みことのいどこ 2015年03月

ホームチーム 44 勘違い

44 勘違い

 毒物混入事件。その容疑者として逮捕されたのは、元プロ野球選手だった。しかも、在籍していたのはまうんてんず。
 球団に対する逆恨みが、どうやらその犯行動機にあったらしい。
「マウンテンズの、元選手かあ」
 複雑な思いに駆られながら、大也は大きなため息とともにそう呟いた。
 テレビ画面から、ふと三人の大人たちへ目を向ける。
 ぽかんとした表情の卓真。不満げに卓真を睨みつける偽教師。その二人を見つめ、不思議そうに首を傾げる理津子。
 大也の気持ちは、ますます複雑化する一方だった。
「とりあえず、逮捕されてよかったじゃん」
 とりあえず声をかけてみた。
 真っ先に、偽教師が反応する。
「俺がやったと思ってたのかよ」
 完全に自分の役どころを忘れているようだった。
「普通そう思うだろ。お前に決まってるって」と卓真。
「せ、先生に、何てこと言ってるのよ」と理津子。
「この俺が、食い物に、毒なんか入れるわけねえだろ。こう見えても、俺は飲食店の経営者だぞ」
 興奮を抑えきれない偽教師。というより、すでに教師役は放棄してしまったらしい。
「お、落ち着いてください、先生。きゅ、急に、どうしちゃったんですか?」
 大也の目には、理津子の頭上に浮かぶ、大きなクエスチョンマークがはっきりと見えた。
「もう、こんな猿芝居はおしまいだ。俺は、教師なんかじゃ……」
 男は、そこで口を閉ざした。視線は、孝子に向けられていた。
「誰からだ?」
 その詰問には答えずに、孝子は、じっと手の中の携帯電話を見つめている。
「お母さんからじゃないのかな? それ、ちょっと先生に見せてごらん」
 男が孝子ににじり寄る。いつの間にか教師役も復活したようだ。
「と、友達。部活の後輩からです。あ、なんか、すぐに切れちゃったみたい。たぶん、間違えたんじゃないのかな」
 後ずさりしながら、孝子は、慌てて携帯電話をポケットに仕舞いこんだ。
「かけ直してみなさい。お母さん、きっと心配してるはずだ」
「だ、だから、お母さんじゃないんですって」
「先生が代わりにかけてあげよう」
「いやです」
「いいから、それ、早く渡しなさい」
「こ、こっちへ来ないで……。あ、お客さん?」
 インターホンの響きが、二人の足をストップさせた。
「誰だろう、こんな遅くに」
 一言呟いた卓真だったが、そこから動こうとはしない。
 どうするのだろう、と大也は無言で見守った。どうするべきか。卓真は今必死にそれを考えているはずだ。
「私が出るわ」
 先に動いたのは理津子だった。
「いや……」と卓真が短く発した。しかし、それ以上の言葉は続かなかった。
 全員の注目を集める中、理津子がインターホンの受話器を取る。
「はい。ええ、そうですが……。あ、いいえ。ちょ、ちょっと待ってください」
 送話部を手でふさぎ、「木原さんって方なんだけど」と、小声で卓真に告げた。
「なんで、こんな時に……」
「息子たちのことで、どうしても、もう一度だけ話し合いたいって」
「なんで、今なんだよ」
 卓真が漏らす困惑の呟きは、大也の気持ちを、そしておそらくは、孝子や偽教師の内心をも代弁する言葉だった。
「今、鍵開けますね」
 今回も、やはり理津子が最初に動き出した。これが、事情を知らない人間の強み、というものなのだろう。受話器に一声かけると、後はもうこちらを振り返ることすらなかった。
「なんだか、すごいことになってきたね」
 理津子の姿が、リビングから消えたのを見て、大也はぽつりと呟いた。
「なに呑気なこと言ってんだよ」と、すかさず卓真の声が飛んでくる。
「そうだ。お父さんの言う通りだぞ」と偽教師の声がそれに続く。
 そして、いい年下二人の男は、再び顔を付き合せることとなった。
「今のうちだ。早く庭の方から出て行けよ」
「駄目だ。お前が、あの連中を早く追い出せ」
「あいつが、俺の言うこと素直に聞くわけねえだろ」
「情けねえ男だな。元女房なんだろ」
「お前にだけは言われたくねえよ。元暴力夫め」
「うるせえ。昔はそうでも、今の俺は生まれ変わったんだ」
「なに言ってやがんだ。お前の場合、暴力夫から、ストーカー男に変化しただけだろ」
「お前はどうなんだよ。ずっと情けねえ男のまんまじゃねえか」
「いいから、早く出て行けよ。うんこ野郎」
「うんこはお前の方だ。情けねえうんこ男め」
「そんなことより」と、孝子が二人の間に割って入った。「これからどうするのよ。このまま芝居を続けるつもり? その木原さんっていうの、大也君と同じクラスなんでしょ? それなら、もう誤魔化しきかないんじゃないの?」
 もっともな指摘だった。大也も、すぐにその意味に気づかされた。
 しかし、しょせん時間を止めることなどできない。首を傾げる二人の大人に、その意味を正しく伝える余裕はなかった。
「お、俺と同じクラスってことは、同じ……」
 言いかけた大也の耳に、リビングへと近づいてくる足音、そして理津子の話し声が聞こえてきた。
「ちょうどよかった。私も今、息子のことで大事な話をしていたところだったんですよ」

