ホームチーム 39 空っぽの部屋
39 空っぽの部屋
男は、携帯電話をテーブルの上に置いた。ガンッというその激しい音に、大也は思わず飛びあがりそうになった。ヒッという情けない声を上げそうにもなった。ソファーにロープで縛りつけられていなければ、口にガムテープが貼られていなければ、きっとそうしていたに違いない。
いや、それだけではない、と大也は小さくかぶりを振った。自分は、そんな弱虫などではないのだ。身体が自由でさえあれば、この男相手に、今頃は命がけの戦いを挑んでいたことだろう。きっとそうしていた。自分は、もう大人だ。そう。もう守られるだけの存在ではないのだ。いつまでも、そんな情けないままの……。
「お前……」
不意に、男が声をかけてきた。
「ちょっと涙目になってるじゃねえか。へへっ。やっぱまだまだガキだなあ」
愉快気に笑い、ソファーの背もたれにふんぞり返った。
悪い男、というのはすでにわかっていたことだが、この男、悪い、というだけで済むような人間ではない。人のプライドを平気で傷つける、失礼で、思いやりの欠片もない、言葉遣いが汚く、笑顔が気持ち悪い、最低の最低の、もっともっと最低の男だったのだ。
「何だよ。ええ? 何か言いたそうな面してるな」
男の言う通りだった。ガムテープで塞がれている大也の口、その中は、男に投げつけたい言葉でいっぱいになっていた。
詩織さんと孝子さんは、絶対に渡さないぞ。お前は、もうすぐ刑務所行きだ。ナイフで脅すなんて、そんな卑怯者は嫌われて当然だ。お前が座ってるその席は、俺と父さんが普段使ってる場所なんだぞ。テレビを正面から見られる特別な席なんだぞ。お前の、そのヘアースタイル、ぜんぜん似合ってないぞ。もしかしてかつらなんじゃないのか? お前の着てる、その高そうなスーツだって、ぜんぜんかっこよく見えないぞ。その気持ち悪いにやにや顔には、囚人服しか似合わないぜ。三発四発ぶん殴られさえすれば、もう少しまともな顔になれるかもしれないけどな。
溢れ出しそうになる言葉の弾丸が、ガムテープという名のバリケードに、当たっては弾け当たっては弾けを繰り返していた。
「大声は出すなよ」
そう言ったかと思うと、いきなり男の手が伸びてきた。
指先が大也の頬に触れる。
「いいか。こいつがあるってこと、忘れるんじゃねえぞ」
顎をしゃくって、テーブルに置かれたナイフを示すと、男は一気にガムテープを剥がした。
ふうーっという、大きな吐息。
大也の口から、まず最初に出たのがそれだった。そして、すぐに言葉の弾丸が連射される、そのはずだった。
しかし、実際は違った。先ほどまでの言葉が、なかなか出てこない。うまく引き金を見つけることができないのだ。
「ん? どうしたんだ? 何か俺に文句あったんじゃねえのか?」
からかうような口調で男が言う。
「あ、あるよ。いっぱいあるよ」
ようやく出た大也の声は、自分でも情けないぐらい弱々しいものだった。まるで、発泡スチロール製の弾丸だ。
「へえ。何だよ。聞いてやるから言ってみな」
男がせせら笑う。
「俺の、友達のおじいちゃん、元ヤクザの組長なんだ」
試しに言ってみた。
「それがどうかしたのか」
効果はなかった。
玄関へ戻ると、孝子は小さくかぶりを振って見せた。
「そうか……」
卓真が力なく呟く。
そして二人とも、しばしその場で立ちつくすこととなった。
のんびりしている暇はない。それはわかっている。わかっていながら、身体を動かせずにいるのだ。頭を働かせずにいるのだ。
卓真、孝子、それに詩織。三人揃って、というのがあの男の要求だ。いや、本来は詩織一人だけでいいのかもしれない。
しかし、その肝心の詩織がいないのだ。電話も通じない。マンションにいないことも、たった今確認した。
「孝子ちゃんが出てくる時には、お母さん、ちゃんといたんだよね?」
腕時計にいったん目をやってから、卓真が聞いてきた。
「はい、ちゃんと」
「何か、変わった様子は?」
