2015年09月 | 自由人の カルマ・ヨガ ノート
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 いや、いや…
 これほど何日間もブログの更新できなかったのは、開設から3年半で初めてのことです。

 手を付けられない状態のまま、いったい何をしていたのかというと――、
 実に平和なことに、息子の通う高校のPTA役員の仕事で日々奮闘しておりました…。


 PTAの活動がずいぶん熱心な私立校で、秋の学園祭・体育祭には、父母が屋台でおよそ1000人分の「焼きそば」とか「唐揚げ」とか「フルーツ・ポンチ」とかをいろいろ作って販売している。

 その収益が毎年200万円ほどあって、それを学校に寄付して生徒の部活動(主に遠征試合の交通費など)に役立てられている。
 何億円ものプール金が問題になった大阪の有名校の財力とは、まったく比べものにならないけれど…。


 僕が担当したのは、参加できる父母の手配や、会計管理などだ。そのためこの2週間ほど、パソコンに向かう時間があれば、ひたすら書類をまとめたり、次から次へと連絡のメールを書いたりと、やたらとあわただしくなってしまった。

 せっかく前回のブログ記事で、「無為」とか「暇」をテーマにしたところなのに。
 こういうのは、本当に言ったとおりにはいかないというか、世の中そういうものというか…、面白いところですね。


 そうしていま、やっと一連の行事が晴れて終わり、これからは平常運転に戻れます。

 ただし、「晴れて終わり」というのは言葉のあやであって、本当はぜんぜん晴れて終わらなかった…。


 先々週に行われた学園祭は、幸いにも、暑いくらいの好天に恵まれた。

 一方、先週土曜に予定されていた体育祭のほうは――、前日にずっと降り続いた雨のせいで、グラウンドが使用不能のため日曜に順延。
 しかし、日曜に参加可能な父母の人数がけっこう足りなくて、バタバタで再招集をかけた。

 すると、多くの人が気をきかせて都合を付けてくれて、何とか予定通りの人数をそろえることができた。本当に有り難いことです。
 グラウンドもきれいに乾いて、役割分担なども組み直し、あとは当日を待つばかり。


 ところが、こともあろうか――、日曜の未明に局地的な大雨が降り、グラウンドがふたたび水浸しに…。
 勤続30年の先生が「こんなのは初めて」というような状態で(多少の雨でも例年は何とか決行した)、けっきょく体育祭は、さらに月曜に順延することになった。

 さすがに月曜は、父母がほとんど出られない。
 屋台用に納品された1000人分もの食材は、肉・野菜などの生ものが多くて、返品が効かない。

 で、結局どうしたかと言うと――、作れるものは全部作り、この日に200人ほどの生徒が準備・練習のために登校してきたので、その子たちに無料で配ることにした。

 高校生の胃袋というのはやはり恐るべきもので、焼きそばとフランクフルトをそれぞれ3人前ほど平らげたのち、さらにうどんは「別腹」という感じに、次々とお腹に収まっていく。
 何割かは仕方なく廃棄だろうなと思っていた食べ物の山が、見る見るはけていく。そのうち「大食い選手権」の調理場みたいに、作るほうが追い付かないほどになった…。

 前回記事で「不食」をテーマにしておきながら心苦しいのだけど…、若い子たちが満面の笑みを輝かせながら、食べきれないほどの食事をどんどん口にしている姿というのは、見ていてとても痛快でうれしいものです。

 そうして見事、1000人分のメニューを200人の生徒が、きれいに完食してくれた。


 で――、本来は売り物になるべきものを、そんなふうにタダで配ったのだから、今年度のPTAの会計は「大赤字」になったと思うでしょう。
 ところが閉めてみたら、何と前年比で数万円のプラス!…

 前週の学園祭の屋台の売り上げが、天気が良くて人出も多く、例年になく好調だったからだ。


 そうして終わってしまえば――、不順な天候に振り回され、色々と計画・手配してきたことがすべてパーになってしまい、その対処にあわてふためいたときの混乱した気持ちは、一体何だったのだろうという感じ。

