『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか 第二章「ミリタリー篇」
(この連載の初めから読む)
SFのサブジャンルにミリタリーSFというものがある。
堺三保氏はミリタリーSFの定義を論じる中で、次の点を重要な条件として挙げている。
条件により強弱はあるものの、『宇宙戦艦ヤマト』はこれらをほぼ満たしている。それまでのアニメーション作品には珍しく、『宇宙戦艦ヤマト』はミリタリーSFだったのだ。
■『宇宙戦艦ヤマト』が拓いた道
ヤマト以前のテレビアニメでも、人類を襲う○○星人や○○帝国といった類いが登場したことはある。だがそれは、司令官や将軍と呼ばれる幹部が毎回一体ないし二体程度の戦闘獣とかを送り込んで主役メカに挑むような、およそ軍隊とも戦争ともいえないものだった(それはそれで面白いのだが)。
SFの外に目を向けても、戦争物のテレビアニメは珍しかった。ヤマト以前となると『アニメンタリー 決断』や『0戦はやと』くらいだろうか。主人公が軍人ということであれば『のらくろ』も挙げられるかもしれないが、あのギャグアニメを戦争物と捉える人はいないだろう。
『宇宙戦艦ヤマト』はミリタリーSFの地平を切り拓いたアニメと云える。ヤマトがミリタリー色のある作品になったのは、戦記マンガを得意とする松本零士氏の参画が寄与したのかもしれない。
ミリタリーSFの魅力はいろいろある。現実の戦争を取り上げると「史実」が足枷になりかねないが、ミリタリーSFであれば架空の戦争、架空の軍隊、架空の戦場を舞台に、作り手の思いを強く打ち出したり、現実では描きにくい(戦争のある面を極限まで突き詰めるような)展開を含めることができる。このような魅力の存在を視聴者に知らしめたのが、『宇宙戦艦ヤマト』だった。
その意味で、ガミラスに勝利した古代の独白の場面は、やはり『宇宙戦艦ヤマト』の大きな見どころの一つだったと思う。
勝てば嬉しい、負ければ悔しいという単純な感情に基づく作品が多い中、ヤマトの攻撃で廃墟と化したガミラスの都市を見下ろしながら、古代進はこうつぶやいた。
「地球の人もガミラスの人も幸せに生きたいという気持ちに変わりはない。なのに、我々は戦ってしまった。……我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛し合うことだった。勝利か……くそでも食らえ!」
ここで描かれたのは、勝者の虚しさだった。
このセリフに至るまでに、『宇宙戦艦ヤマト』は古代進がたった一人の肉親である兄・守の戦死の報に触れるところから物語を始めるとともに、民間人も含めた戦争の犠牲や、進が戦災孤児であることを描いていた。それら戦争物としての積み重ねがあるから、このセリフが観る者の心に響くのである。
■道を進む『宇宙戦艦ヤマト2199』
したがって、『宇宙戦艦ヤマト』をリメイクするときにミリタリー色を強めるのは当然だ。『宇宙戦艦ヤマト2199』の作り手も受け手も、『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)がミリタリーSFという路線を切り拓き、その延長線上で『機動戦士ガンダム』(1979年)や『太陽の牙ダグラム』(1981年)や『装甲騎兵ボトムズ』(1983年)等が生まれた歴史を経験し、ミリタリー色の強まりを受け入れてきたのだから。
2199のミリタリー色については語るまでもないだろう。
その作風を形づくるにあたって、スタッフは海上幕僚監部に取材協力を仰ぎ、乗組員の敬礼や用語・口調にもリアリティを追求した。時代設定は2199年なのに、なぜ21世紀初頭の自衛隊にならうのか疑問に思う人がいるかもしれないが、2199は古代たちの属する組織を「国連宇宙軍」とすることで、現在の国際社会の枠組みが23世紀末まで存続したのであろうことを示唆している。
2199は、戦争というものが愚かな行き違いから起こることも描き、自分たちに理があると思うことですら、戦争では信じられないことにも言及した。
戦争状態にあっては、人種や民族の差別が悲しい形で顕在化することも、老兵や少年兵すら駆り出さねばならなくなる国家の末路をも示した。
堺三保氏が「つまりミリタリーSFとは、戦争を肯定するにせよ否定するにせよ、戦争という行為そのものを題材としてとらえ、作者自身の戦争観をさらけ出している作品のこと」と述べたとおり、2199は作り手の戦争観をさらけ出し、もって我々受け手の戦争観に内省を迫った。
『宇宙戦艦ヤマト』では古代が一人で担った役割を、2199は古代と山本玲の二人に担わせたことも、戦争をより多面的に描く上で功を奏した。
『宇宙戦艦ヤマト』第13話「急げヤマト!!地球は病んでいる!!」では、ガミラス人捕虜に憎しみをぶつけるのも助けようとするのも共に古代進だったが、2199の第10話「大宇宙の墓場」では古代と同じく天涯孤独の山本がガミラス人に憎しみをぶつける一方、古代は冷静に接しようと努めており、人間の多面性を目に見える形で示していた。
戦闘シーンの工夫も2199ならではだろう。
2199では宇宙という立体的な空間を存分に活かし、円筒形や十字型の陣形に展開したガミラス艦隊がヤマトを襲った。劇中で陣形に関する詳しい説明はないものの、映像を見ればドメルの指揮する艦隊はひと味違うことが判るようになっていた。
さすがというしかない。
■『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』とミリタリー
