『メランコリア』 あなたが立つのはどちら側?
【ネタバレ注意】
この世界は、正邪、清濁、明暗といった二面性を兼ね備えている。
それなのに、多くの人は明るく正しく清い面しか見ていないのではないだろうか。
ラース・フォン・トリアー監督のように鬱病を患った者には、世界の違う面が見えるのかもしれない。そして、世界の一面しか見ていない人々との断絶を感じているのかもしれない。
映画『メランコリア』は、題名のとおりメランコリア(憂鬱、鬱病)がテーマである。
映画の冒頭、シュールレアリスム画を思わせる幻想的なシーンが続き、映画の骨格が示される。
この幻想的なシーンのうち、主人公ジャスティンが灰色のツタに絡まれる情景を、後にジャスティンが自分を悩ませる幻想として言及していることから、これらのシーンがジャスティンの頭の中の想念であることが判る。
とはいえ、ジャスティンは世界のことも未来のことも何でも判ると云っているので、この幻想は同時に予知夢であり、映画の世界とこれからのストーリーを物語ってもいる。
そこでは、18番ホールまでしかないゴルフ場で19番ホールを逃げたり、地球上からは見られるはずのない地球が砕ける光景を見たりと、(映画の中の)現実とは少々異なる映像が続くため、ジャスティンも確信を持って未来の予知と云うことができない。彼女はただ幻想に苦しむばかりである。
この冒頭シーンでとりわけ重要なのは、ジャスティンと姉のクレアと、クレアの息子レオとの関係を示したショットだろう。
そこでは、クレアは月を背にして立っている。彼女は世間から見たら一般的な人間である。
一方、ジャスティンは青い星を背に立っている。後にその星は地球よりも大きいメランコリア(憂鬱)の塊であることが判るのだが、少なくともここでジャスティンがクレアとは対照的な人間であることが示される。
そして両者の真ん中には少年レオが立っている。レオの背後に輝いているのは半月だ。姉クレアのような一般人になるかもしれないものの、ジャスティンに影響される可能性もある。レオの立ち位置と背後の星が、正邪、清濁、明暗のどちらにも偏らない彼の状態を表している。
クレアとジャスティンの姉妹は、世界の二面性を象徴している。
クレアは常識人である。金持ちと結婚して、物質文明の恩恵に浴している。世間では彼女を幸せ者と呼ぶだろう。
ジャスティンは鬱病患者だ。金持ちとの結婚なんて気が乗らないし、仕事を器用にこなして出世しようとも思わない。賑やかなパーティなんて彼女にとっては苦痛でしかない。
映画の構成そのものも二面的だ。
『メランコリア』は「第一部 ジャスティン」と「第二部 クレア」の二部構成になっている。
第一部は、「ジャスティン」という章題とは裏腹に、ジャスティンの嫌いな一般人の世界である。一般人たちが集まり、金を使って贅沢なパーティーに興じる。花嫁のジャスティンはパーティーの主役であり、一般人からは幸せの絶頂だと思われている。
でも彼女にとってこのパーティーは苦痛でしかない。彼女は一人でパーティーを抜け出したり、背徳的な行為をして悦に入ったりする。
常識人のクレアは、そんなジャスティンを憎々しく思う。
第一部の世界では、ジャスティンは世の中に馴染めない異端者なのだ。
第二部は、「クレア」という章題とは裏腹に、クレアには理解できない異常な世界である。
世界は、地球よりも大きな憂鬱の塊に呑み込まれようとしており、一般人の常識とはかけ離れた状態だ。人々は憂鬱の塊に「惑星メランコリア」と名づけて、地球と衝突するのではないかと怯えている。ある者は逃げ出し、ある者はみずからの命を絶ち、クレアも狂乱状態に陥る。
それは鬱病の症状のように、あるときは大きくなり、いったん治まったかにみえてまた大きくなる。そのたびに人々の気持ちは翻弄される。
そんな中、重度の鬱病のために一人では日常生活すら送れないジャスティンだけが、冷静に異常な世界を受け入れる。
一般人が大切にしてきたもの、すなわち金や仕事や名声は、もう何の意味もない。ジャスティンが嫌っていたものが、ようやく誰にとっても価値がなくなったのだ。
そして「魔法の洞窟」と呼ぶ三角形のテントに入って座禅を組むジャスティンとレオは、アレハンドロ・ホドロフスキーが『アンカル』で描いた宇宙の真理を目指す者にそっくりの姿で、世界の最後を静かに迎えようとする。
けれどもクレアの狂乱は治まらない。第二部の世界では、クレアこそ世界に馴染めない異端者なのだ。
私たちの多くは、二つの世界を経験することはない。多くの人は金や仕事や名声を重んじ、それらに馴染めない者を異常だと考えている。
けれども長年鬱病に苦しんだトリアー監督は、彼らは世界の一面しか見ていないのだと気づいている。世界がひっくり返るような事態になれば、異常だと思われていた人の方が実は正常であると判るかもしれない。
本作のアイデアは、トリアー監督が鬱病の治療を受けているときに浮かんだという。そのときセラピストは次のように語ったのだ。「普通の幸せな人々は、悲惨な状況ではパニックに陥りがちだが、鬱病の人は地獄に落ちても当然だと思っているから、かえって冷静に行動する」と。
第一部の一般人の世界では、誰からも理解されず見放されたジャスティンが、第二部の異常な世界ではただ一人平静に過ごせるとはなんとも皮肉である。
月を背にして立つクレアと、メランコリアを背にして立つジャスティン。
二人の距離は最後まで埋まることがないけれど、いずれにも公平に訪れる世界の終わりを、ラース・フォン・トリアー監督は「ある種のハッピーエンド」と述べている。
はたしてあなたが立っているのは、どちら側なのだろうか。もう一方との距離は埋められないのだろうか。
『メランコリア』 [ま行]
監督・脚本/ラース・フォン・トリアー
出演/キルスティン・ダンスト シャルロット・ゲンズブール キーファー・サザーランド アレキサンダー・スカルスガルド シャーロット・ランプリング ジョン・ハート ステラン・スカルスガルド イェスパー・クリステンセン ブラディ・コーベット キャメロン・スパー
日本公開/2012年2月17日
ジャンル/[アート] [ドラマ] [SF]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
この世界は、正邪、清濁、明暗といった二面性を兼ね備えている。
それなのに、多くの人は明るく正しく清い面しか見ていないのではないだろうか。
ラース・フォン・トリアー監督のように鬱病を患った者には、世界の違う面が見えるのかもしれない。そして、世界の一面しか見ていない人々との断絶を感じているのかもしれない。
映画『メランコリア』は、題名のとおりメランコリア(憂鬱、鬱病)がテーマである。
映画の冒頭、シュールレアリスム画を思わせる幻想的なシーンが続き、映画の骨格が示される。
この幻想的なシーンのうち、主人公ジャスティンが灰色のツタに絡まれる情景を、後にジャスティンが自分を悩ませる幻想として言及していることから、これらのシーンがジャスティンの頭の中の想念であることが判る。
とはいえ、ジャスティンは世界のことも未来のことも何でも判ると云っているので、この幻想は同時に予知夢であり、映画の世界とこれからのストーリーを物語ってもいる。
そこでは、18番ホールまでしかないゴルフ場で19番ホールを逃げたり、地球上からは見られるはずのない地球が砕ける光景を見たりと、(映画の中の)現実とは少々異なる映像が続くため、ジャスティンも確信を持って未来の予知と云うことができない。彼女はただ幻想に苦しむばかりである。
この冒頭シーンでとりわけ重要なのは、ジャスティンと姉のクレアと、クレアの息子レオとの関係を示したショットだろう。
そこでは、クレアは月を背にして立っている。彼女は世間から見たら一般的な人間である。
一方、ジャスティンは青い星を背に立っている。後にその星は地球よりも大きいメランコリア(憂鬱)の塊であることが判るのだが、少なくともここでジャスティンがクレアとは対照的な人間であることが示される。
そして両者の真ん中には少年レオが立っている。レオの背後に輝いているのは半月だ。姉クレアのような一般人になるかもしれないものの、ジャスティンに影響される可能性もある。レオの立ち位置と背後の星が、正邪、清濁、明暗のどちらにも偏らない彼の状態を表している。
クレアとジャスティンの姉妹は、世界の二面性を象徴している。
クレアは常識人である。金持ちと結婚して、物質文明の恩恵に浴している。世間では彼女を幸せ者と呼ぶだろう。
ジャスティンは鬱病患者だ。金持ちとの結婚なんて気が乗らないし、仕事を器用にこなして出世しようとも思わない。賑やかなパーティなんて彼女にとっては苦痛でしかない。
映画の構成そのものも二面的だ。
『メランコリア』は「第一部 ジャスティン」と「第二部 クレア」の二部構成になっている。
第一部は、「ジャスティン」という章題とは裏腹に、ジャスティンの嫌いな一般人の世界である。一般人たちが集まり、金を使って贅沢なパーティーに興じる。花嫁のジャスティンはパーティーの主役であり、一般人からは幸せの絶頂だと思われている。
