『映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ ~拉麺大乱~』 僕たちの正義
【ネタバレ注意】
これだから『クレヨンしんちゃん』は侮れない。
あの傑作『映画クレヨンしんちゃん バカうまっ! B級グルメサバイバル!!』の脚本を浦沢義雄氏と共同で担当したうえのきみこ氏が、再びしんのすけたち「かすかべ防衛隊」の活躍を描いたのが『映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ ~拉麺大乱(らーめんたいらん)~』だ。
映画は、『包丁人味平』のカレー戦争編のブラックカレーをブラックパンダラーメンに置き換えたかのようにはじまる。一度食べたらやめられないブラックパンダラーメンを売りさばき、春日部住民を病み付きにさせてしまうのが、闇突拳(やみつきけん)を操る武術家ドン・パンパンだ。彼はさらなる事業拡大のため、地上げ屋を使って春日部の中華街アイヤータウンの土地を我が物にせんと企んでいた。
ここから話はカンフー映画、たとえばジャッキー・チェンが若かりし頃の映画『ドランクモンキー 酔拳』あたりのパターンに近づき、立ち退きを迫る一派と、アイヤータウンで頑張り続ける正義包子の店主――実は伝説のカンフーの師匠――の老人、そして老人の下で修業するしんのすけたちの戦いの物語になる。
このままカレー戦争ならぬ中華料理戦争と、カンフーを駆使した悪党退治に終始しても、充分に面白い映画だっただろう。
ところが、うえのきみこ氏初の単独脚本映画だった『映画クレヨンしんちゃん オラの引っ越し物語 サボテン大襲撃』が『人類SOS!』を下敷きにしながらその先を描いたように、本作も数多のカンフー映画を踏まえながら(カンフーの修行をはじめたマサオが口ずさむのは『プロジェクトA』の主題歌だ)、「その先」を描き出す。
今回は、どんどんスケールが広がってカンフー映画の域を超え、暴力と平和、善と悪、正義と不義を考えさせる作品になっていく。しんのすけのキャラクターと壮大なテーマが結びついたクライマックスは、実に見応えがある。
ドン・パンパン率いる武術家たちと戦うために、自分も武術を身につけ、対抗する。それも一つの方法だが、暴力に暴力で応えていては、暴力の連鎖は止まらない。仇討ものや復讐ものの映画が、爽快でありながら今一つしっくり来ないのは、敵を叩きのめすだけでは、暴力を振るわれる苦しみも、暴力を振るう苦しみも終わらないであろうことを予感させるからだ。
本作がユニークなのは、しんのすけたちが修行するのが「ぷにぷに拳」なる一見ふざけた拳法であることだ。
体をクニャクニャにして敵の攻撃をやり過ごす技や、倒されても受け身をとりながら減らず口を叩くことで勝ち負けにこだわらない技、そしてケツだけ星人のバカバカしさで相手の戦意を喪失させる技等々。『クレヨンしんちゃん』ならではのくだらなさに満ちていながら、「ぷにぷに拳」は暴力を巧みにかわし、争いを回避することを本質としている。ただ殴り合いになってしまうようなカンフー映画、復讐譚とは一線を画している。
なかなかやるな。やっぱり『クレヨンしんちゃん』は面白いな。
「ぷにぷに拳」の修行に励むしんのすけたちを見て、私はそう思ったのだが、そのときはまだ本作の奥深さに気がついていなかった。
アクション仮面の大ファンであり、師匠の一番弟子でもあるランとともに旅をして、遂に「ぷにぷに拳」究極の奥義を前にするしんのすけ。
世界に平和をもたらすという究極の奥義に胡散臭さを感じたしんのすけは、その奥義を身につけることを拒絶する。だが、世の中を平和にしたい、悪い奴らから人々を救いたいと願うランは、究極の奥義に手を出してしまう。
やがて激しい戦いの末に、ドン・パンパンを倒すラン。普通の映画ならこれで終わるところだが、暴力と平和、正義と不義をテーマに据えた本作は、「正義」が勝ったその先を描く。
相手の戦意を喪失させる技をも上回る「ぷにぷに拳」究極の奥義「ぷにぷに真掌」。それは人間の脳内をぷにぷになお花畑にして、理性も知性も失った、ただ隷属するだけの無力無気力な存在にしてしまう恐るべき技だった。