そこでだ。『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のリメイクでありつつも、かつ『宇宙戦艦ヤマト2199』の続編でもある『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』もまた、ミリタリー物であることを前面に出してくると期待するのは自然なことだろう。そう期待した人は多かったに違いない。
ところが、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の第一章「嚆矢篇」は――というか第1話は、何だかおかしな始まり方だった。
どことも知れぬ宙域に集結した地球とガミラスの連合艦隊が、どことも知れぬ惑星を占拠したガトランティス艦隊と交戦する。ガトランティス艦隊はこれといった陣形も取らず、ふわふわ浮いているだけ。以前の記事でT.Nさんが「これなら拡散波動砲のように広域を照射できる艦首砲一発で全てを薙ぎ倒せるでしょう」と指摘したとおり、ガトランティス艦隊はアンドロメダが拡散波動砲を撃ってくれるのをただ待っているかのようだった。対する地球・ガミラス連合艦隊も、ぼんやりと集まってただ前進するだけ。戦闘の仕方になんの工夫もないのである。
いや、工夫がないと云っては失礼かもしれない。これが工夫だったのだから。
羽原信義監督は、艦隊の描き方についてこう述べている。
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やっぱり物量を見せてあげるのがいいのかなと考えました。「2199」の時は、わりと艦隊の並び方とかきちんとやっていて、今回どうしようかなと思ったんですけど、そこはなるべくケレン味と迫力が出るようにしました。
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艦艇やミサイルをたくさん並べるのが2202の工夫だったのだ。
加えて、両艦隊が交戦するさなか、ガトランティス艦隊の奥から巨大な十字架のような岩塊が出現する。他の空母や駆逐艦をはるかに凌駕する途方もない岩塊が砕け散ると、その岩塊はほとんどただの岩だったようで、中からはやや大型の戦艦が現れる。
艦隊戦を交え、ガトランティス側も多くの艦艇を失っていたというのに、なぜ、味方の被害が甚大になるまで大戦艦が岩をまとって後方に隠れていたのかは判らない。戦艦大和が機動部隊の後ろに控え、結局大和が活躍する前に機動部隊が壊滅してしまったミッドウェー海戦の大敗北を持ち出すまでもなく、いくらなんでもそれはないだろうと云いたくなる展開だ。
しかも、ぼんやりと集まってただ前進していたガミラス艦隊は、案の定大戦艦の雷撃旋回砲の一撃で全滅。一方、ふわふわ浮いていただけのガトランティス艦隊もアンドロメダの拡散波動砲の一撃で全滅。艦隊戦の醍醐味がまるでない結末を迎えるのである。
2199でリアリティを追い求めた乗組員の敬礼や用語・口調も、2202では後退した。
作り手の戦争観はよく判らなかったし、受け手に戦争に対する内省を迫ることもなかった。
ここには、作り手の原作の捉え方も関係していよう。
2199と2202それぞれの原作、すなわち『宇宙戦艦ヤマト』と『さらば宇宙戦艦ヤマト』の違いに関して、福井晴敏氏はこう述べている。
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現在は、我々は平和に暮らしているけど、受験戦争をはじめ他者を押しのけないと勝てない、生き残れないという状況は続いている。
「戦争で全滅すれすれまで行った我々というのは、もっとそんな争いではなくて、愛し合い、分かり合わないといけないんじゃないか?」という思いが込められた作品が、最初に作られた『宇宙戦艦ヤマト』という作品なんですよね。
それに続いた『さらば宇宙戦艦ヤマト』は、劇中では1年しか経っていないんですが、ガミラスとの戦いの後の状況を「戦後」という状態を描くことで、まさにあの時代を描こうとした。
それは、これから70年代が終わった80年代になって、バブル退廃期がいよいよ始まるというタイミングで、「このままで本当に良かったのか?」と思っている状況ですよね。
そして、そこに巨大な彗星で移動する敵が現れて、強大な力によって「グローバリズムに従え」と言ってくる。それに対して、「従いたくない。人間性を失うくらいなら死にます」と敵に突っ込んで死んでいったという凄い話を描いている。
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「あの戦争とは一体なんだったのだろうか?」ということを描こうとしたのが『宇宙戦艦ヤマト』、他方「戦後」を描こうとしたのが『さらば宇宙戦艦ヤマト』というわけだ。「グローバリズムに従え」云々はともかく、両作を観た人は誰しもほぼ同じように感じたことだろう。
しかし、戦後の時代だからこそ、いまさらながらの「特攻」の描き方が物議を醸し、作り手の戦争観が問われる事態を招いたのが『さらば宇宙戦艦ヤマト』だったのではないか。
それなのに、『宇宙戦艦ヤマト』はあの戦争とはなんだったのかを描こうとしたけれど、『さらば――』は戦後を描こうとしたと整理してしまうことで、『さらば――』のリメイクに取り組む福井氏から戦争というテーマが抜け落ちてしまったのではないか。