 卓真は、ドアの方向へと一歩前進していた。何一つ考えがまとまらないままの行動だった。「あ、どうもどうも」と中途半端な挨拶を、中途半端な笑顔で言う。
「こんな遅い時間に、失礼だとは思ったんですが」
 木原守の母、栄子がぺこりと頭を下げる。彼女の後ろには、守の祖父、栄一の姿もあった。
「驚かれたでしょ?」と理津子が苦笑する。「うち、なぜか今日はすごく賑やかなことになっちゃってて」
 まるで、ここが我が家ででもあるかのような口ぶりだ。
 一方、正式な家の主人である卓真はというと、今はただ黙って突っ立っていることしかできない。情けねえ男。先ほど男から言われたその言葉が、苦々しさとともに蘇ってくる。
「こちらが、息子と同じクラスの、ええと、あ、そうそう、秋本さん」
 そう理津子に紹介され、孝子は弾かれたように頭を下げた。
 秋本。偽名はそれで合っていただろうか。卓真にはもう思い出せない。たぶん孝子もそうなのだろう。いったん下げた頭を、なかなか上げようとしないのはそのせいに違いない。
「それから……」
 理津子の視線が、今度は偽教師へと移った。
「息子のクラスで、今担任をして……」
 そこで、唐突に言葉が途切れる。
 名前を忘れたのだろうか、と卓真は思った。こちらにその名前を確認されても困る、とも思った。
 しかし、そうではなかったらしい。
「私ったら、何言ってるのかしら」
 そう言うなり、理津子が急に笑い出したのである。
「木原さんの息子さんも、同じクラスだったのよねえ」
 笑いの意味を理解するまで、卓真には数秒の時間が必要だった。
「初めまして、白鳥というものです」
 偽教師には、たぶんそれ以上の時間が必要だったのだろう。微笑む彼を前に、栄子の表情がみるみる曇っていく。
「そうそう。白鳥先生でしたわね」と、くすくす笑いが止まらない理津子。
 しかし、栄子の次の言葉が、理津子からその笑いを奪い取ることとなった。
「担任の先生、いつお代わりになったんですか?」
 短い沈黙。
 そして、青ざめる偽教師。
 卓真は助け舟を出すことにした。
「た、確か、二週間前、ぐらいでしたよね」
「息子のことで、私、三日前に相談をしに……」
 ぜんぜん助け舟にはなっていなかった。
「ど、どういうこと?」と首を傾げる理津子。
「あなたは、誰なんですか?」と詰問口調になる栄子。
「ああ、最悪」と小声を漏らす孝子。
「おじいちゃん、膝の具合どうなの?」と老人をいたわる大也。
「もう大丈夫だ。アロエが効いたらしい」とうれしそうに答える栄一。
 青ざめていた男の顔色が、今度はみるみる赤くなっていく。
 危険な精神状態を示す、それはまさに赤信号そのものに見えた。
「じ、実は、みんなを驚かそうと思って……」
 卓真は、はははと笑いながら、「これ、どっきりですよ、どっきり」と早口で続けた。
 しかし、次の瞬間には、そう言った卓真自身が、一番驚かされることとなった。一番どっきりさせられることとなった。
「みんな、そこから下がれ!」
 怒鳴り声。そしてテーブルを蹴り飛ばす音。
 男の行動は素早かった。大也の腕を掴んだかと思うと、そのまま強引にテレビの前に立たせた。
「下手な真似したら、ズドンだぞ」と、大也の背後から男が叫ぶ。片手に握られているのは拳銃だ。手提げ鞄から取り出したのだろう。今はその銃口が、大也の頬に強く押し当てられている。
「や、やめろ。落ち着け。どうするつもりなんだよ」
 そう言いながら、卓真はそこから一歩だけ後退した。今は男の指示通りにするしかないのだ。
「詩織だ、詩織」
 男が奇声を発する。
「あいつを今すぐ連れてこい。このガキの命と引き換えだ」
「だ、だから、言ってるじゃないか。わからないんだよ、彼女の居場所が」
 男は、卓真の言葉を無視するように、今度は孝子に向かって怒鳴り声を上げた。
「電話してみろ。さっきのあれ、詩織からだったんだろ?」
「ち、違う。本当に違うんだってば」と、孝子が激しくかぶりを振る。
「嘘をつけ!」
 男の怒声に、大也の、ううっという呻き声が重なった。その苦しげな呻きが、頬に押し当てられている銃口によるものなのか、首を締めつけている男の腕によるものなのか、卓真には判断がつかなかった。今の卓真に判断できるのは、今回灯った赤信号は、ちょっとやそっとじゃ青には切り替わらない、ということだけだった。
「孝子ちゃん、携帯電話、見せてあげたらどうかな」
 孝子がこちらを向く。先ほどの電話が誰からなのか。彼女の表情からそれを読み取ろうとしたが、卓真にはよくわからなかった。
「そ、そうね」と、近くにいた理津子が口を挟んできた。「よくわからないけど、電話見せてあげたら?」震える声でそう続ける。
「そうだ。さっさとこっちによこせ。このガキ、ぶっ殺してもいいのか?」
 男の言葉に、部屋にいる全員が凍りついた。もう誰も動くことができない。もう誰も言葉を発することができない。
 ところが、そうではなかった。それが勘違いだったということに、卓真は数秒経ってから気づくことになる。
「あれって、おもちゃよね」と栄子。
「うん。あれはおもちゃだな」と栄一。
 木原親子は、凍りついてなどいなかった。
 そして、事態は一変した。
 二人が言う“あれ”の意味を、卓真は察した。ほぼ同時に、大也も気がついたらしい。
「うげっ」
 今度の呻き声は、偽教師、いや、ストーカー男のものだった。大也の、後頭部を使っての頭突きが、男の顔面に見事炸裂したのだ。
 おもちゃの拳銃が、男の手から滑り落ちる。おもちゃらしからぬ、ガッシーンという派手な音が響き渡った。
 大也と入れ替わるようにして、卓真は男に飛びかかった。顔を押さえていた男の手を掴み、そのまま勢いよく押し倒す。
 馬乗りになって頭突きを一発。
「父さん頑張って」
「卓真さんしっかり」
 大也と孝子の声援が聞こえる。
 卓真は二人分の頭突きを追加した。
「これって、もしかして本物かも」
「うん。これは間違いなく本物だな」
 木原親子のやり取りが聞こえる。
 卓真は頭突きをやめた。気を失いかけたからだ。
「だ、だ、誰か、け、け、け、警察を呼んでくれ。早く早く」
「あ、警察。そう、そうなんです」
 甲高い声を上げたのは孝子だった。
「卓真さん。さっきの電話、警察からだったんです」
「え? な、な、な、なんだって?」
 男を押さえこんだまま、卓真は後ろを振り返った。孝子が、携帯電話を耳に当てたところだった。
「もしもし、水本です。あ、はい。そうです、孝子です。ああ、やっぱりそうだったんですね。これからすぐに迎えに行きます。よかった。無事だったんですね。本当によかった。はい、どうもすみません。ああ、もう、そんなに笑わないでください……」

