みことのいどこ 2014年02月

不倫のライセンス 39 同情は禁物

39 同情は禁物

 私と敏明との話し合いの席は、法律事務所の応接室と決まった。もちろん、瞳子が提供してくれた場所である。その代りというわけではないのだろうが、彼女からは、厳しい口調で、何度も同じ忠告を受けることとなった。
 同情は禁物、というのがそれである。離婚を希望していたはずの依頼人が、話し合いの途中で、心変わりをしてしまうというケースを、瞳子は今までにも何度か経験してきているのだという。私の夫のこと、そんなに悪く言わないで。依頼人からそう責められたことさえあったらしい。
 苦笑して話す瞳子の顔を思い出すと、私の表情にも自然と苦いものが浮かぶ。弁護士としての苦労はわかる。しかしその一方で、心変わりをしてしまうという依頼人の気持ちも、今の私には理解できなくはない。
 敏明を憎んでいるのか。そう自問してみても、答えはノーだった。憎みたくない。憎んではいけない。心の声はそう言っている。好きなまま、いや、感謝の気持ちを持っての別れ。そんな望みは、やはり単なるきれいごとでしかないのだろうか。
 私は、大きく二、三度首を振って、頭の中の思考を追い払った。こんなことばかり考えていると、瞳子に叱責されるに違いない。
 応接室で、私は一人時間を持て余していた。予定よりもずいぶん早く来てしまったせいである。どこにいようとそうなのだろう。これからのことを想像すると、やはり気分は落ち着かなかった。敏明はどんな表情をしてやって来るのか。それ以上に、どんな話をするつもりでいるのか。
 バッグから、小さめのスケッチブックを取り出す。心を安定させるには、やはり絵を描くのに限る。
 空飛ぶペンギン。いたずら書き程度ではあるが、それはここ数日、私が繰り返し描き続けているモチーフだった。
 夢中で色鉛筆を走らせる。白い紙の上に、デフォルメされたペンギンの姿が、徐々に形作られていく。大空に憧れるペンギンは、小型のプロペラ機を操縦することで、間もなくその夢をかなえようとしているところだ。
 ノックの音に、私は手を止めた。時刻を確認する余裕もないまま、ドアが押し開かれていく。最初に瞳子の姿が目に入り、それからすぐに男性の影が続いた。
「こちらへ、どうぞ」
 瞳子が、男性にソファーを指し示す。私と向かい合わせになる席である。
「セシル……」
 私の耳元で、瞳子が何やら囁いているようだが、うまく聞き取れない。私の意識のすべては、目の前の男性にのみ向けられていた。この人は、本当に私の夫、杉本敏明なのだろうか。そんな疑問で、頭の中はいっぱいだった。
「体調は、大丈夫なのかい?」
 確かに、その声は夫のものだった。何か重い病気にでもかかったのだろうか。本人だとわかったとたん、今度はそんな思いが胸を突く。それだけ敏明の顔色は悪く、別人のようにやつれきっていた。
「ど、どこか、悪いの?」
「え? ああ……」
 敏明は、肉の落ちた自らの頬に片手を添え、「自分で作った料理が、あまりにもまずくてね」と、苦笑いを浮かべた。
 隣から瞳子の咳払い。そちらに目をやる。同情は禁物、とその顔には書いてあった。
 敏明を、これほどまでに変貌させた要因は何か。思いつくことは一つしかない。私たち夫婦に、子供ができなかった原因は自分にある。きっと敏明はそう考えたのだろう。夫にとってのそれは、妻が不倫をしていた以上の衝撃だったのかもしれない。
 決してあなたのせいではない。今すぐにでもそう言ってあげたかった。子供ができなかった理由なら、他にもいろいろあるのだということを。
 しかし、そんな言葉に意味などない。五年間の結婚生活で、敏明の性格なら十分理解できている。慰めに聞こえるような言葉など、夫は絶対に望まないだろう。同情されることを、何よりも嫌う人なのだ。そう。同情は禁物。敏明の顔にも、はっきりとそう書いてあった。
「一つだけ、提案がある」
 敏明は言った。かすれ気味のその声には、強い決意を感じさせるような響きがあった。
「子供には、父親、母親、両方揃っていることが望ましい」
 そこで言葉が途切れた。しばらくの間、お互いをただ見つめ合うだけの時間が流れる。
 先を促そうと、私の方から小さくうなずいて見せた。
「お腹の子供……。俺が、その子の父親になることはできないだろうか。ベストではないかもしれないが、今の状況を考えれば、それがベターな選択だと、俺は思う」
 返す言葉がなかなか見つからない。けれど、言葉にならない何かが、身内から沸き起こってくることだけはわかった。
「ありがとう」
 次の瞬間にはそう言っていた。
 敏明がその考えにたどり着くまで、いったいどれだけの心の葛藤を繰り返してきたのか。それを思うと、自然に感謝の言葉が浮かんできたのだった。
「でも……」
 急いで言葉をつなぎ、それからゆっくりとかぶりを振った。
 提案が受け入れられたわけではない。敏明はすぐにそれを察したようだ。安堵しかけた瞳が、再び曇り始める。
「私、決めてるの。いや、たった今決めたのかもしれない……。これから、成宮さんのところへ行くつもり。そこでもう一度話してみる。責任のことだとか、生活のことだとか、お金のことだとか、法律のことだとか、モラルのことだとか、そんな話じゃなくって、そんなちっぽけな話なんかじゃなくって、もっと、もっともっと大切な話。あなたのことを愛してますって、それを伝えに行くつもり。きっとこれって、ベストでもベターでもないかもしれない。だけど、私は、私の魂の声に従うつもり」
 そこまで一気にしゃべり、私は大きく一度吐息をついた。心臓が痛いほどに脈打っている。
 しばらく誰も口を開かなかったが、やがて瞳子がその沈黙を破った。
「法律の話がちっぽけっていうのは、どうも気に入らないなあ」
「あ、ごめん」
 苦笑する瞳子に続いて、私もペコリと頭を下げながら笑った。
「魂の声か……」
 ややあって、敏明がポツリと呟く。
「そんな概念持ち出されたら、反論のしようがないな」
 意外なことに、敏明の表情にも、わずかな笑みが浮かんでいた。「それ、可愛らしいじゃないか」と、テーブルに置かれたスケッチブックを指差す。
「うん。これ、最近思いついたキャラクターなの」
「そうか……。出版関係者に、見てもらったことはあるのか?」
「え? いや、そういうこと、ぜんぜん考えたことなかったから……」
「もしかしたら、商品価値があるかもしれないぞ。空を飛びたがるペンギン。テーマは、ないものねだりってとこか?」
「違う……。魂はそれを望んでいる。それがこの絵のテーマ」
「また、魂か……」
 敏明はおどけるように肩をすくめた。
「とにかく一度、出版社に持ちこんでみるといい。何か、いい仕事のきっかけになるかもしれないぞ。弁護士に、どんなうまいこと言われてるのかわからないが、離婚後の女性の生活は、そんなに甘いもんじゃない」
 最後にチラリと瞳子を睨みつけ、敏明は部屋を出て行った。
 反論こそしなかったものの、瞳子は不満げに口を尖らせている。それでも、私と目が合ったとたん、その表情はすぐに笑顔へと変わった。
「お祝い、というわけにもいかないけど……。久しぶりに、どこかで一杯やらない?」
「瞳子ごめん。私、行かなきゃ。今すぐ、礼治のところへ行かなきゃいけないの」

