『悪の教典』 ヒットのための3要素
まだまだ面白い企画はあるものだ。
先日、『北のカナリアたち』に感心したばかりだが、映画『悪の教典』も企画の上手さを堪能した。
林朋宏氏によれば、映画がよく見られる効果要素は三つあり、それは「監督」「スター」「ジャンル」だという。
ネームバリューのある監督やスターが多くの客を呼べることは、誰もが納得するところだろう。3番目の「ジャンル」とは、特定のジャンルを好んで観るコアなファンが存在することを指す。『東京公園』に登場した、ゾンビ映画ばかり観ている女性が良い例だ。
その点、『悪の教典』の狙いは上手い。
『悪の教典』はホラー映画だ。どちらかというとコアなファンが支えるジャンルだろう。学校を舞台に、教師が生徒たちを殺戮する本作は、コアなホラーファンも納得するほどの死体の山が築かれる。
しかも本作は背徳的だ。
ホッケーマスクの殺人鬼やブギーマンが良識に反することをしても、彼らはそのために創作されたキャラクターだからショックでも何でもない。むしろ、人付き合いが良かったり、悩み相談に応じたりしていたら幻滅だ。だが、生徒に人気の先生が、子供を手篭めにしたり殺したりしたら、ブギーマンとは違うインパクトがある。
だが、映像の過激さや、観客を驚かせることについては、本作はまだ控え目だ。本作はそれらを極めようとはしていない。
その代わりに本作が力を入れるのは、効果要素の残りの二つ、「監督」と「スター」である。
三池崇史監督の名前を聞けば、『十三人の刺客』や『愛と誠』のような怒涛のごときエンターテインメントが思い浮かぶ。
さらに「スター」についても申し分ない。『海猿』シリーズの大ヒットで知らぬ者のない伊藤英明さんを主役に迎え、生徒役にも同僚役にも有名スターをズラリと揃えている。これらスターのネームバリューのおかげで、本作の客層は大きく広がったはずだ。
特に伊藤英明さんは、『海猿』シリーズで誠実な熱血漢を演じる一方で、『カムイ外伝』や『アンダルシア 女神の報復』ではそのイメージを払拭するような役に挑んできた。だから『BRAVE HEARTS 海猿』の大ヒットも記憶に新しいこの時期に、今度は連続殺人鬼を演じるのは、伊藤英明さんにとっても願ったりだろう。
前述の林朋宏氏によれば、ホラー映画のようなジャンルムービーは、「一般作ほど広い観客はいなくても、コアなファンが多く、低予算の製作費でも一定のボリュームが確保できる」そうだが、本作はなんとジャンルムービーなのにしっかりと予算を注ぎ込んでいる。監督もスターも知名度に優れた人たちだから、低予算のホラー映画では考えられないほど広い観客にリーチできるだろう。
この効果は絶大だ。普段なら連続殺人鬼の映画なんて目もくれない客層が、伊藤英明主演ということで注目し、スターの豪華さに惹かれて足を運ぶ。
そこで観客が目にするのは、見たこともないショッキングな展開である。
低予算映画でも足を運ぶコアなファンにはたいした刺激じゃないかもしれないが、スターに惹かれてやってきた多くの観客には充分過激だ。
加えて本作を特徴付けるのは、殺人鬼たる主人公の人間性を掘り下げたりしないことだ。どうしてそういう人間になったのか、なんて理由探しはスッパリと切り捨てている。
しばしば作品の良し悪しに関連して「人間が描けていない」という批評があるけれど、人間を描くことと面白さは別だ。
お化け屋敷でお化けの身の上話を聞かされたら、どんなにつまらないことだろう。お化け屋敷のお化けは怖がらせてくれればいいのであり、客は怖ければ怖いほどまた行きたくなるものだ。
本作では、文化祭に向けたお化け屋敷の飾り付けの中を、生徒たちがキャーキャー叫んで逃げ回る。それはまさしくお化け屋敷を逃げまどうのと同じだ。
派手派手しい装飾の中の惨劇は、お祭り騒ぎのような楽しさに満ちて、セルフパロディの妙味すら漂わせている。映像がグロテスクになり過ぎないように控えているのも、広い観客を意識した配慮だろう。
また、原作者の貴志祐介氏は、次のような想いで『悪の教典』を書いたという。
---
学校を舞台にした小説は数多くあるものの、どうしても最終的にはいい話になりがちなんですね。そういうものではないものを書いてみたい、と思っていました。
---
その精神は映画にも受け継がれている。
お化け屋敷の出口でお化けに握手を求められたら、いい話かもしれないが興醒めだ。原作者のおっしゃることはもっともなのだ。
ところで私は、学内を血の海にする主人公を見ながら、『仮面ライダー』を思い出していた。
猟銃を手に、逃げまどう生徒たち追いかけ回す主人公が、ショッカーのアジトに乗り込んで戦闘員を襲う仮面ライダーに見えたのである。戦闘員たちにもそれぞれいろんな事情があるかもしれないのに、仮面ライダーは有無を云わさず手当たり次第に殴り殺すからだ。
ちなみにショッカーとは、多数の国家が乱立するこの世界に、統一政府を樹立し、恒久的な平和を実現しようとする国際的なNGOである。
政党が党首を首班に指名するように、ショッカーも自分たちの首領を世界の首班に据えようとした。だが、それが気に入らない仮面ライダーによって、ショッカーは皆殺しにされてしまう。
私たちがエールを送ったヒーローも、その行動の一断面を捉えれば本作の主人公と変わらない。本作を見ていて、そんなことを考えた。
とはいえ、『悪の教典』はお化け屋敷的な楽しさを味わうのが第一だ。友だちと文化祭に行くように、みんなで連れだって観たいものだ。
鑑賞中は不道徳な場面の連続にゾッとし、映画館を出たら主人公のひどさをみんなでこき下ろす。そんな見方が楽しいだろう。
これはオールスター悪の祭典なのだから。
『悪の教典』 [あ行]
監督・脚本/三池崇史
出演/伊藤英明 山田孝之 二階堂ふみ 染谷将太 林遣都 浅香航大 水野絵梨奈 平岳大 吹越満 KENTA 宮里駿 横山涼
日本公開/2012年11月10日
ジャンル/[サスペンス] [ホラー] [学園]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
先日、『北のカナリアたち』に感心したばかりだが、映画『悪の教典』も企画の上手さを堪能した。
林朋宏氏によれば、映画がよく見られる効果要素は三つあり、それは「監督」「スター」「ジャンル」だという。
ネームバリューのある監督やスターが多くの客を呼べることは、誰もが納得するところだろう。3番目の「ジャンル」とは、特定のジャンルを好んで観るコアなファンが存在することを指す。『東京公園』に登場した、ゾンビ映画ばかり観ている女性が良い例だ。
その点、『悪の教典』の狙いは上手い。
『悪の教典』はホラー映画だ。どちらかというとコアなファンが支えるジャンルだろう。学校を舞台に、教師が生徒たちを殺戮する本作は、コアなホラーファンも納得するほどの死体の山が築かれる。
しかも本作は背徳的だ。
ホッケーマスクの殺人鬼やブギーマンが良識に反することをしても、彼らはそのために創作されたキャラクターだからショックでも何でもない。むしろ、人付き合いが良かったり、悩み相談に応じたりしていたら幻滅だ。だが、生徒に人気の先生が、子供を手篭めにしたり殺したりしたら、ブギーマンとは違うインパクトがある。
だが、映像の過激さや、観客を驚かせることについては、本作はまだ控え目だ。本作はそれらを極めようとはしていない。
その代わりに本作が力を入れるのは、効果要素の残りの二つ、「監督」と「スター」である。
三池崇史監督の名前を聞けば、『十三人の刺客』や『愛と誠』のような怒涛のごときエンターテインメントが思い浮かぶ。
さらに「スター」についても申し分ない。『海猿』シリーズの大ヒットで知らぬ者のない伊藤英明さんを主役に迎え、生徒役にも同僚役にも有名スターをズラリと揃えている。これらスターのネームバリューのおかげで、本作の客層は大きく広がったはずだ。
