『カイジ 動物世界』が描く人間社会
中国映画『カイジ 動物世界』を鑑賞したのは、日本のマンガ、映画で知られる作品を中国映画界がどう料理したか興味を引かれたからだ。
一見すると奇異な映像に面食らう。劇中で突然、セルルックなアニメやCGIで描かれた化物たちとの壮絶な殺し合いが挿入されるのだ。ときには激しいカーチェイスも繰り広げられる。
これらは「頭がおかしい」主人公の妄想なのだが、そんな映像を挿入しなくてもストーリーは語れるのだから、いささかバカバカしく感じられる。
そう、これはバカバカしいまでの異常さを中国なりに表現したものなのだろう。
ここでやろうとしているのは、日本版の映画『カイジ 人生逆転ゲーム』を盛り上げた藤原竜也さんや香川照之さんの変な顔に相当するものだろう。
日本の俳優さんは、映画の中で目をむき鼻を広げ口角泡を飛ばして、バカバカしいほどのオーバーアクションを披露することがある。人間は日常生活においてそんな表情はまずしないから、映画の中でもそんな演技は不要じゃないかと思うのだが、日本映画ではよく見かける。しかも、近年の作品ほどエスカレーションしている気がする。
監督がそういう演技を求めるのかもしれないけれど、とりわけ藤原竜也さんと香川照之さんの人間離れした顔芸は他の追随を許さない。ほぼ室内劇である『カイジ 人生逆転ゲーム』の映像面での変化の乏しさを補ったのが、出演者が次々に見せる「変な顔」であった。
これを他国で映像化しようとしても、顔芸なんぞに手を出すことはできないのだった。だって出演者が変な顔をしたら、バカバカしくてたいていの観客は白けてしまうから。日本の観客は長いあいだにオーバーアクションに慣らされて、顔芸を受け入れるようになっているが、他国ではよほどのコメディでもない限りそういうことはしないだろう。そもそも藤原竜也さんや香川照之さんのような顔芸に秀でた特殊技能者が、ニーズのない国に存在するはずがない。
では、変な顔をせずに、いかにして日本の『カイジ 人生逆転ゲーム』を凌駕する強烈な映像を作り上げるか。
その答えが、変な顔をする代わりに登場人物がCGIの化物に変貌する本作のアプローチなのではあるまいか。
正直なところ、CGIを駆使した主人公の妄想シーンはまったくいらないと思う。それは日本の『カイジ 人生逆転ゲーム』が、藤原竜也さんや香川照之さんの変な顔がなくたって面白かったはずなのと同じだ。それくらいストーリーが面白いし、騙すか騙されるか、信頼するか信頼されるかというテーマは観客に響くものだからだ。
まぁ、日本では藤原竜也さんや香川照之さんのオーバーアクションを期待する観客もいるかもしれないからそれはそれで良いとしても、オーバーアクションをCGIの醜いモンスターに変貌するシーンに置き換えた途端に過剰演出であることが露呈するのも観ていて面白かった。
それはさておき、肝心の物語はというと、奇妙奇天烈な映像からは意外なほど原作をしっかりなぞったものだった。
それどころか、日本版の映画『カイジ 人生逆転ゲーム』が「限定ジャンケン」、「鉄骨渡り」、「Eカード」といった勝負を駆け足で描いたのに比べると、「限定ジャンケン」のエピソードに絞ってじっくり描いた分、「限定ジャンケン」の面白さの本質に迫っており、その点では日本版を凌いでいた。
日本版の『カイジ 人生逆転ゲーム』は、負け組と呼ばれようと人間のクズと蔑まれようと最後まで諦めなければきっと勝てる、そう人間を鼓舞する物語だった。だから、負け組の群れから浮かび出ようともがく「限定ジャンケン」や、自分自身の精神力が試される「鉄骨渡り」、圧倒的に有利な立場にいる資本家に戦いを挑む「Eカード」を通して、常に「諦めるな」と観客に呼びかけた。
原作マンガ『賭博黙示録カイジ』(1996年~1999年)も映画『カイジ 人生逆転ゲーム』(2009年)も、バブル崩壊後の「失われた20年」と呼ばれる不況期に発表された作品だから、そういうメッセージを帯びるのは良く判る。
他方、中国版の『カイジ 動物世界』(2018年)が主眼とするのはそこではない。
