永遠のとなり 著 白石一文
永遠のとなり 著 白石一文
部下の自殺をきっかけに
うつ病にかかった青野精一郎。
やがて会社を辞め妻子とも別れることとなり、
故郷・博多に戻る。
そこで出会うのは小学校以来の親友津田敦。
九年前にがんを発症し、
結婚と離婚をくりかえす敦であった。
2人はともにこれからの人生を考え始める・・・。
感想 今作が10冊目になる白石氏の新作です。
主人公は損保会社に勤めている50歳、目の前の男。
久しぶりの故郷で親友の敦こと・・あっちゃんと出会い
親交を深めていきます。
お互いの今までの人生を語り合います。
女性から見たら、2人ともに、褒められた人生を送ってきたとは
到底思えません。病気になってしまったことに関しては
同情を感じるものの、
女性&家族に対して思いやりをもって接してきたと思えない分、
自分勝手な人生ではなかったかと思うところがあります。
それは、自分が女性だからでしょうか。
影で泣いているだろう人が
思い浮かんでしまうのですよね。
精一郎・・せいちゃんは若い女と浮気も経験していますし、
あっちゃんは、奥さんがいるのに愛人宅に入りびたり
ですからね。好き勝手にやってきたには違いないです。
でもそんな男2人でも
温め合う友情関係には素直に、共感覚えるところが
あります。いいな~~うらやましいな~~と。
もし、自分が男だったら・・・そんな関係
築けたらどんなにいいか・・・と思えるからです。
読みながら
ここでは自分が女ということを忘れて
違った見方で2人をみてやればいいのかもしれないと・・・思って
おりました。
関係者ではないのですから寛大にみることができるでしょう。
男の人ってこんなこと考えているのね・・・・。
人生もそろそろ終盤にさしかかってきて
お互いが
どう生きていけばいいか真剣に考える時がきてしまったのですよね。
そういう心の葛藤を素直に話せるのは
友人であり、癒してくれる場所は
故郷でもあるのです。
博多弁の語りが
その土地のにおい&雰囲気をリアルに感じさせてくれます。
私にとっては馴染みのない土地ですが、なぜか
親しみを感じさせるのです。
白石さんも主人公たちと同じ1958年生まれ。
東京の出版社の第一線で働いて、うつ病になり、退社して、生まれ育った福岡市に帰ったということ・・・
ご自分を投影した物語なのですね。
<私は、私という人間のことが本当に嫌いだった>
人生はいわば階段や梯子を登るようなものだ。
みんな一段一段、自分の前に用意された長い階段を、梯子を
登っていく。一段登るというのは、その段を強く踏みつけ、全体重をかけるということである。
問題はその踏みつけ方にある。
自己嫌悪の強い人間は、一段踏むたびにその段を踏み壊してしまう。
梯子を思い浮かべるとすれば、足を掛けていた段を次の段に上がる
たびに一本一本折りつづけてきたことになる。
(本文より・・)
自己分析している文章で、精一郎の心の闇が見えたような気がします。
またこんな言葉もありました・・・・。
「わしらは毎日生まれて毎日死によるんよ。
明日生まれんのが死ぬていうことやろ」(105ページ)
ストレートな分、重かったです。
「人間は生きたがる動物であり、死にたがる動物でもある」(196ページ)
「人間はさ、自分というこの狭苦しい、別に面白くも何ともないような弱っちい世界からどうしても抜き出すことができんのよ。その小さな世界を折り合いをつけて生きていくしかないんよ。幸福というのは、
人それぞれのそういう折り合いのつけ方でしかないんやろうとわしは
思うよ。」(190ページ)
相変わらずの、深い文章には
いつも心を動かされます。
ちょっと暗めのお話ですが
生き方に迷った方には
いいのではないでしょうか・・。
生きていくってどういうことなのだろう・・・と
真剣に考えてみたくなります。
とくに男性にお勧めかもしれません。
今回も料理場面が出てきますが
あっちゃんの焼いたトルコ風鰆の塩焼きが美味しそうです。
食べたいです・・・笑
それにしても精一郎の子どもは素っ気無いのではないかと
思うのは私だけでしょうか・・・。
<
部下の自殺をきっかけに
