ホームチーム 44 勘違い
44 勘違い
毒物混入事件。その容疑者として逮捕されたのは、元プロ野球選手だった。しかも、在籍していたのはまうんてんず。
球団に対する逆恨みが、どうやらその犯行動機にあったらしい。
「マウンテンズの、元選手かあ」
複雑な思いに駆られながら、大也は大きなため息とともにそう呟いた。
テレビ画面から、ふと三人の大人たちへ目を向ける。
ぽかんとした表情の卓真。不満げに卓真を睨みつける偽教師。その二人を見つめ、不思議そうに首を傾げる理津子。
大也の気持ちは、ますます複雑化する一方だった。
「とりあえず、逮捕されてよかったじゃん」
とりあえず声をかけてみた。
真っ先に、偽教師が反応する。
「俺がやったと思ってたのかよ」
完全に自分の役どころを忘れているようだった。
「普通そう思うだろ。お前に決まってるって」と卓真。
「せ、先生に、何てこと言ってるのよ」と理津子。
「この俺が、食い物に、毒なんか入れるわけねえだろ。こう見えても、俺は飲食店の経営者だぞ」
興奮を抑えきれない偽教師。というより、すでに教師役は放棄してしまったらしい。
「お、落ち着いてください、先生。きゅ、急に、どうしちゃったんですか?」
大也の目には、理津子の頭上に浮かぶ、大きなクエスチョンマークがはっきりと見えた。
「もう、こんな猿芝居はおしまいだ。俺は、教師なんかじゃ……」
男は、そこで口を閉ざした。視線は、孝子に向けられていた。
「誰からだ?」
その詰問には答えずに、孝子は、じっと手の中の携帯電話を見つめている。
「お母さんからじゃないのかな? それ、ちょっと先生に見せてごらん」
男が孝子ににじり寄る。いつの間にか教師役も復活したようだ。
「と、友達。部活の後輩からです。あ、なんか、すぐに切れちゃったみたい。たぶん、間違えたんじゃないのかな」
後ずさりしながら、孝子は、慌てて携帯電話をポケットに仕舞いこんだ。
「かけ直してみなさい。お母さん、きっと心配してるはずだ」
「だ、だから、お母さんじゃないんですって」
「先生が代わりにかけてあげよう」
「いやです」
「いいから、それ、早く渡しなさい」
「こ、こっちへ来ないで……。あ、お客さん?」
インターホンの響きが、二人の足をストップさせた。
「誰だろう、こんな遅くに」
一言呟いた卓真だったが、そこから動こうとはしない。
どうするのだろう、と大也は無言で見守った。どうするべきか。卓真は今必死にそれを考えているはずだ。
「私が出るわ」
先に動いたのは理津子だった。
「いや……」と卓真が短く発した。しかし、それ以上の言葉は続かなかった。
全員の注目を集める中、理津子がインターホンの受話器を取る。
「はい。ええ、そうですが……。あ、いいえ。ちょ、ちょっと待ってください」
送話部を手でふさぎ、「木原さんって方なんだけど」と、小声で卓真に告げた。
「なんで、こんな時に……」
「息子たちのことで、どうしても、もう一度だけ話し合いたいって」
「なんで、今なんだよ」
卓真が漏らす困惑の呟きは、大也の気持ちを、そしておそらくは、孝子や偽教師の内心をも代弁する言葉だった。
「今、鍵開けますね」
今回も、やはり理津子が最初に動き出した。これが、事情を知らない人間の強み、というものなのだろう。受話器に一声かけると、後はもうこちらを振り返ることすらなかった。
「なんだか、すごいことになってきたね」
理津子の姿が、リビングから消えたのを見て、大也はぽつりと呟いた。
「なに呑気なこと言ってんだよ」と、すかさず卓真の声が飛んでくる。
「そうだ。お父さんの言う通りだぞ」と偽教師の声がそれに続く。
そして、いい年下二人の男は、再び顔を付き合せることとなった。
「今のうちだ。早く庭の方から出て行けよ」
「駄目だ。お前が、あの連中を早く追い出せ」
「あいつが、俺の言うこと素直に聞くわけねえだろ」
「情けねえ男だな。元女房なんだろ」
