みことのいどこ 2014年03月

不倫のライセンス あとがき そして、物語は生まれた

あとがき そして、物語は生まれた

 ここは地下鉄の線路の上。それを理解するまでに二秒ほどかかっただろうか。どうやら、私はプラットホームから転落したらしいのだ。すぐそばで電車の走行音が聞こえる。これからどうするべきか。考える余裕もないまま、私の意識はそこで消失した。
 目覚めると、私はベッドの上に寝かされていた。左腕には点滴の管。頭には何かがかぶされている。おそらく包帯なのだろう。痛みはまったくない。それどころか、身体全体の感覚が鈍くなっている。まるで自分の身体でないような、まるでまだ夢の中にいるような、ちょっと不思議で、ちょっと不安な気分だった。
「片瀬さん、聞こえますか?」
 声をかけてきたのは、白衣姿の医者らしき男性。ベッドの周りには、女性看護師、そして、母親の姿もあった。
「は、はい……」
 肉体同様、その声も、まるで自分のものとは思えないような響きだった。
「ご自分の名前、言えますか?」
 医者の質問は続く。至って真剣な声音である。
 もちろん、私は難なく答えることができた。当たり前すぎるそのやり取りに、思わず苦笑を漏らしてしまう。
「ご住所はどうですか?」
 その問いにも、当然答えることができた。しかし、それは途中までのことだった。
「あれ? ええと……。何だっけ?」
 どういうわけか、何条何丁目、そこに当てはまる数字の部分だけが出てこない。
「それじゃあ、電話番号は覚えていますか?」
 覚えていなかった。生年月日も同様である。いくら考えても思い出すことができない。年齢、身長、体重、とにかく数字が頭に浮かばないのだ。
「私、事故にあったんですか?」
 こちらから尋ねてみた。私が思い出せないのは数字ばかりではない。どうして自分は今ここにいるのか。まずはその疑問をはっきりさせたかった。
 地下鉄のホームから転落した後、すぐにその事故は起きたらしい。ブレーキはかけられたものの、電車が停止したのは、ホームから二十メートルも先の場所。
 私は意識不明の状態で発見された。周りには血だまりができていたらしい。そこは、転落したところから、七、八メートル先の場所だったのだという。
「それって、普通死んでますよね?」
 事故の状況を聞いているうち、思わず変な笑いがこみ上げてきた。まるで作り話としか思えない。車やバイクならともかく、私が撥ねられたのは地下鉄の電車なのだ。
「本当に、奇跡のような話です」
 やさしく微笑んでから、医者は、「片瀬さん、いくつもの好条件に恵まれたようなんです」と続けた。
 その条件とは、次のようなものだった。
 ホームから転落した際、倒れずにうまく着地していたこと。ブレーキがかけられたおかげで、衝突時の速度が落ちていたこと。線路の中央からは、やや外れた場所にいたこと。撥ね飛ばされた先が、ちょうどホーム下の空間だったこと。
 話を聞けば聞くほど、確かに自分でも奇跡的なことだと思った。
「頭を打った影響で、一時的な記憶の混乱はあると思います」
 医者の言葉通り、数字の記憶はやがて蘇った。その後、いくつかの簡単な反射テストも行われたが、幸い中枢神経の異常は見られなかった。まさに奇跡としか言いようがない。鎖骨と肋骨は折れていた。肋骨が刺さったことで、肺にも傷がついた。頭部には裂傷を追い、小さな脳出血も確認された。しかし、私はこうして生きている。私は、まだこうして生かされているのだった。