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次回、最終話となります。

45 新しいチーム
ホームチーム 目次

ホームチーム 43 我慢比べ

43 我慢比べ

 孝子は、ティーカップを置くと、大也に向かって小声で話しかけた。
「凄いことになっちゃってるね」
 何気なさを装って、ソファーの左端まで身体を移動させる。右側にはストーカー男、偽中学教師が座っている。彼と距離を取ろうと思えば、今はこれぐらいの手段しかないだろう。
「す、凄い?」
 大也が声を上ずらせたのは、ほんの一瞬のことだった。「ああ、野球のことだよね」とすぐに理解を示す。
「なんだか、決着つきそうもない感じ」
「うん、このまま引き分けっぽいね」と、大也がテレビを見つめたままで答える。
「私、引き分けって大嫌いなの。勝つか負けるか、とにかくはっきりさせてほしい。誰か、ガツンッと大きいの打ってくれないかなあ」
「こういう試合は、たいていミスした方が負けなんだ。今は我慢比べだよ」
「我慢比べねえ」
 ため息混じりにそう言うと、孝子はちらりと三人の大人たちに目をやった。
 理津子、卓真、偽教師。いずれの手にもティーカップが持たれ、いずれの表情にも、どこか気まずさのようなものが感じられる。我慢比べ。まさに今がその最中なのだろう。
「ところで……」
 我慢しきれず、といった風に理津子が口を開いた。
「今日は、どうして先生が?」
 視線の先にいるのは、もちろん偽担任教師である。
「そ、それはですねえ。つまり、詳しいことはちょっと……。個人情報というのもありますし……」
「個人情報といっても、私は母親なんですよ。あの子、大也についてのことでいらしたんですよね。違うんですか? そうでしょ。そうなら、はっきり言ってください。私には聞く権利があります。うちの子、何かしたんですか? ねえ、先生。はっきりおっしゃってください」
 冷や汗を流し、困惑に顔を歪める偽教師。
 いい気味だ、と思わずほくそ笑みそうになる孝子だったが、そんな愉快な気持ちは、一瞬で終わりを迎えることとなった。
「ま、まさか……」
 理津子の声音に、突然の変化が生じる。「あなたたち……」と声を震わせながら、孝子と大也を交互に見つめた。
 彼女の中で、何らかのひらめきがあったらしい。
 孝子はごくりと唾を呑みこみ、理津子の次なる言葉を待った。
「妊娠……」
「違います」
 速攻で否定した。そして、反射的に立ちあがっていた。
「じゃ、じゃあ、どうしてよ。どうして、こんな遅くに先生と生徒が……」
 孝子に釣られたかのように、理津子も椅子から腰を上げる。
「おい、二人とも、落ち着けよ。なあ、お、落ち着けったら」
 慌てふためく卓真。
「とりあえず、二人とも落ち着いてください。私が今説明しますから」
 与えられた役を、冷静に演じ切る偽教師。
「実はですねえ……」
 二人が座るのを待ってから、彼は静かに話し始めた。
「家に帰るように、今彼女を説得していたところなんです。どうやら、お父さんと喧嘩したらしくて……。まあ、この年代の女の子は、とかく父親に対して反抗的になるものですからね。何があったにせよ、とにかく話し合うこと。逃げてばかりいても、絶対に解決などしない。彼女に今そう言い聞かせていたんですよ。お父さんにだって、きっと言い分があるはずだってね。親といえども、完璧な人間などいません。彼女に今必要なのは、聞く耳を持つことです。人を許せるかどうかは、まずそこからじゃないでしょうか。家出はいけませんよ、家出は。今頃、ご両親がどれだけ心配していることか。火野さんにも、これ以上迷惑はかけられませんしね。これから私が、責任を持って彼女を……」

 卓真は、ちらりと右隣に目をやった。
 男の熱弁を、理津子が感心したような表情で聞き入っている。まあ、なんて素敵な先生なの。そう言わんばかりの顔つきだ。
「私、父を許すことは、永遠にないと思います」
 きっぱりとした孝子の言葉が、男の話を中断させた。
「まあ」と、思わず声を漏らす理津子。なんて可愛げのない娘なの。今度はそんな顔つきだ。
「とにかく、白鳥先生……」
 白鳥、で合っていただろうか。そう思いながら、卓真は早口で続けた。
「今日のところは、もう遅いですし、先生もお忙しいでしょうし、あ、秋本さんは、今夜うちで預かりますから……」
 秋本、で合っていただろうか。そう思いながら、卓真は半笑いしながら、「先生の方は、もうそろそろお引き取り願えれば」と続けた。さっさと帰れ、このハゲタカ野郎め、と心の中で付け加える。
「いいえ。これは担任としての責任、いや、それだけじゃない。これは、秋本さんの将来に関わることでもあるんです」
「そうね。私もそう思う。もしかしたら、これをきっかけに、謝った道に進んでしまうかもしれないんだから」
 理津子が、すかさず偽教師の意見に同意する。
「お前は黙ってろよ」
「あなたこそ黙ってなさいよ」
 卓真は黙っていることにした。もうどうにでもなれ。そんな気分だった。
「あなたねえ……」
 理津子の射るような視線が、今度は孝子に向けられた。
「家庭で何があったかわからないけど、家を出て、それからどうするつもりだったの? あなた、ちゃんとその先まで考えてるっていうの?」
 孝子も負けてはいなかった。
「父親なんていりません。そんなのいなくたって、私、何とか生きていけます」
「どうやって生きてくつもり? 具体的に言ってみなさいよ」
「おばさんに言う必要ありませんから」
「どうせ、あなたみたいな子、援助交際だとか、アダルトビデオだとか、その程度のことでしか、生きてく手段なんてないのよ。あ、そうそう。アダルトビデオで思い出したけど、あんなものに一度でも出たら、もう一生幸せになんてなれないわよ。とうぜん親になる資格もなければ、再婚だってできるわけないんだから。そんなの無理無理。世間が許しても、私が許さない」
「お、お前、いい加減にしろよ」
 もう我慢の限界だった。
「帰れ。今日は、もう帰ってくれ」
 腰を上げた卓真を見て、理津子は再び立ち上がった。続いて偽教師。さらには孝子も席を立つ。
「帰れ」と卓真。
「いやよ」と理津子。
「喧嘩はいけません、喧嘩は」と偽教師。
「あんたに、そんなこと言う資格ないでしょ」と孝子。
「父さん、あれ見て」と大也。
「え?」
 卓真に続いて、全員の目が、大也の指差す方向を見た。
 テレビ画面。すでに野球中継は終了している。
『ええ、もう一度繰り返します。ただ今入りました情報によると、一連の毒物混入事件、その容疑者が、先ほど……』
 速報を告げるニュースキャスター。それを先回りするかのように、大也が「逮捕だって、逮捕」と興奮気味に言った。
 卓真の視線が、テレビから偽教師へと移る。
「お前じゃなかったのかあ」
 ほとんど無意識に呟いていた。

