ヴィーナスフォート
ヴィーナスフォートは1999年、お台場で開業したショッピングモール。
17,18世紀の南フランスやイタリアの街並みが再現され、
多くの観光客が訪れたが、2022年閉館した。
当時江東区に住んでいた私は毎週のように訪れtていた。
東京ディズニーランドの方が近かったけれど、
一度も行ったことがない。
中世のヨーロッパに憧れていた所為もある。
こちらに越してきてからは遠くて、滅多に行かなくなったが、
閉業と聞いてたまらない喪失感に襲われたものだ。
曼珠沙華。
空の青さが日毎に深くなってくる秋彼岸のころ、草むらや木陰などに、
そこだけ火のついたように赤く燃えて咲くのがヒガンバナである。
そのあやしいような美しさに心を引かれる人も多いが、
この花がどういうわけか墓地の卒塔婆のまわりなどに群がって咲く習性があるので、
昔から「地獄花」「死人花」「捨子花」などと呼ばれて忌み嫌われている。
「手くされ」という異名もあるが、これはこの花が毒草であることから付けられた。
「曼珠沙華」というのは、赤い花という意味の梵語で、
寺の境内に咲いたこの花を見た学僧が、
つれづれに付けた名前だという。
(金田一晴彦著・「言葉の歳時記」より。)
さて、千葉市の自然公園「青葉の森」、その奥まった所にほどほどの池がある。
「青葉池」と名付けられているが、殆んど人影の無いところである。
秋彼岸が過ぎた頃、必ずそのなんでもない池に出かける。
遊歩道から鬱蒼とした対岸を眺めると、点々と炎が見える。それは岸辺に咲く彼岸花。
対岸の細い道に入り込むと、一群の彼岸花がひっそりと咲いている。
私と曼珠沙華との密会の場所。
樹間そして水辺ということもあってか、ひんやりした空気が流れてきた。
人の気配もない薄暗さの中で、そこだけ燃え盛るような彼岸花に相対していると、
杉田久女のこの句が襲ってきた。
われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華
池から抜けだすと、この世に戻って来たような心地になる。
遅目の昼食は、自然公園の入り口にある県立博物館。
青葉の森では、いつもそこのカフェに決めている。
大きな窓というより、もう巨大な緑のスクリーンといっていいだろう。
カレーライスを置いた光景が、インスタレーション(空間アート)のようだ。
テーマ:博物学・自然・生き物 - ジャンル:学問・文化・芸術
流離の記(二の巻)
卒業した私は名古屋で就職することになりました。
名古屋で最初の下宿は⑦駅裏の民家でした。
私の先輩が住んでいたアパート、その大家さん宅に間借りしたのでした。
いつまでも間借りしているわけには行かないので、⑧やっと空いたアパートに移ったのです。
駅裏よりもっと家賃の安いアパートがあると聞いたので、
⑨中村遊郭に近いアパートに移ったのですが、遊郭のある住所は会社員にとって何かと都合悪い。
⑩千草区の下宿に移ったのです。場所の名前は忘れましたがね。
それから⑪東山の公団、これは勤め先の先輩が公団を出ることになって、私にどうか?と言ってくれたので。
ただ、ここも会社から遠いので⑫今池の裏通りにあったアパートに移りました。
今池はバーやクラブの多い歓楽街だったので、誘惑されそうになること多々でしたね。
そうこうしているうちに、勤め先を止めることになったのです。
これは全く自分の都合で、東京に出たかったのだね。
東京に来て就職先を探す間に住んでいたのは、多分いちばん家賃が安いと思う⑬小菅のアパートでした。
ただ、あまりにも狭すぎるのと小菅刑務所が近いというのが鬱陶しくて、
⑭一つ手前の駅、北千住に移りました。
その間、何社か面接を受けましたが結果はあまり芳しいものではありませんでした。
当時はよほどの理由もなく勤め先を辞めるのは、あまり印象が良くなかったようです。
それでも何回か面接を受けて幸いにも某社に就職することが出来たのです。
その間、⑮江古田⑯中野とアパートを転々としました。
やがて結婚することになり、新居として⑰江東区東陽町の小さなマンションで暮らし始め、
やっと落ち着いた生活が続いたのでした。
千葉に移り住むことを決断したのは、中学生の長女が千葉大学の付属高校に合格したことです。
⑱連れ合いが育った千葉市新宿のマンションから、娘は学校へ通うことになりました。
やがて近くに安い売地が出たものですから、⑲連れ合いの両親に借金して家を建てたのです。
こうして、19回の転居を経験したのですが、書いてみると大したことないですね。
流離の記(一の巻)。
葛飾北斎は生涯に九十回以上住居を替えたといいます。
あれだけの膨大な作品を創り続けたのですから当然、
ホゴも多いわけで。
当然部屋中ゴミの山だったそうで、ゴミに囲まれると即引っ越したそうです。
北斎さんに比べるのもなんですが、私も転居じゃひけをとりませんよ。
その放浪?の軌跡を追ってみましょうか。
わたくし、生まれも育ちも兵庫は明石でございます。
なんてのは寅さんのセリフですが、生まれ明石は間違いありません。
気がついたら①京都の烏丸車庫前でご飯を食べてました。
大勢の家族で。
当時のご飯は量りで測っていたようです。
特に家族が多いときは。
それからた宝塚に近い②仁川で小学生時代を過ごしたのです。
仁川駅前は進駐軍の邸宅が多く、電車で通っていた私はよく青い目の子供たちにからかわれていたものです。
宝塚といえば通学の電車に、時々塚ガールが乗り込んできて、
子供ながらまぶしく思ったものです。
それからどういうわけか③北陸富山のお寺で寝泊まりすることになったのです。
年の瀬には分寺のお坊さんたちが餅を搗きにきまして、
皆たくましい僧侶でしたから、檀家さんたちは「山の和尚さん」と呼んでました。
山の和尚さんたちが地響きたてて搗いた餅を「坊、食え」と分けてくれた餅の美味しかったこと。
④それからお寺に近い所に借家を借りたのですが、放火されて再びお寺に戻ったのです。
私は数日は寝間着で小学校に通ってました。
あ、放火犯は駆け付けた警官にその場で取り押さえられましたね。
同じ借家に住んでいた女性でした。
⑤お寺から出た一家は、小学校の教師宅に間借り。
⑥やがて下関町の借家に落ち着いたのでした。少年時代で⓺回目ですからね・・・
まだまだ続きますよ。
狭庭の花。
一応、庭らしき一画があります。
ガーデンには程遠く庭園とも呼べない、なんと言っていいのか・・・
雑木と雑草がてんでに生えているような地面といっていいでしょう。
それでも四季折々に花は咲いてくれます。
ほとんど手のかからない花ばかりです。
ごくありきたりに、紫陽花。
通称「日の丸」と呼ばれる白槿。
斑入りのギボウシに咲いた花。
鉢植えですが、サフランモドキというそうで・・・
そして、竹垣に垂れる凌霄花(ノウゼンカズラ)。
いい光景です。
自作の竹垣なので、だいぶガタがきています。
かえって侘びた風情も捨てがたいと、そのままにしているのですが。
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