でも彼女にとってこのパーティーは苦痛でしかない。彼女は一人でパーティーを抜け出したり、背徳的な行為をして悦に入ったりする。
常識人のクレアは、そんなジャスティンを憎々しく思う。
第一部の世界では、ジャスティンは世の中に馴染めない異端者なのだ。
第二部は、「クレア」という章題とは裏腹に、クレアには理解できない異常な世界である。
世界は、地球よりも大きな憂鬱の塊に呑み込まれようとしており、一般人の常識とはかけ離れた状態だ。人々は憂鬱の塊に「惑星メランコリア」と名づけて、地球と衝突するのではないかと怯えている。ある者は逃げ出し、ある者はみずからの命を絶ち、クレアも狂乱状態に陥る。
それは鬱病の症状のように、あるときは大きくなり、いったん治まったかにみえてまた大きくなる。そのたびに人々の気持ちは翻弄される。
そんな中、重度の鬱病のために一人では日常生活すら送れないジャスティンだけが、冷静に異常な世界を受け入れる。
一般人が大切にしてきたもの、すなわち金や仕事や名声は、もう何の意味もない。ジャスティンが嫌っていたものが、ようやく誰にとっても価値がなくなったのだ。
そして「魔法の洞窟」と呼ぶ三角形のテントに入って座禅を組むジャスティンとレオは、アレハンドロ・ホドロフスキーが『アンカル』で描いた宇宙の真理を目指す者にそっくりの姿で、世界の最後を静かに迎えようとする。
けれどもクレアの狂乱は治まらない。第二部の世界では、クレアこそ世界に馴染めない異端者なのだ。
私たちの多くは、二つの世界を経験することはない。多くの人は金や仕事や名声を重んじ、それらに馴染めない者を異常だと考えている。
けれども長年鬱病に苦しんだトリアー監督は、彼らは世界の一面しか見ていないのだと気づいている。世界がひっくり返るような事態になれば、異常だと思われていた人の方が実は正常であると判るかもしれない。
本作のアイデアは、トリアー監督が鬱病の治療を受けているときに浮かんだという。そのときセラピストは次のように語ったのだ。「普通の幸せな人々は、悲惨な状況ではパニックに陥りがちだが、鬱病の人は地獄に落ちても当然だと思っているから、かえって冷静に行動する」と。
第一部の一般人の世界では、誰からも理解されず見放されたジャスティンが、第二部の異常な世界ではただ一人平静に過ごせるとはなんとも皮肉である。
月を背にして立つクレアと、メランコリアを背にして立つジャスティン。
二人の距離は最後まで埋まることがないけれど、いずれにも公平に訪れる世界の終わりを、ラース・フォン・トリアー監督は「ある種のハッピーエンド」と述べている。
はたしてあなたが立っているのは、どちら側なのだろうか。もう一方との距離は埋められないのだろうか。
『メランコリア』 [ま行]
監督・脚本/ラース・フォン・トリアー
出演/キルスティン・ダンスト シャルロット・ゲンズブール キーファー・サザーランド アレキサンダー・スカルスガルド シャーロット・ランプリング ジョン・ハート ステラン・スカルスガルド イェスパー・クリステンセン ブラディ・コーベット キャメロン・スパー
日本公開/2012年2月17日
ジャンル/[アート] [ドラマ] [SF]
【theme : ヨーロッパ映画】
【genre : 映画】
tag : ラース・フォン・トリアーキルスティン・ダンストシャルロット・ゲンズブールキーファー・サザーランドアレキサンダー・スカルスガルドシャーロット・ランプリングジョン・ハートステラン・スカルスガルドイェスパー・クリステンセンブラディ・コーベット
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 半世紀遅れた『天空の城ラピュタ』?
アニメファンが読むとどう思うのだろう?
前々回で與那覇潤著『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』のことを紹介し、前回は本書で得た視点から各国の映画を見直してみた。
小・中・高等学校で歴史を学んだだけの者にとって、大学での講義をまとめた本書は、近年の研究の成果に触れ、新たな視点を獲得するためにぜひ読んでおきたい本である。
しかし、ジャパニメーション及び宮崎アニメに関する記述は、アニメファンが首をひねる内容だ。
本書がジャパニメーションに触れている箇所と、対象作品は次のとおりだ。
『第6章 わが江戸は緑なりき――「再江戸時代化」する昭和日本』163ページ……『天空の城ラピュタ』
『第7章 近世の衝突――中国に負けた帝国日本』190ページ……『風の谷のナウシカ』
『第7章 近世の衝突――中国に負けた帝国日本』209ページ……ジャパニメーション全般
■『天空の城ラピュタ』は、半世紀遅れの『わが谷は緑なりき』なのか
なぜ、日本通史を解説する『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』で、『天空の城ラピュタ』を取り上げるのか。
それは著者がジョン・フォード監督の名作『わが谷は緑なりき』と対比することで、日米文化の差異を説明するためである。
1986年に公開された『天空の城ラピュタ』を制作するに当たって、イギリスのウェールズ地方を取材したことはよく知られている。
そしてウェールズ地方の炭坑町を舞台にした映画といえば、誰もが涙なくしては観られない1941年公開の『わが谷は緑なりき』だろう。『天空の城ラピュタ』の公開時、主人公パズーの住む町に『わが谷は緑なりき』の情景を思い出して、あのモノクロ映画の感動が蘇った人も多いはずだ。
宮崎駿監督は、他のクリエイター同様に、完全な無から作品を創造しているわけではない。ストーリーにしろ風景にしろ、人の動きにしろカメラアングルにしろ、意識するしないにかかわらず何かにヒントを得ている。『天空の城ラピュタ』の舞台を機械文明が上り調子の活気あふれる町にしようと考えたとき、男たちがみんなすすだらけになって働いている『わが谷は緑なりき』を思い浮かべたのは自然なことだろう。
そして著者は、この両作の類似と公開時期の半世紀の開きから、次のように論を立てる。
(1) 『わが谷は緑なりき』のモチーフは、「父親」の不在ないし機能不全(を、長兄らが結成した労働組合が代替する)である。
(2) その半世紀後に作られた『天空の城ラピュタ』でも、主人公パズー及びヒロイン・シータの父親は不在である。
(3) 欧米人が20世紀前半に家父長制的な生活保障システムの限界に気づいた後も、日本人は「父親」を中心とした「イエ」を強化し続けた。そして「父親」を頂点として地域や家庭ごとに集約されていた秩序がもはや通用しなくなったことに気づくまでに半世紀の遅れがあった。
著者の主張をざっと要約するとこのようになる。
『中国化する日本』はアニメ等のサブカルチャーについて論じた本ではないから、とりたててアニメに詳しくはないビジネスマン等の読者は、この論を素直に受け入れるかもしれない。また、『風の谷のナウシカ』によってはじめて宮崎アニメの新しさ、凄さを知った年長の評論家[*]や、ものごころ付いたときには『天空の城ラピュタ』等のジブリ作品がもう揃っていたという年少者も、受け入れるかもしれない。
しかし、リアルタイムに宮崎アニメの登場に接してきた者や、一定以上のアニメ・マンガ等の知識を有するファンにとって、この論はしっくりこないだろう。
問題点は(2)だ。
なぜなら、1986年の『天空の城ラピュタ』を待たずとも、父親不在の作品は日本にたくさんあるからだ。それどころか、父親の不在は日本の伝統といえるかもしれない。
宮崎アニメであれば、まず思い浮かぶのが『未来少年コナン』(1978年)だろう。このテレビアニメは、父親がわりのおじいを失い天街孤独となったコナンが、労働者の決起に立ち会い、農村的コミュニティの人々に迎えられる様を描く。さらに遡れば、宮崎駿氏が場面設定として参画した『太陽の王子 ホルスの大冒険』(制作は1965~1968年)も、この点において同様である。
宮崎アニメの他に目を向ければ、父親不在の例はたくさんあって書ききれない。
特に、出版数の多さでギネスに認定されているマンガ家・石森章太郎(後の石ノ森章太郎)氏は、自身と父との関係が良好ではなかったために、父親不在の作品を大量に世に送り出し、日本のマンガ、アニメ、特撮の世界に大きな影響を与えた。天涯孤独な者たちが集まって、ひとつのチームを結成するマンガ『サイボーグ009』(1964年)は、その代表作といえよう。
だから、『天空の城ラピュタ』で父親不在が描かれ、それは『わが谷は緑なりき』よりも半世紀遅れてるから……と云われても、アニメファン、マンガファンにはしっくりこないのだ。
では日本における父親不在の作品の登場が『天空の城ラピュタ』公開の1986年でないとするなら、どこまで遡れるのだろう。マンガ『サイボーグ009』の連載が開始され、『太陽の王子 ホルスの大冒険』が公開された1960年代だろうか。