「お前にだけは言われたくねえよ。元暴力夫め」
「うるせえ。昔はそうでも、今の俺は生まれ変わったんだ」
「なに言ってやがんだ。お前の場合、暴力夫から、ストーカー男に変化しただけだろ」
「お前はどうなんだよ。ずっと情けねえ男のまんまじゃねえか」
「いいから、早く出て行けよ。うんこ野郎」
「うんこはお前の方だ。情けねえうんこ男め」
「そんなことより」と、孝子が二人の間に割って入った。「これからどうするのよ。このまま芝居を続けるつもり? その木原さんっていうの、大也君と同じクラスなんでしょ? それなら、もう誤魔化しきかないんじゃないの?」
もっともな指摘だった。大也も、すぐにその意味に気づかされた。
しかし、しょせん時間を止めることなどできない。首を傾げる二人の大人に、その意味を正しく伝える余裕はなかった。
「お、俺と同じクラスってことは、同じ……」
言いかけた大也の耳に、リビングへと近づいてくる足音、そして理津子の話し声が聞こえてきた。
「ちょうどよかった。私も今、息子のことで大事な話をしていたところだったんですよ」
卓真は、ドアの方向へと一歩前進していた。何一つ考えがまとまらないままの行動だった。「あ、どうもどうも」と中途半端な挨拶を、中途半端な笑顔で言う。
「こんな遅い時間に、失礼だとは思ったんですが」
木原守の母、栄子がぺこりと頭を下げる。彼女の後ろには、守の祖父、栄一の姿もあった。
「驚かれたでしょ?」と理津子が苦笑する。「うち、なぜか今日はすごく賑やかなことになっちゃってて」
まるで、ここが我が家ででもあるかのような口ぶりだ。
一方、正式な家の主人である卓真はというと、今はただ黙って突っ立っていることしかできない。情けねえ男。先ほど男から言われたその言葉が、苦々しさとともに蘇ってくる。
「こちらが、息子と同じクラスの、ええと、あ、そうそう、秋本さん」
そう理津子に紹介され、孝子は弾かれたように頭を下げた。
秋本。偽名はそれで合っていただろうか。卓真にはもう思い出せない。たぶん孝子もそうなのだろう。いったん下げた頭を、なかなか上げようとしないのはそのせいに違いない。
「それから……」
理津子の視線が、今度は偽教師へと移った。
「息子のクラスで、今担任をして……」
そこで、唐突に言葉が途切れる。
名前を忘れたのだろうか、と卓真は思った。こちらにその名前を確認されても困る、とも思った。
しかし、そうではなかったらしい。
「私ったら、何言ってるのかしら」
そう言うなり、理津子が急に笑い出したのである。
「木原さんの息子さんも、同じクラスだったのよねえ」
笑いの意味を理解するまで、卓真には数秒の時間が必要だった。
「初めまして、白鳥というものです」
偽教師には、たぶんそれ以上の時間が必要だったのだろう。微笑む彼を前に、栄子の表情がみるみる曇っていく。
「そうそう。白鳥先生でしたわね」と、くすくす笑いが止まらない理津子。
しかし、栄子の次の言葉が、理津子からその笑いを奪い取ることとなった。
「担任の先生、いつお代わりになったんですか?」
短い沈黙。
そして、青ざめる偽教師。
卓真は助け舟を出すことにした。
「た、確か、二週間前、ぐらいでしたよね」
「息子のことで、私、三日前に相談をしに……」
ぜんぜん助け舟にはなっていなかった。
「ど、どういうこと?」と首を傾げる理津子。
「あなたは、誰なんですか?」と詰問口調になる栄子。
「ああ、最悪」と小声を漏らす孝子。
「おじいちゃん、膝の具合どうなの?」と老人をいたわる大也。
「もう大丈夫だ。アロエが効いたらしい」とうれしそうに答える栄一。
青ざめていた男の顔色が、今度はみるみる赤くなっていく。
危険な精神状態を示す、それはまさに赤信号そのものに見えた。
「じ、実は、みんなを驚かそうと思って……」
卓真は、はははと笑いながら、「これ、どっきりですよ、どっきり」と早口で続けた。