特に伊藤英明さんは、『海猿』シリーズで誠実な熱血漢を演じる一方で、『カムイ外伝』や『アンダルシア 女神の報復』ではそのイメージを払拭するような役に挑んできた。だから『BRAVE HEARTS 海猿』の大ヒットも記憶に新しいこの時期に、今度は連続殺人鬼を演じるのは、伊藤英明さんにとっても願ったりだろう。
前述の林朋宏氏によれば、ホラー映画のようなジャンルムービーは、「一般作ほど広い観客はいなくても、コアなファンが多く、低予算の製作費でも一定のボリュームが確保できる」そうだが、本作はなんとジャンルムービーなのにしっかりと予算を注ぎ込んでいる。監督もスターも知名度に優れた人たちだから、低予算のホラー映画では考えられないほど広い観客にリーチできるだろう。
この効果は絶大だ。普段なら連続殺人鬼の映画なんて目もくれない客層が、伊藤英明主演ということで注目し、スターの豪華さに惹かれて足を運ぶ。
そこで観客が目にするのは、見たこともないショッキングな展開である。
低予算映画でも足を運ぶコアなファンにはたいした刺激じゃないかもしれないが、スターに惹かれてやってきた多くの観客には充分過激だ。
加えて本作を特徴付けるのは、殺人鬼たる主人公の人間性を掘り下げたりしないことだ。どうしてそういう人間になったのか、なんて理由探しはスッパリと切り捨てている。
しばしば作品の良し悪しに関連して「人間が描けていない」という批評があるけれど、人間を描くことと面白さは別だ。
お化け屋敷でお化けの身の上話を聞かされたら、どんなにつまらないことだろう。お化け屋敷のお化けは怖がらせてくれればいいのであり、客は怖ければ怖いほどまた行きたくなるものだ。
本作では、文化祭に向けたお化け屋敷の飾り付けの中を、生徒たちがキャーキャー叫んで逃げ回る。それはまさしくお化け屋敷を逃げまどうのと同じだ。
派手派手しい装飾の中の惨劇は、お祭り騒ぎのような楽しさに満ちて、セルフパロディの妙味すら漂わせている。映像がグロテスクになり過ぎないように控えているのも、広い観客を意識した配慮だろう。
また、原作者の貴志祐介氏は、次のような想いで『悪の教典』を書いたという。
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学校を舞台にした小説は数多くあるものの、どうしても最終的にはいい話になりがちなんですね。そういうものではないものを書いてみたい、と思っていました。
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その精神は映画にも受け継がれている。
お化け屋敷の出口でお化けに握手を求められたら、いい話かもしれないが興醒めだ。原作者のおっしゃることはもっともなのだ。
ところで私は、学内を血の海にする主人公を見ながら、『仮面ライダー』を思い出していた。
猟銃を手に、逃げまどう生徒たち追いかけ回す主人公が、ショッカーのアジトに乗り込んで戦闘員を襲う仮面ライダーに見えたのである。戦闘員たちにもそれぞれいろんな事情があるかもしれないのに、仮面ライダーは有無を云わさず手当たり次第に殴り殺すからだ。
ちなみにショッカーとは、多数の国家が乱立するこの世界に、統一政府を樹立し、恒久的な平和を実現しようとする国際的なNGOである。
政党が党首を首班に指名するように、ショッカーも自分たちの首領を世界の首班に据えようとした。だが、それが気に入らない仮面ライダーによって、ショッカーは皆殺しにされてしまう。
私たちがエールを送ったヒーローも、その行動の一断面を捉えれば本作の主人公と変わらない。本作を見ていて、そんなことを考えた。
とはいえ、『悪の教典』はお化け屋敷的な楽しさを味わうのが第一だ。友だちと文化祭に行くように、みんなで連れだって観たいものだ。
鑑賞中は不道徳な場面の連続にゾッとし、映画館を出たら主人公のひどさをみんなでこき下ろす。そんな見方が楽しいだろう。
これはオールスター悪の祭典なのだから。
『悪の教典』 [あ行]
監督・脚本/三池崇史
出演/伊藤英明 山田孝之 二階堂ふみ 染谷将太 林遣都 浅香航大 水野絵梨奈 平岳大 吹越満 KENTA 宮里駿 横山涼
日本公開/2012年11月10日
ジャンル/[サスペンス] [ホラー] [学園]
『終の信託』 作文には書けないもの
さすがは周防正行監督だ。『終(つい)の信託』は144分もの長さがありながら、名人芸ともいえるショットの積み重ねで、一瞬の無駄もない。
いや、一瞬の無駄もなく切り詰めに切り詰めたからこそ、この緊迫したドラマを144分で描けたのだろう。しばしばインタビュー等で作品のテーマや狙いを語る作り手がいるけれど、『終の信託』は144分かけなければ周防正行監督の伝えたいことを表現できない、まさにそんな映画である。
2007年の『それでもボクはやってない』で法廷を描いた周防正行監督は、本作では法廷審理に入るより前の、検事による調書作成を取り上げている。
この調書がとりわけ重要なのは、刑事訴訟法321条及び322条が、調書を証拠として認めているからだ。たとえ公判で被告人が無罪を主張しても、調書の内容が罪を認めるものであれば、それが証拠とされてしまうのである。[*]
だが、『終の信託』が描き出すのは、この調書が検事の作文でしかない恐しさだ。
本作は、長らく意識の戻らない患者への延命治療を中止した医師が主人公だ。
検事はときに恫喝し、ときに甘言で、医師の証言を引き出し、検事の主張することに「はい」と同意させていく。その内容を調書にまとめるわけだが、調書の文言は検事に都合良く選ばれ、省略され、検事のストーリーに沿った言葉だけが並べられていく。
そこに書かれたことは嘘ではない。だが、たかだか数枚の調書に、どれほどの真実が宿るというのか。
それを観客に実感させるため、周防監督は事件の経緯を詳細に描き出す。医師と患者の触れあいや交流の深まり、それぞれの感情や死生観をもたらした過去の出来事も含めて、じっくり丁寧に描いていく。
だから検事が調書を読み上げても、医師と患者の長い人間関係を見てきた観客には、一片の真実も感じられない。
心肺停止状態で病院に担ぎ込まれた患者に対する医師の懸命な治療と、ようやく心臓が動き出したときの安堵感。その詳しい経緯を知っている観客は、検事の「患者はしばらくして自発呼吸をした」なんて一文では実態からほど遠いことを実感する。
そんな調書に、いかほどの真実が、当事者の感情が、人生の軌跡が、思いや信念が、そして人間同士の愛情が書き留められるというのだろう。
『終の信託』は、医師の決断や患者の願いの背景に、調書にはとても書けないほどの豊かな人生と溢れる愛情が存在することを示している。
にもかかわらず、人が人を裁くとはどういうことか。
検事も裁判官も人の子である。人から称賛されたいし、手柄も立てたい。そんな彼らが、調書を証拠として人を裁く司法制度とは何なのだろう。
朔立木(さく たつき)のペンネームで活躍する原作者は、高名な刑事弁護士であるという。
弁護士が公判で被告人に有利な供述を引き出しても、取調べ段階で検事の作文した調書が証拠とされてしまう。そのやりきれなさはいかばかりか。
そして大沢たかおさんが演じる検事の無情さ、憎々しさに、嫌悪感を抱く観客もいるだろう。本作の検事は、ヒール(悪役)に見えるだろう。
だが、ここで嫌悪感を抱いたり、検事を悪役と見たりする危険性も、周防正行監督は承知している。
検事の口にすることは間違っていない。第三者が知るよしもない医師と患者の交流に基いて延命治療を止めました、なんて弁明を認めていたら、法治国家は成り立たない。定められた手続き、定められたルールから逸脱した者は、裁かれねばならない。その刑罰は、悪いヤツだから厳罰に処して、善い人だから軽くするのではなく、法律の規定にのっとって、犯罪に比例したもっとも軽いものでなければならない。
