2012年06月 :映画のブログ

『アメイジング・スパイダーマン』 新シリーズの違いは逆になったこと!

 スパイダーマンと戦う次なるヴィラン(悪役)は、全世界のハゲ男の星ともいうべきハゲタカ男のヴァルチャーだ。この凶悪なツルッぱげの老人を演じるのは、『バーン・アフター・リーディング』等でハゲぶりも板についているジョン・マルコビッチ。たしかに適役だ。
 そして1作目の敵グリーン・ゴブリンに、ニュー・ゴブリンとなる息子がいたように、ヴァルチャーの娘ヴァルチャレスも登場する。それを演じるのはアン・ハサウェイ。目鼻立ちのハッキリした彼女は、まさに悪のヒロインに相応しい。

 このような強力な布陣で新作は撮影されるはずだった。サム・ライミ監督の『スパイダーマン4』は。
 そこでは、主人公ピーター・パーカーとメリー・ジェーンが結婚しており、彼らのあいだにも娘が生まれている。
 やがてスパイダーマンは戦いの末にヴァルチャーを殺してしまい、4作目の終盤でピーターはスパイダーマンであることを捨ててしまう。
 続く5作目は、ピーターが再びスパイダーマンであることを受け入れる物語だ。『スパイダーマン5』及び『6』は、『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』と『PART2』のような前後編になるはずだったともいわれる。

 2002年の『スパイダーマン』から2007年の『スパイダーマン3』までサム・ライミ監督が撮った三部作は、スパイダーマンの映像作品の決定版といっていいだろう。特に、これまでの実写作品がうまく映像化できなかったビル街での空中移動を、原作のイメージそのままに映像化したのは見事だった。
 だからこそ、スパイダーマン映画が作られるなら、監督はサム・ライミ、主演はトビー・マグワイアで続けて欲しかった。すでに主要キャストは契約を済ませていたというのに、彼らがプロジェクトを去ったのは返すがえすも残念である。
 そして私は、サム・ライミ版を凌ぐスパイダーマン映画が登場することは当分ないだろう、と諦めていた。


 ところが2012年に公開された『アメイジング・スパイダーマン』は、実にアメイジングな作品だ!
 サム・ライミ版は過去のスパイダーマン作品を尊重して丁寧に作られていた(アニメの主題歌を歌うところなど、感動で涙が出そうだった)が、1963年から50年もの長きにわたって連載しているスパイダーマンの膨大な歴史からすれば、とうぜん切り捨てざるを得ない部分がある。
 シリーズをリブートした『アメイジング・スパイダーマン』は、そんなサム・ライミ版が採用しなかった要素をさらに丁寧に拾いながら、抜群に面白くて感動的な映画に仕上がっている。

 まず注目すべきは題名だ。
 邦題『アメイジング・スパイダーマン』は、原題『The Amazing Spider-Man』にカタカナを当てただけだが、スパイダーマンに"アメイジング"が付くのはやっぱり嬉しい。なにしろ原作マンガの題名が『The Amazing Spider-Man』なのだから。サム・ライミ版では"amazing"を省略してシンプルにしていたけれど、ただの『Spider-Man』ではどうも寂しい。

 だが「驚くほど素晴らしい」を意味するamazingという単語、日本ではあまり使われてない気がする。
 もちろんSFファンには、『アメージング・ストーリーズ』の誌名でお馴染だ。この1926年に創刊された世界初のSF専門誌は、E・E・スミスの『宇宙のスカイラーク』や、レンズマン・シリーズのベースとなる『三惑星連合軍』が連載されたことで知られている。
 けれどもSFの翻訳出版の雄・早川書房ですら、1980年にハヤカワ文庫から小説版の『THE AMAZING SPIDER-MAN IN MAYHEM IN MANHATTAN』を刊行するとき、訳題を『驚異のスパイダーマン』としていた。それほど日本では"アメイジング"に馴染みがなかったのだ。
 だから本作の原題が『The Amazing Spider-Man』になり、邦題も素直に『アメイジング・スパイダーマン』としたのは、これまで以上に原作を尊重したように感じられる。


 またサム・ライミ版の『スパイダーマン』は、悩めるヒーローらしくウジウジしており、それがトビー・マグワイアのナイーブな演技と相まって傑作になったのだが、ウジウジしすぎてスパイディの特徴である軽口が聞かれないのは残念だった。
 いくらスーパーマンやバットマンへのアンチテーゼとして誕生した「悩めるヒーロー」スパイダーマンでも、普通の米国人らしい楽天主義は持ち合わせている。だから彼は、事件に向かうときや戦闘中でも軽口を欠かさない。これも『アメイジング・スパイダーマン』が拾い上げた要素だ。
 サム・ライミ版の印象が強い人には、おしゃべりしながら戦うスパイダーマンが軽佻浮薄に感じられるかもしれないが、どちらかというと、これこそ本来のスパイディであろう。

 この主人公の変化は、設定年齢の変更によるところもあるだろう。
 本作のピーター・パーカーは、元気な高校生だ。トビー・マグワイア演じるピーター・パーカーが大学生活を中心とするのに対し、本作は高校生活に終始する。主人公が若々しくなったこともあり、悩めるヒーローというよりは、ときには不平も口にする普通の青年の趣きだ。
 これには、『ソーシャル・ネットワーク』で主人公のカッコいい友人を演じていたアンドリュー・ガーフィールドの外見も寄与していよう。私はトビー・マグワイアのウジウジした感じが大好きだけれど、アンドリュー・ガーフィールドの好漢ぶりも悪くない。

