みことのいどこ 2014年01月

不倫のライセンス 35 胸騒ぎ

35 胸騒ぎ

「何か、あったんスか?」
 重ねた唇を離し、礼治はそっと囁いた。どことなく困ったような顔が、玄関の薄明かりに照らし出される。
 私は無言でしがみついた。今は、答えを返す時間さえもどかしい。今は、二人の間にできたわずかな距離さえ狂おしく感じる。
「会いたかった」
 何度目かのキスの後、ようやくそれだけを口にすることができた。
 微笑する礼治。この前の試合でできたものだろうか。目尻に新しい傷があった。けれど、それ以外は何も変わらない。そこには、私の知っているままの成宮礼治が確かにいた。
「私、何かあったように見える?」
 先ほどの質問が気になり、私の方からそう尋ねてみたものの、礼治はただ軽く首を傾けるだけだった。
 もしかすると、ある種の覚悟のようなものが、私の表情には浮かんでいたのかもしれない。今夜、大事な話がある。そのことだけは、あらかじめ電話で伝えてあった。それを思い出したのだろうか。気がつくと、いつの間にか礼治の顔から笑みが消えていた。
 部屋へと上がり、テーブルを挟んで、二人向かい合わせに座る。
「昼間、夫と話し合ってきたの……」
 私はすかさず切り出した。話しにくいことというのは、後回しにすればするほど、なおさら口にしづらくなるもの。それは、この数カ月で私が学んだことの一つだった。
「私の方は、離婚するつもり……」
 少し待ってみるも、礼治からの返答はない。ただ黙ってこちらを見つめるばかりだ。離婚を決意してくれて、本当にありがとう。といった感謝の言葉や、俺の方も、今すぐ離婚するよ。といった約束の言葉や、お互いの正式離婚が決まったら、すぐにでも一緒になろう。といったプロポーズの言葉は今のところなさそうである。
「旦那さんは、それで納得したんスか?」
 返ってきたのは、そんな疑問の言葉だった。
「納得は、してないみたいだけど……。で、でも、私の意志は、もうはっきりしてるし……。時間は、離婚するまでの時間のことだけど、それは結構かかるかもしれない……。でもね、でも、私の気持ちは、もうはっきりと……」
 なぜか胸騒ぎがする。それを打ち払おうと、無理矢理に言葉をつないでみるも、あまり効果はない。不安の虫は、私の胸の奥で成長し続ける一方だった。
 彼は、お前と結婚したいわけじゃないんだ。
 その虫が、敏明そっくりな声音で語り始める。
 成宮礼治は、お前が思ってるような男なんかじゃない。
「れ、礼治は……」
 思わず声が上ずってしまう。
「どうなの? 礼治は、どう思ってるの? これからのこと、二人の、これからのこと……」
 考えこむように、礼治が座布団の上で膝を抱えた。答えが返ってくるまでの時間が、あまりにも長く感じられる。
「このままじゃ、駄目なんスか?」
「え? このままって……」
「このままで、俺、満足なんスけど」
「それって、離婚しないままでもいいってこと? お、お互いに……。今まで、はっきり聞いたことなかったけど、礼治、奥さんいるの?」
「ずっと、別居中のままですけど」
「子供も?」
 礼治は黙ってうなずいた。
「ど、どうして……」
 今まで教えてくれなかったの、と言いかけたものの、言葉は続かなかった。答えはわかりきっていたからだ。私が聞かなかったから。私が知ろうとしなかったから。知ることを恐れていたからなのだ。
「私は……」
 、逃げちゃ駄目、と心の中で自らを叱咤し、なんとかして言葉を絞り出す。
「もっと、ちゃんとした方が、いいと思うの」
「ちゃんとって、何スか?」
「わかってるでしょ。ちゃんと、お互いに離婚して、それから、ちゃんと付き合った方が……」
「ぜんぜんわかんないっスよ。ちゃんとちゃんとって、何スかそれ? お互いに好きだから、俺たち今付き合ってるんスよね? それでいいじゃないっスか。それ以外、何が必要だって言うんスか? 離婚届を、役所に出すか出さないか、それだけで何が変わるって言うんスか?」
「こ、このままの状態じゃ、いろんな人に迷惑かけることになるでしょ? いろんな人を傷つけることになる。それはわかるでしょ?」
「セシルさんの旦那さんって、浮気しない日とっスか?」
「うん。いや、う、浮気ぐらいはあるかもしれないけど……」
「じゃあ、お互い様じゃないっスか」
「違う。浮気と不倫とじゃ、ぜんぜん……」
 気がつくと、敏明と同じ言葉を口にしていた。目を伏せ、一つ息を吐き出す。今の私に、苦笑できるような心の余裕はなかった。
 視界の隅に、立ち上がる礼治の姿が映る。足早にテーブルから離れていく。冷蔵庫が開けられる音。舌打ち。そして、乱暴に扉が閉められる音。
 そちらを向くと、礼治の背中が目に入った。スポーツドリンクだろうか。手にしたペットボトルがチラリと見える。
「子供には、会いに行ってるの?」
 背中へとそっと声をかけてみる。
「しばらく行ってないっス」
 振り返らずに答える礼治。持ち上げたペットボトルを傾け、小さく喉を鳴らす。
「今は、会わない方がいいんスよ」
「どうして?」
「どうしてって……。今の俺、何者でもないじゃないっスか。ボクサーとして食っていけるようになるまでは、父親面なんてできないっス」
「父親面するかしないかじゃなくって、もう、すでに父親なんだから……」
 ペットボトルが、勢いよくゴミ箱へ投げこまれる。
 男は、プライドの動物だ。
 胸の奥の虫が、再び騒ぎ始めた。
「こ、子供、特に小さい子には、両親の愛情が必要だと思うの。子供は、親を選ぶことができないんだし……。親としての責任だって……」
 私が言うべきセリフではない。それはわかっている。しかし、止められなかった。
「パパとママが、離ればなれになってしまった子供の気持ち、考えたことある? それが、どんなに不安なことか。どんなに……」
 鈍い衝撃音が、私の言葉を中断させた。身体に震動を感じるほどの激しい響き。礼治の拳が、部屋の壁に打ち当てられた音だった。
「礼治……」
 彼は、妻に暴力を振るうような男だ。
 そんな警告が、胸の奥から聞こえてくる。
 礼治は、自らの拳を見つめたまま、小さく肩を震わせている。静まり返った室内で、荒い呼吸音だけがかすかに聞こえた。
 私は、身動き一つ取ることもできずにいた。恐ろしかったからだ。この沈黙が。そして、礼治の存在が。
 しばらくして礼治が行動を起こす。私を一瞥し、すぐに玄関へと向かう。
「少し、頭冷やしてきます」
 やがて、ドアの開閉音がして、部屋はまた静かになった。
「どうして……」
 ポツリと呟いてみる。こんなはずではなかった。こんなはずでは……。
 俺の予言した通りだったじゃないか。
 どこからか、またそんな声が聞こえてきたような気がした。

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36 世話の焼ける友達
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テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

