Ride On Time/山下達郎 - 1980.09.19 Fri
昔は60年代、70年代、80年代と年代ごとに特徴ある音楽の大きな区分けが可能でしたが
90年代以降デジタルミュージックが幅をきかせ始めるとその音は均一化していき
区分けする音楽質は曖昧になってしまい時代と一緒に語るのは困難になってしまったと思います。
このアルバムが発売された80年代の邦楽は60~70年代の洋楽を模倣しながら試行錯誤してきた
アーチストタイプのミュージシャンがようやくアイドル、歌謡曲、演歌といった日本の既存の
商業音楽形態に変化をもたらす作品を発表し始め、その前頭筆頭がこの作品でしょう。
以下アルバムライナーに記された達郎さんの手記によると
達郎さんはこの4年間、どんなスタイルでも満足するグレードでライヴ演奏できるリズム隊を
欲しており、吉田美奈子さんの伝手で青山純と伊藤広規を紹介され初めて思い描いたライヴの
理想パターンが現実化しライヴの演奏レパートリーが飛躍的に増えたとのことです。
「MOONGLOW」のロング・セラーに気を良くしていたディレクター小杉理宇造さんは
担当していた桑名正博を化粧品CMとタイアップで成功させていたこともあり
いよいよ勝負時だと達郎自身が出演するCMタイ・アップを取ってきます。
そして発売されたシングル「Ride On Time」はマクセルのカセットテープのCMに使用されて
大ヒットし達郎さんを一気にスターダムに押し上げました。
シングル・ヒットを受けて開始された本作の制作で今まで大きく違ったのは制作予算で
スタジオ代を気にせず違うテイクやアレンジにトライできることが達郎さんの長年の夢で
ようやく実現できたとのこと(吉田美奈子さんが詩を6曲提供)
しかしシングル「Ride On Time」ヒット後に芸能メディアの酷悪さを垣間見たことから、
その反動でこのアルバムは浮き足立ったりせず玄人受けする内容にするのだという意思が強く
意図的に「Ride On Time」のようなキラーチューンは収録しなかったとのことです。
達郎談
「結果、出来上がった作品に対して当時近しい関係者からさえも“地味だ”などと
ずいぶん言われたが、今となればこの制作方針で正解だったとつくづく感じる。
ミュージシャン人生にとっての幸運は、もっとも大きな音楽的・商業的な転換時期に
上り調子のミュージシャンとの出会いと彼らとの最良のコミュニケーションの中で
レコーディングとライブを構築できたことだと思える。」
私はこの頃、陰気なプログレにどっぷりはまっていましたので、意地でもこんな爽やかな
アルバムを良いとは決して口にできず、外では興味ないようなことを言っておいて
家でコソコソ聴くというダブルスタンダードでした(笑)
そうそう達郎さん楽曲のCMで忘れられないのが、全日空スカイホリデー「踊ろよフィッシュ」
石田ゆり子さんの登場に衝撃を受けて速攻で写真集を購入しましたが、ある日ベット下の
複数のエロ本と一緒に母親に処分された時に軽く殺意が芽生えましたね(苦笑)
(余談)
先日、達郎さんはラジオ番組でNHK紅白歌合戦の演出で登場した「AI美空ひばり」について
「冒涜だ」と言い切り大きな反響がありました。
NHKをぶっ壊せ党首ですら声をあげないのに奥様が出演した紅白に忖度なく物言う達郎さん、素敵です!