「鉄骨渡り」や「Eカード」にはない「限定ジャンケン」ならではの面白さ――日本版がストーリーを急ぐあまり削ってしまった「限定ジャンケン」の魅力が存分に活かされたいた。
「限定ジャンケン」はグー、チョキ、パーの絵が描かれた12枚のカードを使ってジャンケンをし、一勝負に一枚消費しながら制限時間内にカードを使い切り、勝ち残れば良いという一見すると単純なゲームだ。けれども、カードの手の内を見せあっても良ければ、カードの譲渡・売買も自由という「何でもアリ」な状態が、騙し合いと疑心暗鬼を引き起こす。「限定ジャンケン」は、単に勝ち負けを競うだけではなく、戦術の良し悪しを問うものでもなく、その本質は人と人との「信頼」を築くことにある。
自分との戦いである「鉄骨渡り」や、敵対する資本家側の人間と一対一で勝負する「Eカード」とは異なり、「限定ジャンケン」で勝ち残るには会場に集められた大勢の見知らぬ者たちの中から信頼できる相手を見極め、その者と連帯しなければならない。私たちが普段の生活で少なからず行っていること――そしてその難しさを感じていること――が描かれるから「限定ジャンケン」は面白い。
騙し合いOK、他人を蹴落としてもOK、食い物にしてもOK、とにかく自分が生き延びることを考えろ。そんな状況になったとき、人はどう行動するか、何を良しとするか。そこで描かれることが中国版でもぶれていないのは、ある種の感動でもあった。当たり前といえば当たり前だが、日本でダメとされることは中国でもダメであり、日本で良いとされることは中国でも良いことだった。
とはいえ、「限定ジャンケン」の掘り下げ方に差が出たのは(中国版が「限定ジャンケン」を中心に据えて、「信頼」というテーマで貫かれる構成にしたのは)、日中の社会の違いが影響しているように思う。
以前の記事で、日本は「安心社会」、米国は「信頼社会」と結論づけた山岸俊男氏の研究を紹介した。平たくいえば、日本人は猜疑心が強く、村や会社のような相互監視で縛り合う閉鎖的な集団の中にいてはじめて安心できる傾向があり、米国人は他者が信頼できるかどうかを見極めて個人間で信頼関係を築いていく傾向があるという。山岸俊男氏は、他者が信頼できるかどうか見極める能力を社会的知性と呼び、これを身に付けなければいつまでも外の者を排除して集団内に閉じこもる「安心社会」を続けるしかなく、そんな閉鎖的な集団はいずれ衰退すると警告した。
日本版の『カイジ 人生逆転ゲーム』が面白かったのは、日本でありながら主人公が安心社会から切り離され、個々人が信頼できる相手を見極めながら自力で人間関係を築かねばならない信頼社会の極端なシミュレーションの場に放り込まれたからだ。社会のグローバル化が進む中、日本人も社会的知性を身に付けなければならないことに誰もが薄々気づいてるところに、まさにその問題で苦悩する物語が描かれたから興味深かった。
これまで言及してこなかったが、山岸俊男氏の研究は日本人と米国人の比較に留まらない。山岸俊男氏と吉開範章氏の共著『ネット評判社会』では、中国人の傾向について調べた結果も紹介されている。
世界価値観調査に基づく価値マップでは、日本も中国も同じ儒教文化圏としてくくられ、似た傾向を持つ国とされていた。同じ東アジアに位置する両国は、「信頼」と「安心」に関する調査でも似た傾向を示すのだろうか。
結論からいえば、こと「信頼」に関しては中国は日本とは異なる社会であるという。その傾向は米国社会に似ているが、個人間の信頼関係に重きを置くことでは米国以上だ。
中国人の圧倒的多数は「この社会のほとんどの人は信頼できる」と考えており、そう考える人の比率の高さは世界一だ(日本人はアジアで最低)。「たいていの人は、他人の役に立とうとしていると思いますか、それとも自分のことだけを考えていると思いますか」という質問に対しても、「他人の役に立とうとしている」と答えた人のパーセンテージは、複数の調査のいずれでも中国人が60%前後なのに日本人は20%弱から40%弱。