エッセイ 辞書が教えてくれたこと

辞書が教えてくれたこと

 ここ二年ほどの間、辞書を引かない日はなかっただろうと思う。小説執筆のためというのが、その目的のほとんどである。
 初めて使用する言葉については、たとえ正しいと自信があったとしても、とりあえずは意味を調べることにしている。実は、正しく理解できていなかった、という場合も少なくないからだ。
「煮詰まる」
 これ以上いくら時間をかけたとしても、いい考えが浮かばないという意味。
「さわり」
 物語の冒頭の部分という意味。
「敷居が高い」
 高級すぎる、上品すぎるところへは、行きづらい入りづらいという意味。
 これがすべて間違いだった。
 辞書は、自分の持っている知識が、いかに不確かなものであるかを教えてくれた。
 小説、特に地の文を書く時には気をつけたい。しかし、会話文についてはどうだろう。この辺はすごく迷う点だ。世の中には、私同様の間違いをしてる人も多いはず。それを考えると、会話文の中に、少しばかり誤用が含まれている方が、現実味が出ていいとも言える。
 さらに迷うのが、誤用の方が一般化してしまった言葉だ。こうなると、もはやそれは誤用ではなく、時代の流れによって、言葉の定義自体が変化してしまったのだとも言える。「確信犯」、「檄を飛ばす」、「姑息」などがそれに当たるだろう。辞書には、誤用の意味も合わせて説明されてある。
 言葉の意味とは別に、使っている言葉そのものが間違っていたということも多い。「押しも押されぬ」、「足元をすくわれる」、「知ってか知らずか」などは、みな間違いとされている。これもあくまで現時点では、ということになるのだろうが。
 もちろん、言葉というものは変化していく。時代に合わないものは消えるか、変貌を遂げるかする運命にあるのだ。
 変わりつつある言葉として、いくつか思い当たるものがある。さっそく辞書で確認してみた。
「どや顔」
 あった。「得意顔」に変わって主流になりつつあるのかもしれない。
「生足」
 これもあった。「素足」の立場が危うくなってきているのかもしれない。ちなみに、男性の足には用いない言葉らしい。
 言い忘れていたが、私が利用している辞書とは、パソコンソフトのことである。言葉を調べるには、これは本当に便利。これなしでの執筆活動は無理と言っていいほどだ。
 ここでふと思うことがある。ページ数の制限があるだろう紙の辞書と比べ、パソコンの記憶容量は膨大だ。言葉数はいくら増えても構わないはず。もしかすると、辞書から削除される言葉というものはなくなっていくのかもしれない。死語という言葉自体が死語になりつつあるのだろうか。
 さっそく調べてみた。
「女学生」
 あった。若いはずなのに、なぜかセピア色に見えそう。
「ナウい」
 こんなものまであった。いかにも現代的、という説明が笑える。
 他にも、「ぶりっ子」、「朝シャン」、「花金」などもちゃんとあった。当然のように、「スチュワーデス」や、「看護婦」といったものも、言葉狩りに負けることなく、辞書の世界では堂々と生き延びていた。
 類義語を知ることができるというのも、辞書活用の大きな利点だ。
 一つの段落内で、何度も同じ言葉が使われている文章というものは、読んでいてぎこちなく感じる場合が多い。それを解消する一つの手段が、いくつかの言葉を類義語に置き換えるという方法だ。
 これによって、ぎこちなさは軽減され、文章表現の幅も広がる。しかも、結果的にそれだけ語彙が増えることにもつながる。
 このように、辞書はいろんなことを教えてくれる。文章を書く人間にとっては強い味方だ。しかし、しょせん他人が書いた物。当然すべての説明に納得がいくわけではない。どうも腑に落ちない、という説明も多々ある。
「左」
 大部分の人が、食事のとき茶碗を持つ側。
 うーん。何か納得がいかない。
「右」
 大部分の人が、食事のとき箸を持つ側。
 まあ、そうなるだろうね。でも、やっぱり何か納得がいかない。
「恋」
 特定の異性に強くひかれること。
 うーん。これもどうせなら、大部分の人が、と前置きした方がいいような。
「初老」
 四十歳の異称。
 ああ。そうでしたか。
 最後に、初老代表の私から一言。
 辞書は、たまに余計なことまで教えてくれる。

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不倫のライセンス 34 結婚生活の間違い

34 結婚生活の間違い

 ホテルで一泊した後、私は真っ先に自宅へと向かった。
 礼治に会いたいという思いは一時封印した。彼の元へ行く前に、まずは自らの義務を果たそう。そう決めていた。そうでなければ、何も変わらない。何も変えることができないのだから。
「久しぶり……」
 一言そう言って、夫は私を部屋へと招き入れた。至って穏やかな口調。チラリと私の手元に視線が移動する。マグカップを持ってきたのか、そのことを確認したのかもしれない。
「手ぶらで来たの……。話が済んだら、すぐに出て行くつもりだから」
 あらかじめ用意してきたセリフだった。自分の意志はストレートに伝えた方がいい。中途半端な気遣いや、曖昧な態度は、ただ問題を拗らせるだけでしかない。そう心の中で呟き、私はきっぱりとした口調で続けた。
「お互いのためにも、きっと離婚した方がいいと思う。それが私の結論。よくよく考えた上での答えなの。だ、だから私と、私と別れてください」
「まあ、とにかく座って話そう」
 特にショックを受けたという様子もなく、敏明はリビングソファーへと腰を下ろした。私もそれに倣う。
「離婚した後のことも、ちゃんと考えてるのかい?」
 うなずく私に、敏明が小さくため息を漏らす。
「離婚しろって、彼、成宮礼治から言われたわけではないんだろ?」
「私が、そうするべき、ちゃんと、離婚するべきだって思ったの」
「彼も、それを望んでると思うのかい?」
 大きくうなずく私に、敏明のため息も大きくなる。お前は何もわかっていない。今すぐにでも、そんなセリフが飛び出してきそうな表情だ。
「この場で、はっきりと確認しておいた方がいい。携帯持ってるんだろ?」
「そ、そんな必要ありません」
「自信がないのかい?」
「自信って、何それ。そういう問題じゃないでしょ。私は、私の考えで、あなたとの離婚を決心したのよ」
「一つ予言しよう」
「予言しなくて結構です」
「彼は、お前と結婚したいわけじゃないんだ」
 敏明の目的が、もし私を挑発し怒らせることにあるのだとすれば、今の言葉はかなり効果的だったはずだ。顔が火照り出すのを意識しながら、私は膝上に置いた手を力いっぱい握り締めた。
「誰かさん使って、彼のこと、いろいろと調べさせてるみたいだけど、心の中まではわからないでしょ?」
「いや、ちゃんとわかるさ」
「わからない。絶対わからない」
「だから、電話で確かめてみればいいと言ってるんだ。私と結婚する気はあるのかってね」
「そっちこそ、確かめてみなさいよ」
 口調が荒くなるのを抑えきれないまま、私は勢いに任せて、「雇った女スパイが、真面目に働いているかどうかをね」と早口で続けた。
 本当は持ち出すつもりなどなかった。今の私にとってはどうでもいいことだったからだ。しかし、いったん口にしてしまった以上、もう取り消すわけにもいかない。
「女スパイ?」
「そう。彼のこと調べてるのって……、麻美ちゃんなんでしょ?」
 生田麻美の存在には、ずっと違和感を持ち続けていた。夫の素浮気相手だとわかってからもなお、その違和感を拭い去ることはできなかった。私がどんな人間であるのか、彼女はそれを知りたかったのだと言っていた。それがボクシングジムに通い始めたきっかけなのだと。しかし、私が顔を出さなくなった今でも、麻美のジム通いは続いているらしい。
 礼治のことを調べ上げるために、敏明が送りこんだ女スパイ。生田麻美について、それが私の導き出した答えだった。
「麻美……」
 敏明は胸の前で腕を組み、何かを思い出そうとするかのように、じっと天井の一点を見つめ続けている。とぼけているのか、本当に心当たりがないのか、私には判断がつかない。
 ややあってから、「お前さあ……」と、敏明が眉毛を掻きながら言い、「何か、勘違いしてないか?」と、今度は困ったような顔で口髭をいじる。
 そう尋ねられても、私には答えようがない。こんな話し合い、一刻も早く終わらせたい。その思いだけだった。
「もういいの、そんなこと。離婚の意志さえ伝われば、他のことはどうでも……」
「お前の考えはわかった。今度は、俺の番だ」
 私がうなずくのを待ってから、敏明は、やや声のトーンを落として続けた。
「今までの結婚生活で、俺は一つだけミスを犯していた」
 たった一つだけ? と聞き返したくなるのを、唇を固く結んで耐える。
「そのことに、最近気づいたんだ」
 最近になってようやく? と聞き返したくなるのを、今度は奥歯を噛みしめて耐える。
「二人で、病院に行って調べてもらうべきだったんだ」
「はあ?」
 あまりにも予想外の言葉。しかし、一つだけはっきりしたこともある。女遊びについて、夫はあくまでも反省する気がないということだ。
「病院って、それ何の話?」
「こ、子供が、できなかった原因についてのことだよ」
 敏明の、その苦しげに吐き出された言葉は、私をますます戸惑わせた。
「医者に相談してみようかと、一度お前が提案した時……、お、俺は、素直にそれを受け入れることができなかった。自然の摂理に逆らうべきではないだとか、科学が生命の誕生に関わるのは反対だとか、確か、そんな格好のいいことを言ってたんだよな、俺は……。あれは、本音じゃなかった。強がっていた。いや、怖がっていたのかもしれない。もし、子供ができない原因が、自分の方にあったらってね。それを知るのが恐ろしかった。知らずに済むのならその方が……」
「と、敏明さん……」
 もうこれ以上、黙って聞いているわけにはいかなかった。
「そのことを、今後悔したからって、何かが解決するわけじゃないでしょ?」
「いや。結婚生活の間違いは、あの時点から始まったんだ。それを修正さえすれば……」
「もう、遅いの、それは」
「遅くなんてないさ。俺たち夫婦には、子供が必要だったんだ。共通して愛情を注げる対象、二人にはそれが足りなかったんだ」
「敏明さん、違うの」
「い、今は、不妊治療してもかまわないと思ってる。だから、今度こそうまく……」
「お腹に、いるの」
「え?」
「私のお腹に……。まだ、はっきりと病院で確認してもらったわけじゃないけど」
 言葉の途中から、私は自分の手元へと視線を落としていた。困惑、落胆、そして絶望。視界の隅に映る敏明の表情は、その心の変化を雄弁に語っていた。
 いつまで待っても、言葉は返ってこない。ただ、苦しげな息遣いが聞こえてくるだけだった。
 私の告白が、夫にどれだけのショックを与えたのかはわからない。やはり言うべきではなかった、と思う一報、これでよかったのだとも思う。もう、引き返せないところまで来てしまったのだ。敏明も、そして私も。

