みことのいどこ 2014年06月

ホームチーム 5 正直な思い

5 正直な思い

 卓真は思った。いいスタートを切ることができた、と。
 話は大いに弾んだ。卓真と詩織との間ではいつものことだったが、お互いが子連れという状況にあっても、それは同じことだった。レストランという場所も良かったのだろう。目の前においしい料理さえあれば、話題に困ることはない。そもそもおいしい料理とは人を幸福な気分へと導くものなのだ。
「このおいしさが、レトルトで再現できればいいんだけどね」
 卓真は、ビーフシチューを軽くかき混ぜながら言った。
「レトルトでも、最近おいしいものあるじゃないですか。カレーとか」
 微笑む詩織に、卓真はいやいやと首を振って見せる。「こいつが問題でね」そう言ってスプーンを持ち上げた。
「え? ああ、お肉ですか?」
「そう。この肉のジューシーさが、どうしても出せないんだよ」
「言われてみると、レトルトのお肉、ちょっとパサパサしてるかも」
 小首をかしげる詩織。視線はスプーンの動きを追っている。卓真の口へと、牛肉が運ばれて行くのを確認しているのだろう。おいしそうに食事する男の人の顔っていいですよね、と彼女は以前からよく言っていた。それだけで、詩織自身も幸せな気持ちになれるのだそうだ。
 お安いご用だとばかりに、卓真は精一杯の笑顔で牛肉を頬張って見せた。
 詩織がうれしそうに目を細める。予想通りの反応だった。
「いい味だ」と、卓真の声も自然と弾む。実際に料理の出来もなかなかのものだった。口内いっぱいに広がる牛肉の風味。そして、正面の席でやさしく微笑む彼女。未来へと繋がる幸福がここにはあった。
 大也も孝子も、親たちの会話になかなか入ってこようとはしない。しかし、それでいいと卓真は思っている。彼の方からも、あえて話しかけないようにしていたぐらいなのだ。それは、子供たちを戸惑わせないための、卓真なりの配慮だった。そして戦略の一つでもあった。こういう席では無理しないことが一番なのだ。
 自然でいい。焦る必要など何もない。そう。自然体でさえいれば、後は時間が解決してくれるのだ。
 卓真は、チラリと詩織の隣へと目をやった。そして、そこに座る未来の娘に向かって、やさしく微笑みかけてみた。

 孝子は思った。なんだこの不自然な笑顔は、と。
 何か話しかけられるのだろうかと、孝子は一瞬身構えた。しかし、男の視線は、すぐに母の手元へと移った。
「そいつもうまそうだ」
 そのわざとらしい明るい声音が、孝子をますます不愉快な気分にさせる。
「はい。とってもとってもおいしいです」
 一方でそう答える詩織の口調には、不愉快さの欠片も存在していない。自分の前に置かれたオムライスと、正面に座る卓真とを交互に見つめ、「玉子がトロットロ」と満面の笑みで続ける。
「そのトロットロも、再現できないうちの一つなんだよなあ」
「でも、インスタント食品には、インスタント食品にしかない良さってありますよね」
「あるある。特にインスタントラーメン。あれって無性に食べたくなる時がある。不思議なもんで、そういう時は、絶対インスタントじゃないと満足できないんだよなあ」
「私の場合、カップうどんです。去年まで二位でしたけど、今年は間違いなくナンバーワンです。ラーメンをトップの座から引きずり降ろしちゃいました。生卵をプラスして、月見にしたり、えびの天ぷら乗せて豪華にしたり……」
 盛り上がっていた二人の会話が、そこでピタリと止まった。
 孝子は反射的に口元を押さえた。しかし間に合わなかったらしい。一度発してしまった舌打ちは、もう二度と自分の元へは戻って来てくれなかった。
 三人の間に、居心地の悪い妙な空気が流れる。ちなみに、一人大也だけが、黙々とカツカレーを食べ続けていた。
 孝子はフォークを手に取った。もうどうにでもなれという気分だった。気に入らないものは気に入らない。それが正直な思いなのだから、舌打ちが出るくらい仕方がないではないか。娘の気持ちに気づかない母も、おしゃべりな中年男も、カレー大好き少年も、このグラタンの中に入っているブロッコリーも、とにかくここにあるすべてが気に入らなかった。

