One Day/石間ヒデキ - 1973.05.15 Tue
[sales data] 1973/5 [producer] 不明 [member] 石間ヒデキ(vo/g/b) 和田ジョージ(ds) チト河内(ds) 篠原伸彦(key) 大野克夫(synthe/g/etc) 成田賢(harmonica) 村岡健(sax) 大野真澄(bvo) | ![]() |
FTBの解散(1973年4月)が既に決まっていた?状況下で制作された初ソロ作品。
(FTBからは和田ジョージ&篠原伸彦が参加していますが上月ジュンが不参加のため
ベースは石間さんが弾いています)
叙情派石間氏のギターは決してテクニックが売りではないのでギター物として聴くと
物足りませんが、彼の持つ大きな世界観のようなものが伝わってきます。
FTBとは別の切り口を披露するようにはっぴえんど風の楽曲が収録されているのが
興味深いです。
本アルバムリリース後、石間&篠原は杉田二郎のバックバンドで活動し
1972年2月頃、篠原、後藤次利と解散したハプニングス・フォーのチト河内&トメ北川と
トランザムを結成し、人気TVドラマ俺たちシリーズの楽曲やコカコーラなどのCMで
お馴染の楽曲を提供しますが、あくまでセッションマンとしての仕事を黙々とこなし
表立った活動は控えめで、どちらかというと時代に乗り切れなかった
不運なミュージシャンの一人という気がします。
Make Up/フラワー・トラベリン・バンド - 1973.02.25 Sun
[sales data] 1973/2/25 [producer] フラワー・トラベリン・バンド 内田裕也 折田育三 [member] ジョー山中(vo) 石間秀機(g) 上月ジュン(b) 和田ジョージ(ds) ***** 篠原信之(key) 内田裕也(vo) | ![]() |
MADE IN JAPANリリース後、カナダからの帰国凱旋コンサートで精力的に全国を回り、
(前座で四人囃子が演奏したこともあり)海外で培ったしっかりした演奏技術は高い評価を得、
幻となったストーンズの来日公演のオープニングアクト大役権を任されるほどに。
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本作制作時はキーボードを導入し(篠原信之)サウンドに厚みをつけるも様々なトラブルで
中断し、急遽1972年9月16日の横須賀文化会館のライヴと既に録音済みのスタジオ録音の
組み合わせという変則な形でリリース。
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タイトル曲は解散してから日立のCMに使われたため彼らの楽曲では一番ポピュラーなためか
再結成時はオープニング曲になっていました。
日本語ロックに敵対心を燃やしていた内田裕也が「日本語ロック論争」でいちゃもんつけていた
はっぴいえんどの解散と入れ替えで国内での活動が活発かするかと思われたものの
FTBが日本不在の約2年間に邦楽はフォーク&歌謡曲が全盛で洋楽っぽいロックを
受け入れる土壌はなく、アルバムセールスの失敗が致命傷となり、
1973年4月京都円山公園音楽堂で行われたコンサートを最後に解散してしまいます。
ジョー山中氏はソロ活動を開始し、1977年映画「人間の証明」に俳優として出演し
主題歌「人間の証明のテーマ」が大ヒット。
石間秀機氏はソロアルバム「ONE DAY」リリース後、杉田二郎とのコラボレーションなどを経て、
1974年にチト河内・篠原信彦・後藤次利らとともに俺たちシリーズでお馴染のトランザムを結成。
(1975年のつま恋では吉田拓郎の1st Stageをサポート)
和田ジョージ氏は人気セッションマンとして活躍し、昨年(2015)ドラマー生活50周年記念
ライヴが行われました。
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上月ジュン氏は解散後は音楽をやめ、カナダのトロントに移住し現在も住んでいるようです。
(2008年の再結成時は小林ジュンに改名していました)
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フラワー・トラベリン・バンドは2008年に新作「We are here」をリリースし再始動したので少しばかり追記。
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2008年10月5日、雨の野音の内容はあまりに寒かった・・・
(前座のJ,L&Charを観て帰る人多数(苦笑)
時代錯誤な新曲プロモーションの場となってしまいバンドと観客の温度差は最後まで縮まらず
彼らのサウンドは東洋的でオリジナリティ溢れているとの評も「無理に東洋的にした」ことが
かえって日本では仇になったのではないかと感じるほどで懐メロを楽しみにしていた
大勢のファンをまんまと裏切り、残念ながら、彼らの再評価が高まることはありませんでした。
ジョー山中没後(2011/8/7)もバンド活動は続いているようです。
Made In Japan/フラワー・トラヴェリン・バンド - 1972.09.25 Mon
