不倫のライセンス 27 思い出のケーキ屋
27 思い出のケーキ屋
階段を上がる足音に、私はゆっくりと重い瞼を開いた。ベッドから出ることのできない可愛い娘のために、父が温かな昼食でも運んできてくれたのだろうか。けれど、歩き方が父のそれとはどこか違って聞こえる。しかも、昼食の時間はとっくに過ぎているはず。夕食、いや、夜食になるのか。どうも時間の感覚が掴めない。寝返りを打って時計を確認したくとも、今の私にそんな重労働は無理だった。
「……は、はい」
ノックの音に、どうにかそう一声だけ絞り出すことができた。まるで、魔法使いのおばあさんのようなしゃがれ声。ただし、二日酔いを治す術すら知らぬ駄目な魔法使いである。
「入るぞ。い、いてえっ!」
ガツンッという衝撃音。しかしそのおかげで、私は反射的にそちらを振り返ることができた。
「トモ……」
見上げるほどの巨人が、頭を抑えながら呻いている。
「私の部屋、破壊しないでね」
「ああ、ちょっと油断してた。そういえば、ここ入るの、久しぶりになるな」
智美が、ドアの戸口をいまいましげに見つめる。
「どうしたの? こんな……、時間に」
チラリと時計に目をやると、午後九時を回ったところだった。今日一日のほとんどを、ベッドの中で過ごしたことになる。
無茶な飲み方をした、という自覚ならあった。ただ、昨夜のことで覚えているのはそれだけ。誰かに向かって、おそらくは父に向かってなのだろう。何かをわめき散らしたような気がする。この喉の痛みは、アルコールのせいばかりではないはず。
「おやじさんに頼まれてさ」
智美が小さな箱から何かを取り出す。「これ、食えるか?」と、それをベッドの枕元へと置いた。
「うん、ありがと」
エクレアだった。その包みを手に、どうにかフラフラと上半身を起こす。そんな私の動作を、智美が心配そうに、いや、あきれ顔で、眺めている。
「パパ、何か言ってた?」
「ああ、セシルの悩みでも聞いてやれってさ」
ベッドの近くまで椅子を引きずると、智美はそこへどっかと腰を下ろした。グローブのような大きな手には、やはりエクレアの包みがある。
「言ってたことって、それだけ?」
「まあ、それだけなんだけど……」
「けど、何? トモ、何よ」
口ごもる智美に、ついつい詰問口調になってしまう。やはり私は、何か余計なことを口走ってしまったに違いない。敏明とのことだろうか。それとも礼治のことだろうか。
「理由はわからないけど……。おやじさん、やけに頭を気にしてるみたいなんだ」
「頭?」
「そう。遠目から見たらどうだとか。上から覗いたらどう見えるだとか。しつこいぐらいだったな。……お前、何か言ったのか?」
私に心当たりはなかった。とはいえ、離婚問題に関することでないと知り、とりあえずは胸を撫で下ろす。
「私も、少し薄くなってきたなあとは思ってたけど……。でも、そんなこと、ぜんぜん気にすることないのにね」
「薄くなってきたか? 毎日顔合わせてると、そういうのもわからなくなってくるな」
「トモ、口悪いから、何かからかうようなこと言ったんじゃないの?」
「言ってねえよ。あんな大先生に向かって……。まあ、俺の場合、上から目線になってしまうことだけはしょうがないけどな」
エクレアを食べ終わる頃には、私のダメージも幾分軽くなっていた。すっきりとまではいかないものの、智美から手渡された缶コーヒーを、笑顔で受け取れるぐらいまでには回復していた。
「大酒飲みには、こんなんじゃ物足りないだろうけど」
「私、もうお酒は当分いい。一年ぐらい、いや、一カ月ぐらいかな」
「無理しないで、一週間ぐらいにしとけ」
智美と缶コーヒーで乾杯し、そのまま一気に喉へと流しこむ。一日ほとんど食事を受け付けなかった胃袋も、ここに来てようやくお目覚めらしい。
「ところで……」
私が飲み終えるのを待っていたかのように、「何か、悩みでもあるのか?」と、智美がそっと尋ねてきた。
「え? あ、うん……」
言葉に詰まり、私はもう一度缶コーヒーに口をつけた。すでに中身は空になっている。時間稼ぎをあきらめ、ゆっくりと智美に視線を戻す。
「私、離婚するかもしれないの」
次の瞬間には、素直にそう口にしていた。何が私をそうさせたのかはわからない。まだ、アルコールの影響が残っていたせいだろうか。今はまだ、離婚問題のことは誰にも知られたくなかったはず。それがどうして。自問してみるが、答えは返ってこない。それでも、身内から次々と沸き起こってくる思いを、私は一つ一つ言葉へと変えていった。
「ここに帰って来たのも、これからのこと考えるためだったの」
何の抵抗もなく、私はしゃべり続けた。心は穏やかだった。身体が軽くなっていくような錯覚さえ感じていた。