「ぷにぷに真掌」を振るうランは、ドン・パンパンを倒してブラックパンダラーメンの店を壊滅させるだけでなく、街にはびこる小さな悪をもことごとく潰しはじめた。他人のビニール傘を盗むのは悪、電車内で透かしっ屁をするのは悪、公共の場で映画のネタばらしをするのは悪、足が臭いのは悪、尻が垂れているのは悪。ひとたびランに「悪」と認定されれば、誰も彼もがたちまち「ぷにぷに真掌」の餌食にされた。ランの姿が見えるとあわてて身を隠し、怯えながら生きる街の人たち(個人的には、映画のネタばらしをしたら退治されても同情の余地はないと思うけれど)。
ランやしんのすけたちが仲良く修行していたときは、ぷにぷに拳バージョンの『かすかべ防衛隊のうた』が楽しく元気な歌に聴こえた。
しかし、「ぷにぷに真掌」を会得して、ただひとり「悪」を滅ぼし続けるランが「♪ラブ&ピース…」と歌う『かすかべ防衛隊のうた』は、ゾッとするほど恐ろしい。
これは歴史上何度も繰り返されてきたことだ。
古くは18世紀のフランス革命。民衆は身分制度にあぐらをかいた「悪」の王族、貴族を革命で追い落としたが、その後に待っていたのは民衆の「正義」を体現した革命政府による恐怖政治だった。粛清に次ぐ粛清でフランス全土を震撼させた恐怖政治の犠牲者は、4万人にも上るという。
あるいは、20世紀のロシア革命。貧しい生活に苦しんだ民衆は帝政を終わらせたが、その後に誕生したのは野党の存在すら許さない一党独裁のソビエト連邦だった。
2010年代の日本では、ヘイトスピーチ(憎悪表現)の増加が社会問題と化していた。排外主義的な考えに染まった者たちが、コリアタウンに行って暴言を吐くという、極めて悪質なことが行われていたのだ。国連でも問題視され、人種差別撤廃委員会や規約人権委員会が、このような活動をやめさせるように日本政府に勧告した。多くの議論を経て、2016年5月にはヘイトスピーチ対策法が成立するに至る。
平和に暮らしている人々に侮蔑的な言葉を投げつけ、彼らへの差別を煽ったりすることが許されるはずがない。これは明らかに「悪」であった(やっている人間は、内輪の論理で自分たちを正当化するのだろうが)。当時、これに対抗しようと立ち上がり、ヘイトスピーチが行われる現場に乗り込んだ人々がいた。ヘイトスピーチが「悪」である以上、これに対抗するのは「正義」のはずだ。
しかし彼らが行ったのもまた、暴言を吐く人間に暴言を投げつけることだった。さらにはヘイトスピーチをする者と衝突して暴力沙汰になり、挙句に仲間うちでのリンチ事件も明るみに出た。リンチ事件の報に接し、連合赤軍が1972年に起こした山岳ベース事件を想起して、戦慄した人もいただろう。
『映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ ~拉麺大乱~』について考えるとき、本作の制作期間がリンチ事件の裁判の最中であり、映画公開がまさに一審判決の翌月だったことは注目されるべきだ。
本作がくだんのリンチ事件や反ヘイトスピーチ活動をなぞってるわけではない。重要なのは、本作のテーマが、そこで描かれる内容が、2010年代の日本では切実な問題だったということだ。そしてこれは、2010年代の日本だけのことではない。
とめどなく「悪」を退治し続けるランに対抗するため、しんのすけたちが採った手段、それがジェンカだ。
フィンランドのフォークダンスであるジェンカは、とくにラウノ・レティネンが作曲した『Letkis』の世界的ヒットで知られる。日本でも坂本九さんのカバー曲『レットキス(ジェンカ)』がよく知られている。
本作では、橋幸夫さんが歌う『ジェンカ』に合わせてしんのすけたちが踊り出す。野原家も踊る。幼稚園の先生たちも踊る。春日部の人々みんなが踊る。踊りの列は、はるか地平の彼方へ続き、世界中すべての人が踊っているのではないかと思わせるほど、歌と踊りが広がっていく。
ラ ラーンラーラ
ランランラン
人生はたのしい
ラーンラーラ
ランランラン
踊ろうよ さぁ ジェンカ