 詩織は思った。隣に座る娘に、もっと注意を向けておくべきだった、と。
「グラタン、そんなに熱かったの?」
 とりあえず言ってみた。娘の舌打ちは、グラタンがあまりにも熱かったせいであって、決してそれ以外の原因ではない。そんな願いをこめての問いかけである。
「もうとっくに冷めてるよ」
 あっさりと否定する孝子。しかも卓真の方を一瞥してから、「私が気に入らないのはね」と、棘のある口調で続ける。
「わ、わかった。あれ、あれのことでしょ」
 詩織は慌てて遮った。頭をフル回転させ、“あれ”に当てはまる言葉を探す。今はどんな話だって構わない。この気まずい雰囲気を変えることさえできるなら。
 ひらめきはすぐに訪れた。
「痴漢!」
 いい話題を思い出した、と詩織は内心でガッツポーズを取った。
「学校で、今騒動になってるのよね。そのこと思い出したんでしょ? そりゃあ舌打ちもしたくなるわよね。被害にあったっていうの、ソフトボール部の子なんでしょ?」
 孝子は何も答えない。その代り卓真が、「へえ、そんなことがあったんだ」と話しに乗ってきた。
「そうらしいんです。今のところ、うちの娘は大丈夫みたいですけど」
「近頃は、おかしな人間が本当に多いからね」
「ですよね。舌打ちもしたくなっちゃいますよね」
 本当にいい話題を思い出した、と詩織は内心で歓喜の舞を踊った。

 大也は思った。あとどれぐらいしたら家に帰れるのだろうか、と。
 父からは、無理してしゃべる必要はないと言われている。変に張り切ったりすると、こういう席では空回りしてしまうことが多いのだそうだ。
「女二人っきりの生活だと、何かと心配だろうね」
 卓真は、水本親子を交互に見つめ、「男がそばに一人でもいたら、ちょっとは安心できるんだろうけど」と張り切った口調で続けた。「男が二人そばにいたら、もう怖いものなしだな」とさらに付け加える。
 詩織はニコニコしていたものの、孝子の方は、それこそ痴漢にでもあったかのような不快な顔つきになっている。
 変に張り切ったりすると、こういう席では空回りしてしまうことが多い。
 なるほど、確かにその通りだった。
「大也君は、カレーライス好きなの?」
 いきなり詩織が話しかけてきた。
「あ、はい。カレーライス、好きです」
 答えてから、大也はチラリと隣を見やった。卓真がやや渋い顔つきになっている。つまらない答えだな、と言わんばかりの表情である。
 大也自身も、つまらなさは自覚していた。しかし、張り切って空回りするよりは、ずっとましだとも思った。
「うちでは、いつもマウンテンズカレーしか食べられないから」
 日頃の不満を正直に言ってみた。それから再び父の顔色をうかがってみる。お前とは親子の縁を切る。そう顔に書いてあった。
 大也自身も、言ってはいけないことだとは自覚していた。しかし、張り切って空回りするよりは、ずっとずっとましだとも思った。

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6 離婚後の母
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ホームチーム 4 勝利のために

4 勝利のために

 ディスプレイの文字を見るなり、卓真はたちまち表情を曇らせた。マーケティング部から届けられた報告書である。
 新商品として三月から発売を開始した<マウンテンズカレー>の売り上げ、その細かい推移が棒グラフで記されてあった。まるでマウンテンズの成績と同じですね(苦笑)、という余計な一言までもが書き記されてある。
「ここはせめて、(涙)、と書くべきだろうが」
 誰にも聞かれぬよう小さく呟き、卓真はそのウィンドウを閉じた。苦々しい思いのまま、チラリと職場の面々を見渡す。
 みんな一生懸命に働いてくれている。決して悪いチームではないはず。この商品開発部も。そしてマウンテンズも。
 一番責任を感じなければいけないのは、やはり部長であるこの自分だ、と卓真は心の中で呟いた。ついでに、一番責任を感じなければいけないのは、お前なんだ、とマウンテンズの監督に向かっての言葉も付け加えておいた。
 気を取り直して、再びパソコンの画面へと注意を戻す。キーボードを操作するまでに数秒の迷いがあった。
 こんな時にはとりあえずこれだろう、と卓真が開いたのは、<アイデア箱>という名がつけられたフォルダだった。これは、商品開発部で共有されているもので、文字通り、商品についてのアイデアが収められている箱、もしかすると卓真の未来、いや、会社の未来を、バラ色に変えるかもしれない宝箱である。
 二、三のファイルが、新たに追加されていた。さっそくそのうちの一つ、中堅社員の名が記されたものを開いてみる。

