自由人の カルマ・ヨガ ノート


 ブログの更新が1週間も空いてしまうのは珍しいことだと前回書いたら、今度は2週間も空いてしまいました…。

 開設5年目にして、異例ともいえる状況変化です。
 どうなっていくのでしょう?…


 その後も、僕の頭の中の「思考活動」は、徐々に希薄化してきている。
 ただ一方で、身の回りの現実は、家の引っ越しの準備や諸手続きなどで、けっこうあわただしい状況にある。

 さらには、妻が勤め先を辞めて(また半年ほどしか続かなかった…)、かつて長く患っていた鬱の症状が再発とまではいかないまでも、妻の精神状況はかなり不安定な様相だ。
 そのため、僕に対して非常にきつい言葉を頻繁に投げかけてくる。


 でも、そうした生活上のあわただしさや、感情的な揺さぶりによって、僕の気持ちがあるていどまで行き詰まってくると――
 急に、ハートの中心から、こんな思いがわき立ってくる。

 「やがてこの私は、終わるのだ」――


 この「私が終わる」という感覚は、本当に言いようもないほど素晴らしいもので、内に抱える現実問題や感情面の「圧迫」をたちどころに無力化して消し去ってしまう。

 いわゆる「自我の終焉」といったものを、本で読んだり頭で理解したりはしていたものの――、
 これほどの内的な解放感とリアルな説得力をもって認識できるのは、僕にとって新しい経験だ。
(もちろん僕の場合、それが核心的レベルへ至っているわけでは当然なくて、単なる「入り口の感覚」にすぎないでしょけれど)


 そうなると、思考活動の重要度はますます低くなる。
 目の前の現実生活に必要なことは色々と考えながら対処するけれど、先々を心配したり、「大変だ!」と思えることは本当になくなっていく。


 で、そうした僕自身が、最近かなり戸惑ってしまうのが――
 こうしてブログを書くときには、どうしても「言語的思考」を引っ張り出すようにして使わなくてはならない。
 そして、そんな思考作業が自分の中にあること自体に、ものすごく違和感や不自然さを感じてしまうことだ。

 以前なら、ごくごく当たり前の状況だったのだけれど…。


 もっとも、スピリチュアル関連のブログを書いている人の中には、「書いているときはマインドの使用率はゼロ」という人もいるわけだから――、
 僕のこの違和感は、過渡的なものなのか、あくまでも個人的な傾向なのかもしれない。

 また書くことだけでなく、この何週間かは本も読まなくなった。
 ものごとを分析・解釈しよう、あるいは説明しようという意向が、自分の中の根本的なところで希薄になってきているのだろう。


 そういう状況なので当面は、ブログの更新を以前ほどのペースではできそうもないように感じています。(あまり更新しないと意味がないので、ブログ・ランキングのボタンはとりあえず外しておきます)
 また、せっかく丁寧なコメントをいただきながらも、これまでのような小まめなお返事を書けないこともお許しいただければと存じます。


 でも、何か新しい変化や、シェアしたいことが起こったときは、できるかぎりリアルタイムに綴っていきたいと思いますね!!


 結びのヒーリング・ミュージックは、Deuter「Earth Light」。

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 ブログの更新が1週間も空いてしまったのは、けっこう珍しいことです。

 色んな用事が立て込んで手が回らなかったことは従来もあったけれど、この何日かは様相がちょっと違って――、
 頭の思考活動が、自分にとって未経験なくらい、本当にとどんどん希薄になってきている…。
 その静けさの中に引きこまれ、ただ漂うようにくつろいでいるしかない、という感じです。


 とは言え、まるでクラゲのように日々を過ごしているわけではなく――、主婦業としての家事はいつも通り小まめに手掛けているし、役所や銀行とかの諸手続きもきっちりしているし(息子の入学手続きは間違ってないだろうな…)、親しい人と会ったら色々としゃべって談笑する。

 でも、そうした「目の前の現実として取り組むこと」以外には、どういうわけか、これまでのようにうまく意識が向かわないのです…。


 もちろん、「私というものがいなくなった」とか「無条件の愛と至福に包まれている」といった核心的な体験ではぜんぜんない。
 でも、自分自身にとって、これまでとは異なる「未体験の状況」にあることは言えるでしょうね。