亜蘭知子氏の詞が歌われる中、「正義」か「悪」かに凝り固まっていたランの心はゆっくりと溶けていき、遂には彼女も踊り出す。
暴力には暴力で対抗し、暴言には暴言で対抗する。そんな映画や現実にささくれ立っていた観客の心は、楽しい歌と踊りに癒されることだろう。『クレヨンしんちゃん』らしい粋なラストであるとともに、最後はみんなでダンスするのが定番のインド映画からの見事な換骨奪胎といえる。
ランが「正義」を振りかざす前に、先回りして世界を平和にしようとする子供たち。拳法の大技は使えなくても、毎日コツコツ生きることを大切にするマサオ。私は彼らの姿に深く感動した。
しかし、――私は少し引っかかりを覚えた。
一つの歌、一つの踊りにみんなの行動が集約され、世界中の誰もが同じダンスを踊り続ける。そのラストで本当に良いのだろうか。
歌は楽しい。踊りも楽しい。同じ歌をうたい、同じダンスを踊れば、心が一つになったように感じて、全体が調和したようにも思えるだろう。
だが、平和とは何か、正義とは何かを問う本作がたどり着いた結論が、たった一つのダンスを全員で踊り続ける世界では、自分の意に反するものをことごとく「悪」とみなして成敗したランとどれほど変わるというのだろうか。
『ジェンカ』のリズムに酔いしれながら、私の心にはモヤモヤするものが残っていた。
「とりあえず寝て、憶えてたら明日考えます。」
『映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ ~拉麺大乱~』 [え行]
監督/高橋渉 脚本/うえのきみこ
出演/矢島晶子 ならはしみき 森川智之 こおろぎさとみ 真柴摩利 林玉緒 一龍斎貞友 佐藤智恵 潘めぐみ 関根勤 廣田行生
日本公開/2018年4月13日
ジャンル/[コメディ] [アクション] [ファミリー]
これだから『クレヨンしんちゃん』は侮れない。
あの傑作『映画クレヨンしんちゃん バカうまっ! B級グルメサバイバル!!』の脚本を浦沢義雄氏と共同で担当したうえのきみこ氏が、再びしんのすけたち「かすかべ防衛隊」の活躍を描いたのが『映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ ~拉麺大乱(らーめんたいらん)~』だ。
映画は、『包丁人味平』のカレー戦争編のブラックカレーをブラックパンダラーメンに置き換えたかのようにはじまる。一度食べたらやめられないブラックパンダラーメンを売りさばき、春日部住民を病み付きにさせてしまうのが、闇突拳(やみつきけん)を操る武術家ドン・パンパンだ。彼はさらなる事業拡大のため、地上げ屋を使って春日部の中華街アイヤータウンの土地を我が物にせんと企んでいた。
ここから話はカンフー映画、たとえばジャッキー・チェンが若かりし頃の映画『ドランクモンキー 酔拳』あたりのパターンに近づき、立ち退きを迫る一派と、アイヤータウンで頑張り続ける正義包子の店主――実は伝説のカンフーの師匠――の老人、そして老人の下で修業するしんのすけたちの戦いの物語になる。
このままカレー戦争ならぬ中華料理戦争と、カンフーを駆使した悪党退治に終始しても、充分に面白い映画だっただろう。
ところが、うえのきみこ氏初の単独脚本映画だった『映画クレヨンしんちゃん オラの引っ越し物語 サボテン大襲撃』が『人類SOS!』を下敷きにしながらその先を描いたように、本作も数多のカンフー映画を踏まえながら(カンフーの修行をはじめたマサオが口ずさむのは『プロジェクトA』の主題歌だ)、「その先」を描き出す。
今回は、どんどんスケールが広がってカンフー映画の域を超え、暴力と平和、善と悪、正義と不義を考えさせる作品になっていく。しんのすけのキャラクターと壮大なテーマが結びついたクライマックスは、実に見応えがある。
ドン・パンパン率いる武術家たちと戦うために、自分も武術を身につけ、対抗する。それも一つの方法だが、暴力に暴力で応えていては、暴力の連鎖は止まらない。仇討ものや復讐ものの映画が、爽快でありながら今一つしっくり来ないのは、敵を叩きのめすだけでは、暴力を振るわれる苦しみも、暴力を振るう苦しみも終わらないであろうことを予感させるからだ。
