みことのいどこ 2015年02月

ホームチーム 39 空っぽの部屋

39 空っぽの部屋

 男は、携帯電話をテーブルの上に置いた。ガンッというその激しい音に、大也は思わず飛びあがりそうになった。ヒッという情けない声を上げそうにもなった。ソファーにロープで縛りつけられていなければ、口にガムテープが貼られていなければ、きっとそうしていたに違いない。
 いや、それだけではない、と大也は小さくかぶりを振った。自分は、そんな弱虫などではないのだ。身体が自由でさえあれば、この男相手に、今頃は命がけの戦いを挑んでいたことだろう。きっとそうしていた。自分は、もう大人だ。そう。もう守られるだけの存在ではないのだ。いつまでも、そんな情けないままの……。
「お前……」
 不意に、男が声をかけてきた。
「ちょっと涙目になってるじゃねえか。へへっ。やっぱまだまだガキだなあ」
 愉快気に笑い、ソファーの背もたれにふんぞり返った。
 悪い男、というのはすでにわかっていたことだが、この男、悪い、というだけで済むような人間ではない。人のプライドを平気で傷つける、失礼で、思いやりの欠片もない、言葉遣いが汚く、笑顔が気持ち悪い、最低の最低の、もっともっと最低の男だったのだ。
「何だよ。ええ? 何か言いたそうな面してるな」
 男の言う通りだった。ガムテープで塞がれている大也の口、その中は、男に投げつけたい言葉でいっぱいになっていた。
 詩織さんと孝子さんは、絶対に渡さないぞ。お前は、もうすぐ刑務所行きだ。ナイフで脅すなんて、そんな卑怯者は嫌われて当然だ。お前が座ってるその席は、俺と父さんが普段使ってる場所なんだぞ。テレビを正面から見られる特別な席なんだぞ。お前の、そのヘアースタイル、ぜんぜん似合ってないぞ。もしかしてかつらなんじゃないのか? お前の着てる、その高そうなスーツだって、ぜんぜんかっこよく見えないぞ。その気持ち悪いにやにや顔には、囚人服しか似合わないぜ。三発四発ぶん殴られさえすれば、もう少しまともな顔になれるかもしれないけどな。
 溢れ出しそうになる言葉の弾丸が、ガムテープという名のバリケードに、当たっては弾け当たっては弾けを繰り返していた。
「大声は出すなよ」
 そう言ったかと思うと、いきなり男の手が伸びてきた。
 指先が大也の頬に触れる。
「いいか。こいつがあるってこと、忘れるんじゃねえぞ」
 顎をしゃくって、テーブルに置かれたナイフを示すと、男は一気にガムテープを剥がした。
 ふうーっという、大きな吐息。
 大也の口から、まず最初に出たのがそれだった。そして、すぐに言葉の弾丸が連射される、そのはずだった。
 しかし、実際は違った。先ほどまでの言葉が、なかなか出てこない。うまく引き金を見つけることができないのだ。
「ん? どうしたんだ? 何か俺に文句あったんじゃねえのか?」
 からかうような口調で男が言う。
「あ、あるよ。いっぱいあるよ」
 ようやく出た大也の声は、自分でも情けないぐらい弱々しいものだった。まるで、発泡スチロール製の弾丸だ。
「へえ。何だよ。聞いてやるから言ってみな」
 男がせせら笑う。
「俺の、友達のおじいちゃん、元ヤクザの組長なんだ」
 試しに言ってみた。
「それがどうかしたのか」
 効果はなかった。