 結果的にはまさしく、「すべてよし」という形になったわけですしね…。


 つくづく痛感するのは、起こる出来事に対して、私たち自身には本当に「コントロール権がない」ということだ。
 とくに局地的な大雨なんて、誰にもどうしようもできない。

 でも、思いのままに進むことが何ひとつなくても、最終的には「すべてよし」といえるような、最適・最善な結果がもたらされる――
 こういうのが、この宇宙の完全性なのだなと、あらためて感じさせられる。

 もちろん、たとえ最善に思えないようなものであっても、それもまた宇宙の完全性の現れに違いないのでしょう。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Neil H.「Divine」。

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 前回記事から引き続き、「不食」についての話題です。

 「人は食べないと生きていけない」という大原則は、生き物として絶対に不可避なはずなのだけど――、ところが現実に、何も食べずに普通の生活している人が、世界中に何万人もいるという。
 そしてその実践者は口々に、「不食は思っていたより簡単だ」といったことを述べている。


 で、これは以前のブログ記事でも触れたことだけど――、不食をさまたげる最大の障害というのは、実は飢餓感ではなくて、何と「暇」なのだという。
 食べる時間も、料理や後片付けの時間も、さらには材料の買い物や食べることについて考える時間さえも必要ないとなると、人生の日々に驚くほど大きな「空き時間」が生じるそうだ。

 不食生活を記した『リビング・オン・ライト』の著者であるオーストラリア人女性のジャスムヒーン氏は、不食をマスターする過程で最も重要なのは「退屈さを克服することだ」と述べている。

 また『食べない人たち』の共著者の1人である山田鷹夫氏も、「不食は本当に暇で困る。その結果、精神が爽快でないとき、それをごまかすためについ食べてしまうのだ」と語っている。


 山田氏は、沖縄の無人島に行って不食生活を続けるという何ともすごいチャレンジをして、その体験談を『無人島不食130日』と『食べない人たち ビヨンド』の本に記している。
 この中で、「暇」という自らの心理状況についてとてもありありと描写していて、普通に食べて生活している私たちが読んでも、「なるほど、そういう感じなのか」と思わせるものがあります…。

 南洋の無人島というと、手つかずの大自然と、何にも束縛されない自由があるし、そのうえ「食べることさえ必要ない」となると、まるでこの世ではないユートピアという印象だ。
 山田氏も、その解き放たれた体感をこうように語っている。

 「不食の次にやってきたのは『無為』である。何かをしなくてはならないという呪縛から解放され、何もしなくても幸福でいられるのだ。人は『食べても食べなくても』生きられるように、『働いても働かなくても』どちらでも幸せなれることが分かるのである。
 奴隷のように追い立てられる毎日はいらない。働かなければ幸せになれないというのも間違いだ。だが日本人は、これまでそうして生きてこざるを得なかった。それは僕の親世代の生き方でもあったろう」


 人生観を書き換えるくらいの自由と幸せって、素晴らしいですよね。
 しかし同時にそれは、普段の生活ではありえないほどの「暇」でもあるのだ…。

 「無人島の不食者は本当に暇だ。唯一の行為といえば、暇を意識することだけ。無限とも思えるほどの大量の暇に圧倒されそうだった」――


 この「暇を意識することだけ」というのが、本当にほかにやることも、何か関心を向ける対象さえも全くないという、実に生々しい印象…。

 そこで山田氏は暇をつぶすために、漂着物で散らかっている海岸のゴミ拾いを始める。
 ちなみに当人は「きれい好きな性格」というわけでは全然ないそうで、ふだん家の中では散らかり放題の暮らしをしているという。でもそんな性格を覆してしまうくらい、時間とエネルギーを持て余してしまうのだろう。