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35 胸騒ぎ
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エッセイ 聞く読書

聞く読書

 食事をする時には、読書をしながら、というのが多いですね。
 これだけだと、どうしても行儀の悪い人の発言に聞こえてしまうかもしれない。しかし、私にとっては当たり前の日常。もう七、八年ぐらいは続いているだろうか。きっかけは、悪化した目の病気。そして私は、新たな読書法“聞く読書”というものを知ることとなったのである。
 必要な物は、デイジー図書と、専用の再生機、または再生ソフト。
 デイジー図書とは、小説などを読み上げた音声データのこと。ちなみにこの読み上げ作業のことを“音訳”といい、“朗読”という呼び名とは区別されている。
 サピエ会員というものになると、そのサイトから自由にデータをダウンロードすることができるようになる。その数、数万タイトル。もちろんこれは、音訳ボランティアの皆さんの力によって成り立っているシステムだ。
 読み上げる声の後ろで、たまに別の音がかすかに漏れ聞こえてくることがある。ボランティアさんの日常が、そこにはあった。
 洗濯機の音。ああ、この人は、家事の合間に録音してくれてるんだ。感謝。
 子供のはしゃぎ声。ああ、この人は、子育ての合間に録音してくれてるんだ。感謝。
 食器を叩きつけたかのような音。まさか、この人、夫婦げんか中では? ちょっと心配。でも、やっぱり感謝。
 激しく吠え続ける犬。もしかして、不審者が近くに来ているのでは? この人大丈夫だろうか。ちょっと胸騒ぎ。でも、やっぱり感謝。
 とにかく、この人たちのおかげで、私の読書生活は無事成り立っている。大きく感謝。
 視覚による読書と、聴覚による読書。同じ文字情報を知るといっても、やはりその二つにはいくつかの違いがある。
 視覚による読書には、表記されている文字の影響というものがあるだろう。どんな漢字が使われているのかはもちろん、普通は漢字で書き表される部分に、ひらがなや、カタカナが使われている場合などがそれに当たる。他に、開いたページの中で、チラリと終わりの方の文章が目に入ってしまうということもあるかもしれない。
 一報、音訳者の読み方によって影響を受けるのが、聴覚を使った読書である。男女の違いも含め、読み上げをする人の声質というものは、その物語の印象を左右する要素となりうる。
 ところが、意外とそうでもなかった。というのがここからの話。
 よほど無茶苦茶な読み上げ方をしない限り、音訳者の違いは、実際それほど大きな問題にはならない。ならなくなってきた、という言い方が正しいのかもしれない。
 つまりは経験である。大げさに言えば、経験による脳の進化である。聴覚による読書歴が数年ともなると、耳で捕えた声は、あっという間に脳で変換処理されるようになるのだ。自分がイメージする通りの声質という意味である。「畜生、サツが追ってきやがった」という中年女性の声も、一人前の暴力団員の声としてしっかり認識される。「ママ、新しいお洋服が欲しい」という中年男性の声も、可愛らしい女の子の声としてしっかり認識される。
 人間の脳って不思議、などと改めて思ったりもするのだが、考えてみれば何てことはない。似たような脳の働きなら他にだってあるのだ。小説を読みながら、頭の中でその映像を思い浮かべる、というのがまさしくそれである。
 同じ小説を読んでいても、自分がイメージする登場人物たちと、他人がイメージするそれとでは、やはり大きな違いがあるのだろう。小説のドラマ化や映画化の際、「小説のイメージと違う」や、「小説のイメージ通り」という感想をよく耳にする。しかも同じ作品に対しても。
 当たり前といえば当たり前の話だが、小説とは、それだけ受け止める側の自由度が高い表現なのだ。それは活字情報であろうと、音声情報であろうと変わらない。こうなると、視覚による読書も、聴覚による読書も、あまり違いがないようにも思えてくる。
 聞く読書ならではの特徴を、あえて探すとするなら、言葉の持つ魅力が明確化される、という点が上げられるかもしれない。これは、私が最近になって気づいたことである。
 小説を読んでいると、センスのいい言葉や、インパクトの強い言葉など、ストーリーとは別に、言葉そのものに魅力を感じるということがある。私の場合、聞く読書を始めてから、こういった感想を抱くことが多くなった。それはなぜか。
 良くも悪くも、言葉は音にすることで明確化される。というのが、私の出した答えだ。力のある言葉は、より力強く、印象深い言葉は、より研ぎ澄まされて聞こえる。“悪くも”というのは、文字通り、駄目な言葉は、よりいっそう駄目に聞こえてしまうという意味だ。平凡な言葉は、あくびが出るほど退屈に、大げさな言葉は、呆れるほどわざとらしく、という具合にである。
 耳で捕えた会話文は、特にその善し悪しがはっきりしてくる。活字の状態では目立たなかった不自然さも、音声化されたセリフではごまかしが効かない。これは音読によっても確認できるだろう。こんな言い方する人はいないよ、といった風に聞こえることは非常に多い。
 書き手の立場として、一つ教訓になったことがある。書いた文章、特に会話文は声に出して確認すべき、ということ。それが、生き生きとした会話文を書くための鉄則だ。
 考えてみると、文字によるコミュニケーションよりも、会話によるコミュニケーションの方が、ずっと歴史は古いのだ。そう。言葉は声から生まれ、やがて文字へと進化したのである。
 偉大な声の力によって、私に読書の喜びを与えてくれる、音訳ボランティアの皆さんに改めて感謝!