どうだっただろう、と孝子は必死に思い出そうとした。
卓真と会うことは、詩織に内緒だった。そのため、いつもと同じように振る舞わなければいけない。決して変わった様子を見せるわけにはいかない。あの時そう意識していたのは孝子の方だったのだ。
あの時、詩織に、いつもと違うところがあっただろうか。
ぼうっとしているのは、いつも通りだった。こちらが言うことを、理解するまでに時間がかかる。それもいつも通りのことだ。即興の歌を口ずさむ、というのもいつもと変わらない。
「悪魔がどうのとか、天使がどうのとか、そんな歌口ずさんでました」
絶句する卓真を見て、孝子は思わず口を押えた。こんな情報に意味などない。これでは、彼の頭をいたずらに混乱させただけではないか。
「ど、どうしたら……。やっぱり警察に……」
「いや、駄目だ」
卓真が激しくかぶりを振る。「息子を、危険な目に合せるわけにいかない」と苦しげに続けた。
そして、また時間だけが空しく過ぎていった。
卓真が、もう一度腕時計に目を落とす。
「とにかく……」
孝子の方へ顔を向けつつ、卓真はドアノブに手をかけた。
「俺一人で行ってみるよ。孝子ちゃんは、とりあえずここで……」
最後までは言わせなかった。
「嫌です。絶対に嫌。私も行きます。さあ、行きましょ」
そう言い放つと、孝子は急いで靴を履き、困り顔の卓真を押しのけるようにして、猛然と玄関から飛び出した。
「赤ちゃんに、戻りたい」
クラゲの水槽を見つめながら、詩織は力なく呟いた。
赤ちゃんに戻って、最初からもう一度人生をやり直したい。本気でそう思う。先ほどまでは、クラゲに生まれ変わりたい、と考えていたが、それはやめにした。脳が存在しないため、悩むことも後悔することもない。その部分は魅力的に思えたが、餌はプランクトン、というのがちょっと引っかかった。歌を口ずさむことができない、というのもかなりのマイナスポイントだ。
ああ、いつまでもこんなところにいるわけにはいかない。
詩織は、足元の旅行鞄に手を伸ばした。
今頃、孝子はどうしてるだろう。もうマンションに戻ってきただろうか。空っぽの部屋を見て、ちょうど今大慌てしているところかもしれない。電話も通じない。行き先もわからない。普段はほとんど涙を見せない彼女も、さすがに今は泣いているかもしれない。いや、それとも、清々しているところだろうか。お荷物のような母親が、目の前からいなくなってくれたのだ。彼女にとっては、やはりこれでよかったのだろう。そう。孝子自信の人生は、ようやく今日からスタートできるのだから。
「孝子、さようなら……。卓真さん、大也君、さようなら。クラゲさんも、イソギンチャクさんも、その他、名前のわからない動物さんたちも、みんなみんなさようなら」
旅行鞄を持ち上げると、詩織はペットショップを後にした。
買った物はキャットフード一箱。なぜそんなものを? 自分に問いかけてみても、答えはわからない。たぶん予感がするからだろうか。旅の途中で、何かの動物と遭遇する。なぜかそんな気がしていた。希望を失った孤独な人間には、お腹を減らした、やはり孤独な動物がよく似合う。そう。例えば、白くて小さくて、か弱く甘えん坊な子猫のような動物が。
バニラ。その子に会ったらそう名付けよう。そして、一緒に旅に出よう。そう。一人と一匹だけで、どこか遠いところまで旅立とう。そこで、また一からやり直すのだ。今度は誰にも知られずに。今度は誰にも迷惑をかけずに。
「どうして、そんな風に笑うの? どうして、そんな風に囁くの?」
気がつくと口ずさんでいた。それは、詩織が今日思いついたばかりの、切なさいっぱいのオリジナルソングだった。
「悪魔の高笑いなんて、もう聞きたくないわ。天使の囁きなんて、もう必要ないわ。私が聞きたいのは、発射を告げるベルの音。私に必要なのは、勇気の詰まった旅行鞄。そして、ぐっすり眠れるマイ枕……」