そういうことを踏まえて周防監督が作り上げた検事の人物像は、医師の思いに同化している観客には嫌悪すべき人間に見えるだろうが、もしも取調べシーンだけを見たら(事件の経緯を知らずに見たら)犯意を隠した容疑者を突き崩す敏腕検事にも見えるように、ギリギリの線を狙ったものだ。
大沢たかおさんの演技も、感情を押し殺しているように見える一方で、冷徹な計算を働かせているようにも見えて秀逸だ。
そして本作は、単なる制度の良し悪しを越えた、生と死、愛と情の問題を私たちに突きつける。
延命治療を続けるかどうかの判断は、人類にとってとても新しい問題だ。
過去数百万年のあいだ、生と死は人間の力ではどうにもならないことだった。自力では生きられず、意思表示できない状態でも、医療により延命できる時代――それは人類史上ここ数十年のことでしかない。
そのため私たちの思考や感情は、このような事態に適応していない。生と死の線引きを人間が判断するのは、人類がはじめて遭遇する課題であり、そこにはまだ確立された「慣習」がない。
ましてそれを司法制度で裁かねばならないとは、私たちが直面している問題はなんと大きいのだろう。
いったい、私たちが裁いているのは何なのだろうか。
[*] 検面調書の特信性とは
『終の信託』 [た行]
監督・脚本/周防正行
出演/草刈民代 役所広司 浅野忠信 大沢たかお 細田よしひこ 中村久美
日本公開/2012年10月27日
ジャンル/[ドラマ] [ロマンス]
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いや、一瞬の無駄もなく切り詰めに切り詰めたからこそ、この緊迫したドラマを144分で描けたのだろう。しばしばインタビュー等で作品のテーマや狙いを語る作り手がいるけれど、『終の信託』は144分かけなければ周防正行監督の伝えたいことを表現できない、まさにそんな映画である。
2007年の『それでもボクはやってない』で法廷を描いた周防正行監督は、本作では法廷審理に入るより前の、検事による調書作成を取り上げている。
この調書がとりわけ重要なのは、刑事訴訟法321条及び322条が、調書を証拠として認めているからだ。たとえ公判で被告人が無罪を主張しても、調書の内容が罪を認めるものであれば、それが証拠とされてしまうのである。[*]
だが、『終の信託』が描き出すのは、この調書が検事の作文でしかない恐しさだ。
本作は、長らく意識の戻らない患者への延命治療を中止した医師が主人公だ。
検事はときに恫喝し、ときに甘言で、医師の証言を引き出し、検事の主張することに「はい」と同意させていく。その内容を調書にまとめるわけだが、調書の文言は検事に都合良く選ばれ、省略され、検事のストーリーに沿った言葉だけが並べられていく。
そこに書かれたことは嘘ではない。だが、たかだか数枚の調書に、どれほどの真実が宿るというのか。
それを観客に実感させるため、周防監督は事件の経緯を詳細に描き出す。医師と患者の触れあいや交流の深まり、それぞれの感情や死生観をもたらした過去の出来事も含めて、じっくり丁寧に描いていく。
だから検事が調書を読み上げても、医師と患者の長い人間関係を見てきた観客には、一片の真実も感じられない。
心肺停止状態で病院に担ぎ込まれた患者に対する医師の懸命な治療と、ようやく心臓が動き出したときの安堵感。その詳しい経緯を知っている観客は、検事の「患者はしばらくして自発呼吸をした」なんて一文では実態からほど遠いことを実感する。
そんな調書に、いかほどの真実が、当事者の感情が、人生の軌跡が、思いや信念が、そして人間同士の愛情が書き留められるというのだろう。
『終の信託』は、医師の決断や患者の願いの背景に、調書にはとても書けないほどの豊かな人生と溢れる愛情が存在することを示している。
にもかかわらず、人が人を裁くとはどういうことか。
検事も裁判官も人の子である。人から称賛されたいし、手柄も立てたい。そんな彼らが、調書を証拠として人を裁く司法制度とは何なのだろう。
朔立木(さく たつき)のペンネームで活躍する原作者は、高名な刑事弁護士であるという。
弁護士が公判で被告人に有利な供述を引き出しても、取調べ段階で検事の作文した調書が証拠とされてしまう。そのやりきれなさはいかばかりか。
そして大沢たかおさんが演じる検事の無情さ、憎々しさに、嫌悪感を抱く観客もいるだろう。本作の検事は、ヒール(悪役)に見えるだろう。
だが、ここで嫌悪感を抱いたり、検事を悪役と見たりする危険性も、周防正行監督は承知している。
検事の口にすることは間違っていない。第三者が知るよしもない医師と患者の交流に基いて延命治療を止めました、なんて弁明を認めていたら、法治国家は成り立たない。定められた手続き、定められたルールから逸脱した者は、裁かれねばならない。その刑罰は、悪いヤツだから厳罰に処して、善い人だから軽くするのではなく、法律の規定にのっとって、犯罪に比例したもっとも軽いものでなければならない。
そういうことを踏まえて周防監督が作り上げた検事の人物像は、医師の思いに同化している観客には嫌悪すべき人間に見えるだろうが、もしも取調べシーンだけを見たら(事件の経緯を知らずに見たら)犯意を隠した容疑者を突き崩す敏腕検事にも見えるように、ギリギリの線を狙ったものだ。
大沢たかおさんの演技も、感情を押し殺しているように見える一方で、冷徹な計算を働かせているようにも見えて秀逸だ。
そして本作は、単なる制度の良し悪しを越えた、生と死、愛と情の問題を私たちに突きつける。
延命治療を続けるかどうかの判断は、人類にとってとても新しい問題だ。
過去数百万年のあいだ、生と死は人間の力ではどうにもならないことだった。自力では生きられず、意思表示できない状態でも、医療により延命できる時代――それは人類史上ここ数十年のことでしかない。
そのため私たちの思考や感情は、このような事態に適応していない。生と死の線引きを人間が判断するのは、人類がはじめて遭遇する課題であり、そこにはまだ確立された「慣習」がない。
ましてそれを司法制度で裁かねばならないとは、私たちが直面している問題はなんと大きいのだろう。
いったい、私たちが裁いているのは何なのだろうか。
[*] 検面調書の特信性とは
『終の信託』 [た行]
監督・脚本/周防正行
出演/草刈民代 役所広司 浅野忠信 大沢たかお 細田よしひこ 中村久美
日本公開/2012年10月27日
ジャンル/[ドラマ] [ロマンス]
『裏切りのサーカス』は押井守版サイボーグ009だ
2009年、押井守監督は『サイボーグ009』の映画化を進めていた。
最終的に神山健治監督の『009 RE:CYBORG』(2012年)として結実した企画は、元々は押井監督の新作としてスタートしたのだ。
『サイボーグ009』は、001から009までのサイボーグ戦士が9人のチームワークを活かしながら悪と戦うマンガであり、その映画化といえば誰もが痛快なアクションを期待する。ところが押井守監督のアイデアは、原作マンガからずいぶん乖離したものだった。「アニメスタイル 002」のインタビューで、神山監督がその一部を紹介している。
・ヒロインの003は、いまや58歳になっている。
・一方、主人公の009は18歳のまま歳を取らない。
・赤ん坊だった001は、犬に脳を移植している。
・残りのゼロゼロナンバーサイボーグもギルモア博士も、すでに死亡している。
・003は犬を連れて世界中を旅しており、その先で得た証拠を、009の家の留守電に吹き込む。高校生の009がその留守電を聞いている。
映画は神山健治監督が手がけることになり、この構想は実現しなかったが、主要メンバーが死んでいるとか、ヒロインが初老だなんて作品になったら、原作ファンは憤死していたかもしれない。
とはいえ押井監督は、自分の原点が『サイボーグ009』にあるという人だ。意味もなく原作をないがしろにはしないだろう。
