みことのいどこ 2015年01月

ホームチーム 35 男として、父親として

35 男として、父親として

 大也は、食器棚の前で振り返った。重ねられた二枚のカレー皿が、手の中で小さな音を立てる。
「あのおじさんが?」
 聞き返すと、卓真は、「どうも、そうらしいんだ」と苦い顔でうなずいた。水を止め、食器洗いを中断させる。そして、詩織のマンションで、昨日聞いたという話を、今度は一切笑みを見せずに続けた。
 詩織の元夫、孝子の父親についてのことだった。下校中、大也に声をかけてきた、あの見知らぬ男。彼がそうなのだという。その存在に気づいたのは最近のことで、どうやら、狙いは詩織との復縁にあるらしい。目的を果たすためには、どんな手段を使ってくるかわからない。水本親子はそう口を揃えていた。そして、ここ数日不安な日々を送っているとのことだった。
「そこでだ」
 卓真が、手の平で太腿を一度叩く。バシッという力強い音となった。
「ここで、一緒に暮らしたらいいんじゃないかと思ってな。お前、どう思う?」
「うん。別にいいけど」
「そう言うだろうと思って、実は、二人にも昨日そう提案したんだ」
 ははは、と満足気に笑う卓真。
「母さんの部屋……」
 そう言いかけ、慌てて口をつぐむ。「あ、あの空き部屋、使ってもらおうか」と、中途半端な笑顔で言いなおした。
 子供相手に、気を使いすぎじゃないだろうか。そんな思いが顔に出ないよう注意しつつ、大也はこっくりと一度うなずいて見せた。そして、ちょっとだけ笑った。気を使いすぎの習性は、きっと遺伝によるものなのだろう。
「急いで、掃除しなきゃね」
「ああ。あの部屋、倉庫代わりみたいになってるからな。でもまあ、二、三日後って言っておいたから」
「だけど大丈夫なの? その人、ストーカーみたいなもんなんでしょ?」
「大丈夫だ。警察にも知らせておいたからな。今日、会社帰りに行ってきたんだ」
「あの手紙って、脅迫状だったの?」
「いや。まあ、そうたいしたもんじゃないよ」
 どうしてなのか、ここで卓真が急に口ごもる。
「どんなこと書いてあったの?」
「別に、どんなことも書いてねえよ」
 ぜんぜん答えになっていない。それだけ恐ろしい内容の手紙だったのだろうか。水本親子と、これから一つ屋根の下で一緒に暮らすのだ。大也としても、できるだけのことは知っておきたい。子供を怖がらせないために。そんな親心は、子供をますます不安にさせるだけでしかないのだ。
「俺にも見せてよ。あの手紙、受け取ったの俺なんだからさ」
 思わずムキになって言った。
「今は持ってないんだ。そ、そう。警察の方で預かってもらってるからな」
 そう口にすると、卓真はくるりと背を向けてしまった。蛇口を回し、食器洗いを再開させる。
「父さん……」
 大也が一歩踏み出したところで、インターホンのチャイムが鳴った。
「お、誰かな? 大也、出てみてくれ」
 ちょうどいいタイミング、と言わんばかりの口調で卓真が言った。
 大也は、やむを得ずリビングへと方向転換した。
「はい……。どちら様ですか……。あれ?」
 呼びかけるも、受話器から応答はない。代わりに、「どうした?」と、キッチンの方から声がかかる。
「誰もいないみたい。そんなに待たせたかなあ」
「何も聞こえないのか?」
「うん。いたずらかもね」
 大也は受話器を戻した。「いちおう見に行ってくるね」と玄関に向かいかけた時、卓真が慌てて飛び出してきた。
「いや。と、父さんが行くから、お前はそこにいろ」
 大声をあげ、そのままの勢いでリビングを出て行く。手には、まだ洗剤の泡が残っているように見えた。
「オメデトウ。ワタシハ、マリンデス」
 マリンのしゃべりを背中に受けつつ、大也も少し遅れて玄関へと向かった。
 卓真の姿はすでになかった。まさか、ピンポンダッシュしたいたずらっ子を、遠くまで追いかけて行ったのだろうか。
 しかし、そうではないことにすぐに気がついた。ドアの向こうから、バリバリッという音が聞こえてきたからだ。何をしているのだろう。張り紙のようなものをはがす音。そんな風に聞こえる。
 やがてドアが開いた。
「あ、やっぱりいたずらだったの?」
 大也の予想通りだったらしい。くしゃくしゃに丸められた紙が、不満顔の卓真の手に握られていた。
「うん。まあ、そんなところだ」
 相変わらず、卓真の歯切れは悪い。「さあ、早いとこ掃除すませちゃおうぜ」と、さっさと大也の横をすり抜けて行く。丸められた紙が、さらに強く握り潰されたように見えた。