 ブログに関して言えば、これまではだいたい3~5日くらいのペースで、話題になるような「意味のかたまり」みたいなものが、自分の内にフワッと自然に浮かび上がってきた。

 その漠とした「意味のかたまり」をつかみ取って、頭の左脳機能を駆使しながら「言葉」の形にえっちらおっちらと書き出していくことによって、ブログ記事を書いていた。
 でもこの作業はなかなか面倒で、実に非効率な「脳の肉体労働」という感じだ…。


 で、今の状況はと言うと、その「意味のかたまり」みたいなものが薄っすらと浮かび上がっては来るのだけれど――、
 その浮かび上がってくるものよりも、背景にある「空白」のほうに意識が向かう。

 また、漠とした「意味のかたまり」をつかみ取っても、それを言語化してく左脳機能が、以前のようには活動的でない…。


 でももちろん、ブログをお休みするなんてつもりは全くないです。
 僕の場合、より精細なインスピレーションを受け取っていくための変化に、まだ「不慣れ」なだけなのだろうなとも思う。

 ブログの更新ペースは当面は鈍るかもしれないし、内容もおそらく少しずつ変わっていく可能性もあるでしょう。
 でも、どうなっていくかは自分にもぜんぜん分からない。
 どうなっていくのでしょうね?…


 ま、こうしたプロセスまでいちいち現在進行形で綴ってシェアしているブログも、なかなか物好きなのかも。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Laura Sullivan「Sunrise On Cloud Palace」。
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 この数日、息子の大学受験やら、役員をしているPTAの最後の行事やらで、ややあわただしく過ごしていました。

 肝心の息子の受験のほうは――、幸いにも第一志望校の合格が先日決まり、ありがたいことに早々と見通しがついた状況です。


 全国的にはそれほど有名ではないけれど、語学教育で伝統と定評のある中堅私大で、息子の学力レベルからすると「ちょっと厳しいかな…」と思っていたところだ。
 しかも第二、第三志望のほうは落ちたのに、いちばん可能性が薄いはずのいわゆる「看板学部」に受かった。

 息子は文字どおり欣喜雀躍しているし、こんな受かり方もあるものだなと不思議な感じですね。
 つい数日前まではネガティブに「どうせオレは入れる大学がなくて浪人だ」と、塾にも行かず、受験勉強にもあまり身が入らずにくすぶっていたことを考えると…、ま、結果的に「上出来」と言っていいでしょう。


 まだこれから有名私大の受験・発表がいくつか残っているけど――、当人は「あとは受かっても受からなくても、どちらでも全然かまわない」という、もはや気楽なおまかせモードになってしまっております…。


 もともと息子は、未熟児で生まれて体がとても小さいながらも、幼少のころはすごく明るくて利発な子だった。

 ところが、重い鬱を患った妻から虐待を受けたり、小中学生のころは校内でひどいいじめに遭った――。
 そうした状況の中で、だんだんと子供の「ハートが閉じていく」様子を目の当たりにするのは、親としてとてもつらい経験だった。

 成績もかなり下位レベルに落ちていき、かろうじて不登校にはならなかったものの、「学校に行きたくない」「進学したくない」としょっちゅう口にしていた。


 そこで高校への進学のときは、いじめのなさそうな、なるべくおっとりした(アンビシャスな感じでない)校風のところを選んだ。
 高校生活の3年間で、息子は親しい友達を1人も作ることができなかったけれども…、でも、ほとんど休みなく授業に出席するだけはちゃんとしてくれた。

 で、部活もせず、友達もいないため、あり余った時間をずーっとネットを見て過ごしていた。
 そうしているうち、アメリカのアニメに興味を持つようになった。

 その趣味はどんどんマニアックな方面に突き進んでいき、日本語吹き替えや字幕もない英語のままの「おたく好み」のアニメ作品を、来る日も来る日も深夜まで集中して見ていた。
 気に入った作品は、同じものを何度も繰り返して視聴していたようだ。

 すると、思いがけないことに、英語の成績だけがいつも間にか校内上位に上がっていった。


 そうして好きなものを見ながら身に付けた語学力で、自分の志望校に合格できたわけだから――、過去からの経緯からすると、「ベストの結果がもたらされていった」くらいにとらえていいでしょう。

 本当に人生は、何がどう幸いしていくのか、分からないものだ…。
 親としては、「アメリカのアニメさまさま」という感じ。


 進学先が決まったら引っ越すことも考えていることから、息子はいま、以前から机にたまっていた不要な紙や冊子などをバッサバッサ捨てて、思い切った片付けを進めている。

 何だか、「動のエネルギー」が訪れてきた感じですね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Essential Guide To Yoga Celtic Chillout 「Walking Eden」。
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 「私はいない、ここには誰もいない」「この世界は、たったひとつのエネルギーが形を変えながら現れているだけ」「すべては完璧に起こっている」――
 昨年あたりから、スピリチュアルの分野では「非二元(ノン・デュアリティー)」のメッセージが広まってきています。

