琵琶湖畔の三井寺から京都鴨川まで約11km、琵琶湖疏水が続いています。1890年(明治23年)に完成、京都に命の水を与えてくれた琵琶湖疏水は、日本人のみによって行われた最初の近代的な大土木事業であり、明治期における日本の土木技術水準の到達点を示す近代遺産です。初冬の一日、自遊会の皆さんと久しぶりに山科から蹴上まで歩きました。
疎水の前に、山科の名刹を訪ねます。
「瑞光院」
浅野家祖先のゆかりの寺であり、浅野長矩(内匠頭)の妻、瑤泉院が浅野家の武運長久を祈願し寺を再興した。松の廊下の事件で切腹した浅野内匠頭の衣冠を境内に埋め、供養塔を作り主人の冥福を祈ったとされている。浅野内匠頭の家臣であった大石内蔵助良雄など義士たちの切腹の際は、義士の遺書と遺髪を集めて、院へ戻り碑を建てたとされる。
瑞光院
浅野内匠頭と赤穂46士の墓碑
「毘沙門堂門跡」
天台宗の寺院。正式名は護法山安国院出雲寺。天台宗京都五門跡の一つ。大宝3年(703年)に行基の創設。本尊は毘沙門天。ご本尊の毘沙門天は、天台宗の宗祖で比叡山を開かれた伝教大師(最澄)の自作で、延暦寺根本中堂のご本尊薬師如来の余材をもって刻まれたと伝えられる。
お寺の合併や戦乱による荒廃などがありましたが、江戸時代に徳川家康の側近であった天海が、幕府から山科に寺領を頂き、現在の地に毘沙門堂として再建されます。その後、後西天皇皇子の公弁法親王が入寺するのですが、それ以来、皇族・貴族が住持を務める門跡寺院となっています。宸殿にある狩野益信作「動く襖絵」や霊殿の狩野主信作「天龍図」などのトリックアートが知られています。勅使門があり、菊と三つ葉葵の紋がある寺社は珍しい。
参道階段を上る
本堂 入場¥500 ガイドあり
本堂側面
毘沙門天塔頭 山科聖天
「疎水」
安朱橋から疎水べりを京都に向かって歩きます。水の流れはわずかでとても観光船など通れません。紅葉は終わり、わずかにコナラ、エノキなど自然林の黄葉が目立ちます。時々散歩する人に出会いますが、観光客の姿はありません。途中の疎水が大きくカーブしたところ展望広場から昔登った音羽山が見えます。頂上の鉄塔でそれとわかります。第2トンネルの手前で昼食とします。
安朱橋から下流
安朱橋から下流
紅葉も終わった疎水
展望広場から音羽山
第2トンネル前で昼食
昼食後は第2トンネルを越えて、一時市街地に出て再び疎水に戻ります。この辺り道がわかりにくいです。しかし第3トンネル入り口で行止り。ここには日本最古のコンクリート橋があります。記念碑には漢字で鉄筋混凝土橋と書いてます。
市街地へ出て、再度疎水へ戻る
コンクリート橋から見た第3トンネル
再度に市街にでて国道1号線(三条通り)を歩き九条山の峠を越えて蹴上に下ります。車道歩きは疲れます。仲間から離れて最後尾になってしまいました。
左に蹴上浄水場を見て、日向大神宮の角を曲がって石段を上がったところが疎水第3トンネルの出口です。大神宮橋から見るトンネルは工事中のようです。反対側にはインクラインの船が置いてあります。
三条通 蹴上
日向大明神へ向かう
大神宮橋から第3トンネル出口を見る
インクライン船どまり
公園を横断して疎水の分岐点から南禅寺側の水路を歩きます。山の斜面、ずいぶん高いところを一直線に流れています。もう一方の流れは発電所の導水路です。やがて道は南禅寺に下りますが、水路は高架となって境内を横切ります。これが水路閣です。
南禅寺へ向かう水路
水路閣
南禅寺の法堂を覗き、三門をくぐります。人通りは少ないですが修学旅行の一団に出会いました。和服姿の女性や、男女が目を引きますが、タクシーの運転者さんのお話では、貸衣装を着て京の町を歩く人が多いのだそうです。足腰が痛みますが、久しぶりの京都なので歩くことにしました。東山山麓の青蓮院、知恩院、円山公園、八坂神社を経て四条河原町へ、歩行距離は20000歩を越えました。お疲れ様でした。
南禅寺三門
八坂神社
琵琶湖疎水ルート