だから、軍人の暴走やそれを容認してしまう高官等、大日本帝国の失敗に類似したエピソードを挿入しながら、そのエピソードとの距離感を取ることが(批判的な観点を加えたり、2199の第11話~第13話のように現代に描く意義を掘り下げたりといったことが)できなかったのではないか。
本作の作り手は、戦争を、アクションを見せるための舞台装置くらいにしか考えていないのかもしれない。
なお、福井氏がどういう思いで「グローバリズムに従え」とか「バブル退廃期」と云っているのか私にはよく判らない。
1980年代といえば、日本が経済力で世界を圧倒した時代だ。世界時価総額ランキングの上位50社中32社を日本企業が占め、東京の不動産を担保にすればアメリカ全土が買えるといわれ、ハリウッドでは米国人が日本人の習慣に合わせようと苦労する映画や、恐るべき陰謀の糸を引くのは日本企業だったという映画が作られ、そんなハリウッドの映画人を嘲笑うかのように日本企業がハリウッドの大手映画会社を買収してしまい、米国では日本企業の強さが盛んに研究された。そんな中、誰が誰に向かって「グローバリズムに従え」と云ったというのか。
「バブル退廃期」というと、まるで2202が作られた2010年代は退廃していないかのようだが、何をもってして80年代が退廃していたと主張するのかもよく判らない。2010年代になっても人気を博すガンダムシリーズも『ちびまる子ちゃん』も『クレヨンしんちゃん』もこの頃に誕生したのだが、そんなに退廃しているだろうか。
■『ヤマト』と『ガンダム』
私は先に、『宇宙戦艦ヤマト』がミリタリーSFという路線を切り拓き、その延長線上に『機動戦士ガンダム』等が生まれたと書いたが、福井氏の次のインタビューを読むと、どうやら氏はヤマトとガンダムを同一線上には捉えていないのかもしれない。
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『ガンダム』の場合は、全てにおいてどこか辻褄を合わせないといけない。
宇宙世紀という世界に生きている人間ならこうであろうという部分まで突き詰めないといけないというのがあります。
『ヤマト』に関しては、そんなところを突き詰めていくと、「なぜ、海で運用する艦船の形状にこだわっているんですか?」と言われた場合に、その説明は何も無いわけです。
それこそ、『ガンダム』の場合は「2本の角は索敵用のアンテナで、眼が2つあると遠距離と近距離の距離感を両方捉えることができる」というようなメカニックのリアリティのある理屈があるんですが、『ヤマト』はそもそもそういう発想で作られていない。なのでそうした部分を突き詰めてデザインや世界観を先鋭化させようとすると、『ガンダム』よりも劣ったものになってしまう。
だから、別のところで戦わないとならない。
『ヤマト』に関しては、「昔々、あるところに……」というくらいのザックリとした感じになるけれど、その代わりにそうした語り口だからこそできる「大きな話」がある。
「大きな話」というのは、大振りということではなく、子細を見ると俺たちが今生きている世界がそこに投影されているんだという豪華さを見せることができる。
それこそ、何万隻もの艦隊戦とか。そこが『ヤマト』の肝かなと。
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『機動戦士ガンダム』にも、海で運用する艦船に模して艦体の"上面"にだけ艦橋が存在する宇宙戦艦マゼランや宇宙巡洋艦サラミスが登場するし、そもそも「ガンダムは、なぜ人型の形状にこだわっているんですか?」と云われたら、スポンサーからの要請ですとしか答えようがないと思うのだが……。
「2本の角は索敵用のアンテナで、眼が2つあると遠距離と近距離の距離感を両方捉えることができる」などという後づけのお話でも「リアリティのある理屈」と受け止め、そういう発想で作られていたと信じられるほど、福井氏はガンダム関連の情報に浸りっぱなしで育ったのだろう。
ならば、ヤマトにおいてもどんどん突き詰めてデザインや世界観を先鋭化させて商売すればよかろうと思うのだが、それをやってもヤマトはガンダムよりも劣ったものになると福井氏の中で決めつけられているのが、ヤマトもガンダムも好きな身としては残念だ。
たとえば、『機動戦士ガンダム』がロボットアニメとして画期的だった点の一つに、量産型の敵メカを配したことがある。
それまでのロボットアニメは、『マジンガーZ』(1972年)の敵メカの名が「機械獣」だったように、『ウルトラマン』に登場する怪獣のロボット版だった。だから『ウルトラマン』の怪獣のように毎回姿形の異なるロボットが現れ、そのロボット独自の必殺技で主役メカを苦しめた。『マジンガーZ』第1話の敵が、目からミサイルを発射するガラダK7と、二つの首から光線を放つダブラスM2だったように。
だからこそ、『機動戦士ガンダム』の第1話を見た私は腰が抜けるほど驚いた。目から光線もミサイルも出さず、全身緑色の地味な敵メカというだけでも珍しいのに、同じデザインのメカが三体も現れたのだ。それまでの"常識"では、敵メカが三体も現れるのであれば、翼竜型のメカザウルス・バドと、トリケラトプスのようなメカザウルス・ザイと、アパトサウルスのようなメカザウルス・ズーが一斉にゲッターロボを襲ったように、それぞれ個性的な形状をしているものだった。だから同じデザインのメカがいくつも現れることにたいへん驚いた。しかも第1話だけでなく、話数が進んでもこのメカはずっと出続けたのだ。