実際に山岸俊男氏らが、相手を信頼するか否かや、相手の信頼に応えるか裏切るかで入手できる現金の多寡が変わってくる――まさに「限定ジャンケン」のような――ゲームを設計して、集められた多数の中国人や日本人がどう行動するか実験してみたところ、明らかに日本人よりも中国人のほうが相手への高い信頼を示し、また信頼に値する行動をとったという。ゲームの具体的なルールや報酬額、各回の被験者数等の詳細については同書を参照願いたい。
山岸氏は多くの調査や実験の結果を踏まえて、中国人や米国人は自分が信頼していることを相手に伝えると、相手は自分の信頼に応えてくれるだろうと思っていると結論づけている。他方、日本人は、自分が信頼していることを相手に伝えても、相手から信頼に報いる行動を引き出せると思っていない、それどころか、そうした信頼を相手に知らせると相手から付け込まれてしまうと思っていると考えられる。
日本社会のような、同じ組織・集団に属する者で固まって、他集団の者を排除し近寄らせないことで安心を得る「集団主義的秩序」の下で重要なのは、その集団への忠誠を示すこと――自分は集団の利益に反する行動をとらない人間であることを示すことであって、集団を信頼していることを示すのはそれほど重要ではない。
これに対して、中国社会は個人間の関係性のネットワークを基盤としており、その関係の形成においては、まず自分が相手との間にコミットメント関係を形成したいと思っているというシグナルを送る必要がある。次に相手がシグナルに反応し、相手もコミットメント関係を形成したいと思っているというシグナルを返す必要がある。それが、ゲームに参加した中国人が高い率で相手への信頼を示し、また信頼されたほうはその信頼に値する行動をとった理由ではないかと山岸氏らは考えている。
同書を読む限り、実験後の被験者の行動に関する追跡調査はされていないようだが、もしかすると、報酬を受け取った日本人の被験者は実験会場を後にして自分が属するそれぞれの集団に戻っていったのに対し、実験を通して信頼のシグナルを交わし合った中国人被験者は実験後に食事を共にしたり、再会を約束したりして、人間関係を構築したのではないだろうか、なんて想像もしたくなる。
見知らぬ他人に話しかけ、相手との関係を築くことに長けている中国人にとって、「限定ジャンケン」の会場は通常の社会から切り離された特殊な空間ではないのだろう。戯画化されているとはいえ、そこは日常の延長線上だ。
だから『カイジ 動物世界』では、常日頃から主人公への信頼を示すガールフレンドが登場したり、主人公が借金を背負う過程を描写したりして(『カイジ 人生逆転ゲーム』では過去の連帯保証を持ち出されるところからはじまり、カイジが連帯保証することになった過程は省略されている)、「限定ジャンケン」の会場も日常の生活も信頼関係が試される点では変わらないことを示している。
『カイジ 動物世界』が「限定ジャンケン」に特化した内容なのも、そのほうが中国人に訴求できるからだろう。
原作マンガも日本版の映画も登場人物は日本人ばかりだったのに、本作では各国人が入り乱れているのも不思議ではない。安心できる閉鎖的集団から切り離された日本人という特別なシチュエーションがない以上、登場人物を一国の人間に絞る理由はないのだ。
かくして『カイジ 動物世界』は、特殊な環境に放り込まれた日本人の物語だった『カイジ 人生逆転ゲーム』をベースにしつつ、世界のあちこちで起こり得る(ことを戯画化した)普遍的な物語へとスケールアップした。
こう書くと、安心社会に閉じこもっている日本人には、外の世界があまりにも過酷なものに感じられるかもしれないが、そこには生き抜いていくための普遍的な秘訣がある。山岸俊男氏は、他者と信頼関係を築くには「正直であること」が重要だと説いている。
他者を騙し続けてのし上がろうとする者と、正直に接して信頼し合い連帯しようとする者、両者がそれぞれどのような末路をたどるか。本作が徹底的に描くのはそのことだ。
参考文献
