槌も打たず、挨拶すら省く人がいたとしたら、その人は、たぶん色々な人に「あの人、私のことをなめてるんじゃないか」と疑わせてしまうだろう。
 
個人差や文化・部族による違いをすり合わせるためには、最小限のやりとりではなく、すり合わせのためのコストを費やし、プロセスをやっていくしかない。挨拶をはじめとするプロトコルも必要だろう。もちろん、最小限のやりとりしかしたくない人がなるべくそうできるように、周囲の側がすり合わせる必要性もあると言える。だとしても、そこは周囲の側だけが配慮のコストを費やすべきところではなく、最小限のやりとりしかしたくない人の側も、いくばくかでもコストを費やすべきところでもある。
 
 

礼儀や礼節で回る社会に無頓着な人は、無礼をばらまく

 
現実には、世の中の人のほとんどは礼儀正しくあろうとしている。
巧拙の差はあるにせよ、職場で・学校で・出先でわざわざ無礼を働きたいと思う人はいまい。インターネットコミュニケーションを長く続けている人なら、他人のタイムラインにもの申す際などは、なめられたと思われないような語りかけ方を意識するものだろう。「私は他人をなめない」と言っている人が”本物”なら、いきなり他人のタイムラインを土足で踏みにじったり、自分と異なる文化や部族の人に無知かつ失礼な難癖をつけたりすることは、ないように思われる。
 
しかし、礼儀や礼節が拙ければそうもいかないし、私たちは完璧ではないから、非礼やボタンの掛け違いだって起こる。だからこそ「すみませんでした」とわびることも含め、意見のすり合わせや譲り合いが大切だし、礼儀や礼節にかけるコストをおろそかにし過ぎてはいけない。そこをおろそかにしている最も極端な例が、SNSにおいて他人のタイムラインに無礼なコメントや不躾なメンションをばらまいているアカウントであって、ああいうのは良くない。
 
礼儀や礼節は、無料ではない。
精神的なコストを支払いあい、ときには時間的・経済的コストも支払いあい、お互いがお互いのことを尊重しあっている人間関係を維持するために努めあっている。挨拶などもそうだが、およそ人間の暮らすところではどこでも、私たちはお互いに敬意を払いあい、争いを避けるために気を遣ったり汗をかいたり、ときにはお金を支払ったりしている。
 
しかし、そうしてお互いにお互いを気遣うコストを支払いあっているなかで、その礼儀や礼節にコストをぜんぜん支払わない人がいるとしたら、その人は意図するしないにかかわらず、いろいろな人に「この人、なめているんじゃないか」という印象を与えかねない。
 

なめる/なめられる についての話 - シロクマの屑籠

いやだと言ってる人が多いが、社会的な価値を身につけるコストをかけずに人と対等にあろうとする姿勢は逆に人間関係をナメてるとしか思わない。自分も無知無学で言葉遣いもなってないやつとは話したくはないくせに。

2024/10/30 09:27
b.hatena.ne.jp
 
たとえば全員が敬語を使いあっている場所で、一人だけため口の人がいるとしたら? その人はほとんどの人から「この人はなめてかかっているんじゃないか」と思われるだろう。「私は他人をなめない」と自称している人が、敬語の欠如も含めて礼節や礼儀にコストを支払っていないとしたら、それはもう、礼節や礼儀のフリーライダー、ではないだろうか。
 
もちろん実地ではそこまで極端な人は珍しい。けれども、礼儀や礼節にコストを支払わないほど・意識を差し向けないほど、こうした印象を周囲に与えやすいかと思う。そのような人が「私は他人をなめない」と言ってみたところで、他人はそうは受け取らない。
 
礼節や礼儀を欠いていると、「なめる/なめられる」の構図から自由になるどころではなく、むしろ、「なめる/なめられる」の構図のなかの、かなり悪いポジションに陥ると懸念される。
 