 大丈夫なの?
 先ほど耳にした言葉が、不意に卓真の脳裏に蘇った。大也が口にした質問である。
 大丈夫、とは言い切れない。
 もしも、もう一度問われたとしたら、そう答えてしまうかもしれない。敵は、予想以上に執念深い。玄関ドアに貼られた詩織の写真を見た時には、背筋に思わず冷たいものが走った。あれはたぶん、ビデオ映像の一部をプリントしたものだろう。大也が先に見つけていたとしたら。考えたくもないことだが、可能性なら十分にあったはずだ。そして、その可能性はこれからも続くことになる。
「これ、捨てちゃっていいんじゃないの」
 その声に目をやると、大也がダンボール箱を大きく開いて見せた。中身は、料理本やグルメ雑誌でいっぱいになっている。
「そうだな。もうずいぶん古いやつだからなあ」
 卓真は、そのうちの一冊を手に取った。ぱらぱらとページをめくってみる。
「お、懐かしいなあ」
 カップメンの広告で手が止まった。卓真が開発部を任されて、初めて商品化したのが、この<具だくさんスタミナうどん>だった。肥満体型のお笑いタレントが、汗だくになりながらうどんをすすっている。
「明らかにキャスティングミスだったな。これじゃあ、わざわざ高カロリーをアピールしているようなもんだ。宣伝部は何考えてんだか。せっかくのいい商品だってのに、こんな売り方されたら……」
「反省はいいから、父さんも手伝ってよ」
 口を尖らせる大也に、卓真は、「すまん、すまん」と苦笑いで応じた。
「こっちのやつは、もうとっくに賞味期限切れてるよ」
 別のダンボールが開けられ、大也が再び抗議の声を上げる。中を覗くと、レトルトカレーがぎっしりと詰まっていた。
「あ、本当だ。これ、非常食にって思ってたやつだな。つまり、今までに非常事態が来ることはなかったってことだ。これはこれで、お前、幸せなことなんだぞ」
 こちらの言葉など耳に入っていないかのように、大也は黙々と部屋の片づけを続けている。それとは対照的に、卓真の手は何度となく止まった。そして、様々な思いがその都度頭をよぎった。家族のためにと、がむしゃらに働いていたあの頃。息子との二人暮らし、そこで味わった戸惑いの日々。そして、近いうちに訪れるだろう、新たな家族との生活。
 どうしても、今邪魔されるわけにはいかないのだ。大也、詩織、孝子。三人のことは自分が守。誰にも手は出させやしない。
 非常事態。たぶん今がそうなのだろう。そして自分が、男として、父親として、どうあるべきなのか。それが問われているのが今なのだろう。