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不倫のライセンス 33 友情関係

33 友情関係

「パパ……。私、もうそろそろ……」
「ああ」
「まだ、ちょっと時間早いようだけど……」
「ああ」
「天気もいいようだし、駅まで、歩いて行こうかなと思って……」
「ああ」
「あのさあ、パパ」
 私は、ここでやや語調を強めた。ようやく筆を握る父の手が止まる。しかしその視線は、なおもキャンバスに向けられたままだ。アトリエの戸口に立つおしゃべりな娘より、海に沈みゆく物言わぬ地球の方が、今は大切だということらしい。
「これから、可愛い一人娘とお別れだっていうのに……。他にもっと話すことぐらい、普通あるでしょ」
「普通は、どんなこと話すんだ?」
「そりゃあ、いろいろよ。準備できたのか、とか……」
「ちゃんと旅行バッグ持ってるじゃないか」
 ようやく振り向いたかと思えば、この憎まれ口である。ここはもう、軽く笑い飛ばすしかない。普通の父親らしさ。それを求めた私が間違っていたのだろう。
「あ、そうそう。一つだけ、忘れてた物があったんだっけ……」
 思いっきり芝居がかった口調で、「この中に入るのかしら?」と続け、私はバッグを床に置き、アトリエの奥へと歩を進めた。そして、壁にかけられている小さな絵を手に取った。
「そ、それは、まだ駄目だと言っただろ……」
 予想通り、父の反応が変わった。松葉杖の少女には、きっと強い魔力のようなものがあるに違いない。
「これ、私に預からせてよ。未完成のままでもいいからさあ。ねえ、いいでしょ?」
「早く、元の場所に戻すんだ」
「やだ。だって、これ、私がモデルなんでしょ? 肖像権の侵害じゃない」
「セシル、いい加減にしろ」
「パパ、お願い。私、どうしてもこれ手放したく……」
 私はそこで言葉を切った。外の騒がしさに気づいたせいである。何度も繰り返されるクラクションの音。どうやらうちのすぐ近くで鳴らされているらしいのだ。
「迎えに来たぞ」
「迎えって、誰の? あ、駄目……」
 次の瞬間、少女は私の素から離れていった。
「トモだ。早く行ってやれ」
 少女の絵を壁にかけ直しながら、父は含み笑いを浮かべている。
「パパが呼んだのね」
「早く行け。あれじゃ近所迷惑になる」
 口を尖らせる私を見て、父の口調はますます楽しげなものに変わる。
 智美の妻、真琴の訪問以来、智美と二人っきりになることは避けてきた。今日もそのつもりだった。彼には何も告げずに、この町を後にしようと決めていたのである。
 外へ出ると、やはりそこには見慣れた一台のワゴン車。
「よお。遅かったな」
 窓から顔を覗かせる智美の表情も、やはりいつも通りの見慣れた笑顔だった。
「こんな壊れそうな車、私、呼んだ覚えないんだけど」
 お別れの日だというのに、この憎まれ口である。私は、やはり父に似ているのかもしれない。
「失礼なこと言うなよ。車が機嫌悪くするだろ」
「そういえばこの間、トモ、必死になってその車押してたでしょ」
「あれ、見られてたのか。そろそろ新しい車が欲しいって、そう呟いた途端にだぞ。こいつが身動き一つ取らなくなったのは」
「きっと、浮気は絶対に許さないってタイプなのね」
 車内でも、二人の会話が途切れることはなかった。真琴に対する申しわけなさ。確かにそれも頭の片隅にはある。それでも、智美との関係、この友情関係だけはどうしても失いたくなかった。
「この車は、ガソリンと人力とのハイブリッド仕様だからな。まあ、最近は、ちょっと人力に頼ることも多くなって……」
 智美の声を耳にしながら、私は、ふと窓の外に注意を向けた。駅に向かう景色とは違う。たった今そのことに気がついた。
「ねえ、トモ。道、間違ってるんじゃない?」
「そうかあ……。車がまた、ヘソ曲げたのかもしれないな。何しろ気分屋だからな、こいつは」
「トモ、冗談やめて。時間、間に合わなくなっちゃうじゃない」
「この車に言ってやってくれ。俺にはどうすることもできん」
 気のせいなどではなかった。やはり駅には向かっていなかったのだ。
「離婚するって、もう決心ついたのか?」
 智美のその口調に、いつもの明るさはなくなっていた。「離婚した後はどうするんだよ。その、ボクサーやってるやつと、一緒になるのか?」と、どこか責めるような声音で続ける。
 私には沈黙することしかできなかった。
 いったいどこへ向かっているのだろう。智美の瞳は、遥か遠くを見つめ続けている。ワゴン車のスピードが、少しずつ上がってきているように感じるのは、私の気のせいだろうか。何か良からぬことが起きる。そんな不安に、私は身を固くして、智美の次の言葉を待った。
 しばらくして、ようやく沈黙が破られた。
「俺、最近、思うことがあるんだ」
 ポツリと呟くような声で、智美は「何もかも捨てて、また、一から人生やり直せないかなって」と続けた。少し聞き取りにくいその震える声は、私をいっそう不安にさせる。
「だいたい、借金してまで、おもちゃ屋の経営を続ける意味なんてどこにあるんだよ。これじゃ夢を売る店どころか、夢を失う店じゃねえか。女房だって、本当は、俺なんかと別れた方がいいに決まってる。子供だって……」
「力也君……。あの名前、トモが付けたんでしょ?」
 智美が口を閉ざす。その横顔を見ていると、学生時代の思い出が鮮明に蘇ってきた。
「自分の名前が女の子みたいで、散々嫌な思いしてきたから、もしも将来、息子が生まれるようなことにでもなれば、絶対男らしい強そうな名前にするんだって、あの頃よく言ってたもんね」
 智美もそのことを思い出しているらしい。先ほどより表情が和らいで見える。
「“力也”の他にも、名前の候補、いろいろと考えてたじゃない。“鉄男”とか、“熊蔵”とか……」
「“ドボルザーク”ってのもあったな」
「あ、そうそう。あったあった」
 私は声を上げて笑った。そこへ智美の豪快な笑い声も重なる。まるで学生時代に戻ったような気分だった。
「寄って行く時間、まだ残ってるよな」
 時計をチラリと見た後、智美は一言呟いた。
「え? 寄るって、どこに?」
 答えは返ってこない。智美は、ただ愉快気にハンドルを切るだけだった。まっすぐ駅に向かうわけではないらしい。けれど、私にはもう不安はなかった。何も心配はいらない。智美の横顔がそう語っていたからである。
 ワゴン車は、やがて見覚えのある通りに差しかかった。
「懐かしい……」
 思わず言葉が漏れる。窓の外には、小さなケーキ屋。昔、智美と二人でよく行った店だった。
「のんびりしてる時間ないから、お前そこで待ってろ。どうせ、例のエクレアでいいんだろ?」
 私がうなずくと、智美は車を止め、勢いよく外へ飛び出していった。
 “例のエクレア”は、二人の間だけで通じる言葉だった。生クリームとカスタードクリーム。その両方の味が楽しめる、私お気に入りの一品である。
「ありがとう」
 店へと駆け出す大きな背中に向かって、私は声を張り上げた。
 そしてもう一度、今度は小さく呟いてみる。
「トモ、ありがとう」
 それは、二人の大切な関係、この友情関係を守ってくれたことに対する、私の心からの感謝の言葉だった。

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34 結婚生活の間違い
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雨と虹の日々 あとがき レインが与えてくれたもの

あとがき レインが与えてくれたもの

 死者との付き合い方は難しい。
 オカルトについての話ではなく、心の持ちようについての話である。親しい人の死を、どう受け止めるべきか。場合によってそれは、人を幸にも不幸にも導く。生きる力にも、死への誘惑にもなりうる。
 霊というものが、存在するのかどうかは別として、少なくともそういった概念ならある。天国や地獄といったものも同様だ。
 愛するあの人は、今は霊となって、私のことをすぐそばで見守ってくれている。そう受け止める人はどうだろう。死者はその時、生きる勇気を与える存在になりうるのかもしれない。逆にその存在が、新たな恋や結婚の妨げになることはないのだろうか。確かにそういう場合もあるに違いない。だから難しい。受け止め方によって、死者はどんな存在にでもなりえるのだ。
 物語の主人公、虹子は、最愛の人を病気で失った。あの雨の日の出会いがなければ、彼女は彼の後を追っていただろう。虹子はレインの命を救い、そして、自らの命をも救ったことになる。
 レインが虹子に与えたもの。それは生きる力であり、また、生きる迷いでもあった。これはまさに、霊という概念そのものである。重要なのは、虹子がどう受け止めるかであって、レイン自身は、彼女に対し、何ら物理的な影響を与えることはできない存在なのだ。
 テーマが重い分、内容はなるべく娯楽性の強いものに、という意識で執筆を進めていった。特に、レインのハードボイルド的語りと、虹子の日記ブログという、かなり変則的な一人称多視点には苦労した。これだけの制約がある中、果たして一つの物語として成立させることはできるのだろうか。私にとっての大きな挑戦となった。
 動物を擬人化する場合、どれくらいの人間っぽさを与え、どれくらいの動物的特徴を残すか。これにもずいぶんと頭を悩ませた。しかし、最初こそ手探りだった表現も、やがては何かに導かれるような感覚へと変わっていった。その何かとは、もちろんレインのことである。生みの親である作者に向かって、次第に不平不満を口にするようになるキャラクターたち。長編小説を執筆していると、決まってこういう瞬間が訪れる。
 結果、今回も、いくつかのプロットを、途中で変更せざるを得ない状況になってしまった。宝田、バンドのシンボルマークを考案。伯父さん、テレビに出演。横井、総理大臣を一喝。こんな場面もともとはなかった。キャラクターたちの自己主張に押しきられたようなものである。
 中でも、一番のわがままといえば、やはりあの黒猫だろう。しかし、手のかかる子ほど可愛いというのもまた事実。彼を描くことはもうできない、という何とも言えない寂しさ、喪失感。それは、キャラクターの成長であり、彼が作者の元を巣立っていくことを意味している。
 こんなことなら、もっとレインを幸せにする方向へ持っていけばよかった。もっと穏やかな時間を与えてあげればよかった。もっと虹子からの愛情を。もっとジューシーなチキンを。
 俺は後悔が嫌いだ。
 今、どこからかそんな声が聞こえてきたような気がする。
 レインが作者に与えたもの。それは文章表現の可能性であり、また、文章表現の困難さでもあった。
 今、ふと思うことがある。
 レインは、少しでも、ほんの少しでもいいから、人間のことを好きになってくれただろうか。もうちょっとぐらい、人間の良さを表現してもよかったのかもしれない。
 俺は後悔が嫌いだ。
 また、どこからかそんな声が……。