本作がユニークなのは、しんのすけたちが修行するのが「ぷにぷに拳」なる一見ふざけた拳法であることだ。
体をクニャクニャにして敵の攻撃をやり過ごす技や、倒されても受け身をとりながら減らず口を叩くことで勝ち負けにこだわらない技、そしてケツだけ星人のバカバカしさで相手の戦意を喪失させる技等々。『クレヨンしんちゃん』ならではのくだらなさに満ちていながら、「ぷにぷに拳」は暴力を巧みにかわし、争いを回避することを本質としている。ただ殴り合いになってしまうようなカンフー映画、復讐譚とは一線を画している。
なかなかやるな。やっぱり『クレヨンしんちゃん』は面白いな。
「ぷにぷに拳」の修行に励むしんのすけたちを見て、私はそう思ったのだが、そのときはまだ本作の奥深さに気がついていなかった。
アクション仮面の大ファンであり、師匠の一番弟子でもあるランとともに旅をして、遂に「ぷにぷに拳」究極の奥義を前にするしんのすけ。
世界に平和をもたらすという究極の奥義に胡散臭さを感じたしんのすけは、その奥義を身につけることを拒絶する。だが、世の中を平和にしたい、悪い奴らから人々を救いたいと願うランは、究極の奥義に手を出してしまう。
やがて激しい戦いの末に、ドン・パンパンを倒すラン。普通の映画ならこれで終わるところだが、暴力と平和、正義と不義をテーマに据えた本作は、「正義」が勝ったその先を描く。
相手の戦意を喪失させる技をも上回る「ぷにぷに拳」究極の奥義「ぷにぷに真掌」。それは人間の脳内をぷにぷになお花畑にして、理性も知性も失った、ただ隷属するだけの無力無気力な存在にしてしまう恐るべき技だった。
「ぷにぷに真掌」を振るうランは、ドン・パンパンを倒してブラックパンダラーメンの店を壊滅させるだけでなく、街にはびこる小さな悪をもことごとく潰しはじめた。他人のビニール傘を盗むのは悪、電車内で透かしっ屁をするのは悪、公共の場で映画のネタばらしをするのは悪、足が臭いのは悪、尻が垂れているのは悪。ひとたびランに「悪」と認定されれば、誰も彼もがたちまち「ぷにぷに真掌」の餌食にされた。ランの姿が見えるとあわてて身を隠し、怯えながら生きる街の人たち(個人的には、映画のネタばらしをしたら退治されても同情の余地はないと思うけれど)。
ランやしんのすけたちが仲良く修行していたときは、ぷにぷに拳バージョンの『かすかべ防衛隊のうた』が楽しく元気な歌に聴こえた。
しかし、「ぷにぷに真掌」を会得して、ただひとり「悪」を滅ぼし続けるランが「♪ラブ&ピース…」と歌う『かすかべ防衛隊のうた』は、ゾッとするほど恐ろしい。
これは歴史上何度も繰り返されてきたことだ。
古くは18世紀のフランス革命。民衆は身分制度にあぐらをかいた「悪」の王族、貴族を革命で追い落としたが、その後に待っていたのは民衆の「正義」を体現した革命政府による恐怖政治だった。粛清に次ぐ粛清でフランス全土を震撼させた恐怖政治の犠牲者は、4万人にも上るという。
あるいは、20世紀のロシア革命。貧しい生活に苦しんだ民衆は帝政を終わらせたが、その後に誕生したのは野党の存在すら許さない一党独裁のソビエト連邦だった。
2010年代の日本では、ヘイトスピーチ(憎悪表現)の増加が社会問題と化していた。排外主義的な考えに染まった者たちが、コリアタウンに行って暴言を吐くという、極めて悪質なことが行われていたのだ。国連でも問題視され、人種差別撤廃委員会や規約人権委員会が、このような活動をやめさせるように日本政府に勧告した。多くの議論を経て、2016年5月にはヘイトスピーチ対策法が成立するに至る。
平和に暮らしている人々に侮蔑的な言葉を投げつけ、彼らへの差別を煽ったりすることが許されるはずがない。これは明らかに「悪」であった(やっている人間は、内輪の論理で自分たちを正当化するのだろうが)。当時、これに対抗しようと立ち上がり、ヘイトスピーチが行われる現場に乗り込んだ人々がいた。ヘイトスピーチが「悪」である以上、これに対抗するのは「正義」のはずだ。