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36 大人の事情
ホームチーム 目次

ホームチーム 34 予想外の提案

34 予想外の提案

 詩織は追いつめられていた。
 テーブルに置かれた携帯電話と、こちらを睨み続けている孝子とを、交互に見つめながら、「わかってるけど……」と苦しげに呟いた。
「けどは、なし」
 冷たく言い放つ孝子。
「わかってるのだが……」
「のだがも、なし」
 泣きそうになりながら、詩織はおずおずと携帯電話を手に取った。今夜ばかりは、どんな言いわけも聞いてもらえそうにない。今すぐ卓真に話さなければ、代わりに私が話す。娘にそこまで言われてしまったのだ。詩織としても覚悟を決めるほかなかった。
 ずっと秘密にしておくつもり?
 不意に、酒井翔子が口にした言葉を思い出す。根掘り葉掘り質問されたあげくの一言だった。
 なんとかごまかそう、と努力はした。けれど失敗に終わった。そもそも、ごまかすのが苦手な詩織なのだ。無駄に下手な嘘をつき、無駄に冷や汗を流しただけのことだった。
 噂好きの彼女が、このまま黙っていてくれるとは考えにくい。あとは時間の問題なのだ。詩織が会社一の有名人になるまで、果たしてどれぐらいの猶予が残されているのだろう。
「ママ」
 再び孝子の声が尖る。
「わ、わかってるってばあ」
 詩織の方は、ほとんど半泣きだ。孝子も翔子も、どうか記憶喪失になりますように。もしも今流れ星を発見したとしたら、迷わずそう願ってしまうに違いなかった。
「最初は、どう言ったらいいんだろう」
 これからのことを思うだけで、携帯を構える手が、情けないぐらいに震えてしまう。
「重要な話がある。まずはそれでいいでしょ」
 孝子が、度胸満点の口ぶりで即答する。
「その前に、もしもしぐらいは言った方がいいんじゃないかなあ」
 今度は返答がなかった。その代わり殺気のようなものが伝わってきた。
「わ、わかってるってばあ。かけるから。今すぐかけるから」
 詩織は慌てて身を引いた。携帯電話を奪おうと、孝子が手を伸ばしてきたからだ。
「ママ、いい加減に……」
「か、かけたわよ。ほら、今、呼び出し音鳴っちゃってるじゃない。ああ、どうしよう。かけちゃったあ」
 壁際まで行き、詩織はじっと運命の瞬間を待った。
 しかし、なかなか通じない。
「あれ? 卓真さん、どうしたんだろう。出ないなら出ないでもいいんだけど」
「ごまかしてるんじゃないでしょうね」と、孝子が疑わしそうに近づいてくる。
 その時だった。
『もしもし』
「あ、もしもし。あれ? た、卓真さん……」
 卓真ではなかった。そして、すぐにその声が誰であるかに気がついた。
「大也君よねえ。ええと、お父さんどうしたの?」
『知らないです。今家にいません。携帯、忘れていっちゃったみたい』
「ああ、そうなんだあ。よかった。いないんならしょうがないもんね。残念残念」
 その後、卓真の行き先や、いつぐらいに戻りそうかを確認したが、大也にはわからないようだった。
「ということだから、今日は仕方がないでしょ?」
「なんだか、急に元気になったみたい」と、孝子があきれたように言う。
 実際、電話を終えた詩織は、急に元気になっていた。明日など、永遠にやってこなければいいのにとさえ思った。
 しかし、次の瞬間には、「ひっ!」という小さな悲鳴を上げながら、孝子に抱きついていた。
「ただのインターホンじゃない」と、やはり孝子があきれたように言う。
 実際、ただのインターホンの音だった。
 孝子が受話器を取る。
「あ、火野さん?」

