不倫のライセンス 39 同情は禁物
39 同情は禁物
私と敏明との話し合いの席は、法律事務所の応接室と決まった。もちろん、瞳子が提供してくれた場所である。その代りというわけではないのだろうが、彼女からは、厳しい口調で、何度も同じ忠告を受けることとなった。
同情は禁物、というのがそれである。離婚を希望していたはずの依頼人が、話し合いの途中で、心変わりをしてしまうというケースを、瞳子は今までにも何度か経験してきているのだという。私の夫のこと、そんなに悪く言わないで。依頼人からそう責められたことさえあったらしい。
苦笑して話す瞳子の顔を思い出すと、私の表情にも自然と苦いものが浮かぶ。弁護士としての苦労はわかる。しかしその一方で、心変わりをしてしまうという依頼人の気持ちも、今の私には理解できなくはない。
敏明を憎んでいるのか。そう自問してみても、答えはノーだった。憎みたくない。憎んではいけない。心の声はそう言っている。好きなまま、いや、感謝の気持ちを持っての別れ。そんな望みは、やはり単なるきれいごとでしかないのだろうか。
私は、大きく二、三度首を振って、頭の中の思考を追い払った。こんなことばかり考えていると、瞳子に叱責されるに違いない。
応接室で、私は一人時間を持て余していた。予定よりもずいぶん早く来てしまったせいである。どこにいようとそうなのだろう。これからのことを想像すると、やはり気分は落ち着かなかった。敏明はどんな表情をしてやって来るのか。それ以上に、どんな話をするつもりでいるのか。
バッグから、小さめのスケッチブックを取り出す。心を安定させるには、やはり絵を描くのに限る。
空飛ぶペンギン。いたずら書き程度ではあるが、それはここ数日、私が繰り返し描き続けているモチーフだった。
夢中で色鉛筆を走らせる。白い紙の上に、デフォルメされたペンギンの姿が、徐々に形作られていく。大空に憧れるペンギンは、小型のプロペラ機を操縦することで、間もなくその夢をかなえようとしているところだ。
ノックの音に、私は手を止めた。時刻を確認する余裕もないまま、ドアが押し開かれていく。最初に瞳子の姿が目に入り、それからすぐに男性の影が続いた。
「こちらへ、どうぞ」
瞳子が、男性にソファーを指し示す。私と向かい合わせになる席である。
「セシル……」
私の耳元で、瞳子が何やら囁いているようだが、うまく聞き取れない。私の意識のすべては、目の前の男性にのみ向けられていた。この人は、本当に私の夫、杉本敏明なのだろうか。そんな疑問で、頭の中はいっぱいだった。
「体調は、大丈夫なのかい?」
確かに、その声は夫のものだった。何か重い病気にでもかかったのだろうか。本人だとわかったとたん、今度はそんな思いが胸を突く。それだけ敏明の顔色は悪く、別人のようにやつれきっていた。
「ど、どこか、悪いの?」
「え? ああ……」
敏明は、肉の落ちた自らの頬に片手を添え、「自分で作った料理が、あまりにもまずくてね」と、苦笑いを浮かべた。
隣から瞳子の咳払い。そちらに目をやる。同情は禁物、とその顔には書いてあった。
敏明を、これほどまでに変貌させた要因は何か。思いつくことは一つしかない。私たち夫婦に、子供ができなかった原因は自分にある。きっと敏明はそう考えたのだろう。夫にとってのそれは、妻が不倫をしていた以上の衝撃だったのかもしれない。
決してあなたのせいではない。今すぐにでもそう言ってあげたかった。子供ができなかった理由なら、他にもいろいろあるのだということを。
しかし、そんな言葉に意味などない。五年間の結婚生活で、敏明の性格なら十分理解できている。慰めに聞こえるような言葉など、夫は絶対に望まないだろう。同情されることを、何よりも嫌う人なのだ。そう。同情は禁物。敏明の顔にも、はっきりとそう書いてあった。
「一つだけ、提案がある」
敏明は言った。かすれ気味のその声には、強い決意を感じさせるような響きがあった。
「子供には、父親、母親、両方揃っていることが望ましい」
そこで言葉が途切れた。しばらくの間、お互いをただ見つめ合うだけの時間が流れる。
先を促そうと、私の方から小さくうなずいて見せた。
「お腹の子供……。俺が、その子の父親になることはできないだろうか。ベストではないかもしれないが、今の状況を考えれば、それがベターな選択だと、俺は思う」
返す言葉がなかなか見つからない。けれど、言葉にならない何かが、身内から沸き起こってくることだけはわかった。
「ありがとう」
次の瞬間にはそう言っていた。
敏明がその考えにたどり着くまで、いったいどれだけの心の葛藤を繰り返してきたのか。それを思うと、自然に感謝の言葉が浮かんできたのだった。
「でも……」
急いで言葉をつなぎ、それからゆっくりとかぶりを振った。
提案が受け入れられたわけではない。敏明はすぐにそれを察したようだ。安堵しかけた瞳が、再び曇り始める。