しかし彼らが行ったのもまた、暴言を吐く人間に暴言を投げつけることだった。さらにはヘイトスピーチをする者と衝突して暴力沙汰になり、挙句に仲間うちでのリンチ事件も明るみに出た。リンチ事件の報に接し、連合赤軍が1972年に起こした山岳ベース事件を想起して、戦慄した人もいただろう。
『映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ ~拉麺大乱~』について考えるとき、本作の制作期間がリンチ事件の裁判の最中であり、映画公開がまさに一審判決の翌月だったことは注目されるべきだ。
本作がくだんのリンチ事件や反ヘイトスピーチ活動をなぞってるわけではない。重要なのは、本作のテーマが、そこで描かれる内容が、2010年代の日本では切実な問題だったということだ。そしてこれは、2010年代の日本だけのことではない。
とめどなく「悪」を退治し続けるランに対抗するため、しんのすけたちが採った手段、それがジェンカだ。
フィンランドのフォークダンスであるジェンカは、とくにラウノ・レティネンが作曲した『Letkis』の世界的ヒットで知られる。日本でも坂本九さんのカバー曲『レットキス(ジェンカ)』がよく知られている。
本作では、橋幸夫さんが歌う『ジェンカ』に合わせてしんのすけたちが踊り出す。野原家も踊る。幼稚園の先生たちも踊る。春日部の人々みんなが踊る。踊りの列は、はるか地平の彼方へ続き、世界中すべての人が踊っているのではないかと思わせるほど、歌と踊りが広がっていく。
ラ ラーンラーラ
ランランラン
人生はたのしい
ラーンラーラ
ランランラン
踊ろうよ さぁ ジェンカ
亜蘭知子氏の詞が歌われる中、「正義」か「悪」かに凝り固まっていたランの心はゆっくりと溶けていき、遂には彼女も踊り出す。
暴力には暴力で対抗し、暴言には暴言で対抗する。そんな映画や現実にささくれ立っていた観客の心は、楽しい歌と踊りに癒されることだろう。『クレヨンしんちゃん』らしい粋なラストであるとともに、最後はみんなでダンスするのが定番のインド映画からの見事な換骨奪胎といえる。
ランが「正義」を振りかざす前に、先回りして世界を平和にしようとする子供たち。拳法の大技は使えなくても、毎日コツコツ生きることを大切にするマサオ。私は彼らの姿に深く感動した。
しかし、――私は少し引っかかりを覚えた。
一つの歌、一つの踊りにみんなの行動が集約され、世界中の誰もが同じダンスを踊り続ける。そのラストで本当に良いのだろうか。
歌は楽しい。踊りも楽しい。同じ歌をうたい、同じダンスを踊れば、心が一つになったように感じて、全体が調和したようにも思えるだろう。
だが、平和とは何か、正義とは何かを問う本作がたどり着いた結論が、たった一つのダンスを全員で踊り続ける世界では、自分の意に反するものをことごとく「悪」とみなして成敗したランとどれほど変わるというのだろうか。
『ジェンカ』のリズムに酔いしれながら、私の心にはモヤモヤするものが残っていた。
「とりあえず寝て、憶えてたら明日考えます。」
『映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ ~拉麺大乱~』 [え行]
監督/高橋渉 脚本/うえのきみこ
出演/矢島晶子 ならはしみき 森川智之 こおろぎさとみ 真柴摩利 林玉緒 一龍斎貞友 佐藤智恵 潘めぐみ 関根勤 廣田行生
日本公開/2018年4月13日
ジャンル/[コメディ] [アクション] [ファミリー]
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⇒comment
No title