 さらには毎日、3時間も砂浜をランニングしたという。何も食べていないのにですよ…。


 ところが、退屈しのぎに浜辺を散策していると、そこには珍しい海の生き物たちが色々といる(山田氏はふだん新潟県の山地に住んでいる)。
 それに興味を引かれて、採取してみる。

 やがて、好奇心とあまりの退屈さのために、とうとうそれをさばいて口にしてしまう…。

 「初めての無人島と、海というフィールドで見つける貝や魚は新鮮だった。珍しいから手に取ってみる。手に取ると捨てがたく――、つい食べてしまった」


 そうして、せっかく沖縄の無人島にまでやって来たのに、完全な不食生活は断たれてしまったわけだ…。

 ただし、不食の考え方では、それで「禁を破った」とか「もとの木阿弥」ということにはならない。
 小魚や貝を何匹か食べても、生存に必要な摂取カロリーにはまったく足りない。食べ物からのエネルギーではなく、宇宙に満ちる「プラーナ」を取り入れて生きているという事実に変わりはないわけだ。

 それで元気に生きて、毎日砂浜をランニングしているのだから、十分に驚異的すぎる…。


 山田氏はすでに何年も不食の生活をしているから、空腹の苦しみはないし、わざわざ食てみべる必然性もゼロである。
 ところがその熟達した不食者の意志以上に、何が何でも暇を埋めようとする「マインドの力」のほうが強かったとも言える。
 本人はこう語っている――

 「島の樹の上でぼんやりしていると、『無為』つまり何もしないことの対極にあるのが『食』であることもよく分かってきた。暇が最大のくせものなのだ。
 けっきょく私が何を恐れていたかというと、それは暇ということになる。その恐れから逃れる最善の方法が、食なのだ。その証拠に、海岸のゴミ拾いでは満たされない充実感を、食によって味わうことができた。
 そのとき、現代人が最も嫌がっているのは暇であることを痛感した。暇な人ほどよく食べる。現代人はひたすら食べ続けることによって、時間を埋めている」――


 「食べる」という、生き物として最も根底にある欲求から解放されても、「暇を埋める」という欲求のほうは、ずっと尽きないわけですね…。

 まさにマインドは、「三度のめし」よりも、とにかく「暇を埋める」ことこそが大好きで、四六時中そのことに躍起で必死なのだ。


 そして、この際限ない欲望を満たし続けるために――、
 ありとあらゆる食べ物や飲み物が社会に供給され、さまざまな種類のレジャーや刺激的なエンターテインメントが開発され、そして本やテレビ、最近ではツイッターやフェイスブック、ユー・チューブなどの新しい情報媒体もどんどん生み出されてきたわけだ。
(もちろん、このようなブログだってそうですが…)


 では、どうして私たちの心には、そこまでして徹底的に「暇を埋めなくてはならない」という欲求が強固にあるのか?…

 それは、暇や退屈の向こうに、マインドにとってものすごく不都合な真実――、分離したエゴ意識にとってまさに致死的ともいえる真実が秘められているからだといえる。


 ここからは話がガラッと転換するけど、OSHOの講話集『Joy(喜び)』の中で次のように語られている。
 これは以前にも触れたことがある内容で、やや長めになるけど、あらためて紹介しますね――。

 「『退屈』は、人間の生活の中で最も重要なことだ。それは、大いなる理解があなたの中に生じつつある兆しであり、覚醒にどんどん近づいたときに起こるものだ」

 「あなたは退屈に対して、2つのやり方で対応することができる。
 1つは、退屈と向き合わずに、何か自分が夢中になれるものへと逃げ込むことだ。
 大食いしたり、音楽を聞いたり、あなたが逃げ込めるものは無数にある。人々がアルコールや薬物を発明した理由もそこにある。しかしそれらは、ほんのしばらくの間、退屈を避けられるに過ぎない。
 退屈は何度も何度も襲ってくる。本当に逃れることはできない。それは人間の成長の一部であり、それに直面しなければならないのだ」