 玄関へ戻ると、孝子は小さくかぶりを振って見せた。
「そうか……」
 卓真が力なく呟く。
 そして二人とも、しばしその場で立ちつくすこととなった。
 のんびりしている暇はない。それはわかっている。わかっていながら、身体を動かせずにいるのだ。頭を働かせずにいるのだ。
 卓真、孝子、それに詩織。三人揃って、というのがあの男の要求だ。いや、本来は詩織一人だけでいいのかもしれない。
 しかし、その肝心の詩織がいないのだ。電話も通じない。マンションにいないことも、たった今確認した。
「孝子ちゃんが出てくる時には、お母さん、ちゃんといたんだよね?」
 腕時計にいったん目をやってから、卓真が聞いてきた。
「はい、ちゃんと」
「何か、変わった様子は?」
 どうだっただろう、と孝子は必死に思い出そうとした。
 卓真と会うことは、詩織に内緒だった。そのため、いつもと同じように振る舞わなければいけない。決して変わった様子を見せるわけにはいかない。あの時そう意識していたのは孝子の方だったのだ。
 あの時、詩織に、いつもと違うところがあっただろうか。
 ぼうっとしているのは、いつも通りだった。こちらが言うことを、理解するまでに時間がかかる。それもいつも通りのことだ。即興の歌を口ずさむ、というのもいつもと変わらない。
「悪魔がどうのとか、天使がどうのとか、そんな歌口ずさんでました」
 絶句する卓真を見て、孝子は思わず口を押えた。こんな情報に意味などない。これでは、彼の頭をいたずらに混乱させただけではないか。
「ど、どうしたら……。やっぱり警察に……」
「いや、駄目だ」
 卓真が激しくかぶりを振る。「息子を、危険な目に合せるわけにいかない」と苦しげに続けた。
 そして、また時間だけが空しく過ぎていった。
 卓真が、もう一度腕時計に目を落とす。
「とにかく……」
 孝子の方へ顔を向けつつ、卓真はドアノブに手をかけた。
「俺一人で行ってみるよ。孝子ちゃんは、とりあえずここで……」
 最後までは言わせなかった。
「嫌です。絶対に嫌。私も行きます。さあ、行きましょ」
 そう言い放つと、孝子は急いで靴を履き、困り顔の卓真を押しのけるようにして、猛然と玄関から飛び出した。

「赤ちゃんに、戻りたい」
 クラゲの水槽を見つめながら、詩織は力なく呟いた。
 赤ちゃんに戻って、最初からもう一度人生をやり直したい。本気でそう思う。先ほどまでは、クラゲに生まれ変わりたい、と考えていたが、それはやめにした。脳が存在しないため、悩むことも後悔することもない。その部分は魅力的に思えたが、餌はプランクトン、というのがちょっと引っかかった。歌を口ずさむことができない、というのもかなりのマイナスポイントだ。
 ああ、いつまでもこんなところにいるわけにはいかない。
 詩織は、足元の旅行鞄に手を伸ばした。
 今頃、孝子はどうしてるだろう。もうマンションに戻ってきただろうか。空っぽの部屋を見て、ちょうど今大慌てしているところかもしれない。電話も通じない。行き先もわからない。普段はほとんど涙を見せない彼女も、さすがに今は泣いているかもしれない。いや、それとも、清々しているところだろうか。お荷物のような母親が、目の前からいなくなってくれたのだ。彼女にとっては、やはりこれでよかったのだろう。そう。孝子自信の人生は、ようやく今日からスタートできるのだから。
「孝子、さようなら……。卓真さん、大也君、さようなら。クラゲさんも、イソギンチャクさんも、その他、名前のわからない動物さんたちも、みんなみんなさようなら」
 旅行鞄を持ち上げると、詩織はペットショップを後にした。
 買った物はキャットフード一箱。なぜそんなものを? 自分に問いかけてみても、答えはわからない。たぶん予感がするからだろうか。旅の途中で、何かの動物と遭遇する。なぜかそんな気がしていた。希望を失った孤独な人間には、お腹を減らした、やはり孤独な動物がよく似合う。そう。例えば、白くて小さくて、か弱く甘えん坊な子猫のような動物が。
 バニラ。その子に会ったらそう名付けよう。そして、一緒に旅に出よう。そう。一人と一匹だけで、どこか遠いところまで旅立とう。そこで、また一からやり直すのだ。今度は誰にも知られずに。今度は誰にも迷惑をかけずに。
「どうして、そんな風に笑うの? どうして、そんな風に囁くの?」
 気がつくと口ずさんでいた。それは、詩織が今日思いついたばかりの、切なさいっぱいのオリジナルソングだった。
「悪魔の高笑いなんて、もう聞きたくないわ。天使の囁きなんて、もう必要ないわ。私が聞きたいのは、発射を告げるベルの音。私に必要なのは、勇気の詰まった旅行鞄。そして、ぐっすり眠れるマイ枕……」