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40 ドアは開かれた
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ショートストーリー 故郷へ帰りたい

故郷へ帰りたい

 診察室へ猿が入ってきた。
 とはいえ、本物の猿ではない。顔が猿にそっくりな人間のことである。
 ドクターは、チラリと壁の時計に目をやった。昼食を前に、厄介な患者が来たものだ。思わずため息が漏れそうになる。
「あなたのことは、内科医の方からだいたいの話は聞いてますよ」
 内科医のくそったれから、と心の中で言いなおしつつ、「大変ですねえ」と、やさしい口調でドクターは続けた。
「はあ」と、猿顔の男が力なくうなずく。早くも目を潤ませているようだ。
 泣きたいのはこっちの方だぜ。胸中で再び毒づくと、ドクターは手にしたカルテにさっと目を走らせた。
 頭痛、食欲不振、腰痛、動悸、不眠、吐き気、めまい、倦怠感……。
 その他にも、見慣れた症状がずらりと並んでいる。要は、原因がよくわからないということなのだろう。わかっていることはただ一つ。こういう患者は、決まって最後にドクターのところへやって来るということだ。いや、ドクターのところへ回される。あるいは、押しつけられる、と言う方が適当かもしれない。
「ええと、お仕事の方は……」
 不満が顔に出ないよう気をつけながら、ドクターはにこやかに尋ねた。
「食品メーカーに、お勤めということでいいんですね?」
「あ、はい。でも、ここ二週間ほど、お休みをいただいてますが」
「仕事でのストレスはどうですか? 感じます?」
「はい。やはり、慣れていないもので」
「そうですか。以前は、どのようなお仕事を?」
「科学者です」
 男の声に、わずかばかりの力強さが加わる。
「私、向こうでは、重要な仕事を任せられていたんです」
 表情にも、どこか誇らしげな色が浮かぶ。
「そうですかそうですか。きっと、今のお仕事が、いや、それだけじゃなさそうですね。ここでの生活そのものに、何か大きな不満を抱えておられるのでは?」
「そう、そうなんですよ。先生のおっしゃる通りです」
 男は何度もうなずいた。そして涙ながらに語り始めた。
「私には、もっと別の仕事、自分の能力を生かせるというか、自分にふさわしいというか。とにかく、今の仕事には満足できないんです。だいたい、ここでの食事がまったく口に合わないっていうのに、よりによって食品メーカーで働かされるだなんて。こんな皮肉あるでしょうか。今の私には、もう何一つ残されていないんです。科学者としての名声も、家族との団欒も。今あるのは、まずい食い物と、ろくでもない仕事と、それから、そう、人を馬鹿にしたような、あの上司の態度、あれはひどすぎる。この間なんて、私のことを猿と呼んだんですよ。猿ですよ、猿」
 ドクターは顔を伏せた。もちろん笑いをこらえるためである。
「せ、先生だけは、やっぱり私の気持ちわかってくれるんですね」
 男の目には、涙をこらえているように見えたらしい。その勘違いぶりが、ますますドクターの笑いのツボを刺激する。
「こ、こんなこと、今さら言っても仕方がないんですが……」
 男はそこで口ごもった。
 何を言いたいのか、ドクターにはだいたいの見当はついている。ゆっくりと顔を上げ、「どうぞ、何でもおっしゃってください。言いたいことがあるなら、素直にそれを口に出した方がいいですよ」と男を促した。もちろん笑いをこらえながらである。
「故郷へ、こ、故郷へ帰りたいんです」
 嗚咽とともに、男の口から予想通りの言葉が吐き出された。
「ああ、そうでしたか」
 ドクターは、大きく一度うなずいて見せた。そして、やれやれ、これで少しは気が晴れただろうぜ、と心の中でため息をつくのだった。
 室内にさわやかな音楽が流れ始める。午後一時、昼食の時間を告げる合図である。
 甲高い鳥の鳴き声に、猿顔の男が、はっとしたように斜め後ろを振り返った。鳥籠が置かれていたことに、たった今気がついたらしい。
「鳥も、昼食の時間がわかるようですね」
 ドクターは立ち上がり、「それでは、また来週同じ時間に」と、事務的な口調で男に告げた。
「あ、でも、せ、先生。まだ私、相談したいことが他にも……」
 男が、救いを求めるかのような視線でドクターを見上げる。
「これから昼食なんですよ。わかるでしょ? 話なら、また次回にしてください」
 同情を装うのは、もうおしまいと言わんばかりに、ドクターは冷たく言い放った。
「あなたに、一ついいアドバイスをしましょう。これからすぐに家へ帰り、ゆっくりと眠ることです。あ、そうでした。なかなか眠りにつけないんでしたね。じゃあ、睡眠薬出しておきますね。一番強力なやつを。それから、眠る前には家族の写真でもご覧なさい。運が良ければ、夢の中で再会できるかもしれませんよ。そうそう。夢の中だったら、いくらでも故郷での暮らしを楽しめますしね」
 男はそれでも腰を上げようとしない。それどころか、表情には反抗的な色さえ浮かんでいる。
「故郷へ帰れなくなったのは、いったい誰のせいでしたっけ?」
「そ、それは……」
 この質問は効き目があったらしい。男の顔は、すぐに元のみじめったらしい猿顔へと戻った。
「科学者。そうでしたよね? 私はそう聞いてますよ。あなたたち自身が、あなたたちの故郷を滅ぼした。そうじゃなかったんですか?」
 これが決め手となった。
 ドクターがドアを開けてやると、男はよろよろと立ち上がり、素直に診察室を後にした。ただ一言、「そんなつもりはなかったんだ」というかすかな呟きを残して。
 単なる言い訳である。自らの過ちを決して認めようとしない。これも、彼らの悪しき特徴の一つなのだろう。だから嫌だったんだ。地球からの移民を受け入れるのは、初めっから反対だったのだ。
 ドクターの口から大きなため息が漏れ出る。時計を一度確認し、急いで鳥籠へと手を伸ばす。昼食の時間は、残りわずかとなっていた。