しかし、次の瞬間には、そう言った卓真自身が、一番驚かされることとなった。一番どっきりさせられることとなった。
「みんな、そこから下がれ!」
怒鳴り声。そしてテーブルを蹴り飛ばす音。
男の行動は素早かった。大也の腕を掴んだかと思うと、そのまま強引にテレビの前に立たせた。
「下手な真似したら、ズドンだぞ」と、大也の背後から男が叫ぶ。片手に握られているのは拳銃だ。手提げ鞄から取り出したのだろう。今はその銃口が、大也の頬に強く押し当てられている。
「や、やめろ。落ち着け。どうするつもりなんだよ」
そう言いながら、卓真はそこから一歩だけ後退した。今は男の指示通りにするしかないのだ。
「詩織だ、詩織」
男が奇声を発する。
「あいつを今すぐ連れてこい。このガキの命と引き換えだ」
「だ、だから、言ってるじゃないか。わからないんだよ、彼女の居場所が」
男は、卓真の言葉を無視するように、今度は孝子に向かって怒鳴り声を上げた。
「電話してみろ。さっきのあれ、詩織からだったんだろ?」
「ち、違う。本当に違うんだってば」と、孝子が激しくかぶりを振る。
「嘘をつけ!」
男の怒声に、大也の、ううっという呻き声が重なった。その苦しげな呻きが、頬に押し当てられている銃口によるものなのか、首を締めつけている男の腕によるものなのか、卓真には判断がつかなかった。今の卓真に判断できるのは、今回灯った赤信号は、ちょっとやそっとじゃ青には切り替わらない、ということだけだった。
「孝子ちゃん、携帯電話、見せてあげたらどうかな」
孝子がこちらを向く。先ほどの電話が誰からなのか。彼女の表情からそれを読み取ろうとしたが、卓真にはよくわからなかった。
「そ、そうね」と、近くにいた理津子が口を挟んできた。「よくわからないけど、電話見せてあげたら?」震える声でそう続ける。
「そうだ。さっさとこっちによこせ。このガキ、ぶっ殺してもいいのか?」
男の言葉に、部屋にいる全員が凍りついた。もう誰も動くことができない。もう誰も言葉を発することができない。
ところが、そうではなかった。それが勘違いだったということに、卓真は数秒経ってから気づくことになる。
「あれって、おもちゃよね」と栄子。
「うん。あれはおもちゃだな」と栄一。
木原親子は、凍りついてなどいなかった。
そして、事態は一変した。
二人が言う“あれ”の意味を、卓真は察した。ほぼ同時に、大也も気がついたらしい。
「うげっ」
今度の呻き声は、偽教師、いや、ストーカー男のものだった。大也の、後頭部を使っての頭突きが、男の顔面に見事炸裂したのだ。
おもちゃの拳銃が、男の手から滑り落ちる。おもちゃらしからぬ、ガッシーンという派手な音が響き渡った。
大也と入れ替わるようにして、卓真は男に飛びかかった。顔を押さえていた男の手を掴み、そのまま勢いよく押し倒す。
馬乗りになって頭突きを一発。
「父さん頑張って」
「卓真さんしっかり」
大也と孝子の声援が聞こえる。
卓真は二人分の頭突きを追加した。
「これって、もしかして本物かも」
「うん。これは間違いなく本物だな」
木原親子のやり取りが聞こえる。
卓真は頭突きをやめた。気を失いかけたからだ。
「だ、だ、誰か、け、け、け、警察を呼んでくれ。早く早く」
「あ、警察。そう、そうなんです」
甲高い声を上げたのは孝子だった。
「卓真さん。さっきの電話、警察からだったんです」
「え? な、な、な、なんだって?」
男を押さえこんだまま、卓真は後ろを振り返った。孝子が、携帯電話を耳に当てたところだった。
「もしもし、水本です。あ、はい。そうです、孝子です。ああ、やっぱりそうだったんですね。これからすぐに迎えに行きます。よかった。無事だったんですね。本当によかった。はい、どうもすみません。ああ、もう、そんなに笑わないでください……」
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次回、最終話となります。