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雨と虹の日々 目次

テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

雨と虹の日々 37 虹が嫌い

37 虹が嫌い

 俺は虹が嫌いだ。
 雨上がりの空に、そいつは突然姿を現す。そして、いつの間にか見えなくなっちまう。何度も目撃してるってのに、そいつの正体はいまだにつかめないままだ。誰が作った物なのか。どんな匂いをしてるのか。もちろん、食えるのかどうかもまったくわからない。まるで幻。まるで夢の続きだ。
 虹ってのは縁起がいい。宿無し生活の頃、そんなことを言う猫がいた。雨が上がったということ。餌探しをしてもいいのだということを、俺たちに教えてくれているのだから。俺たちにいい知らせを持ってきてくれるのだから。どうやらそういう理由らしかった。
 猫の中にもおめでたいやつがいるもんだと、当時の俺はよく思ったもんだ。虹って物にそんな親切心があるなら、どうしてそのでかい図体の下で雨宿りさせてくれないのだ。どうしてそのでかい図体に餌の在処を記してくれないのだ。胸中でそんな愚痴を呟いていたあの頃が懐かしいぜ。
 今の俺の姿を見たら、昔の仲間はどう思うだろう。ここにもおめでたいやつがいると、どうせあきれ返っちまうに違いない。そやそうだろう。虹を目指して走り続けるだなんて、とても正気な猫のすることじゃない。それはこの俺自身が一番感じていることなのだから。
 先ほどまで見えていた虹が、今はどこを探しても見当たらない。これだから、虹ってのはたちが悪いんだ。これじゃあ、からかわれているも同じ。永遠に終わることのない追いかけっこをしてるようなもんだぜ。
 俺はいったん足を止め、素早く周囲を見渡した。すぐ近くに自動販売機が見える。とりあえず、その陰で一息つくことにした。
 気がつけば、ずいぶんと人の多いところまで来ちまったようだ。もちろん、それだけ警戒しなくちゃいけないことも多くなる。前の日はタクシーに撥ねられそうになった。その前は救急車だ。やつら、人の命は大切でも。猫の命はどうでもいいらしいや。さらにその前の日は霊柩車だ。やつら、人の死体を運ぶついでに、猫の死体でも増やそうって魂胆らしいや。
 虹を相手にしたこんな追いかけっこ、いったいいつまで続けりゃいいんだろう。もちろん虹子を見つけるまでだ。それはわかってる。それ以外に、彼女を見つけ出す方法がないってのもわかってる。
 それにしても、あまりに馬鹿げた希望だ。虹の向こうには、きっと虹子がいるだなんて。希望なんてものは、抱くだけ無駄だ。ついこの間までそう思っていた俺は、やはりどうしようもない老いぼれの馬鹿猫なんだろうぜ。
 老いぼれどころか、すでに俺は死んでいるんじゃないのか。今でもたまにそう考えることがある。虹子に出会ったこと、それ自体が幻だったのではないのかと、何度自問したことだろう。もちろん、答えなんて出やしない。こんなアンポンタンな猫に、答えなんて出せるわけがない。
 俺が覚えているのは、虹子が写っていたあの写真だけだ。彼女の隣には、幸助らしき男の姿。その後ろにはでっかい虹も見えた。そしてあの場所。あれは俺と虹子とで散歩した公園に間違いない。そう。こうしてのんびりしてる場合ではないのだ。
 俺は再び走り出した。さっきまで見えていた虹の方向へ向かって、ありったけの力を振り絞って前進した。
「あっ、猫だ。ママ、見て。猫だよ」と、背後で子供の声が聞こえる。
「おっと。びっくりしたあ。猫か」と、今度は大人の声。そして自転車のブレーキ音。
 俺のすぐ目の前で、勢いよく車が通りすぎ、泥水が派手に飛び散った。
 視界が一瞬奪われる。それでも、俺は走り続けた。二度と足を止めるなと、自分の身体に発破をかけた。
 こんな気分になるのは初めてかもしれない。交通量の多い道路を横切ることに、今は何の恐怖心もない。散歩中の飼い犬とすれ違うことにも、今は何の警戒心もない。どこかの家の庭に侵入することにも、今は何の罪悪感もない。いや、これはもともとなかった。
 とにかく不思議な気分だ。何か見えない力に吸い寄せられるような。俺の名を呼ぶ虹子の声が聞こえるような。そう。そうなのだ。もう少しでたどり着くことができるはずだ。。虹の麓へ。そして、虹子の素へ。
 俺の全身に衝撃が走ったのは、その時だった。