けれども、ロボットアニメの系譜だけを見ると驚くべきこの行いも、『機動戦士ガンダム』が『宇宙戦艦ヤマト』を研究して作られたことを思えば納得だ。
『宇宙戦艦ヤマト』の第1話には、同じデザインで全体が緑色のガミラス艦が複数現れて、地球艦隊を完膚なきまでに叩きのめしていたのだから。同型のガミラス艦はその後も登場し続けた。
軍艦なんだから同型艦が複数出るなんて当たり前というなかれ。ロボットアニメに限らず、ヤマト以前は、和製サンダーバードともいえる『ゼロテスター』(1973年)でさえ、毎回異なる特徴を持つ敵が一体か二体ずつ登場していた。敵"怪獣"の独自性を軸にしてストーリーが組み立てられていたからだ。『宇宙戦艦ヤマト』がいかに画期的だったか、『機動戦士ガンダム』がいかに『宇宙戦艦ヤマト』のフォーマットを忠実になぞったかが判る。
福井氏は「だから、別のところで戦わないとならない」と云って、本来は近しい関係にあるヤマトとガンダムを別物扱いしてしまった。「『昔々、あるところに……』というくらいのザックリとした感じ」といえば誰もがご存知『スター・ウォーズ』のことだが、福井氏はヤマトをガンダムよりも『スター・ウォーズ』に近いものとして捉えていたのだろうか。その結果が何万隻もの艦隊戦なのか。ミリタリー色なんて消し飛ぶはずだ。
ちなみに、スター・ウォーズシリーズはミリタリーSFになることを慎重に避けていた。工夫を凝らして設定を作り込むことで、戦争物にならないようにしてあるのだ。
2202はこの周到さが足りなくて、外形的にはミリタリーSFのままなのに内実が伴っていないから、観客は期待ギャップを感じてしまう。宇宙戦艦ヤマトの名を冠した作品が、「昔々、あるところに……」というくらいのザックリとした感じでよいと考えているのなら、そのザックリ感を受け手と共有するための緻密な戦略を考案するべきだった。
おそらく、ザックリとした感じでよいという考えの中には、「動機オーライ主義」で作劇しても許されるという思いもあるのではないかと私は推察している。この「動機オーライ主義」については、後で触れるとしよう。
同じインタビューで福井氏は『宇宙戦艦ヤマト2202』と『機動戦士ガンダムNT』に触れて「同時期に関わっていた作品なので、同じものをやっていてもつまらないという意識はあったと思います」とも語っているから、福井氏が同時期にヤマトとガンダムに関わっていたことも、2202の方向性に影響したのかもしれない。
ミリタリー物の雄であった『宇宙戦艦ヤマト』、その魅力をさらに推し進めた『宇宙戦艦ヤマト2199』。なのに『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』はそこから後退している。これでは『宇宙戦艦ヤマト』のファンは、ましてや『宇宙戦艦ヤマト2199』のファンは楽しめない。
2202が回を重ねるたび、私はそんなことを考えていた。
だが、それはまだ序の口だった。終盤に向けて、2202は驚くべき展開を見せることになる。
(つづく)
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第二章「発進篇」』 [あ行][テレビ]
第3話『衝撃・コスモリバースの遺産』
第4話『未知への発進!』
第5話『激突!ヤマト対アンドロメダ』
第6話『死闘・第十一番惑星』
監督/羽原信義 副監督/小林誠 原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏 脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 麦人 千葉繁 神谷浩史 田中理恵 石塚運昇 東地宏樹 江原正士 赤羽根健治
日本公開/2017年6月24日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]
SFのサブジャンルにミリタリーSFというものがある。
堺三保氏はミリタリーSFの定義を論じる中で、次の点を重要な条件として挙げている。
(1) 主人公が軍人である。
(2) 戦争が、舞台設定であると同時に、物語のテーマでもある。
(3) 戦闘の詳細な描写があり、戦術や戦略に関する専門的かつ技術的な言及がある。
(4) 舞台は未来かつ地球外のいずこかである。
(2) 戦争が、舞台設定であると同時に、物語のテーマでもある。
(3) 戦闘の詳細な描写があり、戦術や戦略に関する専門的かつ技術的な言及がある。
(4) 舞台は未来かつ地球外のいずこかである。
条件により強弱はあるものの、『宇宙戦艦ヤマト』はこれらをほぼ満たしている。それまでのアニメーション作品には珍しく、『宇宙戦艦ヤマト』はミリタリーSFだったのだ。
■『宇宙戦艦ヤマト』が拓いた道
ヤマト以前のテレビアニメでも、人類を襲う○○星人や○○帝国といった類いが登場したことはある。だがそれは、司令官や将軍と呼ばれる幹部が毎回一体ないし二体程度の戦闘獣とかを送り込んで主役メカに挑むような、およそ軍隊とも戦争ともいえないものだった(それはそれで面白いのだが)。
SFの外に目を向けても、戦争物のテレビアニメは珍しかった。ヤマト以前となると『アニメンタリー 決断』や『0戦はやと』くらいだろうか。主人公が軍人ということであれば『のらくろ』も挙げられるかもしれないが、あのギャグアニメを戦争物と捉える人はいないだろう。
『宇宙戦艦ヤマト』はミリタリーSFの地平を切り拓いたアニメと云える。ヤマトがミリタリー色のある作品になったのは、戦記マンガを得意とする松本零士氏の参画が寄与したのかもしれない。