Moonglow/山下達郎 - 1979.10.21 Sun
[sales data] 1979/10/21 [producer] 山下達郎 小杉理宇造 [member] 上原 裕(ds) 田中 章弘(b) 椎名 和夫(g) 難波 弘之(key) 高橋幸宏(ds) 細野晴臣(b) 松原正樹(g) 村上秀一(ds) 岡沢章(b) 松木恒秀(g) 佐藤博(key) 土岐 英史(sax) 吉田 美奈子(bvo) |
ライブを含む3枚のアルバムの売り上げがレコード会社の販売目標数にはるかに及ばず、
この先歌手を廃業し作曲家で生きて行こうと考えていたそうですが、「Go Ahead」に収録した
「BOMBER」のヒット以後、ライヴの客層が今までとは明らかに異なりはじめ
特に大阪公演の客の好反応に手応えを感じ、もっと時代の空気に近い作品を作る意欲がわき、
アン・ルイスのアルバム「PINK PUSSYCAT」に提供した「恋のブギ・ウギ・トレイン」がヒット、
(作詞は吉田美奈子)
担当ディレクター小杉理宇造氏が桑名正博など手がけていたミュージシャンが売れ始め
RVC内に設立した独立レーベル“AIR”にプロデューサー兼ミュージシャンとして参加し、
その第一弾アーチストとしてアルバム&シングルをリリースするなど達郎さんの状況が
好転し始めます。
経済的状況が上向きになってきたことと当時レコーディング環境が16トラックから24トラックに
変わったことにいち早く反応し、本アルバム制作では多様な編成で様々な多重録音の技術を用いた
楽曲制作が行われ、第22回日本レコード大賞ベスト・アルバム賞受賞作品します。
そして1980年、山下達郎は大爆発します!!!
Go Ahead!/山下達郎 - 1978.12.20 Wed
「前へ、進め!」と勇ましいタイトルですが、山下談によると今までのアルバムセールスが振るわず、
ソロ・アルバムを作れるのもこれで最後かもしれないとの思いから、
それなら好きなことをやって終わりにしようという思いで、あれこれ詰め込んだため
「五目味」(ごった煮サウンド)の作品になったとのこと。
「LET'S DANCE BABY」「BOMBER」「潮騒 (THE WHISPERING SEA)」の3曲は達郎さんの
お気に入りでベスト盤にも収録されましたが、特にファンクナンバーの「BOMBER」は
レコード会社から貼られた「技術はあるが(セールスの)数字が期待できない」という
レッテルを覆す契機となり、手応えを感じた達郎さんは同曲録音の同メンバーで
(上原、田中、椎名、難波、吉田)次作、MOONGLOWを制作することになります。
It's a Poppin' Time/山下達郎 - 1978.05.25 Thu
[sales data] 1978/5/25 [producer] 山下達郎 小杉理宇造 [member] 山下達郎(vo/g) 村上秀一(ds) 岡沢章(b) 松木恒秀(g) 坂本龍一(key) 土岐英史(sax) 伊集加代子(bvo) 尾形道子(bvo) 吉田美奈子(bvo) |
1978年3月8日と9日に、六本木のライヴ・ハウス「ピット・イン」で行われたライブ盤。
達郎さんは2枚のアルバムをリリースするもセールスは惨敗で、シングルヒットを最重視する
日本では大瀧詠一師匠仕込のアルバム主体というコンセプトはなかなか受け入れられず
レコード会社からはお荷物扱いだったようです。
そのためプロデュサーの小杉理宇造氏の判断でスタジオアルバムのように経費がかからない
ライヴ盤になったようです。
経費節約には色々な苦労があったようで、今見ると凄いメンバーなのですが、
この面子でホールで演るとギャラ問題が発生してしまうので収容人数200~300人の
ライブ・ハウスを満員にしてPA代にメンバーのギャラ、そして山下自身はノー・ギャラで
ちょうど採算の折り合いをつけたという苦しい台所事情もあったようです。
又この頃、ピットインのような場所で邦楽のライヴが行われるのは珍しかったのですが、
達郎さんはジャズフィールドにも多くの知己がいて、セッションなどで出入りしていたことや
同ビルのCBSソニー六本木スタジオと回線が繋がっていたため、いつでもライヴレコーディングが
可能ということからピットが選ばれたようです。
しかしこのライヴ盤でさえ達郎さんの意志が強く働いていて、ダニー・ハザウェイの