「私、決めてるの。いや、たった今決めたのかもしれない……。これから、成宮さんのところへ行くつもり。そこでもう一度話してみる。責任のことだとか、生活のことだとか、お金のことだとか、法律のことだとか、モラルのことだとか、そんな話じゃなくって、そんなちっぽけな話なんかじゃなくって、もっと、もっともっと大切な話。あなたのことを愛してますって、それを伝えに行くつもり。きっとこれって、ベストでもベターでもないかもしれない。だけど、私は、私の魂の声に従うつもり」
そこまで一気にしゃべり、私は大きく一度吐息をついた。心臓が痛いほどに脈打っている。
しばらく誰も口を開かなかったが、やがて瞳子がその沈黙を破った。
「法律の話がちっぽけっていうのは、どうも気に入らないなあ」
「あ、ごめん」
苦笑する瞳子に続いて、私もペコリと頭を下げながら笑った。
「魂の声か……」
ややあって、敏明がポツリと呟く。
「そんな概念持ち出されたら、反論のしようがないな」
意外なことに、敏明の表情にも、わずかな笑みが浮かんでいた。「それ、可愛らしいじゃないか」と、テーブルに置かれたスケッチブックを指差す。
「うん。これ、最近思いついたキャラクターなの」
「そうか……。出版関係者に、見てもらったことはあるのか?」
「え? いや、そういうこと、ぜんぜん考えたことなかったから……」
「もしかしたら、商品価値があるかもしれないぞ。空を飛びたがるペンギン。テーマは、ないものねだりってとこか?」
「違う……。魂はそれを望んでいる。それがこの絵のテーマ」
「また、魂か……」
敏明はおどけるように肩をすくめた。
「とにかく一度、出版社に持ちこんでみるといい。何か、いい仕事のきっかけになるかもしれないぞ。弁護士に、どんなうまいこと言われてるのかわからないが、離婚後の女性の生活は、そんなに甘いもんじゃない」
最後にチラリと瞳子を睨みつけ、敏明は部屋を出て行った。
反論こそしなかったものの、瞳子は不満げに口を尖らせている。それでも、私と目が合ったとたん、その表情はすぐに笑顔へと変わった。
「お祝い、というわけにもいかないけど……。久しぶりに、どこかで一杯やらない?」
「瞳子ごめん。私、行かなきゃ。今すぐ、礼治のところへ行かなきゃいけないの」
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40 ドアは開かれた
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私と敏明との話し合いの席は、法律事務所の応接室と決まった。もちろん、瞳子が提供してくれた場所である。その代りというわけではないのだろうが、彼女からは、厳しい口調で、何度も同じ忠告を受けることとなった。
同情は禁物、というのがそれである。離婚を希望していたはずの依頼人が、話し合いの途中で、心変わりをしてしまうというケースを、瞳子は今までにも何度か経験してきているのだという。私の夫のこと、そんなに悪く言わないで。依頼人からそう責められたことさえあったらしい。
苦笑して話す瞳子の顔を思い出すと、私の表情にも自然と苦いものが浮かぶ。弁護士としての苦労はわかる。しかしその一方で、心変わりをしてしまうという依頼人の気持ちも、今の私には理解できなくはない。
敏明を憎んでいるのか。そう自問してみても、答えはノーだった。憎みたくない。憎んではいけない。心の声はそう言っている。好きなまま、いや、感謝の気持ちを持っての別れ。そんな望みは、やはり単なるきれいごとでしかないのだろうか。
私は、大きく二、三度首を振って、頭の中の思考を追い払った。こんなことばかり考えていると、瞳子に叱責されるに違いない。
応接室で、私は一人時間を持て余していた。予定よりもずいぶん早く来てしまったせいである。どこにいようとそうなのだろう。これからのことを想像すると、やはり気分は落ち着かなかった。敏明はどんな表情をしてやって来るのか。それ以上に、どんな話をするつもりでいるのか。
バッグから、小さめのスケッチブックを取り出す。心を安定させるには、やはり絵を描くのに限る。
空飛ぶペンギン。いたずら書き程度ではあるが、それはここ数日、私が繰り返し描き続けているモチーフだった。
夢中で色鉛筆を走らせる。白い紙の上に、デフォルメされたペンギンの姿が、徐々に形作られていく。大空に憧れるペンギンは、小型のプロペラ機を操縦することで、間もなくその夢をかなえようとしているところだ。
ノックの音に、私は手を止めた。時刻を確認する余裕もないまま、ドアが押し開かれていく。最初に瞳子の姿が目に入り、それからすぐに男性の影が続いた。
「こちらへ、どうぞ」
瞳子が、男性にソファーを指し示す。私と向かい合わせになる席である。
「セシル……」