山岸俊男・吉開範章(2009)『ネット評判社会』 NTT出版
『カイジ 動物世界』 [か行]
監督・脚本/ハン・イエン
出演/リー・イーフォン チョウ・ドンユイ マイケル・ダグラス ツァオ・ビンクン ワン・ゴー チー・ジア チャン・ジュンイー
日本公開/2019年1月18日
ジャンル/[ドラマ] [サスペンス] [アドベンチャー]
一見すると奇異な映像に面食らう。劇中で突然、セルルックなアニメやCGIで描かれた化物たちとの壮絶な殺し合いが挿入されるのだ。ときには激しいカーチェイスも繰り広げられる。
これらは「頭がおかしい」主人公の妄想なのだが、そんな映像を挿入しなくてもストーリーは語れるのだから、いささかバカバカしく感じられる。
そう、これはバカバカしいまでの異常さを中国なりに表現したものなのだろう。
ここでやろうとしているのは、日本版の映画『カイジ 人生逆転ゲーム』を盛り上げた藤原竜也さんや香川照之さんの変な顔に相当するものだろう。
日本の俳優さんは、映画の中で目をむき鼻を広げ口角泡を飛ばして、バカバカしいほどのオーバーアクションを披露することがある。人間は日常生活においてそんな表情はまずしないから、映画の中でもそんな演技は不要じゃないかと思うのだが、日本映画ではよく見かける。しかも、近年の作品ほどエスカレーションしている気がする。
監督がそういう演技を求めるのかもしれないけれど、とりわけ藤原竜也さんと香川照之さんの人間離れした顔芸は他の追随を許さない。ほぼ室内劇である『カイジ 人生逆転ゲーム』の映像面での変化の乏しさを補ったのが、出演者が次々に見せる「変な顔」であった。
これを他国で映像化しようとしても、顔芸なんぞに手を出すことはできないのだった。だって出演者が変な顔をしたら、バカバカしくてたいていの観客は白けてしまうから。日本の観客は長いあいだにオーバーアクションに慣らされて、顔芸を受け入れるようになっているが、他国ではよほどのコメディでもない限りそういうことはしないだろう。そもそも藤原竜也さんや香川照之さんのような顔芸に秀でた特殊技能者が、ニーズのない国に存在するはずがない。
では、変な顔をせずに、いかにして日本の『カイジ 人生逆転ゲーム』を凌駕する強烈な映像を作り上げるか。
その答えが、変な顔をする代わりに登場人物がCGIの化物に変貌する本作のアプローチなのではあるまいか。
正直なところ、CGIを駆使した主人公の妄想シーンはまったくいらないと思う。それは日本の『カイジ 人生逆転ゲーム』が、藤原竜也さんや香川照之さんの変な顔がなくたって面白かったはずなのと同じだ。それくらいストーリーが面白いし、騙すか騙されるか、信頼するか信頼されるかというテーマは観客に響くものだからだ。
まぁ、日本では藤原竜也さんや香川照之さんのオーバーアクションを期待する観客もいるかもしれないからそれはそれで良いとしても、オーバーアクションをCGIの醜いモンスターに変貌するシーンに置き換えた途端に過剰演出であることが露呈するのも観ていて面白かった。
それはさておき、肝心の物語はというと、奇妙奇天烈な映像からは意外なほど原作をしっかりなぞったものだった。
それどころか、日本版の映画『カイジ 人生逆転ゲーム』が「限定ジャンケン」、「鉄骨渡り」、「Eカード」といった勝負を駆け足で描いたのに比べると、「限定ジャンケン」のエピソードに絞ってじっくり描いた分、「限定ジャンケン」の面白さの本質に迫っており、その点では日本版を凌いでいた。
日本版の『カイジ 人生逆転ゲーム』は、負け組と呼ばれようと人間のクズと蔑まれようと最後まで諦めなければきっと勝てる、そう人間を鼓舞する物語だった。だから、負け組の群れから浮かび出ようともがく「限定ジャンケン」や、自分自身の精神力が試される「鉄骨渡り」、圧倒的に有利な立場にいる資本家に戦いを挑む「Eカード」を通して、常に「諦めるな」と観客に呼びかけた。
原作マンガ『賭博黙示録カイジ』(1996年~1999年)も映画『カイジ 人生逆転ゲーム』(2009年)も、バブル崩壊後の「失われた20年」と呼ばれる不況期に発表された作品だから、そういうメッセージを帯びるのは良く判る。