私自身はあの強烈な催眠効果を伴う「ぷにぷに神掌」が歌や踊りに打ち負けてしまう、あっけなさは嫌いなのだけど、歌や踊りだから、なしえたと考えれば理屈は通る。歌や踊りの初めは日本神話だとアメノウズメの裸舞がある。アマテラスが岩戸に隠れたのを派手な歌舞音曲で呼びだすアレである。あれは祭りの原型なのではないか。みんなが歌って踊って身体を動かして、共同体全体の幸せを祈る。最近でこそラップバトルのように罵りあいを歌詞に乗せる物もあるが、基本、歌、踊りで一体化した集団はみんな仲良くなる。歌や踊りにはそういう効果があるのだと思う。確かに、正義が歌と踊り一面に塗りつぶされる状態はAの考えがBの考えに塗り替えられる状態を想起させる。でも、歌や踊りって主義や主張ではなく、娯楽や酩酊なのだと思う。主義や主張は人を分けるが、娯楽や酩酊は人を繋ぐ。そこに違いがあると信じたい。
70回近くも行われている「紅白歌合戦」が「合戦」なのに今まで一人も死傷者を出していない平和な物である事ですし。
70回近くも行われている「紅白歌合戦」が「合戦」なのに今まで一人も死傷者を出していない平和な物である事ですし。
Re: No title
fjk78deadさん、こんにちは。
おっしゃるとおり、歌や踊りには参加者を酩酊させ、一体化させる作用があると思います。fjk78deadさんが祭りを持ち出したのは的確で、歌も踊りも宗教儀式の一環であり、参加者を酩酊させ、一体化させるのがまさに宗教の役割でしょう。それは共同体の絆を強め、平和をもたらすものだったと思います。
有史以前の、せいぜい200~300人で集団が構成されていた頃はそれで良かったと思いますが、集団が大きくなり、他の集団と密接に関わるようになったここ数千年においても同じスタンスで良いのかは考えものです。
わりと近しい例として、20世紀に存在した大日本帝国では、植民地の人々に自分たちの言葉を教え、自分たちの歌を歌わせていました。それを、同じ歌を歌うことで一体になれる/なれたと思う人もいれば、現地の風物にそぐわない歌を歌わせた/歌わされたと感じる人もいるかもしれません。
「ガイコクジンノトモダチ」という歌の作詞作曲を手がけた北川悠仁氏は、この歌に関して「文章にして読み上げるとかなり危険そうな内容も、ポップソングにしちゃえば何だって歌にできるな、と思って書いてみたんだよね」と述べたそうです。
(『音楽と人』2018年5月号のインタビューを、"ゆず新曲に「靖国・君が代」がいきなり登場、どう受け止めるべきか http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55216 "から孫引き)
冷静に考えれば危険そうな内容でも、歌で酩酊させてしまえば届けられる――音楽のプロは歌の功罪をよくご存じです。
『カンフー・ヨガ』(2017年)のエンディングの歌と踊りは良かったと思います。対立する者たちが、事態を解決し、非を認めるべきは認めた上で、仲直りの象徴としてみんなで歌って踊る。これは(セリフで明示されてはいませんが)、「事態は解消したことだし、もう対立するのはやめて一緒に踊ろうじゃないか」と一方が申し出て、他方も「これからは仲良くしよう。一緒に踊るよ。」と賛同する、そのプロセスの映画的な表現でありました。
しかし、映画によっては、事態が解決されず、意見が対立したままなのに、歌や踊りの高揚感、酩酊感で盛り上げてしまう作品もあります。観客に、冷静に考えることを放棄させ、何となく受け入れさせてしまうのですが、そこにこそ真の危険があるのではないかと思います。
私は、映画を観る際の心構えとして、事態の解決を歌や踊りの盛り上がりですり替える作品を警戒することにしています。
紅白歌合戦が長続きするのは、様々なジャンルの歌い手が、それぞれの得意な歌を持ち寄って披露するところに魅力があるからではないでしょうか。
百人一首は数百年の時を超えて愛されていますが、これも100人の歌を一首ずつ集めたからだと思います。藤原定家の歌を100首集めて読まされたなら、これほど長く愛されたかどうか(ちょっと『ちはやふる』が入りました)。
おっしゃるとおり、歌や踊りには参加者を酩酊させ、一体化させる作用があると思います。fjk78deadさんが祭りを持ち出したのは的確で、歌も踊りも宗教儀式の一環であり、参加者を酩酊させ、一体化させるのがまさに宗教の役割でしょう。それは共同体の絆を強め、平和をもたらすものだったと思います。