『サイボーグ009』の連載開始は1964年。このとき18歳だった009がリアルに歳を取ったとすれば、2012年には66歳だ。001から008までの研究の成果を注ぎ込まれた009は、毛髪も皮膚も特殊プラスチック製で、脳にまで機械を装着しているほどだから、身体的には変化しないだろうが、009よりも前に改造された年上のメンバーたちは死亡していてもおかしくない。1964年当時、すでに白髪頭だったギルモア博士が死んでいるのは当然だ。
そう考えれば、003が58歳なのはまだ手加減したといえよう。
たいていマンガやアニメの作り手は、キャラクターの年齢をあまり気にしない。
サザエさん一家がいつまでも歳を取らないように、原作の発表がいつだろうが設定書に18歳と書きさえすれば009はいつでも18歳なのだ。
にもかかわらず前述のインタビューによれば、押井守監督は「ギルモア博士なんて100歳とっくに越えてるんだから生きてる訳ないだろ!」と主張したという。
これは、原作をないがしろにしているどころか、009たちが、年齢をごまかせないほどリアルな存在として押井監督の中に息づいていることを示していよう。
サザエさんは現実社会とほとんど関わらないから、永遠の20代でも構わない。
だが、『サイボーグ009』はベルリンの壁を越えたり、ベトナム戦争や中東戦争に介入したりと、現実の社会情勢が色濃く反映された作品だ。ベトナム戦争時代の青年が21世紀になっても青年のままでは辻褄が合わない。
押井守監督が、メンバーの大半が死んでいるとかヒロインが初老であると考えたのは、『サイボーグ009』という作品と、その執筆された時代とのかかわりを尊重したからではないだろうか。
実をいえば、押井守監督はもっと昔にも『サイボーグ009』のアニメ化に興味を持っていたという。押井守情報サイト「野良犬の塒(ねぐら)」さんが紹介する2004年のインタビューで、押井監督はそのことを語っている。
そのインタビューを読むと、押井守監督が『サイボーグ009』を冷戦の産物と捉えていたことが判る。各国代表のサイボーグ戦士たちが米ソの代理戦争に介入し、戦争を激化させている軍産複合体の活動を阻止する。そんな『サイボーグ009』は、冷戦時代と切り離せない。そう考えた押井監督は、冷戦終結後に『サイボーグ009』を映画化する意味はないと結論付けた。
「野良犬の塒」から、押井監督の言葉を引用させていただこう。
---
「冷戦後の世界であれ(『009』)をやること自体意味あるんだろうか」というとさ、間違いなく『009』は冷戦の産物だから。
(略)
冷戦の思想の産物なんであって、その枠組みが変わっちゃった今の時代に(『009』を)やってどうするんだろうって。
---
私は『サイボーグ009』には時代を超えた普遍的なテーマがあると思うが、『サイボーグ009』が冷戦を背景に誕生したヒーローであることは間違いない。
そして1985年にソ連共産党の書記長にミハイル・ゴルバチョフが就任し、冷戦が終結に向かうのと呼応するように、『サイボーグ009』の原作は執筆されなくなる。
面白いのは、2004年のインタビューでは、どうやったら『サイボーグ009』が映画化可能になるか一通りシミュレーションしたけれど駄目だったと語っていた押井監督が、2009年になるとまたもや『サイボーグ009』の映画化を検討したことだ。
「世界の枠組みが変わっちゃった中で、どうやったら『009』を映画にしたら良いんだ」という問題に、押井監督は解を見つけたのだろうか。
そこで注目したいのが、2011年制作の映画『裏切りのサーカス』だ。押井監督は映画紹介の記事で、この映画が「かなり面白かった」と述べている。
原作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』は1974年に発表されたジョン・ル・カレのスパイ小説だ。極めつけの「冷戦の産物」である。冷戦時代を舞台にした冷戦時代の小説を、今になって映画化した『裏切りのサーカス』――それを、冷戦時代のマンガを「今の時代にやってどうするんだろう」と語っていた押井守監督が面白いというのだから興味深い。冷戦時代の作品でも取り組めると思い直した心境の変化と、通じるものがあるのだろうか。
押井守監督も、いま『裏切りのサーカス』が作られたことに驚いたという。
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いま冷戦の映画をなぜ作るんだろうってそれがまずびっくりした。映画の中で第二次大戦後の時代をものすごく忠実に再現してるんですよ、車から服装から街角から。あの努力がまずすごいんですが、でもいまなぜ、この時代の映画を作るんだろうって気になった。
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『裏切りのサーカス』は、英国情報部で実際に起きた事件を基に描かれた(だから『アナザー・カントリー』の後日談ともいえる)、静かな緊張に満ちた映画である。
対ソ連諜報活動の最前線に立つ英国情報部<サーカス>。「コントロール」と呼ばれるチーフの下、5人の幹部が<サーカス>を指揮していたが、作戦の失敗から優秀な部下を失い、チーフとナンバー2のスマイリーは<サーカス>を追われる破目になる。
ほどなくチーフは病死し、スマイリーは無為な日々を過ごしていた。
そんなスマイリーに、政府高官から非公式な任務が与えられる。<サーカス>内部にいる裏切り者の二重スパイを探せというのだ。容疑者はチーフとスマイリーがいなくなったのをいいことに<サーカス>を牛耳っている4人の幹部だ。
本作でたびたび挿入されるのが、昔のパーティーの回想シーンだ。チーフも部下も健在の頃はチームワークも取れていて、ソ連と戦うためにみんなが一丸となっていたことを物語る光景である。
公式サイトによれば、この回想シーンは原作にはなく、映画のオリジナルだという。
映画は冷戦時代を舞台としつつも、あの時代を懐かしい思い出として描いている。そのことを百万言の言葉よりも端的に示すシーンだ。この映画は、一番輝いていた時代が過ぎた後の物語なのだ。
それもまた現代にアピールする点であると押井監督は考えている。
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劇中のセリフでも言ってたけど「昔はすべてが単純だった。いまは複雑怪奇になって誰も状況が見えなくなった。誰が敵なのか、誰が味方なのか、昔ははっきりしてた」っていうさ。そういうのにうんざりしたっていうのがあるんじゃないかな。
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そして押井監督は、「どこかしら人間が生きるということ、人生とか時代とか歴史とかいう話につながる普遍性がないと映画にならないと僕は思う」と述べつつ、「ナンバー2論」を展開する。
---
歴史でも戦争でも、僕はあるヒエラルキーの中のナンバー2に興味がある。ナンバー2というのは一番面白いポジションなんですよ。上も見えれば下も見える。絶えずトップの側で見られるから。「何をするべきか」というよりも「何をしちゃいけないのか」を一番よく知ってるのがナンバー2。
(略)
あの映画は最近では珍しいナンバー2の映画なんです。スマイリーという男は実はほとんど何もしてない。もぐら(二重スパイ)狩りをやれと言われたときに、まず安ホテルにこもって、「書類を全部持ってこい」と命じて状況を把握するところから始めて、全部人を動かすだけで自分はほとんどなにもしない。いろんな情報を聞いてるだけ。
---
たしかにスマイリーは他の人間にあちこち行かせて、情報を持って来させるばかりだ。
なるほど、と私は思った。「003が世界中を旅して、その先で得た証拠を、009は家の留守電で聞いている」とはそういうことか。
戦う相手がハッキリしていた全盛期は過ぎ去った世界。
