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藤田貴大 ×今日マチ子 cocoon 2022.8対談@那覇 後半

©︎今日マチ子

藤田 今回『cocoon』に取り組んでいる中でやっぱり感じたのは、2015年と2022年で、ジェンダーについての社会の認識が大きく変わったということだったんです。それにまつわる差別や格差の問題は依然根深くあるから、とにかく社会の認識をもっと細かく、問題意識を持って変えていかなきゃいけないんだけど、まずは皆がこの現状を少なからず知っているし、当たりまえに話すようになりましたよね。知らない、というのはあり得ない。同時に今話しているようなことを無視して、なにか表現することはもうできないと思うんです。そこで改めて“マユ”という役と向き合って考えていくときに「実は“マユ”は男性だった」ということをテキストや演出で変に意識して描かなくても、あのコミュニティの中にいる“マユ”が持つ存在感だけで、観客には自然とそのニュアンスが伝わるんじゃないかと思ったんですよね。

今日 たしかに。もし“マユ”が女の子であったとしても、心が男の子であるって捉え方もできるし、原作を描いたときとは受け取る側の意識が変わったところはありますね。

藤田 もう、男性性と女性性っていうふうに性別を二元的に捉えることなんてできないし、特に若い世代は性自認と性指向についての理解が普通にできていて当たりまえというか、知らないわけがないですよね。それを踏まえても、あらためて今年読んでみて、今日さんは『cocoon』のことを「古くなってるところがある」と言っていたけど、むしろすんなり読めたんですよね。それが何故なのかというと、“マユ”の存在が大きかった。

今日 舞台がなかったら、自分の中でただ過去の作品になってしまって、「そんなのも描いたな」ってだけになると思うんですけど、舞台を観るたびに毎回掘り返して、「今だったらどう描くか」と考える機会をもらっているんですよね。原作とマームらしさの『cocoon』とはまた別物で――それは「違いがよくない」とか、そういうことでは全然なくて――「自分が今描き直したら、きっとこういうふうになるんだろうな」と、楽しみながら見せてもらっている感じがすごく強いんですよね。

――マームらしさの『cocoon』というのは、今日さんの中ではどんなところに感じているんでしょう?

今日 舞台の中に、必ずボーイッシュキャラが出てくるじゃないですか。原作を描いたときにはそこは考えついてなくて、当時は「女の子っぽい女の子を出そう」って考えだったんです。でも、今だったらそういう子を描くだろうし、もしかしたら先生も男の先生にしちゃうかもしれないなと思うんです。もっと自由に考えられるなって、毎回考える余地をもらってます。

――今年の舞台は、初演や再演と違って、負傷した兵士も描かれています。男性性の描き方も大きく変わったところではありますけど、客席からご覧になっていていかがでしたか?

今日 舞台を観るたびに、「自分もこう描いたような気がするよ」って、勝手に自分の原作を改変して観てるところがあるんです。たとえば戦争じゃない話とかに変わってたら「なんだこれ?」となるとは思うんですけど、芯のところが変わっているわけではないので、毎回「良くしてくれてありがとう」みたいな気持ちになってます。「こういう考え方でこういうふうにしてる」っていうのは観てわかるようになってますし、男の人が出るというのは深みが出るし、私的にはすごく好きですね。

藤田 今年の『cocoon』では、壕やガマで過ごす女学生たちの日々の、すぐ傍にいる兵隊、つまり男性をもっと具体的に描きたかったのは、むしろそれに対して“マユ”がどういうリアクションをとるか見てみたかったからなんです。とにかく男性で溢れかえった閉塞的な空間のなかで「男なんていない」「みんな白い影ぼうしなんだ」って “マユ”は“サン”に言い切るんですよね。それを言うまでにいろんな葛藤があるはずなんですよ。あの日々の中で、たくさんの男性を目の当たりにしながら、自分の中にある「自分とはじゃあ誰なんだ?」という問題が揺さぶられていないと、あの台詞は言えないと思う。というか、言い切れないと思う。漫画だと絵やコマ割りで説明できることが、演劇は身体性と空間性だけでそれを現わさなくちゃいけないから、あの台詞をどうしたら引き出せるか、引き立たせるか、今年はすごく悩んだ気がします。