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毒物混入事件。その容疑者として逮捕されたのは、元プロ野球選手だった。しかも、在籍していたのはまうんてんず。
球団に対する逆恨みが、どうやらその犯行動機にあったらしい。
「マウンテンズの、元選手かあ」
複雑な思いに駆られながら、大也は大きなため息とともにそう呟いた。
テレビ画面から、ふと三人の大人たちへ目を向ける。
ぽかんとした表情の卓真。不満げに卓真を睨みつける偽教師。その二人を見つめ、不思議そうに首を傾げる理津子。
大也の気持ちは、ますます複雑化する一方だった。
「とりあえず、逮捕されてよかったじゃん」
とりあえず声をかけてみた。
真っ先に、偽教師が反応する。
「俺がやったと思ってたのかよ」
完全に自分の役どころを忘れているようだった。
「普通そう思うだろ。お前に決まってるって」と卓真。
「せ、先生に、何てこと言ってるのよ」と理津子。
「この俺が、食い物に、毒なんか入れるわけねえだろ。こう見えても、俺は飲食店の経営者だぞ」
興奮を抑えきれない偽教師。というより、すでに教師役は放棄してしまったらしい。
「お、落ち着いてください、先生。きゅ、急に、どうしちゃったんですか?」
大也の目には、理津子の頭上に浮かぶ、大きなクエスチョンマークがはっきりと見えた。
「もう、こんな猿芝居はおしまいだ。俺は、教師なんかじゃ……」
男は、そこで口を閉ざした。視線は、孝子に向けられていた。
「誰からだ?」
その詰問には答えずに、孝子は、じっと手の中の携帯電話を見つめている。
「お母さんからじゃないのかな? それ、ちょっと先生に見せてごらん」
男が孝子ににじり寄る。いつの間にか教師役も復活したようだ。
「と、友達。部活の後輩からです。あ、なんか、すぐに切れちゃったみたい。たぶん、間違えたんじゃないのかな」
後ずさりしながら、孝子は、慌てて携帯電話をポケットに仕舞いこんだ。
「かけ直してみなさい。お母さん、きっと心配してるはずだ」
「だ、だから、お母さんじゃないんですって」
「先生が代わりにかけてあげよう」
「いやです」
「いいから、それ、早く渡しなさい」
「こ、こっちへ来ないで……。あ、お客さん?」
インターホンの響きが、二人の足をストップさせた。
「誰だろう、こんな遅くに」
一言呟いた卓真だったが、そこから動こうとはしない。
どうするのだろう、と大也は無言で見守った。どうするべきか。卓真は今必死にそれを考えているはずだ。
「私が出るわ」
先に動いたのは理津子だった。
「いや……」と卓真が短く発した。しかし、それ以上の言葉は続かなかった。
全員の注目を集める中、理津子がインターホンの受話器を取る。
「はい。ええ、そうですが……。あ、いいえ。ちょ、ちょっと待ってください」
送話部を手でふさぎ、「木原さんって方なんだけど」と、小声で卓真に告げた。
「なんで、こんな時に……」
「息子たちのことで、どうしても、もう一度だけ話し合いたいって」
「なんで、今なんだよ」
卓真が漏らす困惑の呟きは、大也の気持ちを、そしておそらくは、孝子や偽教師の内心をも代弁する言葉だった。
「今、鍵開けますね」
今回も、やはり理津子が最初に動き出した。これが、事情を知らない人間の強み、というものなのだろう。受話器に一声かけると、後はもうこちらを振り返ることすらなかった。
「なんだか、すごいことになってきたね」
理津子の姿が、リビングから消えたのを見て、大也はぽつりと呟いた。
「なに呑気なこと言ってんだよ」と、すかさず卓真の声が飛んでくる。
「そうだ。お父さんの言う通りだぞ」と偽教師の声がそれに続く。
そして、いい年下二人の男は、再び顔を付き合せることとなった。
「今のうちだ。早く庭の方から出て行けよ」
「駄目だ。お前が、あの連中を早く追い出せ」
「あいつが、俺の言うこと素直に聞くわけねえだろ」