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不倫のライセンス 38 檻の中から

38 檻の中から

 これでいいのだろうか。
 新山瞳子のマンションで暮らすようになってから二週間。私の頭の中では、何度も同じ問いかけが続いていた。
 離婚に向けての話し合いは、順調に進んでいるらしい。敏明の対応も、いたって冷静なものだという。私に対する批判めいた言葉はいっさいなく、ただ、俺のミスだった。という言葉を何度も繰り返しているらしい。
 この調子でいけば、正式離婚までそう長くはかからないかもしれない。少なくとも、泥沼の裁判という事態だけは避けられそうだった。
 ただし、これらすべては、代理人である瞳子からの報告によるものである。
 これでいいのだろうか。
 再び、その言葉が脳裏をよぎった。私の人生の方向が、私抜きで決められていく。そんな気がしてならなかった。
「私も、セシルみたいなお嫁さん欲しいなあ」
 夕食の席。瞳子が冗談っぽく呟く。見ると、カキフライを一つつまみ上げたところだった。私の作った料理に対する賛辞らしい。
 私は微笑みを返した。が、あまりうまくはいかなかったようだ。「またあ……」と、瞳子が苦笑しながら私の顔を覗きこむ。
「始まっちゃった。セシルのクヨクヨ病」
 反論できずに、ただうつむくばかりの私。それは女子高時代から、繰り返し彼女に言われ続けている言葉だった。あの頃から、私は何の成長もできていないのだろうか。改めてそう感じてしまう。
「こういう問題は、第三者が間に入った方が絶対いいの。当事者同士だと、どうせ感情的になるだけなんだから」
「うん。それはわかってる」
「本当? セシル、本当にわかってる?」
「わかってる……」
「だんだんと声が小さくなっていくようだけど。まあ、いいわ。ついでに、もう一つだけ言っておく。いずれは、敏明さんに会わせなきゃいけない日がやってくる。その時になって、せっかくのセシルの意志、離婚するって意志のことだけど。その気持ちがぐらつくんじゃないか。私が、今一番心配してるのがそれなの」
「それは、きっと、大丈夫……」
「ううん。ぜんぜん大丈夫そうに見えないなあ。あのね、セシル。身勝手なことをする男も悪いけど、その身勝手さを許す女、それも同じぐらい悪いのよ。わかる?」
「わかる、たぶん……」
 私は顔をしかめた。こんな日の食後のコーヒーは、間違いなくいつもより苦い。今一番正しい選択とは、このまま瞳子の指示通りに行動すること。それはわかっている。わかってはいるが、納得はまったくできていない。
 しばらく間ができたところで、私の方から話題を変えてみた。
「瞳子って、男の人嫌いなの?」
 彼女に対しての、これは昔からの密やかな疑問だった。
「な、何よ、突然」
 マグカップを口元から離し、瞳子はむせ返るように笑った。よっぽど意外な質問だったらしく、眼鏡の奥で目を丸くしている。
「だって瞳子って、昔から男性に厳しいことばっかり言ってるじゃない」
「そう? 私、そんなに男に厳しい?」
 瞳子のクスクス笑いはなかなか収まらない。
「今までだって、私が気に入った男の人、ことごとく悪く言ってきたじゃない」
「そうかなあ。ぜんぜんそのつもりなかったんだけど……。そうだ。彼、智美君のことは、私、悪く言ってなかったでしょ?」
「長男坊と一緒になると、女は絶対に苦労するって言ってた。それに、トモのこと、無駄に身体が大きい。その分、なおさら日本が狭くなるって言ってたじゃない」
 瞳子の笑い声は大きくなる一方だ。
「笑いごとじゃないでしょ」
「ごめんごめん。身体のことは、確かに言いすぎよね」
 気がつくと、私も瞳子に釣られるように笑っていた。
「嫌ってた時期も、そういえばあったかもしれないなあ」
 ややあって瞳子が呟く。“男嫌い”についての話らしい。声音には、まだ少しだけ笑いが残っている。
「でも今は、嫌いというより……。うん。ちょっと、可哀そうに思うことの方が多くなってきたかな」
「可哀そう? 男の人がってこと?」
「そう。実は彼ら、檻の中から抜け出せないでいるだけなのかもってね」
「ねえ瞳子。もっとわかりやすく、劣等生にでもわかるように説明してよ」
 瞳子が再び白い歯を覗かせる。
「その檻には、“男らしさ”って看板がかかってるの」
 黙りこむ私を見て、瞳子も笑顔を引っこめた。そして、何かを思案するかのように天井を見つめる。
「もう一度、直接セシルと話し合わせてくれって、敏明さんが、その檻の中から叫んでるんだけど……。セシル、どうしたい? 私としては、あまり賛成できないんだけどね」
「会わせて」
 即答していた。それは、今日私の方から頼むつもりでいた言葉だった。
「やっぱりね。セシル、昔っからそう。私が賛成できないようなことばかりするんだもん」
「ごめん」
 うつむく私を残して、瞳子は、「ちょっと待ってて。今、いい物見せてあげる」と一人席を後にした。
 五分ほどして戻ってきた彼女。胸に小さめの額縁を抱いている。裏返されているため、それが何を意味しているのか、私にはまったく見当がつかない。
 瞳子が元の席へと腰を下ろす。なぜか、いたずらっぽい表情を浮かべている。
「これ、覚えてる?」
 私の眼前で、額縁がくるりと半回転する。
 そこには、女子高時代の私がいた。
 あの頃、一度だけお互いをモデルに絵を描いたことがあった。その時のものだ。絵の中の私は、長い髪を前に垂らし、不安げな表情をうつむかせている。
「私のクヨクヨ病って、この時すでに発症してたのね」
 思わず自虐的な笑みが浮かんでしまう。まるっきり今と変わっていないではないか。きっと私一人だけが、人類の進化から取り残されているに違いない。この絵が、はっきりとそのことを証明している。
「この絵、私の悪意の表れなの」
 言葉の意味がわからず、私は瞳子を見やった。微笑してはいるが、瞳には真剣な光が宿っている。
「セシルのこと、魅力的に描こうと思ったら、いくらでもその通りに画けた。でも、私はそうしなかった。嫉妬してたの。私、セシルに嫉妬してたのよ。そのこと気づいてた?」
 私は黙ってかぶりを振った。どう答えていいのかがわからない。何かの冗談? そう聞き返したかったが、冗談でないことは、彼女の表情を見れば明らかだった。
「男の子たちの目を引くのは、いつだってセシルの方だった。態度に出さないようにはしてたけど、本当はそれがすごく悔しかった。でもねえ。結局、その悔しさが、私の原動力にもなってたの。私は、私の武器を手に入れないとってね。だって、ルックスじゃ、セシルに勝てるわけないんだし。だから勉強した。猛烈に勉強した。もっと、もっと強くならなきゃって……」
 瞳子は、そこでいったん言葉を切った。一呼吸置き、再び口を開く。泣いているような笑っているような、そんな声音だった。
「最近、これでいいのかなって、そう思うことがよくあるの。私って本当は、“可愛い女”って呼ばれたいんじゃないのかなってね。“賢い女”とか、“格好いい女”とかじゃなくって……。でも、無理よね。恋人の子供、平気で中絶してしまうような女。誰も、可愛い女だなんて思ってくれるわけないもん」
 初めて耳にする話だった。今目の前にいるのは、私の知っている瞳子だろうか。そんな疑問さえ浮かんでくる。迷いのない人生を、強くしなやかに駆けて行く。私にとっての瞳子とは、そういう女性。私が憧れとする女性像なのだ。
「セシルのこと、私、いまだに嫉妬してるのかもしれない。この間、言ってたじゃない? 子供産むって。こんな状況だっていうのによ。しかも何の迷いもなく……。私には、そんな強さなかった。あの時わかったの。私、やっぱりセシルには勝てないんだってこと」
 それからの瞳子は、黙って絵を見つめ続けるだけとなった。
 私は二人分のコーヒーを注ぎ直し、改めて彼女に目をやった。そこにあるのは、今までとは違う親友の顔だった。
「コーヒー、入れたから」
「あ、うん。ありがとう」
 瞳子が、我にかえったようにこちらを見やった。そして、照れくさそうに笑う。私も笑顔を返した。誰にも言えない秘密を、二人で共有する時に見せる、そんな種類の笑みだった。
「あなたに、まだいくつか言っておかなくちゃいけないことがある」
 コーヒーを一口飲んだところで、瞳子は言った。自信に満ちたその口調は、私がよく知っている方の彼女だった。
「杉本敏明さんに対する同情、これは絶対に禁物。それから、成宮礼治さんについてだけど、別居中の彼の妻から見れば、あなたは訴えられても仕方がない立場だってこと、それは忘れないで」
「うん、わかった」
「弁護士としてのアドバイスは以上。後は好きなようにして。もう私、口出すのやめにした。これからは見物させてもらう。私の永遠のライバルは、果たしてどんな生きざまを見せてくれるのかをね」