他方、中国版の『カイジ 動物世界』(2018年)が主眼とするのはそこではない。
「鉄骨渡り」や「Eカード」にはない「限定ジャンケン」ならではの面白さ――日本版がストーリーを急ぐあまり削ってしまった「限定ジャンケン」の魅力が存分に活かされたいた。
「限定ジャンケン」はグー、チョキ、パーの絵が描かれた12枚のカードを使ってジャンケンをし、一勝負に一枚消費しながら制限時間内にカードを使い切り、勝ち残れば良いという一見すると単純なゲームだ。けれども、カードの手の内を見せあっても良ければ、カードの譲渡・売買も自由という「何でもアリ」な状態が、騙し合いと疑心暗鬼を引き起こす。「限定ジャンケン」は、単に勝ち負けを競うだけではなく、戦術の良し悪しを問うものでもなく、その本質は人と人との「信頼」を築くことにある。
自分との戦いである「鉄骨渡り」や、敵対する資本家側の人間と一対一で勝負する「Eカード」とは異なり、「限定ジャンケン」で勝ち残るには会場に集められた大勢の見知らぬ者たちの中から信頼できる相手を見極め、その者と連帯しなければならない。私たちが普段の生活で少なからず行っていること――そしてその難しさを感じていること――が描かれるから「限定ジャンケン」は面白い。
騙し合いOK、他人を蹴落としてもOK、食い物にしてもOK、とにかく自分が生き延びることを考えろ。そんな状況になったとき、人はどう行動するか、何を良しとするか。そこで描かれることが中国版でもぶれていないのは、ある種の感動でもあった。当たり前といえば当たり前だが、日本でダメとされることは中国でもダメであり、日本で良いとされることは中国でも良いことだった。
とはいえ、「限定ジャンケン」の掘り下げ方に差が出たのは(中国版が「限定ジャンケン」を中心に据えて、「信頼」というテーマで貫かれる構成にしたのは)、日中の社会の違いが影響しているように思う。
以前の記事で、日本は「安心社会」、米国は「信頼社会」と結論づけた山岸俊男氏の研究を紹介した。平たくいえば、日本人は猜疑心が強く、村や会社のような相互監視で縛り合う閉鎖的な集団の中にいてはじめて安心できる傾向があり、米国人は他者が信頼できるかどうかを見極めて個人間で信頼関係を築いていく傾向があるという。山岸俊男氏は、他者が信頼できるかどうか見極める能力を社会的知性と呼び、これを身に付けなければいつまでも外の者を排除して集団内に閉じこもる「安心社会」を続けるしかなく、そんな閉鎖的な集団はいずれ衰退すると警告した。
日本版の『カイジ 人生逆転ゲーム』が面白かったのは、日本でありながら主人公が安心社会から切り離され、個々人が信頼できる相手を見極めながら自力で人間関係を築かねばならない信頼社会の極端なシミュレーションの場に放り込まれたからだ。社会のグローバル化が進む中、日本人も社会的知性を身に付けなければならないことに誰もが薄々気づいてるところに、まさにその問題で苦悩する物語が描かれたから興味深かった。
これまで言及してこなかったが、山岸俊男氏の研究は日本人と米国人の比較に留まらない。山岸俊男氏と吉開範章氏の共著『ネット評判社会』では、中国人の傾向について調べた結果も紹介されている。
世界価値観調査に基づく価値マップでは、日本も中国も同じ儒教文化圏としてくくられ、似た傾向を持つ国とされていた。同じ東アジアに位置する両国は、「信頼」と「安心」に関する調査でも似た傾向を示すのだろうか。
結論からいえば、こと「信頼」に関しては中国は日本とは異なる社会であるという。その傾向は米国社会に似ているが、個人間の信頼関係に重きを置くことでは米国以上だ。
中国人の圧倒的多数は「この社会のほとんどの人は信頼できる」と考えており、そう考える人の比率の高さは世界一だ(日本人はアジアで最低)。「たいていの人は、他人の役に立とうとしていると思いますか、それとも自分のことだけを考えていると思いますか」という質問に対しても、「他人の役に立とうとしている」と答えた人のパーセンテージは、複数の調査のいずれでも中国人が60%前後なのに日本人は20%弱から40%弱。