 それに、いざスパイダーマンになれば、体を低く落として足だけ伸ばしてしゃがんだりと、クモ男らしいポーズにも抜かりはない。
 手首から出すクモ糸も、『スパイダーマン』のように体から飛び出すのではなく、手首に装着したウェブシューターに格納したワイヤーを発射しており、原作の初期の設定に戻っている。
 いずれも原作マンガでお馴染みだから、違和感はないだろう。

 一方、ピーター・パーカーの低年齢化に反比例するように、大人は大人らしく思慮深くなった。
 本作に、無理解な大人の代表であるデイリー・ビューグル紙の社長J・ジョナ・ジェイムソンは現れず、代わって登場するステイシー警部は、威圧的ではあるものの決して頑固者ではない。
 さらにスパイダーマンとして頑張る若者を、手助けする大人たちもいる。
 これが泣かせるのだ。サム・ライミ版の三部作でも感動的な場面は多々あったが、本作は先行する作品の良いところを1本に収めたような充実ぶりだ。


 そこには、作り手の思いが込められている。
 本作のメガホンを取ったマーク・ウェブ監督は、そのテーマが「私たちの失ったもの」にあると語っている。
 「ピーターには両親がいない。そして彼はその空白をスパイダーマンになることで埋めようとする。対するカート・コナーズ博士は、スパイダーマンほど強い内面の持ち主ではない。だから彼は失った腕を取り戻したいと願いながら、弱者を痛めつけるようになってしまうんだ。」

 これまでの『スパイダーマン』は逆だった。サム・ライミ版で強調されたのは、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」ということだ。
 トビー・マグワイア演じるピーター・パーカーは、ベンおじさんの残したこの言葉を噛みしめて、スパイダーマンとしての超人的な力を正義のために使おうとする。そしてその行為が世間の理解を得られなかったり、私生活と衝突してしまうことに悩みつつ、それでも力を使うことから逃げ出さない。
 それは「持てる者」の物語だった。

 ところが本作は、マーク・ウェブ監督が語るように「持たざる者」の物語なのだ。
 ピーターが抱える、両親がいない喪失感。片腕のないコナーズ博士。
 ピーターはその喪失感ゆえに街のゴロツキたちへの私刑に走り、そんなものは正義ではないとステイシー警部に喝破されてしまう。
 コナーズ博士は自分のため、人々のために、人間の心身を強化しようとして、怪物化の恐怖をまき散らしてしまう。
 その「失ってしまった」がゆえの暴走は、あたかも9.11の悲嘆と怒りから他国への戦争に踏み出し、10年を経ても引くに引けない泥沼に陥った米国そのもののようである。

 だからこの作品は、スパイダーマンと悪役とで戦いの勝負をつけることが主眼ではない。
 他者を責めたり、自分の主張を振りかざして叩きのめそうとするのではなく、頑張る人に手を差し伸べ、助け合う気持ちを思い出す。それこそが本作の真のクライマックスである。

 サム・ライミ版三部作という傑作の後を受けながら、これだけのものを描ききった『アメイジング・スパイダーマン』は、まさに驚くほど素晴らしい作品だ。


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監督/マーク・ウェブ
出演/アンドリュー・ガーフィールド エマ・ストーン リス・エヴァンス デニス・リアリー マーティン・シーン サリー・フィールド イルファン・カーン キャンベル・スコット
日本公開/2012年6月23日
ジャンル/[SF] [アクション]
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『ハロー!?ゴースト』 今世紀ベストワンの呼び声

 今世紀に入ってから観た映画の中で、これこそがベストワン! との評判を耳にして、なかば騙されるつもりで映画館へ足を運んだ。

 私は常々、西洋の作品よりも東洋――少なくとも東アジアの作品の方が、日本人には馴染むと思っている。
 日本人は開国以来1世紀半にわたり西洋の文物を取り込むべく努めてきたが、政教分離が板についてない私たちには、政教分離を巡る葛藤に彩られた西洋の作品がピンと来ない。そもそも東洋人と西洋人(日本人と米国人ではない)では世界の捉え方が違うという。
 だから日本人は(無意識のうちに)苦労しながら西洋の作品に接してきたのだが、ふと東洋の作品を手にしてみたら、まったく苦労せずに馴染むことができた。そこで、日頃からアメリカニズムを咀嚼しようと背伸びしているビジネスパーソンではなく、素直に面白いものを受け入れられる中高年のオバサマたちが先駆けとなって、東アジアの作品になだれを打った。
 というのが、近年の韓流ブームではないかと睨んでいる。

 だから、韓国映画というだけでも日本人には馴染みやすいだろうと、少々期待しながら『ハロー!?ゴースト』の上映に臨んだ。
 ところが、なんだかこの映画、グダグダなのである。
 本作は脚本家としてキャリアを積んできたキム・ヨンタクの初監督作品だ。はじめてだから仕方がないのかもしれないが、キム・ギドク監督のように映画美の極致を感じさせてくれることもなければ、ポン・ジュノ監督のように才気にみなぎった作品でもない。カン・ジェギュ監督のようなダイナミズムもなければ、カン・ヒョンチョル監督のようなテンポの良さも感じられない。
 正直なところ、「え~、これがベストワン!?」といぶかしみながらの鑑賞だった。