今日 今年は“マユ”の不思議さというか、特異な感じがすごく出てたなと思います。男性でも女性でもないけど、女の子たちの味方ではありたいという切なさもあって。

藤田 動員されたあとのチャプターを壕とガマの二部構成にしようと構想を練っているときにハッとしたんだけど、その壕とガマの間を“マユ”が皆を引っ張って、繋げていけるなと思ったんですよね。

――最初に病院壕へ動員されたあと、前線が迫ってきたことで南部に撤退することになって、ガマへと移動するシーンですね。そこでは“マユ”が下級生たちを指揮しながら走ってもいます。

藤田 南部撤退の話は、女学生たちの証言だけに限らず、いろんな手記にも書かれていて。ただ、いろんな資料を読み込んでいっても、その当時そこにいなかったらわからないことはたくさんあるわけなんですよね。その“わからない”の部分をどうしていくか。なにで補填できるのか。やっぱりフィクションとしてどう捉えていくかということになったとき、“マユ”を動かしたくなってくるのかもしれない。

今日 でも、“マユ”がいることで、「これは史実を描くだけの話ではないですよ」ということがバシッと示されるので、やっぱり“マユ”を立たせるのは大事なことだと思います。

――対談の前半でも語っていただいたように、作品を描くということは、史実だけを描くというのとは位相が異なることなのだと思います。史実に関しては資料館やさまざまな手記があるなかで、それとは別に、作品を描かなければと思う動機となるものは何なんでしょう?

今日 戦争の少女の話じゃなくて、あるひとりの少女の人生の中で戦争が起こって、その中で友達が死んだってことなんですよね。その人の人生を戦争で語るんじゃなくて、あるひとりの体験の中に戦争があって、そこで大事な友達が死んでしまったというところなんです。いろんな資料にあたったときに、この人たちは戦争で死んでしまったけど、ひとりひとり人生があって、そこに戦争がかぶさってしまって、たまたま戦争で死んでしまったっていうことを絶対強調してあげたいってところから始まっているんです。

藤田 これは今朝、本番前に皆に話したことでもあるんだけど、今日さんにしたって、僕にしたって、『cocoon』の中でもっとひめゆり学徒隊を沖縄戦の主役、あるいは象徴のように描くこともできたはずだと思う。なんて言うか、もっとすっきり、ノイズをなくして。でもその、ごちゃっとしたノイズこそが必要というか。そもそも戦争に主役もなにもないし、名もなき人の死だって無数にあるわけだから、なにかをメインに据えて描こうとするのはちょっと違うんじゃないか、と。調べていっても、一高女以外の女学生たちだって動員されているし、少年兵だってたくさんあの戦争に巻き込まれている。資料館に展示されているものや手記に書かれていることの外側にも、膨大な人生がある。もっと広く見ていくと、史実を追っているだけだと描けない部分があるような気がします。

今日 資料館が伝えるべきなのはもちろん史実なんですけど、表現する人が伝えるのはそれより外の部分だと思うんですよね。そこをちゃんとやっていかないと。

――繭というのは、わたしたちを守ってくれる存在として描かれています。その一方で、そんな“マユ”自身が、「自分で繭を破るんだ」「繭を破ってふ化するんだ」と“サン”に語りかけます。わたしたちを守ってくれる繭の内側と、その外側に広がっている世界ということとについて、おふたりがどんなことを今考えているか、伺いたいです。

今日 原作に関して言うと、学校の仲間たちで世界が完結していて、見たくないものは見えていないのが繭の中の世界なんです。観たくないものは、白い影ぼうしとして処理できる――それが少女時代だとしても、いずれ大人になって、現実を見ていかなきゃいけなくなる。それが繭を破るということだと思うんです。原作の最終回は、“サン”がいきなり男子と付き合っていて、「お前、いままで何だったんだよ」みたいな感じに思われるかもしれないんですけど、それは別に悪いことでもなくて。その後の“サン”にとっては「友達と一緒にいた一時代」ぐらいにしか認識されないけど、男の人が白い影ぼうしに見えていたのはかなり異様な時間だったよっていうことをきちんと描いておきたいということで、繭の中を主体に描いたんです。