 マウンテンズカレーに続いて、今度は、マウンテンズパスタというのはどうでしょう。
 山の幸を入れるのはもちろん、パッケージにデザインされた世界の山、そのイメージに合わせて、味付けや具材にも変化を持たせるんです。これならいろんなバリエーションの……。

 卓真は途中でファイルを閉じた。これ以上読む必要がないからだ。似たようなアイデアなら、すでに他の社員からも出ている。マウンテンズラーメンに、マウンテンズ焼きそば。それに、マウンテンズ炊き込みご飯の素、といったアイデアも同様だ。
 これでは、マウンテンズに、あまりにもこだわりすぎ、あまりにも依存しすぎではないだろうか。
 卓真の頭の中には、以前からそんな思いがあった。いくら球団のスポンサー企業だからといって、食品会社がこだわるべき点は、もっと他にあるのではないのか。そう思えてならなかった。
 ふと、デスクに置かれたチラシに目がいく。マウンテンズカレーの広告である。
 パッケージデザインは、噴煙を上げる山のイラスト。全部で四種類ある。噴火の大きさが、それぞれの辛さの度合いを表しているのだ。
 発売する前までは、面白いアイデアだと思っていた。しかし今は違う。ひどく安易で、ひどく陳腐な商品。今の卓真の目にはそうとしか映らなかった。
 このままでは駄目だ。戦略を根本的に見直す必要がある。負け試合はもうたくさんだ。
 心の中のその呟きは、もちろん卓真自身に向けてのものだった。ついでに、マウンテンズの監督に向けてのものでもあった。

「戦略って言葉、お前知ってるか?」
 父からの問いに、大也はリモコンを持った手を止めた。テレビの野球中継が、ちょうど終わったところである。
「うん。まあ、何となく」と適当に返しながら、リモコンの数字ボタンを押す。あれこれと切り替え、結局は歌番組に落ち着いた。
「どの程度知ってるんだ?」
「え? 何を?」
「戦略についてだ。性格には、戦略の重要性についてだな」
「マウンテンズの話なら、もういいよ。負けたことの分析なんて、今さらしてもしょうがないじゃん」
 大也は、テレビ画面を見つめたまま言った。今はちょうど、応援している女性アイドルグループが歌っているところなのだ。いつもの野球談義なら後回しにしてほしい。
「マウンテンズのことを言いたいわけじゃない。いや、マウンテンズのことも、本当は言いたい。でも今は、もっと重要なことについての話、重要な戦略についての話なんだ」
「だから何さ。ずばり言ってよ。今忙しいんだから」
「今度の日曜、レストランで大事な食事会があるな」
「うん。父さんの女って人とでしょ?」
「そういう下品な言い方はやめろ」
 真剣なその声音に、大也は、ようやく隣に座る卓真に目をやった。「その言い方一つで、すべてが駄目になってしまうかもしれないんだぞ」と、眉間に深い縦皺を刻む父。普段の自分の言葉遣いを、完全に棚に上げている男の顔である。
「やはり、前もって戦略を立てておく必要がありそうだな」
「そのレストランって、そんなに危険なところなの?」
 大也の質問を無視して、卓真は、「人間、第一印象が大事なんだ」と言いながら立ち上がった。ソファーを移動させ、大也と向かい合う形で腰を下ろす。
「趣味は何ですかって聞かれたら、お前何て答える?」
「趣味なんて、特にないよ」
「最低の答えだな。もっと他にないのか。絵を描いてますとか。バイオリンを弾いてますとか。ああ、せめて、野球部にでも入っていたらなあ。きっと話が盛り上がるはずなんだがなあ。向こうの娘さんが、ソフトボールやってるらしくて……。おい、大也。アイドルなんてどうでもいいから、もっと真面目に考えろ」
 大也は仕方なく視線を戻した。眩しいミニスカート姿のアイドルから、暑苦しいジャージ姿の中年男へである。
「お前、よく見ると、ぱっとしない顔してるな」
「父さんに似てるって、よく人から言われるよ」
 不本意だと言わんばかりの顔つきで、卓真は大きくため息を漏らした。「学校の成績が、特別いいてわけでもないしなあ」と、ため息ついでに続ける。
 ため息をつきたいのはこっちの方だ、と大也は胸中で反論した。これは明らかに、親が我が子に言ってはいけない言葉の連発ではないか。
「俺たちは、チームだよな」
 卓真はなおも続ける。大也の気持ちを知ってか知らずにか、その口調は、いっそう熱っぽいものになっていた。
 大也は無言でうなずいた。もちろんうんざりした気分でである。また始まったか、という気分でである。
「次の戦いに勝てるかどうかは、俺たちのチームワークしだいだ」
 これも耳馴染の言葉だった。相手の親子って、そんなに危険な人たちなの? という質問を呑みこんで、大也はやはり無言でうなずいて見せた。
「今日のマウンテンズは、特にひどかった。それぞれ好き勝手なプレイばかりして。あれじゃあ勝てるわけない。あれじゃあチームとも言えないな。勝利のためには、時に犠牲バント、時に犠牲フライも必要なんだ。それぐらいわかるだろ。それでこそチームだってこともな。しかもそれは、野球に限ってのことじゃないんだぞ。さっきテレビで歌ってたねえちゃんたちだって同じことさ。どう見たって、真ん中のねえちゃんが一番かわいい顔してただろ。だけどそう見えるのだって、あの娘一人の力ってわけじゃないんだぞ。あれは、横っちょにいるねえちゃんたちが、たいしたことのない顔してるおかげなんだ。いわば、犠牲アイドルってとこだな。そうそう。あの一番左端のねえちゃんなんて、そこらへんにいくらでもある顔して……」
 戦略についての卓真の話は、その日夜遅くなるまで続いた。
 その間、大也はほとんど口を挟まなかった。言いたいことはあっても、言えなかった、というのが正しいだろう。どうしても口にはできなかったのである。父との暮らしを選んだことを、今になって後悔しているということを。大也のお気に入りは、一番左端の女の子だということを。