 「もう1つのやり方は、退屈と一緒にいて、それになりきり、それについて瞑想することだ。
 つまり瞑想とは『退屈に正面から向かうこと』なのだ。瞑想者は黙って座り、ハラを見据え、呼吸を観察する。彼はこういうことを楽しんでいると思うかね? 彼はまったく退屈しているのだ!
 禅のマスターが棒を持って歩き回るのは何のためかといえば、退屈した人々は居眠りをしてしまうからだ。禅の修行者に逃げ道はない。しかし彼らにも、たったひとつだけ逃げ道が残されている。それが眠ることで、それによってすべてを忘れる。だから瞑想中に人は眠くなるのだ」


 かつてバブル期に「くう、ねる、あそぶ」という広告コピーがはやって、そういうのは自由気ままでいいなと感じたものだけど…、
 要は「遊ぶ」ことはマインドが退屈から逃れるためのものであり、そして「食べる」こともまた、さらに場合によって「眠る」ことさえも、退屈に直面しないための逃げ道であったりもするわけだ。

 それは自由気ままというより、むしろ逆に、マインドが私たちに真実を見せないように、そしてうまく支配を続けていくために、そういうことをしているのだとも言える…。


 では、その耐えがたい退屈と向き合ったならばどうなるのか、OSHOは次のように語っている――

 「退屈から逃げずに直面するには、大きな勇気がいる。それは実際、死ぬよりも難しい。
 もし退屈を観察し、観察し、観察し続けると――、退屈はどんどん大きく強烈なり、あなたは息が詰まってほとんど死にそうになる。もう逃れるすべがないように思える。しかし何でも永久に続くものはない…」

 「なお退屈を見つめ続ければ、やがて爆発が起こる。退屈の強烈さがピークに達した時点で、大きな転換がやってくる。必ずやってくる。そのとき変容、覚醒、悟り――、何と呼んでもかまわないが、それが起こる。
 あなたは、自分自身の無の中を貫いていく。退屈はただの覆いに過ぎず、その中には『大いなる無』が詰まっている。
 そこで突然、退屈が消えて、悟りとサマーディが現れる。あなたは究極の無を見るのだ。つまり、あなたが消える。すると誰が退屈するのだろうか? 何に退屈するのだろうか? あなたはもう存在しない。あなたは消滅したのだ。人が退屈から逃げるのは、『自分自身の無』から逃げているのだ。
 そして、光とともに、歓喜が訪れる。まったく理由などないのに、喜びで一杯になる。限りない喜びが、そこにわき上がる」――


 暇で退屈な状態というのは、人生においてほとんど無価値で何でもないように思えてしまうものだ。
 ところがその向こうには、本当に信じられないような、とてつもない次元が広がっている、ということですね…。

 OSHOはさらに、こう続けて説く――

 「退屈は偉大な霊的現象だ。野生の牛は退屈することがない。完全に幸せで楽しんでいる。人間だけが退屈できる。
 退屈は作り出されなければならない。退屈がやって来るのを待つのではなく、自ら進んで退屈の中に入り、退屈を探求するのだ。
 ところがほとんどの人は退屈することなく、仕事をしたり、お金を稼いだり貯金をすることに喜びを感じている。レストランで食事をしたり、映画を見たり、旅行に行ったりしている。まったく退屈なんかしていないし、楽しんでいる。
 それはまだ人間ではないのだ。人は退屈を感じ始めたとき、初めて人間になる!」


 「退屈になって初めて人間になる」って、何ともすごい見方だなと思います…。

 でも、人間に「大きな脳」が備わっているのは、発達した知能で色んなものごとを生み出すためだろう。そしてその反動として「退屈」を経験し、そして最終的には退屈の奥にある根源的な真実を見いだす――
 つまり、ある意味で「退屈を可能にするために、わざわざ大きな脳がある」なんてふうにも言えるのかもしれない。
 かなり極端だけど、「意識の目覚め」が魂の目的であるならば、それもまた脳の重要機能のひとつであるはずでしょう。