メンバーの死亡等により、もはやチームの体をなさなくなった「チーム」。
こんなことになった理由を突き止めようとする「生き残り」。
考えてみれば、009は主人公だからリーダーのように見えるけれど、メンバーを招集するのはギルモア博士だし、作戦を立てて司令塔になるのは001だ。001にとって009が捨て駒でしかないことは『地下帝国ヨミ編』が示している。009はナンバー1ではないのだ。
冷戦時代の作品を現代に甦らせた『裏切りのサーカス』は、やはり冷戦の産物である『サイボーグ009』を検討する上で示唆することが多いのではないだろうか。
少なくとも、『サイボーグ009』をその執筆された時代から切り離さずに愚直に映画化したら、『裏切りのサーカス』のような味わいになるのではなかろうか。
『裏切りのサーカス』を観ていると、突拍子もなく感じられた押井守監督の『サイボーグ009』案が、実は正攻法のアプローチのように思えてくるのである。
さて、最後に押井守監督とは異なる私なりの『裏切りのサーカス』の感想を記しておこう。
押井守監督はスマイリーがチーフの懐刀であると述べ、ナンバー2の立場を積極的に肯定している。
だが、チーフはスマイリーのことをそんなに高く買っていたのだろうか。
私には、チーフにとって便利だからスマイリーをそばに置いていたように思える。チーフが幹部連中と対峙するときに、議論を楽にするために自分に同調する者を参加させる。その程度の位置付けだったのではないだろうか。
チーフは幹部一人ひとりにその特徴に合わせたコードネームを付けていた。勇敢な「兵士(ソルジャー)」やお洒落な「仕立屋(テイラー)」たちの中にあって、スマイリーのコードネームは一番みじめな「乞食(ベガマン)」だった。チーフが引責するときは、スマイリーも辞めさせられて、まるでチーフの捨て駒である。
実際スマイリーは、他の幹部のように野心満々で新作戦を打ち出したり、機を見るに敏だったり、主義主張を貫いたりすることがない。職務を淡々とこなしてきたスマイリーは、<サーカス>の幹部の中でもっとも凡庸な男だろう。
そんなさえない男が、職を失い、妻に家出され、ますますさえなくなっていく。
そこに漂うのは、時代に合わなくなってしまった物悲しさと、自分が周りから必要とされていない寂寞感だ。
ところが面白いことに、部下の意見を握りつぶしてきたチーフは死に、新作戦を打ち出した野心家はその作戦が命取りになり、主義主張を貫いた者は主義に殉じることになる。
凡庸きわまりない男が生き残り、再チャレンジの機会を得る。
そこに、今の時代でも共感を覚える普遍性があるのではないかと、凡庸な私は思うのだ。
『裏切りのサーカス』 [あ行]
監督/トーマス・アルフレッドソン
出演/ゲイリー・オールドマン コリン・ファース トム・ハーディ トビー・ジョーンズ マーク・ストロング ベネディクト・カンバーバッチ ジョン・ハート キアラン・ハインズ キャシー・バーク デヴィッド・デンシック スティーヴン・グレアム サイモン・マクバーニー スヴェトラーナ・コドチェンコワ ジョン・ル・カレ
日本公開/2012年4月21日
ジャンル/[ミステリー] [ドラマ] [サスペンス]
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最終的に神山健治監督の『009 RE:CYBORG』(2012年)として結実した企画は、元々は押井監督の新作としてスタートしたのだ。
『サイボーグ009』は、001から009までのサイボーグ戦士が9人のチームワークを活かしながら悪と戦うマンガであり、その映画化といえば誰もが痛快なアクションを期待する。ところが押井守監督のアイデアは、原作マンガからずいぶん乖離したものだった。「アニメスタイル 002」のインタビューで、神山監督がその一部を紹介している。
・ヒロインの003は、いまや58歳になっている。
・一方、主人公の009は18歳のまま歳を取らない。
・赤ん坊だった001は、犬に脳を移植している。
・残りのゼロゼロナンバーサイボーグもギルモア博士も、すでに死亡している。
・003は犬を連れて世界中を旅しており、その先で得た証拠を、009の家の留守電に吹き込む。高校生の009がその留守電を聞いている。
映画は神山健治監督が手がけることになり、この構想は実現しなかったが、主要メンバーが死んでいるとか、ヒロインが初老だなんて作品になったら、原作ファンは憤死していたかもしれない。
とはいえ押井監督は、自分の原点が『サイボーグ009』にあるという人だ。意味もなく原作をないがしろにはしないだろう。
『サイボーグ009』の連載開始は1964年。このとき18歳だった009がリアルに歳を取ったとすれば、2012年には66歳だ。001から008までの研究の成果を注ぎ込まれた009は、毛髪も皮膚も特殊プラスチック製で、脳にまで機械を装着しているほどだから、身体的には変化しないだろうが、009よりも前に改造された年上のメンバーたちは死亡していてもおかしくない。1964年当時、すでに白髪頭だったギルモア博士が死んでいるのは当然だ。
そう考えれば、003が58歳なのはまだ手加減したといえよう。
たいていマンガやアニメの作り手は、キャラクターの年齢をあまり気にしない。
サザエさん一家がいつまでも歳を取らないように、原作の発表がいつだろうが設定書に18歳と書きさえすれば009はいつでも18歳なのだ。
にもかかわらず前述のインタビューによれば、押井守監督は「ギルモア博士なんて100歳とっくに越えてるんだから生きてる訳ないだろ!」と主張したという。
これは、原作をないがしろにしているどころか、009たちが、年齢をごまかせないほどリアルな存在として押井監督の中に息づいていることを示していよう。
サザエさんは現実社会とほとんど関わらないから、永遠の20代でも構わない。
だが、『サイボーグ009』はベルリンの壁を越えたり、ベトナム戦争や中東戦争に介入したりと、現実の社会情勢が色濃く反映された作品だ。ベトナム戦争時代の青年が21世紀になっても青年のままでは辻褄が合わない。
押井守監督が、メンバーの大半が死んでいるとかヒロインが初老であると考えたのは、『サイボーグ009』という作品と、その執筆された時代とのかかわりを尊重したからではないだろうか。
実をいえば、押井守監督はもっと昔にも『サイボーグ009』のアニメ化に興味を持っていたという。押井守情報サイト「野良犬の塒(ねぐら)」さんが紹介する2004年のインタビューで、押井監督はそのことを語っている。
そのインタビューを読むと、押井守監督が『サイボーグ009』を冷戦の産物と捉えていたことが判る。各国代表のサイボーグ戦士たちが米ソの代理戦争に介入し、戦争を激化させている軍産複合体の活動を阻止する。そんな『サイボーグ009』は、冷戦時代と切り離せない。そう考えた押井監督は、冷戦終結後に『サイボーグ009』を映画化する意味はないと結論付けた。
「野良犬の塒」から、押井監督の言葉を引用させていただこう。
---
「冷戦後の世界であれ(『009』)をやること自体意味あるんだろうか」というとさ、間違いなく『009』は冷戦の産物だから。
(略)
冷戦の思想の産物なんであって、その枠組みが変わっちゃった今の時代に(『009』を)やってどうするんだろうって。
---
私は『サイボーグ009』には時代を超えた普遍的なテーマがあると思うが、『サイボーグ009』が冷戦を背景に誕生したヒーローであることは間違いない。
そして1985年にソ連共産党の書記長にミハイル・ゴルバチョフが就任し、冷戦が終結に向かうのと呼応するように、『サイボーグ009』の原作は執筆されなくなる。
面白いのは、2004年のインタビューでは、どうやったら『サイボーグ009』が映画化可能になるか一通りシミュレーションしたけれど駄目だったと語っていた押井監督が、2009年になるとまたもや『サイボーグ009』の映画化を検討したことだ。