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44 勘違い
ホームチーム 目次

ホームチーム 42 秘策

42 秘策

 わずか数秒のうちに、それはすべて孝子の目の前で起こった。
 部屋の窓に向かって、猛然と走り出す卓真。
 かつらを拾い上げるストーカー男。
 カーテンを押さえる卓真。
 ナイフを手に、卓真の背後に近づく男。
「危ない!」という大也の叫び声。
「開けなさい!」という女の叫び声。
 踵を返し、大也の背後に屈みこむ男。
「カーテンが、引っかかっちゃってさあ」という卓真の引きつった笑い声。
 縛られていたロープが切られ、自由の身となった大也。
 ソファーに戻り、身なりを整える男。
 卓真を押しのけ、部屋に上がりこんでくる女。
「オメデトウ」というマリンの場違いな一言。
 この間、孝子自身何もしなかったわけではない。一つ重要な役割を果たしていた。男が身なりを整えている、その一瞬の隙をついた行動だった。
 孝子の手の平と、男の頬の間で炸裂したその音は、おそらく全員の耳に届いていたことだろう。それだけ豪快な一撃だった。そして、孝子の胸をすっきりさせる一撃でもあった。
「事情を知った以上、このまま帰れるわけないでしょ。どうして、今まで黙ってたのよ。そのこと、大也には話したの? ちゃんとそれを知ってて……」
 女はそこで口を閉ざした。卓真以外の人物の存在を、ようやく認識することができたらしい。
「しょ、紹介するよ。妻、元妻だ。り、理津子、さんだ。それから……」
 卓真の声もそこで途切れた。手をストーカー男に向け、そのまま凍りついたように静止している。
 どうしたらいいだろう。彼の目は、孝子に向かってそう訴えかけていた。
 その視線から逃れるように、孝子は大也の方を見やった。どうしたらいいと思う? 同じように目で訴える。
 今度は大也が視線を逸らす番だった。すぐに男の方を向き、どうしたらいいんでしょうね、という表情を作って見せる。
「どなたたちなの?」
 理津子がそう言ったのは、ストーカー男が、お前ならどうする? という視線をマリンに向けた時だった。
「ど、どなたたちって……。お前の息子じゃないか。忘れたのか? 大也だ。野球大好き火野大也君だ」
 卓真の、はははっという豪快な笑い声は、理津子の「ふざけないで」という一喝によって、すぐに勢いをなくしていった。
「は、初めまして」
 孝子は助け舟を出すことにした。頭を下げる瞬間、ちらりとテレビ画面が目の端に映った。
「私、夏木といいます。火野君と同じクラスの……」
 延長十回の表、相手チームの攻撃を、夏木投手がぴしゃりとノーヒットで押さえたところだった。
「まあ、そうだったの。へえ、でも中学一年にしては、あなたずいぶんと大人っぽいのね」
 ここで初めて理津子の顔に笑みが浮かんだ。
「今の子は、みんな大人っぽいよ。大也がガキンチョすぎるんだ」
 卓真にも元気が蘇ってきた。そして、その笑顔のまま、今度はストーカー男を紹介した。
「先生だよ。二人のクラス担任の……と、鳥越先生だ」
 彼の瞳の中には、きっとマリンの姿が映っていたのだろう。これで、ひとまず配役は決定した。
「そうでしたか。初めまして、私が大也の母です。世界で唯一の母です」
 深々と頭を下げる理津子。
「そうですか。お母様でしたか。世界で唯一の。そうでしょうそうでしょう」
 にこやかに応じる偽教師。泣き腫らした目。しわくちゃのズボン。少し位置のずれたかつら。そして、手の平の跡を、くっきりと頬に浮き出させた偽教師である。
 顔を上げてから、理津子は言った。
「ずいぶんと、個性的な先生なんですね」
 その通りだった。