「情けねえ男だな。元女房なんだろ」
「お前にだけは言われたくねえよ。元暴力夫め」
「うるせえ。昔はそうでも、今の俺は生まれ変わったんだ」
「なに言ってやがんだ。お前の場合、暴力夫から、ストーカー男に変化しただけだろ」
「お前はどうなんだよ。ずっと情けねえ男のまんまじゃねえか」
「いいから、早く出て行けよ。うんこ野郎」
「うんこはお前の方だ。情けねえうんこ男め」
「そんなことより」と、孝子が二人の間に割って入った。「これからどうするのよ。このまま芝居を続けるつもり? その木原さんっていうの、大也君と同じクラスなんでしょ? それなら、もう誤魔化しきかないんじゃないの?」
もっともな指摘だった。大也も、すぐにその意味に気づかされた。
しかし、しょせん時間を止めることなどできない。首を傾げる二人の大人に、その意味を正しく伝える余裕はなかった。
「お、俺と同じクラスってことは、同じ……」
言いかけた大也の耳に、リビングへと近づいてくる足音、そして理津子の話し声が聞こえてきた。
「ちょうどよかった。私も今、息子のことで大事な話をしていたところだったんですよ」
卓真は、ドアの方向へと一歩前進していた。何一つ考えがまとまらないままの行動だった。「あ、どうもどうも」と中途半端な挨拶を、中途半端な笑顔で言う。
「こんな遅い時間に、失礼だとは思ったんですが」
木原守の母、栄子がぺこりと頭を下げる。彼女の後ろには、守の祖父、栄一の姿もあった。
「驚かれたでしょ?」と理津子が苦笑する。「うち、なぜか今日はすごく賑やかなことになっちゃってて」
まるで、ここが我が家ででもあるかのような口ぶりだ。
一方、正式な家の主人である卓真はというと、今はただ黙って突っ立っていることしかできない。情けねえ男。先ほど男から言われたその言葉が、苦々しさとともに蘇ってくる。
「こちらが、息子と同じクラスの、ええと、あ、そうそう、秋本さん」
そう理津子に紹介され、孝子は弾かれたように頭を下げた。
秋本。偽名はそれで合っていただろうか。卓真にはもう思い出せない。たぶん孝子もそうなのだろう。いったん下げた頭を、なかなか上げようとしないのはそのせいに違いない。
「それから……」
理津子の視線が、今度は偽教師へと移った。
「息子のクラスで、今担任をして……」
そこで、唐突に言葉が途切れる。
名前を忘れたのだろうか、と卓真は思った。こちらにその名前を確認されても困る、とも思った。
しかし、そうではなかったらしい。
「私ったら、何言ってるのかしら」
そう言うなり、理津子が急に笑い出したのである。
「木原さんの息子さんも、同じクラスだったのよねえ」
笑いの意味を理解するまで、卓真には数秒の時間が必要だった。
「初めまして、白鳥というものです」
偽教師には、たぶんそれ以上の時間が必要だったのだろう。微笑む彼を前に、栄子の表情がみるみる曇っていく。
「そうそう。白鳥先生でしたわね」と、くすくす笑いが止まらない理津子。
しかし、栄子の次の言葉が、理津子からその笑いを奪い取ることとなった。
「担任の先生、いつお代わりになったんですか?」
短い沈黙。
そして、青ざめる偽教師。
卓真は助け舟を出すことにした。
「た、確か、二週間前、ぐらいでしたよね」
「息子のことで、私、三日前に相談をしに……」
ぜんぜん助け舟にはなっていなかった。
「ど、どういうこと?」と首を傾げる理津子。
「あなたは、誰なんですか?」と詰問口調になる栄子。
「ああ、最悪」と小声を漏らす孝子。
「おじいちゃん、膝の具合どうなの?」と老人をいたわる大也。
「もう大丈夫だ。アロエが効いたらしい」とうれしそうに答える栄一。
青ざめていた男の顔色が、今度はみるみる赤くなっていく。
危険な精神状態を示す、それはまさに赤信号そのものに見えた。
「じ、実は、みんなを驚かそうと思って……」
卓真は、はははと笑いながら、「これ、どっきりですよ、どっきり」と早口で続けた。