「世界の枠組みが変わっちゃった中で、どうやったら『009』を映画にしたら良いんだ」という問題に、押井監督は解を見つけたのだろうか。
そこで注目したいのが、2011年制作の映画『裏切りのサーカス』だ。押井監督は映画紹介の記事で、この映画が「かなり面白かった」と述べている。
原作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』は1974年に発表されたジョン・ル・カレのスパイ小説だ。極めつけの「冷戦の産物」である。冷戦時代を舞台にした冷戦時代の小説を、今になって映画化した『裏切りのサーカス』――それを、冷戦時代のマンガを「今の時代にやってどうするんだろう」と語っていた押井守監督が面白いというのだから興味深い。冷戦時代の作品でも取り組めると思い直した心境の変化と、通じるものがあるのだろうか。
押井守監督も、いま『裏切りのサーカス』が作られたことに驚いたという。
---
いま冷戦の映画をなぜ作るんだろうってそれがまずびっくりした。映画の中で第二次大戦後の時代をものすごく忠実に再現してるんですよ、車から服装から街角から。あの努力がまずすごいんですが、でもいまなぜ、この時代の映画を作るんだろうって気になった。
---
『裏切りのサーカス』は、英国情報部で実際に起きた事件を基に描かれた(だから『アナザー・カントリー』の後日談ともいえる)、静かな緊張に満ちた映画である。
対ソ連諜報活動の最前線に立つ英国情報部<サーカス>。「コントロール」と呼ばれるチーフの下、5人の幹部が<サーカス>を指揮していたが、作戦の失敗から優秀な部下を失い、チーフとナンバー2のスマイリーは<サーカス>を追われる破目になる。
ほどなくチーフは病死し、スマイリーは無為な日々を過ごしていた。
そんなスマイリーに、政府高官から非公式な任務が与えられる。<サーカス>内部にいる裏切り者の二重スパイを探せというのだ。容疑者はチーフとスマイリーがいなくなったのをいいことに<サーカス>を牛耳っている4人の幹部だ。
本作でたびたび挿入されるのが、昔のパーティーの回想シーンだ。チーフも部下も健在の頃はチームワークも取れていて、ソ連と戦うためにみんなが一丸となっていたことを物語る光景である。
公式サイトによれば、この回想シーンは原作にはなく、映画のオリジナルだという。
映画は冷戦時代を舞台としつつも、あの時代を懐かしい思い出として描いている。そのことを百万言の言葉よりも端的に示すシーンだ。この映画は、一番輝いていた時代が過ぎた後の物語なのだ。
それもまた現代にアピールする点であると押井監督は考えている。
---
劇中のセリフでも言ってたけど「昔はすべてが単純だった。いまは複雑怪奇になって誰も状況が見えなくなった。誰が敵なのか、誰が味方なのか、昔ははっきりしてた」っていうさ。そういうのにうんざりしたっていうのがあるんじゃないかな。
---
そして押井監督は、「どこかしら人間が生きるということ、人生とか時代とか歴史とかいう話につながる普遍性がないと映画にならないと僕は思う」と述べつつ、「ナンバー2論」を展開する。
---
歴史でも戦争でも、僕はあるヒエラルキーの中のナンバー2に興味がある。ナンバー2というのは一番面白いポジションなんですよ。上も見えれば下も見える。絶えずトップの側で見られるから。「何をするべきか」というよりも「何をしちゃいけないのか」を一番よく知ってるのがナンバー2。
(略)
あの映画は最近では珍しいナンバー2の映画なんです。スマイリーという男は実はほとんど何もしてない。もぐら(二重スパイ)狩りをやれと言われたときに、まず安ホテルにこもって、「書類を全部持ってこい」と命じて状況を把握するところから始めて、全部人を動かすだけで自分はほとんどなにもしない。いろんな情報を聞いてるだけ。
---
たしかにスマイリーは他の人間にあちこち行かせて、情報を持って来させるばかりだ。
なるほど、と私は思った。「003が世界中を旅して、その先で得た証拠を、009は家の留守電で聞いている」とはそういうことか。
戦う相手がハッキリしていた全盛期は過ぎ去った世界。
メンバーの死亡等により、もはやチームの体をなさなくなった「チーム」。
こんなことになった理由を突き止めようとする「生き残り」。
考えてみれば、009は主人公だからリーダーのように見えるけれど、メンバーを招集するのはギルモア博士だし、作戦を立てて司令塔になるのは001だ。001にとって009が捨て駒でしかないことは『地下帝国ヨミ編』が示している。009はナンバー1ではないのだ。
冷戦時代の作品を現代に甦らせた『裏切りのサーカス』は、やはり冷戦の産物である『サイボーグ009』を検討する上で示唆することが多いのではないだろうか。
少なくとも、『サイボーグ009』をその執筆された時代から切り離さずに愚直に映画化したら、『裏切りのサーカス』のような味わいになるのではなかろうか。
『裏切りのサーカス』を観ていると、突拍子もなく感じられた押井守監督の『サイボーグ009』案が、実は正攻法のアプローチのように思えてくるのである。
さて、最後に押井守監督とは異なる私なりの『裏切りのサーカス』の感想を記しておこう。
押井守監督はスマイリーがチーフの懐刀であると述べ、ナンバー2の立場を積極的に肯定している。
だが、チーフはスマイリーのことをそんなに高く買っていたのだろうか。
私には、チーフにとって便利だからスマイリーをそばに置いていたように思える。チーフが幹部連中と対峙するときに、議論を楽にするために自分に同調する者を参加させる。その程度の位置付けだったのではないだろうか。
チーフは幹部一人ひとりにその特徴に合わせたコードネームを付けていた。勇敢な「兵士(ソルジャー)」やお洒落な「仕立屋(テイラー)」たちの中にあって、スマイリーのコードネームは一番みじめな「乞食(ベガマン)」だった。チーフが引責するときは、スマイリーも辞めさせられて、まるでチーフの捨て駒である。
実際スマイリーは、他の幹部のように野心満々で新作戦を打ち出したり、機を見るに敏だったり、主義主張を貫いたりすることがない。職務を淡々とこなしてきたスマイリーは、<サーカス>の幹部の中でもっとも凡庸な男だろう。
そんなさえない男が、職を失い、妻に家出され、ますますさえなくなっていく。
そこに漂うのは、時代に合わなくなってしまった物悲しさと、自分が周りから必要とされていない寂寞感だ。
ところが面白いことに、部下の意見を握りつぶしてきたチーフは死に、新作戦を打ち出した野心家はその作戦が命取りになり、主義主張を貫いた者は主義に殉じることになる。
凡庸きわまりない男が生き残り、再チャレンジの機会を得る。
そこに、今の時代でも共感を覚える普遍性があるのではないかと、凡庸な私は思うのだ。
『裏切りのサーカス』 [あ行]
監督/トーマス・アルフレッドソン
出演/ゲイリー・オールドマン コリン・ファース トム・ハーディ トビー・ジョーンズ マーク・ストロング ベネディクト・カンバーバッチ ジョン・ハート キアラン・ハインズ キャシー・バーク デヴィッド・デンシック スティーヴン・グレアム サイモン・マクバーニー スヴェトラーナ・コドチェンコワ ジョン・ル・カレ
日本公開/2012年4月21日
ジャンル/[ミステリー] [ドラマ] [サスペンス]
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【theme : ミステリー・スパイ】
【genre : 映画】
tag : 押井守トーマス・アルフレッドソンゲイリー・オールドマンコリン・ファーストム・ハーディトビー・ジョーンズマーク・ストロングベネディクト・カンバーバッチジョン・ハートキアラン・ハインズ
『北のカナリアたち』 カラスがカナリアになった!?