『大胆な作戦に打って出たマウンテンズ。果たしてこの秘策、吉と出るのか、凶と出るのか』
 実況アナウンサーが言う“秘策”とは、明日先発予定だった夏木投手を、延長十回表のマウンドに立たせたことを差していた。
 いつもの大也であれば、球場にいるマウンテンズファン同様、この展開に驚きの声を上げていたに違いない。
 しかし、今はいつもの大也ではなかった。現在の火野家での状況。それこそが驚きなのだ。孝子が同級生を演じ、ストーカー男が担任教師を演じる。果たしてこの秘策、吉と出るのか、凶と出るのか。というより、こんなことに何か意味があるのだろうか。
「正体がばれないうちに、早いとこ帰った方がいいんじゃないのか?」
「駄目だ。詩織の行方がわかるまでは、絶対に帰るわけにいかない」
 卓真と偽教師は、激しく言い争っていた。ただし、互いに顔を近づけ、互いに声を潜めての言い争いだった。
 理津子がキッチンから戻ってくる、ごくわずかな時間内に、なんとしてでも決着をつけなければ、というのが、今の二人の共通する思いなのだろう。大也にも、それは十分に理解できた。
 しかし、問題はその話の内容である。
「あんたも、本当にしつこい男だなあ」
「うるせえ。このしつこさは、詩織に対する愛の証だ」
「開き直るなよ、このストーカー野郎。屁理屈ばっかり言いやがって」
「お前こそなんだよ。部下に手を出す、ただのセクハラ上司のくせに」
「セクハラなんかじゃねえ。俺と彼女は両想いなんだ。お前と違ってな」
「相手の居場所もわからないで、両想いもクソもねえだろうが」
「黙れ、バツイチ」
「お前もバツイチだろ」
「くそったれの、変態かつら野郎」
「くそったれはお前の方だ。その顔の真ん中についてるものは何だ? 犬のうんこじゃないのか?」
「俺は鼻だけだが、お前の場合は、身体の三分の二がうんこでできている」
「今何か言ったか? ブリブリッとしか聞こえなかったが」
 これでは、まるで子供の喧嘩ではないか。
 そばにいる孝子も、こちらにうんざりとした顔を向けてきた。「大人たちに任せても、無理みたい」と小さく呟く。
 大也も同感だった。
 そして、二人が小声で言い争っているこの隙に、自分の力でどうにかできないだろうか、と考えた。
 あのナイフは、どこへ行ってしまったのだろう。ロープを切った後、男がそれをどうしたのかが思い出せない。鞄の中だろうか。男が持ってきた手提げ鞄なら、今でもテーブルの下に置いたままだ。
 武器になるような物を、まだ何か他にも持っているのだろうか。手を伸ばしさえすれば、鞄を奪い取ることぐらいはできそうだ。それとも、三人がかりで、男を押さえこんだ方が……。
「すみません。お待たせしちゃって」
 理津子の登場により、大也の思考はあっけなく中断された。
「大切なお客様に、お茶もお出ししないなんて」
 元夫を軽く睨みつけてから、理津子は偽教師と偽中学生に笑顔を向けた。トレーからテーブルへ、手早くティーカップを並べはじめる。
「紅茶ぐらいしかなくて、本当にすみません。大也、あんたはココアでいいのね?」
 大也は黙ってうなずいた。孝子も無言のまま頭を下げた。
 そして、卓真と偽教師は、二人揃って額の汗を拭った。

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この連載も、いよいよ残り3回となりました。
長い一日になりましたが、もう少しだけお付き合いください。

43 我慢比べ
ホームチーム 目次

ホームチーム 41 困惑

41 困惑

『ピンチを脱したマウンテンズ。同点のまま、いよいよ九回裏の攻撃に入ります』
 実況アナウンサーが言う通り、今日のマウンテンズは、初回からピンチの連続だった。大量点を奪われてしまったハル・オースティン。退場になってしまった監督。どうにか同点には追いついたものの、九回表までに五人ものピッチャーを継ぎこんでしまった。これはどう見ても、延長戦を意識しての采配とは違う。
 さよならゲーム。そう。何が何でも九回で決着をつける、というのが、マウンテンズに関わるすべての人たちの願いだった。
 大也も、もちろんその中の一人である。
 マウンテンズ、頼む。さよならで決めてくれ。
 心の中でひたすら願った。
 ストーカーおじさん、もう出て行ってくれ。早くさよならしてくれ。
 ついでにそのことも願っておいた。
「今日のところは、おとなしく出て行ってくれないか」
 携帯電話を耳に当てながら、卓真は男に向かって言った。大也の願いを、代弁するかのような言葉だった。
「いったんお開きってことで、どうかな?」
 やはり緊張しているのだろう。おどけたその口調とは裏腹に、携帯を持つ手は、先ほどから震えっぱなしになっている。
 男の指示により、卓真と孝子は、二人並んでドアの前に座っていた。椅子は、キッチンから持ってきたものだ。
「やっぱり通じないようだ。そっちはどう?」
 卓真が隣に目をやる。
「こっちも駄目みたい」
 淡々とした口調で孝子が答える。
 そして二人は、ストーカー男の反応を窺いながら、ゆっくりと携帯電話を耳から離した。
「いないんだから、しょうがないじゃない」
 孝子の口ぶりが、刺々しいものに変化した。
「畜生」と、男が呻くように呟く。
 詩織に電話してみろ。二人にそう指示したのは、これで三回目だった。
「ああ、どこへ、消えちまったっていうんだよ」
 苦しげに吐き捨てると、男は両手で頭を抱えこんだ。
 ナイフはテーブルの上。縛られてさえいなければ、大也の手の届く位置にそれはある。テーブルの下には、男が持ってきた手提げ鞄。中身に何があるのかはわからない。ナイフ以外の凶器。その可能性も十分考えられる。
 何か打開策はないだろうか。
 素早く室内を見渡しながら、大也は必死になって考えた。
 卓真と孝子、二人は縛られていない。しかし、男を取り押さえるには、そこからでは距離がありすぎる。
 庭に面した窓。そこに一番近いのは大也だ。鍵は? 窓の鍵は閉めてあっただろうか。うまく思い出せない。仮に鍵がかかっていなかったとしても、やはり、ソファーに縛られたままでは……。
「いい加減、あきらめなさいよ」
 孝子の叫び声が、大也の思考を一気に吹き飛ばす。そちらを見ると、対照的な二人の姿が目に入った。立ち上がり、瞳に怒りの炎を燃やしている孝子と、驚きに目を丸くし、今にも椅子からひっくり返りそうになっている卓真である。

