不倫のライセンス あとがき そして、物語は生まれた
あとがき そして、物語は生まれた
ここは地下鉄の線路の上。それを理解するまでに二秒ほどかかっただろうか。どうやら、私はプラットホームから転落したらしいのだ。すぐそばで電車の走行音が聞こえる。これからどうするべきか。考える余裕もないまま、私の意識はそこで消失した。
目覚めると、私はベッドの上に寝かされていた。左腕には点滴の管。頭には何かがかぶされている。おそらく包帯なのだろう。痛みはまったくない。それどころか、身体全体の感覚が鈍くなっている。まるで自分の身体でないような、まるでまだ夢の中にいるような、ちょっと不思議で、ちょっと不安な気分だった。
「片瀬さん、聞こえますか?」
声をかけてきたのは、白衣姿の医者らしき男性。ベッドの周りには、女性看護師、そして、母親の姿もあった。
「は、はい……」
肉体同様、その声も、まるで自分のものとは思えないような響きだった。
「ご自分の名前、言えますか?」
医者の質問は続く。至って真剣な声音である。
もちろん、私は難なく答えることができた。当たり前すぎるそのやり取りに、思わず苦笑を漏らしてしまう。
「ご住所はどうですか?」
その問いにも、当然答えることができた。しかし、それは途中までのことだった。
「あれ? ええと……。何だっけ?」
どういうわけか、何条何丁目、そこに当てはまる数字の部分だけが出てこない。
「それじゃあ、電話番号は覚えていますか?」
覚えていなかった。生年月日も同様である。いくら考えても思い出すことができない。年齢、身長、体重、とにかく数字が頭に浮かばないのだ。
「私、事故にあったんですか?」
こちらから尋ねてみた。私が思い出せないのは数字ばかりではない。どうして自分は今ここにいるのか。まずはその疑問をはっきりさせたかった。
地下鉄のホームから転落した後、すぐにその事故は起きたらしい。ブレーキはかけられたものの、電車が停止したのは、ホームから二十メートルも先の場所。
私は意識不明の状態で発見された。周りには血だまりができていたらしい。そこは、転落したところから、七、八メートル先の場所だったのだという。
「それって、普通死んでますよね?」
事故の状況を聞いているうち、思わず変な笑いがこみ上げてきた。まるで作り話としか思えない。車やバイクならともかく、私が撥ねられたのは地下鉄の電車なのだ。
「本当に、奇跡のような話です」
やさしく微笑んでから、医者は、「片瀬さん、いくつもの好条件に恵まれたようなんです」と続けた。
その条件とは、次のようなものだった。
ホームから転落した際、倒れずにうまく着地していたこと。ブレーキがかけられたおかげで、衝突時の速度が落ちていたこと。線路の中央からは、やや外れた場所にいたこと。撥ね飛ばされた先が、ちょうどホーム下の空間だったこと。
話を聞けば聞くほど、確かに自分でも奇跡的なことだと思った。
「頭を打った影響で、一時的な記憶の混乱はあると思います」
医者の言葉通り、数字の記憶はやがて蘇った。その後、いくつかの簡単な反射テストも行われたが、幸い中枢神経の異常は見られなかった。まさに奇跡としか言いようがない。鎖骨と肋骨は折れていた。肋骨が刺さったことで、肺にも傷がついた。頭部には裂傷を追い、小さな脳出血も確認された。しかし、私はこうして生きている。私は、まだこうして生かされているのだった。
夜、一人っきりの病室。長かった一日が終わろうとしている。もしかすると、命を落としていたかもしれない今日という一日。私の人生最後の日は、自分の意志とは関係ない理由で、こうして延期されることとなったのである。
もしも、今日死んでいたとしたら……。
同じ問いが何度も繰り返され、眠りにつこうとする私を揺り動かす。肉体は休息を望んでいた。だが、思考は決してそれを許さない。たった今、ここで答えを出せ。そう命じているようだった。
もしも、今日死んでいたとしたら……。
後悔するだろうことが、たった一つだけ頭に浮かんでいた。好きで始めた小説の執筆を、途中で放り投げてしまっていたことである。
片瀬さんには、まだ生きてやるべきことがある。きっと、神様がそう思ったのかもね。
印象に残る医者の言葉だった。神様のことなど、今まで考えたこともなかった私だが、確かに、まだ生きてやるべきことなら一つ残っていた。魂がそう叫んでいるのだから間違いない。
退院したらすぐに書き始めよう。どんな物語がいいだろう。不幸な出来事の中から、大切な何かを見つけ出す、そんな話を書いてみたい。砂漠の果てにあるオアシス。広い海に浮かぶ小島。雪山の中の丸太小屋。暗闇の先の小さな光……。
休息を求める肉体を無視するかのように、思考はますます活発になる一方だった。こんな高揚感は初めてかもしれない。小説の構想はすでに始まっているのだ。もうそれを止める術はない。
人生、それほどうまくはいかない。しかし、挑戦する価値なら大いにある。
小説のテーマはこれでいこう。私同様、物語の主人公も最後には気づくだろう。そのことの大切さに。
この日、私は命を落としかけた。この日、私の中で革命が起った。そして、物語は生まれた。
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次回作の準備のため、しばらく更新の方はお休みいたします。