これはたいへん面白い企画だ。
東映創立60周年を記念して、吉永小百合さんの主演映画を公開する。となれば、吉永小百合さんのイメージや、年配客が中心となるであろう客層を考えても、真面目な感動作が期待される。東映が目指すのは、2009年に公開した『劔岳 点の記』のような趣の作品だろう。
だから『北のカナリアたち』は、『劔岳 点の記』で雄大な山々をカメラに収めた木村大作氏を撮影に迎え、実に真面目な感動作として作られている。
『北のカナリアたち』公開の2ヶ月ほど前、東宝が高倉健さんの6年ぶりの主演作『あなたへ』を公開している。
『あなたへ』と『北のカナリアたち』は、日本を代表する大スターを主役に据え、人気・実力のある若手やベテランを脇に配して、主人公の旅の模様を綴る点で共通しており、感動作として似たような売り方をされる可能性もあっただろう。
だが、吉永小百合さんが強烈なアクセントとして取り込んだのが、湊かなえ氏の小説だ。
同氏の小説を映画化した『告白』がどす黒い悪意や残酷さを描いたことを思えば、『北のカナリアたち』が単に心温まる感動作に留まるはずがない。
湊かなえ氏の小説が次々にテレビ化、映画化されているのも、その強烈なインパクトが買われてのことだろう。本作も「湊かなえ原案」を掲げることで、感動作を期待する年配客とはまったく異なる客層にリーチできる。
正直、この組み合わせには脱帽だ。
湊かなえ氏のミステリーの鋭さと、吉永小百合主演作に期待される安定感と、東映創立60周年記念の大型プロジェクトの風格との、すべてを併せ持つ本作の構想にたどり着いたとき、制作陣はガッツポーズだったに違いない。
湊かなえ氏が「原作」ではなく「原案」とクレジットされていることが示すように、本作は原案とされる短編小説『二十年後の宿題』とは大きく異なる。
私はこの小説をきちんと読んではいないが、『二十年後の宿題』は20年前の事故を引きずる元生徒たちを一人ひとり訪ね歩き、事故の真相とこれまでの人生を浮かび上がらせる作品だという。このような構成は『舞踏会の手帖』や『春との旅』でもお馴染みであり、面白い作品の王道といえるだろう。
そのまま映画化しても良さそうなのに、本作では『二十年後の宿題』にはない要素が付け加えられている。
舞台は北の島に変更され、生徒は全校でたった6人しかいないことにされた。島にやってきた女性教師の下、生徒たちは歌が好きになり、ことあるごとに合唱している。はじめのうちこそ山下達郎作曲の『クリスマス・イブ』なんてハイカラな曲を歌っているが、それは現代風に見せるためだろう。物語は「唄を忘れたカナリヤは……」という歌詞で知られる童謡『かなりや』を中心に進む。
『二十年後の宿題』とは関係ないこれらの要素は、どこから来たのだろうか。
本作の題名『北のカナリアたち』は、直接的には20年前の事件を機に歌わなくなった生徒たちのことである。
だがそこには、何年経ってもカラスのことを歌い続けた子供たちとの対比が込められていよう。その子供たちはいつだって「カラス なぜ啼くの」ではじまる童謡『七つの子』を歌っていた。
『北のカナリアたち』で歌われる『かなりや』を聴きながら、私はそこには流れていない『七つの子』を思い出して涙していた。
あなたにとって、オールタイム・ベスト1の映画は何だろうか。
よく挙げられるのは『市民ケーン』や『第三の男』『東京物語』『七人の侍』等であるが、私はこの質問に対して『二十四の瞳』と答えることにしている。
映画に感動して泣くことはあっても、涙が枯れる経験をしたのはこの作品だけだ。私は『二十四の瞳』の最初から最後まで泣き続け、人間には2時間36分も出し続けるほどの涙のストックがないことを知った。
島の分校にやってきた女性教師。全校で12人しかいない生徒たち。子供らは彼女を慕い、いつもみんなで歌をうたっている。けれども戦争を挟んだ20年近い歳月が、子供たちの運命を様々に変遷させる。
1954年に公開された木下恵介監督の『二十四の瞳』は、教師と生徒の交流や、生徒の戦死を通して命の大切さを描いた傑作だ。とりわけ印象的なのが、子供たちの歌う『七つの子』であり、その歌声を聴くだけで映画のシーンが思い浮かんで涙がこみ上げる人もいよう。
『北のカナリアたち』は、ミステリー的な要素を除けば『二十四の瞳』そのものである。それも、壺井栄の原作小説よりも、木下恵介監督・脚本の松竹映画に近い。生徒たちが合唱大会を目指すのも、今どきの子供が童謡を歌うシチュエーションを無理なく作るためだろう。
もちろんそれは、東映が創立60周年記念作において松竹の代表作を真似た、なんてことではない。
それがカラスからカナリアへの変化である。
『二十四の瞳』の公開当時、子供が教師を慕うこと、教師が子供を思いやること、何年経っても支えあう友情を育むことは、ごく自然に受け入れられた。だからこそ作品を象徴する歌として、「可愛 可愛と啼くんだよ」と子供への限りない愛を歌った『七つの子』が取り上げられたのだろう。
しかし、現代の作品である大ヒットした『告白』や『二十年後の宿題』は、そんな牧歌的な世界ではない。教師といえども一人の人間としての情念があり、ときに生徒との関係は険しくなる。
この相反する二つの世界を象徴するのが「唄を忘れたカナリヤは……」という歌だ。
『かなりや』の歌詞は残酷だ。歌わなくなったカナリアを前に、みんなで寄ってたかって、棄てようか埋めようか鞭でぶとうかと相談するのだ。カナリアはカラスの子のように無限の愛情を注がれてはいないのである。
救いは、「いえ、いえ、それはなりませぬ」と一人が止めに入ることだ。優しく接してやれば忘れた歌を思い出すはずだと、カナリアの可能性を信じる人が現れるのだ。
『北のカナリアたち』における「二十年前の宿題」は、「歌を忘れたカナリアの気持ちを考えること」だった。
歌を忘れたカナリアは、さぞ不安がっているだろう。歌を忘れてしまったことで本人も辛い思いをしているのに、周りの者は棄てるだの鞭でぶつだのと話している。こんな心細いことはない。
誰か、止めに入る人はいないのだろうか。きっとまた歌えるはずだと、可能性を信じてやる人はいないのだろうか。
世間の期待に沿えなかったカナリアの気持ちを、私たちは考えているだろうか。
大切なものを忘れたのは、はたしてカナリアなのか、私たちの方なのか。
『北のカナリアたち』 [か行]
監督/阪本順治 脚本/那須真知子
出演/吉永小百合 柴田恭兵 仲村トオル 森山未來 満島ひかり 勝地涼 宮崎あおい 小池栄子 松田龍平 里見浩太朗
日本公開/2012年11月3日
ジャンル/[ミステリー] [ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