 夜、一人っきりの病室。長かった一日が終わろうとしている。もしかすると、命を落としていたかもしれない今日という一日。私の人生最後の日は、自分の意志とは関係ない理由で、こうして延期されることとなったのである。
 もしも、今日死んでいたとしたら……。
 同じ問いが何度も繰り返され、眠りにつこうとする私を揺り動かす。肉体は休息を望んでいた。だが、思考は決してそれを許さない。たった今、ここで答えを出せ。そう命じているようだった。
 もしも、今日死んでいたとしたら……。
 後悔するだろうことが、たった一つだけ頭に浮かんでいた。好きで始めた小説の執筆を、途中で放り投げてしまっていたことである。
 片瀬さんには、まだ生きてやるべきことがある。きっと、神様がそう思ったのかもね。
 印象に残る医者の言葉だった。神様のことなど、今まで考えたこともなかった私だが、確かに、まだ生きてやるべきことなら一つ残っていた。魂がそう叫んでいるのだから間違いない。
 退院したらすぐに書き始めよう。どんな物語がいいだろう。不幸な出来事の中から、大切な何かを見つけ出す、そんな話を書いてみたい。砂漠の果てにあるオアシス。広い海に浮かぶ小島。雪山の中の丸太小屋。暗闇の先の小さな光……。
 休息を求める肉体を無視するかのように、思考はますます活発になる一方だった。こんな高揚感は初めてかもしれない。小説の構想はすでに始まっているのだ。もうそれを止める術はない。
 人生、それほどうまくはいかない。しかし、挑戦する価値なら大いにある。
 小説のテーマはこれでいこう。私同様、物語の主人公も最後には気づくだろう。そのことの大切さに。
 この日、私は命を落としかけた。この日、私の中で革命が起った。そして、物語は生まれた。

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次回作の準備のため、しばらく更新の方はお休みいたします。
新たな物語で、またお会いしましょう。

不倫のライセンス 目次

テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

不倫のライセンス 41 ファイティングポーズ

41 ファイティングポーズ

 ワタシノ アイスルマゴ ゲンキシテルノデスカ?
 モウ 3カイメノ バースデイナノデスネ
 イイプレゼント ミツケタノデス アメリカデ
 モシ ヨロコンデルシタラ ワタシモ オオキクヨロコビマス
 手紙からいったん目を離し、チラリと息子の様子を窺ってみた。カーペットの上の小さな後姿。時々笑ったり、時々唸ったり、とにかく現在、ジグソーパズル相手に悪戦苦闘中だ。大好きなおばあちゃんからの誕生日プレゼントに、十分ヨロコンデルシテル息子である。
「最初に、端っこの方からやってみたら」
 人生の先輩による貴重なアドバイスは、残念ながら、今の息子の耳には届いていないらしい。それどころじゃないといった風に、パズルピースを手に、しきりと首をかしげている。
「ピース、なくさないようにね」
 一声かけ、再び母からの手紙に視線を戻す。
 ウレシイ タノシイ イッパイノ ライゲツナノデスヨ
 ヒサシブリノ ニホン ヒサシブリノ ムスメト マゴ
 ワタシ シアワセナ オバアチャンデス
 PS アメリカオトコニ キヲツケルノデスヨ
 母からの手紙は、いつだって私を笑顔に変えてくれる。破れないよう、それをそっと封筒へ戻す。息子にとってのジグソーパズル同様、私には、この手紙が、何よりも大きなプレゼントとなった。何しろ、息子の三度目の誕生日は、私の、母親デビュー三周年記念でもあるのだから。
「ママ……」
 見ると、息子が、私のスカートの裾を引っ張っているところだった。イライラしてそうな、泣き出しそうな、そんな危うい表情をしている。どうやらSOSのサインらしい。母親歴三年ともなると、これが何を意味しているのかぐらい、私にだってすぐにピンとくる。
「パズル、ママ作って」
「自分で、できないの?」
「うん」
「ちゃんと、端っこからやってみた?」
「……う、うん」
「嘘ついてるでしょう? ママ、わかるのよ」
 しばらく迷うような素振りを見せていた息子も、やがてはパズルの方へと戻って行った。彼はまだ気づいていない。嘘をつく時、急にまばたきする回数が増えていることに。
 この三年間を振り返って、改めて思うことがある。それは、息子の存在が、私にとって、どれだけ大きな心の支えになってきたかということ。母親という立場になることを、あれほど不安に感じていた私。いっそのこと、すべてを投げ出してしまおうか、そう思ったことも一度、いや、一瞬だけあった。
 あの夜に起きた小さな奇跡。私は一生忘れないだろう。私は、確かにあの夜救われたのだ。まだお腹の中にいた息子に。お守り代わりのペンギンのおもちゃに。そして……。
 壁にかけられた小さな額縁に目をやる。リビングの中でも、そこは日当たりのいい場所だった。油彩画には本来よくないのだろうが、絵の中の少女には、その場所がふさわしいように思える。そこなら、窓越しに、好きなだけ大きな空を見渡すことができる。