実は、『わが谷は緑なりき』と同じ1940年代にも、父親不在の映画はある。成瀬巳喜男監督の『三十三間堂通し矢物語』(1945年)は、父の無念を晴らすべく、子が通し矢の修行に励む物語だ。
それどころか、父親不在の作品は1930年代、1920年代までも軽く遡れてしまう。もっとも、このころはアニメなんてないから、主にマンガや小説での例になる。
たとえば1931年に少年倶楽部で連載がはじまったマンガ『のらくろ』は、題名のとおり野良犬が主人公だ。親はいない。まぁ、この作品に関しては、のらくろの所属する猛犬聯隊が、日本社会の「イエ」に相当するのだといえなくもない。
だが、1933年に少年倶楽部ではじまったマンガ『冒険ダン吉』も、家族がいない。
それは家族の設定を作り忘れたんだろうとおっしゃる方には、はっきり父親不在を謳った作品として、大友柳太朗主演で何度も映画化された『快傑黒頭巾』を紹介しよう。高垣眸によるこの傑作小説は、1935年に少年倶楽部に連載された。幼い姉弟が黒頭巾の男に助けられながら、父親をはめた陰謀と戦う痛快作だ。
同じく高垣眸のデビュー作である『龍神丸』(1925年)も、父親不在の中で海賊たちとわたり合う少年が主人公である。
切りがないのでこのへんにしておくが、父親不在の作品はいくらでもあるのだ。
思うに、これは仇討とも関係があるかもしれない。仇討――すなわち父の無念を晴らすことは、武士なら当然やるべき務めだった。理由はともかく殺人だから、本来は取り締まるべきであるが、江戸時代には仇討を法制化までして認めていた。
こういう伝統を持つ国で、父親のいない子供が活躍する話が多々生まれるのは、不思議でもなんでもない。
したがって、『中国化する日本』が、上の(2)のように父親不在の物語が1986年に作られたことをもって論を進めるのは、はなはだ無理がある。
もっとも私は、日本人が家父長制的なシステムの限界に気づくのが遅れたという(3)について、否定するものではない。
遅れたどころか、今でも日本人は家父長制的なシステムに恋焦がれている。
ただ、歴史を解説する方便として映画やアニメを引用するのはともかく、まるで映画やアニメを根拠とするかのような本書の語り口はいただけないと思うのだ。
これが論文だったら、もっと実証的な手続を踏んだ上で論を進めるはずだ。本書は一般向けの読み物だから、細かく論証するよりも、著名な作品を挙げて読者の理解を促進する方が大切だと考えたのかもしれない。
たしかに、いつの時代の作品にもその作品が生まれた背景があるから、作品に言及すればその時代の文化や情勢を説明するとっかかりにはなるだろう。
しかし、膨大な作品群からたった一作を取り出して社会の動向を代表させてしまうのは、いかにも乱暴だ。『天空の城ラピュタ』以前の作品を知るアニメファン・マンガファンなら、その乱暴さを感じ取って本書を読む気が失せてしまうかもしれない。
せっかくの好著なのに、それが残念である。
(つづく)
[*]川本三郎 (2008)『増補決定版 宮崎駿の<世界>』(筑摩書房刊)所収の解説より
『天空の城ラピュタ』 [た行]
監督・原作・脚本・作詞/宮崎駿 プロデューサー/高畑勲
出演/田中真弓 横沢啓子 初井言榮 寺田農 常田富士男 永井一郎 糸博 鷲尾真知子 安原義人 槐柳二
日本公開/1986年8月2日
ジャンル/[アドベンチャー] [ファンタジー] [SF]
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 [書籍]
著者/與那覇潤
日本初版/2011年11月20日
ジャンル/[歴史]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
前々回で與那覇潤著『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』のことを紹介し、前回は本書で得た視点から各国の映画を見直してみた。
小・中・高等学校で歴史を学んだだけの者にとって、大学での講義をまとめた本書は、近年の研究の成果に触れ、新たな視点を獲得するためにぜひ読んでおきたい本である。
しかし、ジャパニメーション及び宮崎アニメに関する記述は、アニメファンが首をひねる内容だ。
本書がジャパニメーションに触れている箇所と、対象作品は次のとおりだ。
『第6章 わが江戸は緑なりき――「再江戸時代化」する昭和日本』163ページ……『天空の城ラピュタ』
『第7章 近世の衝突――中国に負けた帝国日本』190ページ……『風の谷のナウシカ』
『第7章 近世の衝突――中国に負けた帝国日本』209ページ……ジャパニメーション全般
■『天空の城ラピュタ』は、半世紀遅れの『わが谷は緑なりき』なのか
なぜ、日本通史を解説する『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』で、『天空の城ラピュタ』を取り上げるのか。
それは著者がジョン・フォード監督の名作『わが谷は緑なりき』と対比することで、日米文化の差異を説明するためである。
1986年に公開された『天空の城ラピュタ』を制作するに当たって、イギリスのウェールズ地方を取材したことはよく知られている。
そしてウェールズ地方の炭坑町を舞台にした映画といえば、誰もが涙なくしては観られない1941年公開の『わが谷は緑なりき』だろう。『天空の城ラピュタ』の公開時、主人公パズーの住む町に『わが谷は緑なりき』の情景を思い出して、あのモノクロ映画の感動が蘇った人も多いはずだ。
宮崎駿監督は、他のクリエイター同様に、完全な無から作品を創造しているわけではない。ストーリーにしろ風景にしろ、人の動きにしろカメラアングルにしろ、意識するしないにかかわらず何かにヒントを得ている。『天空の城ラピュタ』の舞台を機械文明が上り調子の活気あふれる町にしようと考えたとき、男たちがみんなすすだらけになって働いている『わが谷は緑なりき』を思い浮かべたのは自然なことだろう。
そして著者は、この両作の類似と公開時期の半世紀の開きから、次のように論を立てる。
(1) 『わが谷は緑なりき』のモチーフは、「父親」の不在ないし機能不全(を、長兄らが結成した労働組合が代替する)である。
(2) その半世紀後に作られた『天空の城ラピュタ』でも、主人公パズー及びヒロイン・シータの父親は不在である。
(3) 欧米人が20世紀前半に家父長制的な生活保障システムの限界に気づいた後も、日本人は「父親」を中心とした「イエ」を強化し続けた。そして「父親」を頂点として地域や家庭ごとに集約されていた秩序がもはや通用しなくなったことに気づくまでに半世紀の遅れがあった。
著者の主張をざっと要約するとこのようになる。
『中国化する日本』はアニメ等のサブカルチャーについて論じた本ではないから、とりたててアニメに詳しくはないビジネスマン等の読者は、この論を素直に受け入れるかもしれない。また、『風の谷のナウシカ』によってはじめて宮崎アニメの新しさ、凄さを知った年長の評論家[*]や、ものごころ付いたときには『天空の城ラピュタ』等のジブリ作品がもう揃っていたという年少者も、受け入れるかもしれない。
しかし、リアルタイムに宮崎アニメの登場に接してきた者や、一定以上のアニメ・マンガ等の知識を有するファンにとって、この論はしっくりこないだろう。
問題点は(2)だ。
なぜなら、1986年の『天空の城ラピュタ』を待たずとも、父親不在の作品は日本にたくさんあるからだ。それどころか、父親の不在は日本の伝統といえるかもしれない。
宮崎アニメであれば、まず思い浮かぶのが『未来少年コナン』(1978年)だろう。このテレビアニメは、父親がわりのおじいを失い天街孤独となったコナンが、労働者の決起に立ち会い、農村的コミュニティの人々に迎えられる様を描く。さらに遡れば、宮崎駿氏が場面設定として参画した『太陽の王子 ホルスの大冒険』(制作は1965~1968年)も、この点において同様である。
宮崎アニメの他に目を向ければ、父親不在の例はたくさんあって書ききれない。
特に、出版数の多さでギネスに認定されているマンガ家・石森章太郎(後の石ノ森章太郎)氏は、自身と父との関係が良好ではなかったために、父親不在の作品を大量に世に送り出し、日本のマンガ、アニメ、特撮の世界に大きな影響を与えた。天涯孤独な者たちが集まって、ひとつのチームを結成するマンガ『サイボーグ009』(1964年)は、その代表作といえよう。
だから、『天空の城ラピュタ』で父親不在が描かれ、それは『わが谷は緑なりき』よりも半世紀遅れてるから……と云われても、アニメファン、マンガファンにはしっくりこないのだ。
では日本における父親不在の作品の登場が『天空の城ラピュタ』公開の1986年でないとするなら、どこまで遡れるのだろう。マンガ『サイボーグ009』の連載が開始され、『太陽の王子 ホルスの大冒険』が公開された1960年代だろうか。
実は、『わが谷は緑なりき』と同じ1940年代にも、父親不在の映画はある。成瀬巳喜男監督の『三十三間堂通し矢物語』(1945年)は、父の無念を晴らすべく、子が通し矢の修行に励む物語だ。
