魔法少女まどか☆マギカ 第8話「あたしって、ほんとバカ」
2011/02/28/Mon
「そっか、キュゥべえはだからincubatorなんだ。洒落がきいてて、おもしろい。‥それはさておき、話の感想としては、主役のまどかはさいごに取っておいて、劇的たる体験を重ねるさやかを中心に据えるって構成だけど、さやかが非常に凡庸な、いってみれば、ありきたりな少女として描かれているのに興味がいく。というのも、彼女は、いってよければ、浅慮であって、好きな男のためにがんばったはいいけれど、その恋心実らず、失恋しちゃうっていう、非常によくある類のケースに過ぎないから。たぶん、さやかのような場合は、どんなところでも見受けられる平凡な悲恋なのだと思う。それを魔法という設定で表面的に深刻な悲劇に仕立てあげたところに、本作のドラマの要諦がある。」
「悲劇とはそれが不可避であるからこそ、悲劇である、か。‥ま、ニーチェあたりがきっといっていそうな台詞だけれど、悲劇はそれがどうあろうとも悲劇であるところ、どう足掻いても人間の力ではくつがえせない事態にあるからこそ、悲劇足りえるのでしょうね。悲劇は、それが運命であるからこそ、感動的でもある、ともいえる。‥しかし、はてさて、さやかの悲劇は、悲恋であり、その悲しみはたぶん多くの人の共感を得られるもの。彼女を佳境に持ってきたのは、その意味で、きわめて効果的だったのでしょう。」
「さやかが自身に起ったこの事態を切り抜けられたかどうか、と考えると、これは存外、難しい。あんがい、不可能なんじゃないかなという気もしてくる。‥愛する人が目の前で絶望に沈んでいて、そのとき自分が救える力があるとするならば、その力を行使しないわけがあるだろうか? よもやその力が自身を蝕む毒であろうと、それが好きな相手のためならば、何をためらう必要があるだろう。‥こういう心理であったろうさやかに同情することはたやすい。また、そんな彼女を責めることには良心の呵責を覚える。さらには、彼女が自身の行為をもってして、相手に自分の好意を伝えることははばかり、影になって魔女という悪を倒す正義を為そうと決意するにあたっては、彼女の行動は、その原理は、価値観は、いじましいとすらいえる。‥でも、いじましすぎたかな。あるいは、きわめて、浅はかだ。」
「上條がひどい男というわけではないのよね。彼は単に幸運な男というだけよ。」
「結局、さやかは彼に対して、何もアプローチしてないんだよね。それがいけない。なぜ何もしないんだろう。答えは簡単。勇気がない。‥もちろん、彼女の身に起った事情はわかる。もはや人間ではない。その苦痛は想像することはできない。そして、その苦悩のために愛する彼のもとにいけないという事情は容易に推測できる。‥でも、でもだけど、さやかが上條のもとに行けない理由の核心には、彼は私を愛していない、あるいは、彼は私を愛してくれないし、ことによっては同情すらしてくれないかもしれない、それは耐えられない、っていう、心理があるように、私には思われる。そこは逃げちゃいけないんじゃないかって、無責任な私は、そう思う。まったく、無責任に、だけど、そう思う。」
「悲劇だけど、よくある悲劇なんでしょうね。そして、誰がいけないのかというと、たぶん、さやかがいけないんでしょうね。彼女は完全に自暴自棄になってすらも、上條に会いにはいけなかった。言葉さえ交わせなかった。もともと勇気のなかった彼女の心が、根元からくじけてしまったということなのでしょう。」
「それじゃ、一体、彼女はどうすべきなんだろう? ‥と考えると、私には一つの考えが浮ぶ。それは、この物語の、さやかに限定した視点からは、さやかが上條を殺すことが、当然たる帰結なんじゃないか、というもの。‥ただ、この言い回しは、誤解されるかもしれないかなと思う。でも、あえて、このまま、残しておこう。」
「どうしても生きる喜びが手に入れられない人が、殺人でそれを得られるならば、殺してもいいんじゃないか、か。‥と、これはニーチェね。なんだかどうもこの作品を見ていると、ニーチェが頭をよぎるのよね。はてさて、それはなぜかしら。」