 五分後には、テーブルの上に、三つのティーカップが置かれた。孝子が入れたレモンティーである。卓真と詩織が向かい合わせに座り、孝子が詩織の隣に腰を下ろした。
 訪れたとき同様、堅い表情のままの卓真。パニック寸前ともいえそうな、顔面蒼白の詩織。
 来るべき瞬間が、ようやくやって来たのだ。孝子にはそれがわかった。
「孝子ちゃん、ちょっと席外してもらえるかな」
 卓真が重い口を開く。
 孝子はすぐさまかぶりを振り、レモンティーで一度喉を湿らせた。
「ママの過去だったら、私、なんでも知ってますから大丈夫です。今日は、その話に来たんですよね。どうぞ、どんなことでも質問してください。ママが答えられないようだったら、私が代わりに答えますから」
 長い沈黙。
 そのじれったさに、孝子は耐えられなかった。
「火野さん、誰かから聞いたんでしょ。それとも、手紙か何かで知らされたんですか? ママの別れた男のこと。いや、それより、ママが昔やってたこと。やっぱりその方が気になるのかな」
 身を乗り出すようにして、早口で言い放った。
 孝子が欲しいのは結論だ。過去を変えることなどできない。後は卓真が選択するだけなのだ。アダルトビデオに出演していたような、ふしだらな女とは結婚するわけにいかないのか。それとも、過去は過去。そう割り切った上で、今でも詩織と新しい家庭を築いていく気があるのか。
「手紙を受け取ったんだ。それから、写真とビデオも。どれも直接じゃなかったけど、たぶん、君の元夫の仕業なんだろうね」
 卓真の声音は、意外にも穏やかなものだった。詩織を見つめる視線にも、いたわるような温かさがある。どうして今まで黙っていたんだ。少なくともそんな厳しい言葉が出そうな雰囲気ではない。
「大丈夫、なのかなあ」
 卓真の視線が、途中から孝子の方に移った。
「前に少しだけ教えてもらったけど、ちょっとトラウマがあるって話。その男と、関係あるんだね」
「はい。関係大ありです」
 孝子が、ちらりと隣に目をやってから答えた。詩織は、先ほどからずっとうつむきっ放しだ。
「警察には?」と卓真。
 孝子はかぶりを振った。
「警察なんて、当てになりませんから」
 卓真が「うーん」と小さく唸った。思い出したかのように、ティーカップへと手を伸ばす。
「即解決、というわけにはいかないだろうけど……」
 そこでいったん間を置き、すでに温くなっているだろうレモンティーを、卓真は一気に飲み干した。
「二人とも、うちで一緒に暮らさないか?」
 予想外の提案だった。
「い、いいんですか?」
 孝子は思わずそう口にしていた。
「ああ。やかましい鳥や、生意気ながきんちょに我慢できればの話だけど」
 卓真がやさしく微笑む。いいんですかの意味を、正しく理解していないのかもしれない。孝子が言ったのは、母のような女でもいいんですか、という意味だ。アダルトビデオは大好き。でも、そこに出ているような女とは、絶対に結婚したくない。孝子が知っている男とは、そういう生き物なのだ。
「空き部屋掃除するのに、二、三日待ってもらえるかな。それから、やっぱり警察には相談しておいた方がいいと思う。あとは、ええと、引っ越し屋はどうしよう。とりあえず、俺の車だけで、どうにかなるかな。一時避難みたいなもんだから、大きいものは、布団ぐらいだろうし……」
 旅行の計画でも立てているかのように、卓真の口調は至って愉快気だ。
 孝子の隣からは、詩織のすすり泣きが聞こえてくる。「ごめんなさい」という謝罪の言葉や、「ありがとう」という感謝の言葉や、「私、枕が変わると眠れないんです」という我儘な言葉も聞こえてくる。
 母のような女でもいいんですか?
 そんなこと、確認する必要はないのかもしれない。火野卓真という男は、孝子が初めて遭遇した、珍しいタイプの生き物に違いない。

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35 男として、父親として
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ホームチーム 33 気がかり

33 気がかり

 後姿を見ただけで、大也はすぐにその人物に気がついた。友人とはそういうものだ。
 足を速め、守との距離を徐々に縮めていく。そうしながら考えた。どんな言葉をかけるべきかを。どんな表情を見せるべきかを。
 停学期間を終えたらしく、守は今日から学校に来ていた。教室に姿を現した彼に向かって、大也は軽く手を上げて見せた。「よお」と小さく声もかけてみた。
 しかし、守の表情には何の変化も起こらなかった。見えなかったわけではないだろう。聞こえなかったわけでもないだろう。守は無視したのだ。大也とはかつて友人だった。そういう宣言だったのかもしれない。
「ちょっと、そこの君」
 その声に、大也はぴたりと足を止めた。三、四メートル先で、同じように守も立ち止り、こちらを振り返った。
「火野君だよね」
「あ、はい。そうですけど」
 見知らぬ中年男が、「これ、君のお父さんに頼まれたものなんだ」と、いきなり封筒を押しつけてきた。
 大也は、反射的にそれを受け取り、チラリと守の方を見やった。彼はすでに歩き始めていた。こちらには何の関心もない。かつての友人のことなどどうでもいい。そう言わんばかりの早歩きだった。
「それ、落とさないようにね。ちゃんとお父さんに……」
 男は、その後もいくつか言葉を続けた。何か大事な話が含まれていたのかもしれない。
 しかし、今の大也には無理だった。意識はまったく別のところにあったからだ。
 違うんだ。思わずそう叫びたくなる。大也の胸中では、今日すでに何度も叫び声を上げていた。
 守とは、今まで通りの関係でいたい。きっと、そのためのいい方法があるはずだ。どうして、もっと別の言い方ができなかったのだろう。説得すべき相手は父親だったかもしれない。次から次へと、後悔の言葉が湧き上がる。しかし、どれ一つ声には出なかった。
 どれぐらい、その場に立ちつくしていたのだろう。気がつくと、守の姿も、中年男の姿も見えなくなっていた。