藤田 エピローグで、“マユ”が“サン”に「外へ出ていけばいいんだ」って語りかけるんだけど、すごいこと言うなあって思うんですよね。10代という時代から外に出ていくってことにも繋がるんだけど、戦争の時代を生きている人たちにとって外ってどこなんだろうって考えるというか。それは戦争のない時代のことを指しているのか、それとも沖縄の外ということなのか――しかも戦争が終わると沖縄はアメリカになってしまうわけで、そのあとの時代の沖縄に突入していく“サン”にとって、“マユ”から最後にあの言葉を投げかけられるのはものすごい宿題だと思うんですよね。

――「外へ出ていけばいいんだ」て言われても、じゃあ外はどこにあるのか、と。

藤田 ここ数年で読んだ現代の沖縄にまつわるいろんな本を読んでいても、今という時代でさえも沖縄から外に出るというのは大変なことだと思うんですよ。若年層の貧困や労働、根強い家父長制、地元とのしがらみなど、最近もいろんな側面の沖縄は語られるけど、こうツアーしていてもいろんな町で「外への出づらさ」を感じるし、沖縄ならではの問題ももちろんある一方で、沖縄だけに限った話ではないと思うんですよね。僕が生まれ育った町にも、よく似た閉塞感があるし。どうして外への扉が閉ざされていってしまうのか、その背景がよくわかるから。沖縄だけの話にしたくないなあって。そういう今の社会をどうしていくのかということも含めて、“マユ”が語る「外」って言葉や、“夏子先生(中村夏子)”が“サン”に語る「窓」って言葉は、いろんなところに繋がりうる。だからあらためて、『cocoon』は終わらない作品だと思うから、いろんな人に届いて、読んでほしいし観てほしい。

今日 最後に破られることを知ってて、“マユ”があの言葉を言うのはかなり切なかったです。“マユ”はもう、戦死することがなかったとしても、いつか自分が破られてしまう存在だと思ってしまっているところがあるんだろうな、って。自分がやがて必ず傷つくことを前提に生きているのかと思うと、すごく切なくなりました。

――内側と外側ということで言うと、沖縄という土地をモチーフに作品を描いたときに、そこから沖縄に移り住んで、沖縄を描き続ける作家もいるとは思うんです。藤田さんは先日『Light house』という作品を上演されていますけど、おふたりとも沖縄だけを描き続けるわけではなくて、いろんな土地にまつわる話を描き続けています。作品を描くことと、どこか別の土地に出会うことについて、どんなことを感じていますか?

今日 たしかに沖縄を描いてはいるんですけど、『cocoon』はもともと、少女の心を描きたいというのがあって、自分の弱いところをいかに普遍的に読んでもらえるかっていうのが大きかったんですね。『cocoon』を描いた当時、いつまでも少女っぽさが抜けないなってことを感じていて、それに決着をつけたくて描いたところもあるというか。最新刊の『Essential』も、自分がエッセンシャルな人間ではないというか、不必要な人間なのかもしれないと思い込んで生きているところがあるんですけど、そこと向かい合いたくて描いたところもあって。でも、それを表現してみると、同じようなことを皆が心に抱えていて、「その気持ち、わかるよ」と言ってもらえて解決したり、そこから新たな疑問が出てきたり――そういうことの繰り返しなんだと思うんですよね。だから、あんまり場所にこだわっているわけではなくて、そのときそのときで、自分の弱さを誰かにうまく語りかけるみたいなところがあるんだと思います。

藤田 たしかに、今日さんは『cocoon』のあとに『アノネ、』(「アンネの日記」に着想を得た作品)を描いてるけど、そうやってフィールドはスライドしたとしても、そこで描かれているのはいつかの自分に重なるものになっているから、モチーフがスライドしたとしても終着地点は――。

今日 あるひとりの、人の心。

藤田 「#Stayhome」のシリーズも、今日さんがあの頃の自分の後ろ姿を見てる感じがあるんですよね。ショーウィンドウを眺めてるとか、誰かの後ろ姿がよく出てきますけど、他人を描いているようでいつかの自分でもあって、あの視線が切ないし、グッとくるんですよね。