 けれども映画を観終えたとき、私は心に決めていた。
 これは絶賛しなければならない。一人でも多くの人に観てもらわなければならない。私は口コミでこの映画を知ったのだから、次は私が評判を広める番だ。


 とはいえ、『ハロー!?ゴースト』を評判にするのは難しい。
 一般的には、作品の作り手は多くの人に見てもらうために、受け手を引っかけるフックをたくさん用意する。いろいろな要素を作品に散りばめて、観客がどこかに興味を持つように仕向けるのだ。
 けれども本作には、これといったフックがない。あまりにもシンプルで、紹介できる引っかかりがない。さりとてシンプル極まりない内容に触れると、どうあがいてもネタバレになってしまう。
 いくらネタバレをおそれない当ブログでも、本作ほど白紙で見るべき作品であれば、さすがに内容に触れるわけにはいかない。本作は、何も知らずに観に行くのが最良なのだ。

 ネタばらしにならずに紹介できることといえば、せいぜい劇中で、韓国の大人気アニメ『テコンV』を見られることくらいだろうか。
 脚本も手がけたキム・ヨンタク監督は、「大笑いしながら、今生きていることへの幸せを感じることができるコメディを作りたい!」との思いで取り組んだそうだが、それほど大笑いはしないだろう。
 本作はただひたすらに、いい映画なのだ。これ以上ないほどの良作である。


 いささか気になったのは、場内で見かけた二人連れ、三人連れの女性客だ。
 上映後に笑顔で会話する彼女たちを見て、タフだなぁと感心した。
 『ハロー!?ゴースト』を観たら、誰しも涙でグチョグチョになり、感極まって言葉も出ないと思うのだが、彼女たちは楽しそうに喋っていた。はたして彼女たちは何回目の鑑賞なのだろうか。
 ともかく、この映画を一緒に観る人がいて、鑑賞後に本作について語り合えるなんて素晴らしいことである。


ハロー!?ゴースト [DVD]ハロー!?ゴースト』  [は行]
監督・脚本/キム・ヨンタク
出演/チャ・テヒョン コ・チャンソク チャン・ヨンナム イ・ムンス チョン・ボグン カン・イェウォン
日本公開/2012年6月9日
ジャンル/[コメディ] [ロマンス] [ファンタジー]
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『外事警察 その男に騙されるな』 キッザニアでは体験できない

 「日本の公安は能力が低いですね」とは、2012年5月の中国の一等書記官・李春光氏の事件を受けた中国人記者の感想である。
 当時、李春光氏はスパイではないかということで日本のマスコミが大きく取り上げた。この人物が人民解放軍のインテリジェンス部門である総参謀部第二部の出身らしいことから、スパイ話が盛り上がったのである。
 しかし報じられたときには、すでに本人が中国に帰国していたこともあり、話題はいつしか立ち消えになった
 福島香織氏がこの件について在日の中国人記者に意見を求めたところ、「総参謀部二部だとわかって、長年追跡していながら、スパイ行為の証拠もつかめず、身柄も拘束できないとなれば、日本の公安は能力が低いですね」と冷笑されたという。

 私は公安警察の能力の高低を論じる立場にはないし、身柄を拘束しないことと能力の問題は別ではないかとも思うし、そもそも警察がこのような事案を一般紙に知らしめた意図も測りかねるが、本件に注目したのは、この事案を取り扱ったものこそ公安警察の中で外事を扱う部署、いわゆる外事警察であろうからだ。
 外事警察とはその名のとおり外国・外国人に関することがらを扱う機関であり、具体的には防諜や国際テロ捜査等を行っている。
 その外事警察を扱ったテレビドラマ、その名も『外事警察』が2009年にNHKで放映され、その続編として企画された映画が本作『外事警察 その男に騙されるな』だ。


 かつて警察の登場する作品といえば、刑事の活躍を取り上げたものが大半だったが、近年は検視官や科学捜査研究所の研究員等、警察機構の様々な部署、職務にスポットライトが当てられている。
 公安警察についても、戦前の特高警察のイメージを継いだ怖い存在として描くばかりではなく、『SPEC~警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿~』のようにおちゃらけた取り上げ方もなされるようになってきた。
 とはいえ、公安警察においても外事に特化した外事警察が中心になるのは、おそらく本シリーズがはじめてではないだろうか。テレビドラマ『外事警察』によって「外事警察」なる言葉を知った人も多かろう。

 やはりNHKでドラマ『監査法人』が放映されたときは、公認会計士及び監査法人を描いたドラマがそれまでほとんどなかったために、日本公認会計士協会がわざわざ放映を告知している。
 『プリンセス トヨトミ』で会計検査院の調査官が主人公なったときも、会計検査院の方々は講演でこの映画を話題にしている。
 本作については、さすがに警察が積極的にPRすることはないものの、それでもこのような職業があり、日夜苦労していることがテレビ・映画を通じて宣伝されるのは、決してマイナスではない(映画公開の直前に中国一等書記官の件を公表するのは、まるで宣伝のための連動企画みたいだが)。
 本作で描かれる外事警察のやり口の非道さは、必ずしも好印象を与えるものではないが、それとて防諜の最前線ならではの特徴だろう。


 映画『外事警察 その男に騙されるな』は、主人公が外事警察にいられなくなったテレビシリーズの後を受けて、内閣情報調査室所属という設定ではじまる。
 フィクションの世界では、日本の内閣情報調査室がまるで米国のCIAや英国のMI5(SS)のようなスパイ組織のごとく描かれることがあるけれど、内閣情報調査室は情報を分析する部門であってスパイの元締めではない。もっとも、自民党政権時代の2008年10月に、情報収集する人員のための訓練プロセスを立ち上げる構想が内閣情報調査室にあったことをウィキリークスが暴露しているので、民主党政権下でも構想が引き継がれていれば、今はスパイの1人や2人はいるかもしれない。