ミリタリーSFの魅力はいろいろある。現実の戦争を取り上げると「史実」が足枷になりかねないが、ミリタリーSFであれば架空の戦争、架空の軍隊、架空の戦場を舞台に、作り手の思いを強く打ち出したり、現実では描きにくい(戦争のある面を極限まで突き詰めるような)展開を含めることができる。このような魅力の存在を視聴者に知らしめたのが、『宇宙戦艦ヤマト』だった。
その意味で、ガミラスに勝利した古代の独白の場面は、やはり『宇宙戦艦ヤマト』の大きな見どころの一つだったと思う。
勝てば嬉しい、負ければ悔しいという単純な感情に基づく作品が多い中、ヤマトの攻撃で廃墟と化したガミラスの都市を見下ろしながら、古代進はこうつぶやいた。
「地球の人もガミラスの人も幸せに生きたいという気持ちに変わりはない。なのに、我々は戦ってしまった。……我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛し合うことだった。勝利か……くそでも食らえ!」
ここで描かれたのは、勝者の虚しさだった。
このセリフに至るまでに、『宇宙戦艦ヤマト』は古代進がたった一人の肉親である兄・守の戦死の報に触れるところから物語を始めるとともに、民間人も含めた戦争の犠牲や、進が戦災孤児であることを描いていた。それら戦争物としての積み重ねがあるから、このセリフが観る者の心に響くのである。
■道を進む『宇宙戦艦ヤマト2199』
したがって、『宇宙戦艦ヤマト』をリメイクするときにミリタリー色を強めるのは当然だ。『宇宙戦艦ヤマト2199』の作り手も受け手も、『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)がミリタリーSFという路線を切り拓き、その延長線上で『機動戦士ガンダム』(1979年)や『太陽の牙ダグラム』(1981年)や『装甲騎兵ボトムズ』(1983年)等が生まれた歴史を経験し、ミリタリー色の強まりを受け入れてきたのだから。
2199のミリタリー色については語るまでもないだろう。
その作風を形づくるにあたって、スタッフは海上幕僚監部に取材協力を仰ぎ、乗組員の敬礼や用語・口調にもリアリティを追求した。時代設定は2199年なのに、なぜ21世紀初頭の自衛隊にならうのか疑問に思う人がいるかもしれないが、2199は古代たちの属する組織を「国連宇宙軍」とすることで、現在の国際社会の枠組みが23世紀末まで存続したのであろうことを示唆している。
2199は、戦争というものが愚かな行き違いから起こることも描き、自分たちに理があると思うことですら、戦争では信じられないことにも言及した。
戦争状態にあっては、人種や民族の差別が悲しい形で顕在化することも、老兵や少年兵すら駆り出さねばならなくなる国家の末路をも示した。
堺三保氏が「つまりミリタリーSFとは、戦争を肯定するにせよ否定するにせよ、戦争という行為そのものを題材としてとらえ、作者自身の戦争観をさらけ出している作品のこと」と述べたとおり、2199は作り手の戦争観をさらけ出し、もって我々受け手の戦争観に内省を迫った。
『宇宙戦艦ヤマト』では古代が一人で担った役割を、2199は古代と山本玲の二人に担わせたことも、戦争をより多面的に描く上で功を奏した。
『宇宙戦艦ヤマト』第13話「急げヤマト!!地球は病んでいる!!」では、ガミラス人捕虜に憎しみをぶつけるのも助けようとするのも共に古代進だったが、2199の第10話「大宇宙の墓場」では古代と同じく天涯孤独の山本がガミラス人に憎しみをぶつける一方、古代は冷静に接しようと努めており、人間の多面性を目に見える形で示していた。
戦闘シーンの工夫も2199ならではだろう。
2199では宇宙という立体的な空間を存分に活かし、円筒形や十字型の陣形に展開したガミラス艦隊がヤマトを襲った。劇中で陣形に関する詳しい説明はないものの、映像を見ればドメルの指揮する艦隊はひと味違うことが判るようになっていた。
さすがというしかない。
■『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』とミリタリー
そこでだ。『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のリメイクでありつつも、かつ『宇宙戦艦ヤマト2199』の続編でもある『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』もまた、ミリタリー物であることを前面に出してくると期待するのは自然なことだろう。そう期待した人は多かったに違いない。
ところが、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の第一章「嚆矢篇」は――というか第1話は、何だかおかしな始まり方だった。
どことも知れぬ宙域に集結した地球とガミラスの連合艦隊が、どことも知れぬ惑星を占拠したガトランティス艦隊と交戦する。ガトランティス艦隊はこれといった陣形も取らず、ふわふわ浮いているだけ。以前の記事でT.Nさんが「これなら拡散波動砲のように広域を照射できる艦首砲一発で全てを薙ぎ倒せるでしょう」と指摘したとおり、ガトランティス艦隊はアンドロメダが拡散波動砲を撃ってくれるのをただ待っているかのようだった。対する地球・ガミラス連合艦隊も、ぼんやりと集まってただ前進するだけ。戦闘の仕方になんの工夫もないのである。