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5 正直な思い
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ホームチーム 3 二組の親子

3 二組の親子

「頼むぞ、夏木」
 卓真は、テレビ画面へ向かって声援を送った。我らが愛すべき球団、マウンテンズの大ピンチである。
「大丈夫だ。お前ならできる。ここで抑えてこそのエースじゃないか。今までだって、何度もそうしてきただろ。夏木、そのことを思い出すんだ。そして乗り越えるんだ。その辛かった過去を思い出して……」
 言い終るよりも先に、相手チームのバットから快音が鳴り響いた。
『入るか、入るか、入りました。ホームランです!』
 興奮する実況アナウンサー。大歓声に包まれる球場。
 そして、ピッチャーマウンドでうなだれる夏木。我らが愛すべきマウンテンズ、左のエースである。ピンチを抑えることのできなかったエースピッチャーである。
「ホームラン、ホームラン」
 鳥籠の中から聞こえるはしゃぎ声。火野家の愛すべきペット、マリンである。空気を読むことが苦手なセキセイインコである。
 卓真は苦笑した。
「マリンのやつ、どちらを応援すべきか、まだ理解してないようだな」
「きっと理解してるよ」
 つまらなそうに大也が言う。「マウンテンズには、応援の甲斐がないってね」と付け足し、手にしたマグカップに口をつけた。
「それ、うちのココアか?」
「そうだよ」
 うちのココアとは、卓真が勤めている食品会社の商品を差している。
「ココア人気ランキング最下位のね」
 この余計な一言さえなければ、大也はまあまあ親孝行な息子だ。
「うちの会社、もともと飲み物は得意じゃなかったからな」
 そう言って、卓真もカップを手に取った。大也が手にしているものと同じ、地元のプロ野球チーム、マウンテンズのロゴマーク入りマグカップ。こちらの中身はココアではなく、インスタントコーヒーである。どこの会社で作られたものかは言うまでもない。
 卓真は一口飲んでから、やはり、味はイマイチだな、と心の中だけで呟いた。「誰にだって、苦手なことはあるさ」と、今度は声に出して言った。
「夏木は、きっと野球が苦手だったんだね」
 この余計な一言さえなければ、大也はまあまあ親孝行な息子だ。
「ところでだ」
 夏木が十点目を取られた段階で、卓真はさりげない口調で切り出した。隣に座る大也に目をやる。
「お前に相談がある」
「うん。何?」
「いや。相談というよりは、報告。そう、報告だ。すでに約束したことだからな」
「どんなこと?」
「ただの約束じゃない。星の輝く夜の約束だ」
「だから何さ」
「お前に、今度、俺の女に会ってもらう」
 沈黙。
 ちょっと言い方を間違えたかな、と卓真が思いかけた時だった。
「別に、いいけど」
 わずかな間があったものの、大也の口調はあっさりとしていた。
「お前、意味わかってるのか? 俺の女とは、父さんが今付き合っている人、という意味だぞ。付き合っている人とは、その、何というか、恋人、と一般的に言われてる女性のことで……」
「わかってるよ、そんなこと」
 面倒くさそうに言うと、大也はテレビ画面に視線を戻した。マウンテンズのピッチャーが、ちょうど交代になったところだった。
「夏木のやつ、本当に野球苦手なのかもな」
 卓真はわざと笑って見せた。そして大也の横顔を窺う。同意の言葉を期待したものの、しかし息子からは何の反応も返ってこなかった。何とも釈然としない態度である。腹を抱えて笑うのも良し。飛びあがって喜ぶのも良し。顔を真っ赤にして怒るのも良し。とにかく、そういったわかりやすい反応を示してほしかった。
「お前、それでも思春期の少年かよ」
 ついそんなことを口にしてしまう卓真であった。