こうしたことを考えていくと、私には、「なめる/なめられる」という構図から自由になることは娑婆世界では無理だと思えてしまう。文化や部族で多少の違いはあるにせよ、全人類が礼儀と礼節を守りあい、それでお互いの面子や沽券を守りあっている以上、人の間で生きていくためには礼儀と礼節にコストをかけないわけにはいかない。ある程度のコストを支払っていてもなお、ときには「今、あの人になめられたのではないか」という誤解が生じることもある。「なめる/なめられる」の構図のすべてが礼儀と礼節に由来している、と主張するつもりはないが、礼儀や礼節を欠いていると、「なめているんじゃないか」と疑わせてしまう確率、相手から無礼者だと思われる確率は一気に高まる。である以上、結局私たちは礼儀や礼節を守って人間社会の輪のなかで生きるほかない。礼儀や礼節を無視した結果、あちこちの人に「あの人は、私をなめている」と思われ、あちこちの人に無礼者と思われて生きるよりは、たとえ不自由でもそっちのほうがマシなんじゃないかというのが私の思うところだ。
 
最後に少し付け加えると、礼儀や礼節は無料でないだけでなく、社会的格差や不平等に根ざしている部分もある。礼儀や礼節には、ハビトゥス、つまり文化資本としての一面があるし、先天的に礼儀や礼節が守りづらい人やずっと多くの精神的コストを支払わなければならない人はどうなんだ、という問題もある。そうしたことまで書くと、やがて「礼儀や礼節は多数派のためのもの、そしてブルジョワ資本主義的イデオロギーに基づいた階級装置だ!」みたいな言葉が脳裏をよぎるけれども、そうした各論については、今日ここでは書かない。そのあたりは、いつかまたどこかで。
 
 

なめる/なめられる についての話

 
blog.tinect.jp
 
上掲リンク先の記事は、刺激的なタイトルのためか、はてなブックマークでも喧々諤々の様子になっている。私個人としては、海外でコミュニケーションをする際には、日本の標準的な構えよりも自己主張を強めにするとちょうど良い、逆に、日本の標準的な構えのままでは意思疎通に支障をきたすと思っていたので、外国の人々にまともに相手をしてもらうためには、明確に自分の意見や願望や意志を伝える・表出しないとだめだ、とは思っていた。表出のなかには、もちろん身振り手振りも含まれる。
 
国内外の違いはさておき、私は、「なめられるか、なめられないか」は社会適応において非常に重要だと思っている。鳩の群れを眺めていると、なめられる鳩はろくなことがなく、やせ細って死んでいく。チンパンジーなども、群れのなかでの順位のために、お互いに無理をしている感がある。であるから、「なめるか、なめられないか」は、社会的生物が生存と繁殖を賭けて競り合うにあたって元々重要な要素だったのではないか……と考えたくなる。
 
ただし、「どんな人がなめられるのか」「どういうことがなめられるのか」に関しては、文化や社会による修飾をかなり受ける。共同体や部族によっても異なるだろう。たとえば平安貴族がなめられないようにするために必要だったことと、鎌倉武士がなめられないようにするために必要だったことは、共通点もあるが相違点もある。現代でも、新興企業でなめられないために必要なことと、伝統的な日本企業でなめられないために必要なことと、街の中小企業の工場でなめられないために必要なことが同一とは思えない。
 
そうした[なめる/なめられる]の局地性が、ときには「文学フリマでなめられないようにするために必要なこと」みたいな問題をクローズアップするかもだし、実際、文学フリマでなめられないための条件が世間一般と同一とは思えない。そして文学フリマにもコミケにも、人をなめてかかる人が複数名混じっているのは想像にかたくない。
 
 

「なめられたら」まずいこと

 
なめられているとは、いっぱしとみなされていないこと・軽視されていること・あなどられていることだ。なにをやってもやり返してこないと思われていたり、不平等を押し付けて構わないと思われていたり、搾取できると思われていたりするかもしれない。
 