家庭生活のこと。義母との関係について。子供ができなかったこと。夫の浮気。礼治との出会い。家を飛び出した日のこと。そして、昨日届けられた敏明からの手紙。すべての話を終え、私は一つ吐息をついた。
長い沈黙。しかし、それは決して嫌な静けさではなかった。心はなおも穏やかなままだった。
「お前さあ……」
先に沈黙を破ったのは智美の方だった。私が話している間、何一つ口を挟むことのなかった彼の口調は、やさしく、そしてやはり穏やかなものだった。
「毎朝、走ってるんだって?」
「うん。いや、今日だけは夢の中でね」
「明日っから、俺も一緒に走っていいか?」
意外な申し出に、さすがにここは返答に窮してしまう。決して断りたいわけではない。私が気がかりなのは、やはり智美の妻、真琴の反応である。
「最近、カミさんにも言われてんだよ。そのお腹、何とかしなさいってさ」
私の気持ちを察したのだろう。智美は早口でそう言うと、いきなり椅子を軋ませ立ち上がった。ポンポンとTシャツの腹部を叩いて見せる。確かに、腹回りの贅肉が少し目立ってはきているようだ。
「そうね。真琴さんが言うなら……。でも、ペースは私に合わせてもらうからね」
巨体を揺すって、汗だくになりながら走る智美の姿。それを想像するだけで、自然と愉快な気持ちになってくる。
「これを機会に、運動嫌いも克服できるといいね。トモミちゃん、見かけによらず身体弱いからなあ」
「そ、その、トモミちゃんってのはやめろったら」
「そんなことより、明日遅刻しないでよ。五時半集合だからね」
私はベッドを降り、その場で大きく一度背伸びをした。あれほどダメージを受けていたことが嘘のように、身体は軽く、何より気分が晴々としていた。
ふと、足元の小箱に目が止まる。エクレアが入っていた箱だ。見覚えのあるデザイン。すぐにその店のことは思い出せた。昔、二人でよく行ったケーキ屋。ここからでは、わざわざ車を走らせなければいけない距離にある、あの、思い出のケーキ屋の箱だった。
「セシル……」
帰り際、智美がそっと呟くように言った。
「今度飲みたくなったときは、俺を誘えよ」
その言葉は、魔法の呪文のように、不思議な力を私に与えてくれた。
私はまだ大丈夫。KOされるには早すぎる。終了を告げるゴングは、まだ私の耳には届いていないのだ。
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階段を上がる足音に、私はゆっくりと重い瞼を開いた。ベッドから出ることのできない可愛い娘のために、父が温かな昼食でも運んできてくれたのだろうか。けれど、歩き方が父のそれとはどこか違って聞こえる。しかも、昼食の時間はとっくに過ぎているはず。夕食、いや、夜食になるのか。どうも時間の感覚が掴めない。寝返りを打って時計を確認したくとも、今の私にそんな重労働は無理だった。
「……は、はい」
ノックの音に、どうにかそう一声だけ絞り出すことができた。まるで、魔法使いのおばあさんのようなしゃがれ声。ただし、二日酔いを治す術すら知らぬ駄目な魔法使いである。
「入るぞ。い、いてえっ!」
ガツンッという衝撃音。しかしそのおかげで、私は反射的にそちらを振り返ることができた。
「トモ……」
見上げるほどの巨人が、頭を抑えながら呻いている。
「私の部屋、破壊しないでね」
「ああ、ちょっと油断してた。そういえば、ここ入るの、久しぶりになるな」
智美が、ドアの戸口をいまいましげに見つめる。
「どうしたの? こんな……、時間に」
チラリと時計に目をやると、午後九時を回ったところだった。今日一日のほとんどを、ベッドの中で過ごしたことになる。
無茶な飲み方をした、という自覚ならあった。ただ、昨夜のことで覚えているのはそれだけ。誰かに向かって、おそらくは父に向かってなのだろう。何かをわめき散らしたような気がする。この喉の痛みは、アルコールのせいばかりではないはず。
「おやじさんに頼まれてさ」
智美が小さな箱から何かを取り出す。「これ、食えるか?」と、それをベッドの枕元へと置いた。
「うん、ありがと」
エクレアだった。その包みを手に、どうにかフラフラと上半身を起こす。そんな私の動作を、智美が心配そうに、いや、あきれ顔で、眺めている。
「パパ、何か言ってた?」
「ああ、セシルの悩みでも聞いてやれってさ」
ベッドの近くまで椅子を引きずると、智美はそこへどっかと腰を下ろした。グローブのような大きな手には、やはりエクレアの包みがある。
「言ってたことって、それだけ?」
「まあ、それだけなんだけど……」
「けど、何? トモ、何よ」
口ごもる智美に、ついつい詰問口調になってしまう。やはり私は、何か余計なことを口走ってしまったに違いない。敏明とのことだろうか。それとも礼治のことだろうか。
