ホームチーム 35 男として、父親として
35 男として、父親として
大也は、食器棚の前で振り返った。重ねられた二枚のカレー皿が、手の中で小さな音を立てる。
「あのおじさんが?」
聞き返すと、卓真は、「どうも、そうらしいんだ」と苦い顔でうなずいた。水を止め、食器洗いを中断させる。そして、詩織のマンションで、昨日聞いたという話を、今度は一切笑みを見せずに続けた。
詩織の元夫、孝子の父親についてのことだった。下校中、大也に声をかけてきた、あの見知らぬ男。彼がそうなのだという。その存在に気づいたのは最近のことで、どうやら、狙いは詩織との復縁にあるらしい。目的を果たすためには、どんな手段を使ってくるかわからない。水本親子はそう口を揃えていた。そして、ここ数日不安な日々を送っているとのことだった。
「そこでだ」
卓真が、手の平で太腿を一度叩く。バシッという力強い音となった。
「ここで、一緒に暮らしたらいいんじゃないかと思ってな。お前、どう思う?」
「うん。別にいいけど」
「そう言うだろうと思って、実は、二人にも昨日そう提案したんだ」
ははは、と満足気に笑う卓真。
「母さんの部屋……」
そう言いかけ、慌てて口をつぐむ。「あ、あの空き部屋、使ってもらおうか」と、中途半端な笑顔で言いなおした。
子供相手に、気を使いすぎじゃないだろうか。そんな思いが顔に出ないよう注意しつつ、大也はこっくりと一度うなずいて見せた。そして、ちょっとだけ笑った。気を使いすぎの習性は、きっと遺伝によるものなのだろう。
「急いで、掃除しなきゃね」
「ああ。あの部屋、倉庫代わりみたいになってるからな。でもまあ、二、三日後って言っておいたから」
「だけど大丈夫なの? その人、ストーカーみたいなもんなんでしょ?」
「大丈夫だ。警察にも知らせておいたからな。今日、会社帰りに行ってきたんだ」
「あの手紙って、脅迫状だったの?」
「いや。まあ、そうたいしたもんじゃないよ」
どうしてなのか、ここで卓真が急に口ごもる。
「どんなこと書いてあったの?」
「別に、どんなことも書いてねえよ」
ぜんぜん答えになっていない。それだけ恐ろしい内容の手紙だったのだろうか。水本親子と、これから一つ屋根の下で一緒に暮らすのだ。大也としても、できるだけのことは知っておきたい。子供を怖がらせないために。そんな親心は、子供をますます不安にさせるだけでしかないのだ。
「俺にも見せてよ。あの手紙、受け取ったの俺なんだからさ」
思わずムキになって言った。
「今は持ってないんだ。そ、そう。警察の方で預かってもらってるからな」
そう口にすると、卓真はくるりと背を向けてしまった。蛇口を回し、食器洗いを再開させる。
「父さん……」
大也が一歩踏み出したところで、インターホンのチャイムが鳴った。
「お、誰かな? 大也、出てみてくれ」
ちょうどいいタイミング、と言わんばかりの口調で卓真が言った。
大也は、やむを得ずリビングへと方向転換した。
「はい……。どちら様ですか……。あれ?」
呼びかけるも、受話器から応答はない。代わりに、「どうした?」と、キッチンの方から声がかかる。
「誰もいないみたい。そんなに待たせたかなあ」
「何も聞こえないのか?」
「うん。いたずらかもね」
大也は受話器を戻した。「いちおう見に行ってくるね」と玄関に向かいかけた時、卓真が慌てて飛び出してきた。
「いや。と、父さんが行くから、お前はそこにいろ」
大声をあげ、そのままの勢いでリビングを出て行く。手には、まだ洗剤の泡が残っているように見えた。
「オメデトウ。ワタシハ、マリンデス」
マリンのしゃべりを背中に受けつつ、大也も少し遅れて玄関へと向かった。
卓真の姿はすでになかった。まさか、ピンポンダッシュしたいたずらっ子を、遠くまで追いかけて行ったのだろうか。
しかし、そうではないことにすぐに気がついた。ドアの向こうから、バリバリッという音が聞こえてきたからだ。何をしているのだろう。張り紙のようなものをはがす音。そんな風に聞こえる。
やがてドアが開いた。
「あ、やっぱりいたずらだったの?」
大也の予想通りだったらしい。くしゃくしゃに丸められた紙が、不満顔の卓真の手に握られていた。
「うん。まあ、そんなところだ」
相変わらず、卓真の歯切れは悪い。「さあ、早いとこ掃除すませちゃおうぜ」と、さっさと大也の横をすり抜けて行く。丸められた紙が、さらに強く握り潰されたように見えた。
大丈夫なの?