それどころか、父親不在の作品は1930年代、1920年代までも軽く遡れてしまう。もっとも、このころはアニメなんてないから、主にマンガや小説での例になる。
たとえば1931年に少年倶楽部で連載がはじまったマンガ『のらくろ』は、題名のとおり野良犬が主人公だ。親はいない。まぁ、この作品に関しては、のらくろの所属する猛犬聯隊が、日本社会の「イエ」に相当するのだといえなくもない。
だが、1933年に少年倶楽部ではじまったマンガ『冒険ダン吉』も、家族がいない。
それは家族の設定を作り忘れたんだろうとおっしゃる方には、はっきり父親不在を謳った作品として、大友柳太朗主演で何度も映画化された『快傑黒頭巾』を紹介しよう。高垣眸によるこの傑作小説は、1935年に少年倶楽部に連載された。幼い姉弟が黒頭巾の男に助けられながら、父親をはめた陰謀と戦う痛快作だ。
同じく高垣眸のデビュー作である『龍神丸』(1925年)も、父親不在の中で海賊たちとわたり合う少年が主人公である。
切りがないのでこのへんにしておくが、父親不在の作品はいくらでもあるのだ。
思うに、これは仇討とも関係があるかもしれない。仇討――すなわち父の無念を晴らすことは、武士なら当然やるべき務めだった。理由はともかく殺人だから、本来は取り締まるべきであるが、江戸時代には仇討を法制化までして認めていた。
こういう伝統を持つ国で、父親のいない子供が活躍する話が多々生まれるのは、不思議でもなんでもない。
したがって、『中国化する日本』が、上の(2)のように父親不在の物語が1986年に作られたことをもって論を進めるのは、はなはだ無理がある。
もっとも私は、日本人が家父長制的なシステムの限界に気づくのが遅れたという(3)について、否定するものではない。
遅れたどころか、今でも日本人は家父長制的なシステムに恋焦がれている。
ただ、歴史を解説する方便として映画やアニメを引用するのはともかく、まるで映画やアニメを根拠とするかのような本書の語り口はいただけないと思うのだ。
これが論文だったら、もっと実証的な手続を踏んだ上で論を進めるはずだ。本書は一般向けの読み物だから、細かく論証するよりも、著名な作品を挙げて読者の理解を促進する方が大切だと考えたのかもしれない。
たしかに、いつの時代の作品にもその作品が生まれた背景があるから、作品に言及すればその時代の文化や情勢を説明するとっかかりにはなるだろう。
しかし、膨大な作品群からたった一作を取り出して社会の動向を代表させてしまうのは、いかにも乱暴だ。『天空の城ラピュタ』以前の作品を知るアニメファン・マンガファンなら、その乱暴さを感じ取って本書を読む気が失せてしまうかもしれない。
せっかくの好著なのに、それが残念である。
(つづく)
[*]川本三郎 (2008)『増補決定版 宮崎駿の<世界>』(筑摩書房刊)所収の解説より
『天空の城ラピュタ』 [た行]
監督・原作・脚本・作詞/宮崎駿 プロデューサー/高畑勲
出演/田中真弓 横沢啓子 初井言榮 寺田農 常田富士男 永井一郎 糸博 鷲尾真知子 安原義人 槐柳二
日本公開/1986年8月2日
ジャンル/[アドベンチャー] [ファンタジー] [SF]
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 [書籍]
著者/與那覇潤
日本初版/2011年11月20日
ジャンル/[歴史]
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- 『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 日米映画のアジェンダの違い (2012/02/21)
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 儒教vs『ナバロンの要塞』
前回紹介した與那覇潤著『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』の中でも、私がとりわけ注目したのは次の文である。
---
ヨーロッパの近代というのは、カトリックとプロテスタントがお互い「正義の戦争」を掲げて虐殺しあう16世紀の宗教戦争への反省から生まれたので、道徳的な価値判断を政治行為から切り離そうとする傾向が強い(いわゆる政教分離)。
端的にいえば、たとえば「正しさ」のための政治(戦争)といっても、それは誰にとっての「正しさ」なの? という問い返しが常について回るのが、西洋風の近代社会の本義であったわけです。
『第5章 開国はしたけれど――「中国化」する明治日本』 158ページ
---
なるほど、だから日本映画と欧米の映画はアジェンダ設定が異なるのだ!
以前の記事で、日本のテレビドラマ『CHANGE』の総理大臣や『海猿』の教官は、米国のドラマ『ギャラクティカ』の大統領と考え方が違うと述べた。米国ドラマでは、少々の犠牲を払ってでも全体を生かす道を(苦悩しながら)決断するのだが、日本のドラマや映画ではたとえ合理的でなくても目の前の人を助けるために行動し、それでハッピーエンドになってしまう。これほどまでに問題解決の仕方が異なるのはなぜか、私には疑問だった。
しかし、ヨーロッパでは長い戦争の経験から、道徳的な判断と現実的な判断を切り離しているのだとすれば納得だ。
判りやすい例が映画『ナバロンの要塞』である。
2,000人の連合軍兵士を助けるために、精鋭チームがドイツの大要塞の破壊に赴くこの冒険映画で、最大の見どころはドイツ軍との駆け引きや要塞への潜入ではなく、チームメンバーのグレゴリー・ペックとデヴィッド・ニーヴンがぶつかる場面だ。
グレゴリー・ペックは将校である。任務遂行を最優先に決断しなくてはならない。ときには傷ついた味方を置き去りにし、ときには無抵抗のスパイを殺さなければならない。
一方、デヴィッド・ニーヴンは将校になることを拒否し続けている。他のメンバーにコーヒーを淹れてやる優しい男で、目の前の怪我人は放っておけない。そんなデヴィッド・ニーヴンには、グレゴリー・ペックの行為が我慢ならない。傷ついた味方を敵の渦中に置いて行くなど言語道断だ。
そんな二人はことごとく対立するのだが、これはまさしく政治行為と道徳的な価値判断とのぶつかり合いだ。
『ナバロンの要塞』の作り手は、政治行為と道徳的な価値判断をそれぞれ登場人物に代表させ、その葛藤の苦しさを観客に伝える。誰もがデヴィッド・ニーヴンの云うことには共感するだろう。しかし彼の云うとおりにしていては、ナバロンの要塞を破壊することはできず、引いては2,000人の兵士が犠牲になる。
この映画の主人公はグレゴリー・ペックだ。映画はその苦悩を浮き彫りにする。リーダーであること、道徳的な判断を抑えて決断しなければならないこと、道徳的な判断を主張するのは(デヴィッド・ニーヴンが将校になることを拒否しているように)しょせん責任の重さから逃げているのではないかということ。
そこには、たとえ辛くても道徳的な判断と現実的な判断を切り離そうとする覚悟がある。なにしろ置き去りにされるのは、デヴィッド・ニーヴンにとってはこの任務ではじめて会ったチームメンバーでしかないが、グレゴリー・ペックには旧知の仲なのだ。
日本の作品に見られないのは、この問題意識だ。
日本では現実問題への対処は、同時に道徳的でもあることが求められる。それゆえ、禁を破ってでも目の前の遭難者を助けるように指示した教官がもてはやされるのだ。
それは、お互いが「正義の戦争」を掲げて殺しあうような戦争を経験してこなかったからだろう。同じ16世紀の戦争でも、日本の戦国時代は天候不順による飢饉を生き延びるための食糧の奪い合いだったのだから。
また、儒教の影響も見逃せない。
儒教では徳を備えた者こそ天命により為政者たるとしている。道徳的に優れた者が政治行為をすべしということであり、ヨーロッパの政教分離とは正反対である。
だから日本では、政治家が不倫したとか、政治資金に関する書類に間違いがあったとか、政治手腕そのものとは関係ないことが政治上の問題であるかのように取り沙汰される。徳を備えていないから為政者としても失格になるという考え方だ。ホルモンの働きに着目すれば、好戦的で浮気性の人物の方がリーダー的資質があるとされているにもかかわらず。
日本人は政治家に徳を求めるあまり、リーダーとしての資質をないがしろにしているのかもしれない。
そして政教分離を巡る葛藤が見られない点では、日本の作品だけでなく韓流や華流のドラマ・映画も同様だ。
韓国や中国の作品でも、主人公は道徳的だ。『レッドクリフ』の劉備も『太王四神記』の好太王も、清廉潔白な道徳家である。もちろん作品によっては悪漢が主人公のこともあるが、たとえば『ギャラクティカ』のロズリン大統領のように、善人なのに民間人を見殺しにさせるリーダーは登場しない。そもそも作品中に、そんなアジェンダが出てこない。