東映創立60周年を記念して、吉永小百合さんの主演映画を公開する。となれば、吉永小百合さんのイメージや、年配客が中心となるであろう客層を考えても、真面目な感動作が期待される。東映が目指すのは、2009年に公開した『劔岳 点の記』のような趣の作品だろう。
だから『北のカナリアたち』は、『劔岳 点の記』で雄大な山々をカメラに収めた木村大作氏を撮影に迎え、実に真面目な感動作として作られている。
『北のカナリアたち』公開の2ヶ月ほど前、東宝が高倉健さんの6年ぶりの主演作『あなたへ』を公開している。
『あなたへ』と『北のカナリアたち』は、日本を代表する大スターを主役に据え、人気・実力のある若手やベテランを脇に配して、主人公の旅の模様を綴る点で共通しており、感動作として似たような売り方をされる可能性もあっただろう。
だが、吉永小百合さんが強烈なアクセントとして取り込んだのが、湊かなえ氏の小説だ。
同氏の小説を映画化した『告白』がどす黒い悪意や残酷さを描いたことを思えば、『北のカナリアたち』が単に心温まる感動作に留まるはずがない。
湊かなえ氏の小説が次々にテレビ化、映画化されているのも、その強烈なインパクトが買われてのことだろう。本作も「湊かなえ原案」を掲げることで、感動作を期待する年配客とはまったく異なる客層にリーチできる。
正直、この組み合わせには脱帽だ。
湊かなえ氏のミステリーの鋭さと、吉永小百合主演作に期待される安定感と、東映創立60周年記念の大型プロジェクトの風格との、すべてを併せ持つ本作の構想にたどり着いたとき、制作陣はガッツポーズだったに違いない。
湊かなえ氏が「原作」ではなく「原案」とクレジットされていることが示すように、本作は原案とされる短編小説『二十年後の宿題』とは大きく異なる。
私はこの小説をきちんと読んではいないが、『二十年後の宿題』は20年前の事故を引きずる元生徒たちを一人ひとり訪ね歩き、事故の真相とこれまでの人生を浮かび上がらせる作品だという。このような構成は『舞踏会の手帖』や『春との旅』でもお馴染みであり、面白い作品の王道といえるだろう。
そのまま映画化しても良さそうなのに、本作では『二十年後の宿題』にはない要素が付け加えられている。
舞台は北の島に変更され、生徒は全校でたった6人しかいないことにされた。島にやってきた女性教師の下、生徒たちは歌が好きになり、ことあるごとに合唱している。はじめのうちこそ山下達郎作曲の『クリスマス・イブ』なんてハイカラな曲を歌っているが、それは現代風に見せるためだろう。物語は「唄を忘れたカナリヤは……」という歌詞で知られる童謡『かなりや』を中心に進む。
『二十年後の宿題』とは関係ないこれらの要素は、どこから来たのだろうか。
本作の題名『北のカナリアたち』は、直接的には20年前の事件を機に歌わなくなった生徒たちのことである。
だがそこには、何年経ってもカラスのことを歌い続けた子供たちとの対比が込められていよう。その子供たちはいつだって「カラス なぜ啼くの」ではじまる童謡『七つの子』を歌っていた。
『北のカナリアたち』で歌われる『かなりや』を聴きながら、私はそこには流れていない『七つの子』を思い出して涙していた。
あなたにとって、オールタイム・ベスト1の映画は何だろうか。
よく挙げられるのは『市民ケーン』や『第三の男』『東京物語』『七人の侍』等であるが、私はこの質問に対して『二十四の瞳』と答えることにしている。
映画に感動して泣くことはあっても、涙が枯れる経験をしたのはこの作品だけだ。私は『二十四の瞳』の最初から最後まで泣き続け、人間には2時間36分も出し続けるほどの涙のストックがないことを知った。
島の分校にやってきた女性教師。全校で12人しかいない生徒たち。子供らは彼女を慕い、いつもみんなで歌をうたっている。けれども戦争を挟んだ20年近い歳月が、子供たちの運命を様々に変遷させる。
1954年に公開された木下恵介監督の『二十四の瞳』は、教師と生徒の交流や、生徒の戦死を通して命の大切さを描いた傑作だ。とりわけ印象的なのが、子供たちの歌う『七つの子』であり、その歌声を聴くだけで映画のシーンが思い浮かんで涙がこみ上げる人もいよう。
『北のカナリアたち』は、ミステリー的な要素を除けば『二十四の瞳』そのものである。それも、壺井栄の原作小説よりも、木下恵介監督・脚本の松竹映画に近い。生徒たちが合唱大会を目指すのも、今どきの子供が童謡を歌うシチュエーションを無理なく作るためだろう。
もちろんそれは、東映が創立60周年記念作において松竹の代表作を真似た、なんてことではない。
それがカラスからカナリアへの変化である。
『二十四の瞳』の公開当時、子供が教師を慕うこと、教師が子供を思いやること、何年経っても支えあう友情を育むことは、ごく自然に受け入れられた。だからこそ作品を象徴する歌として、「可愛 可愛と啼くんだよ」と子供への限りない愛を歌った『七つの子』が取り上げられたのだろう。
しかし、現代の作品である大ヒットした『告白』や『二十年後の宿題』は、そんな牧歌的な世界ではない。教師といえども一人の人間としての情念があり、ときに生徒との関係は険しくなる。
この相反する二つの世界を象徴するのが「唄を忘れたカナリヤは……」という歌だ。
『かなりや』の歌詞は残酷だ。歌わなくなったカナリアを前に、みんなで寄ってたかって、棄てようか埋めようか鞭でぶとうかと相談するのだ。カナリアはカラスの子のように無限の愛情を注がれてはいないのである。
救いは、「いえ、いえ、それはなりませぬ」と一人が止めに入ることだ。優しく接してやれば忘れた歌を思い出すはずだと、カナリアの可能性を信じる人が現れるのだ。
『北のカナリアたち』における「二十年前の宿題」は、「歌を忘れたカナリアの気持ちを考えること」だった。
歌を忘れたカナリアは、さぞ不安がっているだろう。歌を忘れてしまったことで本人も辛い思いをしているのに、周りの者は棄てるだの鞭でぶつだのと話している。こんな心細いことはない。
誰か、止めに入る人はいないのだろうか。きっとまた歌えるはずだと、可能性を信じてやる人はいないのだろうか。
世間の期待に沿えなかったカナリアの気持ちを、私たちは考えているだろうか。
大切なものを忘れたのは、はたしてカナリアなのか、私たちの方なのか。
『北のカナリアたち』 [か行]
監督/阪本順治 脚本/那須真知子
出演/吉永小百合 柴田恭兵 仲村トオル 森山未來 満島ひかり 勝地涼 宮崎あおい 小池栄子 松田龍平 里見浩太朗
日本公開/2012年11月3日
ジャンル/[ミステリー] [ドラマ]
【theme : サスペンス・ミステリー】
【genre : 映画】