 午後七時、ゴングは鳴らされた。
 テレビ画面の中で、リング中央へと歩み寄る二人のボクサー。メキシコ人のチャンピオンと、日本人の挑戦者による、世界タイトルマッチの中継である。
 私は、ソファーから身を乗り出すような姿勢で、テレビ画面に見入った。しばらくジム通いから遠ざかっていたせいだろう。こんなに気持ちが高ぶってくるのは久しぶりのことだった。握り締めた拳にも、自然と力が入る。
 まだ二十代前半の若きチャンピオンは、軽快な動きで、冷静に相手との間合いを計っている。一方、挑戦者の戦い方は対照的なものだった。三十近い年齢になって、ようやく掴んだビッグチャンスということもあるのだろう。ペース配分のことなどまるで考えていないかのように、ひたすらアグレッシブに責め続けている。
 挑戦者の右ストレートが、チャンピオンの顔面をとらえるたび、試合会場から大きな歓声が湧き上がった。
『おおっ。効いてます効いてます。一ラウンド目から、チャンピオン、防戦一方です!』
 観客以上に興奮しているのは実況アナウンサーである。
『うまく足を使ってますからねえ。それほどのダメージはないでしょう』
 一人冷ややかな分析をしているのは解説者である。
「ママ、パズル……」
 まるでボクシングに興味を示さないのは息子である。
「うん。わかったわかった。パズルね。パズルっていいよね」
 わかってもいないのに、いい加減なことを言っているのは私である。
 そして、一ラウンドは無事終了した。
 汗びっしょりの挑戦者は、倒れこむようにしてコーナーへと戻った。何が気に入らないのだろう。セコンドからの指示に、荒っぽく何度も首を振っている。
 涼しげな表情で、時折余裕の笑みさえ浮かべているのはチャンピオンの方だ。解説者の指摘通り、あまりダメージを受けているようには見えない。
 むしろ、一番ダメージを受けていそうに見えるのは、パズルピースを手にしたまま、じっと私のことを見つめている息子の方だった。今すぐ泣き出したとしても不思議ではない、という危うい雰囲気を、その小さな身体全体から漂わせている。
「もう、ギブアップ? このまま、あきらめちゃってもいいの?」
 パズルと私とを、しばらく交互に見比べるようにした後、息子は、再びパズルの方へと戦いを挑みにいった。それでこそ我が子である。可能性があることに対して、簡単にあきらめるようであってはいけない。それが私の教育方針である。
 二ラウンド目が開始された。
 挑戦者が、一ラウンド目以上の勢いで飛び出して行く。休みなく左右のパンチを繰り出しながら、チャンピオンをロープ際へと追いつめる。
 迎え撃つ形となったチャンピオンも、今回は激しく応戦している。カウンターを狙っているのだろう。先に相手に手を出させておき、そのタイミングに合わせるようにして、自らもパンチを繰り出す。しかも、挑戦者よりもスピーディーに。挑戦者よりも的確に。
『徐々に、チャンピオンがペースを掴み始めたようです』
 幾分沈みがちな口調になったのは実況アナウンサーである。
『最初っから、チャンピオンペースの試合でしたよ』
 相変わらず冷ややかなことを言っているのは解説者である。
「ママ、パズル……」
 相変わらずボクシングに興味を示さないのは息子である。
「うん。わかったわかった。パズルね。パズルってすごいよね」
 わかってもいないのに、相変わらずいい加減なことを言っているのは私である。
 大歓声の中、ボクサー二人による打ち合いは、激しさを増していった。手数で上回る挑戦者。有効打を重ねていくチャンピオン。どちらにもまだダウンはない。しかし、試合の優劣は明らかだった。挑戦者の動きは鈍くなり、パンチにも威力がなくなってきている。目尻からは、ついに赤い血が流れ始めた。その部分は、私が知っている古傷の一つだった。
「あ、あきらめないで……」
 思わずそう口にしていた。どんなに不利な状況だろうと、あきらめさえしなければ、一発逆転の可能性なら十分ありうる。それがボクシングというものなのだ。
 残り二十秒というところで、試合はいったん止められた。どうやらドクターチェックが入るらしい。出血の量は確かに多い。それでも、残りはたったの二十秒。このラウンドを持ちこたえさえすれば、チャンスはいくらでもある。
 レフェリーとリングドクターが、何やら言葉を交わしている。その横で、ファイティングポーズを取って見せる挑戦者。試合は止められたまま、なかなか再開される雰囲気にない。にわかに観客席がざわめき始める。
『これは……。どうやら、ドクターストップになるようです』
 実況アナウンサーの言葉に、客席からのブーイングが重なった。
 挑戦者が何か叫んでいる。レフェリーに向かって、観客に向かって、そしてカメラに向かっても。
 俺は、まだ戦える。
 口の動きは、そう繰り返しているように私には見えた。気のせいかもしれない。それでも、一つだけ確信できることはあった。
 彼は、これからも決して挑戦することをやめないだろう。
 人生それほどうまくはいかない。そのことを彼はよく知っている。私もだ。人生それほどうまくはいかない。それでも、挑戦する価値ならある。そう。挑戦する価値、それなら大いにある。彼も私も、そのことをよく知っている。
 いつか息子にも、そのことの大切さを話して聞かせる日がくるだろう。
「ママ。ねえ……。パズル、パズル……」
 私の手を引っ張りながら、息子が必死に訴えていた。どうやら、努力もそろそろ限界にきたらしい。
「できなかったの? もう、しょうがないなあ……」
 しかし、立ち上がった私の目に映ったものは、可愛らしくデフォルメされたセスナ機の絵だった。おばあちゃんからの誕生日プレゼントは、見事に完成していたのである。
「カッコいいねえ、この飛行機」
 私の言葉に、満足気にうなずく息子。どこか誇らしげな表情にも見える。小さな挑戦者は、たった今小さな勝利を掴んだのだった。
「やったね」
 私がファイティングポーズを取って見せると、息子もすぐにそれを真似て、二つの小さな拳を顔の前で構えた。私と息子との間だけで通じる、勝利のポーズである。
 どこへ飾ろうかと、周りを見渡してみると、ふさわしい場所はすぐに見つかった。
 完成したパズルを手に、小さな額縁の前で立ち止まる。私と同じ顔をした少女。私のこの三年間を支えてくれた少女。
 松葉杖に、ほっそりとした華奢な身体を預け、ただひたすらに暗闇の中を歩き続けている。そんな彼女を見るたび、心がざわめき、わけのわからない不安に襲われていた私。けれど、今は違う。
 今の彼女は、その背中に、大きな翼を持っていた。どこまでも高く、どこまでも遠くへ飛べそうな大きな翼を。
 タイトルには、父の字で、<闇の向こう側>とある。やはり彼女には、日当たりのいい場所、ここが一番よく似合っている。