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男は、携帯電話をテーブルの上に置いた。ガンッというその激しい音に、大也は思わず飛びあがりそうになった。ヒッという情けない声を上げそうにもなった。ソファーにロープで縛りつけられていなければ、口にガムテープが貼られていなければ、きっとそうしていたに違いない。
いや、それだけではない、と大也は小さくかぶりを振った。自分は、そんな弱虫などではないのだ。身体が自由でさえあれば、この男相手に、今頃は命がけの戦いを挑んでいたことだろう。きっとそうしていた。自分は、もう大人だ。そう。もう守られるだけの存在ではないのだ。いつまでも、そんな情けないままの……。
「お前……」
不意に、男が声をかけてきた。
「ちょっと涙目になってるじゃねえか。へへっ。やっぱまだまだガキだなあ」
愉快気に笑い、ソファーの背もたれにふんぞり返った。
悪い男、というのはすでにわかっていたことだが、この男、悪い、というだけで済むような人間ではない。人のプライドを平気で傷つける、失礼で、思いやりの欠片もない、言葉遣いが汚く、笑顔が気持ち悪い、最低の最低の、もっともっと最低の男だったのだ。
「何だよ。ええ? 何か言いたそうな面してるな」
男の言う通りだった。ガムテープで塞がれている大也の口、その中は、男に投げつけたい言葉でいっぱいになっていた。
詩織さんと孝子さんは、絶対に渡さないぞ。お前は、もうすぐ刑務所行きだ。ナイフで脅すなんて、そんな卑怯者は嫌われて当然だ。お前が座ってるその席は、俺と父さんが普段使ってる場所なんだぞ。テレビを正面から見られる特別な席なんだぞ。お前の、そのヘアースタイル、ぜんぜん似合ってないぞ。もしかしてかつらなんじゃないのか? お前の着てる、その高そうなスーツだって、ぜんぜんかっこよく見えないぞ。その気持ち悪いにやにや顔には、囚人服しか似合わないぜ。三発四発ぶん殴られさえすれば、もう少しまともな顔になれるかもしれないけどな。
溢れ出しそうになる言葉の弾丸が、ガムテープという名のバリケードに、当たっては弾け当たっては弾けを繰り返していた。
「大声は出すなよ」
そう言ったかと思うと、いきなり男の手が伸びてきた。
指先が大也の頬に触れる。
「いいか。こいつがあるってこと、忘れるんじゃねえぞ」
顎をしゃくって、テーブルに置かれたナイフを示すと、男は一気にガムテープを剥がした。
ふうーっという、大きな吐息。
大也の口から、まず最初に出たのがそれだった。そして、すぐに言葉の弾丸が連射される、そのはずだった。
しかし、実際は違った。先ほどまでの言葉が、なかなか出てこない。うまく引き金を見つけることができないのだ。
「ん? どうしたんだ? 何か俺に文句あったんじゃねえのか?」
からかうような口調で男が言う。
「あ、あるよ。いっぱいあるよ」
ようやく出た大也の声は、自分でも情けないぐらい弱々しいものだった。まるで、発泡スチロール製の弾丸だ。
「へえ。何だよ。聞いてやるから言ってみな」
男がせせら笑う。
「俺の、友達のおじいちゃん、元ヤクザの組長なんだ」
試しに言ってみた。
「それがどうかしたのか」
効果はなかった。
玄関へ戻ると、孝子は小さくかぶりを振って見せた。
「そうか……」
卓真が力なく呟く。
そして二人とも、しばしその場で立ちつくすこととなった。
のんびりしている暇はない。それはわかっている。わかっていながら、身体を動かせずにいるのだ。頭を働かせずにいるのだ。
卓真、孝子、それに詩織。三人揃って、というのがあの男の要求だ。いや、本来は詩織一人だけでいいのかもしれない。
しかし、その肝心の詩織がいないのだ。電話も通じない。マンションにいないことも、たった今確認した。
「孝子ちゃんが出てくる時には、お母さん、ちゃんといたんだよね?」
腕時計にいったん目をやってから、卓真が聞いてきた。
「はい、ちゃんと」
「何か、変わった様子は?」
どうだっただろう、と孝子は必死に思い出そうとした。