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残り3話です。

39 同情は禁物
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エッセイ 表現の自由について思うこと

表現の自由について思うこと

 登場人物の言動に、作者は責任を持てません。
 村上春樹は、きっと今こんな心境でいるのではないだろうか。反論するのも馬鹿ばかしい。口から洩れるのは、ため息と苦笑だけ。そうに違いない。
 村上氏の小説に、北海道中頓別町の議員が抗議したという話である。この内容が実にあきれる。
 問題とされているのが、中頓別町出身の女性運転手が、火の付いたたばこを車の窓から捨てるという場面。それを見た主人公の感想が、「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」というもの。
 中頓別町の人は、そんなことしない。ということらしい。事実と違う。中頓別町を馬鹿にするな、という抗議である。
 テレビドラマも含め、最近このような創作物に対する抗議というものが、非常に目立ってきているようだ。事実と異なる。子供に悪影響を及ぼす。差別を助長する。といった具合である。
 犯罪はもちろんのこと、物語の登場人物は、勘違い一つしても駄目。皮肉一つ口にしても駄目。つまりは、欠点一つない完璧な人格でなければいけないというわけだ。
 そういった無茶な抗議を、もしも作り手が受け入れたとしたら、いったい表現の自由というものはどうなってしまうのだろう。
 暴れようとする怪獣を、思いとどまらせようとやさしく諭すウルトラマン。常に印籠を表に出し、悪事を未然に防ぐ水戸黄門。そそっかしくないサザエさん。怒鳴らない波平。いたずらしないカツオ。
 うーん。これはこれで斬新な作品にはなるかもしれない。
 が、しかしである。やはりこれは大問題だ。芸術文化の衰退に他ならない。
 フィクションはフィクションとして受け止める。当たり前のことである。自分のしたことは自分の責任。これも当たり前。表現の自由とは、この当たり前の原則によって成り立っているものなのだ。
『ルパン三世』を見た人物が、万引きをしたからといって、それはモンキーパンチのせいではないし、『マッチ売りの少女』を読んだ人物が、火遊びをしたからといって、それはアンデルセンのせいではないし、『北の宿から』を聞いた人物が、着てはもらえぬセーターを 寒さこらえて編んだために風をひいてしまったからといって、それは都はるみのせいではないのである。
 小説に対する抗議として思い出されるのが、『バトル・ロワイアル』
 当時の騒ぎようはひどいものだった。要は、子供に悪影響を及ぼす、というのがその抗議内容だ。もちろん、あんな騒ぎで何か有意義な答えが出るということはなかった。出るわけがないのだ。
 悪影響の有無について、決してゼロだとは思わない。しかし、こうも思う。悪影響を与える可能性のまったくない創作物が、果たしてこの社会に存在するのだろうか、と。
 ホウキに乗った魔法使いの影響で、子供が窓から転落死。そういったことだって十分ありえるのだ。
 ハリウッド映画の中に、黒人の悪役を見ることはめったにない。
 それはなぜか。おそらく抗議を避けるためなのだろう。黒人を悪く描くのは人種差別だ。といったありがちなやつである。
 その結果、アメリカ社会がよくなったのかどうかはわからない。ただ、はっきりとわかるのは、皮肉にも、黒人俳優は、ごく限られた役しかできなくなってしまっているという点だ。どんな悪そうな雰囲気で登場しても、それがモーガン・フリーマンであれば、最後は絶対にいい人で終わる。出てきただけで、ストーリー展開までもが予想できてしまうのである。
 これと似た現象が、日本でも、特にテレビドラマなどで見られるようになってきたのではないだろうか。最近そんな気がする。
 一部のクレーマーと、それに屈する制作者側の人間。
 彼らによって、多くの人の楽しみ、楽しむべき権利が、少しずつ奪われていくような気がしてならない。