いや、工夫がないと云っては失礼かもしれない。これが工夫だったのだから。
羽原信義監督は、艦隊の描き方についてこう述べている。
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やっぱり物量を見せてあげるのがいいのかなと考えました。「2199」の時は、わりと艦隊の並び方とかきちんとやっていて、今回どうしようかなと思ったんですけど、そこはなるべくケレン味と迫力が出るようにしました。
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艦艇やミサイルをたくさん並べるのが2202の工夫だったのだ。
加えて、両艦隊が交戦するさなか、ガトランティス艦隊の奥から巨大な十字架のような岩塊が出現する。他の空母や駆逐艦をはるかに凌駕する途方もない岩塊が砕け散ると、その岩塊はほとんどただの岩だったようで、中からはやや大型の戦艦が現れる。
艦隊戦を交え、ガトランティス側も多くの艦艇を失っていたというのに、なぜ、味方の被害が甚大になるまで大戦艦が岩をまとって後方に隠れていたのかは判らない。戦艦大和が機動部隊の後ろに控え、結局大和が活躍する前に機動部隊が壊滅してしまったミッドウェー海戦の大敗北を持ち出すまでもなく、いくらなんでもそれはないだろうと云いたくなる展開だ。
しかも、ぼんやりと集まってただ前進していたガミラス艦隊は、案の定大戦艦の雷撃旋回砲の一撃で全滅。一方、ふわふわ浮いていただけのガトランティス艦隊もアンドロメダの拡散波動砲の一撃で全滅。艦隊戦の醍醐味がまるでない結末を迎えるのである。
2199でリアリティを追い求めた乗組員の敬礼や用語・口調も、2202では後退した。
作り手の戦争観はよく判らなかったし、受け手に戦争に対する内省を迫ることもなかった。
ここには、作り手の原作の捉え方も関係していよう。
2199と2202それぞれの原作、すなわち『宇宙戦艦ヤマト』と『さらば宇宙戦艦ヤマト』の違いに関して、福井晴敏氏はこう述べている。
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現在は、我々は平和に暮らしているけど、受験戦争をはじめ他者を押しのけないと勝てない、生き残れないという状況は続いている。
「戦争で全滅すれすれまで行った我々というのは、もっとそんな争いではなくて、愛し合い、分かり合わないといけないんじゃないか?」という思いが込められた作品が、最初に作られた『宇宙戦艦ヤマト』という作品なんですよね。
それに続いた『さらば宇宙戦艦ヤマト』は、劇中では1年しか経っていないんですが、ガミラスとの戦いの後の状況を「戦後」という状態を描くことで、まさにあの時代を描こうとした。
それは、これから70年代が終わった80年代になって、バブル退廃期がいよいよ始まるというタイミングで、「このままで本当に良かったのか?」と思っている状況ですよね。
そして、そこに巨大な彗星で移動する敵が現れて、強大な力によって「グローバリズムに従え」と言ってくる。それに対して、「従いたくない。人間性を失うくらいなら死にます」と敵に突っ込んで死んでいったという凄い話を描いている。
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「あの戦争とは一体なんだったのだろうか?」ということを描こうとしたのが『宇宙戦艦ヤマト』、他方「戦後」を描こうとしたのが『さらば宇宙戦艦ヤマト』というわけだ。「グローバリズムに従え」云々はともかく、両作を観た人は誰しもほぼ同じように感じたことだろう。
しかし、戦後の時代だからこそ、いまさらながらの「特攻」の描き方が物議を醸し、作り手の戦争観が問われる事態を招いたのが『さらば宇宙戦艦ヤマト』だったのではないか。
それなのに、『宇宙戦艦ヤマト』はあの戦争とはなんだったのかを描こうとしたけれど、『さらば――』は戦後を描こうとしたと整理してしまうことで、『さらば――』のリメイクに取り組む福井氏から戦争というテーマが抜け落ちてしまったのではないか。
だから、軍人の暴走やそれを容認してしまう高官等、大日本帝国の失敗に類似したエピソードを挿入しながら、そのエピソードとの距離感を取ることが(批判的な観点を加えたり、2199の第11話~第13話のように現代に描く意義を掘り下げたりといったことが)できなかったのではないか。
本作の作り手は、戦争を、アクションを見せるための舞台装置くらいにしか考えていないのかもしれない。
なお、福井氏がどういう思いで「グローバリズムに従え」とか「バブル退廃期」と云っているのか私にはよく判らない。
1980年代といえば、日本が経済力で世界を圧倒した時代だ。世界時価総額ランキングの上位50社中32社を日本企業が占め、東京の不動産を担保にすればアメリカ全土が買えるといわれ、ハリウッドでは米国人が日本人の習慣に合わせようと苦労する映画や、恐るべき陰謀の糸を引くのは日本企業だったという映画が作られ、そんなハリウッドの映画人を嘲笑うかのように日本企業がハリウッドの大手映画会社を買収してしまい、米国では日本企業の強さが盛んに研究された。そんな中、誰が誰に向かって「グローバリズムに従え」と云ったというのか。
「バブル退廃期」というと、まるで2202が作られた2010年代は退廃していないかのようだが、何をもってして80年代が退廃していたと主張するのかもよく判らない。2010年代になっても人気を博すガンダムシリーズも『ちびまる子ちゃん』も『クレヨンしんちゃん』もこの頃に誕生したのだが、そんなに退廃しているだろうか。