 ともかく、映画では主人公の下にテレビシリーズの部下たちが集められ、再び外事警察として国際テロ捜査に取り組むことになる。
 テレビシリーズでは非道な主人公と対比させるため、尾野真千子さん演じる部下が反発する場面がしばしばあり、また主人公が家族にも本当の職業を告げられない苦しみや、協力者の逡巡が描かれていた。それは外事警察官という職業を浮き彫りにする上で必要な描写だったろうが、同時に物語のスピードを削いでいたのは否めない。
 映画はそのような描写を省き、真木よう子さんの演じる協力者との衝突に絞ることで、テレビシリーズよりもスピード感が増した。

 そして観客は事件の進行につれて、知られざる外事警察官という職業について認識を深める。
 テレビシリーズの第一話に、官房長官が「日本でテロなどありません」と云って公安警察の活動に理解を示さない場面があるが、70年代の日本赤軍による一連の事件や90年代の地下鉄サリン事件が示すように、日本は世界に名だたるテロリスト輩出国である。
 もちろん日本がテロの脅威にさらされることもあろう。日本赤軍がパレスチナを拠点にしていたように、テロリストの活動はとっくの昔にグローバル化している。
 にもかかわらず日本には諜報機関がないことから、警察の一部が防諜に取り組んでいるのだ。

 もっとも、戦前の日本には諜報機関があった。敗戦により行き場がなくなると、彼らは昨日まで敵だったマッカーサーに自分を売り込んで、戦後も諜報活動に従事する。
 ところが、『CIA秘録』が明らかにしたところでは、彼らの集めてくる情報はサッパリ役に立たなかったという。

 対して、本作が描く外事警察は極めて優秀だ。情け容赦なく、任務を着々と遂行する。
 とはいえ、どんなに取材を重ねたとしても描かれるのはあくまでフィクションであり、当事者からすれば実態との乖離を感じることもあるだろう。NHKの作品は往々にして真面目で固くてドラマ性を強調しすぎるので、本作を観た外事警察官は苦笑いするかもしれない。

 なにはともあれ、もしもあなたの結婚相手が納得できる説明もなく姿を見せなかったとしても、いきなり浮気を疑うのではなく、そこには深い事情があるのだと察して暖かく見守ってあげたいものだ。


映画 外事警察 その男に騙されるな オリジナル・サウンドトラック外事警察 その男に騙されるな』  [か行]
監督/堀切園健太郎  原案/麻生幾
出演/渡部篤郎 キム・ガンウ 真木よう子 尾野真千子 田中泯 イム・ヒョンジュン 石橋凌 余貴美子 遠藤憲一 北見敏之 滝藤賢一 渋川清彦 山本浩司
日本公開/2012年6月2日
ジャンル/[サスペンス]
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『シレンとラギ』 劇団☆新感線が挑んだもう一つの続編

 【ネタバレ注意】

 劇団☆新感線2012年春興行いのうえ歌舞伎『シレンとラギ』は、ギリシア悲劇を南北朝時代の日本へ移し変えたかのような作品だ。
 まず、その世界設定が面白い。南北朝時代を下敷きにしながらも、あえて史実とは異なる世界を構築している。

 『シレンとラギ』では、あたかも南北朝のように「北の王国」と「南の王国」が覇権を争っている。
 北の王国は幕府と呼ばれる組織が支配しており、先王亡き後、玉座に就いているのは愚鈍なギセン王と母トウコである。足利尊氏と正室・赤橋登子とのあいだに生まれた第2代将軍・義詮(よしあきら)も、『太平記』では(史実はどうあれ)愚鈍な人物として描かれている。
 幕府の実権を握るのは、足利氏の執事・高師直(こう の もろなお)と弟・師泰(もろやす)に当たる執権モロナオと弟モロヤスである。
 けれども足利尊氏の弟・直義(ただよし)が高師直と対立したように、本作では先王の弟ギチョクがモロナオと対立している。

 一方、南の王国は教団と呼ばれる組織の支配下にあり、そこでは後醍醐天皇ならぬゴダイ大師が権力を握っている。
 史実では後醍醐天皇の鎌倉倒幕に協力した足利尊氏や高師直や京極高氏たちが建武の新政を経て後醍醐から離反したように、南の王国のゴダイに仕え続けているのは、今となっては大楠公(だいなんこう)こと楠木正成ならぬダイナンと、新田義貞ならぬシンデンぐらいしかいない。

 本作の登場人物の命名に当たっては、元になる人物の名前をそのまま読んだキョウゴク等もあるものの、漢字を音読みしたり、漢字の順番を入れ替えた上で音読みしているものもある。義詮(よしあきら)をギセン、直義(ただよし)をギチョクを呼んでいるのがその例である。
 タイトルロールのシレンとラギも同様だ。
 シレンに当たるのは、後醍醐天皇の寵愛を受けて権勢を振るった阿野廉子(あの れんし)であろう。ラギは、後醍醐天皇と阿野廉子の子にして、後醍醐の跡を継いで南朝の後村上天皇となる義良(のりよし)だ。