実際に山岸俊男氏らが、相手を信頼するか否かや、相手の信頼に応えるか裏切るかで入手できる現金の多寡が変わってくる――まさに「限定ジャンケン」のような――ゲームを設計して、集められた多数の中国人や日本人がどう行動するか実験してみたところ、明らかに日本人よりも中国人のほうが相手への高い信頼を示し、また信頼に値する行動をとったという。ゲームの具体的なルールや報酬額、各回の被験者数等の詳細については同書を参照願いたい。
山岸氏は多くの調査や実験の結果を踏まえて、中国人や米国人は自分が信頼していることを相手に伝えると、相手は自分の信頼に応えてくれるだろうと思っていると結論づけている。他方、日本人は、自分が信頼していることを相手に伝えても、相手から信頼に報いる行動を引き出せると思っていない、それどころか、そうした信頼を相手に知らせると相手から付け込まれてしまうと思っていると考えられる。
日本社会のような、同じ組織・集団に属する者で固まって、他集団の者を排除し近寄らせないことで安心を得る「集団主義的秩序」の下で重要なのは、その集団への忠誠を示すこと――自分は集団の利益に反する行動をとらない人間であることを示すことであって、集団を信頼していることを示すのはそれほど重要ではない。
これに対して、中国社会は個人間の関係性のネットワークを基盤としており、その関係の形成においては、まず自分が相手との間にコミットメント関係を形成したいと思っているというシグナルを送る必要がある。次に相手がシグナルに反応し、相手もコミットメント関係を形成したいと思っているというシグナルを返す必要がある。それが、ゲームに参加した中国人が高い率で相手への信頼を示し、また信頼されたほうはその信頼に値する行動をとった理由ではないかと山岸氏らは考えている。
同書を読む限り、実験後の被験者の行動に関する追跡調査はされていないようだが、もしかすると、報酬を受け取った日本人の被験者は実験会場を後にして自分が属するそれぞれの集団に戻っていったのに対し、実験を通して信頼のシグナルを交わし合った中国人被験者は実験後に食事を共にしたり、再会を約束したりして、人間関係を構築したのではないだろうか、なんて想像もしたくなる。
見知らぬ他人に話しかけ、相手との関係を築くことに長けている中国人にとって、「限定ジャンケン」の会場は通常の社会から切り離された特殊な空間ではないのだろう。戯画化されているとはいえ、そこは日常の延長線上だ。
だから『カイジ 動物世界』では、常日頃から主人公への信頼を示すガールフレンドが登場したり、主人公が借金を背負う過程を描写したりして(『カイジ 人生逆転ゲーム』では過去の連帯保証を持ち出されるところからはじまり、カイジが連帯保証することになった過程は省略されている)、「限定ジャンケン」の会場も日常の生活も信頼関係が試される点では変わらないことを示している。
『カイジ 動物世界』が「限定ジャンケン」に特化した内容なのも、そのほうが中国人に訴求できるからだろう。
原作マンガも日本版の映画も登場人物は日本人ばかりだったのに、本作では各国人が入り乱れているのも不思議ではない。安心できる閉鎖的集団から切り離された日本人という特別なシチュエーションがない以上、登場人物を一国の人間に絞る理由はないのだ。
かくして『カイジ 動物世界』は、特殊な環境に放り込まれた日本人の物語だった『カイジ 人生逆転ゲーム』をベースにしつつ、世界のあちこちで起こり得る(ことを戯画化した)普遍的な物語へとスケールアップした。
こう書くと、安心社会に閉じこもっている日本人には、外の世界があまりにも過酷なものに感じられるかもしれないが、そこには生き抜いていくための普遍的な秘訣がある。山岸俊男氏は、他者と信頼関係を築くには「正直であること」が重要だと説いている。