 そして、その「退屈と向き合う」ことは――、不食に取り組んだり、無人島にまで行かなくても、普通の暮らしの中でも可能なことだといえる。

 でもまぁ、刺激にあふれた社会でそれをすることは、無人島以上に困難なチャレンジですけど…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Paul Sills「Barefoot(Autumn)」。

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 スピリチュアルなことがらというのは、たいていは具体的なつかみどころがないものでしょう…。
 でも中には、目に見える形で、その証左といえるものが現れる分野もあります。

 最近、僕が面白いなと思うのが、「不食」のテーマ。

 何年間も食べ物を口にせずに生き続けて、ふつうに健康に、あるいは並み以上に活動的な生活をするなんて、生物学的にも100%ありえないことだ。
 ところが、現にそれを実践している人は、いまや世界中に数万人もいるといわれる…。
(完全な「不食」でなくても、生存可能な摂取カロリーをはるかに下回る「微食」という人もいる)

 そうなると、「食べないと生きていけない」という、生き物として絶対に不可避なはずの現実が覆ってしまう。
 そして、「私たちは無限のエネルギーによって生かされている」という、スピリチュアルな真実に取って代わることになる。


 で、少し前の過去記事の「宇宙の据え膳」で、ものを食べずに生きる3氏による共著『食べない人たち』を紹介しました。

 先日にその本の続編となる『食べない人たち ビヨンド』というのを読んで、これもなかなか面白かったので、内容をちょっと紹介したいと思います――。


 最初の本では、食べずに生きている人が「現に実在する」という事実そのものに焦点が置かれていたと思う。
 今回読んだ続編のほうは、よりスピリチュアルな要素が加わり、「不食」がもたらす精神面の効果や、宇宙観などについても言及されているところが特色といえる。

 確かに1冊目からそういう要素を盛り込むと、どうしても「いかがわしい」と思われるだろうし、僕自身も読みながらそんな目で見てしまうかもしれない…。
 そうした点では、とても上手な構成だなと感じますね。


 今回すごく興味深く思えたのは、食べないことによって「幸せになる」という、実に魅力的で核心的なポイントだ。

 そもそも「不食」の人たちが何をエネルギー源に生きているのかというと――、食べ物の代わりに、空気中や宇宙に満ちているプラーナ(いわゆる「気」)を摂取しているのだという。

 ただし誰でもいきなりプラーナだけで生きられるわけではなくて、食事量を徐々に減らしていき、「1日1食」の少食から「微食」へと進んでいくことによって、プラーナの摂取率が高まっていくそうだ。
 それを3~10年かけて、無理なく気長に進めていく…。


 すると、何とも信じられないことだけど――、私たちの体は「食べないこと」にだんだん慣れていき、やがて空腹が苦しみではなく、とても心地よく感じられるようになるそうだ。
 さらには、「肉体的な飢餓感」だけでなく、「精神的な飢餓感」からも解き放たれるのだという。

 そのへんの過程を、本では次のように述べられている――

 「食べないことに慣れていく過程で、私たちの体は徐々にプラーナで満たされていく。そしてプラーナで満たされるほど、飢えは『プラーナ不足』によって引き起こされていることに気づく。興味深いことに、精神的な飢餓感も、飢餓の一種であることが分かってくる。
 そして食べないことに肉体的にすっかり慣れると、『空腹は気持ちがいい』という状態になっていく。この過程では『悩む』ことが少なくなり、それだけでなく、最終的には悩むという感覚すら忘れてしまう。
 その感覚がもっと進んでいく人は、『分離感』が消えていく。つまり、自分と他人、さらには自分と世界とを分け隔てている感覚すら薄くなるのだ」――


 「悩み」や「分離感」まで消え去るって、驚いてしまいますよね…。
 こうなると、単なる肉体的な変容にとどまらず、まさに精神的な変容、さらには「在り方」そのものの変容といえる。