[sales data] 1972/9/25 [producer] 内田裕也 ポール・フォファート [member] ジョー山中(vo) 石間秀機(g) 上月ジュン(b) 和田ジョージ(ds) | ![]() |
カナダ録音の3rd。
アナログ盤は段ボールのカートンボックスに当時の現地新聞記事を貼り付けたジャケット。
1970年12月より日本を離れていたため、現地での活動情報が圧倒的に不足しており、
当時のライナーを寄稿している中村とうようさんでさえ「現地の状況が全く分からない」と
嘆いてます(笑)
石間さんの後日談によると現地の世話人に騙されて活動資金が不足し帰国のチケットを
解約して金を作って安アパートを借りるなどの悪環境を見かねてライトハウスの
ポール・フォファートがプロデュースに協力し制作されたという経緯があるようです。
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冒頭、E,L&Pと競演したカナダのライブイベントの告知CMが挿入されていたり
"KAMIKAZE"や"HIROSHIMA"といった当時、国際社会にクローズだった日本を
外人が想起しやすいタイトル曲名が収録されているのが興味深いです。
(侍、芸者、寿司、富士山の類(笑)
Satori/フラワー・トラヴェリン・バンド - 1971.04.15 Thu
[sales data] 1971/4/15 [producer] 内田裕也 [member] ジョー山中(vo) 石間秀機(g) 上月ジュン(b) 和田ジョージ(ds) | ![]() |
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日本語ロックのはっぴいえんどの向こうを張ってクリムゾン、ZEPP、アニマルズなどの
英語カバーを収めたエニウェアでデビューしたFTBはライヴ活動を重ね評判を高めると
海外進出を目論み「今までにないオリジナルアルバムを作ろう」と
米のアトランティック・レコードと契約し「禅の悟り」をテーマにした5パートで構成された
東洋イメージの組曲という本作をリリースします。
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バンドは1970年大阪万博のイベントで知り合ったカナダのバンド、ライトハウスを頼り、
本格的な海外進出の場としてカナダに渡り、ライトハウスのツアーに同行しながら
米とカナダでリリースされたアルバムは高い評価を受け、間違いなく海外進出の
先駆的な存在だったのですが
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サッカーで言えば日本人で初めて海外サッカー進出した奥寺康彦氏のように現地での
活躍の情報が現在のように四六時中映像付で入ってくるわけではなかったので
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(新聞の扱いも小さく動いている奥寺が見れたのはダイヤモンドサッカーで半年に1、2回程度(苦笑)
演奏力で言うと当時日本に流入し始めたモノホンの英国HRは桁違いの実力だったことや
石間さんのラーガ奏法が日本というよりインドの神秘性を想起させていたため
英国HRになびいている最中のロックファンにとって「日本人による英語ロック」は
チープな印象を与えてしまったのではないでしょうか。
とにかく圧倒的に現地情報が乏しい上、日本国内のプロモーションが万全ではなかったため
フォーク全盛の日本ではほぼシカト状態(苦笑)で国際社会に閉鎖的だった時代の日本に
黙殺された不運のバンドです。
Anywhere/フラワー・トラベリン・バンド - 1970.10.21 Wed
[sales data] 1970/10/21 [producer] 内田裕也 渡辺忠孝 [member] ジョー山中(vo) 石間秀機(g) 上月ジュン(b) 和田ジョージ(ds) | ![]() |
麻生レミ&小林克彦が音楽修行目的で渡米するためフラワーズを脱退したため
バンド再編のため内田裕也が集めたGS残党メンバー4人でFTBを結成。
ジョー山中(元461) 石間秀機(元ビーバーズ)
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上月ジュン(元タックスマン) 和田ジョージ(元フラワーズ)
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デビューライヴは奇しくも頭脳警察と一緒で第一回ヘッド・ロック・コンサート
(1970年4月1日神田共立講堂)でこの時の出番予定だったバンド名のフラワーズを改称して
「フラワー・トラヴェリン・バンド」名義で出演。
(内田裕也もごく初期の頃はメンバーとしてステージにあがっていたらしいのですが、
すぐに裏方仕事に徹したようです)
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バンド結成間もなかったことからデビュー盤はオリジナルの楽曲はまだなく、