「ホームランで思い出したんだけど……」
 そののんびりした声に、孝子の視線は、テレビ画面から、隣に座る詩織の顔へと移った。
「駅前に、新しいレストランができたんだって」
「世界中で、たぶんママぐらいだよ。ホームランから、レストランを思い出せるのは。しかも、敵チームのホームランで」
「だって思い出したんだもの」
 母の無邪気な笑顔に、孝子の口元もついつい緩んでしまう。
「で、そのレストランがどうかしたの?」
 孝子は、テレビのリモコンを手に取った。一気に音量を下げる。実況アナウンサーの、『マウンテンズ、交代した秋本も……』という声が途中から聞こえなくなった。
「いちいち説明してくれなくても、見てればわかるよ。秋本、どうせまた二軍行きなんでしょ」
「今度の日曜、食べに行かない?」
「え? ああ、レストランの話ね」
 いいよ、とうなずきかけたところで、孝子の動きがピタリと止まった。詩織が次に口にした「四人で」という言葉によってである。
「四人?」
「そう。ちょうど二組の親子で」
「何がちょうどかわかんないんだけど」と首をかしげつつも、孝子にとってこれはいつものことだった。詩織との噛み合わない会話には、もうすっかり慣れっこになっていた。
「誰? そのもう一組の親子って」
「会社の部長さん。そしてその息子さん、大也君っていうの。いい名前でしょ? ダイヤモンドから来てるんだって。でも宝石のことじゃなくて、野球の……」
 詩織のおしゃべりは続いていたが、すでに孝子の耳には届いていなかった。
 思えば、最近嫌なことが続いていた。所属する女子高ソフトボール部では、つまらないトラブルがあった。地元プロ野球チームは、いまだ単独最下位から抜け出すことができない。そして今度は、母がまた同じ過ちを犯そうとしているらしいのだ。
 舌打ちしたい衝動を抑え、孝子は再びリモコンを操作して、プロ野球中継の音量を復活させた。
『マウンテンズ、三人目ピッチャー冬木も打たれてしまいました』と、孝子の気持ちを逆撫でする実況アナウンサー。
「あ、三人目で思い出したんだけど、そのレストラン、三色パフェっていうのが、すごくおいしいんだって」と、あくまでマイペースな詩織。
『夏木も駄目。秋本も駄目。そして冬木も駄目。今後のマウンテンズに、果たして春はやって来るのでしょうか』
 実況アナウンサーの言葉に、『うまいこと言いますね』と解説者は感心し、「くだらない」と孝子は一言で吐き捨て、「え? どういう意味なの?」と詩織は何度も首をかしげた。
「春なんてやって来るわけない。特に、ママみたいな忘れっぽい人の元へはね」
 ついそんなことを口にしてしまう孝子であった。

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4 勝利のために
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ホームチーム 2 星の輝く夜

