ホームチーム 5 正直な思い
5 正直な思い
卓真は思った。いいスタートを切ることができた、と。
話は大いに弾んだ。卓真と詩織との間ではいつものことだったが、お互いが子連れという状況にあっても、それは同じことだった。レストランという場所も良かったのだろう。目の前においしい料理さえあれば、話題に困ることはない。そもそもおいしい料理とは人を幸福な気分へと導くものなのだ。
「このおいしさが、レトルトで再現できればいいんだけどね」
卓真は、ビーフシチューを軽くかき混ぜながら言った。
「レトルトでも、最近おいしいものあるじゃないですか。カレーとか」
微笑む詩織に、卓真はいやいやと首を振って見せる。「こいつが問題でね」そう言ってスプーンを持ち上げた。
「え? ああ、お肉ですか?」
「そう。この肉のジューシーさが、どうしても出せないんだよ」
「言われてみると、レトルトのお肉、ちょっとパサパサしてるかも」
小首をかしげる詩織。視線はスプーンの動きを追っている。卓真の口へと、牛肉が運ばれて行くのを確認しているのだろう。おいしそうに食事する男の人の顔っていいですよね、と彼女は以前からよく言っていた。それだけで、詩織自身も幸せな気持ちになれるのだそうだ。
お安いご用だとばかりに、卓真は精一杯の笑顔で牛肉を頬張って見せた。
詩織がうれしそうに目を細める。予想通りの反応だった。
「いい味だ」と、卓真の声も自然と弾む。実際に料理の出来もなかなかのものだった。口内いっぱいに広がる牛肉の風味。そして、正面の席でやさしく微笑む彼女。未来へと繋がる幸福がここにはあった。
大也も孝子も、親たちの会話になかなか入ってこようとはしない。しかし、それでいいと卓真は思っている。彼の方からも、あえて話しかけないようにしていたぐらいなのだ。それは、子供たちを戸惑わせないための、卓真なりの配慮だった。そして戦略の一つでもあった。こういう席では無理しないことが一番なのだ。
自然でいい。焦る必要など何もない。そう。自然体でさえいれば、後は時間が解決してくれるのだ。
卓真は、チラリと詩織の隣へと目をやった。そして、そこに座る未来の娘に向かって、やさしく微笑みかけてみた。
孝子は思った。なんだこの不自然な笑顔は、と。
何か話しかけられるのだろうかと、孝子は一瞬身構えた。しかし、男の視線は、すぐに母の手元へと移った。
「そいつもうまそうだ」
そのわざとらしい明るい声音が、孝子をますます不愉快な気分にさせる。
「はい。とってもとってもおいしいです」
一方でそう答える詩織の口調には、不愉快さの欠片も存在していない。自分の前に置かれたオムライスと、正面に座る卓真とを交互に見つめ、「玉子がトロットロ」と満面の笑みで続ける。
「そのトロットロも、再現できないうちの一つなんだよなあ」
「でも、インスタント食品には、インスタント食品にしかない良さってありますよね」
「あるある。特にインスタントラーメン。あれって無性に食べたくなる時がある。不思議なもんで、そういう時は、絶対インスタントじゃないと満足できないんだよなあ」
「私の場合、カップうどんです。去年まで二位でしたけど、今年は間違いなくナンバーワンです。ラーメンをトップの座から引きずり降ろしちゃいました。生卵をプラスして、月見にしたり、えびの天ぷら乗せて豪華にしたり……」
盛り上がっていた二人の会話が、そこでピタリと止まった。
孝子は反射的に口元を押さえた。しかし間に合わなかったらしい。一度発してしまった舌打ちは、もう二度と自分の元へは戻って来てくれなかった。
三人の間に、居心地の悪い妙な空気が流れる。ちなみに、一人大也だけが、黙々とカツカレーを食べ続けていた。
孝子はフォークを手に取った。もうどうにでもなれという気分だった。気に入らないものは気に入らない。それが正直な思いなのだから、舌打ちが出るくらい仕方がないではないか。娘の気持ちに気づかない母も、おしゃべりな中年男も、カレー大好き少年も、このグラタンの中に入っているブロッコリーも、とにかくここにあるすべてが気に入らなかった。
詩織は思った。隣に座る娘に、もっと注意を向けておくべきだった、と。
「グラタン、そんなに熱かったの?」
とりあえず言ってみた。娘の舌打ちは、グラタンがあまりにも熱かったせいであって、決してそれ以外の原因ではない。そんな願いをこめての問いかけである。
「もうとっくに冷めてるよ」
あっさりと否定する孝子。しかも卓真の方を一瞥してから、「私が気に入らないのはね」と、棘のある口調で続ける。
「わ、わかった。あれ、あれのことでしょ」
詩織は慌てて遮った。頭をフル回転させ、“あれ”に当てはまる言葉を探す。今はどんな話だって構わない。この気まずい雰囲気を変えることさえできるなら。