だから韓国や中国の作品が日本人にウケるのは当然だろう。徳があればリーダーとしても優れていると思う日本人にとって、リーダーとしての決断と道徳のはざまで葛藤する欧米作品の主人公なんてしち面倒くさいだけであり、儒教文化を共有する東アジアの作品の方が親しみやすいのである。
日本の作品に『ナバロンの要塞』のような葛藤が皆無とはいわない。欧米の映画や小説の影響の下、似たような葛藤が描かれることはある。
しかし、たとえば『サイボーグ009』が、人情家の009と冷徹な計算に基づいて決断する001との対比からはじまっていながら、やがて登場人物全員が人情家になってしまうように、どうも政教分離が板についていない。
政教分離が板についていないところに、日本人を暴走させてしまう原動力として登場したのが、「中国由来の政治社会思想・兼・個人の生き方マニュアルだった儒教、なかでも特に「陽明学」」であったという。
與那覇氏は、陽明学そのものというより、陽明学のエートス、「気分としての陽明学」のもたらしたのが「動機オーライ主義」であると紹介している。「結果オーライ」なら「おわりよければすべてよし」だが、「動機オーライ」な人々は「はじめよければあとはどうなってもよし」と突っ走る。
そして、同志との彼我一体的な心情的連帯感がすさまじく強力なので、争いのどちらの側に立つかということと、善悪とを混同してしまう。
與那覇氏は、これが「日本を含めた東アジアと、ヨーロッパの近代とを比較する上で極めて重要な視点」であると述べている。
云われてみれば、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』以降のヤマトシリーズが敵異星人を一族郎党皆殺しにしてしまったり、『マイウェイ 12,000キロの真実』が「朝鮮人は善人、日本人は悪人」という構図ではじまるのに対し、『大脱走』も『ナバロンの要塞』も「ドイツ兵はすべて悪」なんて描き方はしていないことに、映画ファンは思い当たるだろう。
さて、『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』は日本通史の解説書でありながら、歴史好きのみならず、映画ファンやアニメファンも楽しんで読めるようになっている。著者・與那覇潤氏はたいそうな映画ファンらしく、本書では随所に映像作品が引き合いに出されるからだ。
歴史上の出来事を映画を例に説明されると、その映像が頭に浮かんできて、イメージを掴みやすい。映画のタイトルをもじった章題「開国はしたけれど」「わが江戸は緑なりき」等も楽しい。
映画を知らない人も、取り上げられた作品をちょっと見てみようかという気になるだろう。
もっとも映画の解説が主眼ではないので、黒澤明監督の『一番美しく』のことを「戦時中の工場を舞台に、増産に励む勤労女学生の奮闘ぶりをセミ・ドキュメンタリー風の演出で賛美した国策映画」(54ページ)と「良い子の見方」で断じるなど、一つひとつの作品に詳しく触れているわけではない。
そんな中で、やや多めにページを割いているのがジャパニメーション、とりわけ宮崎アニメについてである。
ところが、これがアニメファンには首をひねる内容なのだ。
(つづく)
『ナバロンの要塞』 [な行]
監督/J・リー・トンプソン 原作/アリステア・マクリーン
助監督/ピーター・イエーツ
出演/グレゴリー・ペック デヴィッド・ニーヴン アンソニー・クイン スタンリー・ベイカー アンソニー・クエイル ジェームズ・ダーレン イレーネ・パパス ジア・スカラ リチャード・ハリス
日本公開/1961年8月15日
ジャンル/[戦争] [アドベンチャー]
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 [書籍]
著者/與那覇潤
日本初版/2011年11月20日
ジャンル/[歴史]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
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ヨーロッパの近代というのは、カトリックとプロテスタントがお互い「正義の戦争」を掲げて虐殺しあう16世紀の宗教戦争への反省から生まれたので、道徳的な価値判断を政治行為から切り離そうとする傾向が強い(いわゆる政教分離)。
端的にいえば、たとえば「正しさ」のための政治(戦争)といっても、それは誰にとっての「正しさ」なの? という問い返しが常について回るのが、西洋風の近代社会の本義であったわけです。
『第5章 開国はしたけれど――「中国化」する明治日本』 158ページ
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なるほど、だから日本映画と欧米の映画はアジェンダ設定が異なるのだ!
以前の記事で、日本のテレビドラマ『CHANGE』の総理大臣や『海猿』の教官は、米国のドラマ『ギャラクティカ』の大統領と考え方が違うと述べた。米国ドラマでは、少々の犠牲を払ってでも全体を生かす道を(苦悩しながら)決断するのだが、日本のドラマや映画ではたとえ合理的でなくても目の前の人を助けるために行動し、それでハッピーエンドになってしまう。これほどまでに問題解決の仕方が異なるのはなぜか、私には疑問だった。
しかし、ヨーロッパでは長い戦争の経験から、道徳的な判断と現実的な判断を切り離しているのだとすれば納得だ。
判りやすい例が映画『ナバロンの要塞』である。
2,000人の連合軍兵士を助けるために、精鋭チームがドイツの大要塞の破壊に赴くこの冒険映画で、最大の見どころはドイツ軍との駆け引きや要塞への潜入ではなく、チームメンバーのグレゴリー・ペックとデヴィッド・ニーヴンがぶつかる場面だ。
グレゴリー・ペックは将校である。任務遂行を最優先に決断しなくてはならない。ときには傷ついた味方を置き去りにし、ときには無抵抗のスパイを殺さなければならない。
一方、デヴィッド・ニーヴンは将校になることを拒否し続けている。他のメンバーにコーヒーを淹れてやる優しい男で、目の前の怪我人は放っておけない。そんなデヴィッド・ニーヴンには、グレゴリー・ペックの行為が我慢ならない。傷ついた味方を敵の渦中に置いて行くなど言語道断だ。
そんな二人はことごとく対立するのだが、これはまさしく政治行為と道徳的な価値判断とのぶつかり合いだ。
『ナバロンの要塞』の作り手は、政治行為と道徳的な価値判断をそれぞれ登場人物に代表させ、その葛藤の苦しさを観客に伝える。誰もがデヴィッド・ニーヴンの云うことには共感するだろう。しかし彼の云うとおりにしていては、ナバロンの要塞を破壊することはできず、引いては2,000人の兵士が犠牲になる。
この映画の主人公はグレゴリー・ペックだ。映画はその苦悩を浮き彫りにする。リーダーであること、道徳的な判断を抑えて決断しなければならないこと、道徳的な判断を主張するのは(デヴィッド・ニーヴンが将校になることを拒否しているように)しょせん責任の重さから逃げているのではないかということ。
そこには、たとえ辛くても道徳的な判断と現実的な判断を切り離そうとする覚悟がある。なにしろ置き去りにされるのは、デヴィッド・ニーヴンにとってはこの任務ではじめて会ったチームメンバーでしかないが、グレゴリー・ペックには旧知の仲なのだ。
日本の作品に見られないのは、この問題意識だ。
日本では現実問題への対処は、同時に道徳的でもあることが求められる。それゆえ、禁を破ってでも目の前の遭難者を助けるように指示した教官がもてはやされるのだ。
それは、お互いが「正義の戦争」を掲げて殺しあうような戦争を経験してこなかったからだろう。同じ16世紀の戦争でも、日本の戦国時代は天候不順による飢饉を生き延びるための食糧の奪い合いだったのだから。
また、儒教の影響も見逃せない。
儒教では徳を備えた者こそ天命により為政者たるとしている。道徳的に優れた者が政治行為をすべしということであり、ヨーロッパの政教分離とは正反対である。
だから日本では、政治家が不倫したとか、政治資金に関する書類に間違いがあったとか、政治手腕そのものとは関係ないことが政治上の問題であるかのように取り沙汰される。徳を備えていないから為政者としても失格になるという考え方だ。ホルモンの働きに着目すれば、好戦的で浮気性の人物の方がリーダー的資質があるとされているにもかかわらず。
日本人は政治家に徳を求めるあまり、リーダーとしての資質をないがしろにしているのかもしれない。
そして政教分離を巡る葛藤が見られない点では、日本の作品だけでなく韓流や華流のドラマ・映画も同様だ。
韓国や中国の作品でも、主人公は道徳的だ。『レッドクリフ』の劉備も『太王四神記』の好太王も、清廉潔白な道徳家である。もちろん作品によっては悪漢が主人公のこともあるが、たとえば『ギャラクティカ』のロズリン大統領のように、善人なのに民間人を見殺しにさせるリーダーは登場しない。そもそも作品中に、そんなアジェンダが出てこない。