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最後までお付き合いくださりありがとうございました。
次回のあとがきでは、この物語の誕生秘話を少しだけ。

あとがき そして、物語は生まれた
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テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

エッセイ リアリティバランス

リアリティバランス

 どこにでもいるような人の、どこにでもあるような日常生活。特別なハプニングもなければ、何かの記念日でもない。昨日とほとんど変わることのない今日一日の出来事。はたして、主人公が口にする朝食とはいったい何か!
 小説の宣伝文句としては最悪である。
 おそらく朝食は、パンかごはんだと思われるが、それを知ったからといって、読者が大満足するということはないだろう。それ以前に、こんな小説を好んで読もうとする読者はそうはいないはず。
 読者が小説に求めているもの。それは、非日常の世界に他ならない。現実とは異なる世界に一時身を置き、ハラハラするような出来事、胸を熱くするような出来事を、物語の登場人物たちとともに擬似体験していく。そこに読書というものの喜びがあるのだ。
 とはいえ、あまりに現実離れしすぎている小説にも問題はある。いくら読み進んでみても、なかなか物語の世界に入りこめない。なかなか登場人物に感情移入できない。そういった感想を抱く作品も少なくはない。その大きな要因の一つが、“嘘っぽさ”である。
 フィクションである以上、嘘であることに違いはないのだが、小説に求められているのは、嘘は嘘でも、リアリティを感じさせる嘘のこと。言い替えれば、許容できる嘘のことである。
 もちろん、嘘の許容量というものは、読者によってまちまちだろう。しかもそれは、小説のジャンルによっても違ってくる。
 動物や植物、乗り物や建物などが、人間の言葉をしゃべったとしても、それが童話の中であれば、さほど違和感はない。
 もしもそれが童話ではなく、シリアスな物語、たとえば、戦争の悲惨さをテーマにしたような作品だったとしたらどうだろう。
 本当は攻撃なんてしたくなかったんだ、という戦車の嘆き。
 ようやく出番らしいや、という核シェルターのはしゃぎ声。
 味はまあまあってとこかな、という死体に群がるハエの呟き。
 これはもう、完全に許容量を超えてしまっているはずだ。
 同様に、魔法の力を借りていいのは、ファンタジー小説の主人公であって、ミステリー小説の主人公ではない。推理に行きづまったシャーロック・ホームズが、最後の手段とばかりに、魔法の力で事件を解決しようとしても、それはたぶんワトソン君に止められるはずだ。
 リアリティを求める傾向は、時代が進むに連れ、ますます高まって来ているのではないだろうか。
 たとえば、数十年前の大ベストセラー作家、江戸川乱歩の作品を改めて読んでみると、あまりに現実離れしすぎていて、怖いはずの場面で、ついつい笑ってしまうということも多々ある。
 現実社会で交わされる会話と、小説の中の会話文とでは、大きな違いがある。単純に言ってしまえば、きちんとしているかしていないかの違いだ。
 話の方向はあちらこちらへ飛び、語順は乱れ、口はうまく回らず、言い間違いが多い。それが現実での会話である。
 しかし、これを小説の中で再現しようとすると、それはもう、とんでもなくわかりづらく、とんでもなく長い作品になってしまう。
 このあたりについては、そこまでのリアルさは必要なしという、書き手と読み手との間で、暗黙の了解みたいなものがあるのだろう。
 殺人を犯す動機としては、あまりにも現実離れしすぎている。読者から、そんな評価を受けるミステリー小説がある。人を殺すには、もっと明確な理由があるはずだ。ということなのだろう。
 しかし、なぜそんな理由で? と首を傾げたくなるような殺人事件は、現実社会でも決して珍しいことではない。
 このことを考えると、ミステリー小説に重要なのは、現実性ではなく、人間の言動というものに、いかにして明確な理由づけをするか、ということなのかもしれない。
 物語の中で、偶然の出来事が多い作品は、作家のご都合主義、といった評価をよく受けやすい。高校生を主人公にした物語の場合、今の高校生はこんなしゃべり方はしない。そんな感想をよく耳にする。医者を主人公にした作品を、医療関係者が読めば、そんな医者がいるわけない、といったような意見が多いはずだ。もしも宇宙人がSF小説を読んだとしたら、あまりにも現実と異なる内容に、ため息を連発するかもしれない。
 リアリティというエッセンスを、いったいどの程度フィクションに振りかければいいのか。現実的すぎても駄目。現実離れしすぎていても駄目。これは本当に難問だ。
 さて、私の『雨と虹の日々』、もしも猫が読んだとしたら、いったいどう思うのだろう。

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テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