しかし、次の瞬間には、そう言った卓真自身が、一番驚かされることとなった。一番どっきりさせられることとなった。
「みんな、そこから下がれ!」
怒鳴り声。そしてテーブルを蹴り飛ばす音。
男の行動は素早かった。大也の腕を掴んだかと思うと、そのまま強引にテレビの前に立たせた。
「下手な真似したら、ズドンだぞ」と、大也の背後から男が叫ぶ。片手に握られているのは拳銃だ。手提げ鞄から取り出したのだろう。今はその銃口が、大也の頬に強く押し当てられている。
「や、やめろ。落ち着け。どうするつもりなんだよ」
そう言いながら、卓真はそこから一歩だけ後退した。今は男の指示通りにするしかないのだ。
「詩織だ、詩織」
男が奇声を発する。
「あいつを今すぐ連れてこい。このガキの命と引き換えだ」
「だ、だから、言ってるじゃないか。わからないんだよ、彼女の居場所が」
男は、卓真の言葉を無視するように、今度は孝子に向かって怒鳴り声を上げた。
「電話してみろ。さっきのあれ、詩織からだったんだろ?」
「ち、違う。本当に違うんだってば」と、孝子が激しくかぶりを振る。
「嘘をつけ!」
男の怒声に、大也の、ううっという呻き声が重なった。その苦しげな呻きが、頬に押し当てられている銃口によるものなのか、首を締めつけている男の腕によるものなのか、卓真には判断がつかなかった。今の卓真に判断できるのは、今回灯った赤信号は、ちょっとやそっとじゃ青には切り替わらない、ということだけだった。
「孝子ちゃん、携帯電話、見せてあげたらどうかな」
孝子がこちらを向く。先ほどの電話が誰からなのか。彼女の表情からそれを読み取ろうとしたが、卓真にはよくわからなかった。
「そ、そうね」と、近くにいた理津子が口を挟んできた。「よくわからないけど、電話見せてあげたら?」震える声でそう続ける。
「そうだ。さっさとこっちによこせ。このガキ、ぶっ殺してもいいのか?」
男の言葉に、部屋にいる全員が凍りついた。もう誰も動くことができない。もう誰も言葉を発することができない。
ところが、そうではなかった。それが勘違いだったということに、卓真は数秒経ってから気づくことになる。
「あれって、おもちゃよね」と栄子。
「うん。あれはおもちゃだな」と栄一。
木原親子は、凍りついてなどいなかった。
そして、事態は一変した。
二人が言う“あれ”の意味を、卓真は察した。ほぼ同時に、大也も気がついたらしい。
「うげっ」
今度の呻き声は、偽教師、いや、ストーカー男のものだった。大也の、後頭部を使っての頭突きが、男の顔面に見事炸裂したのだ。
おもちゃの拳銃が、男の手から滑り落ちる。おもちゃらしからぬ、ガッシーンという派手な音が響き渡った。
大也と入れ替わるようにして、卓真は男に飛びかかった。顔を押さえていた男の手を掴み、そのまま勢いよく押し倒す。
馬乗りになって頭突きを一発。
「父さん頑張って」
「卓真さんしっかり」
大也と孝子の声援が聞こえる。
卓真は二人分の頭突きを追加した。
「これって、もしかして本物かも」
「うん。これは間違いなく本物だな」
木原親子のやり取りが聞こえる。
卓真は頭突きをやめた。気を失いかけたからだ。
「だ、だ、誰か、け、け、け、警察を呼んでくれ。早く早く」
「あ、警察。そう、そうなんです」
甲高い声を上げたのは孝子だった。
「卓真さん。さっきの電話、警察からだったんです」
「え? な、な、な、なんだって?」
男を押さえこんだまま、卓真は後ろを振り返った。孝子が、携帯電話を耳に当てたところだった。
「もしもし、水本です。あ、はい。そうです、孝子です。ああ、やっぱりそうだったんですね。これからすぐに迎えに行きます。よかった。無事だったんですね。本当によかった。はい、どうもすみません。ああ、もう、そんなに笑わないでください……」
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