今日 表現者をしていると、自分のくだらない部分ってすごく嫌なんですよ。めっちゃ天才みたいな感じになってみたいと思うんですけど、自分にはそういう部分がなくて、これも普通だし、あれも普通だし、悩みも平々凡々だし――でも、それしかないんですよね。それを突き詰めていくと、『cocoon』みたいに少女っぽさとの闘いだとか、自分が平凡であることにどうやって決着をつけていくのかってところになっていく。だから、あんまり場所には執着しないんです。とはいえ、好きな場所はあったりしますけどね。

藤田 僕は今、場所や土地に積極的に出会いたい時期ですね。そこへ行ったときに、自分の中にある感覚からして全然知らないことがあるというのが、作家であるという以前に普通に面白いなとますます思うようになった気がします。だからまず土地に出会ってみるということをしていきたいんだけど、さっき今日さんが言っていたように、自分もさほど、最終的に言いたいことは変わらないんじゃないかなと思う。自分の中の固定概念のような意識を、新しく出会った“なにか”や“だれか”に揺らしてほしい欲求はあるんだけど、自分の問題意識みたいなものって、どこへ行ったってあんまり揺れないんですよね。ただ、そこで微動してるものは確実にあって期待しているから、やっぱりあえていろんな土地に出会って自分を揺らしたいな、と。さっきのマチネの回も、異様に緊張しましたね。“だれか”の“なにか”を傷つけてしまうかもしれない、って。でも、『cocoon』じゃなくても、もしかしたらここが那覇じゃなくても緊張してたと思うし、内容に引っ張られて緊張するのも変な話だなと思うんですよね。変わらない自分が、とにかく「その仕事をする」ってスタンスでやっていくしかないなと思えたから、ちょっとホッとしている部分もあるんですけど。

――『Essential』の中で、今日さんは東北に足を運び始めたことを書かれてもいました。藤田さんもこの10年は福島とのかかわりを持ち続けて、作品を描いていますけど、ひめゆり学徒隊がそうであるのと同じように、東北もまた「ひとつの悲劇」として描かれやすいところがあります。

今日 私はメロドラマ的に描かれがちな震災の物語があんまり好きじゃないので、悲劇があったあとだけど、普通の人たちの普通のくらしっていうこととして描いておきたいというのがあって、通っているところです。大勢のこどもたちが亡くなった大川小学校でもお話を聞いたんですけど、こどもたちが津波に飲み込まれて亡くなったという悲劇はあるんですけど――そこに問題性があって、それを改善してほしいってことももちろん語ってらしたんですけど――津波がくる一時間前までは普通の生活があって、こどもたちが普通の小学生として存在していたんだってことを知って欲しい、と。そこは私としても「そうだよな」と思うところがあったので、震災と普通の生活を描き留めておきたくて、通っているところです。

藤田 去年の秋にいわきで発表した『moment』という作品をひとりで演じたはせぴー(長谷川洋子)を含めて、震災当時、あの土地にいて10代だった子たちの知り合いも多くて。その皆の話を聞いていると、もはや震災自体に傷ついているのではなくて、そのあとの日々の中で、だれになにを言われたか、大人や親たちが翻弄されている様子を見つめて、どういう歪みを感じて、傷ついたか――僕の役割って、震災を描くというより、むしろそのあとの時間にスポットを当てて、そこで過ごす人々の生活や日常にどこまでフォーカスできるかだと思うんですよね。あらためて、最近考えるんですよ。今年の『cocoon』の後、僕はどういう作品を製作するのかなあ、って。たとえば、夜を知らない、朝しか訪れない世界を描いてみたいとか、考えていたりするんですよね。「震災のあとに親が離婚した」と言うと、震災が理由になっているふうに聞こえるけど、もしかしたら震災がなくても親は離婚していたかもしれない。震災を扱った作品って、震災による事柄をとにかく並べて、なんでもかんでも震災に繋がるように仕向けている作品が多いんだと思うんだけど、僕だったらむしろ反対方向に、震災なんてなかった世界を想像したいんですよね。あってもなくても、その世界はそうなっていたかもしれない、と踏まえて描いた作品のほうがゾッとすると思う。というか、まずはそう考えることが重要な気がするんですよね。さっきの上演を経て、今日さんの話を聞いて、改めて思ったのは、悲劇を悲劇として描くことよりも、悲劇なんてなかった時間のほうにヒントがあるような気がしています。

聞き手・構成:橋本倫史

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