「お、落ち着くんだ。孝子ちゃん、とにかく、一度席に戻ろう」
 卓真は、倒れこむようにして孝子を抱きすくめた。「落ち着こう。とりあえず落ち着こう」と必死に言い聞かせる。
「出て行かないんなら、私が力ずくで追い出してやる」
 興奮が収まらない孝子。
「なんて口の聞き方してるんだ。俺は、お前の父親だぞ」
 再び手にナイフを構えたストーカー男。
「ワタシハ、マリンデス」
 マイペースを貫くマリン。
 大也も何か言ったようだが、その意味はよくわからない。なあー。やややっ。むおうおう。卓真の耳には、そんな風に聞こえた。頑張れ父さん。たぶんそう言いたいのだろう。そう言いたいに違いない。
「おい! みんな落ち着け!」
 自分でも驚くほどの大声が出た。
「孝子。さあ、おとなしく座るんだ。あなたもだ。話し合いたいというのなら、その物騒なものを、まずテーブルに置きなさい。マリン。少し静かにしてろ。お前がマリンだということは、すでにみんな知っているぞ。大也。それ以上何もしゃべるな。お前が言いたいこと、父さんにはわかったぞ。おそらく、わかったのは父さんだけだ」
 毅然とした卓真の物言いが、部屋にいる全員を沈黙させた。
 椅子に腰を下ろした孝子を見て、卓真もゆっくりとその隣に座り直す。そして、男に向かって穏やかに告げた。
「さあ、話し合おうじゃないか。これからどうするべきかをね」
「ああ、わかった。こっちだって、手荒な真似をするつもりはないんだ」
 テーブルの上にナイフを置くと、男は、「悪いのは俺じゃない。娘の方だ。そいつが俺にナイフを持たせたんじゃないか」と言いわけ口調で続けた。
 孝子の表情が再び厳しくなる。しかし、その口が開くことはなかった。
 代わりに卓真が言った。
「彼女、詩織さんに会って、何を話すつもりだったのかなあ」
「わかってほしかったんだ」と男が即答する。
「わかってほしいって、何を?」
「変わったってことをだよ。俺は、もう昔の俺じゃない。そのことを説明したかったんだ」
「そのー……。説明して、詩織さんが理解さえすれば、それで、納得してもらえるのか? 変わったってこと、わかってもらえただけでいいのか?」
「そうだよ。後は、詩織がどっちを選ぶか決めればいい」
 どっちとは? そう言いかけたが、実際は口に出さなかった。確かめるまでもないことだったからだ。つまりは、そう。自分にもまだ望みが残されている。というより、自分が選ばれる確率は、限りなく百パーセントに近い。そう思いこんでいるのだろう。いかにもストーカーが抱きそうな、身勝手で危険な幻想だった。
「ママは……」
 ここで孝子が口を開いた。幸い、先ほどとは違う落ち着いた口調だ。
「もう約束してるの。卓真さんとの結婚をね」
 男は口を開きかけたが、なかなか言葉は出てこなかった。
 危険な状態へ逆戻りか、と思いかけた卓真の目に、予想外の光景が飛びこんできた。
「チャ、チャンスぐらい、くれたっていいじゃないか」
 男の涙声。しかもそれは、声だけではなく、実際に瞳から大粒の涙を流していた。
 それ以上に卓真を驚かせたのが、男の取った行動だった。頭に手をやったかと思うと、いきなり髪の毛をカーペットに叩きつけたのである。
 かつら、と認識するまでに数秒かかった。どうしてそんなことを? それを理解するのには、さらなる時間を必要とした。
「こ、こんなにも、猛反省してるっていうのに……」
 男がかすれ声で教えてくれた。反省のための坊主頭、ということらしい。彼は知らないのだろう。こういった反省の表し方が、周りをもっとも困惑させるのだということを。
「これを、これを見てくれ」
 男の奇行は続く。
 ズボンの裾をまくり上げると、露わになった両膝をこちらへ向けた。
 右膝には、“詩”の文字。左膝には、“織”の文字。
「これが俺の気持ちだ。痛かったんだぞ、これ」
 どうやら刺青らしい。
 卓真は返答に困った。隣にいる孝子も同じ気持ちのようだ。何か、見てはいけないものを見てしまった。そんな表情を浮かべている。
「えーっと……。手紙、そうそう。あの手紙についてだが……」
 卓真は話題を変えることにした。もうこれ以上、おかしなものは見せられたくない。
「嘘の内容も、ずいぶんとあったんじゃないのかな」
「好きで嘘を書いたんじゃない。俺を追いつめた、お前たちが悪いんじゃないか。そうだ。お前たちが、俺に嘘を書かせたんだよ」
 ひどい屁理屈が返ってきた。
「あのなあ。そういう風に、何でもかんでも人のせいにして……」
 そこまで言って、卓真は言葉を切った。インターホンが鳴ったからだ。
 全員が動きを止める。
「しつこいな」
 鳴りやまないインターホンを睨みつけながら、男が苛立たしげに呟く。自分のしつこさを、棚に上げての発言だった。
「どうしたらいい?」
 卓真は男に尋ねた。
「誰か、来る予定でもあったのか?」
「いや、なかったはずだ」
 正直にそう答えた。
 インターホンはまだ鳴りやまない。
「一度出て、追い返した方が早いんじゃないのかな」
 卓真の提案に、男がやむを得ないといった調子でうなずいた。「わかってると思うが、余計なことはしゃべるんじゃないぞ」と念を押す。
「ああ、大丈夫だ。すぐに追い返すから」
 インターホンの受話器を取ると、卓真の耳に、聞き覚えのある声が飛びこんできた。
『私、理津子よ。大也を迎えに来たわ』
 別れた妻だった。
「ど、どうしたんだよ、突然」
『どうしたのじゃないでしょ。あなたが提案したことじゃない』
「そう、そうだけど、何でいきなり……」
『わかったからよ。詩織って人の正体が。あの子の新しいお母さんとしては、最悪の女だってことがね』
 誰からそんなことを? 心の中で呟き、卓真は頭をフル回転させた。
 答えはすぐに出た。
 犯人は、酒井翔子です。
 スーパーコンピューターなみの、速さと正確さだった。
「い、今は、ちょっとまずいんだ」
 焦る卓真の背後から、「誰なんだよ。早く追い返せ」という声が飛んできた。ストーカー男が、再び危険な精神状態になりかけているのだ。
『早く玄関開けてよ。AV女優なんかが、いいお母さんになれるわけないでしょ。あの子は、私のところで育てるわ。早くここ開けなさいったら。大也を守ってあげられるのは、私しか……』
「それについては、後だ。あ、後で話し合おう。とにかく今は駄目なんだ。いいな。切るぞ。また、改めてってことでいいな。いいよな。き、切るぞ。もう切っちゃうからな」
 めまいがしそうだった。
 受話器を戻し、卓真はふらふらと後ろを振り返った。
「切ったぞ。これでよかったんだな?」
「いったい今の誰だったんだ? 知り合いみたいだったけど、まさか、警察ってことはないだろうな。どんなことしゃべって……」
 男が言い終らないうちに、部屋にいる全員が、その異変に気がついた。
「ここ開けなさい!」
 その叫び声は、庭の方向から聞こえた。ほとんど間を置かずして、今度は激しく窓ガラスが叩かれた。
 まずい、鍵が……。
 そう卓真が思った時には、すでにリビングの窓は、ガラガラという音を響かせ始めていた。