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40 鍵
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ホームチーム 38 訪問者

38 訪問者

 ハル・オースティンが近くで見守る中、一人の男の子がマウンドに立った。マウンテンズのホームゲーム、その始球式である。
 大也は、手の平の汗をジーンズで拭った。男の子の緊張が、テレビを通して伝わってきたらしい。マウンドに立つ二週間後の自分。練習通りうまく投げることができるだろうか。大きな期待と、小さな不安で、先ほどから心臓が痛いぐらいに高鳴っている。
 男の子が投げたボールは、ワンバウンドしてからキャッチャーミットに収まった。敵チームのバッターが、大げさに空振りをしてみせる。
 観客の声援。マウンドに歩み寄るハル・オースティン。帽子を取って頭を下げる少年。そして、二人は笑顔で握手を交わした。
「あーあ、疲れたあ」
 大也は、ぐったりとソファーに沈みこんだ。
『マウンテンズ、この試合に勝って、すんなりと優勝マジックを点灯させることができるでしょうか』
 実況アナウンサーの声に、慌てて体制を立て直す。今日は大事な試合。疲れてる場合ではないのだ。大也が生まれるずっと前、一度だけあったというマウンテンズのリーグ優勝。そのカウントダウンが、いよいよ開始されようとしているのだ。
 ふと、隣へ目をやる。卓真がいつも座っている場所。今日はまだ空席のままだった。
 遅くなるかもしれない。朝はそう言っていた。何時ごろになるのか、遅くなる理由は何か、大也はあえて聞かなかった。もしかすると、孝子と会っているのではないか。そんな気がしたからだ。ちょうど今頃、孝子にガツンと言われてるところかもしれない。
 俺が悪かった。ストーカー男をやっつけるためには、やっぱりお前の協力が必要だ。
 もしも卓真が、そんな言葉を持ってきてくれたとすれば、今日は本当に最高の一日になることだろう。
 試合開始を告げる『プレイ』のかけ声。
 いよいよ始まるのだ、と気分が盛り上がったところで、部屋のインターホンが鳴り響いた。
「何だよ、こんな時に……」
 そんな言葉が、つい口を突いて出てしまう。訪問者が誰なのかはわからないが、マウンテンズファンじゃないことだけは確かだ。
 内野手のような素早い動きで、大也はインターホンの受話器を掴み取った。
「はい。どなたですか?」
 応答はない。
 ハル・オースティンが一球目を投げ終えたところで、もう一度だけ声をかけてみた。
「どなた? あ、エラーかよお」
 結果は、セカンドにランナーを背負うという、マウンテンズいきなりのピンチである。そしてもう一つの結果が、以前として応答なし、である。
 大也は急いでソファーに戻った。今は、アンチマウンテンズを相手にしてる暇などないのだ。
 二人目のバッターを迎えたところで、再びインターホンが鳴った。
 これでは、まるで嫌がらせではないか。
 そこで一つ思い出した。昨日、いや、その前の日のことだ。内容はわからないが、玄関ドアに貼り紙がされていたのだ。卓真のあの表情からすると、かなりたちの悪いことが書かれていたのかもしれない。
 もしかすると、異物混入事件についてのことだろうか。
 そう思うと、大也はじっとしていられなくなった。中学でも、何人かの生徒に、嫌な言葉でからかわれたことがあったのだ。
 リビングを飛び出し、玄関で、「誰だよ」と大声を上げる。
 それでもやはり応答はない。
 サンダルを履くと、大也は玄関ドアに突進した。ホームベースに滑りこむような勢いで、暗くなりかけた外へと飛び出す。
 あたりを見回すも、どこにも人影はない。
 次にドアを調べる。
 そこにも異常は見当たらなかった。
「ああ、もう」と、大也は一声吠えた。
 きびすを返し、一歩玄関へと足を踏み入れたところで、何かの気配に気づいた。
「だ、誰……」
 振り返る暇さえなかった。物凄い力で、玄関の中へと突き飛ばされていた。
「俺が誰なのか、これからゆっくりと教えてやるよ」
 大也は、首をねじって、声の主を確認した。
 そこに見えたのは、以前一度会ったことのある、そして、もう二度と会いたくはない男の姿だった。