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不倫のライセンス 37 進んだ先の未来

37 進んだ先の未来

 待合室に戻る途中、一組の男女とすれ違った。二人とも、二十代前半ぐらいだろうか。若く、そして幸福そうなカップルだった。女性の腹部に目をやると、出産時期がそれほど遠くないということがわかる。
 診察室へ向かう二人の姿を、私は足を止めてぼんやりと見つめた。男性に守られるようにして歩く彼女の表情は、眩しいぐらいに輝いて見える。それは、夫以外の男性の子を身ごもった女には、決して真似のできない表情だった。
「セシルさん」
 私の名を呼ぶ男性の声。それからすぐに、もう一人別の声も続く。今度は甲高い女性の声だった。
「セシルさーん。こっち、こっちでーす」
 待合室にいたのは、勉と泉美の畑中夫妻だった。
「私たち、今来たところなんです。セシルさん、これどう思います? このマタニティドレス。ウチのダーリン、似合わないって言うんですよ」
「似合わないとは言ってないだろ。一緒に歩くのが恥ずかしいって言っただけだ。もっと、おとなしい柄のやつあったじゃないか」
「どうしてうさちゃん柄が恥ずかしいのよ。失礼じゃない。うさちゃん好きの人とか。うさちゃん年の人とか」
「そんなに派手になるの、外に出るときだけじゃないか。それって、誰に対するアピールなんだよ。言えの中じゃ、ろくに化粧もしないくせに」
 ここにも、もう一組幸福そうなカップルがいた。

 泉美の診察が終わるのを待って、私たち三人は、レストランで食事をすることになった。
「順調そうね」
 私が言うと、泉美は大きく一度うなずいた。うれしそうな表情のまま、自らの腹部へと視線を落とす。隣に座る勉も、少し照れたように微笑んでいる。
 注文した料理が並べ終るのを待ち、私は、もう一度目の前の夫婦へと目をやった。
 どうやら、順調なのはお腹の子だけではなく、夫婦関係についても同様らしい。喧嘩するほど仲がいい。ふと、そんな使い古された言葉が思い出される。
「もう、大丈夫みたいね」
「大丈夫なんかじゃないですよ。大変なのはこれからです。出産するまで、いや、出産した後の方が……」
「違う違う。二人のこと。私が言ってるのは、夫婦仲のこと」
「夫婦仲?」
 特大のオムライスを前に、泉美はキョトンと不思議そうな顔をしている。嫌なことは、あまり記憶に残らないタイプらしい。うらやましい限りだ。
「僕が我慢さえすれば、どうにか……」
 苦笑しつつ、勉がカツカレーを口に運ぶ。
「我慢って、それ、私の方ですよ。いつの時代も、我慢するのは女ばっかり……。あ、このオムライスおいしい」
「我慢強い人間が、そんなびっくりサイズのオムライスなんか食わねえだろ。女だったら、普通はもっと周りの目を気にするもんだ」
「私じゃなくて、お腹のベイビーが欲しがってるんだからしょうがないじゃない。私は無理をして……。あ、このカツもおいしい」
「お、俺のまで取るなって。ここから先は、俺の陣地だからな」
 夫婦二人だけのやり取りは、その後もしばらく続いた。しゃべっている間ですら、泉美の手が止まることはなく、その旺盛な食欲には私も驚かされた。お腹の子が欲しているというのも、まんざら嘘ではないのかもしれない。
 エビドリアを食べ終えた私は、ふと自らの腹部へと目をやった。外見で判断できるほど、お腹はまだ大きくはない。しかし、そこには間違いなく新しい生命が宿っている。医学的にも、今日そのことがはっきりと証明されたのだった。
「ところで、セシルさんは……」
 勉が少し言いにくそうに、「今日は、どうして?」と尋ねてきた。そのうちくるだろうと予想していた質問である。
 一呼吸おいてから、私は答えた。
「私も、妊娠してるの」
 二人は驚き、そして今度は、その表情が笑顔へと変わろうとしている。
 私は慌てて付け加えた。
「でも、夫の子じゃないの」
 これも予想通りの反応だった。勉も泉美も、二人揃って中途半端な表情のままで固まっている。
 静かになった私たちのテーブル席に、食後のデザートが運ばれてきた。
「近いうちに、離婚することになると思う」
 ウエイトレスが去るのを待ってから、私は言った。意外と抵抗はなかった。軽く微笑んでさえいられた。嘘やごまかしの言葉を口にする方が、よっぽどつらいのだということに、ここへきてようやく気づくことができた。
「セ、セシルさん……」
 泉美は声を震わせながら、じっとこちらを見つめている。今すぐにでも泣き出しそうな気配だ。
「泉美ちゃん、そ、それも、お腹の赤ちゃんが欲しがってるの?」
 慌てつつ、それでもおどけた口調で、私はテーブルの上を指し示した。泉美の前にだけ、ケーキを乗せた皿が二つ置いてある。
「そうなんです。どうしても、モンブランとチョコレートケーキをって……。で、でも、どうしてなんですか? その、ベイビーのパパになる人って、敏明さんより賢いんですか? 仕事できる人なんですか?」
「おい、そんなこと聞くもんじゃないだろ。失礼だぞ」
 勉が低い声でたしなめる。
「だって、あんな頭良さそうな旦那さんと、別れちゃうだなんて。も、もったいないじゃない……。あ、このケーキおいしい」
「うん。もったいないことなのかもね」
 私は苦笑した。コーヒーゼリーを一口食べ、頭の中で礼治の顔を思い浮かべてみる。
「夫と比べて……。そうね。確かに、賢くはない日とかもしれない。仕事も、うん、今のところ、あまりうまくはいってないと思う。でも、でもねえ……」
 うまく言葉が続かない。礼治についての、適切な表現が思いつかないのだ。
 勉がじっと私のしゃべり出すのを待っている。泉美もフォークを口に運びながら待っている。
「彼は……。そう。彼は、自分を変えることができる人。変える力を持っている人なの。決してあきらめない。昨日までの自分には、決して満足することのできない、ファイター。うん。彼は、進むことをやめないファイターなの」
 もちろんこれだけで、礼治のすべてを言い表せたとは思っていない。しかし、一つだけはっきりと気づいたことがあった。私は、今でも彼に夢中なのだ。
「よくわかんないです」
 一言そう言うと、泉美は二つ目の皿に手を伸ばした。隣で勉が苦笑いする。
「僕はそれ、何となくわかるなあ。セシルさんみたいな美人を、デートに誘うだけでも、かなりの勇気が必要だろうから……。うん。やっぱりその人ファイターですよね。ファイター」
「ファイターより、私、エリートの方がいいです。勇気だけじゃ、ごはん食べられないじゃないですか」
「お前は、本当に夢がないやつだな。男には、金なんかよりもずっと大切なものがあるんだ」
「それって、来月からのお小遣い、減らしてもいいってこと? あ、このプリンもおいしい」
「お、俺の陣地!」
 賑やかな二人の会話は、私の耳をただ素通りするだけだった。頭の中では、今でも礼治が走り続けている。まっすぐに未来だけを見つめ走り続けている。そう。彼は進むことをやめないファイターなのだ。
 今の彼には、見えていないもの、気がついていないものが、確かにまだいろいろと残っているのかもしれない。けれど、それでかまわないと思う。今はそうでも、進んだ先の未来、そこに、私の姿を見つけ出してくれさえすればいい。きっと大丈夫。彼は、自分を変えることのできる人なのだから。