だから韓国や中国の作品が日本人にウケるのは当然だろう。徳があればリーダーとしても優れていると思う日本人にとって、リーダーとしての決断と道徳のはざまで葛藤する欧米作品の主人公なんてしち面倒くさいだけであり、儒教文化を共有する東アジアの作品の方が親しみやすいのである。
日本の作品に『ナバロンの要塞』のような葛藤が皆無とはいわない。欧米の映画や小説の影響の下、似たような葛藤が描かれることはある。
しかし、たとえば『サイボーグ009』が、人情家の009と冷徹な計算に基づいて決断する001との対比からはじまっていながら、やがて登場人物全員が人情家になってしまうように、どうも政教分離が板についていない。
政教分離が板についていないところに、日本人を暴走させてしまう原動力として登場したのが、「中国由来の政治社会思想・兼・個人の生き方マニュアルだった儒教、なかでも特に「陽明学」」であったという。
與那覇氏は、陽明学そのものというより、陽明学のエートス、「気分としての陽明学」のもたらしたのが「動機オーライ主義」であると紹介している。「結果オーライ」なら「おわりよければすべてよし」だが、「動機オーライ」な人々は「はじめよければあとはどうなってもよし」と突っ走る。
そして、同志との彼我一体的な心情的連帯感がすさまじく強力なので、争いのどちらの側に立つかということと、善悪とを混同してしまう。
與那覇氏は、これが「日本を含めた東アジアと、ヨーロッパの近代とを比較する上で極めて重要な視点」であると述べている。
云われてみれば、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』以降のヤマトシリーズが敵異星人を一族郎党皆殺しにしてしまったり、『マイウェイ 12,000キロの真実』が「朝鮮人は善人、日本人は悪人」という構図ではじまるのに対し、『大脱走』も『ナバロンの要塞』も「ドイツ兵はすべて悪」なんて描き方はしていないことに、映画ファンは思い当たるだろう。
さて、『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』は日本通史の解説書でありながら、歴史好きのみならず、映画ファンやアニメファンも楽しんで読めるようになっている。著者・與那覇潤氏はたいそうな映画ファンらしく、本書では随所に映像作品が引き合いに出されるからだ。
歴史上の出来事を映画を例に説明されると、その映像が頭に浮かんできて、イメージを掴みやすい。映画のタイトルをもじった章題「開国はしたけれど」「わが江戸は緑なりき」等も楽しい。
映画を知らない人も、取り上げられた作品をちょっと見てみようかという気になるだろう。
もっとも映画の解説が主眼ではないので、黒澤明監督の『一番美しく』のことを「戦時中の工場を舞台に、増産に励む勤労女学生の奮闘ぶりをセミ・ドキュメンタリー風の演出で賛美した国策映画」(54ページ)と「良い子の見方」で断じるなど、一つひとつの作品に詳しく触れているわけではない。
そんな中で、やや多めにページを割いているのがジャパニメーション、とりわけ宮崎アニメについてである。
ところが、これがアニメファンには首をひねる内容なのだ。
(つづく)
『ナバロンの要塞』 [な行]
監督/J・リー・トンプソン 原作/アリステア・マクリーン
助監督/ピーター・イエーツ
出演/グレゴリー・ペック デヴィッド・ニーヴン アンソニー・クイン スタンリー・ベイカー アンソニー・クエイル ジェームズ・ダーレン イレーネ・パパス ジア・スカラ リチャード・ハリス
日本公開/1961年8月15日
ジャンル/[戦争] [アドベンチャー]
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 [書籍]
著者/與那覇潤
日本初版/2011年11月20日
ジャンル/[歴史]
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- 『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 日米映画のアジェンダの違い (2012/02/21)
【theme : 紹介したい本】
【genre : 本・雑誌】
tag : 與那覇潤J・リー・トンプソングレゴリー・ペックデヴィッド・ニーヴンアンソニー・クインスタンリー・ベイカーアンソニー・クエイルジェームズ・ダーレンイレーネ・パパスジア・スカラ
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 日米映画のアジェンダの違い
今、不安に感じている人が多いのではないか。
今や会社は一生を捧げて帰属する集団ではなくなり、繰り返される組織再編と人の出入りにより隣の人が何をしているかも判らなくなっている。
地域では、かつてのように醤油が切れたら隣の家から分けてもらう長屋感覚はなくなり、マンション住人の8割はろくに挨拶も交わさない。
家族でさえ一緒に食卓を囲まない家庭もあろう。
一方で、それを積極的に肯定する人もいるだろう。
わずらわしいしがらみに捉えられ、人目を気にしてやりたくもないことに時間を割くのは真っ平だと思う人も多い。そうでなければ、自治会やマンション管理組合やPTAの役員は、立候補者ですぐに埋まっているはずだ。
はたして私たちは集団を大切にし、顔見知りと固まって生きる方がいいのか、個人として自由に振る舞い、住む場所も勤め先も時勢に応じてドンドン変える方がいいのか。
與那覇潤著『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』は、そんな世の中のあり方を、歴史をたどりながら考察する本だ。
本書の著者は、中国と日本を社会の両極端と見なす。世界で最初に自由と平等を実現し、骨の髄まで自由に振る舞うことが身についている中国と、19世紀半ばまで強固な身分制度を維持し、職業選択の自由はおろか、住む場所を変えることも、旅することも許されなかった日本。本書は二つの社会を対比しながら、なぜそうなったのか、どこで違いが生じたのかを、ここ千年の出来事から解き明かす。
このように書くと、反論する人もいるだろう。中国が自由と平等の社会なのか、日本の方が自由で平等ではないかと。
そう思われる人は、ぜひとも本書を手に取るべきだ。目から鱗の驚きを味わえることは必至である。
一例を挙げれば、周囲が残業していると自分も帰りづらいと感じる日本人従業員と、いつでも転職をためらわない中国人従業員では、どちらが自由に振る舞っているだろうか。
中国も日本も、いきなりこんにちの姿になったわけではない。ときには中国が日本のように、ときには日本が中国のように揺れ動きながら、幾世代もの人々の考えと行動の結果として今がある。中国と日本を両端に置いて、各時代の人々をそのあいだのどこに位置付くか、どちらの方を向いているかで配置し直すとき、新たなものが見えてくる。
その光景は、多くの人にとって新鮮な驚きに満ちているだろう。あるいは、長年不可解に思っていた疑問が氷解して爽快さを味わうだろう。
たとえば平清盛は何をしようとしたのか、源頼朝は何を阻止したのか、戦国時代に日本人は何を選択したのか、なぜ大正デモクラシーから軍国主義が生まれたのか、なぜ田中角栄が首相になると高度経済成長が止まったのか。
各時代にはその時代なりのアジェンダ設定がある。それは驚くほど現在の私たちの課題に似ているのだ。
そして本書が面白いのは、歴史上の誰かが考えたこと、実行したことを明らかにすると、その顛末が今の私たちにとっては予言であるかのように、先のことが見通せてくる点だ。
その意味で、本書の白眉は『第10章 今度こそ「中国化」する日本――未来のシナリオ』だろう。著者は、これからの日本人の選択次第で、この国は中国のようにも北朝鮮のようにもなり得ると云う。
え? そんなことは考えられないって?
そう思うなら、やっぱり本書を手に取るべきだ。日本はこれまでに中国化しそうなこともあったし、現在の北朝鮮のような方向に進んだこともあった。今も、どちらかに向かって日本は進んでいるのだ。
ところで、本書の気になるところや面白いところに付箋を貼っていたら、ほとんど全ページに、いや同じページの数ヶ所に付箋を貼ることになって、本がヤマアラシのようになってしまった。
そんな中で私がとりわけ注目したのは次の文である。
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ヨーロッパの近代というのは、カトリックとプロテスタントがお互い「正義の戦争」を掲げて虐殺しあう16世紀の宗教戦争への反省から生まれたので、道徳的な価値判断を政治行為から切り離そうとする傾向が強い(いわゆる政教分離)。
端的にいえば、たとえば「正しさ」のための政治(戦争)といっても、それは誰にとっての「正しさ」なの? という問い返しが常について回るのが、西洋風の近代社会の本義であったわけです。
『第5章 開国はしたけれど――「中国化」する明治日本』 158ページ
---
なるほど、だから日本映画と欧米の映画はアジェンダ設定が異なるのだ!