ライヴアルバムのようないわゆる歌もの中心ではなく、インプロメインにした長尺な演奏となり
収録時間の関係でアルバムが2枚組となったためレコード会社からは「売りにくい」と
散々文句を言われたとのことです(笑)
同年「GO AHEAD!」制作時には流石の達郎さんも上向かないセールスにソロミュージシャンとしての
自らのキャリアを終えざるを得ないのではないかと危機感を抱いていたそうで本人によると
この時期に商業音楽の制作・流通に関して徹底的に学んでいたとのことです。
そしてその結果が出るにはもうしばらく時間がかかります。
Spacy/山下達郎 - 1977.06.25 Sat
[sales data] 1977/6/25 [producer] 山下達郎 [member] 山下達郎(vo/etc) 村上秀一(ds) 細野晴臣(b) 松木恒秀(g) 大村憲司(g) 佐藤博(key) 上原裕(ds) 田中章弘(b) 坂本龍一(key) 吉田美奈子(bvo) |
達郎本人の強い希望で実現した「サーカス・タウン」の海外録音後、セールスはパッとせず
マネージャーと喧嘩別れしたり、マイナス評価を書く音楽評論家と喧嘩したりと、
Bad Daysが続くも、チャーリー・カレロから貰ったサーカス・タウンのスコアを検証すると
今までの教則本や理論書で見たことがない達郎をスパークさせるべくサウンドアイデアの
構築理論が記されており、これを学習しない手はないとスコア書きに没頭し、
限られた制作予算と時間内で制作されたとのことです。
予算圧縮のためジャケットは、山下の個人的依頼でペーター佐藤がカラーコピー機と
アクリルブロックで製作したイラストを使用し、録音においても、B面収録曲の多くが
達郎のピアノ・シンセに多重録音のコーラスを重ねたかたちで録音され
後の達郎の真骨頂とされる「一人多重録音」という制作形式の先駆けになりました。
達郎サウンドはほんのちょっと時代の先を行ってしまい、なかなか評価されなかったのですが
時代がだんだん達郎サウンドに追いつくことになります。
Circus Town/山下達郎 - 1976.12.25 Sat
今でこそBIG NAMEな山下達郎さんも、もし一歩間違えればここまで自身の才能を
スパークできなかったであろうという偉大なキャリアのスタート上、最重要なデビュー盤。
まずデビュー盤からして海外レコーディング、それもかなりランクの高いミュージシャンが
参加していることから「達郎はデビュー時から相当期待されていたんだな」と思っている方が
多いと思うのですが、実情は少々異なりかなり大バクチ的なものだったようです。
(以下Wikiの記事から抜粋)
そもそもソロ活動は本人が望んだことではなく、シュガーベイブの活動が軌道に乗らず
(達郎テイストなマニア趣味的な音楽性が一般受けせず)失意のまま仕方なくソロでの活動を
余儀なくされたものの方向性を見失っていたようです。
そこで一発奮起し、自分が聴いて育ってきたアメリカン・ヒット・パレードの真ん中で
自分の音を鳴らしたら、どんなものが出来上がるのか?
プロデューサー、アレンジャー、ミュージシャンからスタジオやエンジニアまで自分で指定して、
その上に自分の曲と歌を乗せてみたら自分の予測値と現実はどのくらいの誤差が生じるのか?
海外レコーディングを絶対条件としたアルバム制作プランを実現するため
ソロ契約を結びたいというレコード会社数社と交渉するも、当時の海外レコーディングは
一般的ではなくミュージシャンやスタジオ交渉など現地でのコーディネートが難しい上に
当時の達郎さんのセールス実績では採算が取れないと交渉が難航する中
RVCの小杉理宇造氏(現ジャニーズ・エンタテイメント代表取締役社長)だけが理解を示し、
ニューヨークでの留学生活の経験を生かして単身渡米し、達郎氏が指名したプロデューサー数人と
直接交渉の結果、第一候補だったチャーリー・カレロ氏のOKを得て話を決めるも
予算の関係でアルバム1枚全部をニューヨークでというのは不可能なので、チャーリー・カレロ氏の
口ききでジョン・サイター氏(スパンキー・アンド・アワ・ギャングやタートルズのメンバーで
達郎の大好きなミュージシャン)が紹介され半分をロスで録音する運びとなり
ソロ・デビュー・アルバムの準備が整います。