『だが、ニーチェはそれを問い、そして究極的には、肯定的な答えを出したのだと思う。だからニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」と言ったのではない。彼は、「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。』
永井均「これがニーチェだ」
→なぜ人を殺してはいけないか
「悲劇とはそれが不可避であるからこそ、悲劇である、か。‥ま、ニーチェあたりがきっといっていそうな台詞だけれど、悲劇はそれがどうあろうとも悲劇であるところ、どう足掻いても人間の力ではくつがえせない事態にあるからこそ、悲劇足りえるのでしょうね。悲劇は、それが運命であるからこそ、感動的でもある、ともいえる。‥しかし、はてさて、さやかの悲劇は、悲恋であり、その悲しみはたぶん多くの人の共感を得られるもの。彼女を佳境に持ってきたのは、その意味で、きわめて効果的だったのでしょう。」
「さやかが自身に起ったこの事態を切り抜けられたかどうか、と考えると、これは存外、難しい。あんがい、不可能なんじゃないかなという気もしてくる。‥愛する人が目の前で絶望に沈んでいて、そのとき自分が救える力があるとするならば、その力を行使しないわけがあるだろうか? よもやその力が自身を蝕む毒であろうと、それが好きな相手のためならば、何をためらう必要があるだろう。‥こういう心理であったろうさやかに同情することはたやすい。また、そんな彼女を責めることには良心の呵責を覚える。さらには、彼女が自身の行為をもってして、相手に自分の好意を伝えることははばかり、影になって魔女という悪を倒す正義を為そうと決意するにあたっては、彼女の行動は、その原理は、価値観は、いじましいとすらいえる。‥でも、いじましすぎたかな。あるいは、きわめて、浅はかだ。」
「上條がひどい男というわけではないのよね。彼は単に幸運な男というだけよ。」
「結局、さやかは彼に対して、何もアプローチしてないんだよね。それがいけない。なぜ何もしないんだろう。答えは簡単。勇気がない。‥もちろん、彼女の身に起った事情はわかる。もはや人間ではない。その苦痛は想像することはできない。そして、その苦悩のために愛する彼のもとにいけないという事情は容易に推測できる。‥でも、でもだけど、さやかが上條のもとに行けない理由の核心には、彼は私を愛していない、あるいは、彼は私を愛してくれないし、ことによっては同情すらしてくれないかもしれない、それは耐えられない、っていう、心理があるように、私には思われる。そこは逃げちゃいけないんじゃないかって、無責任な私は、そう思う。まったく、無責任に、だけど、そう思う。」
「悲劇だけど、よくある悲劇なんでしょうね。そして、誰がいけないのかというと、たぶん、さやかがいけないんでしょうね。彼女は完全に自暴自棄になってすらも、上條に会いにはいけなかった。言葉さえ交わせなかった。もともと勇気のなかった彼女の心が、根元からくじけてしまったということなのでしょう。」
「それじゃ、一体、彼女はどうすべきなんだろう? ‥と考えると、私には一つの考えが浮ぶ。それは、この物語の、さやかに限定した視点からは、さやかが上條を殺すことが、当然たる帰結なんじゃないか、というもの。‥ただ、この言い回しは、誤解されるかもしれないかなと思う。でも、あえて、このまま、残しておこう。」
「どうしても生きる喜びが手に入れられない人が、殺人でそれを得られるならば、殺してもいいんじゃないか、か。‥と、これはニーチェね。なんだかどうもこの作品を見ていると、ニーチェが頭をよぎるのよね。はてさて、それはなぜかしら。」
『だが、ニーチェはそれを問い、そして究極的には、肯定的な答えを出したのだと思う。だからニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」と言ったのではない。彼は、「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。』
永井均「これがニーチェだ」
→なぜ人を殺してはいけないか