(つづく)
【追記】
本書は「中国化」と日本の「再江戸時代化」との比較を中心に考察しているため、明治以来頻繁に論じられた「西洋化」の記述が乏しい。その点、著者が「中国化」と「西洋化」を比較して論じたこちらの会見が興味深いので紹介しておこう。
日本記者クラブ 著者と語る『中国化する日本』
「危機に立つ日本型民主主義―西洋化か中国化か」
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 [書籍]
著者/與那覇潤
日本初版/2011年11月20日
ジャンル/[歴史]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
今や会社は一生を捧げて帰属する集団ではなくなり、繰り返される組織再編と人の出入りにより隣の人が何をしているかも判らなくなっている。
地域では、かつてのように醤油が切れたら隣の家から分けてもらう長屋感覚はなくなり、マンション住人の8割はろくに挨拶も交わさない。
家族でさえ一緒に食卓を囲まない家庭もあろう。
一方で、それを積極的に肯定する人もいるだろう。
わずらわしいしがらみに捉えられ、人目を気にしてやりたくもないことに時間を割くのは真っ平だと思う人も多い。そうでなければ、自治会やマンション管理組合やPTAの役員は、立候補者ですぐに埋まっているはずだ。
はたして私たちは集団を大切にし、顔見知りと固まって生きる方がいいのか、個人として自由に振る舞い、住む場所も勤め先も時勢に応じてドンドン変える方がいいのか。
與那覇潤著『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』は、そんな世の中のあり方を、歴史をたどりながら考察する本だ。
本書の著者は、中国と日本を社会の両極端と見なす。世界で最初に自由と平等を実現し、骨の髄まで自由に振る舞うことが身についている中国と、19世紀半ばまで強固な身分制度を維持し、職業選択の自由はおろか、住む場所を変えることも、旅することも許されなかった日本。本書は二つの社会を対比しながら、なぜそうなったのか、どこで違いが生じたのかを、ここ千年の出来事から解き明かす。
このように書くと、反論する人もいるだろう。中国が自由と平等の社会なのか、日本の方が自由で平等ではないかと。
そう思われる人は、ぜひとも本書を手に取るべきだ。目から鱗の驚きを味わえることは必至である。
一例を挙げれば、周囲が残業していると自分も帰りづらいと感じる日本人従業員と、いつでも転職をためらわない中国人従業員では、どちらが自由に振る舞っているだろうか。
中国も日本も、いきなりこんにちの姿になったわけではない。ときには中国が日本のように、ときには日本が中国のように揺れ動きながら、幾世代もの人々の考えと行動の結果として今がある。中国と日本を両端に置いて、各時代の人々をそのあいだのどこに位置付くか、どちらの方を向いているかで配置し直すとき、新たなものが見えてくる。
その光景は、多くの人にとって新鮮な驚きに満ちているだろう。あるいは、長年不可解に思っていた疑問が氷解して爽快さを味わうだろう。
たとえば平清盛は何をしようとしたのか、源頼朝は何を阻止したのか、戦国時代に日本人は何を選択したのか、なぜ大正デモクラシーから軍国主義が生まれたのか、なぜ田中角栄が首相になると高度経済成長が止まったのか。
各時代にはその時代なりのアジェンダ設定がある。それは驚くほど現在の私たちの課題に似ているのだ。
そして本書が面白いのは、歴史上の誰かが考えたこと、実行したことを明らかにすると、その顛末が今の私たちにとっては予言であるかのように、先のことが見通せてくる点だ。
その意味で、本書の白眉は『第10章 今度こそ「中国化」する日本――未来のシナリオ』だろう。著者は、これからの日本人の選択次第で、この国は中国のようにも北朝鮮のようにもなり得ると云う。
え? そんなことは考えられないって?
そう思うなら、やっぱり本書を手に取るべきだ。日本はこれまでに中国化しそうなこともあったし、現在の北朝鮮のような方向に進んだこともあった。今も、どちらかに向かって日本は進んでいるのだ。
ところで、本書の気になるところや面白いところに付箋を貼っていたら、ほとんど全ページに、いや同じページの数ヶ所に付箋を貼ることになって、本がヤマアラシのようになってしまった。
そんな中で私がとりわけ注目したのは次の文である。
---
ヨーロッパの近代というのは、カトリックとプロテスタントがお互い「正義の戦争」を掲げて虐殺しあう16世紀の宗教戦争への反省から生まれたので、道徳的な価値判断を政治行為から切り離そうとする傾向が強い(いわゆる政教分離)。
端的にいえば、たとえば「正しさ」のための政治(戦争)といっても、それは誰にとっての「正しさ」なの? という問い返しが常について回るのが、西洋風の近代社会の本義であったわけです。
『第5章 開国はしたけれど――「中国化」する明治日本』 158ページ
---
なるほど、だから日本映画と欧米の映画はアジェンダ設定が異なるのだ!
(つづく)
【追記】
本書は「中国化」と日本の「再江戸時代化」との比較を中心に考察しているため、明治以来頻繁に論じられた「西洋化」の記述が乏しい。その点、著者が「中国化」と「西洋化」を比較して論じたこちらの会見が興味深いので紹介しておこう。
日本記者クラブ 著者と語る『中国化する日本』
「危機に立つ日本型民主主義―西洋化か中国化か」
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 [書籍]
著者/與那覇潤
日本初版/2011年11月20日
ジャンル/[歴史]
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- 『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 半世紀遅れた『天空の城ラピュタ』? (2012/02/23)
- 『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 儒教vs『ナバロンの要塞』 (2012/02/21)
- 『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 日米映画のアジェンダの違い (2012/02/21)
【theme : 紹介したい本】
【genre : 本・雑誌】
tag : 與那覇潤
『マイウェイ 12,000キロの真実』 たったひとつ残念なこと
素晴らしい!
そう素直に感嘆した。
人々の対立と葛藤、壊れる友情と生まれる友情、そして彼らを取り巻く数奇な運命。物語は波乱に富んで飽きさせないし、喜怒哀楽すべての感情を揺さぶるエピソードに満ちている。私は『マイウェイ 12,000キロの真実』を観て良かったと大満足で映画館を後にした。
何よりも舌を巻いたのは、この韓国映画の思慮深さだ。
映画は日中戦争前の時代から説き起こし、ノモンハン事件以降の出来事をたどりながら、第二次世界大戦後までを舞台にしている。この、取り上げ方の難しい時代を背景に、日本人と朝鮮人(当時まだ大韓民国という国はなかった)と中国人のドラマを描くのだ。日本でも韓国でも中国でも受け入れられる映画にするのは至難の業だ。
けれども、作品を作るからには外国市場も狙うのが韓国映画だ。国内の観客だけが満足するような狭量な作品とはせず、ちゃんと韓中日三ヶ国にアピールするように作られている。これが実に上手い。
まず、韓国の観客が感情移入しやすいように、朝鮮人は善人、日本人は悪人という構図で映画ははじまる。しかも、観客から「オレたちが受けた仕打ちはこんなもんじゃない」と云われないように、日本人はまったくもって悪辣卑劣で、朝鮮人はあくまで被害者であると強調している。
その最たるものが、本作の二人の主人公、長谷川辰雄とキム・ジュンシクだ。オダギリジョー演じる長谷川辰雄はコチコチの軍国少年だ。尊敬する人は憲兵隊司令官の祖父。口癖は「大日本帝国万歳!」:-)
他方、チャン・ドンゴン演じるキム・ジュンシクは絵に描いたような善人だ。彼のすることは誰でも共感する。どんな境遇に陥ってもコツコツ努力することを忘れない、実に立派な人間だ。
もちろん、これでは日本の観客にソッポを向かれてしまうから、映画には良識を持った日本人も登場する。それが長谷川辰雄の父親だ。医者である父は、辰雄に「国よりも、まず人のことを考えなさい」と説く。このような人物を配することで、日本の観客も感情移入する対象を見出す。
他国では、今でも日本は戦前と変わらぬ軍国主義だと思われているようだが、現代の日本人からすれば、辰雄こそ偏向していて理解不能な人間だ。
さらに、巨大マーケットである中国の観客も取り込むために、中国人少女も登場する。ファン・ビンビン演じる少女は、日本人に陵辱され、日本人に復讐することだけを考えている。ここで中国人はぜんぜん悪くないから、中国の観客にも受けるに違いない。
これら東アジアの人々がユーラシア大陸を横断する12,000キロメートルの旅は、スケールの大きなドラマとして、各国で受け入れられるだろう。