ひらめきはすぐに訪れた。
「痴漢!」
いい話題を思い出した、と詩織は内心でガッツポーズを取った。
「学校で、今騒動になってるのよね。そのこと思い出したんでしょ? そりゃあ舌打ちもしたくなるわよね。被害にあったっていうの、ソフトボール部の子なんでしょ?」
孝子は何も答えない。その代り卓真が、「へえ、そんなことがあったんだ」と話しに乗ってきた。
「そうらしいんです。今のところ、うちの娘は大丈夫みたいですけど」
「近頃は、おかしな人間が本当に多いからね」
「ですよね。舌打ちもしたくなっちゃいますよね」
本当にいい話題を思い出した、と詩織は内心で歓喜の舞を踊った。
大也は思った。あとどれぐらいしたら家に帰れるのだろうか、と。
父からは、無理してしゃべる必要はないと言われている。変に張り切ったりすると、こういう席では空回りしてしまうことが多いのだそうだ。
「女二人っきりの生活だと、何かと心配だろうね」
卓真は、水本親子を交互に見つめ、「男がそばに一人でもいたら、ちょっとは安心できるんだろうけど」と張り切った口調で続けた。「男が二人そばにいたら、もう怖いものなしだな」とさらに付け加える。
詩織はニコニコしていたものの、孝子の方は、それこそ痴漢にでもあったかのような不快な顔つきになっている。
変に張り切ったりすると、こういう席では空回りしてしまうことが多い。
なるほど、確かにその通りだった。
「大也君は、カレーライス好きなの?」
いきなり詩織が話しかけてきた。
「あ、はい。カレーライス、好きです」
答えてから、大也はチラリと隣を見やった。卓真がやや渋い顔つきになっている。つまらない答えだな、と言わんばかりの表情である。
大也自身も、つまらなさは自覚していた。しかし、張り切って空回りするよりは、ずっとましだとも思った。
「うちでは、いつもマウンテンズカレーしか食べられないから」
日頃の不満を正直に言ってみた。それから再び父の顔色をうかがってみる。お前とは親子の縁を切る。そう顔に書いてあった。
大也自身も、言ってはいけないことだとは自覚していた。しかし、張り切って空回りするよりは、ずっとずっとましだとも思った。
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卓真は思った。いいスタートを切ることができた、と。
話は大いに弾んだ。卓真と詩織との間ではいつものことだったが、お互いが子連れという状況にあっても、それは同じことだった。レストランという場所も良かったのだろう。目の前においしい料理さえあれば、話題に困ることはない。そもそもおいしい料理とは人を幸福な気分へと導くものなのだ。
「このおいしさが、レトルトで再現できればいいんだけどね」
卓真は、ビーフシチューを軽くかき混ぜながら言った。
「レトルトでも、最近おいしいものあるじゃないですか。カレーとか」
微笑む詩織に、卓真はいやいやと首を振って見せる。「こいつが問題でね」そう言ってスプーンを持ち上げた。
「え? ああ、お肉ですか?」
「そう。この肉のジューシーさが、どうしても出せないんだよ」
「言われてみると、レトルトのお肉、ちょっとパサパサしてるかも」
小首をかしげる詩織。視線はスプーンの動きを追っている。卓真の口へと、牛肉が運ばれて行くのを確認しているのだろう。おいしそうに食事する男の人の顔っていいですよね、と彼女は以前からよく言っていた。それだけで、詩織自身も幸せな気持ちになれるのだそうだ。
お安いご用だとばかりに、卓真は精一杯の笑顔で牛肉を頬張って見せた。
詩織がうれしそうに目を細める。予想通りの反応だった。
「いい味だ」と、卓真の声も自然と弾む。実際に料理の出来もなかなかのものだった。口内いっぱいに広がる牛肉の風味。そして、正面の席でやさしく微笑む彼女。未来へと繋がる幸福がここにはあった。
大也も孝子も、親たちの会話になかなか入ってこようとはしない。しかし、それでいいと卓真は思っている。彼の方からも、あえて話しかけないようにしていたぐらいなのだ。それは、子供たちを戸惑わせないための、卓真なりの配慮だった。そして戦略の一つでもあった。こういう席では無理しないことが一番なのだ。
自然でいい。焦る必要など何もない。そう。自然体でさえいれば、後は時間が解決してくれるのだ。
卓真は、チラリと詩織の隣へと目をやった。そして、そこに座る未来の娘に向かって、やさしく微笑みかけてみた。
孝子は思った。なんだこの不自然な笑顔は、と。
何か話しかけられるのだろうかと、孝子は一瞬身構えた。しかし、男の視線は、すぐに母の手元へと移った。