有史以前の、せいぜい200~300人で集団が構成されていた頃はそれで良かったと思いますが、集団が大きくなり、他の集団と密接に関わるようになったここ数千年においても同じスタンスで良いのかは考えものです。
わりと近しい例として、20世紀に存在した大日本帝国では、植民地の人々に自分たちの言葉を教え、自分たちの歌を歌わせていました。それを、同じ歌を歌うことで一体になれる/なれたと思う人もいれば、現地の風物にそぐわない歌を歌わせた/歌わされたと感じる人もいるかもしれません。
「ガイコクジンノトモダチ」という歌の作詞作曲を手がけた北川悠仁氏は、この歌に関して「文章にして読み上げるとかなり危険そうな内容も、ポップソングにしちゃえば何だって歌にできるな、と思って書いてみたんだよね」と述べたそうです。
(『音楽と人』2018年5月号のインタビューを、"ゆず新曲に「靖国・君が代」がいきなり登場、どう受け止めるべきか http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55216 "から孫引き)
冷静に考えれば危険そうな内容でも、歌で酩酊させてしまえば届けられる――音楽のプロは歌の功罪をよくご存じです。
『カンフー・ヨガ』(2017年)のエンディングの歌と踊りは良かったと思います。対立する者たちが、事態を解決し、非を認めるべきは認めた上で、仲直りの象徴としてみんなで歌って踊る。これは(セリフで明示されてはいませんが)、「事態は解消したことだし、もう対立するのはやめて一緒に踊ろうじゃないか」と一方が申し出て、他方も「これからは仲良くしよう。一緒に踊るよ。」と賛同する、そのプロセスの映画的な表現でありました。
しかし、映画によっては、事態が解決されず、意見が対立したままなのに、歌や踊りの高揚感、酩酊感で盛り上げてしまう作品もあります。観客に、冷静に考えることを放棄させ、何となく受け入れさせてしまうのですが、そこにこそ真の危険があるのではないかと思います。
私は、映画を観る際の心構えとして、事態の解決を歌や踊りの盛り上がりですり替える作品を警戒することにしています。
紅白歌合戦が長続きするのは、様々なジャンルの歌い手が、それぞれの得意な歌を持ち寄って披露するところに魅力があるからではないでしょうか。
百人一首は数百年の時を超えて愛されていますが、これも100人の歌を一首ずつ集めたからだと思います。藤原定家の歌を100首集めて読まされたなら、これほど長く愛されたかどうか(ちょっと『ちはやふる』が入りました)。
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トラックバックの反映にはしばらく時間がかかります。ご容赦ください。『クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ』『見栄を張る』『パシフィック・リム:アップライジング』『名探偵コナン ゼロの執行人』『レディ・プレイヤー1』
摘まんで5本まとめてレビュー。
◆『クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ』109シネマズ木場5ネタバレ感想です。
▲画像は後から。
五つ星評価で【★★★まあなんつかマサオくんの可哀想がマックスでたまらん】
しんちゃん映画は毎年固定フォーマットがないのだけど、脱力カンフー物にしながらそれだけで終わりにしない、チャレンジングな要素をプラスアルファにしたけど、割とそれがジャマ...
映画 クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ 〜拉麺大乱〜
マサオの誘いで伝説のカンフー「ぷにぷに拳」を習うことになった、しんのすけたちカスカベ防衛隊は、 カンフー娘ランと共に修行に励んでいた。 今、春日部にある中華街≪アイヤータウン≫では、謎の“ブラックパンダラーメン”が大流行中。 しかし、一度食べた人はヤミツキになり、暴走し始めるのだった…。 人気アニメ劇場版。 ≪アクション大盛り 友情濃いめ≫