私の耳元で、瞳子が何やら囁いているようだが、うまく聞き取れない。私の意識のすべては、目の前の男性にのみ向けられていた。この人は、本当に私の夫、杉本敏明なのだろうか。そんな疑問で、頭の中はいっぱいだった。
「体調は、大丈夫なのかい?」
確かに、その声は夫のものだった。何か重い病気にでもかかったのだろうか。本人だとわかったとたん、今度はそんな思いが胸を突く。それだけ敏明の顔色は悪く、別人のようにやつれきっていた。
「ど、どこか、悪いの?」
「え? ああ……」
敏明は、肉の落ちた自らの頬に片手を添え、「自分で作った料理が、あまりにもまずくてね」と、苦笑いを浮かべた。
隣から瞳子の咳払い。そちらに目をやる。同情は禁物、とその顔には書いてあった。
敏明を、これほどまでに変貌させた要因は何か。思いつくことは一つしかない。私たち夫婦に、子供ができなかった原因は自分にある。きっと敏明はそう考えたのだろう。夫にとってのそれは、妻が不倫をしていた以上の衝撃だったのかもしれない。
決してあなたのせいではない。今すぐにでもそう言ってあげたかった。子供ができなかった理由なら、他にもいろいろあるのだということを。
しかし、そんな言葉に意味などない。五年間の結婚生活で、敏明の性格なら十分理解できている。慰めに聞こえるような言葉など、夫は絶対に望まないだろう。同情されることを、何よりも嫌う人なのだ。そう。同情は禁物。敏明の顔にも、はっきりとそう書いてあった。
「一つだけ、提案がある」
敏明は言った。かすれ気味のその声には、強い決意を感じさせるような響きがあった。
「子供には、父親、母親、両方揃っていることが望ましい」
そこで言葉が途切れた。しばらくの間、お互いをただ見つめ合うだけの時間が流れる。
先を促そうと、私の方から小さくうなずいて見せた。
「お腹の子供……。俺が、その子の父親になることはできないだろうか。ベストではないかもしれないが、今の状況を考えれば、それがベターな選択だと、俺は思う」
返す言葉がなかなか見つからない。けれど、言葉にならない何かが、身内から沸き起こってくることだけはわかった。
「ありがとう」
次の瞬間にはそう言っていた。
敏明がその考えにたどり着くまで、いったいどれだけの心の葛藤を繰り返してきたのか。それを思うと、自然に感謝の言葉が浮かんできたのだった。
「でも……」
急いで言葉をつなぎ、それからゆっくりとかぶりを振った。
提案が受け入れられたわけではない。敏明はすぐにそれを察したようだ。安堵しかけた瞳が、再び曇り始める。
「私、決めてるの。いや、たった今決めたのかもしれない……。これから、成宮さんのところへ行くつもり。そこでもう一度話してみる。責任のことだとか、生活のことだとか、お金のことだとか、法律のことだとか、モラルのことだとか、そんな話じゃなくって、そんなちっぽけな話なんかじゃなくって、もっと、もっともっと大切な話。あなたのことを愛してますって、それを伝えに行くつもり。きっとこれって、ベストでもベターでもないかもしれない。だけど、私は、私の魂の声に従うつもり」
そこまで一気にしゃべり、私は大きく一度吐息をついた。心臓が痛いほどに脈打っている。
しばらく誰も口を開かなかったが、やがて瞳子がその沈黙を破った。
「法律の話がちっぽけっていうのは、どうも気に入らないなあ」
「あ、ごめん」
苦笑する瞳子に続いて、私もペコリと頭を下げながら笑った。
「魂の声か……」
ややあって、敏明がポツリと呟く。
「そんな概念持ち出されたら、反論のしようがないな」
意外なことに、敏明の表情にも、わずかな笑みが浮かんでいた。「それ、可愛らしいじゃないか」と、テーブルに置かれたスケッチブックを指差す。
「うん。これ、最近思いついたキャラクターなの」
「そうか……。出版関係者に、見てもらったことはあるのか?」
「え? いや、そういうこと、ぜんぜん考えたことなかったから……」
「もしかしたら、商品価値があるかもしれないぞ。空を飛びたがるペンギン。テーマは、ないものねだりってとこか?」
「違う……。魂はそれを望んでいる。それがこの絵のテーマ」
「また、魂か……」
敏明はおどけるように肩をすくめた。
「とにかく一度、出版社に持ちこんでみるといい。何か、いい仕事のきっかけになるかもしれないぞ。弁護士に、どんなうまいこと言われてるのかわからないが、離婚後の女性の生活は、そんなに甘いもんじゃない」
最後にチラリと瞳子を睨みつけ、敏明は部屋を出て行った。
反論こそしなかったものの、瞳子は不満げに口を尖らせている。それでも、私と目が合ったとたん、その表情はすぐに笑顔へと変わった。
「お祝い、というわけにもいかないけど……。久しぶりに、どこかで一杯やらない?」
「瞳子ごめん。私、行かなきゃ。今すぐ、礼治のところへ行かなきゃいけないの」
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