不倫のライセンス 40 ドアは開かれた

40 ドアは開かれた

 赤信号でタクシーは止まった。横断歩道の直前で停止するのは、これで今日何度目になるのだろう。おまけに、午後十時過ぎだというのに、目の前を行く歩行者の数がやけに多い。青信号に切り替わるタイミングだって遅すぎる。これはもう、何か見えない力が作用しているとしか思えない。そう。私の行く手を阻もうとする、得体の知れない何者かの力。
 ハンドバッグを探るも、目的の物が見つからない。気持ちを落ち着かせるためには、欠かすことのできないスケッチブック。どうやら、事務所の応接室に置いて来てしまったらしい。
 描きかけのペンギンの絵……。そこで一つ思い出したものがあった。急いで上着のポケットを探る。ふるさとへ帰った時、智美からプレゼントされたおもちゃのペンギン。それを指で確認すると、ポケットから出さずに、そのまま手の平で包みこんだ。
 再びタクシーが走り出す。焦ることはない。礼治の素へ、私は確実に近づいている。電話が繋がらないのだって、トレーニング中だからなのかもしれない。きっとそうだ。昨日までは、礼治の方から何度も連絡があったのだから。
 世界ランカーとの試合が、近いうちに決まりそうなんだと、彼はうれしそうに話していた。今度こそ、試合見に来てくれますよね? そう聞かれた時には、私は迷うことなく承諾していた。
 ただし、昨日までの私には、礼治の要求に応えられないことが一つだけあった。
 今すぐ会いたい。電話越しに聞く彼のその声、そのせつなげな響きは、今でもはっきりと耳に残っている。
 それに対して、私はあの時どう返したのだろう。よく覚えていない。先にしなくちゃいけないことがあるから。たぶんそんな風だったと思う。そんなつまらないことしか言えなかったのだと思う。
 好きなら俺のそばにいてください。このまま駄目になってもいいんスか? 確かその言葉が、昨日の電話の最後だった。なぜだろう。今になって、急にそのことが気になり始める。
 私は、お守り代わりのペンギンを、ポケットの中で強く握りしめた。駄目になんかならない。二人の関係を、このまま駄目になんてさせない。
 やがてタクシーは、礼治が暮らすマンションの前で止まった。料金を支払い、素早く外へと飛び出す。急がなければいけない。もっと急がなければ、手遅れになってしまう。そう警告するかのように、私の心臓は大きく高鳴った。
 階段を駆け上がり、礼治の部屋の前で立ち止まる。呼吸は乱れ、脚もぶるぶると震えていた。私は間に合ったのだろうか。何かとんでもないことが起きる、今がその寸前だったのではないだろうか。わけのわからない不安と、根拠のない希望が、私の中で激しい衝突を繰り返していた。
 二、三度深呼吸してから、私はインターホンを押した。思わず指先が震える。
 何も応答がない。自分の息遣いだけが、やけに大きく聞こえるだけだった。
 もう一度押してみる。今度は、しっかりと願いをこめて。
 しかし反応は返ってこない。やはりトレーニングにでも出てるのだろうか。
 三度目を押そうとした、その時だった。
『はい』
「れ、礼治。私、セシル。急にごめんね。言いたいこと、どうしても、今夜中に言っておきたいことがあったの」
 しばらく待たされたが、やがてドアは開かれた。そして、私の目の前には、確かに成宮礼治の姿があった。
「やっぱり、トレーニング中だったのね。携帯繋がらないから、もしかしたらって……」
「うん。今、いったん休憩入れてたとこなんっスよ。またすぐに出るつもりでしたけど」