 スーパーマーケットの駐車場。車を止めてから、すでに一時間近く経過していた。
『二点を追うマウンテンズ、三回裏の攻撃が始まりました』
 カーラジオが流れる中、卓真はチラリと助手席に目をやった。
「来週、いや、その次の週だったかなあ……。大也のやつ、始球式に出るらしいんだよ」
「知ってます」
 孝子がこちらを見ずに答える。二十分ぶりに聞く彼女の声には、二十分前同様の頑固さがあった。
「そ、そうか……。いろいろ電話でおしゃべりしてるみたいだもんな」
 せっかくの会話を、再び途切らせたくない。そんな思いから、「大也のことなんだが」と続けてはみたものの、やはりその先がなかなか出てこない。
 大也君を、家から追い出すことになるのなら、私たち親子は、このままマンションにとどまります。
 それが、二十分前に孝子が口にした言葉だった。
 ただの一時的な対応策だよ。いくら卓真がそう説明しても、彼女を納得させることはできなかった。
「火野さんの方は……」
 今度は、孝子が先に口を開いた。しっかりとこちらを見つめながら続ける。
「どんな話をするつもりだったんですか? 私に、何か相談があったんですよねえ」
「え? ああ、そういえばそうだったなあ」
 忘れていたわけではなかった。聞きにくい質問が一つだけあったのだ。大也を追い出すようなことしないで、と孝子に頼まれたことによって、その聞きにくさはさらに倍加することとなった。
「俺の方も、息子についてのこと……。いや、ちょっと違うかな。ど、どう言えばいいんだろう。難しいなあ、こういうのって」
「はっきりしてください。今日は、そのために会ってるんじゃないですか。ママには、部活の友達と会うからって、嘘ついてきたんですよ」
「すまんすまん。そうだったな。あまり遅くなって、心配かけるわけにいかないんだったな」
「ママに、心配かけたくないっていうより……」
 孝子が、そこで口元をほころばせる。
「私が心配なんです。ママのことをね。あの人、たまにびっくりするような行動に出る時があるから。本当ですよ。危なっかしくて、一人ぼっちなんかにはしておけません」
「うん。それは何となくわかるような気がする」
 卓真は笑った。そして、ちょっとだけ姿勢を正してから続けた。
「孝子ちゃんは、どうやって気持ちの整理をつけたのかな。何というか、その、自分の親のこと、つまり……」
「AV女優だったことについてですか?」
「うん。まあ、それもあるけど、お父さんのことも含めて、自分の置かれた家庭環境。そういえばいいのかな」
「気持ちの、整理かあ……」
 考えこむように、孝子が足元に視線を落とした。
「あ、別に、君の親のこと、悪く言ってるわけじゃないよ。俺自身のことなんだ。息子のやつ、いろいろと辛い目に合せちゃってるからさあ。こんな親を持った子供ってのは、どんなこと考えてんのかなって。自分をどう納得させてんのかなって。俺の親も離婚したんだが、あんまり昔すぎて、その頃の気持ち、すっかり忘れちまってさ」
「しょうがないこと。ただそう思うだけです。気持ちの整理を、つけるとかつけないとか、関係ないです。納得だってしてません。そう。ぜんぜん納得なんてしてない。ただ、しょうがないって思うだけ。だってそうじゃないですか。子供は、自分の意志で、親を選ぶことできないんですから。しょうがない。うん。やっぱりそう思うことしかできない」
「しょうがない、かあ……。そう言われちゃったら、もうどうすることもできないな」
 卓真は苦笑した。自分自身に対する嘲笑だったかもしれない。
「もう手遅れってことか。どうしたら子供を幸せにしてやれるか。親としてどうあるべきか。そんなもん、考えるだけ無駄ってわけか」
 つい苛立った声が出てしまう。
「火野さん」
 孝子が顔を上げた。なぜか、笑いを堪えているような表情に見える。
「生意気なこと、一つ言ってもいいですか?」
 卓真は黙ってうなずいた。生意気なことなら、さっきからずっと言ってるじゃないか、とは口に出さなかった。
「どうしたら子供を幸せにしてやれるか。火野さんが、もし本当にそう考えてるんだとすれば、それってたぶん、すでに半分は実現してることなんじゃないのかな」
 卓真にとってそれは、とびっきり生意気で、とびっきり救いになる言葉だった。
「そろそろ、戻ろうか。大也のことは、もう一度よく考えてみるよ」
 クールにそう言って、卓真はハンドルに手をかけた。油断すると、つい顔がにやけそうになってしまう。
「はい。お願いします」
 卓真の携帯電話が震動を始めたのは、孝子がそう笑顔で答えた瞬間だった。
「あ、ちょっと待ってくれ。電話らしい」
 ポケットから取り出し、表示を確認する。
「もしもし、どうしたんだ?」
 大也に向かってかけた言葉。そのつもりだった。
『火野卓真だな。いいか、よく聞け。今すぐ家に戻ってこい。息子を預かってること、忘れるんじゃねえぞ。わかったか? どこにも寄らず、まっすぐ戻ってくるんだぞ。もちろん、あの二人、詩織と孝子も一緒にだ。必ず一緒に連れてこい。いいな。必ずだぞ』