 このような南北朝時代をいささかもじった世界観に合わせるように、役者たちは日本風のような中国風のようなはたまた西洋風のような不思議な衣裳をまとっている。この不思議な魅力は先の公演『蛮幽鬼』と共通するもので、今回も小峰リリー氏が衣裳を担当している。
 それだけでなく、『シレンとラギ』は『蛮幽鬼』の世界観も引き継いでおり、暗殺集団「狼蘭族」がここでも重要な役回りで登場するのが面白い。


 とはいえ、本作の世界がいくら南北朝時代に似ていようと、あくまで架空の国、架空の時代を舞台としているので、作り手は日本の正史ではありえないような物語を紡ぐことができる。
 そして『蛮幽鬼』が『モンテ・クリスト伯』をベースにしたように、『シレンとラギ』で展開されるのはギリシア悲劇だ。なかでもソポクレスがギリシア神話に材を取って書き上げた『オイディプス王』が今回のモチーフである。
 南の王国の支配者の血を引きながら、そうとは知らずに北の王国で育ったラギ。これは、テーバイ王の子でありながら、何も知らずに隣国コリントスで育てられたオイディプスそのままである。そしてオイディプスが、自分の殺した相手が父であること、愛した女が母であることを知って悲劇のただ中に置かれるように、ラギもまた父ゴダイを殺め、母シレンと愛し合ってしまう。

 ケレン味たっぷりの劇団☆新感線の芝居と、24世紀以上も演じられ伝えられてきたギリシア悲劇。この組み合わせは魅力的だ。
 隣接する二つの国を日本の南朝と北朝に置き換えたことにより、ギリシア悲劇に劇団☆新感線らしさが塗り込められ、観客はみんな新感線ならではの作品として楽しむことができる。

 加えて演出のいのうえひでのり氏と台本の中島かずき氏は、『オイディプス王』をただ焼き直すようなことはしなかった。この大悲劇をそのまま新感線の芝居にするだけでも、優れた作品になったはずだ。けれどいのうえひでのり氏と中島かずき氏は、『オイディプス王』の要素を解体し、変奏曲をかなで、ラストにどんでん返しを用意した。
 なにしろ『シレンとラギ』では、『オイディプス王』のストーリーを第一幕で消化してしまうのだ。第二幕はいのうえひでのり氏と中島かずき氏による『オイディプス王』への返歌である。
 それは『オイディプス王』の続編『コロノスのオイディプス』を上演することではない。なんといのうえひでのり氏と中島かずき氏は、ギリシア悲劇を悲劇として終わらせないのだ。

 ここでひとまず、本作と『太平記』(南北朝時代)と『オイディプス王』(ギリシア神話)それぞれの主な登場人物を整理しておこう。

 『シレンとラギ』: 『太平記』: 『オイディプス王』

 南の王国: 南朝: テーバイ
  ゴダイ大師: 第96代・後醍醐天皇: テーバイ王ラーイオス
  ゴダイの寵愛を受けたシレン: 阿野廉子: イオカステー
  シレンの子ラギ: 義良(第97代・後村上天皇): オイディプス
  ゴダイのお后モンレイ: 後醍醐天皇の中宮・礼成門院
  幹部シンデン: 新田義貞
  武将ダイナン: 大楠公(だいなんこう)こと楠木正成

 北の王国: 北朝: コリントス
  ギセン王: 第2代将軍・足利義詮
  ギセンの母トウコ: 義詮の母・赤橋登子
  ギセンの叔父ギチョク: 義詮の叔父・足利直義
  執権モロナオ: 足利氏の執事・高師直
  モロナオの弟モロヤス: 師直の弟・師泰
  キョウゴク: 京極高氏: コリントス王ポリュボス
  キョウゴクの娘ミサギ

 さて、『シレンとラギ』には、主人公シレンとラギの対になる男女が登場する。それはラギの育ての親キョウゴクとその娘ミサギである。キョウゴクは、自分の娘でありながらミサギを異性として愛している。
 さらにもうひと組、ラギとミサギの兄妹も、シレンとラギの対になる。ミサギは兄ラギと血の繋がりがないことを知らないが、それでも兄を愛している。
 本作は、シレンとラギすなわち母と息子の組み合わせに、キョウゴクとミサギすなわち父と娘の組み合わせ、そしてラギとミサギすなわち兄と妹の組み合わせを対比させながら進行する。

 キョウゴクのミサギに対する愛は強引で、観客には邪恋に見える。ミサギのラギに対する想いは、ラギに全然届いておらず、観客には悲恋に見える。
 するとどうだろう、シレンとラギの禁断の愛は、そこに愛を育めただけ"まし"に見えてくる。
 こうして『シレンとラギ』は、イオカステーとオイディプスの禁断の愛に焦点を当てていた『オイディプス王』から離れ、愛を育めた人物としてシレンとラギを肯定的に見はじめる。

 やがてシレンとラギは、『オイディプス王』とはまったく異なるところに着地する。
 『オイディプス王』では、イオカステーは命を断ち、オイディプスはみずからの目を潰して、乞食となりさまよい歩く。
 だが『シレンとラギ』では、死んだはずのシレンは命を取りとめ、ラギも悲劇の果てにさまようのではなく、目的を持って歩み出す。
 もしもイオカステーとオイディプスが死んだり目を潰したりせず、悲劇を乗り越えて自分たちにできることを考えたなら――『シレンとラギ』のラストからは、いのうえひでのり氏と中島かずき氏のそんな問いかけが伝わってくる。