ニューヨーク録音は曲者ミュージシャン揃いでフレンドリーな雰囲気ではないが、
仕事はきっちりこなすプロのお仕事のおかげでスピーカーから出て来た音が自分が考えたイメージと
ほぼ同じだったことに安堵したとのこと。
対して予算の都合でロス録音となった制作現場はフレンドリーなものの機材が古く
ジョン・サイターが連れてきたメンバーが自分の欲する音を出してくれないことに失望し
ロス録音を断念しようかという間際にケニー・アルトマンやビリー・ウォーカーが参加することになり
なんとかリズムを録り終えることができたとのことです。
アルバム発売当時こそセールスはパッとしませんでしたが、このアルバム制作過程で
小杉理宇造とチャーリー・カレロという二人の人物の理解がなければ今の達郎は存在しないと
言い切れるほど、この海外レコーディングの体験はポップス・マニアだった達郎氏の
音楽的方向性に決定的な転換を与える結果となりました。
山下談
「あの体験がなければ、新しいものには見向きもしないで、恐らく自分が十代に聴いて感動した音楽を
追いかけて、オールディーズ少年をやっていただろうな。重要なのはそういうことじゃなくて、
ドゥーワップ好きでもラップはできる、こんな感じかなって思った」
多分、海外レコーディングへの強い欲望ははっぴいえんど時代海外レコーディングで自分の音楽性を確立した
師匠の大瀧詠一氏の影響だと思うのですが、今では情報も発達し、メールでの音楽のやり取りも簡単な時代に
旅行気分でわざわざ行くだけの海外レコーディングからは新しい音楽は生まれないかもしれませんね・・・
Songs/シュガー・ベイブ - 1975.04.25 Fri
[sales data] 1975/4/25 [producer] 大瀧詠一 山下達郎 [member] Sugar Babe are: 山下達郎(vo/g/key/etc) 大貫妙子(vo/key/etc) 村松邦男(vo/g/etc) 鰐川己久男(b) 野口明彦(ds/per) 上原裕(ds/per) 木村真(per) 大瀧詠一(bvo) 布谷文夫(voice) |
今尚、何度も再プレスされ続けられるシティ・ポップスの代表的な名盤ですが
正当に評価されたのは非常に遅く、山下達郎がRide On Timeでメジャーになったことで
ファンが再評価したというより「オレたちひょうきん族」のEDにEPOがカバーした
DOWN TOWNが使われたことで人気に火がつきました。
そのためシュガーベイブの女性ボーカルがEPOさんだと勘違いしている人も数多し(笑)
元々は大貫妙子さんのデモテープ作りに山下達郎氏が協力していたのが頓挫してしまい
逆にシュガーベイブに大貫さんが参加するという形でバンド活動が始まったようです。
その後、大瀧詠一氏に見出されナイアガラ・レーベルの記念すべき第1弾として
リリースされましたが、不思議なほど反応はなくバンドは1年弱で解散。
調べてみるとナイアガラは当時エレックと契約していてエレックは翌年倒産しているため
予算不足でバンドのプロモーションが万全ではなかったことも大きく関係していると
思われます。
達郎談(wikiから抜粋)
「僕はもちろんレコーディング初めてだし、大瀧さんもこれがナイアガラの第一弾だったので
今から考えると気負いがあったんでしょうね。毎日言い合い。とにかくお互い若かったというか。
21から22にかけてのことだから。自分の頭の中で想起した音が出ないので、
僕はそれがストレスになってね。大瀧さんも大瀧さんで色々と自分の思い通りにならない
ストレスっていうのかな、みな微妙に若気の至りというのか、そういうのが重なってましたよね。
スタジオ環境とか、あとは現場のいろいろな、例えばメシ代が出ないとかね。お腹は減るし。
笑い話だけどほんとにそうだったんです。取り巻く環境が自分の思っていたのと程遠くて、
せめて曲だけでも聴いてほしいって、それで『SONGS』ってつけたんですよ。
大瀧さんがトータルサウンドをミックスをしていることで、このアルバムは非常にユニークな、
インディーな音をしている。それは『SONGS』を今日まで生きながらえさせてきた
大きなファクターだと思うんですよ」
(PS)
余談ですが初CD化された時のCBS/SONYのパッケージは変形タイプで初めどうやって
CDを取り出すのか分かりませんでした(苦笑)