 明確な定義とかは詳しくないけれど、内容としては古くから説かれている「不二一元論(アドヴァイタ)」とだいたい同じように思うし、まったく真新しいメッセージというわけでは必ずしもないでしょう。


 でも、従来の状況とずいぶん異なるように感じるのは――、
 これまで、アドヴァイタなどの教えに関心を持つ人というのは、いわゆる「現実世界の幸せの追求」をある程度卒業して、禅やインドのマスターなど色々な教えに出会っていって、その学びの上にあって初めて理解を深めていく、という手順だっただろうと思う。

 ある意味で、かなり対象の限られたメッセージと言っていいだろう。

 一方で最近はというと、スピリチュアル分野に関心を持つ相当に広範な層に向けて非二元のメッセージが伝えられていることが、これまでにない特色のようにも思う。


 最初のうちは僕も、「説明も抜きにそんな根源的なことだけをきっぱりと言い切られても、聞くほうはただ『……』と黙ってしまうしかないだろう」と、やや無意味な形のメッセージのようにも思っていたのだけれど――、
 でも、そうしたネット動画などを見ながら、ただ「……」と黙ってしまうしかないこと自体が、全くつかみどころのない場に放り出されたみたいな、つかまなくてもいい余計な理解への努力を強制的に放棄させられているみたいな、大切な瞬間に引き込まれているような不思議な感じがしてくる…。

 おそらく、色んな人がそのように感じているのかもしれないし、比較的幅広い人がこのテーマに関心を寄せてメッセージを受け取っていること自体、数年前では起こり得なかった状況ではないかなとも思います。


 これはきっと、一時的な傾向ではなくて、ゆで卵が生卵に戻らないような「不可逆的」なことなのでしょう。
 「成功法則や引き寄せ」から「非二元」という順序はあっても、「非二元」から「成功法則や引き寄せ」という進み方はまずないだろうから。


 もちろん、非二元のメッセージに対しては、賛否両論がかなりある状況ですよね…。

 中でも、「重い病気の人や、親しい人を亡くした人に面と向かって、『苦しんでいる人なんかどこにもいないし、すべては完璧だ』なんて口にできるのか」といった意見はよく目にする。
 「こんな考え方には愛がない」と言う人もいる。


 もちろんこれは変な言い掛かりではなく、論理の筋としては確かにその通りでしょう…。
 でも実際の例として、「無我」の境地にある覚者などが、困っている人に対して愛や共感のない振る舞いをするのかというと――、逆にそうではなく、思いやりある行動をとるケースがやはり多いのではないだろうか。

 たとえば道元は、心身脱落して真の無我になりきっていながらも、村の女性が幼い子供を亡くしたときに、心から憐れんでなぐさめた。
 中世イタリアの聖者・フランチェスコは、この世界が神の愛ですでに満たされていることを悟ったあとに、病人や貧しい人々への奉仕活動を始めている。

 ベトナムの禅僧ティック・ナット・ハンも、ベトナム戦争中に激しい戦禍をくぐりながら、平和を訴え続けた。


 これらは、かなり象徴的すぎる偉人の例かもしれないけれど…
 でも「無我」であるからといって、他者に共感しないわけではない、見えない原則を説くだけで何もしないわけではない、ということは明らかでしょう。

 おそらく、「私はいない、すべては完璧」と語っているメッセンジャーだって、いざ目の前に困っている人が現れたら、とっさに手を差し伸べたり、共感の言葉を口にするに違いないと思う。

 もちろんその人が、社会常識としてそうするわけでもなく、また非二元のあり方と矛盾するわけでもなく――、
 まさしく、ひとつのエネルギーの現れとして、そこに「救い」や「憐れみ」が自然に起こってくるのではないかな…。


 『仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司著)という本を読んだのだけど――、これはよくある仏教入門書とはかなり違う、仏教のそもそもの核心部分をとても分かりやすく論理構成した、驚くべき一冊だった。

 で、その本の一部にも、「無我のあり方から世界を見つめる」ことと、そこに湧き起こる「ストーリーの世界に介入する」ことの矛盾が、仏教におけるかなり根本的な難問である点が、次のように触れられている。