 同封の写真、もうご覧いただけましたよね。
 私としては、先日お届けした、あの動画ファイルで十分だろうなと思っていました。でもそうはいきませんでしたね。単なるいたずら。あなたの目にはそうとしか映らなかったのでしょう。
 さて、今回はどうでしょうか。その写真の女性、心当たりありませんか? よくご覧になってくださいね。これはあなたのためなんですから。そしてもちろん、息子さんのためでもある。
 この際なのでずばり言いますよ。その写真に写っている女性は、水本詩織です。十数年前の姿なので、わかりにくいかもしれませんね。しかし間違いありません。それは彼女です。水本詩織。あなたが今お付き合いしている、水本詩織に間違いありません。
 この写真。そしてあの動画。あなたにとってはすでにご存じのことだったでしょうか。おそらくそうではないでしょうね。彼女の虚言癖には、私自身ずいぶんと悩まされてきましたから。
 あなたに言いたいことは一つだけです。一刻も早く彼女と別れなさい。もしも、すでに婚約しているというのであれば、ただちに解消すべきです。わざわざ不幸を背負いこむような真似はよしなさい。前述したように、これは息子さんのためでもあるんですよ。
 水本詩織、本人に確認するのも結構でしょう。それで気がすむのならそうしてください。ただし、彼女が正直に白状するかどうかは別ですよ。問題点は虚言癖だけではありませんからね。
 たとえば、お金の問題がそうです。彼女の作った借金によって、今まで私がどれだけ苦労させられてきたことか。このままいけば、いずれあなたも同じ目に……。

 卓真は、そこで便箋を折りたたんだ。すぐさま封筒の中へとしまいこむ。
「どんなやつだった?」
 大也が、「え?」という声とともに振り返る。新しい言葉を、マリンに教えていたところだったらしい。鳥籠の中から、「オデメトー」というわけのわからない声が聞こえてくる。
 卓真は、封筒を軽く振って見せた。
「これだよ、これ。どんなやつに渡されたんだ?」
「ああ。それね。ええと、どんなやつっていわれても……」
 しばらく考えこんでから、やがて言いわけするような口調で、「だって、すぐにどこか行っちゃったから」と苦笑いする。
「何か、特徴の一つや二つあっただろう」
 卓真は早口で言った。いらいら気分が、ついその口ぶりに出てしまう。
「普通のおじさんだったよ。父さんに頼まれたものだから、それ、落とさないように気をつけてって、そう言ってただけ」
 間違いなく同一人物だ。卓真の中で、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。出勤中の翔子の場合といい、下校中に渡されたという、今回の大也の場合といい、やり方があまりに回りくどく陰湿だ。
 まだ一度も会ったことのない人物だが、正体はもうわかっている。詩織の元夫。そうに違いない。それ以外の可能性は考えにくい。
 そういえば、孝子の口から以前聞いたことがあった。はっきりした話ではなかったが、元夫がどんな人物であるか、そしてどんな目に合されてきたか、それらを想像するにはあれで十分だった。
「中身、なんだったの?」
 不意をつく質問だった。大也の視線は、テーブルの上に置かれた封筒を捕えている。
「いや、な、なんでもない、なんでもない」
 最悪のリアクション。そう思いつつも、卓真は大慌てで封筒に手を伸ばした。ドンッ、と意外なほど派手に響く。
「ひゃ、百人一首の練習だ」
 ごまかしの言葉としても最悪だった。
「ふーん。まあ、別にいいけど」
 大也も、さほど興味はなかったのだろう。すぐに背を向け、再びマリンと向かいあった。
 どこまでが本当だろう。大也の後姿を見つめながら、卓真は先ほど読んだ手紙のことを考えた。
 写真の女性は、どうやら詩織に間違いないようだった。そうなると、あの動画ファイルも、ということになるのだろうか。一瞬耳にしたあの悩ましい喘ぎ声。思い出そうとするが、なかなかうまくいかない。認めたくない、という意識が卓真の思考を邪魔する。
 過ぎ去った過去を、今からどうこう言うつもりはない。自分が惚れた女は、現在の水本詩織だ。その気持ちに変化などない。あるわけがないのだ。もしもこれをきっかけに別れでもすれば、それはストーカー男の思う壷ではないか。
 ただ……。
 気がかりなのは、やはり大也がどう思うかということだ。
 卓真は、大きく吐息をついてから立ち上がった。忌々しい手紙の入った封筒を、乱暴な手つきでズボンのポケットにねじこむ。
「大也」
 呼びかけると、大也がひょいと振り返った。まだまだ幼さの残る表情である。
「父さん、これからちょっと行くところあるから、留守番頼むな」