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39 空っぽの部屋
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ホームチーム 37 どこか遠くへ

37 どこか遠くへ

 眠れぬ夜だった。ベッドの中、もう何度寝返りを打ったことか。
 とりあえず必要と思われるものは、すべて旅行鞄一つに詰めこんだ。非常時に備え、会社は明日から休む予定だ。あとは待つだけ。そう。あとはマンションにじっとして、卓真からの連絡を待つだけでいいのだ。
 だけど……。
 深いため息とともに、詩織はまた大きく寝返りを打った。
 このまま、彼に甘えてばかりいていいのだろうか。
 その問いに、詩織の中の悪魔が答える。
 甘えちゃえ、甘えちゃえ。そして、火野親子を不幸に巻きこんじまえばいいのさ。ヒッヒッヒッ。
 別のところから、もう一つの声が聞こえる。今度のは、天使の囁きらしい。
 甘えてもいいのですよ。ただし、火野親子は間違いなく不幸になるでしょうけどね。フフフ。
 言葉遣いこそ違えど、どちらも同じ意見のようだ。
 悪魔が、どうせ詩織は、いい妻になんてなれるわけがないのさ、と言えば、天使もすぐに、それだけじゃないでしょ。いい母親にだってなれないでしょ、と応戦する。
 こんな女には、ストーカー男がお似合いだぜ。
 AV女優に、復帰するっていう道も考えておくことね。
 そして、悪魔と天使は仲良く手をつなぎ、意識の向こう側へと遠ざかっていった。
「こんなの、もういや……」
 詩織は、勢いよくベッドから跳ね起きた。
 窓際まで行き、そっとカーテンを開いてみる。
 暗闇に浮かび上がるいくつもの光。
 しかしそれは、美しい星空などではない。何者かが暮らす家の明かり、何者かが運転す
る自動車のライトだ。
 そこからいくつかの悲鳴が聞こえる。
 早くここから助け出して。これ以上もう追いかけてこないで。
 詩織は頭を打ち振って、憂鬱な幻聴を追い払った。
「どうして、こんなことに……」
 ぽつりと呟いてみる。
 答えはすぐに出た。すべて自分のせい。そう。悪魔に指摘されるまでもない、わかりきった解答だ。
 初めて付き合った人から、いつしか暴力を振るわれるようになった。別の男性によって、詩織は助け出された。それが、二番目の男性との始まりだった。
 彼は決して暴力を振るわない。しかし借金があった。どうしようもないほどのギャンブル狂だったのだ。そして詩織は、アダルトビデオの出演を決意する。彼を助けるためだった。
 妊娠、結婚、出産。月日が流れても、彼は借金を作り続けた。それどころか、気がついてみると、暴力まで振るうようになっていた。
 詩織はカーテンを閉じた。ふうーっと大きく息を吐き出してみたが、なかなか過去の記憶を追い払うことができない。増殖する<後悔>という文字で、今にも頭が破裂しそうだ。
 このまま、どこか遠くへ行ってしまおうか。
 詩織の視線は、旅行鞄に釘付けとなった。
 知っている人の誰もいない、どこか遠くの町がいい。今度は一人で行こう。そう。娘を置いて一人で。