「そいつもうまそうだ」
そのわざとらしい明るい声音が、孝子をますます不愉快な気分にさせる。
「はい。とってもとってもおいしいです」
一方でそう答える詩織の口調には、不愉快さの欠片も存在していない。自分の前に置かれたオムライスと、正面に座る卓真とを交互に見つめ、「玉子がトロットロ」と満面の笑みで続ける。
「そのトロットロも、再現できないうちの一つなんだよなあ」
「でも、インスタント食品には、インスタント食品にしかない良さってありますよね」
「あるある。特にインスタントラーメン。あれって無性に食べたくなる時がある。不思議なもんで、そういう時は、絶対インスタントじゃないと満足できないんだよなあ」
「私の場合、カップうどんです。去年まで二位でしたけど、今年は間違いなくナンバーワンです。ラーメンをトップの座から引きずり降ろしちゃいました。生卵をプラスして、月見にしたり、えびの天ぷら乗せて豪華にしたり……」
盛り上がっていた二人の会話が、そこでピタリと止まった。
孝子は反射的に口元を押さえた。しかし間に合わなかったらしい。一度発してしまった舌打ちは、もう二度と自分の元へは戻って来てくれなかった。
三人の間に、居心地の悪い妙な空気が流れる。ちなみに、一人大也だけが、黙々とカツカレーを食べ続けていた。
孝子はフォークを手に取った。もうどうにでもなれという気分だった。気に入らないものは気に入らない。それが正直な思いなのだから、舌打ちが出るくらい仕方がないではないか。娘の気持ちに気づかない母も、おしゃべりな中年男も、カレー大好き少年も、このグラタンの中に入っているブロッコリーも、とにかくここにあるすべてが気に入らなかった。
詩織は思った。隣に座る娘に、もっと注意を向けておくべきだった、と。
「グラタン、そんなに熱かったの?」
とりあえず言ってみた。娘の舌打ちは、グラタンがあまりにも熱かったせいであって、決してそれ以外の原因ではない。そんな願いをこめての問いかけである。
「もうとっくに冷めてるよ」
あっさりと否定する孝子。しかも卓真の方を一瞥してから、「私が気に入らないのはね」と、棘のある口調で続ける。
「わ、わかった。あれ、あれのことでしょ」
詩織は慌てて遮った。頭をフル回転させ、“あれ”に当てはまる言葉を探す。今はどんな話だって構わない。この気まずい雰囲気を変えることさえできるなら。
ひらめきはすぐに訪れた。
「痴漢!」
いい話題を思い出した、と詩織は内心でガッツポーズを取った。
「学校で、今騒動になってるのよね。そのこと思い出したんでしょ? そりゃあ舌打ちもしたくなるわよね。被害にあったっていうの、ソフトボール部の子なんでしょ?」
孝子は何も答えない。その代り卓真が、「へえ、そんなことがあったんだ」と話しに乗ってきた。
「そうらしいんです。今のところ、うちの娘は大丈夫みたいですけど」
「近頃は、おかしな人間が本当に多いからね」
「ですよね。舌打ちもしたくなっちゃいますよね」
本当にいい話題を思い出した、と詩織は内心で歓喜の舞を踊った。
大也は思った。あとどれぐらいしたら家に帰れるのだろうか、と。
父からは、無理してしゃべる必要はないと言われている。変に張り切ったりすると、こういう席では空回りしてしまうことが多いのだそうだ。
「女二人っきりの生活だと、何かと心配だろうね」
卓真は、水本親子を交互に見つめ、「男がそばに一人でもいたら、ちょっとは安心できるんだろうけど」と張り切った口調で続けた。「男が二人そばにいたら、もう怖いものなしだな」とさらに付け加える。
詩織はニコニコしていたものの、孝子の方は、それこそ痴漢にでもあったかのような不快な顔つきになっている。
変に張り切ったりすると、こういう席では空回りしてしまうことが多い。
なるほど、確かにその通りだった。
「大也君は、カレーライス好きなの?」
いきなり詩織が話しかけてきた。
「あ、はい。カレーライス、好きです」
答えてから、大也はチラリと隣を見やった。卓真がやや渋い顔つきになっている。つまらない答えだな、と言わんばかりの表情である。
大也自身も、つまらなさは自覚していた。しかし、張り切って空回りするよりは、ずっとましだとも思った。
「うちでは、いつもマウンテンズカレーしか食べられないから」
日頃の不満を正直に言ってみた。それから再び父の顔色をうかがってみる。お前とは親子の縁を切る。そう顔に書いてあった。
大也自身も、言ってはいけないことだとは自覚していた。しかし、張り切って空回りするよりは、ずっとずっとましだとも思った。
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