 24世紀以上にもわたって、私たちは父を殺し母と愛し合ったオイディプスの悲劇を語り継いできた。
 けれども、とうとうその悲劇を乗り越える物語が出現したのだ。

               

 ところで、残念なことに『シレンとラギ』には二つの誤り、というか適切でないところがある。
 あくまでフィクションなので気にしなくて良いかもしれないが、一応現代人は知っておくべきだろう。
 一つは、近親相姦の描き方である。
 近親相姦を禁じる理由は、現代の私たちには明白だ。私たちは有性生殖することで遺伝子の多様性を確保している。もしも単性生殖だったら多様性が生じる余地はなく、子孫全員が親と同じ性質を受け継ぐので、親がかかる病気には末代まで感染してしまう。それに対して、異なる遺伝子を持つ男女(雌雄)が生殖すれば、新たな性質を持つ子供が生まれ、病気等に打ち勝って繁栄できるのだ。
 なのに、似たような遺伝子を持つ近親間で生殖してしまっては、せっかくの有性の利点が活かされない。

 だがこれは、遺伝の仕組みが明らかにされた現代だから誰でも知っているのであり、ギリシア神話の時代には認識されていなかった。
 にもかかわらず、近親相姦が禁忌とされてきたのは、進化の過程で近親相姦を避ける仕組みが身についているからだ。
 エドワード・ウェスターマークによれば、人は成長過程で一緒に過ごした異性には性的興味を持たないという。DNA型鑑定が確立されるまで近親者を識別する方法がなかった以上、一緒に暮らす人を近親者と見なすのは合理的である。私たちは生殖戦略にしたがって生殖する異性を選択するが、その際に一緒に暮らす人(=近親者)への接近にはブレーキをかけるメカニズムがあるのだ。
 そのため、離れ離れに生きてきたシレンとラギが、男女として愛し合ったのは仕方がない。近親者に対するブレーキがかからないのだから。『オイディプス王』が悲劇なのは、オイディプスのような境遇にあれば誰もが母親を愛するおそれがあるからなのだ。

 したがって、ミサギが父キョウゴクを拒絶するのもとうぜんだ。キョウゴクを父として見ることはあっても、性的興味の対象にはならないのだ。
 おかしいのは、ミサギが兄ラギを慕うことである。ミサギが幼少時からラギと過ごしてきたのであれば、ミサギはラギにも性的興味を抱かない可能性が高い。シレンとラギが愛し合うのは不自然ではなく、だからこそ観客は二人の運命を悲劇として受け止めるのに比べると、かなり珍しい事象であるミサギの想いには感情移入しにくいだろう。
 ギリシア神話が作られた時代ならいざ知らず、近親相姦を避けるメカニズムが研究されている現代に、このような珍しいケースを持ち出すのはあまり適切とは思えない。


 もう一つ気になるのは、遺伝するものとしないものの取り違えだ。
 シレンは長年にわたり身体に毒を取りこむことで、毒への抵抗力を付けてきた。これはあくまで後天的に身に付けたものなので、シレンが子供を産んでもこの力は引き継がれない。ボディビルダーの子供が筋肉モリモリの身体で産まれたりしないのと同じである。
 ところが本作では、シレンの後天的な体質がラギに遺伝したかのような展開がある。これもまた、現代の知見に基づけば、適切な描写とはいえないだろう。
 こんなことを気にするのは、子供や遺伝に関する間違った知識が、偏見を生み出したり差別を助長したりするおそれがあるからだ。間違った知識を広めることのないように、ゆめゆめ気をつけたいものである。


 ここまで『シレンとラギ』の内容を中心に述べてきたが、これらに加えて本作の大きな魅力は豪華な俳優陣である。特に藤原竜也さん、高橋克実さんは、これが劇団☆新感線の公演への初出演とは思えない存在感だ。
 とりわけ高橋克実さんは、かつて誰もが付き従ったゴダイの魅力と、キョウゴクたちが離反してしまうほどのゴダイの型破りさを表して、本作の複雑な状況を生み出した要となる人物を印象付けている。
 ゴダイが第二幕にはほとんど登場しないことなど、忘れてしまうほどに。


シレンとラギ―K.Nakashima Selection〈Vol.18〉 (K.Nakashima Selection Vol. 18)シレンとラギ』  [演劇]
演出/いのうえひでのり  作/中島かずき  衣装/小峰リリー
出演/藤原竜也 永作博美 高橋克実 古田新太 三宅弘城 北村有起哉 橋本じゅん 高田聖子 粟根まこと 石橋杏奈
公演初日/2012年5月24日
劇場/青山劇場 (大阪公演は2012年4月24日より梅田芸術劇場メインホールにて)
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー]
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『映画 ホタルノヒカリ』 オードリーとの共通点は何か?