先ほど耳にした言葉が、不意に卓真の脳裏に蘇った。大也が口にした質問である。
大丈夫、とは言い切れない。
もしも、もう一度問われたとしたら、そう答えてしまうかもしれない。敵は、予想以上に執念深い。玄関ドアに貼られた詩織の写真を見た時には、背筋に思わず冷たいものが走った。あれはたぶん、ビデオ映像の一部をプリントしたものだろう。大也が先に見つけていたとしたら。考えたくもないことだが、可能性なら十分にあったはずだ。そして、その可能性はこれからも続くことになる。
「これ、捨てちゃっていいんじゃないの」
その声に目をやると、大也がダンボール箱を大きく開いて見せた。中身は、料理本やグルメ雑誌でいっぱいになっている。
「そうだな。もうずいぶん古いやつだからなあ」
卓真は、そのうちの一冊を手に取った。ぱらぱらとページをめくってみる。
「お、懐かしいなあ」
カップメンの広告で手が止まった。卓真が開発部を任されて、初めて商品化したのが、この<具だくさんスタミナうどん>だった。肥満体型のお笑いタレントが、汗だくになりながらうどんをすすっている。
「明らかにキャスティングミスだったな。これじゃあ、わざわざ高カロリーをアピールしているようなもんだ。宣伝部は何考えてんだか。せっかくのいい商品だってのに、こんな売り方されたら……」
「反省はいいから、父さんも手伝ってよ」
口を尖らせる大也に、卓真は、「すまん、すまん」と苦笑いで応じた。
「こっちのやつは、もうとっくに賞味期限切れてるよ」
別のダンボールが開けられ、大也が再び抗議の声を上げる。中を覗くと、レトルトカレーがぎっしりと詰まっていた。
「あ、本当だ。これ、非常食にって思ってたやつだな。つまり、今までに非常事態が来ることはなかったってことだ。これはこれで、お前、幸せなことなんだぞ」
こちらの言葉など耳に入っていないかのように、大也は黙々と部屋の片づけを続けている。それとは対照的に、卓真の手は何度となく止まった。そして、様々な思いがその都度頭をよぎった。家族のためにと、がむしゃらに働いていたあの頃。息子との二人暮らし、そこで味わった戸惑いの日々。そして、近いうちに訪れるだろう、新たな家族との生活。
どうしても、今邪魔されるわけにはいかないのだ。大也、詩織、孝子。三人のことは自分が守。誰にも手は出させやしない。
非常事態。たぶん今がそうなのだろう。そして自分が、男として、父親として、どうあるべきなのか。それが問われているのが今なのだろう。
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36 大人の事情
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大也は、食器棚の前で振り返った。重ねられた二枚のカレー皿が、手の中で小さな音を立てる。
「あのおじさんが?」
聞き返すと、卓真は、「どうも、そうらしいんだ」と苦い顔でうなずいた。水を止め、食器洗いを中断させる。そして、詩織のマンションで、昨日聞いたという話を、今度は一切笑みを見せずに続けた。
詩織の元夫、孝子の父親についてのことだった。下校中、大也に声をかけてきた、あの見知らぬ男。彼がそうなのだという。その存在に気づいたのは最近のことで、どうやら、狙いは詩織との復縁にあるらしい。目的を果たすためには、どんな手段を使ってくるかわからない。水本親子はそう口を揃えていた。そして、ここ数日不安な日々を送っているとのことだった。
「そこでだ」
卓真が、手の平で太腿を一度叩く。バシッという力強い音となった。
「ここで、一緒に暮らしたらいいんじゃないかと思ってな。お前、どう思う?」
「うん。別にいいけど」
「そう言うだろうと思って、実は、二人にも昨日そう提案したんだ」
ははは、と満足気に笑う卓真。
「母さんの部屋……」
そう言いかけ、慌てて口をつぐむ。「あ、あの空き部屋、使ってもらおうか」と、中途半端な笑顔で言いなおした。
子供相手に、気を使いすぎじゃないだろうか。そんな思いが顔に出ないよう注意しつつ、大也はこっくりと一度うなずいて見せた。そして、ちょっとだけ笑った。気を使いすぎの習性は、きっと遺伝によるものなのだろう。
「急いで、掃除しなきゃね」
「ああ。あの部屋、倉庫代わりみたいになってるからな。でもまあ、二、三日後って言っておいたから」
「だけど大丈夫なの? その人、ストーカーみたいなもんなんでしょ?」
「大丈夫だ。警察にも知らせておいたからな。今日、会社帰りに行ってきたんだ」
「あの手紙って、脅迫状だったの?」
「いや。まあ、そうたいしたもんじゃないよ」
どうしてなのか、ここで卓真が急に口ごもる。
「どんなこと書いてあったの?」
「別に、どんなことも書いてねえよ」