 礼治は、首に巻いたタオルで、額の汗を拭った。トレーニングウェアに身を包んだ姿が、やけに懐かしく感じる。私が突然訪問したせいだろう。彼の表情には、わずかばかりの困惑の色が浮かんでいた。
「ホントごめん。ここでいいから、少しだけ私の話聞いて」
 礼治はうなずき、それからやさしく微笑んだ。
「礼治、あの、あのね。私……」
 いざとなると、話したいことがあまりに多すぎて、いったい何からしゃべればいいのかがわからなくなっていた。そんな自分が、ひどく滑稽に思える。自然と照れ笑いのようなものがこみ上げてきた。
「あ、油揚げと、天ぷら……。あれ、よく二人で交換したじゃない? 覚えてるでしょ。ああいうの、いいなあって。あの時が、一番幸せだったのかなあって……。あ、別に、そんな話をしに来たんじゃないんだけど。何ていうか、あの時は、ただ一緒にいるだけで良かった。あの瞬間は、それしか望んでなかった。責任だとか、常識だとか、そんなもの、二人の間には存在もしてなかった。で、でも、この間の二人は、そうじゃなかったんだよね。いや、二人じゃなくって、私、私が変だったの。いきなり責任だとか言い出して……。あんなに追いつめたんじゃ、礼治が怒るのも無理ないし……。あ、ちょ、ちょっと待って。何も言わないで」
 口を開きかけた礼治を制して、私は懸命にしゃべり続けた。先ほどまでとは逆に、今は、口を閉ざすことこそが何よりも困難に感じる。
「黙って、最後まで聞いて。私、まだまだ言い足りてないんだから。伝えたいことの百分の一だって言えてない……。私、もう欲張るのやめたの。一緒に、礼治と、一緒にいられればそれでいい。それ以上は、もう何も望んだりしない。だ、だって、そうしろって、そうしなきゃ駄目だって、魂が言ってる。愛する人のそばにいなさいって、愛する人の力になりなさいって、私の魂がそう言ってる。そう叫んでる」
 熱い想いが、次から次へと溢れ出てくるのを感じながら、私は、それに追いつこうとばかりに、必死で言葉を絞り出した。
 いつの間にか頬が濡れていた。悲しみの涙とも、喜びの涙とも違う。それはきっと、気持ちが解放された時の涙。魂が解き放たれた時の涙に違いなかった。
「わ、私、間に合ったのかなあ……。このままじゃ駄目になるって、礼治、昨日電話で言ってたじゃない? あの意味、ようやくわかったの。やっぱり駄目よね、一緒にいなきゃ。好きだったら、一緒にいなきゃおかしいもん。まだ大丈夫だよね。私たち、ギリギリセーフ。私、ギリギリナインカウントで立ち上がったでしょ? また二人で、ボクシングのこと話したり、映画のこと話したり、それから、そう。油揚と、天ぷらの交換もしなきゃね。後は、うん。例の居酒屋に行ってさあ、また二人で……」
 人影に気づいたのは、その時だった。
 リビングへと続く廊下から、彼女はゆっくりとその姿を現した。礼治の別居中の妻? 初めはそう思った。しかしそうではなかった。玄関の頼りない薄明りの下ではあったが、彼女の正体を理解するには、それだけで十分だった。
 生田麻美は、バスタオルを一枚身にまとっただけの姿で、こちらをじっと見つめ続けている。以前と変わらぬ、あの射るような強い視線。私の言葉は、彼女によって完全に封じられてしまった。
 言葉を失ったのは、礼治も同じらしい。ひどく落ち着かない様子で、私と麻美とを、黙って交互に見比べることしかできないでいる。涙で曇っているせいで、私には、彼がどんな表情をしているかまではわからなかった。それでよかったのかもしれない。わからなかったことが、今は唯一の救いのようにも思えた。