 どれぐらいの時間が経ったのだろう。
 意識を失う前、俺は確かに自動車のブレーキ音を聞いた。あの衝撃は、車に撥ねられた時のものに間違いないだろう。何しろこっちは経験者だ。車に撥ねられる名人みたいなもんよ。
 今回も頭を打ったらしい。前の事故と違うのは、身体の自由がきくってことだ。
 しかし、何かが変だった。
 立ち上がり、周りを見渡してみるも、何も発見することができない。どこを向こうと、そこには暗闇の世界があるだけ。いや、そうじゃない。おかしいのは俺の目の方だ。おまけに耳までどうにかなっちまってる。
 俺は、激しく頭を打ち振った。何も見えない、何も聞こえないのは、おそらく事故の影響だろう。ただの一時的な症状。そうでなければ困るのだ。
 虫だろうか。そう、虫の声だ。鳥の声も聞こえ始めた。テレビのボリュームを上げるように、俺の耳は、ゆっくりとその聴力を取り戻していった。
 それに続いて、今度は目の前が明るくなってくる。夜になっていたわけではなかった。やはり、一時的に見えなくなっていただけなのだ。そして、その症状も無事に回復しつつあった。
 鳥の鳴き声がする方へと眼をやる。公園らしきものがその先に見えた。
 俺は慎重な足取りで前進した。やはり大丈夫。身体には何の怪我もないようだ。それどころか、妙に身体が軽く感じる。しかも疲労感さえ残っていない。おかしな気分だったが、俺にとっては好都合といえることばかり。視力や聴力も、今では完全に元通りになっている。
 どこにでもありそうな小さな公園だった。
 滑り台で遊ぶ数人の子供。ベンチでは、その子らの母親らしき女が二人、何やら話に夢中になっているところだ。滑り台の奥にはブランコも見える。大人の男女が、二つ並んだそれぞれに腰を下ろしていた。
 俺は公園の手前で足を止めた。これ以上進むと、子供らに見つかってしまうかもしれない。ここで騒がれるわけにはいかないのだ。近づける限界はこのあたりだろう。俺はちっぽけな黒猫。木の陰になっているこの場所が、きっと強い味方になってくれるはずだ。
 ここは、俺が知っている公園だった。見間違いなどではない。似たような公園はいくつもあるだろう。似たようなブランコも数えきれないほどあるだろう。しかし、そのブランコに座っている人物は、この世界で唯一の存在だ。見間違えるわけがない。この俺が、虹子を見間違えるわけがないのだ。
 頭上からは鳥の鳴き声。前方からは子供たちのはしゃぎ声。おまけに後ろからは、車の走る音がひっきりなしに聞こえてくる。こんな状況では、虹子の声を聞くことまではできない。
 途切れ途切れではあるが、虹子は何かをしゃべっていた。隣のブランコに座る男が、その相手なのだろう。ただし、なぜかあまり顔を見ようとはしていない。チラリと男を見ては、またすぐに視線をそらす。その繰り返しである。
 男はじっと虹子の方を見つめたままだ。そのせいで、俺のいるところからは、男の顔を確認することができない。大きな帽子に、地味な色のシャツとズボン。その外見だけでは、いったい何者なのか、いったい虹子とはどういう関係なのか、まったく見当がつかない。もしかすると、俺のまだ知らない人物って可能性もある。体つきからいって、男であることは間違いない。そう若くはないようにも見える。少なくとも、バンドメンバーとは違うはずだ。それは虹子の表情を見ればわかる。
 どこか緊張しているような、親しい人間には、決して見せないだろう固い顔つき。虹子のその表情は、いったい何を意味しているのだろう。危険信号だろうか。もしそうだとすれば、俺もここでじっとしてるわけにはいかない。狙うとすれば、やはり男の喉笛がいいだろう。
 ベンチに座っていた女二人が、滑り台の方へと近づいてきた。空を指差しながら、子供たちに向かって何か言っている。しかし、相変わらず遊びに夢中な子供たち。母親の声など、まったく耳に入っていないといった風だ。
 ブランコの男に動きがあったのは、その時だった。
 俺の全身に緊張が走る。
 チラリと見えた男の顔。やはり見覚えのない人物。というより、髭とサングラスのせいで、ほとんど正体がわからない。ますます怪しいではないか。
 ブランコを降りると、男は、すぐ脇に置いてあった黒いバッグへと手を伸ばした。
 俺は体勢を低くした。今すぐにでも飛び出せる状態だ。
 虹子はといえば、身の危険が迫っているかもしれないというのに、なぜかのんきに空などを眺めている。まさに今、謎の男に襲いかかられようとしているかもしれないというのにである。
 男の手がバッグの中に消え、そして再び現れる。その手には、何か筒状の物が握られていた。爆弾だろうか。刃物だろうか。
 虹子はまだ気づいていない。男が、その凶器らしき物を広げようとしていることを。
 ここを飛び出すのは、今しかない。そう思った瞬間だった。
 間に合わなかった。俺が行動を開始するより一瞬早く、男はそれを大きく広げ、虹子の目の前に立ちふさがったのである。
 傘だった。
 それは凶器ではなく、ただの傘、いや、黒猫のイラストが描かれた、ちょっぴり可愛いデザインの傘だった。
 肉球にかいていた汗が、すうっと引いていくのがわかる。無事だった。虹子は無事だったのだ。
 気がつくと、滑り台の子供たちが、母親とともに公園を出て行くところだった。
 そうか。雨だ。雨が降り出してきていたのだ。虹子も、今はしっかりと傘の中に収まっている。謎の男が差している傘の中にである。
 雨は、それほど強いものではない。そのせいだろうか。虹子と男は、なかなか公園を出て行こうとしない。
 俺は、その日初めて見た。虹子の笑顔を。ずっと見たかった虹子の笑顔を、たった今目にすることができたのだ。
 虹子は、傘に画かれている黒猫を指差していた。そして笑っていた。笑いながら、男と何か言葉を交わしていた。何を話しているのか、俺にはもちろんわからない。しかし、ただ一つだけ、はっきりわかったことがある。
 虹子は大丈夫。もう俺が心配するようなことにはならない。虹子はもう大丈夫なのだ。彼女の笑顔がそのことを教えてくれている。
 俺はそっと歩き出した。虹子に背を向け、元来た方向へと引き返す。木陰から出ると、ポツリポツリと水滴が顔にかかるのがわかった。やはりたいした量ではない。こんな雨、きっとすぐにでもやんじまうだろうぜ。
 俺は振り返らなかった。振り返らずともわかっていた。虹子の笑顔は、無事守られたのだということを。そして、雨上がりの空には、再びでっかい虹が姿を現すのだということを。

虹色日記

 皆さんお久しぶりです。と言っても、RCが今日メッセージを伝えたい相手は、たった一人だけです。彼女がこのブログを見てくれるかどうかはわかりません。でも書きます。どこかできっと読んでくれる。いつかきっと読んでくれる。そう信じて書きます。
 Nさん、あなたの本名を最近知りました。ですから、今回はそのイニシャルを使わせてもらいますね。名前の一字が、親子で一緒だなんて、とっても素敵なことだと思います。
 RCを一人残して、どこかへ消えてしまったNさんのことを、最初は正直すごく恨みました。いや、やっぱり恨みというのとはちょっと違うかな。途方に暮れる。それに近い感じかもしれない。
 とにかく、あれからNさんのことについて考え続けました。RCを残していったNさんの気持ちのことです。今もまだ考えてる途中なのかもしれません。
 少しだけ、ほんの少しだけですけど、そうじゃないのかなって、思い始めたことがあります。Nさんの本名を教えてくれた人が、RCにいいヒントをくれました。
 Nさん、ずっと怖かったんじゃないんですか。自分が進んでいる道。自分が信じている世界。もしもそれらが間違いだったとしたら。頭の片隅で、心の奥底で、ずっとそれを恐れていたんじゃないんですか。
 その恐怖は、RCの中にもありました。ごまかしていましたけど、確かにその恐れはあった。そして、それを認めることはもっと恐ろしかった。
 Nさんは、RCのことを巻きこみたくなかったんじゃないんですか。RCのことを守ってくれたんじゃないんですか。家族を守りたい、Nさんが昔そう思ったのと同じように。
 Nさん。あなたの帰りを待っている人がいます。誰のことかわかってますよね。ほんの少し足を止めて、後ろを振り返ってみてください。今でも、あなたの帰りを待っている人の姿、あなたの無事を願っている人の姿、きっと見つけることができると思います。RCだって、そのうちの一人なんですよ。遅くはないと思います。きっとまだ間に合うはず。RCが間に合ったのと同じように。
 Nさんに伝えたいことは、以上で終わりです。
 RCのメッセージに、どれぐらいの力があるのかはわかりません。人を振り返らせる自信もありません。だけど、可能性はゼロではない。そう信じてます。人間、何がきっかけになるかわかりませんからね。
 RCを立ち止まらせてくれたのは、Nさんでした。RCを振り返らせてくれたのは、バンドの仲間たちです。そして、RCに帰りの道を教えてくれたのが、一匹の黒猫でした。誰かの生まれ変わりでもない、誰かの魂を宿してるわけでもない、ただの黒猫です。いや、ちょっと気難しい黒猫かな。
 実は現在、そのレインが行方不明になってるんです。彼を見つけ出すために、今いろんな人の力を借りているところです。うれしいことに、いくつかいい情報も入ってきてるんですよ。数日前にも一つありました。写真に似た猫と、公園のベンチで一緒になったっていう男性からの情報でした。きっとまた、近いうちに会えるような気がします。今度はRCの番ですからね。レインに帰りの道を教えてあげるのは。
 行方不明といえば、今、ニュースで大騒ぎになってることがありますね。突然の辞任会見に続いて、今度はその行方までもがわからなくなっているのだとか。総理大臣の目には見えているのでしょうか、我々庶民の落胆する姿がって、ニュースキャスターが青筋立てて怒ってましたね。
 RC、思うんですけど。彼の目には見えているのかもしれませんよ。もしくは、ようやく見つけ出すことができたのかもしれない。大切な何かをです。たとえばそれは、可愛いデザインの大きな傘。もちろんその目的は、大切な誰かを冷たい雨から守るため。大切な誰かを笑顔に変えるためです。
 好き勝手な想像はこれぐらいにして、RC、明日のライブに備え、そろそろベッドへ潜りこみに行きたいと思います。RCが作詞した新曲、誰かの心まで届いてくれるといいなあ。
 皆さんの明日に、どうか虹色の橋がかかりますように!



