2013年05月07日 - 田舎暮らし通信 『むらまつ』
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武家屋敷

村松藩の歴史とわが先祖について調べてみた。
先祖は仏壇の過去帳に「権助」とあるので間違いないようであるが、せめて権之助、権之丞、権左衛門等なら少しは武士らしい名前だが、「権助」ではいかにも下級武士、奴さん程度のようだ。
また町の居住区割りでも下層武士の居住区のようだ。
そんなわけでわが先祖は、士族といってもわずか3万石の城下の下層武士であることがはっきりした。
だからどうということもないが・・・。

村松藩
村松藩は寛永16年(1639年)、堀直寄の次男・堀直時が安田3万石を与えられたことから始まる。寛永21年(1644年)5月、直時の子・堀直吉の時代に領地替えが行なわれて陣屋を安田から村松に移したことから、正式な村松藩が始まった。村松藩はその所領の大半が山間地であったため、新田開発を成しても石高の伸びは少なく、貞享4年(1687年)では実質的な石高は4万石だったと言われている。
第2代藩主・直吉は領内に検地を実施して、藩政支配を確立した。しかし直吉の死後から財政悪化が表面化していったため、しばしば藩政改革が行なわれたが効果は無かった。
しかも第8代藩主・堀直庸の代には家老の堀玄蕃を中心とした百姓収奪による財政改革という悪政が行なわれたため、文化11年(1814年)には村松藩全土で百姓一揆が勃発した。
第9代藩主・堀直央の時代である嘉永3年(1850年)2月には城主格が与えられ、村松陣屋は城に改修されることとなった。直央は嘉永6年(1853年)から藩政の主導権を掌握して藩政改革に取り組み村松縞をはじめとする織物・紙・筆・茶そして村松焼などの生産を奨励し、産業の振興を図ったが、万延元年(1860年)に直央の後を継いで藩主となっていた堀直休が7月12日に、直央も9月6日に死去してしまったため、改革は頓挫した。 幕末期、村松藩内では尊王論が台頭し、尊王攘夷と軍制改革を主張する一派と対立し、慶応2年(1866年)11月には村松七士事件(尊王攘夷派7名を保守派が処刑した事件)が起こるなど、藩内は大混乱を極めた。このため慶応4年(1868年)の戊辰戦争では藩論が新政府に与するべきと主張する正義党の近藤安五郎を中心とした一派と第11代藩主・堀直賀を中心とした保守的な佐幕派に分裂した。そして藩主らが奥羽越列藩同盟に参加して米沢藩に逃れると、安五郎は第9代藩主・直央の末子に当たる堀直弘を新藩主として擁立して即座に新政府に降伏したため、村松藩は所領を安堵された。明治4年(1871年)の廃藩置県により村松蕃は廃藩となって村松県となり、同年末には新潟県に吸収された。

城下町
城下町は、美的感覚に基づいてデザインされたと言われています。村松の城下町は、進行方向や曲がるたびに道から霊峰白山や周りの山頂が望める「山あて」の美観が特色となっています。
一方、水路や道の曲がり、自然の障害物を巧みに取り入れ、町人町と武家地を区画分けしています。さらに武家地に町人や他藩の者が入り込むことを嫌い、武家地から離す道、複雑で迷いやすい道が造られています。また、居城を攻められにくいようにと、見通しの利く長い直線道路や十字路を避け、T字・L字・交差点のずれなど複雑に組み合わせており、今も城下町としての名残がそのまま残っています。
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このため現在は不便この上ない、まっすぐ進めばすぐ行けるところも必ず「あみだくじ状」に進まなければならない。
写真は我が家の旧武家屋敷ではあるが傷んだため補修し屋根はトタン張り、倉庫代わりに商店に貸しているし庭園、土蔵等を全部なくして駐車場としているためあまり原型をとどめていない。

s-大竹邸


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