「理由はわからないけど……。おやじさん、やけに頭を気にしてるみたいなんだ」
「頭?」
「そう。遠目から見たらどうだとか。上から覗いたらどう見えるだとか。しつこいぐらいだったな。……お前、何か言ったのか?」
私に心当たりはなかった。とはいえ、離婚問題に関することでないと知り、とりあえずは胸を撫で下ろす。
「私も、少し薄くなってきたなあとは思ってたけど……。でも、そんなこと、ぜんぜん気にすることないのにね」
「薄くなってきたか? 毎日顔合わせてると、そういうのもわからなくなってくるな」
「トモ、口悪いから、何かからかうようなこと言ったんじゃないの?」
「言ってねえよ。あんな大先生に向かって……。まあ、俺の場合、上から目線になってしまうことだけはしょうがないけどな」
エクレアを食べ終わる頃には、私のダメージも幾分軽くなっていた。すっきりとまではいかないものの、智美から手渡された缶コーヒーを、笑顔で受け取れるぐらいまでには回復していた。
「大酒飲みには、こんなんじゃ物足りないだろうけど」
「私、もうお酒は当分いい。一年ぐらい、いや、一カ月ぐらいかな」
「無理しないで、一週間ぐらいにしとけ」
智美と缶コーヒーで乾杯し、そのまま一気に喉へと流しこむ。一日ほとんど食事を受け付けなかった胃袋も、ここに来てようやくお目覚めらしい。
「ところで……」
私が飲み終えるのを待っていたかのように、「何か、悩みでもあるのか?」と、智美がそっと尋ねてきた。
「え? あ、うん……」
言葉に詰まり、私はもう一度缶コーヒーに口をつけた。すでに中身は空になっている。時間稼ぎをあきらめ、ゆっくりと智美に視線を戻す。
「私、離婚するかもしれないの」
次の瞬間には、素直にそう口にしていた。何が私をそうさせたのかはわからない。まだ、アルコールの影響が残っていたせいだろうか。今はまだ、離婚問題のことは誰にも知られたくなかったはず。それがどうして。自問してみるが、答えは返ってこない。それでも、身内から次々と沸き起こってくる思いを、私は一つ一つ言葉へと変えていった。
「ここに帰って来たのも、これからのこと考えるためだったの」
何の抵抗もなく、私はしゃべり続けた。心は穏やかだった。身体が軽くなっていくような錯覚さえ感じていた。
家庭生活のこと。義母との関係について。子供ができなかったこと。夫の浮気。礼治との出会い。家を飛び出した日のこと。そして、昨日届けられた敏明からの手紙。すべての話を終え、私は一つ吐息をついた。
長い沈黙。しかし、それは決して嫌な静けさではなかった。心はなおも穏やかなままだった。
「お前さあ……」
先に沈黙を破ったのは智美の方だった。私が話している間、何一つ口を挟むことのなかった彼の口調は、やさしく、そしてやはり穏やかなものだった。
「毎朝、走ってるんだって?」
「うん。いや、今日だけは夢の中でね」
「明日っから、俺も一緒に走っていいか?」
意外な申し出に、さすがにここは返答に窮してしまう。決して断りたいわけではない。私が気がかりなのは、やはり智美の妻、真琴の反応である。
「最近、カミさんにも言われてんだよ。そのお腹、何とかしなさいってさ」
私の気持ちを察したのだろう。智美は早口でそう言うと、いきなり椅子を軋ませ立ち上がった。ポンポンとTシャツの腹部を叩いて見せる。確かに、腹回りの贅肉が少し目立ってはきているようだ。
「そうね。真琴さんが言うなら……。でも、ペースは私に合わせてもらうからね」
巨体を揺すって、汗だくになりながら走る智美の姿。それを想像するだけで、自然と愉快な気持ちになってくる。
「これを機会に、運動嫌いも克服できるといいね。トモミちゃん、見かけによらず身体弱いからなあ」
「そ、その、トモミちゃんってのはやめろったら」
「そんなことより、明日遅刻しないでよ。五時半集合だからね」
私はベッドを降り、その場で大きく一度背伸びをした。あれほどダメージを受けていたことが嘘のように、身体は軽く、何より気分が晴々としていた。
ふと、足元の小箱に目が止まる。エクレアが入っていた箱だ。見覚えのあるデザイン。すぐにその店のことは思い出せた。昔、二人でよく行ったケーキ屋。ここからでは、わざわざ車を走らせなければいけない距離にある、あの、思い出のケーキ屋の箱だった。
「セシル……」
帰り際、智美がそっと呟くように言った。
「今度飲みたくなったときは、俺を誘えよ」
その言葉は、魔法の呪文のように、不思議な力を私に与えてくれた。
私はまだ大丈夫。KOされるには早すぎる。終了を告げるゴングは、まだ私の耳には届いていないのだ。
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