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最後までお付き合いくださった皆さん、どうもありがとうございました。無事完成です。読んでくださる方がいる。その思いが、今回も大きな力となりました。
この物語、誰かの心まで届いてくれるといいなあ。
次回は、あとがきを少しだけ。

あとがき レインが与えてくれたもの
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テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

不倫のライセンス 32 自分の居場所

32 自分の居場所

 古い木造校舎を背景に、ぎこちない足取りで歩を進めるおもちゃのペンギン。
 完成した作品を前に、私はしばらくの間動けずにいた。達成感とは違う。力量不足は否めないものの、決して満足がいかないというわけでもない。私は見つけてしまったのだ。キャンバスの中にいる私自身の姿を。
 ぜんまい仕掛けのペンギンは、あの日の私そのものだった。この町を捨てた私。辛い過去から逃げ出そうとしていた私。自分の居場所を探し求めていた私。
 新たな環境、新たな人間関係は、何かをきっと大きく変えてくれるはず。あの時の私はそう固く信じていた。
 自分の変化に確信を持てる。そんな瞬間があるんスよ。
 いつかの礼治の言葉を思い出す。
 町を出て行く前の私と、出て行ってからの私。二人の私に何らかの違いがあるだろうか。よちよち歩きながらも、少しは前進できているのだろうか。自問してみても、確信できるような答えは返ってこない。ペンギンは相変わらず空を飛べないままである。
 その時、ドアにノックの音がした。廊下から、「お前に客だ」と父の声が続く。
 私は、足早に玄関へと向かった。
「こんばんは。いきなりでごめんなさい」
 そこには、意外な人物が待っていた。
「赤井、いや、青井、さん……」
「うん。私、結婚してから、ずっとブルーなままなの」
 青井美佐子の苦笑に、私もぎこちない笑顔を返した。
「急にお邪魔してごめんなさい。驚いたでしょ?」
 なぜなのだろう。美佐子の表情もまたどこかぎこちなげに見える。
「私こそごめんなさい。変な臭いするでしょ? これ、絵の具の臭いなの」
「あ、ごめん。やっぱり今、忙しかったみたいね」
「そうじゃないの。ごめん。さっきちょうど完成したところだから」
「本当なら、連絡してから来るべきだったのよね。ごめんなさい」
 お互いにペコペコと頭を下げ合うばかりで、これではいっこうに話が前に進まない。
「ど、どうぞ、中に……」
 部屋を指し示そうと、持ち上げた私の手には、しっかりと絵筆が握られていた。これには、さすがに二人ともふき出した。
「これ、たまたま持っていただけだから……。本当に、絵は完成したの。嘘じゃないのよ。今アトリエの方にあるから……」
 中へ導こうとする私を制して、美佐子は小さくかぶりを振った。
「ここでいいの。今日は、一言謝りに来ただけだから」
「謝る?」
「うん。セシル、小学生の時の私、覚えてるでしょ?」
 そう聞かれても、私には曖昧な表情を浮かべることしかできない。
「あの頃、私、ずいぶんひどいことあなたに言ってたのよね」
 そこで少し間を置き、美佐子はじっと私の顔を見つめた。真摯な瞳だった。そして、後悔の色を滲ませた瞳でもあった。
「ごめんなさい。今頃、謝っても遅いんだけど……。ごめんなさい、セシル」
 深々と頭を下げ続ける美佐子。その肩に、私はそっと片手を置いた。知らぬ間に置いていた。そして、知らぬ間に口にしていた。
「ありがとう、美佐子」
 ここに至るまで、いったいどんな心境の変化が起ったのかはわからない。しかし、彼女は確かに変わった。変わることができた。
 歯を食いしばるほどの勇気が必要かもしれない。泣きたいほどの恥ずかしさに見舞われるかもしれない。それでも人は変われる。変わることができる。
 明日、私はこの町を出よう。今度は逃げるためではない。現実と向き直るためにだ。

「何か、いいことでもあったのか?」
 夕食の席、珍しく父の方から話しかけてきた。
「うん、まあね。いい絵も描けたし、おいしい料理もできたし、それに……」
 ここで唐揚げを一口。そして、ビールを一口。この時、父の顔つきが少し厳しいものに変わった。よっぽど私にアルコールを飲ませたくないらしい。
「私ね、今日、一つだけいいことに気がついたの」
「酒が、身を滅ぼすということにか」
「違う。いや、違わくないけど……。そんなことより、もっと大切なこと」
「何だ? それ以上大切なことが、この世の中にあるのか?」
「この町。私が生まれ育ったこの町も、悪くないなあってこと」
 得心がいかないのだろうか。父はしかめっ面で唐揚げにかじりついている。
「もちろん、飲み過ぎに注意っていうのも大切よね」
「もうしばらく、ここで暮らしたいってことか?」
「明日、帰るつもり」
「何だそれ。お前、もう酔っ払ってるんじゃないだろうな」
 ますます混乱させてしまったらしい。眉間の皺をいっそう深くしながら、父は勢いよくビールを呷った。
「パパ、私が出て行ったら寂しい?」
「仕事がはかどる」
「ママが出て行った時は、どうだったの?」
「もう忘れた。古い話だ」
「私のところに、たまにママから手紙届くのよ」
「そうか」
「中身、知りたい?」
「知らなくていいことだ」
「今、仕事でスペインにいるんだって」
「そうか」
「サグラダ・ファミリアの写真も入ってたのよ」
「よかったな」
「スペイン男には、気をつけなさいだって」
「いい手紙だ」
「それから私、敏明さんと離婚するつもり」
 言葉は返ってこない。箸で唐揚げをつまんだまま、父の動きはピタリと停止していた。たちの悪い冗談にでも聞こえたのかもしれない。何かを確認するかのように、じっと私の口元を見つめるばかりとなっている。
「と、ところで……」
 その視線に耐えられず、私の方から口を開いた。
「あの絵の評価、まだ聞いてなかったんだけど」
「あ、ああ、そうだったな」
 この話題が、どうやら父にとっても助け舟になったらしい。箸を持つ手が、再び活動を始めた。
「まあ、モチーフは悪くない」
「うん、そうでしょ」
「ただし、全体的に安定感には欠けるな。デッサン力が落ちたせいだ」
「それは、自分でもわかってる」
「ペンギンのおもちゃと、木造校舎とを、対比させる意図があるんだったら、もっと、ペンギンを大きく描かないと駄目だ。あれじゃ、二つのモチーフのバランスが悪すぎる。実際の大きさなど無視してかまわなかったんだ。それに、無駄な色を使いすぎてるな。派手さで、人の目を引こうだなんて思うな。基本は、光と影の……」
 その後も、父の言葉は続いた。厳しく、そして的確な評価。プロの芸術家の目は、臆病な私の胸中までをも見透かしているのかもしれない。それは、決して嫌な気分ではなかった。今度会う時には、成長した私のことも、はっきりとその目で確認してもらいたい。
 私は改めて思う。この町も悪くない、と。

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33 友情関係
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雨と虹の日々 36 猫が嫌い