 日本の夏に欠かせないものがある。

 夜空を彩る大輪の花火、キンキンに冷えたビール、そして『ホタルノヒカリ』である。

 テレビドラマ『ホタルノヒカリ』が放映されたのは2007年の夏、続く『ホタルノヒカリ2』の放映は2010年の夏。1年のもっとも暑い盛り、しかも1週間の真ん中である水曜日に放映されたこのドラマを見て、多くの視聴者が、縁側でビールをかっくらう干物女から元気をもらったことだろう。
 ひるがえって、『ホタルノヒカリ』がない夏は味気ない。やっぱり干物女の恋にドキドキし、その干物っぷりに爆笑し、お盆を過ぎれば縁側で線香花火を楽しみ、9月に入って「もう夏も終わりですね」とつぶやかれないと、ひと夏を過ごした気がしない。

 けれども2012年夏、待ちに待った『ホタルノヒカリ』が帰ってきた! しかも今度は映画になって。
 『映画 ホタルノヒカリ』の公開に先駆けて、映画館には早くからポスターが貼られていた。ローマの街を背景に主人公雨宮蛍が微笑む構図だ。そのポスターは、『ホタルノヒカリ』という作品の本質をものの見事に表していた。だから『ホタルノヒカリ』が映画になってスケールアップする際の舞台にローマが選ばれたのも必然だと感じた。


 『ホタルノヒカリ』は、都会で働くOL雨宮蛍と、その上司の高野誠一部長との物語である。
 高野部長は蛍よりひと回り以上も年上で、仕事ができるし財力もあるし、家の中もきちんと整理整頓し、料理も上手い。蛍だって仕事は頑張っているのだが、整理整頓や料理に関してはサッパリだ。貯金は47円しかない。

 こう書くと、多くの人が近年大ヒットした先例があることに気づくだろう。そう、『のだめカンタービレ』も、年上で金持ちで、優れた音楽家にして整理整頓も料理もできる千秋先輩と、、整理整頓や料理がサッパリできない野田恵の物語だった。
 さらに先例をたどれば、日本、台湾、韓国でテレビドラマ化され、テレビアニメや舞台にもなった『イタズラなKiss』が挙げられよう。この作品の男女は年齢こそ同じであるものの、やはり超秀才で金持ちで料理も上手い入江直樹と、不器用で成績が悪くて料理が下手な相原琴子の組み合わせだった。
 このような例は枚挙にいとまがない。テレビドラマでも映画でもマンガでも小説でも、恋愛物の多くは、金持ちでハンサムで経験豊富な男性と、世間知らずで不器用で若い女性の組み合わせなのだ。

 これを実際に研究してみた人がいる。
 オギ・オーガスとサイ・ガダムは、膨大な量のロマンス小説やインターネット上の検索ワード、検索履歴、掲示板への投稿等を分析して、男女の性向を調べ上げた
 その分析結果のポイントを藤沢数希氏が端的にまとめているので引用させていただこう。男女はそれぞれ異性に対してこんな願望を抱いているのだ。

 「男は、オツムがイマイチで、いつもボスに怒られてばかりのウェイトレスが、なぜか若くて美人で、セックスのことで頭がいっぱいで、そんな可愛い女子があなたと突然のようにセックスをする、というような有り得ないシチュエーションに興奮するのである。」

 「女は、ハンサムでお金持ちで、女も金持ちなら、その相手はなおいっそう金持ちで、支配的なポジションについていて、他の人には酷いことをするのに、なぜかあなたには優しくて、いろいろな精神的な駆け引きがあったりするものの、最終的に「一目見た時から君のことを愛していた」と言って、あなただけを一生愛する、というようなシチュエーションが大好きなのである。」

 この女性の願望は、まさしく完全主義者で自分にも他人にも厳しい高野部長や、俺様キャラの千秋先輩や、意地悪な入江直樹そのものである。

 これは、進化心理学の説明とも合致する。
 スティーブン・ピンカーは『心の仕組み~人間関係にどう関わるか』の中で、37ヶ国の1万人を対象に、配偶者の資質として重要視するものをアンケート調査した結果を紹介している。そこでも、女性は男性よりも収入に高い価値を置き、また地位や野心や勤勉さ、頼りがいや確実性を重視している。一方、男性は若さや外見に高い価値を置いている。
 スティーブン・ピンカーの著作は大部なので紹介するのが面倒だが、橘玲(たちばな あきら)氏が著書『(日本人)』においてピンカーの論考を端的にまとめているので、こちらを引用しておこう。
 橘氏は、進化心理学で説明すると、私たちが大切に思っているものを身も蓋もない理屈に還元してしまうと断りつつ、男と女の愛情の違いは生殖機能の違いに由来すると述べている。
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 男の場合は、精子の放出にほとんどコストがかからないから、より多くの子孫を残そうと思えばできるだけ多くの女性とセックスすればいい。すなわち、乱交が進化の最適戦略だ。
 それに対して女性は、受精から出産までに10ヵ月以上もかかり、無事に子供が生まれたとしてもさらに1年程度の授乳が必要になる。これはきわめて大きなコストなので、セックスの相手を慎重に選び、子育て期間も含めて長期的な関係をつくるのが進化の最適戦略になる(セックスだけして捨てられたのでは、子どもといっしょに野垂れ死にしてしまう)。
 男性は、セックスすればするほど子孫を残す可能性が大きくなるのだから、その欲望に限界はない。一方、女性は生涯にかぎられた数の子どもしか産めないのだから、セックスを「貴重品」としてできるだけ有効に使おうとする。ロマンチックラブ(純愛)とは、女性の「長期志向」が男性の乱交の欲望を抑制することなのだ。
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 これらを踏まえて映画の数々を振り返れば、思い当たることが多いだろう。
 男性の願望を具現化した作品は、007シリーズに代表されよう。ジェームズ・ボンドは毎回異なる美女と仲良くなる。
 女性の願望を具現化した作品も数多いが、とりわけオードリー・ヘプバーンの主演作に代表されよう。
 たとえば、『ローマの休日』では世俗のことを知らないアン王女が俗世間に詳しい新聞記者と恋に落ち、『麗しのサブリナ』ではお抱え運転手の娘が大金持ちの御曹司と恋をする。『マイ・フェア・レディ』では、まともな言葉使いもできない花売り娘が、一流の言語学者と恋をする。
 オードリー・ヘプバーンの作品が昔も今も高く評価されるのは、恋愛物の本質を突いた、定番中の定番だからだろう。