 ほかにも、本の中ではこのような実感も語られています――

 「人間にとって本当は、たくさん食べるほうが大変なのだ。少なく食べるほうが体にいいし、精神的にも高まって毎日が楽しく暮らせる。
 少食を続けていくうちに、体の声が聞こえてくるようになる。少なく食べることで体がどれだけ喜んでいるかが分かってくる。おそらく少食は、意識と体のチューニングなのだろう。
 その感覚を大切にしていると、今度は魂が何を望んでいるかが分かってくる。いっそうチューニングが進んでいくのだ。すると人目を意識したり、他人と比べたりすることが少なくなっていく。
 実は私たちは、ありがたい無限のエネルギーの中に生きていているということも、何となく感じられてくる。そうすると、うれしくてしょうがなくなる。ただ生きているだけでうれしいのだ。これ以上、何も必要ないことが分かってくる」――


 道元の「座禅は安楽の法門」という言葉があるけど…、まさに食べないことも「安楽の法門」と言えるような感じがしますよね。
 だって、精神が解き放たれ、分離感覚が消え、魂の望みを知り、無限のエネルギーの中にあるという至福に満たされるというのは――、まさに座禅や瞑想によって見いだされることと、ほとんど同じと言えるでしょう。


 ただ、多くの人がけっこう痛感しているように、座禅が「安楽の法門」となるまでは、決して簡単な道のりではない…。

 「不食もまたしかり」というふうに当然思えるのだけど――、この本の共著者たちは、口をそろえるように「不食は驚くほど容易であった」ことを述べている。

 「命懸けになると思っていた不食へのチャレンジは、時間を経るに従って、思わぬ結論へと私を導いていった。『なんだ、こんなに単純なことだったのか!』。 実際にやってみると、コツさえ分かれば、難しいどころか誰にでもできるものだった。それは気持ちがいいし、楽だし、お金もかからないので、実に楽しくてしょうがなかった」――

 「私の場合は不食を目的にしたことは一度もない。摂取エネルギーを減らすと、体調がよくなっていく。減らせば減らすほど体調がよくなったため、結果的に不食になった」――


 で、その不食に至るためのコツというのが――、
 何と「不食を目指さない」こと、「努力や我慢をしない」ということだという…。

 「不食でいちばん肝心なのは、不食を目指さないこと。何も食べないことを目指すと、努力や我慢が始まる。不食ではなく少食(1日1食)を目標にして、結果的に不食に近づいていくのが理想だ
 そもそも不食へのプロセスは、『常識から解き放つ』ことが目的であって、食べないこと自体が目的ではないからだ」――

 「不食は我慢するものではなく、食べないことに『慣れる』行為だ。表面的には同じように見えても、食べることを我慢するのと、食べないことに慣れるのとでは、まったく逆の結果を導くことになる。
 むしろ努力は不食のさまたげになる。食べたくなったら食べてかまわない。努力すればするほど、空腹に慣れるのが困難になる。我慢を強引に続けようとしたら、ひどい飢餓感に悩まされ、健康を害することにもなる」――


 僕自身は、不食はとても興味深いテーマであるものの、実践しようという気持ちまではないです…。

 ただ食事量は以前からだんだんと減ってきていて、きちんと計算していないけど、必要摂取量に満たない1日1,000キロカロリー以下の日がほとんどだと思う。
 そういう点では、ちょっとずつそっち方向に向かっているのかもしれない…。

 でも、家で「主婦業」もしているから、料理をしながらというのも無理があるし、やはり「興味深いテーマ」止まりでしょう。


 今回の本の中で面白く感じたのが――、
 食べ物だけでなく水さえ飲まない生活を6年も続けているという弁護士の秋山佳胤さんが、マラソン大会に飛び入り参加した話。
 しかも、革靴を履いてカメラを持った状態で、汗をかきながら平気で走れたそうだ。どうしてそんなことができるのか、驚異的ですよね…。

 でもそういうのが可能なら、「不食・東海道五十三次踏破」なんてことができたらすごい。江戸時代の飛脚だって仰天だ。
 旅をしながらブログに綴ると面白いだろうけど、食事の話題がないぶん、単純に書くネタが減るのかな。