卓真と会うことは、詩織に内緒だった。そのため、いつもと同じように振る舞わなければいけない。決して変わった様子を見せるわけにはいかない。あの時そう意識していたのは孝子の方だったのだ。
あの時、詩織に、いつもと違うところがあっただろうか。
ぼうっとしているのは、いつも通りだった。こちらが言うことを、理解するまでに時間がかかる。それもいつも通りのことだ。即興の歌を口ずさむ、というのもいつもと変わらない。
「悪魔がどうのとか、天使がどうのとか、そんな歌口ずさんでました」
絶句する卓真を見て、孝子は思わず口を押えた。こんな情報に意味などない。これでは、彼の頭をいたずらに混乱させただけではないか。
「ど、どうしたら……。やっぱり警察に……」
「いや、駄目だ」
卓真が激しくかぶりを振る。「息子を、危険な目に合せるわけにいかない」と苦しげに続けた。
そして、また時間だけが空しく過ぎていった。
卓真が、もう一度腕時計に目を落とす。
「とにかく……」
孝子の方へ顔を向けつつ、卓真はドアノブに手をかけた。
「俺一人で行ってみるよ。孝子ちゃんは、とりあえずここで……」
最後までは言わせなかった。
「嫌です。絶対に嫌。私も行きます。さあ、行きましょ」
そう言い放つと、孝子は急いで靴を履き、困り顔の卓真を押しのけるようにして、猛然と玄関から飛び出した。
「赤ちゃんに、戻りたい」
クラゲの水槽を見つめながら、詩織は力なく呟いた。
赤ちゃんに戻って、最初からもう一度人生をやり直したい。本気でそう思う。先ほどまでは、クラゲに生まれ変わりたい、と考えていたが、それはやめにした。脳が存在しないため、悩むことも後悔することもない。その部分は魅力的に思えたが、餌はプランクトン、というのがちょっと引っかかった。歌を口ずさむことができない、というのもかなりのマイナスポイントだ。
ああ、いつまでもこんなところにいるわけにはいかない。
詩織は、足元の旅行鞄に手を伸ばした。
今頃、孝子はどうしてるだろう。もうマンションに戻ってきただろうか。空っぽの部屋を見て、ちょうど今大慌てしているところかもしれない。電話も通じない。行き先もわからない。普段はほとんど涙を見せない彼女も、さすがに今は泣いているかもしれない。いや、それとも、清々しているところだろうか。お荷物のような母親が、目の前からいなくなってくれたのだ。彼女にとっては、やはりこれでよかったのだろう。そう。孝子自信の人生は、ようやく今日からスタートできるのだから。
「孝子、さようなら……。卓真さん、大也君、さようなら。クラゲさんも、イソギンチャクさんも、その他、名前のわからない動物さんたちも、みんなみんなさようなら」
旅行鞄を持ち上げると、詩織はペットショップを後にした。
買った物はキャットフード一箱。なぜそんなものを? 自分に問いかけてみても、答えはわからない。たぶん予感がするからだろうか。旅の途中で、何かの動物と遭遇する。なぜかそんな気がしていた。希望を失った孤独な人間には、お腹を減らした、やはり孤独な動物がよく似合う。そう。例えば、白くて小さくて、か弱く甘えん坊な子猫のような動物が。
バニラ。その子に会ったらそう名付けよう。そして、一緒に旅に出よう。そう。一人と一匹だけで、どこか遠いところまで旅立とう。そこで、また一からやり直すのだ。今度は誰にも知られずに。今度は誰にも迷惑をかけずに。
「どうして、そんな風に笑うの? どうして、そんな風に囁くの?」
気がつくと口ずさんでいた。それは、詩織が今日思いついたばかりの、切なさいっぱいのオリジナルソングだった。
「悪魔の高笑いなんて、もう聞きたくないわ。天使の囁きなんて、もう必要ないわ。私が聞きたいのは、発射を告げるベルの音。私に必要なのは、勇気の詰まった旅行鞄。そして、ぐっすり眠れるマイ枕……」
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