2 星の輝く夜

 大也は、一人ぼんやりと天井を見つめていた。自室のベッドで、こうして仰向けになっているのは、決して眠たさのせいではない。原因は父にあった。そう。大也を何も手に付かない状態にしているのは、先ほど卓真が口にした言葉のせいなのである。
 大也、お前、新しい母さん欲しいか?
 その質問は、大也をひどく戸惑わせた。そして今でも戸惑わせている。
 急に、どうしたのさ。と一言返すのが精一杯だった。それからすぐに自室のある二階へと駆け上がったのである。
 なぜ、急にあんな質問を?
 見つめる天井には、もちろんそれに対する解答など浮かんではいない。
 プロ野球中継がない日でも、普段はたいていリビングでテレビを見ている時間だ。しかし、今日はとてもそんな気にはなれなかった。父と二人っきりになることだけは、とにかく避けたかった。
 お前、新しい母さん欲しいか?
 その質問は、お前、もうすぐ新しい母さんができるかもしれないぞ。というセリフに置き換えることもできる。そして、お前、父さんが結婚しても文句ないだろ。という意味にも聞こえる。
 そう。父が言わんとしていることは、それ以外に考えられない。
 それにしても……、と大也は大きく吐息をついた。
 出勤時のあの陽気さと、帰宅後のあの落ちこみぶりは、いったいどういうことだろう。今日の父に、いったい何が起きたというのだろうか。
 見つめる天井には、やはり解答など浮かんではいなかった。
 今の大也にとっては、慣れない中学校生活、それだけでも大きなストレスである。できることなら、もう少しこのままでいたい。今はどんな変化も望んではいなかった。
 お前、新しい母さん欲しいか?
 そもそも、それって、子供にしちゃいけない質問ではないだろうか。特に、思春期を迎えるデリケートな子供には。特に、父親には内緒で、こっそりと母親に会っているような子供には。

 詩織は、一人ぼんやりと天井を見つめていた。自室のベッドで、こうして仰向けになっているのは、決して眠たさのせいではない。原因は彼にあった。そう。詩織を何も手に付かない状態にしているのは、昼休みに卓真が口にした言葉のせいなのである。
 結婚してください。
 そのプロポーズは、詩織をひどく戸惑わせた。そして今でも戸惑わせている。
 今日の昼間、喫茶店での出来事だった。
 いつものように二人向かい合わせに座り、いつものようにウェイトレスが注文を聞きに来た。そんなタイミングである。ついでに、隣の席では、若いカップルが別れ話をしていた。そんなタイミングである。
 結婚してください。
 ご注文はお決まりですか?
 私の青春を返して!
 重なり合った三つの言葉。詩織がすぐに反応できたのは、そのうちの一つに対してだけだった。
 ミルクティーとモンブラン。
 当然、ウェイトレスに向かっての言葉である。当然、一番答えやすい言葉である。ちなみに、一番難しいのは、どうすれば青春を返せるかについての言葉だろう。
 当たり前ではあるが、卓真と詩織との間には、しばらく微妙な空気が流れ続けた。タイミングがまずかったということに気づいた卓真。そして、何か言葉を返さなければいけないと焦る詩織。
 結婚は考えていないんです。
 ようやくそれだけを口にできた。私とは遊びだったのね、という非難の言葉が隣席から聞こえてくるのと、ほぼ同じタイミングだった。
 最悪である。タイミングはもちろんのこと、プロポーズの答えとしてもである。明らかに言葉足らずだった。あれではまるで、迷惑がってでもいるみたいではないか。
 詩織は、いきなりベッドから飛び起きた。昼間のことを思い出すと、もういても立ってもいられなくなったのだ。
 大急ぎでバッグから携帯電話を取り出す。どんなことを言えばいいのか、まだ整理はついていない。とにかく誤解を解かねば。頭の中に今あるのはそれだけだった。
『もしもし』
 聞こえてきた卓真の声に、いつものような快活さは感じられない。
「あ、部長。私です。水本です」
 慌てていたせいか、つい会社での呼び方を口にしてしまう。「た、卓真さん、昼間のことなんですけど」と、詩織は早口で言いなおした。
『ああ……。いや、あれは、もういいんだ』
「よくありません」
『あのことは忘れてくれ』
「忘れられません」
『俺が悪かったんだ』
「悪かったのはタイミングです。そして、私の答え方です」
 沈黙。
 詩織の視線は、窓の外へと向けられていた。もうすっかり日が暮れている。たった今そのことに気がついた。
「星がきれい」
『え?』
「星です、星。そこから見えますか?」
『ちょっと待って』
 カーテンが開かれる音。
『ああ、本当だ』
「今度は、四人で会いませんか?」
『四人?』
「はい。大也君と、うちの娘とを加えての、四人でです」
『まあ、それはいいけど……』
「約束ですよ。星の輝く夜は、嘘をついちゃいけないんですから」
『えーと。それ、何かの言い伝え?』
「私が、子供の頃に決めたルールです」
『そうなんだ。じゃあ、守らないとね』
「私、ゆっくりがいいんです。卓真さんとは、特にゆっくりがいい。大切なことは、急いじゃいけないんです。これ、最近決めたルールなんです」
 今夜の電話で、どれだけのことが伝えられたか詩織にはわからなかった。自信が持てなかった。素直な気持ちを口にしたつもりでも、相手には理解されない。そんな経験を、今までに何度も繰り返してきたせいである。一人娘の言葉を借りるなら、詩織は、正真正銘混じりっ気なしの天然、というキャラクターに分類されるのだそうだ。
 そういえば……、と彼女は、初めて卓真と会った時のことを思い出した。
 水本さんって、天然なんですね。
 卓真もやはりそう感じたらしい。それでも嫌な気はしなかった。これから彼の下で働けることに、ちょっとした幸福さえ感じていた。その時から、すでに何かを予感していたのだろうか。もしかすると、上司と部下、それ以上の関係になるのかもしれない、と。
 もしも、四人揃って幸せになることができるなら……。
 詩織は、その続きをそっと声に出して呟いてみた。
「もう一度だけ、結婚してみるのも悪くないかもしれない」