うつ病にかかった青野精一郎。
やがて会社を辞め妻子とも別れることとなり、
故郷・博多に戻る。
そこで出会うのは小学校以来の親友津田敦。
九年前にがんを発症し、
結婚と離婚をくりかえす敦であった。
2人はともにこれからの人生を考え始める・・・。
感想 今作が10冊目になる白石氏の新作です。
主人公は損保会社に勤めている50歳、目の前の男。
久しぶりの故郷で親友の敦こと・・あっちゃんと出会い
親交を深めていきます。
お互いの今までの人生を語り合います。
女性から見たら、2人ともに、褒められた人生を送ってきたとは
到底思えません。病気になってしまったことに関しては
同情を感じるものの、
女性&家族に対して思いやりをもって接してきたと思えない分、
自分勝手な人生ではなかったかと思うところがあります。
それは、自分が女性だからでしょうか。
影で泣いているだろう人が
思い浮かんでしまうのですよね。
精一郎・・せいちゃんは若い女と浮気も経験していますし、
あっちゃんは、奥さんがいるのに愛人宅に入りびたり
ですからね。好き勝手にやってきたには違いないです。
でもそんな男2人でも
温め合う友情関係には素直に、共感覚えるところが
あります。いいな~~うらやましいな~~と。
もし、自分が男だったら・・・そんな関係
築けたらどんなにいいか・・・と思えるからです。
読みながら
ここでは自分が女ということを忘れて
違った見方で2人をみてやればいいのかもしれないと・・・思って
おりました。
関係者ではないのですから寛大にみることができるでしょう。
男の人ってこんなこと考えているのね・・・・。
人生もそろそろ終盤にさしかかってきて
お互いが
どう生きていけばいいか真剣に考える時がきてしまったのですよね。
そういう心の葛藤を素直に話せるのは
友人であり、癒してくれる場所は
故郷でもあるのです。
博多弁の語りが
その土地のにおい&雰囲気をリアルに感じさせてくれます。
私にとっては馴染みのない土地ですが、なぜか
親しみを感じさせるのです。
白石さんも主人公たちと同じ1958年生まれ。
東京の出版社の第一線で働いて、うつ病になり、退社して、生まれ育った福岡市に帰ったということ・・・
ご自分を投影した物語なのですね。
<私は、私という人間のことが本当に嫌いだった>
人生はいわば階段や梯子を登るようなものだ。
みんな一段一段、自分の前に用意された長い階段を、梯子を
登っていく。一段登るというのは、その段を強く踏みつけ、全体重をかけるということである。
問題はその踏みつけ方にある。
自己嫌悪の強い人間は、一段踏むたびにその段を踏み壊してしまう。
梯子を思い浮かべるとすれば、足を掛けていた段を次の段に上がる
たびに一本一本折りつづけてきたことになる。
(本文より・・)
自己分析している文章で、精一郎の心の闇が見えたような気がします。
またこんな言葉もありました・・・・。
「わしらは毎日生まれて毎日死によるんよ。
明日生まれんのが死ぬていうことやろ」(105ページ)
ストレートな分、重かったです。
「人間は生きたがる動物であり、死にたがる動物でもある」(196ページ)
「人間はさ、自分というこの狭苦しい、別に面白くも何ともないような弱っちい世界からどうしても抜き出すことができんのよ。その小さな世界を折り合いをつけて生きていくしかないんよ。幸福というのは、
人それぞれのそういう折り合いのつけ方でしかないんやろうとわしは
思うよ。」(190ページ)
相変わらずの、深い文章には
いつも心を動かされます。
ちょっと暗めのお話ですが
生き方に迷った方には
いいのではないでしょうか・・。
生きていくってどういうことなのだろう・・・と
真剣に考えてみたくなります。
とくに男性にお勧めかもしれません。
今回も料理場面が出てきますが
あっちゃんの焼いたトルコ風鰆の塩焼きが美味しそうです。
食べたいです・・・笑
それにしても精一郎の子どもは素っ気無いのではないかと
思うのは私だけでしょうか・・・。
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