■『ヤマト』と『ガンダム』
私は先に、『宇宙戦艦ヤマト』がミリタリーSFという路線を切り拓き、その延長線上に『機動戦士ガンダム』等が生まれたと書いたが、福井氏の次のインタビューを読むと、どうやら氏はヤマトとガンダムを同一線上には捉えていないのかもしれない。
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『ガンダム』の場合は、全てにおいてどこか辻褄を合わせないといけない。
宇宙世紀という世界に生きている人間ならこうであろうという部分まで突き詰めないといけないというのがあります。
『ヤマト』に関しては、そんなところを突き詰めていくと、「なぜ、海で運用する艦船の形状にこだわっているんですか?」と言われた場合に、その説明は何も無いわけです。
それこそ、『ガンダム』の場合は「2本の角は索敵用のアンテナで、眼が2つあると遠距離と近距離の距離感を両方捉えることができる」というようなメカニックのリアリティのある理屈があるんですが、『ヤマト』はそもそもそういう発想で作られていない。なのでそうした部分を突き詰めてデザインや世界観を先鋭化させようとすると、『ガンダム』よりも劣ったものになってしまう。
だから、別のところで戦わないとならない。
『ヤマト』に関しては、「昔々、あるところに……」というくらいのザックリとした感じになるけれど、その代わりにそうした語り口だからこそできる「大きな話」がある。
「大きな話」というのは、大振りということではなく、子細を見ると俺たちが今生きている世界がそこに投影されているんだという豪華さを見せることができる。
それこそ、何万隻もの艦隊戦とか。そこが『ヤマト』の肝かなと。
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『機動戦士ガンダム』にも、海で運用する艦船に模して艦体の"上面"にだけ艦橋が存在する宇宙戦艦マゼランや宇宙巡洋艦サラミスが登場するし、そもそも「ガンダムは、なぜ人型の形状にこだわっているんですか?」と云われたら、スポンサーからの要請ですとしか答えようがないと思うのだが……。
「2本の角は索敵用のアンテナで、眼が2つあると遠距離と近距離の距離感を両方捉えることができる」などという後づけのお話でも「リアリティのある理屈」と受け止め、そういう発想で作られていたと信じられるほど、福井氏はガンダム関連の情報に浸りっぱなしで育ったのだろう。
ならば、ヤマトにおいてもどんどん突き詰めてデザインや世界観を先鋭化させて商売すればよかろうと思うのだが、それをやってもヤマトはガンダムよりも劣ったものになると福井氏の中で決めつけられているのが、ヤマトもガンダムも好きな身としては残念だ。
たとえば、『機動戦士ガンダム』がロボットアニメとして画期的だった点の一つに、量産型の敵メカを配したことがある。
それまでのロボットアニメは、『マジンガーZ』(1972年)の敵メカの名が「機械獣」だったように、『ウルトラマン』に登場する怪獣のロボット版だった。だから『ウルトラマン』の怪獣のように毎回姿形の異なるロボットが現れ、そのロボット独自の必殺技で主役メカを苦しめた。『マジンガーZ』第1話の敵が、目からミサイルを発射するガラダK7と、二つの首から光線を放つダブラスM2だったように。
だからこそ、『機動戦士ガンダム』の第1話を見た私は腰が抜けるほど驚いた。目から光線もミサイルも出さず、全身緑色の地味な敵メカというだけでも珍しいのに、同じデザインのメカが三体も現れたのだ。それまでの"常識"では、敵メカが三体も現れるのであれば、翼竜型のメカザウルス・バドと、トリケラトプスのようなメカザウルス・ザイと、アパトサウルスのようなメカザウルス・ズーが一斉にゲッターロボを襲ったように、それぞれ個性的な形状をしているものだった。だから同じデザインのメカがいくつも現れることにたいへん驚いた。しかも第1話だけでなく、話数が進んでもこのメカはずっと出続けたのだ。
けれども、ロボットアニメの系譜だけを見ると驚くべきこの行いも、『機動戦士ガンダム』が『宇宙戦艦ヤマト』を研究して作られたことを思えば納得だ。
『宇宙戦艦ヤマト』の第1話には、同じデザインで全体が緑色のガミラス艦が複数現れて、地球艦隊を完膚なきまでに叩きのめしていたのだから。同型のガミラス艦はその後も登場し続けた。
軍艦なんだから同型艦が複数出るなんて当たり前というなかれ。ロボットアニメに限らず、ヤマト以前は、和製サンダーバードともいえる『ゼロテスター』(1973年)でさえ、毎回異なる特徴を持つ敵が一体か二体ずつ登場していた。敵"怪獣"の独自性を軸にしてストーリーが組み立てられていたからだ。『宇宙戦艦ヤマト』がいかに画期的だったか、『機動戦士ガンダム』がいかに『宇宙戦艦ヤマト』のフォーマットを忠実になぞったかが判る。
福井氏は「だから、別のところで戦わないとならない」と云って、本来は近しい関係にあるヤマトとガンダムを別物扱いしてしまった。「『昔々、あるところに……』というくらいのザックリとした感じ」といえば誰もがご存知『スター・ウォーズ』のことだが、福井氏はヤマトをガンダムよりも『スター・ウォーズ』に近いものとして捉えていたのだろうか。その結果が何万隻もの艦隊戦なのか。ミリタリー色なんて消し飛ぶはずだ。
ちなみに、スター・ウォーズシリーズはミリタリーSFになることを慎重に避けていた。工夫を凝らして設定を作り込むことで、戦争物にならないようにしてあるのだ。