「お父さんの気持ち、私はわかるような気がするなあ」
  孝子は宥めるように言った。
 携帯電話から、すぐさま反論が返ってくる。
『変だよ。父さんも、孝子さんも』
 よほど不満が溜まっているのだろう。珍しく大也の口ぶりは荒っぽい。
「君のことが、きっと心配で心配で仕方がないのよ」
 言いながら、孝子の胸はちくりと痛んだ。ごめんなさい、と心の中で付け加える。怒るのも当然なのだ。大也が抱く不満。その大きな要因は自分たち親子にあるのだから。
 問題が解決するまで、大也を母親のところへ預ける。卓真はそう考えているらしい。この電話で、孝子は初めてそのことを知った。
 なぜ相談してくれなかったのか。なぜ勝手に一人で決めてしまうのか。卓真に対するそんな不満は、あっという間にかき消えた。そしてたった一つの気持ち、ごめんなさい、だけがやはり残った。
『俺だって、一緒に戦いたいよ』
 沈黙する孝子に、大也はさらに続けた。
『みんな、俺に何か隠してない?』
 強烈な一撃だった。彼もやはり、何らかの違和感を抱いていたらしい。
「そ、そんなわけないじゃない。ただの考えすぎよ」
 早口で言い、孝子はすぐさま次の言葉を付け加えた。
 私は今日、ずるい大人たちの仲間入りを果たしました。
 もちろん、心の中だけでの告白である。父親が内緒にしておきたいというのなら、こちらもそれに従うほかないではないか。
 納得したのか。疑惑を深めたのか。大也はすっかりおとなしくなってしまった。
 ややあってから、力ない呟きが耳に届く。
『もう、いいよ』
 納得した、という声では決してない。こんな相手とは、いくら話したって意味がない。そういう種類の声だった。
「ちょっと待って。ま、まだ、切らないで」
『何さ』
「うん。ええと……。お、お父さん、もう寝ちゃってるかな」
 しばらくしてから、『さあ。どうなんだろう』という声が返ってきた。拍子抜けしたような声音だ。
「私からも、頼んであげようか。四人で、一緒に戦おうって」
『え? ああ、本当に?』
「うん。私がガツンと言ってあげる。だから、お父さんの携帯の番号教えて」
 大也が番号を口にする。力を取り戻したその声に、メモを取る孝子の胸の痛みは、少しずつ和らいでいった。
 この思いつきが、正しいのかどうかはわからない。わかるのは、これが今の自分にできる精一杯の償い、ということだけだ。
 大也との通話を終えてから、五分、いや、もう十分ぐらいは経っただろうか。携帯電話は、変わらず孝子の手の中に収まっている。
 ずるい大人になるには、自分はまだ若すぎる。そう自らに言い聞かせてから、ようやく決心をつけた。
「あ、もしもし、火野さん。私、孝子です」
 電話はあっという間に通じた。『ああ、びっくりした』と、卓真が文字通りの声音で答える。
「すみません。番号、さっき大也君に教えてもらったんです」
『あ、ちょっと待って。今階段降りてるところだから……。ああ、びっくりしたなあ』
 確かに、どたどたと駆け降りる音が聞こえる。続けて、孝子の耳に、意外な言葉が届いた。
『俺も今、息子に聞こうと思ってたんだ。孝子ちゃんの電話番号をね』