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42 秘策
ホームチーム 目次

ホームチーム 40 鍵

40 鍵

 七回の裏、マウンテンズの攻撃。同点打となるはずのホームランが、審判団の協議によってファールと訂正された。
 客席からの激しいブーイング。審判に詰め寄るマウンテンズの監督。
「おせえなあ」
 抗議の声が、テレビとは反対の方向からも聞こえてきた。
 そちらを振り向くことなく、大也は試合の行方を見守り続ける。今耳にした、“おせえ”は、試合再開のことを言ったものではない。卓真たち三人の到着。それについての“おせえ”に違いないのだ。
「おい、坊主」
 乱暴な口調で呼ばれ、大也はやむを得ず右方向へと首をひねった。ずっと左側ばかり向いていたせいか、首筋にちょっとした痛みが走る。
 訪問者、いや、不法侵入のストーカー男が、ふんっと鼻で笑ったのは、大也の首が、ポキポキッという間の抜けた音を鳴らしたからだろう。本当に不愉快な男だ。嫌われて当然の人間だ。
「お前は、おせえと思わねえか? おやじの野郎、ビビって逃げちまったんじゃねえかな。お前のこと見捨ててよお」
「そんなわけないじゃん」
 大也は即答した。こんな男としゃべりたくなどないが、卓真のことを馬鹿にされては、このまま黙っているわけにはいかない。
「父さん、そんな弱虫なんかじゃないよ。卑怯者でもないしね」
 おじさんと違って、という言葉を、心の中だけで付け加える。
「まあ、その辺は、会ってみりゃあわかることだがな。おっ、退場になったようだな」
 えっ? と思い、大也は再び反対方向へと首をひねった。
 テレビカメラがマウンテンズベンチを捕えていた。監督の姿はない。あるのは、選手とコーチの姿だけ。深刻さを顔に滲ませ、何事かを早口で言い合っている。
『どうやら、間もなく試合が再開されそうです。ファール判定は変わらず。監督は退場処分。ええと、マウンテンズ側は、助監督が代わりに指揮を取る、ということでいいんですね。はい。ええ、今入った情報によりますと、審判員一名も、どうやら交代になりそうです。先ほど、強烈な頭突きを受けてましたからねえ。怪我の具合が心配です。マウンテンズベンチには、もう監督の姿はありませんね。はい。試合再開、間もなくだと思われます。球場のざわめきは、未だに収まりそうもありません』
 やや興奮気味の口調で、現在の状況を整理する実況アナウンサー。
『それにしても、暴力はいけませんな、暴力は』
 解説者がそう言葉を挟むと、すぐさま、別の方向からも声が飛んできた。
「監督だって、好きで暴力を振るったわけじゃねえだろ。悪いのは、暴力を振るわせる周りのやつらじゃねえか」
 さすがは、元暴力夫、と思わず褒めてしまいたくなるような屁理屈だった。
「父さんのこと……」
 テレビ画面を見つめたまま、大也は、「どうする気なのさ」と男に尋ねた。
「どうするもこうするも、お前のおやじしだいだよ」
「それって、自分の言う通りにしないと、暴力振るうってことなの?」
「心配するな。話をつけるだけだ。向こうが下手な真似しなければ、俺だって何にもしねえよ」
「何を話すっていうのさ」
「ガキには理解できねえことだよ。大人の世界の話だ」
「諦めなよ。詩織さん、もうおじさんのところへは戻る気ないんだからさ」
 これはまずかったかな、と発言した直後に思った。ロープで縛りつけられていなければ、反射的に防御の体勢を取っていたことだろう。
 歯を食いしばり、目を堅く閉じる。それが、今の大也にできるすべてだった。
 ええ、今入った情報によりますと、火野大也、たった今息を引き取ったとのことです。
 そんなアナウンサーの声が聞こえてきそうだった。
 昔から、口は災いの門と言いますからなあ。
 そんな解説者の声も聞こえてきそうだった。
 しかし、実際はちがった。聞こえてきたのは、大也が予想にもしない言葉だった。
「お前、どうしておやじの方を選んだんだ?」
 男の声音に、怒りの響きは感じられない。
 大也は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。質問の意味がわからず、「え、選ぶ?」と恐る恐る聞き返す。
「離婚した時の話だよ。お前の親、そうなんだろ? 何でおやじだったんだ? 子供ってのは、普通おふくろの方選ぶだろ」