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34 予想外の提案
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ホームチーム 32 一番の課題

32 一番の課題

 火野家では、連日二つの特訓がおこなわれていた。
 一つは、始球式のためのピッチング練習。大也としては、もっとキャッチボールの回数を増やしたかった。しかし、卓真の肩を思えば、そう無理も言えず、だからといって、守に頼むというわけにもいかない。結果、部屋の中での練習がそのほとんどになっていた。きれいなフォームで投げる、というのが今の一番の課題だ。部屋に置いてあるいくつかのものが壊れたが、それはきっと仕方がないことなのだ。
 もう一つの特訓とは、マリンに新しい言葉を覚えさせることだった。ワタシハ、マリンデス。ホームラン、ホームラン。ハールーオー、ハールーオー。それに続く新たなレパートリーの習得に、大也は根気強くマリンと向き合った。同じ言葉を、数えきれないほどに繰り返した。おめでとう、というのがそれだ。本当はもっと長いセリフだったのだが、結局その短い一言に落ち着いた。妥協に妥協を重ねた末の決断である。
「あっ。今言ったよね」
 大也の耳には確かに聞こえた。マリンの「オメデトウ」の一言が。
 しかし、卓真の反応は薄かった。こちらを見ることもなく、「何がだ?」と興味なさげに言うだけだった。
「一瞬だったけど、ちゃんと言ったじゃん。オメデトウってさ。今猛特訓してるところなんだ」
「ああ、そうなのかあ」
 先ほどと変わらず、卓真の関心はテレビにしか向けられていない。今日は、帰宅してからずっとこんな調子なのだ。リモコンを持つ手が、いつまで経っても落ち着かず、たった今、また一つ別のチャンネルに切り替えられたところだった。
「さっきから、なに探して……」
 大也は途中で口をつぐんだ。不意に卓真の手が上がったからだった。静かに、という意味らしい。
 テレビ画面では、見知らぬ中年男が四人、カメラに向かって深々と頭を下げていた。何かの記者会見、しかも謝罪会見なのだろう。激しいカメラのシャッター音。記者席からは、次々と厳しい質問が投げかけられている。
 何が原因だったんですか? 発表が遅れた理由を説明してください。情報を隠す意図があったんじゃないんですか? 社長としてどう責任を取るつもりですか? もっと早く自主回収するべきだったのでは? 被害を受けた方に対して……。
 大也にも事情がわかってきた。記者たちの質問に、ひたすら謝罪の言葉を口にし続けている男。おそらく彼が、卓真の勤めている会社のトップなのだろう。
『えー、原因につきましては、げ、現在、調査中ということもありまして……』
 冷や汗で額をてからせている会社社長。
「マスコミのくそったれどもが」
 大也の近くで毒を吐く社員A。
「ホームラン、ホームラン」
 空気を読むことのできないセキセイインコA。
 今日の特訓は中止にした方がいいらしい。おめでとう。その場違いな一言が、マリンを焼き鳥に変えてしまうかもしれないのだ。
「なんか、大変そうだね」
 大也には、それぐらいの言葉しか思いつかなかった。
「大変なんてもんじゃねえよ。どこかのあほんだらが、うちの大切な商品に、殺虫剤か何か入れやがったらしいんだ。一番の被害者はうちの会社なんだよ。それなのに、あのマスコミ連中ときたら……」
 卓真の怒りは、やがて、「マウンテンズの優勝に、水をさすことにならなきゃいいんだがなあ」という心配事に変わり、さらには、「お前、将来何になるつもりだ?」という唐突な質問へと変化していった。
「将来? そんなこと、まだ考えてないよ」
 大也が言うと、卓真の発言にさらなる変化が生じた。今度は、懇願するような口調だ。
「どんな仕事でもいいが、マスコミと、ヤクザと、それから、AV男優だけはやめてくれよな。ほんと頼むぜ」
 苦笑するしかない大也である。親心というものは本当に難しい。というより、わけがわからない。