 それから、いったいどれぐらい歩き続けていたのだろう。知らない道を、ただひたすらに前進するだけの私。足の痛みを覚えつつも、決してその歩みを止めようとまでは思わなかった。
 私は、意外とタフなのかもしれない。そう思える。礼治のマンションを後にした時から、はっきりと感じていた。一言彼に呼び止められたが、私は振り返らなかった。涙も、今はすっかり乾ききっている。お腹だってペコペコだ。一つの恋が終わった。しかも、滑稽な幕切れとともに。ただそれだけのことなのだ。
 数メートル先に、コンビニの明かりが見える。そういえば、そろそろ中華まんの季節かもしれない。夜食に肉まん。うん、すごくいいアイデアのように思える。
 さらに数メートル先からは、一台の軽トラックらしき車が、かなりのスピードで近づいてくるところだった。
 私が、ほんのちょっとでも車道に飛び出しさえすれば、この足の痛みなんて、一気に忘れることができるに違いない。ふとそんな考えが浮かぶ。足の痛みだけじゃない。胸の痛みだって、つらかった過去の記憶だって、全部忘れることができるのだ。これからの人生、必ず来るであろう不安や困難。それだって味わわずに済む。うん、これもすごくいいアイデアのように思える。
 私の足が、ふらふらと車道に向かいかけた、その時だった。
 急激な腹部の痛み。耐えきれず、その場にうずくまった私のすぐ横を、ものすごい勢いでトラックが通り過ぎていく。
 あっという間の出来事だった。
 後ろを振り返るも、すでにトラックのヘッドライトは見えなくなっていた。腹部の痛みも、嘘のようになくなっている。近くにはペンギンのおもちゃが転がっていた。うずくまった時にポケットから落ちたのだろう。すぐに拾い上げ、ぜんまいを巻いてみる。
 私の手の平の上で、よちよち歩きを始めるペンギン。どうやら無事だったらしい。ペンギンも、私も、そして、お腹の赤ちゃんも。
 私は何をするつもりだったのだろう。しばし呆然となり、あたりをゆっくりと見渡してみる。
「そうだった」
 思わず呟き、次にはかすかな笑い声を上げていた。足早にコンビニへと向かう。
「いらっしゃいませ」
「肉まん一つ。いや、やっぱり二つにして。お腹の子も欲しがってるから」
 レジで支払いをしようとした時、ポケットの携帯電話が震動を始めた。店員に軽く頭を下げ、素早く相手を確認する。
 意外にも、父からの電話だった。
『例のやつ、どこへ送ればいいんだ?』
「え? 例のって……」
『完成したら、お前にやると約束しただろ』