 あと不食で「聖地巡礼の旅」なんて、ただならぬ霊験とロマンがあるようにも感じる。
 「不食・お遍路 四国八十八カ所」とか、「不食・スペインの聖地 サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」とか…。

 ま、こういうのは、冗談として空想するのが楽しいのかも。



 結びのヒーリング・ミュージックは、「Music for Mother and Baby」。

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 以前にブログで書いたことがあるけど、京都の東本願寺に行ったときのこと――
 お寺の中に仏教の標語が色々と掲げられていて、外国人向けに英訳も添えられていた。

 そのとき、「ところで『他力』って英語でどう表現するのだろう?」と思って探してみた。

 「他力」は、浄土宗の根本的な教えでありながら、世間的には誤用されることが多い言葉でもある。
 会社の仕事などで、「他力本願ではダメだっ!」なんてよく言われますよね。


 で、その「他力」を英語でどう言うかというと――

 「The Power-Beyond-Self(自我を超えたパワー)

 何と端的で分かりやすい!

 エゴ意識による自分本位な向上心とか、分離した小さな個による自助努力とかではなく、まさに「自我を超えたパワー」によって人々の救いがもたらされる、ということなのでしょう。

 この「自我を超えたパワー」という言葉は、誤解される余地がほとんどない、けっこう思い切った適訳だと思う。


 もちろんこうした英訳によって、大事な意味的要素が抜け落ちてしまったり、精妙なニュアンスが変わってしまうということは、どうしてもあるはずだ。
 でも、シンプルかつストレートに説くというという点において――、英文訳には、従来の仏教用語にはない「伝達力」があるようにも思えます。

 その英文訳を、ふたたび日本語に戻してみると――、古来からの仏教の言葉でありながらも、何とも斬新なインパクトがあったりもする。


 前置きがちょっと長くなったけど、先日ふと、「最も有名なお経の『般若心経』って英語でどう言うのだろう?」と思って調べてみた。

 すると、これもまたシンプル!
 般若心経の英訳は「ハート・スートラ」。

 この「ハート」は、人の精神的なハートというより、「核心」とか「エッセンス」のことだ。

 また「スートラ」は、インドのサンスクリット語で「真理を示す短い一文」といった意味。
 「チャクラ」とか「マントラ」ほどではないけれど、スピリチュアル分野では、サンスクリット語のままよく使われる言葉でもある。
 OSHOの初期の講話集で『ディヤン・スートラ』という本があるし、エックハルト・トールの『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』の序文に「この本はスートラのスタイルを再現した」と述べられたりもしている。


 ちなみに「般若」とは、「真理の知恵」といった意味である。

 般若というと、あの鬼の能面の怖い顔が浮かんだりもするけれど…
 あれは、室町時代にいた「般若坊」という名の能面師が、鬼の面を作る名人であったことに由来する。意味的なつながりはない。

 たとえば「シーザー・サラダ」が、メキシコ人シェフのシーザーさんが考案したもので、古代ローマの英雄ジュリアス・シーザー(カエサル)とは何の関係もないのと同じようなことだ。


 で、般若心経は300字にも満たない短いお経で、全文を英訳したものがをネット上で見ることもできる。
 それをざっと眺めてみると、けっこう面白い。

 漢字がみっちりと並んだお経を読解するには、お坊さんの解説などを参照しながら、けっこうな時間と労力がかかることだろう。

 でも英文の般若心経の場合、辞書を引きながら、それほどの苦労もなく読めてしまう。
 宮崎アニメに出てくるムスカ大佐ではないけど、「読める、読めるぞっ!」というような、自分でも意外な驚きがある。


 で、今回、そうして英文から訳してみた「ハート・スートラ(般若心経)」を紹介しますね。

 そもそも般若心経の内容とは、釈迦が一番弟子のシャーリプトラに語ったものである。
 優秀な弟子に伝えた真髄なわけだから、つかみどころのないくらい高度で難解なものかといえば――、実はそうでもなく、最近のスピリチュアル本やセミナーで語られる内容と、だいたい同じようにも感じる。