 卓真とは、とうとう二人っきりになることができなかった。残念という思い。ほっと胸を撫で下ろしたくなる思い。二つの感情が、詩織の中で複雑に絡み合っていた。
 孝子にどう言いわけしよう。
 それを考えると、会社に行く時以上に足取りが重くなる。
 会社内のごたごたで、今はゆっくり話すチャンスなどない。そう言うしかないだろう。しかもそれは嘘ではない。卓真に何もかも打ち明ける。その約束は、決して忘れたわけではないのだ。
「ああ、忘れたい」
 その時、いきなり肩を叩かれた。
「何を忘れたいって?」
 酒井翔子だった。「ずっと様子がおかしいと思ってたけど、もしかして、詩織なんじゃないの?」と、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「な、なに? 何のこと?」
「カップメンに、毒入れた犯人」
 そう言って大笑いする。
 笑い事じゃないでしょ、と詩織が反論しかけたところで、今度は強引に腕を引っ張られた。
「早く、こっちこっち」
 わけがわからないまま、逃げるかのようにして喫茶店へと走りこむ。
 そこでようやく、翔子の口から事情を聞かされた。
「ああ、もうちょっとで捕まるところだった。あれ、絶対新聞記者よ。危ない危ない」
 やはり笑い事ではなかったのだ。マスコミには、詩織も何度かマイクを突き付けられたことがあった。被害者の方へ一言。そう言いつつも、絶対に一言だけでは済まないぞ、と記者たちの目は言っている。カメラの前で土下座して謝れ。彼らが望んでいるのはきっとそういうことなのだろう。
「うちの会社に、何か恨みでもあるのかしらね」
 コーヒーカップ片手に、翔子が顔を寄せてくる。声を潜めつつも、その口ぶりはどこか楽しげだ。彼女の中での今の順位は、事件に対する好奇心が一番。会社を心配する気持ちが二番、といったところか。
「会社への恨みじゃなくて、特定の社員に対してってことも、十分ありうるわよねえ」
 顎に指を添え、眉間に深い縦皺を刻んだ表情は、まるで難事件に挑む名探偵のようだ。うーん、という苦しげな唸り。でもやっぱり楽しそうだ。
 詩織の耳にも、いくつか新しい情報は入っていた。商品から検出されたのは、殺虫剤に似た成分であること。生産ラインに問題点はなかったこと。カップメンの容器から、注射針でできたような小さな跡が見つかったこと。いずれもテレビのニュースから得た情報だった。会社に対する恨み、あるいは個人的恨みによる犯行では? 今朝のワイドショーでは確かそんなことを言っていた。
「最近、詩織の周りで、何か変わったことなかった?」
 翔子に尋ねられたが、これといって詩織に思いつくことはない。返事の代わりに軽くかぶりを振って見せた。今はそれどころでない、というのが本音だった。過去の秘密を、卓真にどう打ち明けるか。詩織にとって最大の問題はそれなのだ。
「私の周りでは、実は一つあったの、変なこと。私というより、部長の周りって言った方がいいのかな」
 コーヒーを飲みながら、詩織は黙って同僚の話に耳を傾けていた。冷静でいられたのは、最初の一、二分程度だっただろうか。話が進むにつれ、指先が震え、額から冷や汗が流れ出した。
 謎の男から、卓真宛ての封筒を手渡された。中身は、動画ファイルが収められたCD。翔子と卓真で、そのファイルを確認したのだという。どこにでもあるようなアダルトビデオの映像。卓真にはそう見えたらしい。ただのいたずら、と判断したのだ。
「詩織、あなたって……」
 しかし、翔子は違っていた。
「昔、どんな仕事していたの?」
 そして、名探偵の興味は、いつしかまったく別の事柄へ向けられることとなった。

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33 気がかり
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プロフィール

片瀬みこと

Author:片瀬みこと
札幌在住のアマチュア作家

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