他者を騙し続けてのし上がろうとする者と、正直に接して信頼し合い連帯しようとする者、両者がそれぞれどのような末路をたどるか。本作が徹底的に描くのはそのことだ。
参考文献
山岸俊男・吉開範章(2009)『ネット評判社会』 NTT出版
『カイジ 動物世界』 [か行]
監督・脚本/ハン・イエン
出演/リー・イーフォン チョウ・ドンユイ マイケル・ダグラス ツァオ・ビンクン ワン・ゴー チー・ジア チャン・ジュンイー
日本公開/2019年1月18日
ジャンル/[ドラマ] [サスペンス] [アドベンチャー]
tag : ハン・イエンリー・イーフォンチョウ・ドンユイマイケル・ダグラスツァオ・ビンクンワン・ゴーチー・ジアチャン・ジュンイー
⇒comment
No title
映画の話から離れてしまいますが、「日本人」「中国人」に関してはそうかもしれんと思いつつも、そうなのかよと違和感を感じる部分もある。きっと、それは「日本人」「中国人」とは別に「日本国民」「中国国民」で両者を識別する場合が多いからだろう。
「中国人」は中国を中心として周辺に華僑が多いから、信頼なしには商売が出来ない。私個人のイメージなんだけど、華僑は国単位の輸出と言うより、食い詰めた中国人が外へ外へと求心力を向けた結果なのではないか? それは仲良くなるために信頼関係を結ばなくてはいけない。あーもー日本にある中華料理屋、安くて早くて美味くて信頼してる。だから、何となく「中国人」には元々そういう気質があるんじゃないかと思ってしまう。
「日本人」は百姓を村単位で管理して、基本的に集団の外に人を出さない。集団で他の集団と折衝に当たる。個人同士の信頼関係を作るのが難しそうである。「日本人」は自分に対して、私はこれこれこういう物を持っていて、これこれこういう物をあなた方に与えられますから信用してくださいという権限をそんなに個人が持っていない。持つような教育もされていない。そりゃあ信頼関係に対してあやふやになるよなあ。
「中国人」と「中国国民」はほぼイメージもイコールであるが、あまり信頼できないイメージは彼等を搾取する「中国政府」が担っている。個人個人はチャイニーズ・マフィアとか除けばいい人と思う。日本にいる中国人が中華料理屋かチャイニーズ・マフィアかの二択だから「日本人」から見た「中国人」はあやふやなのか?
「日本人」って一人一人見たら善良だと思うんだけど、会社とか軍隊とか集団になると他者に対して信頼関係を築けずに暴走してしまう。それはやっぱりそういう風にまとめて育ってきたからなんだろうなあ。だから、お上の質が悪いと、とことん信頼のないイメージが強まってしまうのだと思う。「日本人」にとってみんなと仲良くなる事はお上の仕事であって、個人の仕事ではないから。
ダラダラ長く書いちゃってすいません。
「中国人」は中国を中心として周辺に華僑が多いから、信頼なしには商売が出来ない。私個人のイメージなんだけど、華僑は国単位の輸出と言うより、食い詰めた中国人が外へ外へと求心力を向けた結果なのではないか? それは仲良くなるために信頼関係を結ばなくてはいけない。あーもー日本にある中華料理屋、安くて早くて美味くて信頼してる。だから、何となく「中国人」には元々そういう気質があるんじゃないかと思ってしまう。
「日本人」は百姓を村単位で管理して、基本的に集団の外に人を出さない。集団で他の集団と折衝に当たる。個人同士の信頼関係を作るのが難しそうである。「日本人」は自分に対して、私はこれこれこういう物を持っていて、これこれこういう物をあなた方に与えられますから信用してくださいという権限をそんなに個人が持っていない。持つような教育もされていない。そりゃあ信頼関係に対してあやふやになるよなあ。
「中国人」と「中国国民」はほぼイメージもイコールであるが、あまり信頼できないイメージは彼等を搾取する「中国政府」が担っている。個人個人はチャイニーズ・マフィアとか除けばいい人と思う。日本にいる中国人が中華料理屋かチャイニーズ・マフィアかの二択だから「日本人」から見た「中国人」はあやふやなのか?