けれども、これだけでは物足りない。
キム・ジュンシクが日本軍に徴用されたのちは、辰雄の父の出番もなくなり、辰雄の横暴さばかりが目立ってくるからだ。日本の観客には居心地が悪かろう。
しかし、オダギリジョーとチャン・ドンゴンが競演した本作の、真の主人公はやはりオダギリジョーだった。
「ふたりの王女」のうち、温かな光の王女よりも、屈折した闇の王女の方が観客にアピールするのと同じである。あくまで善人のキム・ジュンシクはたいへん判りやすい人物だが、観客が魅了されるのは軍国少年だった長谷川辰雄だ。決して通り一遍の人間ではない、その心の変遷を、オダギリジョーが熱演している。
そして映画は、日本兵の中にも温かみのある者や本当のクズなどさまざまな人間がいることを描く。同時に、朝鮮人にも卑劣な奴、横暴な奴がいることを描き、「朝鮮人は善人、日本人は悪人」という構図をみずから壊してみせる。
はじめは朝鮮人と日本人との対立が取り上げられていたけれど、大陸を旅してソ連やドイツが舞台となるうちに、朝鮮人とか日本人ということからドンドン意味がなくなっていく。
そこには、戦争で浮き彫りにされた一人ひとりの人間の生き様があるだけなのだ。
私ははらはらと涙をこぼしながら、彼らの運命の行きつく先を見つめていた。
脚本・制作・監督を務めたカン・ジェギュは、公式サイトのインタビューにおいて、この映画で伝えたいのは「人間に対する理解」だと述べている。
---
この作品は戦争の悲劇を描いている訳ではなくて、人間が希望を探す映画だと思っています。過酷な状況の中、国籍も境遇も異なる人間を理解し、好きになる、そして失っていた夢を取り戻す。私がここで伝えたい希望とは、「人間に対する理解」だったり「夢」だと思っています。それがあればどんな辛い状況でも生きていけると思っています。
(略)
戦争を通じて人間の本質を確認する――、そんな映画にしたいと考えています。
もちろんこの映画も、戦争の加害者と被害者を主人公に物語が出発します。しかし、物語が進むにつれて、それは何も意味がないことだと分かってくると思います。
この映画の中に私の戦争への見解はありません。両国どちらかの見解で描くのではなく、それ以上にもっと成熟した映画にしなければならないと考えているからです。
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ドイツ兵の中に東洋人が交じっている1枚の写真から、カン・ジェギュ監督はこの壮大なファンタジーを紡ぎ出した。そこにカン・ジェギュが込めた願いや夢は、多くの観客の胸に響くだろう。
ひとつ残念なことがあるとすれば、このような素晴らしい企画が日本から生まれなかったことである。
『マイウェイ 12,000キロの真実』 [ま行]
監督・制作・脚本/カン・ジェギュ
出演/オダギリジョー チャン・ドンゴン ファン・ビンビン 佐野史郎 鶴見辰吾 夏八木勲 浜田学 キム・イングォン キム・ヒウォン オ・テギョン
日本公開/2012年1月14日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
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そう素直に感嘆した。
人々の対立と葛藤、壊れる友情と生まれる友情、そして彼らを取り巻く数奇な運命。物語は波乱に富んで飽きさせないし、喜怒哀楽すべての感情を揺さぶるエピソードに満ちている。私は『マイウェイ 12,000キロの真実』を観て良かったと大満足で映画館を後にした。
何よりも舌を巻いたのは、この韓国映画の思慮深さだ。
映画は日中戦争前の時代から説き起こし、ノモンハン事件以降の出来事をたどりながら、第二次世界大戦後までを舞台にしている。この、取り上げ方の難しい時代を背景に、日本人と朝鮮人(当時まだ大韓民国という国はなかった)と中国人のドラマを描くのだ。日本でも韓国でも中国でも受け入れられる映画にするのは至難の業だ。
けれども、作品を作るからには外国市場も狙うのが韓国映画だ。国内の観客だけが満足するような狭量な作品とはせず、ちゃんと韓中日三ヶ国にアピールするように作られている。これが実に上手い。
まず、韓国の観客が感情移入しやすいように、朝鮮人は善人、日本人は悪人という構図で映画ははじまる。しかも、観客から「オレたちが受けた仕打ちはこんなもんじゃない」と云われないように、日本人はまったくもって悪辣卑劣で、朝鮮人はあくまで被害者であると強調している。
その最たるものが、本作の二人の主人公、長谷川辰雄とキム・ジュンシクだ。オダギリジョー演じる長谷川辰雄はコチコチの軍国少年だ。尊敬する人は憲兵隊司令官の祖父。口癖は「大日本帝国万歳!」:-)
他方、チャン・ドンゴン演じるキム・ジュンシクは絵に描いたような善人だ。彼のすることは誰でも共感する。どんな境遇に陥ってもコツコツ努力することを忘れない、実に立派な人間だ。
もちろん、これでは日本の観客にソッポを向かれてしまうから、映画には良識を持った日本人も登場する。それが長谷川辰雄の父親だ。医者である父は、辰雄に「国よりも、まず人のことを考えなさい」と説く。このような人物を配することで、日本の観客も感情移入する対象を見出す。
他国では、今でも日本は戦前と変わらぬ軍国主義だと思われているようだが、現代の日本人からすれば、辰雄こそ偏向していて理解不能な人間だ。
さらに、巨大マーケットである中国の観客も取り込むために、中国人少女も登場する。ファン・ビンビン演じる少女は、日本人に陵辱され、日本人に復讐することだけを考えている。ここで中国人はぜんぜん悪くないから、中国の観客にも受けるに違いない。
これら東アジアの人々がユーラシア大陸を横断する12,000キロメートルの旅は、スケールの大きなドラマとして、各国で受け入れられるだろう。
けれども、これだけでは物足りない。
キム・ジュンシクが日本軍に徴用されたのちは、辰雄の父の出番もなくなり、辰雄の横暴さばかりが目立ってくるからだ。日本の観客には居心地が悪かろう。
しかし、オダギリジョーとチャン・ドンゴンが競演した本作の、真の主人公はやはりオダギリジョーだった。
「ふたりの王女」のうち、温かな光の王女よりも、屈折した闇の王女の方が観客にアピールするのと同じである。あくまで善人のキム・ジュンシクはたいへん判りやすい人物だが、観客が魅了されるのは軍国少年だった長谷川辰雄だ。決して通り一遍の人間ではない、その心の変遷を、オダギリジョーが熱演している。
そして映画は、日本兵の中にも温かみのある者や本当のクズなどさまざまな人間がいることを描く。同時に、朝鮮人にも卑劣な奴、横暴な奴がいることを描き、「朝鮮人は善人、日本人は悪人」という構図をみずから壊してみせる。
はじめは朝鮮人と日本人との対立が取り上げられていたけれど、大陸を旅してソ連やドイツが舞台となるうちに、朝鮮人とか日本人ということからドンドン意味がなくなっていく。
そこには、戦争で浮き彫りにされた一人ひとりの人間の生き様があるだけなのだ。
私ははらはらと涙をこぼしながら、彼らの運命の行きつく先を見つめていた。
脚本・制作・監督を務めたカン・ジェギュは、公式サイトのインタビューにおいて、この映画で伝えたいのは「人間に対する理解」だと述べている。
---
この作品は戦争の悲劇を描いている訳ではなくて、人間が希望を探す映画だと思っています。過酷な状況の中、国籍も境遇も異なる人間を理解し、好きになる、そして失っていた夢を取り戻す。私がここで伝えたい希望とは、「人間に対する理解」だったり「夢」だと思っています。それがあればどんな辛い状況でも生きていけると思っています。
(略)
戦争を通じて人間の本質を確認する――、そんな映画にしたいと考えています。
もちろんこの映画も、戦争の加害者と被害者を主人公に物語が出発します。しかし、物語が進むにつれて、それは何も意味がないことだと分かってくると思います。
この映画の中に私の戦争への見解はありません。両国どちらかの見解で描くのではなく、それ以上にもっと成熟した映画にしなければならないと考えているからです。
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ドイツ兵の中に東洋人が交じっている1枚の写真から、カン・ジェギュ監督はこの壮大なファンタジーを紡ぎ出した。そこにカン・ジェギュが込めた願いや夢は、多くの観客の胸に響くだろう。
ひとつ残念なことがあるとすれば、このような素晴らしい企画が日本から生まれなかったことである。
『マイウェイ 12,000キロの真実』 [ま行]
監督・制作・脚本/カン・ジェギュ
出演/オダギリジョー チャン・ドンゴン ファン・ビンビン 佐野史郎 鶴見辰吾 夏八木勲 浜田学 キム・イングォン キム・ヒウォン オ・テギョン
日本公開/2012年1月14日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
tag : カン・ジェギュオダギリジョーチャン・ドンゴンファン・ビンビン佐野史郎鶴見辰吾夏八木勲浜田学キム・イングォンキム・ヒウォン