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ホームチーム 36 大人の事情

36 大人の事情

 その言葉に、理津子の手が止まった。真意を確かめようとするかのように、じっとこちらの瞳を覗きこんでくる。
 卓真にとっては、予想通りの反応だった。しばらく大也を預かってほしい。自分でも、そんな言葉を口にする日がくるとは思ってもいなかったのだ。
 やがて、「どうして?」という呟きが、理津子の口からこぼれ出た。静止していたコーヒーカップが、ゆっくりとソーサーの上に戻される。
「無理なのか?」
「私は、理由を聞いてるの。今さらどうしたっていうのよ」
「ああ、今、ちょっと大変なことになってて」
 卓真は、あらかじめ用意してきた言葉を口にした。
「会社のことだよ。もう知ってるだろ」
「知ってるけど、それが大也と何の関係があるのよ」
「マスコミのくそったれどもが、うちにまで訪ねてきやがるんだよ」
「忘れてるみたいだけど、私も、そのくそったれどもの一人なのよ」
 理津子は不服そうに口を尖らせた。音量が一気に上がる。
 どうも言い方がまずかったらしい。卓真は素早く店内を見渡した。幸い客の数は少ない。さすが評判の悪い喫茶店である。食中毒問題を、去年二度も起こした。その実績にふさわしい静けさだった。
「お前は、連中と違うだろ。ただのグルメ記者に罪はないよ」
「ただのって何よ、ただのって」
「大也のことを考えてくれよ」
 これ以上墓穴を掘らないようにと、穏やかな口調で話題を変える。
「あいつを、こんな騒ぎに巻きこみたくないんだ」
「そんなに、取材ひどいの?」
「ひどいなんてもんじゃねえよ。マイク持って追いかけられるわ、写真撮りまくられるわ。俺は平気だとしても、心配なのは大也だよ。あいつ、意外と繊細なところあるからな。ああ、これがトラウマにならなきゃいいんだが」
 この際なので、マスコミには思いっきり悪者になってもらうことにした。
「学校ではどうなの? 何か意地悪されたりしてない?」
 理津子の声音が変わった。こういうところはやはり母親だ。
「そういえば、嫌なこと言ってくるクラスメイトもいるらしいよ。子供ってのは残酷なところあるからなあ」
 言い終えてから、卓真は自らの発言にはっとした。大也に確かめてはいないが、実際、そういうこともあるのかもしれない。
「コーヒー、お代わりいかがですかな?」
 白髪頭の店主が、親しげな口ぶりで声をかけてきた。
「いや、もうこれで結構です。ごちそうさまでした」
 微笑みつつ、卓真は軽くかぶりを振って見せた。
「マスコミの件、あなたのおっしゃる通りです」
 そう言って、店の主人は離れていった。その背中から、「あいつらは、人間のクズだ」という吐き捨てるような声が聞こえてくる。おそらく、食中毒問題で、そうとう嫌な目に合されたらしい。
「詩織さんって人とは、今どうなってるの?」
 今度は、理津子が話題を変えた。
「どうって……」
 卓真は言葉を詰まらせた。元AV女優。ストーカー問題。同居の計画。そのうち、何を言って、何を言わざるか。
「別に、どうにもなってないよ」
 結局、すべて言わざる、を選択した。わざわざ余計な問題を増やす必要はない。
「今は、事件への対応でいっぱいいっぱいだ」
 理津子の瞳に、一瞬疑わしい光が差した。
「ふーん。本当に?」
 それでも、幸いにしてそれ以上の追及はなかった。
 そして理津子は、コーヒーを一口飲み、話題を元に戻した。
「私のところでって話。大也は納得してるの?」
 卓真はかぶりを振った。
「まだなんだ。話すのはこれからだ。まずは、君の許可を取るのが筋だからな」
「それ、筋って言うかなあ。大也の気持ちを確かめるのが、先なんじゃないの?」
「何を言ってるんだよ。先に確かめるべきなのは、君が受け入れてくれるかどうかってことじゃないか」
「私がイエスでも、もし、あの子がノーだったら?」
「あいつなら、きっとわかってくれるさ」
「もし、わかってくれなかったらよ」
「もしもしうるさいな。心配しなくても、一時間後には答えが出てるよ。お前の方はいいんだな? イエスってことでいいんだな?」
「大也の気持ちを確かめて。そっちが先」
 歯ぎしりしたくなるような気分で、卓真は「そうするよ」と一言吐き捨てた。
 理津子の口から大きなため息が漏れる。
「私たちって、やっぱり別れるはずよねえ」
 卓真も、この意見には同感だった。
 そして一言、強い口調で言い放った。
「大也なら、わかってくれるに決まってる」