 「物語の世界」に積極的に介入していく「利他の実践(慈悲)」と、そのような「世界」を縁起の法則に従って継起するだけの中立的な現象として観ずる「捨の態度(智慧)」という二者の乖離は、仏教について真剣に“考える”者が必ず当面することになる難問題である。
 この両者が、同一人の中に併存することは、どうも筋が通らないように思えるからだ。

 ただブッダの中ではそれは併存していたと思われる。
 また後代の仏教徒たちも、程度の差はあれ、そうしようと努めてきたことを考えると――、やはり「智慧」と「慈悲」は現実的には両立可能だし、また仏教徒の建前からすれば、この両者は相互補完的なものでもなければならないということになる。


 まさにそれは、話の筋としては矛盾するようでいて、現実のあり方においては両立するものなのでしょう。

 この世界は、ただ現れているだけ。
 瞬一瞬が完璧だけれども、すべてが中立的で意味はない。

 でも、それにもかかわらず――、
 「共感」や「救い」も自然に現れてくることが、この世界の大きな神秘でもあるなと思いますね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、The Echelon Effect「Tracking Aeroplanes」。
  ☞ コメント:36

 


 前回からの続きで、僕自身のとても内面的な話です――

 僕はもともと、言語的・論理的な思考活動(いわゆる左脳系)がとても得意なほうだったのだけど、この数年間にその働きが徐々に減衰していった。
 マインドが静まっていくことは、従来の「自分らしさ」が失われていく一方で、内に平穏さが満ちていく、とても心地のいい経験でもあった。

 ところが、数カ月前から思考活動がさらに一段とガクンと低下すると――、どういうわけか、とくに理由のない「胸の苦しみ」が、日に日に強まるようになってきた…。


 僕はいま、ストレスのほとんどない日常を送っているし、悩まなくてはならないような外的状況はまず見当たらない。

 で、そのありありと感じられる「苦しみ」の感覚をじっと眺めてみると――、
 それは最近になって新たにやって来たものではなくて、自分がもの心が付いたころから、大なり小なりずーっと内にあったものであることが分かる…。


 人には、どれほど周りの問題を解決し尽くしても、さらには内的な癒しや浄化を進めても、どうしても消し去ることのできない胸の痛みや苦しみの感覚があるといわれる。

 その感覚は、「私」という存在は「小さな個人である」という認識――、すなわち、周りの世界や、宇宙全体のワンネスや、創造の源泉から切り離されて存在しているのだという、「分離」の認識がもととなって感じられるものだ。

 このことは、スピリチュアル分野の色んな本に繰り返し出ている。
 最近読んだ本の中でもたとえば――、非二元のメッセージで人気の大和田菜穂さんの『すでに愛の中にある』では、こんなふうに語られている。

 「『幻想の私』が、何か足りないという、満たされずに居心地の悪い感覚を生み出す。
 自分が世界に対してとても小さくて無力だと感じてしまうのは、その認識がもたらす感覚が、全体性・一体感とは異なるからだ。この『個人である』という感覚が、収縮したエネルギーとして現れる。それが苦しみの原因だ。
 この収縮したエネは色んな場面で緊張を増幅し、さらなる苦しみを生む。例えば、精神的に嫌な思いをしたときの、このエネルギーが胸を突くような感覚に、心当たりがあるだろう」


 また、これは別分野だけれど、そうした感覚は、死後の魂においても消えずに残っているのだという。
 退行催眠療法のマイケル・ニュートン著『死後の世界を知ると人生は深く癒される』には、次のように述べられている。

 「基本的に、魂が肉体から抜け出たときに、負の感情も消滅する。スピリットの世界の純粋なエネルギー状態に戻ると、もはや憎しみや怒り、嫉妬などは感じなくなる。
 ところが、依然として魂は、悲しみに似た感情を持っている。そのひとつが、『存在の源泉と一体化したい』という強いあこがれの気持ちだ。
 魂の中にあるその負の痕跡は、私たちは永遠性に欠けた要素があることを示している。その欠けているものを探すために、転生して多くを経験していく」


 で、これは自分の内側を観察しながら感じることだけれど――、
 マインドが静まれば静まるほど、私たちの内面は穏やかで何もない「空っぽ」の状態へと近づいていく。
 ところが、「分離」に伴う感覚のほうは、いつまでも消えずに残り続ける。