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3 二組の親子
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ホームチーム 1 朝の風景

1 朝の風景

「結婚してください」
 卓真は言った。人生二度目のプロポーズである。
 ありきたりな文句ではあるが、決定までにはかなりの日数を要した。この言葉でよかったと思う。この言葉しかなかったのだとさえ思う。たった今そのことを確信した。実際口にしたことで確信することができたのだ。
「結婚してください」
 卓真は再び言った。鳥籠に向かってである。人生二度目のプロポーズ、そのリハーサルだった。
「よし。投球練習、無事終了」
 変化球を投げることもできる。しかし、勝負どころでは、やはり小細工なしの直球に限る。魂のこもった直球。それを投げ切ってこその男なのだ。後は本番を待つだけ。そう。後はマウンドに立ち、魂のこもったボールを投げこむだけなのだ。
 彼女は、受け止めてくれるだろうか。そして、投げ返してくれるだろうか。プロポーズの答えを。イエスの一言を。
「父さん、一人でなににやけてんの?」
 気がつくと、すぐ横に息子、大也(だいや)が立っていた。「何か、ぶつぶつ言ってたようだけど」と、眠そうな目をこすりながら続ける。
「いや、何でもない」
 卓真は、何気ない口ぶりで「昨日の試合のこと、つい思い出してな」と付け加えた。何気なく椅子に座り、何気なく朝刊を広げる。
「おお、載ってる載ってる。昨日のさよならホームラン」
「ホームラン、ホームラン」
 鳥籠の中から聞こえるはしゃぎ声は、セキセイインコのマリンである。
「ホーム三連敗は、何とか防ぐことができたな」
「まあね。単独最下位なのは変わりないけど」
 大也は、卓真と向かい合う席に腰を下ろした。ダイニングテーブルの上には、すでに朝食の用意ができている。
「ついでに、父さんのも頼む」
 あーあと、返事ともあくびともつかない声を発して、大也は、二人分のカップめんにポットのお湯を注ぎ入れた。
 火野家での、これがいつもと変わらぬ朝の風景だった。
 卓真の離婚から四年。父と息子二人きりの生活も、すっかり当たり前のものとなっていた。しかし、その生活も近いうちに変わろうとしている。卓真がそれを変えようとしているのだ。もちろんいい方向にである。大也はまだ気づいていない。今日という日が、その大きなターニングポイントになるかもしれないということを。
「やっぱり変だよ、今日の父さん」
 大也がラーメンをかき混ぜながら言った。
「だから、昨日のさよならホームランを思い出してだなあ」と、卓真は広げた朝刊をやや持ち上げ、疑り深い息子の視線から身を守った。
 己の顔の筋肉が、先ほどから緩みっ放しになっていることぐらい、卓真自身も気づいていた。しかし、それは仕方のないこと。試合前から勝利を確信している男とは、そういう顔つきをしているものなのだ。我が息子よ、お前も大人の男になればわかることさ。
「ラーメン、伸びちゃうよ」と、大也はまだ幼さの残る声で言った。
「それ、お前にやる。たくさん食って、逞しい男になるんだぞ」と、卓真は威厳溢れる声で言った。
「インスタント食品ばかりだと、体に悪いって先生が言ってた」
「そいつ、ろくな先公じゃねえな」
「うん。その先生、よそのクラスの女子生徒と付き合ってるって、今噂になってるんだ」
「インスタント食品を批判するやつってのは、たいていがロリコン変態野郎だからなあ」
「ギャンブルで、かなりの借金もあるんだって」
「まあ、そうだろうな。それも、インスタント食品にケチをつけるやつに多いタイプだ」
 しゃべりながら、卓真は改めて思った。こうした父と息子のやり取り、この男二人だけの朝の風景は、間もなく終わりを迎えようとしている。それに代わる新しい朝の風景とは、いったいどんなものだろう。卓真にべた惚れの妻。そして、女子高生の娘。その二人が加わった朝の風景とは。
 あなた、ごめんなさい。私、また目玉焼きを焦がしてしまったの。と、頬をピンク色に染めてはにかむ妻。
 それぐらい、どうってことないさ。お前に焦がされたなら、玉子だって本望だろう。と、おおらかに笑って見せる卓真。
 お父様、寝癖がついてますわ。後で私にブラッシングさせてください。と、キラキラした瞳を向けてくる娘。
 ああ、いいとも。思う存分、好きなだけブラッシングさせてあげよう。と、やはりおおらかに笑って見せる卓真。
「父さん、会社大丈夫?」と、つまらないことを言う息子。
「あ、そうだった」
 時計を確認するなり、卓真は慌てて席を立った。急がなければ会社に遅刻しそうだ。つまらないことではあるが、重要なことでもある。何しろ、今日は特別な日なのだから。
 大急ぎで身支度を済ませると、卓真は、息子よりも一足先に家を出た。これもいつもの通りである。一つだけいつもと違っていたのは、家を出る前の息子への一言だった。
「父さん、今日は、満塁ホームランを打てそうな気分だ」