「わからないよ」
 大也は、強い口調で抗議の声を上げた。
「なんでだよ。ちょっとの間じゃないか。会社のことで、父さん、今すごく忙しいのわかってるだろ。お前の面倒見てる余裕ないんだよ」
 外で何かあったのだろうか。困り顔になったり、不満顔になったり、卓真の表情が目まぐるしく変化していく。
「自分の面倒ぐらい、もう自分で見られるよ」
 大也は負けずに反論した。
「いつまでも、子供扱いしないでよね」
「子供じゃないか。カレー大好き少年じゃないか。大人の事情に首を突っこみたがる。その辺がいかにも子供だ」
「事情って何さ」
「事件のことだよ。さっきから、会社のことだって言ってるだろ」
「本当にそれだけ?」
「それだけだ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「本当は、あの男の人のことなんじゃないの? 詩織さんの前の夫って人」
「うーん。まあ、それも少しだけ関係がある、かな」
 しぶしぶといった感じで、卓真は認めた。「ちょっとだけだぞ。関係といっても、ほんのちょっぴりだけだぞ」と、言いわけ口調で付け加える。
「どうする気なの? その男と戦うの?」
「ああ、そのつもりだ。だけど勘違いするなよ。戦うといっても、話し合いをするだけだからな。別に、殴り合いをしようってことじゃない。父さんいつも言ってるだろ。暴力では何も解決しないってな」
「やっぱり、俺も一緒に戦うよ」
「なんでそうなるんだよ。大人同士の話し合いに、首を突っこみたがる。その辺がいかにも子供だ。お前は、少しの間、母さんのところで……」
「俺たちはチームだ」
 その言葉が、卓真のしゃべりを中断させる。
 ややあってから、大也は静かに続けた。
「父さん、よくそう言ってたじゃんか」
 しばらく待ったものの、言葉は返ってこなかった。一度口を開きかけた卓真だったが、そこからは低い唸り声しか出てこない。胸の前で腕を組み、目を閉じてうつむく。そのままの姿勢で、あとは身動きすらしなくなってしまった。
 きっと、まだ何かあるのだ。
 大也は直感した。自分に、もしかすると、自分にだけ隠された、何らかの事情があるに違いないのだ。

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37 どこか遠くへ
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プロフィール

片瀬みこと

Author:片瀬みこと
札幌在住のアマチュア作家

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