新たな物語で、またお会いしましょう。
不倫のライセンス 目次
ここは地下鉄の線路の上。それを理解するまでに二秒ほどかかっただろうか。どうやら、私はプラットホームから転落したらしいのだ。すぐそばで電車の走行音が聞こえる。これからどうするべきか。考える余裕もないまま、私の意識はそこで消失した。
目覚めると、私はベッドの上に寝かされていた。左腕には点滴の管。頭には何かがかぶされている。おそらく包帯なのだろう。痛みはまったくない。それどころか、身体全体の感覚が鈍くなっている。まるで自分の身体でないような、まるでまだ夢の中にいるような、ちょっと不思議で、ちょっと不安な気分だった。
「片瀬さん、聞こえますか?」
声をかけてきたのは、白衣姿の医者らしき男性。ベッドの周りには、女性看護師、そして、母親の姿もあった。
「は、はい……」
肉体同様、その声も、まるで自分のものとは思えないような響きだった。
「ご自分の名前、言えますか?」
医者の質問は続く。至って真剣な声音である。
もちろん、私は難なく答えることができた。当たり前すぎるそのやり取りに、思わず苦笑を漏らしてしまう。
「ご住所はどうですか?」
その問いにも、当然答えることができた。しかし、それは途中までのことだった。
「あれ? ええと……。何だっけ?」
どういうわけか、何条何丁目、そこに当てはまる数字の部分だけが出てこない。
「それじゃあ、電話番号は覚えていますか?」
覚えていなかった。生年月日も同様である。いくら考えても思い出すことができない。年齢、身長、体重、とにかく数字が頭に浮かばないのだ。
「私、事故にあったんですか?」
こちらから尋ねてみた。私が思い出せないのは数字ばかりではない。どうして自分は今ここにいるのか。まずはその疑問をはっきりさせたかった。
地下鉄のホームから転落した後、すぐにその事故は起きたらしい。ブレーキはかけられたものの、電車が停止したのは、ホームから二十メートルも先の場所。
私は意識不明の状態で発見された。周りには血だまりができていたらしい。そこは、転落したところから、七、八メートル先の場所だったのだという。
「それって、普通死んでますよね?」
事故の状況を聞いているうち、思わず変な笑いがこみ上げてきた。まるで作り話としか思えない。車やバイクならともかく、私が撥ねられたのは地下鉄の電車なのだ。
「本当に、奇跡のような話です」
やさしく微笑んでから、医者は、「片瀬さん、いくつもの好条件に恵まれたようなんです」と続けた。
その条件とは、次のようなものだった。
ホームから転落した際、倒れずにうまく着地していたこと。ブレーキがかけられたおかげで、衝突時の速度が落ちていたこと。線路の中央からは、やや外れた場所にいたこと。撥ね飛ばされた先が、ちょうどホーム下の空間だったこと。
話を聞けば聞くほど、確かに自分でも奇跡的なことだと思った。
「頭を打った影響で、一時的な記憶の混乱はあると思います」
医者の言葉通り、数字の記憶はやがて蘇った。その後、いくつかの簡単な反射テストも行われたが、幸い中枢神経の異常は見られなかった。まさに奇跡としか言いようがない。鎖骨と肋骨は折れていた。肋骨が刺さったことで、肺にも傷がついた。頭部には裂傷を追い、小さな脳出血も確認された。しかし、私はこうして生きている。私は、まだこうして生かされているのだった。
夜、一人っきりの病室。長かった一日が終わろうとしている。もしかすると、命を落としていたかもしれない今日という一日。私の人生最後の日は、自分の意志とは関係ない理由で、こうして延期されることとなったのである。
もしも、今日死んでいたとしたら……。
同じ問いが何度も繰り返され、眠りにつこうとする私を揺り動かす。肉体は休息を望んでいた。だが、思考は決してそれを許さない。たった今、ここで答えを出せ。そう命じているようだった。
もしも、今日死んでいたとしたら……。
後悔するだろうことが、たった一つだけ頭に浮かんでいた。好きで始めた小説の執筆を、途中で放り投げてしまっていたことである。
片瀬さんには、まだ生きてやるべきことがある。きっと、神様がそう思ったのかもね。
印象に残る医者の言葉だった。神様のことなど、今まで考えたこともなかった私だが、確かに、まだ生きてやるべきことなら一つ残っていた。魂がそう叫んでいるのだから間違いない。
退院したらすぐに書き始めよう。どんな物語がいいだろう。不幸な出来事の中から、大切な何かを見つけ出す、そんな話を書いてみたい。砂漠の果てにあるオアシス。広い海に浮かぶ小島。雪山の中の丸太小屋。暗闇の先の小さな光……。
休息を求める肉体を無視するかのように、思考はますます活発になる一方だった。こんな高揚感は初めてかもしれない。小説の構想はすでに始まっているのだ。もうそれを止める術はない。
人生、それほどうまくはいかない。しかし、挑戦する価値なら大いにある。
小説のテーマはこれでいこう。私同様、物語の主人公も最後には気づくだろう。そのことの大切さに。
この日、私は命を落としかけた。この日、私の中で革命が起った。そして、物語は生まれた。
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