「日本人」って一人一人見たら善良だと思うんだけど、会社とか軍隊とか集団になると他者に対して信頼関係を築けずに暴走してしまう。それはやっぱりそういう風にまとめて育ってきたからなんだろうなあ。だから、お上の質が悪いと、とことん信頼のないイメージが強まってしまうのだと思う。「日本人」にとってみんなと仲良くなる事はお上の仕事であって、個人の仕事ではないから。
ダラダラ長く書いちゃってすいません。
Re: No title
fjk78deadさん、こんにちは。
「日本にいる中国人が中華料理屋かチャイニーズ・マフィアかの二択だから」って、それは一体どこの世界ですか!? 1990年代初頭を舞台にした映画『新宿インシデント』の中の話でしょうか。
日本に在留する外国人は年々増えており、法務省入国管理局によれば、国籍別で1位になる中華人民共和国出身者は2018年末時点で76.5万人いるそうです。高級家具店に行っても銀座の老舗に行っても、お客も店員も中国語で話している光景を見かけますね。私見ですが、外国に打って出ようという人には優秀な方が多く、プロフェッショナルサービス等で活躍なさっている印象があります。
「日本人」や「日本国民」という語の使用には気を使いますね。
「中国人」「中国国民」「華僑」「華人」の使い方にも気をつけたいと思います。
なお、記事本文では山岸俊男氏と共同研究者たちの実験に関する詳細は省きましたが、実験の一つは中国広東省にある中山大学の学生260名と、北海道大学の同数の学生を被験者にして行われています。詳しくは山岸俊男氏の著書をお読みください。日本人と中国人の行動に違いが生じる歴史的背景についても考察されていて、とても面白い本です。
「日本にいる中国人が中華料理屋かチャイニーズ・マフィアかの二択だから」って、それは一体どこの世界ですか!? 1990年代初頭を舞台にした映画『新宿インシデント』の中の話でしょうか。
日本に在留する外国人は年々増えており、法務省入国管理局によれば、国籍別で1位になる中華人民共和国出身者は2018年末時点で76.5万人いるそうです。高級家具店に行っても銀座の老舗に行っても、お客も店員も中国語で話している光景を見かけますね。私見ですが、外国に打って出ようという人には優秀な方が多く、プロフェッショナルサービス等で活躍なさっている印象があります。
「日本人」や「日本国民」という語の使用には気を使いますね。
「中国人」「中国国民」「華僑」「華人」の使い方にも気をつけたいと思います。
なお、記事本文では山岸俊男氏と共同研究者たちの実験に関する詳細は省きましたが、実験の一つは中国広東省にある中山大学の学生260名と、北海道大学の同数の学生を被験者にして行われています。詳しくは山岸俊男氏の著書をお読みください。日本人と中国人の行動に違いが生じる歴史的背景についても考察されていて、とても面白い本です。
⇒trackback
トラックバックの反映にはしばらく時間がかかります。ご容赦ください。『カイジ 動物世界』東京都写真美術館ホール
▲宣材図案には出てるけどチョウ・ドンユイはギャンブルやりません。
五つ星評価で【★★★★余計な演出はあるが充分、面白い】
あの『カイジ』の中国版映画。
カイジは少年の頃のトラウマから極度の緊張状態に落ちると敵の姿が化け物に変貌し、自分は殺人ピエロになり、化け物を殺しまくる白日夢を見るというオリジナル設定が追加されている。この結果を伴わない『超人ハルク』みたいな設定が絶対的にいらないのである...