 だからこその、『映画 ホタルノヒカリ』のポスターである。
 ローマを舞台にした映画でもっとも有名な作品といえば『ローマの休日』だろう。そのローマを背景にしたポスターで、蛍は黒いドレスを身にまとい、サングラスをかけている。この扮装は、もちろん『ティファニーで朝食を』冒頭のオードリー・ヘプバーンと同じである(蛍が前髪を束ねていることを除けば)。
 『ティファニーで朝食を』のオードリーの相手は必ずしも年上の金持ちではないが、常識外れのヒロインに対して(もうすぐ名声を得るであろう)堅実思考の小説家は、充分に女性の願望を満たしていよう。

 つまりこのポスターは、『ホタルノヒカリ』がオードリー・ヘプバーンの諸作に連なる、恋愛物の定番中の定番だと宣言しているのだ。そして、高野部長と蛍の組み合わせは、まさに恋愛物の本質を突いている。
 そんな本作が外国へ飛び出すに当たって、他ならぬローマを舞台にするのはとうぜんだ。

 だから、テレビシリーズに登場した年下の手嶋マコトや同年齢の瀬乃和馬が、蛍と結ばれるはずはなかったのだ。彼らは金持ちでもなければ支配的なポジションにもおらず、蛍を凌駕するものを何ら持ち合わせていないのだから。
 それは『マイ・フェア・レディ』で若造のフレディが相手にされないのと同じである。


 ただし『ホタルノヒカリ』には、オードリー・ヘプバーンの作品と違うところもある。
 『のだめカンタービレ』や『イタズラなKiss』にもいえるのだが、理想の男性像に料理の上手さが加わったのは、近年の特徴だろう。
 『麗しのサブリナ』で料理が得意なのは、オードリー・ヘプバーン演ずるサブリナの方だ。サブリナも世間知らずで不器用な女性として登場するから、最初は料理も下手なのだが、2年にわたるパリでの修行で料理の腕は上がっている。
 対照的に、『ホタルノヒカリ2』の蛍は美味しい味噌汁を作ろうと悪戦苦闘するが叶わない。

 『麗しのサブリナ』が公開された1954年当時、米国の女性は専業主婦になるのが一般的だったから、夫が料理をする必要はなかった。
 けれども今や多くの女性が婚姻の有無にかかわらず働いており、家事を男性と相応に分担する必要が生じている。そのため男性に求める要素として、料理や整理整頓等の家事の上手さが、金持ちであることや支配的なポジションに就いていることと並んで重要になったのだろう。相当の金持ちであれば、男性みずから料理や整理をしなくても家事代行サービスに依頼すれば済むことだが、女性にできないことができるという点が重要なのだ。

 職場では残業しまくる干物女が「恋愛は面倒」と思ってしまうのも、料理に手が回らないことと同根だろう。
 白河桃子氏は、恋愛を面倒くさがる若い女性の気持ちを次のように代弁する。
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 その原因はといえば、やっぱりアラサー世代女子の環境にあると思う。不景気の中で世の中に出て、必死で仕事をゲットし、しかもその仕事は身も心もすり減らすほどの激務だったりする。とにかく、自分のことで手いっぱい。

 男子も同じ状況なので、恋愛しようにも「打っても響かない男子が多いので、だんだん面倒になってしまうんですよ」
(略)
 カレシがいても、「カレシのケアをしてあげるほど自分に余裕がない」という声も。こんな大変な時代に、優しく癒やしてほしいのは、今や男女ともに同じ。
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 『ホタルノヒカリ』は、そんな干物女たちに恋愛を促す作品だった。
 とはいえ、二度のテレビシリーズを通して結婚までこぎつけた雨宮蛍に、もう促す余地など残っていない。そこで『映画 ホタルノヒカリ』は、人生からリタイアしたかのような"大"干物女を新たに登場させて、彼女の更生物語にした。テーマ的にも、ちょっとスケールアップさせたのだ。
 さらに『ローマの休日』で知られる名所巡りにとどまらず、ウェディングドレスの女性がシトロエン・2CVに乗り込むなんて『ルパン三世 カリオストロの城』を彷彿とさせる遊びを交えて余裕をかます。

 けれども、やっぱり最後はオードリー・ヘプバーンの路線に戻って締めくくるのがなんとも楽しい。
 『ティファニーで朝食を』の劇中でオードリーが弾き語りする名曲『ムーン・リバー』を、蛍バージョンとして披露してくれるのが本作最大の見どころ(聴きどころ)かもしれない。


映画 ホタルノヒカリ [Blu-ray]ホタルノヒカリ』 2007年7月11日~9月12日
ホタルノヒカリ2』 2010年7月7日~9月15日
映画 ホタルノヒカリ』 2012年6月9日
監督/吉野洋  原作/ひうらさとる
脚本/水橋文美江
出演/綾瀬はるか 藤木直人 安田顕 板谷由夏 手越祐也 松雪泰子
    国仲涼子 加藤和樹 武田真治 丸山智己
    向井理 木村多江 高橋努 臼田あさ美 
ジャンル/[コメディ] [ロマンス]
[あ行][は行][テレビ]
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