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38 檻の中から
不倫のライセンス 目次

テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

ショートストーリー 少年が見る夢

少年が見る夢

 彼は若かった。
 明かりを消し、布団に潜りこみ、目を閉じ合わせても、少年はなかなか眠りにつくことができなかった。頭の中は、動物園のことでいっぱいなのだ。
 明日、三人でどこかへ遊びに行こうか。
 パパの口から、今日突然そんな提案があった。どこがいい? という質問に対し、少年の答えは早かった。
 動物園。
 パパは大きくうなずき、ママはその横で楽しそうに微笑んでいた。
 二人はまだ起きている。隣の部屋から漏れ聞こえてくるのは、冗談を言うパパの声と、クスクスと笑うママの声。デパートにも寄ろうか。まずはレストランに行きましょう。そんなやり取りも聞こえてくる。
 少年は、久しぶりに幸せな気分を味わっていた。それは、明日の動物園だけが理由ではない。パパとママの言い争う姿を、今日は一度も見ることがなかったからだ。

「いつまで寝てるつもり?」
 ママの声がする。それは、少年がいつも耳にする言葉だった。
 でも、今日はどこか違って聞こえる。いつもの怒鳴り声ではない。何か楽しい出来事を告げる時のような、そんな明るい口調だ。
「動物園、行かなくていいの?」
 聞いた瞬間、少年の瞼はパッチリと開いた。開いたのと同時に、今日がどんな日であるのかを思い出した。思い出したのと同時に、布団から勢いよく飛び起きていた。
「雨、降らないかなあ」
 おにぎりを頬張りながら、少年はもごもごと呟いた。窓の外は曇り空である。
「大丈夫よ」とママ。
「心配いらないさ」とパパ。
 二人の笑顔に、少年の不安は少しだけ小さくなった。
 車で行くの? ライオン見れるかなあ。ゾウは? キリンは? レストランでハンバーグにしていい? それからフルーツパフェも。
 立て続けの質問にも、二人は終始にこやかだった。少年に対して、力強くうなずくパパと、やさしい眼差しを向けるママ。
 ただ一瞬だけ、二人の表情を変化させる言葉もあった。
「今日のお部屋、なんだかすごくきれいになってる」
 パパが目を伏せ、ママがわずかに表情を曇らせたのは、その時だった。
 少し気になったものの、「そろそろ出かけようか」というパパの声に、少年の興味は再び動物園へと移った。

「晴れてきたね」
 レンタカーの後部座席で、少年は外の景色を眺めていた。レストランでの食事のせいだろう。お腹が少し苦しい。とはいえ、少年にとってそれは、幸福感に満ちた苦しみと言える。これから向かう動物園同様、レストランで食事したのも久しぶりのことだったのである。
 パパとママの様子が変わってきたのは、去年の始め頃のこと。幼い少年にも、その理由は何となくわかった。パパの仕事がうまくいってないらしいのだ。
 ママの口からも、よくそれに似た言葉を聞くようになった。わがまま言わないで。うちはそんな贅沢できません。ズボン破いたって、新しいの買ってあげられないんだからね。その口調は、日を追うごとに苛立たしさを増していった。ため息も増え、パパとの口喧嘩もエスカレートする一方だった。
 部屋は散らかるようになり、食事はインスタントラーメンの日が多くなった。やがて、パパの車がなくなり、親子三人で出かけることもなくなった。
 けれど、少年を悲しませたそんな日々は、昨日になって突然終わりを迎えたのである。
 きっと、パパの仕事がうまくいくようになったのだろう。
 少年は思った。そして、視界に入った動物園を見て、大きく胸を躍らせるのだった。

「帰りは、海でも見に行こうか」
 パパからそんな提案があったのは、動物園を後にしてからのことである。ママも、そして少年ももちろん賛成した。すでに大満足の一日。そこへさらにおまけが加わるというのだから、反対する理由などあるはずもない。
「時間かかるから、横になって寝ててもいいんだぞ」
 運転席からパパが声をかけてくる。
「うん。でも、ぜんぜん眠たくない」
 少年の頭の中には、先ほど見たオスライオンの映像が浮かんでいた。動物園での一番の目当てがそれだったのである。
 檻には、立派な鬣をしたオスライオンが確かにいた。メスの姿を見ることはできなかったが、飼育員の説明を聞いて納得ができた。
 メスライオンは現在妊娠中で、春になればまた見ることができます。その時は、もちろん赤ちゃんライオンも一緒に。
 その言葉を思い出すと、少年の表情は自然と笑顔になった。
 春になったら、また動物園に連れて行って。そう頼んでみようか。今日なら聞いてくれるかもしれない。パパもママも、今日はこんなに機嫌がいいんだから。でも……。
 昨夜、遅くまで起きていたせいかもしれない。あれこれと迷ってるうちに、少年はいつの間にか眠りに落ちていた。