 そのようなメッセージが、今や世の中でふつうに語れたり理解されたりすること自体、なかなかすごい時代だなとも思いますね。


 また、わざわざ高い受講料とかを払わなくても、古いお経で同じメッセージが伝えられているということも、案外新鮮かもしれないです…。


「ハート・スートラ」(英文からの日本語訳)

 聖なる求道者のアバローキテーシュバラ(観音)が、「大いなる叡智」に達する修行を究めていたときのこと。
 次の真理を見いだすことによって、いっさいの苦悩から解き放たれたのです。

 「この世界のあらゆる現れと、それをとらえる私たちの感覚や認識などというのは、じつは何の実体のない『空性』であるのだ」と――。


 シャーリプトラよ、聞きなさい。
 この世界の本性は、「空性」にほかならないのです。
 そして「空性」というのは、この世界の本性そのもののことなのです。

 つまり、宇宙の「すべて」は、「何でもないもの」であり――、その「何でもないもの」が、宇宙の「すべて」なのです。

 それと同様に、私たち自らの知覚とか意志とか理解といったものもまた、「何の実体もない」ということになります。


 シャーリプトラよ、よく聞きなさい。
 この世の根本原理とは、存在するありとあらゆるものが「空性」である、ということに尽きるのです。

 だから、それらの存在は、これまで一度も生まれたことがない。そして消えてなくなることもない。
 また汚したり、清らかにできるものでもない。減ったり増えたりするものでもない、ということが特性なのです。


 それゆえに、本来の「空性」という在り方においては――、世界の現れというのは、そもそも実在していないし、私たちの感覚とか、意志とか、理解とかも、そこにはありません。

 真の私たちには、目もなく、耳もなく、鼻や舌もない。
 身体もなく、思考もなく、姿かたちがない。
 「目に見える領域」とか「知覚できる領域」というのは、本当にことごとく存在しないのです。


 そこには「迷い」というものがないし、「迷いをなくす道」なんていうこともありえない。
 同様に「老いや死」というものもない。
 さらに言えば、「老いや死がなくなる」ことさえもない――、ということに至るわけです。

 そして「苦しみ」は存在しません。「苦しみの原因」もない。
 「苦しみをなくすこと」や、その方法というものもない。
 それを知ったり、獲得するなんていうことも、そもそも起こりえないことです。


 獲得する必要がないわけだから、求道者はすでに「大いなる叡智」と共にあるのです。それを妨げるものは、何ひとつ実在しません。

 その心には「恐れ」が存続できず、混乱した幻想から遠く離れて、至福の世界に生きることができるのです。

 過去や現在、そして未来にいる最高次の聖者たちは、まさにこの「大いなる叡智」によって、完璧な悟りへと至ったのです。


 その「大いなる叡智」は、「至高のマントラ
(真言)」によって表されることを知るべきでしょう。

 そのマントラは、人を悟りに導く、無比無類のパワーを持つ言葉なのです。
 これによって、すべての苦しみを終わらせることが可能です。なぜなら、それが表すものは真理そのものであり、いっさいの偽りがないからです。

 そのマントラとは――

ギャーテー、ギャーテー(羯諦 羯諦)
ハラーギャーテー
(波羅羯諦)
ハラソーギャーテー
(波羅僧羯諦)
ボージー、ソワカ!
(菩提 娑婆訶)



 最後のマントラの部分は、言葉の響きによる波動こそが重要であって、訳文に変えてしまうと本来のパワーを失うとも言われる。

 でも、いまのスピリチュアル風に意訳してみると、こんな感じでしょうね――

行きなさい、行きなさい。
新しい在り方へ向かう者よ。
新しい在り方へと、シフトするのです。
目覚めの真理は、あなたと共にあります!


結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「Khumbe」。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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