 卓真は、ズボンのポケットから鍵を取り出した。
「インターホンで知らせた方が……」
 背後の声に、伸ばしかけた腕を止める。
「あ、そうだな、きっと」
  卓真は、振り返って孝子に微笑んで見せた。顔の筋肉が引きつって、苦しげな笑顔になってしまったかもしれない。
「庭の方から、中の様子覗けませんか?」と再び孝子。
「あ、そうか」
 卓真の手が、インターホンの直前でUターンする。
「ちょっと行って見てくるから、孝子ちゃんはここで……」
「私も行きます」
 そりゃそうだろうな、と卓真はあっさりと説得を断念した。自分なんかよりも、彼女の方が、よっぽど冷静で、しかも度胸満点なのだから。
 足を忍ばせ、ゆっくり庭へと周りこむ。こうしてると、自分の家だというのに、まるで敵のアジトに潜入するかのような気分がした。緊張感で、胸のざわめきがしだいに大きくなっていく。
 途中、隣家の一室が目に入った。中に誰かいるらしい。かすかに漏れ聞こえてくる音は、おそらくテレビのプロ野球中継だ。しっかりとカーテンが閉められているため、こちらの姿を怪しまれる心配はないだろう。
 マウンテンズ頑張れ。火野卓真も頑張れ。
 気合をこめるように、心の中で繰り返し呟く。
 そして、ようやく目的地へとたどり着いた。
「無駄足だったな」
 後ろを振り返り、小声で孝子に告げる。
 庭から覗いたリビングの窓には、隣家同様、しっかりとカーテンが閉められていたのである。漏れ聞こえてくる音も、やはりテレビのプロ野球中継らしかった。
「鍵は、どうなってます?」
 戻りかけた卓真を、孝子が慌てて押しとどめる。やはり、彼女の方が数倍冷静だった。
 小さくうなずき、卓真は踵を返した。今まで以上の慎重さで、リビングの窓へとにじり寄る。
 カーテンのわずかな隙間から、部屋の明かりが漏れていたため、どうにか鍵の状態を確認することができた。
「かかっていないらしい」
 そっと孝子に耳打ちする。
 そして、二人はその場に立ちつくした。
 鍵の下りていないリビングの窓。その事実を、幸運と受け止めることは卓真にはできなかった。おそらく孝子も同様だろう。これはきっと、知らなくてもいい事実だったのだ。知ってしまったことで、さらに迷いを増大させた。ただそれだけのことだったようだ。
 カーテンの隙間から、リビングの様子を窺うことはできない。窓を開け、力ずくで大也を救出する。そんなことが可能だろうか。
「やっぱり、玄関からの方が……」
 孝子が力なく囁く。彼女の頭の中でも、やはり卓真と同じ答えにたどり着いたらしい。
 とにかく、冷静に話し合うんだ。そう。冷静に、冷静に……。
 自らに言い聞かせながら、再び忍び足で玄関へ向かった。
 途中、隣家からかすかな歓声が聞こえてきた。
 マウンテンズが逆転でもしたのかもしれない。そういえば、大也も、今日の試合を特別楽しみにしていた。今頃どうしているだろう。プロ野球中継ぐらい、きちんと見せてもらっていればいいのだが。
「押すよ。いいかい?」
 うなずく孝子に向かって、卓真も力強くうなずき返した。今度は、うまく微笑むことにも成功した。
「火野だ。これから鍵開けて入るけど、いいんだな?」
『ずいぶん時間かかったじゃねえか。何か余計なことしなかっただろうな』
 インターホンから聞こえる声は、やはりあの男のものだった。その現実に、卓真の顔がたちまち熱くなる。怖さよりも、今は怒りの方が大きい。
『ちゃんと三人で……』
 相手が言い終る前に、卓真は手早く鍵を回していた。ドアを開け、「入ったぞ」と大声で告げる。
「ゆっくり歩いてこい。いいか。ゆっくりだぞ」
 男が怒鳴り返す。今度はリビングの方向からだ。
「もし、変な真似したら……」
 今度も最後まで言わせなかった。
 リビングのドアを開けると、卓真はその中へ一歩足を踏み入れた。廊下を駆けてきた孝子が、少し遅れて卓真の横に並ぶ。
「ス、ストップだ。そこで止まれ」
 男が慌てたように叫ぶ。
「ゆっくりだと言っただろうが。聞こえなかったのかよ。動くなよ。もう、そこから一歩も動くな」
 今度は言う通りにした方がよさそうだった。男は明らかに興奮している。しかも、手にはナイフ。すぐ近くには、ソファーに縛りつけられた大也がいる。
 しばらく中腰の姿勢でいた男は、やがてゆっくりとソファーに腰を落ち着けた。呼吸はまだ荒い。
「詩織は、どうしたんだ?」
「彼女はいない」
「じゃあ、今どこにいるんだよ」
「わからないんだ。本当だよ。電話も通じないし、マンションにも……」
「嘘をつけ」
 その怒鳴り声に、大也の身体が、一瞬びくっと震えた。卓真を見て、孝子を見て、ストーカー男を見て、結局、大也の視線はテレビ画面に落ち着いた。野球への興味が、現実の恐怖に打ち勝ったとでもいうのだろうか。息子の今の精神状態を、どう判断すればいいのか、卓真にはよくわからなかった。
「三人でこいと言っただろ。知ってるんだぞ。俺は見てたんだからな。嘘ついても無駄だ。俺はちゃんと見てたんだよ。孝子がマンションを出た後、すぐに詩織も……」
 怒鳴り続けていた男だったが、やがてその勢いもなくなっていった。「まあ、そいつは後でいいか」と、自らを落ち着かせるように呟く。
『同点に追いついたマウンテンズでしたが、この回に入り、またしてもピンチを迎えています』
 ちらっとテレビに目をやってから、男は再び卓真を睨みつけた。
「鍵は、ちゃんと閉めたか?」
 卓真は一瞬部屋の窓に視線を向けそうになった。
 しかし、寸前のところで堪えた。男の言っているのが、玄関の鍵のことだと気づいたからだ。
「いや。閉めてない」
 男が舌打ちする。
「早く行って閉めてこい」
「動いてもいいのか?」
「ああ、そうだよ。でも鍵を閉めるだけだぞ。早いとこ行って……。いや、駄目だ。孝子、お前が代わりに行ってこい」
 返事こそしなかったものの、孝子は素直にその指示通りの行動を取った。
 これからどうするべきか。
 孝子の後姿を見つめながら、卓真は必死に思案を巡らせた。
 そして、ゆっくりと男に向き直る。
「俺の知り合いの中に、元ヤクザの組長だったってやつがいるんだ」
 試しに言ってみた。
「それがどうかしたのか」
 効果はなかった。
 大也が、がっくりと肩を落としただけだった。

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41 困惑
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Author:片瀬みこと
札幌在住のアマチュア作家

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