かえってそれが望ましい場面がないわけでもない。うつけ者のように振る舞っておき、相手をあなどらせておくことが最適な状況もある。だがそれは例外で、基本的にはなめられていないほうが良いに決まっている。周囲の人間になめられていると、軽んじられ、不平等を押し付けられ、搾取される可能性が高くなる。自己主張はもちろん、業務連絡すらうまく伝わらない・伝えられなくなるやもしれない。
 
その場合、業務連絡がうまくいかない責があるのはなめている側で、なめられている側ではない。しかし責が誰にあるのであれ、なめられている側にとって大きなハンディになることには変わりない。だから、なめる側が悪いという問題とは別個の命題として、私たちひとりひとりはなめられないに越したことはない。
 
そのうえ、なめられると心が苦しくなるように人間はできている。なめられると、ストレスに直結する。きっと大昔の人間のうち、なめられてもへっちゃらだった人間は生存も世代再生産も難しい立場に追い込まれ、死に絶えたのだろう。なめられたらストレスを感じ、必死に対処していた人間が生存しやすく、世代再生産もしやすかったから人間はそのような性質を帯びるに至った。ストレスを感じる状況、つまり副腎からコルチゾールやアドレナリンが分泌される状況とは、生存や生殖にかかわるクリティカルな状態が専らだから、なめられたらストレスを感じるということは、なめられることが生存や生殖にとって致命的だったことを示唆している。
 
また、歴史学のアナール学派の書籍を読むと、"中世ヨーロッパにおいても、なめられるのは死活問題で、だから馬鹿にされたり挑発されたりしたら立ち向かわなければ沽券にかかわった"、と書かれている。
 
立つ瀬。
沽券。
面子。
 
これらの言葉が象徴するように、なめられるとは、ストレスをこうむるだけでなく、社会的立場が危うくなる事態でもある。なめられれば、家族を養うための土台を脅かされるかもしれないし、なんなら命を脅かされるかもしれない。飢饉や災害に際しても生き残りにくかっただろう。少なくとも昔はそうだった。それに比べれば、現代社会では沽券や面子が生死に直結するわけではないし、それでいきなり失職するわけでもない。それでも、なめられたたら社会的立場が危うくなる一面はまだ残っている。
  
たとえば教室や職場でなめられると、ストレスでメンタルヘルスがやられるかもしれないし、自分の主張や利益や立場を守れなくなるかもしれない。逆に考えると、なめるとは、良くないこと・誰かに悪影響を及ぼし得ることだから、人は、おいそれと他人をなめるべきではない。そしてなめないためにも、なめられたと相手に誤解されないためにも、礼節や礼儀が重要になる。
 
この礼節や礼儀も少し厄介で、それらにはローカルルールがあり、そのローカルルールを知らないと、結果的になめる/なめられないの問題が発生することもあったりする。ときには、ローカルルールを遵守していないことを大義名分とし、攻撃や軽侮を始める人もいる。
 
とはいえ、できればお互いに礼節や礼儀をおこたらず、相手とすり合わせながら守り合うのが理想なのだと思う。上掲リンク先の話でいえば、外国人観光客は日本の礼節や礼儀をなるべく知っておいたほうが良く、寺院や神社に不敬を働かないのが好ましいと思う。また、日本人が海外渡航した際も、現地で敬われているものには敬意を払い、礼節や礼儀を守るよう努めたい。それはそれとして、ときには誤解やボタンのかけちがえだってある。だから、「すみませんでした」と言えること・言ってもらえることも大切なのだと思う。
  
しかし、そうしたことも、たとえば差別意識に基づいてはじめからなめてかかっている相手だとぶち壊しだ。すると話は振り出しに戻って、差別心を持っている相手からもなめられないような個人的自衛が必要、みたいな辛い話になる。残念ながら、世界にはそんな辛い話が鬱積していると、最近のインターネットをみていると特に思う。
 
 

なめられないためにどうすればいい?