クリムゾンやブラック・サバス、アニマルズなどの楽曲を収録した洋楽ロックカバー集。
ただ時期的にサバスもクリムゾンもまだ日本での認知度は低かったと思われ
その意味でコピーとはいえ演奏力の高さ、ジョー山中の歌唱力は既に折り紙つきです。
一筆能書のこと
「花のふーてんばんどの初LPが出来上がりました。
ぷれいにむらがあったり、こぴいも随所に出てきたり、時には発音の悪しき所も
ございますが、LP全体を通して大変にろっく。みゅーじっくらしい気分に
満ちあふれていると自信を持っております。
座員一同このLPは半年間の歴史として、次なるLPにて全編これ、おりじなるを
もってお目見えいたしたく、切にきびしくもやわらかなるご批判をたまわりたく思います。
我ら花のふーてんばんどはもちろん、あたりいちめんろっく・ぴーぷるうちそろい
この日の本にろっく蔓延、平和蔓延、愛蔓延とすべく努力しております。
どうぞあたたかきご支援をお送りください。」
PS:アイム・ソー・タイヤード ゆうや記
バンドはこの年の主要なロックイベントへの出演を重ね、大阪万博のライブステージで競演した
カナダのライトハウスというバンドのマネージャーと内田裕也がコネクションを持ち
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はっぴいえんど&岡林信康などのURC勢の日本語ロックブームに敵対心を抱いていたこともあり
本格的な海外進出を果たすため、10月サンケイホールでのフラワー・トラベリン・バンドサヨナラ公演
(出国前のお祝いコンサート)を終えるとバンドはカナダ、トロントへ1年半の音楽武者修行に
旅立ちます。
内田裕也談
「着物を着て演奏しようとか、そんなことは考えていない。サウンドも、ことさら日本調を
出したりしたくないが、間のとりかたや強弱をつけることなどで、われわれ独特のユニークなもの
を創り出していきたい」
Challenge/内田裕也とフラワーズ - 1969.07.25 Fri
[sales data] 1969/7/25 [producer] 内田裕也? [member] 内田裕也 千葉ひろし(vo) 麻生レミ(vo) 小林勝彦(steel g) 奥進(g) 和田丈二(ds) 橋本健(b) | ![]() |
今では芸能界のご意見番みたいな色物扱いの内田裕也も日本ロック黎明期は
本気で日本のロックを世界に発信させようと頑張っていた功労者の一人で、
1967年春、所属の渡辺プロを無断で飛びだし約3ヶ月のヨーロッパ旅行にでかけ、
当時のブリティッシュ・ロックの興隆を現地体験した数少ない日本人で、
特にジミヘンに大きな衝撃を受け、フラワーズを結成。
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内田裕也という人物が面白いのはバンマスにもかかわらず決して表に立たずバンド内では
MC&演出など裏方仕事に専念することが多く、フラワーズでも入手難の輸入盤を
ロンドンから自費で大量に買い漁って来てバンドメンバーに何度も聴かせるなど
当時の日本メディアからは吸収できない最先端の音楽をむさぼっていたようです。
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GSブーム時の1967年に加瀬邦彦の「愛するアニタ」でデビューする予定が没となり
(この曲は結局ワイルド・ワンズが歌うことになった)所属事務所が芸映プロという
主に俳優のマネジメント会社だったため、意外な映画で数本演奏出演したり
(「風のつむじ風」「無頼・殺せ」「あぁひめゆりの塔」など)
2枚組のレコード「オペラ・横尾忠則をうたう」の一部に音源が収録されるも
活動の殆どがゴーゴークラブやジャズ喫茶の営業演奏でなかなかレコードデビューの
機会に恵まれませんでした。
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ブリティッシュロックをダイレクトに日本に持ち込んで広めようとしていた内田裕也の野望は
(この頃の内田裕也インタビュー記事(ヤング・ミュージック誌)
「「将来は源氏物語をロックアルバム化するのが夢だ。J・エアプレインだって
忠臣蔵をやっているではないか!」)
時期悪くGSブームに追いやられ念願のレコードデビュー(1969/1/25)は
歌謡曲の色合い濃い「ラスト・チャンス」(ブルー・コメッツがお蔵入りさせた楽曲)で
メンバーは乗り気ではなかったが事務所からこれをやればアルバムは好きに作らせる
という約束で渋々リリースとなったようです。
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ようやく自分達の音楽のアルバム化がかないジャケもろともフラワー感覚満載の好作品です。
(「片足の男」をのぞき全洋楽カバー)
全員オールヌードのジャケットも話題になった矢先メンバーの麻生レミと小林勝彦が渡米を希望。
内田裕也は大変なショックを受けたようですが気を取り直しジョー山中、石間秀機等を
スカウトしF.T.B結成に発展します。