ぜんぜん答えになっていない。それだけ恐ろしい内容の手紙だったのだろうか。水本親子と、これから一つ屋根の下で一緒に暮らすのだ。大也としても、できるだけのことは知っておきたい。子供を怖がらせないために。そんな親心は、子供をますます不安にさせるだけでしかないのだ。
「俺にも見せてよ。あの手紙、受け取ったの俺なんだからさ」
思わずムキになって言った。
「今は持ってないんだ。そ、そう。警察の方で預かってもらってるからな」
そう口にすると、卓真はくるりと背を向けてしまった。蛇口を回し、食器洗いを再開させる。
「父さん……」
大也が一歩踏み出したところで、インターホンのチャイムが鳴った。
「お、誰かな? 大也、出てみてくれ」
ちょうどいいタイミング、と言わんばかりの口調で卓真が言った。
大也は、やむを得ずリビングへと方向転換した。
「はい……。どちら様ですか……。あれ?」
呼びかけるも、受話器から応答はない。代わりに、「どうした?」と、キッチンの方から声がかかる。
「誰もいないみたい。そんなに待たせたかなあ」
「何も聞こえないのか?」
「うん。いたずらかもね」
大也は受話器を戻した。「いちおう見に行ってくるね」と玄関に向かいかけた時、卓真が慌てて飛び出してきた。
「いや。と、父さんが行くから、お前はそこにいろ」
大声をあげ、そのままの勢いでリビングを出て行く。手には、まだ洗剤の泡が残っているように見えた。
「オメデトウ。ワタシハ、マリンデス」
マリンのしゃべりを背中に受けつつ、大也も少し遅れて玄関へと向かった。
卓真の姿はすでになかった。まさか、ピンポンダッシュしたいたずらっ子を、遠くまで追いかけて行ったのだろうか。
しかし、そうではないことにすぐに気がついた。ドアの向こうから、バリバリッという音が聞こえてきたからだ。何をしているのだろう。張り紙のようなものをはがす音。そんな風に聞こえる。
やがてドアが開いた。
「あ、やっぱりいたずらだったの?」
大也の予想通りだったらしい。くしゃくしゃに丸められた紙が、不満顔の卓真の手に握られていた。
「うん。まあ、そんなところだ」
相変わらず、卓真の歯切れは悪い。「さあ、早いとこ掃除すませちゃおうぜ」と、さっさと大也の横をすり抜けて行く。丸められた紙が、さらに強く握り潰されたように見えた。
大丈夫なの?
先ほど耳にした言葉が、不意に卓真の脳裏に蘇った。大也が口にした質問である。
大丈夫、とは言い切れない。
もしも、もう一度問われたとしたら、そう答えてしまうかもしれない。敵は、予想以上に執念深い。玄関ドアに貼られた詩織の写真を見た時には、背筋に思わず冷たいものが走った。あれはたぶん、ビデオ映像の一部をプリントしたものだろう。大也が先に見つけていたとしたら。考えたくもないことだが、可能性なら十分にあったはずだ。そして、その可能性はこれからも続くことになる。
「これ、捨てちゃっていいんじゃないの」
その声に目をやると、大也がダンボール箱を大きく開いて見せた。中身は、料理本やグルメ雑誌でいっぱいになっている。
「そうだな。もうずいぶん古いやつだからなあ」
卓真は、そのうちの一冊を手に取った。ぱらぱらとページをめくってみる。
「お、懐かしいなあ」
カップメンの広告で手が止まった。卓真が開発部を任されて、初めて商品化したのが、この<具だくさんスタミナうどん>だった。肥満体型のお笑いタレントが、汗だくになりながらうどんをすすっている。
「明らかにキャスティングミスだったな。これじゃあ、わざわざ高カロリーをアピールしているようなもんだ。宣伝部は何考えてんだか。せっかくのいい商品だってのに、こんな売り方されたら……」
「反省はいいから、父さんも手伝ってよ」
口を尖らせる大也に、卓真は、「すまん、すまん」と苦笑いで応じた。
「こっちのやつは、もうとっくに賞味期限切れてるよ」
別のダンボールが開けられ、大也が再び抗議の声を上げる。中を覗くと、レトルトカレーがぎっしりと詰まっていた。
「あ、本当だ。これ、非常食にって思ってたやつだな。つまり、今までに非常事態が来ることはなかったってことだ。これはこれで、お前、幸せなことなんだぞ」
こちらの言葉など耳に入っていないかのように、大也は黙々と部屋の片づけを続けている。それとは対照的に、卓真の手は何度となく止まった。そして、様々な思いがその都度頭をよぎった。家族のためにと、がむしゃらに働いていたあの頃。息子との二人暮らし、そこで味わった戸惑いの日々。そして、近いうちに訪れるだろう、新たな家族との生活。
どうしても、今邪魔されるわけにはいかないのだ。大也、詩織、孝子。三人のことは自分が守。誰にも手は出させやしない。
非常事態。たぶん今がそうなのだろう。そして自分が、男として、父親として、どうあるべきなのか。それが問われているのが今なのだろう。
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