 波の音が聞こえる。車もすでに止まっている。目的地に着いたのだろう。
 けれど、少年は目を開けず、そのまま寝たふりを続けた。パパとママの会話が気になったからだ。
「レンタンって……」
 ママがヒソヒソ声で、「トランクにあるんでしょ?」と続ける。
「ああ、ちゃんと用意はしてある」
 パパの声も小さかった。そして重々しくもあった。
「開ける音で、目、覚ましたりしない?」
 心配げなママの声。後部座席を振り返るような気配。
 ややあってから、「その時は、またその時だ」と、パパが力なく答えた。
「決心は、もうついてるんでしょ? それとも……」
「お前の方は、どうなんだ?」
「私は……。で、でも、母宛ての手紙、どこに置けばいいのかわからなくって」
「あ、持ってきてたのか……。俺も、実はそうなんだ。親宛てのと、こっちは会社宛てのだ」
 それからしばらく、二人の声は聞こえなくなった。ただ波の音だけが、穏やかに鳴り続けているだけだった。
 パパとママは、いったい何の話をしてるんだろう。
 少年にはそれがよくわからない。ただ、二人の声音から伝わってくるものならあった。苦しさ、あきらめ、迷い、悲しさ。
 今のパパとママは、レストランにいた時とも、動物園にいた時とも違う。だからといって、口喧嘩してるわけでもないらしい。
 少年はゆっくりと目を開いた。そして、勇気を出して言った。
「春になったら……」
 はっとしたように二人が振り返る。
「三人で、また動物園に行こうよ」
 再び、波音だけの時間が流れる。
 やがて、「春になったらか……」とパパが呟き、「そう。春になったら、赤ちゃん見られるのよね」と、ママがやさしく微笑む。
 少年は再び目を閉じた。いつの間にか毛布をかけられていたことに気づき、身体が急に暖かくなっていくのを感じた。
 春になったら、三人で、また……。
 少年は、ライオン親子の夢を見ていた。

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不倫のライセンス 36 世話の焼ける友達

36 世話の焼ける友達

「近いうちに、来るんじゃないかと思ってた」
 親友の第一声に、私はただ苦笑いを返すことしかできなかった。
 新山瞳子が経営するこの法律事務所には、前にも一度だけ来たことがある。あの時の私を見て、今回の訪問を予想したのだとすれば、やはり彼女はただ者ではない。
 思い返せば、婚約者として敏明を紹介した時から、瞳子は何かを感じ取っていたのかもしれない。祝福の言葉どころか、結婚式にすら参加してくれなかった彼女に対し、私は内心腹を立てていた。これって、女の嫉妬? 正直そんな風にさえ感じていたほどなのだ。
「実は、夫とのことなんだけど……」
「ようやく離婚するって決めたのね」
 自信満々の口調で瞳子が先回りする。応接室のソファーで、優雅に脚を組んで座る彼女の姿は、私をひどくみじめな気分にさせた。
「この間、夫婦で話し合ったばかりなんだけど、夫の方が……」
「ちょ、ちょっと待って。最初からお願い。その、セシルが離婚を考え始めたきっかけ、そこから順番に話してちょうだい」
「あ、うん。わかった」
 気分はまるで敗北者。瞳子に向かって、心の中で白旗を上げずにはいられない。そして、最初から彼女の忠告を素直に聞いておくべきだったと、今さらながらに自分のしたことの愚かしさに打ちのめされた。
「前に、夫の浮気を追求したことがあって、その時に……」
 私はすべてを語った。この段階になって、下手な嘘は無意味だ。恥ずかしさは押し殺し、余計な見栄はかなぐり捨て、思い出す限りのことを吐き出した。
 私が話している間、瞳子は三回眉根を寄せ、五回苦笑を漏らし、そして、数えきれないほどのため息をついた。
 やがて静けさを取り戻した室内。ブーンというモーター音だけがやけに耳につく。目を向けると、そこには、幅一メートルほどの水槽が置かれてあった。音の発生源は、水に空気を送りこむための機械、あるいは水を洗浄するための機械なのだろう。
 中を泳ぎ回る色とりどりの熱帯魚。彼らは知っているのだろうか。自分たちの命は、この生命維持装置によって守られているのだということを。そして、現在の幸福は、決して永遠に続くものではないのだということを。
 瞳子は、先ほどから熱心にメモを取り続けている。私に関する本でも書くつもりだろうか。タイトルはおそらく、<セシルの間抜け物語>で決まりだ。
 しばらくして、ようやく彼女が顔を上げた。
「いくつか、確認したいことがあるんだけど」
 すべてを語ったつもりでいたが、どうやらそうではなかったらしい。私にもっと恥をさらせということのようだ。
「旦那と話し合った時、その、成宮さんとのお付き合いのこと、あなた認めちゃったの?」
 小さくうなずく私。大きくため息をつく瞳子。そして、何やらメモに書きこまれる。おそらくは、巨大なバツ印。
「お腹の子についてだけど、まさか、それも話しちゃった?」
 再び小さくうなずく私。再び大きくため息をつく瞳子。そして、再びメモに書きこまれる。おそらくは、びっくりするほど巨大なバツ印。
「これじゃあ、一方的に責めるというわけにもいかないかな」
 メモを見つめながら、瞳子がポツリと呟く。
「と、瞳子。私、別に夫を一方的に責めようだとか思ってるわけじゃなくて、普通でいいの。ふ、普通に離婚さえできれば、それでいいかなって……」
「セシル」
 瞳子が再び顔を上げる。厳しい表情だった。それは、駄目な生徒に向けられる鬼教官。あるいは、ドジな兵隊に向けられる鬼軍曹。そんな表情に見える。彼女の頭の中で、今どんな戦略が立てられているのかはわからない。駄目でドジな私に、そんなことがわかるはずもなかった。
「離婚する意思は、もう固まってるのよね?」
「うん」
「それだったら、はっきりと戦う覚悟を持たなきゃ」
「うん」
「自分に落ち度があるだなんて思っちゃ駄目よ」
「うん」
「結婚生活の破綻した原因は、すべて夫側にある。そのことを忘れないで」
「うん」
「同情は禁物。わかるわね?」
「うん」
「これからは、直接会わない方がいいみたいね。旦那にも。その、成宮さんって人にも」
 これには、少しばかり躊躇したものの、結局はうなずいた。うなずくよりなかった。自分は、これほどまでに無力だったのかと、あまりに情けなくて泣きそうになる。
 瞳子はまたメモを取り始めた。この調子でいけば、<セシルの間抜け物語>の完成もそう遠くはないだろう。自虐的な気分が、ますます私を無口にさせる。
 うつむく私の耳に、やがて、紙が破かれる音、そして、それがテーブルの上に差し出される音が聞こえた。一目見て、手書きの地図だということがわかる。
「これでわかる? 丸印のところが、私のマンション」
 瞳子の口調は穏やかなものに変わっていた。
「今日からウチに泊まって」
「で、でも……」
 後の言葉が続かない。そのことについては、私の方から頼むつもりでいたからだ。
「いつまでも、ホテル暮らしってわけにはいかないでしょ」
「うん」
「もし裁判にまでなったとしたら……。まあ、そうはならないように持っていくつもりだけど。とにかく、お金は大事よ。今後の生活費のこともあるしね」
「うん」
「それから……」
 瞳子がそこで言いよどむ。視線は、私の腹部へと向けられていた。
「産むつもり?」
「産む」
 私は即答していた。なぜだろう。自分の言葉に、少しばかり驚かされる。出産することについてだけは、不思議と迷いがなかった。
「私も、ずいぶんと世話の焼ける友達を持ったものよね」
 言葉とは裏腹に、瞳子のその口調には、なぜかうれしそうな響きが感じられた。
「先に帰ってて。私、まだ少しだけ仕事残ってるから」
 もう我慢の限界だった。彼女から鍵を受け取った時には、すでに涙は溢れ出し、ごまかしが効くような状況ではなくなっていた。
「と、瞳子、ありがとう。私、今、だ、誰も頼れる人いなくって……。ホントありがとう。お礼に何か、そ、そうだ。おいしいもの、瞳子が好きな、何かおいしいもの作っておくから、何がいい? 瞳子、な、何食べたい? 唐揚げなら、わ、私得意なんだけど……」
「そんなに派手に泣かないでよ」
「か、唐揚げじゃいやなの? 瞳子、唐揚げ、嫌いだっけ?」
「いいわそれで。唐揚げでも何でも」
「瞳子、レモン派?」
「え? 何それ」
「唐揚げに、レモンかける派か、かけない派のことよ。そんなの常識じゃない。そ、そんな重要なこと……」
 途中からは、自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。拭っても拭っても、次から次へと溢れ出る涙。気がつくと、瞳子の胸にしがみついて泣いていた。子供のように、声を上げて泣き続けていた。
「どこか、壊れちゃったみたいね」
 やさしい声とともに、髪の毛が柔らかく撫でられる。まるで、幼い頃に戻ったような気分だった。父と母に守られ、まだ何の不安もなかったあの頃。錯覚でもいい。もう少しだけ、この穏やかな空気に身を委ねておきたかった。