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ジャンル : 小説・文学

エッセイ 言葉の選択

言葉の選択

「月光」と「月明かり」
 同じ意味の言葉である。けれど、そこから醸し出される雰囲気には、やはり微妙な違いが感じられる。
 堅い雰囲気の「月光」に対し、「月明かり」は、どことなくロマンチックにも聞こえる。ただし、「月明かり仮面」という名のヒーローは弱そうだ。
「旅」と「旅行」
 これも、何となくニュアンスが違う。人数の違いなのか。行き先や費用の違いなのか。同じ意味であっても、やはり同じ使い方をするのには抵抗を感じる。“自分探しの旅行”に出た人間は、決して自分を見つけることはできないだろうと思う。
 人がこうして言葉を使い分けるのは、単にニュアンスの違いを表すためというだけではないはず。どんな言葉を選ぶか。その決定には、それぞれの人が持つ“美意識”というものが大きく関与しているのだ。
 いくら世の中で流行っていようとも、どうしても口にしたくない言葉というものはある。物書きの立場からすると、どうしても書きたくない、どうしても自分の物語には登場させたくない言葉という意味である。
 逆に、自分で特に何とも思わずに使っていた言葉が、他人にとってもそうかといえば、決してそうとは限らない。知らず知らずのうちに、人を不快にさせる言葉を使っている場合もあるはずだ。
 現に、使用されている言葉が気に入らず、どうしても読む気になれない作家の本というものはある。ストーリーがどうであるかという以前に、その作家の言葉の選択、つまり美意識が受け入れられないということなのだ。
 小説における言葉の選択は、普段の日常会話以上に重要であろう。
 例えば、流行語や、人気芸能人の名前。これらを、小説内で安易に使ってしまい、数年後に後悔するという可能性は十分に考えられる。古くなった流行語は、読者を苦笑させるだけでしかない。さらにもっと古くなれば、その意味自体が伝わらないという場合すらありうるだろう。清楚なイメージとして使った女優の名前も、やはり数年後にはわからない。大きなイメージチェンジによって、“誰々のような”という比喩の意味がなくなってしまうかもしれないのである。
 省略語の使い方にも注意したい。コスパ、ワンピ、ヘビロテなどなど。これらをあまりに使いすぎると、かなり軽薄な印象を読者に与えてしまうことになる。
 私が最近気になっているのは、プロの作家が、「スマートフォン」をどう表記しているのかということ。携帯電話からスマートフォンへ。この流れは、とうぜん現実社会も小説世界も同様だ。
 次の三作品の中に、その表記を見つけることができた。
 東野圭吾作『祈りの幕が下りる時』
 伊坂幸太郎作『死神の浮力』
 薬丸岳作『友罪』
 結論を言えば、いずれの作品も、「スマートフォン」という表記だった。日常会話でよく使われている「スマホ」ではなく、あくまでも、「スマートフォン」である。
 それぞれの作者が、その言葉の選択に悩んだかどうかはわからない。ただ、ミステリー系の小説に、「スマホ」という軽い響きは似合わない。そんな判断があったのではないだろうか。携帯電話を「携帯」と省略できても、スマートフォンを、「スマホ」と省略することには抵抗がある。これ、何となくわかるような気がする。
「おぞましい死体の画像が、突然私のスマホに送りつけられてきた」
 まあ、きっとそれほどおぞましくもないんでしょ。というような具合になるのでは?
「男はスマホを操作して、車に仕掛けられた爆弾のスイッチをオンにした」
 そして、大失敗した。というような具合になるのでは?
 やはり、何かしっくりこないものがある。怖さや迫力を表現する上で、「スマホ」という言葉はマイナス材料にもなりかねない。
 言葉を選択する基準は、やはり作家自らの美意識、ということになるのだろう。
 世間は世間。自分は自分。作家にはそんな割り切りも必要かもしれない。
 ということで、私のスマートフォンデビューは、まだまだ数年先に伸びそうである。

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プロフィール

片瀬みこと

Author:片瀬みこと
札幌在住のアマチュア作家

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