 その分離に感覚は、ふだんの状態ならば、絶え間ないたくさんの思考活動によって覆われていて、それほど気にはならない。
 でも、思考活動がどんどん空っぽになっていくと――、必然的にやがて、「自分の内には分離の感覚だけしかない」という状況に至っていくのではないだろうか…。

 そして、それしかない分離の感覚が内側でクローズアップされることによって、言いようのない「苦しみ」として実感されることになるのだろう。


 これは、非常にキツいことに違いない。
 すでにマインドが不活性な状態になっているから、思考や行動によってごまかしたり埋め合わせようという意図も出てこない…。

 前回記事で書き表したように、「闇に覆われていく中で、むしろその闇からずっと抜け出したくないような、何とも動きようのない状況」という感じである。

 とても不謹慎で変な例えだけれど――、6年前にペルーの鉱山で、地底630メートルに作業員が閉じ込められるという大事故があったけど、僕はその様子を想像しながら、「それくらい光もいっさい届かない、地上の活動も時間も関係のないような深い闇の中で、もし一人でずっと動かずにいられたら、気持ちが楽だろうな」なんてふうにも思えてしまう…。


 でも、これってまるで、臨死体験者が天国に行く途中にあったと証言する、死後の闇の場所ですよね。(エベン・アレグザンダーの本だと「ミミズの目の世界」と呼んでいる)

 死後世界にはそもそも「時間」というものがなく、そして「変化」が起こらないから、迷った魂はその闇の場所から出ようとせずに、いつまでも延々ととどまり続けるのだという。
 人々が昔から言う「地獄」とは、まさにその場所のことだとうと臨死体験者は語っている。


 でも、この世に生きている状態の場合は、幸いにも時間と変化があるから、そんな内的な闇の中に延々ととどまっているわけにはいかない。
 健康体で、家庭もあり、何らかの役割がある以上は、それなりに思考と体を使いながら、色々と「起こってくること」に現実的に対処しなくてはならない。

 そうしたいわば、「闇にとどまらない選択をする」という点において、この次元の時間や変化は、きっと貴重なのだろうなと思いますね…。


 僕の場合は、そうした核心的プロセスにはもちろんほど遠いだろうけれど――、いわゆる「意識の目覚め」を体験した人の中には、それが起こる前に「魂の暗夜」とも呼ばれる、精神的どん底を経ていくケースが少なくない。


 例えば、キリスト教徒として「神との合一」を体験したアメリカ人女性のバーナデット・ロバーツは、その体験が起こる前に、自己も神も見失う「虚無の深淵」を歩んだことを語っている

 また覚醒者とは違うけれども、マザー・テレサは親しい神父に宛てた手紙で、自らの心の内についてこのような告白をしている。

 「私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるですべてが死んでしまったかのようです。私がこの仕事を始めるようになって間もないころから、この状態がずっと続いています。内面はすべて闇で、神から完全に切り離されている感覚です。
 私の信仰は、いったいどこへ行ってしまったのでしょう。心の底には、虚しさと闇しかありません。主よ、この得体の知れない痛みは、何と苦しいことでしょう。絶えず私の心は痛みます。私には信仰がありません」

 人類愛の現れとも呼べるようなマザー・テレサとは、とても思えないような心の闇ですよね…。


 ほかにも「意識の目覚め」を体験した人には、精神疾患や、病気や事故、身内の不幸、経済的トラブルなど、苦しまざるを得ない具体的な状況に置かれ「魂の暗夜」を経験したという話は本当にとても多い。

 そうした体験談を読んでいて思うのは――、その内なるエネルギーを癒しましょうとか、ポジティブにとらえようとか、こんなテクニックで苦しみを克服しようといったアドバイスは、ほとんどまず述べられていないことだ。
 せいぜい触れられているのは、「祈り」とか、導きや恩寵を「信じる」ことの大切さくらいだろう。


 苦しみのおおもとの理由が「分離」の認識であるならば、その分離している自己がいなくならない限り、苦しみも消えないということになる。

 つまり、その苦しみに対して、自己は何もできない。
 ただ潜り抜けるしかない。過ぎ去るのを待つしかない。ゆだねるしかない。
 ――ということなのでしょう。


 でも、そのような「魂の暗夜」を経ずに意識の目覚めを体験する人は最近増えているようだし、暗夜における「闇の深さ」のようなものも、軽減されてきているのではないかとも思います。

 魂にとって、闇夜の短い「春の季節」の訪れならば、嬉しいものですね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Lifescapes「The Dawning Pt. 2」。
  ☞ コメント:24

 


プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。

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