 
じゃ、なめられないようにするために何をすればいいのか。
これは年齢・職業・住んでいる地域や文化、属している部族、などによってまちまちだろう。
 
男性の場合、なめられにくくなる条件というか属性はいくつか思いつく。
ひとつは、身体ががっしりしていること、筋肉がしっかりあること。筋トレを異様に信仰する人がいるが、実際、体格がしっかりしていればそうでないよりはなめられにくくなる。体格の大きさ、腕っぷしの強さは、どこに行ってもなめられる確率を下げてくれる。
 
身振り手振りもたぶん重要だ。はっきりとした声で、相手をみて話せることは、そうでないよりはなめられにくい。身体のがっしりさ同様、これはフィジカルな性質にも由来している。しかし、効果的な筋トレが体格をしっかりさせるのと同じく、身振り手振りにもトレーニングの余地はある。姿勢や歩き方、返事の仕方などもそうだ。娑婆世界を長く観察していれば、どんな身振り手振りがなめられやすいのか(逆になめられにくいのか)を観察する機会はあると思う。観察したうえで、自分に可能なことを可能なようにやっていくのが好ましいよう思われる。
 
服装も、なめられやすさを左右する一要素かもしれない。服装はメッセージを発するメディアであり、自己主張が反映される社会装置であり、社会的立場やステータスや機敏さや鈍感さが現れ出るキャンバスでもある。そのうえ、属する文化や部族によってなめられにくい服装にも違いがあり、それが流行によって揺れ動くから厄介だ。自分の属する文化や部族のなかで、なめられにくい服装はどんなものか、逆になめられやすい服装はどんなものか? そして自分の身体に似合うのはどんな服装か? ──特に思春期以降、たいていの人がこのクエスチョンを模索し、自分なりの回答を持つに至る。
 
知識や知恵も、なめられやすさを左右する。自分の属する文化や部族で必要な知識がしっかりしている人は、そうでない人よりもなめられにくい。同じことは趣味の世界でも言える。繰り返すが、なめるのが悪いのであってなめられるのが悪いわけではない。が、なめられる確率を低下させたければ、自分の属する文化や部族に即した知識をそろえ、それを使いこなす知恵を期待したい。
 
それから経済力とそれを示す符牒。経済力は、資本主義社会において影響力であり、しばしば才能や能力に近いものとして取り扱われる。そして経済力に異様に偏ったかたちで人物を評価し、なめたりなめられたりする人たちもいる。しかし『STATUS AND CULTURE ――文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』に記されているとおり、経済力の高さがそのままカッコよさに繋がるとは限らない。自分の属する部族、属する文化圏にふさわしいかたちで経済力を持っていることの兆しが示されるのが好ましいのであって、たとえば文化貴族の集まりで金ピカ趣味を開陳したら、これは、なめられるおそれがある。
 
ちなみに、私は女性のなめる/なめられないについてほとんどわからない。化粧にせよ、服装にせよ、女性は男性に媚びるためにそれらをやっているというより、むしろ同性に対するメッセージや牽制の意味合いを持つかたちでそれをやっているようにみえる(実際は、女性が化粧をしなければならないのは男尊女卑的ジェンダー勾配による、ということなのだろうけれども、とはいえ、女性たちの化粧や服装からは同性に対する鋭い意識がいつも感じられ、男性に対する意識をそれに優先させる場面はかなり少ないように私にはみえている)。女性においても、体格はなめられないための一要素となるだろうが、その重みが男性と同等だとは思えない。
 
この文章は学術的ではなく、いわゆる雑談として読んでいただきたいわけだが、とりわけ女性の人は「これを書いたのは男性」なのであてにならないと思っておいていただきたい。
 
が、なんにせよ、なめられやすい状態、なめられにくい状態というのは存在し、前者は後者に比べて不利で不遇になりやすいので、面倒くさくてもコストがかかっても、なめられにくくなるように多かれ少なかれの努力をしたほうが良いのだと思う。そして自分とは異なる文化や部族とコンタクトをとる場合には、相手をなめないように/相手になめられないように、いつも以上の工夫や配慮が必要になる。