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37 進んだ先の未来
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エッセイ どう書き始めるのか

どう書き始めるのか

 謎か目的か。小説とは、そのどちらかで引っ張るものだ。
 どこかでそんな言葉を聞いた覚えがある。おそらく教則本の中に書かれてあったのだろう。小説の書き方についての本である。参考になればと、何冊か目を通した中で、その言葉が一番印象に残っている。
 謎か目的か。確かにその通り。改めてそう感じる。
 映画は、観客の意志に関係なく、一度スタートしてしまえば、後は自動的にストーリーは進み、やがては自動的に終わりを迎える。テレビドラマも同様だ。その場を立ち去る。テレビの電源を切る。ドラマの放映をしているテレビ局を襲撃する。などといった積極的な行動を取らない限り、ストーリーはやはり勝手に進み勝手に終わる。当たり前の話である。
 一方、そう簡単にいってくれないのが小説だ。物語は決して自動的に進んではくれない。読者が次のページをめくることで、その物語は初めて動き出すのである。
 謎と目的は、読者に次のページをめくらせるための、いわば原動力と言っていい。
 例えば恋愛小説。
 ある人物に恋をしてしまった主人公。この設定の場合、二人が両想いの関係になる、というのが“目的”となる。そして、主人公の思いは届くのか、それとも失恋で終わるのか、という興味をうまく読者に抱かせることができれば、ページは無事最後までめくり続けられることになるだろう。
 例えばミステリー小説。
 ある殺人事件を捜査することになった主人公。この設定の場合、事件の真相を突きとめる、というのが“目的”となる。そして、犯人は誰なのか、犯行の動機や手口は、という興味をうまく読者に抱かせることができれば、やはりページは無事最後までめくり続けられることになるはずだ。
 書き手の立場として、“謎”の扱い方は難しい。読者に次のページをめくらせるための、もう一つの要素のことである。
 あの人は何者? なぜそんな発言を? ああいう態度を取った理由は? そこはどこ? 目撃したものとは?
 物語に仕組まれた“謎”が効果を発揮した時、読者はこういった感想を抱き、そしてその疑問を解決したいと考えるようになる。クイズを出されれば、その答えを知りたくなる、という心理とよく似ている。
 疑問や違和感を抱かせるというのは、それほど難しいことではない。事実をどの程度明らかにし、どの程度隠すのか。その加減こそが、“謎”という手法の難しさなのだ。
 膨大な数の疑問。いつまでも晴れることのない違和感。加減を間違えると、それらは単なるストレスでしかなくなる。ページをめくった先には、必ずその答えが書かれていますよ。というのにもやはり限界はあるのだ。
 小説の執筆をしていて、特に神経を使うのが、その物語の書き始めの部分。
 謎か目的かということで言うと、『不倫のライセンス』では、第一章から、主人公の“目的”というものをはっきり示した。『雨と虹の日々』では、“謎”の要素を前面に打ち出す形でのスタートとした。
 このお話の先をぜひ知りたい、と読者に思わせるのが、作者としての願い、あるいは狙い、あるいは企みである。
 そういえば、ミステリー小説の書き方として、「まず死体を転がせ」という有名な言葉があることを思い出した。ただし、これもあまりにパターン化してしまうと、読者に次のページをめくらせる力も弱まっていくことだろう。殺人犯の計画がうまくいっても、作者の計画としては大失敗なのである。
 ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。
 カフカ作『変身』の有名な冒頭部分である。
 うーん。物語の書き出しとして、これは本当にすごい。発表から数十年経とうと、そのインパクトはまったく色あせない。これを目にして、次のページに興味を抱かない者がいるだろうか。
 この作品のように、書き始めの数行で、読者の興味を引くことができれば、それはもう理想的なスタートと言っていい。そのためには、できるだけ気になる言葉というものを頭に持っていきたい。逆に、単なる説明文。例えば、その場所がどういうところで、どういったものが見えるのか。登場人物の細かな外見、といった書き出しはなるべく避けたいところだ。本筋に入る前に、本が閉じられてしまう。作家にとってこれほど悲しいことはないのだから。

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片瀬みこと

Author:片瀬みこと
札幌在住のアマチュア作家

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