2202はこの周到さが足りなくて、外形的にはミリタリーSFのままなのに内実が伴っていないから、観客は期待ギャップを感じてしまう。宇宙戦艦ヤマトの名を冠した作品が、「昔々、あるところに……」というくらいのザックリとした感じでよいと考えているのなら、そのザックリ感を受け手と共有するための緻密な戦略を考案するべきだった。
おそらく、ザックリとした感じでよいという考えの中には、「動機オーライ主義」で作劇しても許されるという思いもあるのではないかと私は推察している。この「動機オーライ主義」については、後で触れるとしよう。
同じインタビューで福井氏は『宇宙戦艦ヤマト2202』と『機動戦士ガンダムNT』に触れて「同時期に関わっていた作品なので、同じものをやっていてもつまらないという意識はあったと思います」とも語っているから、福井氏が同時期にヤマトとガンダムに関わっていたことも、2202の方向性に影響したのかもしれない。
ミリタリー物の雄であった『宇宙戦艦ヤマト』、その魅力をさらに推し進めた『宇宙戦艦ヤマト2199』。なのに『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』はそこから後退している。これでは『宇宙戦艦ヤマト』のファンは、ましてや『宇宙戦艦ヤマト2199』のファンは楽しめない。
2202が回を重ねるたび、私はそんなことを考えていた。
だが、それはまだ序の口だった。終盤に向けて、2202は驚くべき展開を見せることになる。
(つづく)
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第二章「発進篇」』 [あ行][テレビ]
第3話『衝撃・コスモリバースの遺産』
第4話『未知への発進!』
第5話『激突!ヤマト対アンドロメダ』
第6話『死闘・第十一番惑星』
監督/羽原信義 副監督/小林誠 原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏 脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 麦人 千葉繁 神谷浩史 田中理恵 石塚運昇 東地宏樹 江原正士 赤羽根健治
日本公開/2017年6月24日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]
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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2202】
【genre : アニメ・コミック】
⇒comment
悲しきヤマトファン
2202の詳細分析ありがとうございます。自分では気付かない点が多々ありました。続きを楽しみにしています。
すでにナドレックさんが指摘されている点も含まれていますが、2202を観て私がゾッとしたのは
1. 命を救ってくれた恩人との約束を反故にしても罰せられない。
2. 全ての命には定めがあり、あるべき未来は決まっている。
3. 理性より感情に従うことが正しい道である。
4. 縁、絆、愛で全てが解決する。(話し合えば(愛し合えば)分かり合える。)
5. 軍人が謀反を起こしても罰せられない。また、軍艦の上での私情丸出しの暴走も罰せられない。
6. 妻子かわいさに部下の命(軍、艦)を売っても赦され、同情される。
7. 女は子産みの道具。
2202は今までのヤマトとは別物だと思って観ていましたが、上記の点について製作者側の意図を理解できませんでした。これを風刺というのでしょうか?
それでも、2205を観ます。どんなに悪評の作品でも、ヤマトを観ないと必ず後悔するので。このようなファンが結果として「駄作」を支えているのでしょうけど……。
すでにナドレックさんが指摘されている点も含まれていますが、2202を観て私がゾッとしたのは
1. 命を救ってくれた恩人との約束を反故にしても罰せられない。
2. 全ての命には定めがあり、あるべき未来は決まっている。
3. 理性より感情に従うことが正しい道である。
4. 縁、絆、愛で全てが解決する。(話し合えば(愛し合えば)分かり合える。)
5. 軍人が謀反を起こしても罰せられない。また、軍艦の上での私情丸出しの暴走も罰せられない。
6. 妻子かわいさに部下の命(軍、艦)を売っても赦され、同情される。
7. 女は子産みの道具。
2202は今までのヤマトとは別物だと思って観ていましたが、上記の点について製作者側の意図を理解できませんでした。これを風刺というのでしょうか?
それでも、2205を観ます。どんなに悪評の作品でも、ヤマトを観ないと必ず後悔するので。このようなファンが結果として「駄作」を支えているのでしょうけど……。
Re: 悲しきヤマトファン
Pinさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
気になるところは同じですね。今後の記事ではPinさんが挙げられたことにも触れていきたいと思います。
2205は……テレビで放映されたら見ようかと思います……。
コメントありがとうございます。
気になるところは同じですね。今後の記事ではPinさんが挙げられたことにも触れていきたいと思います。
2205は……テレビで放映されたら見ようかと思います……。