 思えば、今日は朝から父親の様子がおかしかった。もともと浮き沈みの激しい性格ではある。けれど、今日はその差があまりにもひどかった。
 謎のニヤニヤ笑いと、謎の捨てゼリフを残して、朝家を出ていった父。あの軽やかなスキップも謎だった。あの楽しそうな鼻歌も謎だった。そういえば、あれはよく結婚式場で耳にする曲だったような気がする。
 大也をさらに戸惑わせたのは、帰宅後の卓真の様子だった。朝の陽気さ、あの無駄な陽気さが、まるで嘘だったかのような落ちこみぶり。肩をガックリと落とし、足を重たそうに引きずっての帰宅だった。それでも、なぜか鼻歌だけは忘れていなかった。そういえば、あれはよく葬儀場で耳にする曲だったような気がする。
「父さん」
 大也は、そっと話しかけてみた。
「中学生の頃って、父さん勉強できたの?」
 無難な話題を振ってみた。いつもなら、中学に入ったばかりの大也に向かって、うるさいぐらいに質問の雨を降らせる卓真である。そこはやはり父親だ。息子の学生生活が気になって仕方がないのだろう。
「勉強なんて、やってもやらなくても一緒だ」
 しかし、返ってきたのはそんな嘆きの言葉だった。
 卓真は、目の前のカレーライスにまったく手をつけようとしない。勉強の話にも、食欲にも、どうやら今は興味が持てないということらしい。
「明日からの六連戦、楽しみだね」
 今度は、大好きな野球の話題を振ってみた。
「どうせ、六連敗に決まってる」
 野球にも興味を失ってしまったらしい。
「ああ、そろそろ眠たくなってきちゃった」
 わざとあくびをしながら、大也は席を立った。食べ終えたカレー皿を、流し台へと運ぶ。
 そこで卓真に呼び止められた。
「大也、お前、新しい母さん欲しいか?」

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長編小説第3弾、本日から連載スタートです。
毎週日曜更新予定。最後までお付き合い願えれば幸いです。

2 星の輝く夜
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