36 猫が嫌い

 俺は猫が嫌いだ。
 馬のように長時間走ることもできない。犬のように泳ぐこともできない。熊のような力もなければ、猿のような器用さもない。猫とは、なぜこれほど無能にできているのだろう。
 箱や袋を見つければ、何でもかんでも覗きこみ、ちょろちょろ動く物を見つければ、何でもかんでも飛びかかる。こんな無意味な行動を取る哺乳類が他にいるだろうか。いる。人間がいる。
 限りある貴重な時間を、有効利用しようなんて考えることすらせず、一日の大半を寝て過ごし、ただただ無益な存在として一生を終える。猫ってのは、もしかすると人間にも劣る動物なのかもしれない。いや、いくらなんでもそれは言いすぎだ。
 とにかく、猫なんてものは、ろくでもない生き物であることは確かだ。その間抜けっぷりときたら、人間の次ぐらいってとこだろう。
 それにしても、腹が減った。
 ついさっき捕まえ損ねたスズメは、もうどこか見えないところまで飛んでいっちまった。あの余裕のある逃げっぷり。まるで、俺のことを嘲笑っているかのように見えた。もしくは、老いぼれ猫に対する憐れみの態度だったのかもしれない。
 歩き疲れていたから。もう若くないから。特別運動神経の優れたスズメだったから。そんなもの、全部言いわけだ。狩りに失敗した理由はただ一つ、俺が猫だったからだ。寝ることしか能のない役立たずの猫だったからだ。おそらく動物図鑑には、人間と一緒に紹介されてるんだろうぜ。もちろん、おっちょこちょいな動物たちのページにだ。
 視線の先に、小さな公園が見える。
 一瞬だけ、虹子と散歩した公園を思い出したが、もちろんそうではない。馬鹿な動物による、馬鹿な勘違いである。公園なんてものは、どこも同じようなものなのだ。猫がみな間抜けなのと同じことさ。
 結局俺の足は、人間たちの集まる場所へと向かっていたことになる。知らず知らず人間たちにすり寄っていたのだ。驚愕すべきことだが、事実として認めるほかない。あれほど軽蔑していたというのに、俺はその人間の力をどこかで必要としていたのだ。
 公園内に入ると、俺はさっそく行動を開始した。食い物探しである。生き抜くためには、みっともないからと躊躇してる場合ではないのだ。幸か不幸か、人の数はそう多くない。邪魔される可能性が少ない代わりに、人の食い残しを見つける可能性も少ないだろう。
 ベンチの近くに、何か白っぽい物が見える。背広姿の中年男が、一人ボウッと間抜け面して座っているが、構わず俺は歩を進めた。
 思った通り、スナック菓子の袋だった。うれしいことに、中身も少し残っている。ゴミをくず入れに捨てなかったマナー違反の人間に、今は感謝の言葉を捧げたい気分だぜ。
「それ、俺が買ったやつなんだ」
 ベンチの男が、何か独り言を呟いている。俺との距離は二メートルってとこだろう。しかも、相手はいかにも鈍重そうなしょぼくれた男だ。特に慌てて逃げる必要はないだろう。
「大事に食べてくれよ」
 チラリとそちらをうかがってみた。男と目が合う。どうやら、俺に話しかけているらしい。男はちょっとだけ笑顔になり、「最後の金で買った物なんだ」と、恩着せがましく続けた。
「ニャ」
 この程度の物に対しては、この程度の感謝の言葉でいいだろうぜ。
「コンソメ味、お前も好きか?」
 なおも、男はぶつぶつとしゃべり続けている。
 俺は、袋の奥へ前足を突っこみ、まだ少しだけ残っているスナックの欠片をかき出した。今の俺にとって重要なのは、生命を維持するのに必要な栄養源だ。コンソメだろうが、カレーだろうが、味付けなんてものはどうでもいいのさ。いや、きゅうり味だけは困る。
「ああ、最後の晩餐は、猫と一緒ってわけか」
 男が言うところの、最後の晩餐ってやつを済ませると、俺はベンチの上、このよくしゃべる男の隣へと飛び乗った。
「おっ、猫君、俺の話を聞いてくれるのかい?」
 太陽の熱で、予想通りベンチは暖かくなっていた。しばらく睡眠を取っていなかったせいだろうか。それとも、男の話があまりにもつまらなかったせいだろうか。身体を横にするとすぐに眠気が襲ってきた。
「俺みたいな、落ちぶれた男の話を聞きたいだなんて、君もずいぶんと物好きだな」
 まあ、好きに解釈すればいいさ。
「いろいろ考えた結果、首を吊ることに決めたんだ。他の手段もあるんだろうけど、たとえば、ビルの屋上から飛び降りた場合、下にいる誰かを巻きこんでしまうって可能性があるだろう。ガス自殺もそうだ。それから、道路や線路に飛びこむっていうのも、結構いろんな人の迷惑になる。俺、そういうのだけは嫌なんだよ。死んだ後になってまで、人に批判されるかもしれないだなんて……」
 悪いけど、こっちはこっちで一眠りさせてもらうぜ。さっきからあくびが出てどうしようもないんだ。後は一人で、勝手にしゃべりたいだけしゃべっていてくれ。
「会社から首を切られたことだし、やっぱり俺には、首吊りが一番よく似合ってるような気がする。でもなあ……。本当はそんなことどうでもいいんだけどね。生きる意味がないから死ぬ。ただそれだけのことなんだから。死に方なんてどうでもいいはず。でもなあ……」
 要は、臆病風に吹かれちまったってわけだな。そういう肝っ玉の小さいあたりが、実に人間らしい。俺たち猫よりも下に、もっと無能な動物がいるんだと知って、おかげで一安心ってところだぜ。
「猫の君にはわからないだろうね。我が子を亡くした親の気持ちってもんがさあ。我が子を守ってあげられなかった親の気持ちってもんがさあ。そもそも、あんなおかしな宗教に入ったのだって、親である俺が頼りなさすぎたせいなんだ。俺がもっとしっかりとさえしていれば、息子はまだ……」
 男が鼻をすすり出した。子守歌代わりのBGMとしては最悪である。おまけに、空も急に暗くなり始めてきている。男の目からも、雨雲からも、今やいつ水滴が落っこちてきても不思議じゃない状況だ。
「息子は、生まれ変われることを信じていたらしいんだ。そこで、理想の家族に迎えられ、永遠の命と、永遠の幸福を手にできる。そう教えこまれていたんだ、あの頭のおかしな教祖にね。でもなあ……。結局それも、俺のせいなんだろうなあ。理想的な家族とは程遠かったからね。死んだ先に、そんな素晴らしい世界があるってことなら、息子の気持ちもわからないでもないなあ」
 予想通り、ポツリポツリと降り出してきた。男の目からも、雨雲からもである。
「お、俺の死んだ先には、いったい何が待ってるんだろう。もしかして、そこで息子と再会できるのかもしれないな。そしたら、今度こそそこで……。あ、雨か……」
 そう、雨だ。俺の大嫌いな雨だ。
「こんなタイミングで降るなんて、ただの雨とは思えない」
 いや、ただの雨だ。まぎれもない自然現象だ。
「こ、これは、きっと息子の涙だ。もしかすると、俺の自殺を止めようとしているのかもしれない。ああ、そうだったのか。逃げちゃ駄目ってことだな。息子の分まで生きなきゃいけないってことなんだな。そうか。わかったよ」
 すっくと立ち上がると、男はゆっくりとベンチから離れて行った。今までとは見違えるような、力強い足取りだった。途中で一度振り返り、「猫君、ありがとう」と笑顔で一言。そして、またどこかへと向って歩き去って行った。
 まあ、好きに解釈すればいいさ。
 雨は本降りとなり、俺はとりあえずベンチの下に避難することにした。公園には、もう誰の姿もない。ろくでもない老いぼれ猫が一匹いるだけだ。
 雨とは、こんなにも冷たいものだっただろうか。空腹とは、こんなにも辛いものだっただろうか。何てことはない。結局、それだけ俺が歳を食っちまったってことなんだろう。
 野性の勘を取り戻すには、かなりの時間が必要だ。当然俺にそんな時間は残されていないことはわかっている。あとは待つだけのことさ。死に急ぐことも、生にしがみつくことも必要ない。黙っていたって、最後の瞬間は近いうちに必ず訪れるのだから。
 思えば、車にはねられて、一度死にかけたことがあった。あの日も、ちょうどこんな激しい雨が降っていたっけ。今では、何か遠い昔の出来事だったような気がする。
 虹子は、今頃どうしてるだろう。
 俺の取った行動を、彼女は正しく理解できているのだろうか。俺は幸助なんかじゃなく、ただの老いぼれた黒猫。だからこそ、あの時逃げ出したのだ。これ以上くだらない芝居を続けることも、これ以上くだらない希望を抱かせることも、虹子を幸せにすることには繋がらない。だからこそ、俺は姿を消したのだ。
 生きる意味。
 さっきの男が、確かそんなことを言っていたっけ。俺にはとうてい理解できないが、どうやら人間にとっては重要なことらしい。たとえ衣食住揃っていようと、そいつなしには生きられないってことのようだ。まったく、他の動物たちが聞いたらあきれちまうような話だぜ。
 しかし、それが人間の性質である以上、きっと彼ら自身どうすることもできないでいるのかもしれない。欲張りと非難すべきか。その七面倒くさい性質に同情すべきか。人間ってのは、本当に不可解な生き物だ。
 虹子の生きる意味ってのは、いったいどういうものなのだろう。
 もしも、幸助の存在が唯一の答えだとすれば、彼女には、もう生きる意味がないってことになる。俺がその意味を奪ったってことにもなる。
 それに代わるような何かを、虹子は見つけ出すことができるだろうか。いや、絶対に見つけ出してもらわなければいけない。そのために、俺は彼女の素を離れたのだから。
 音楽はどうだろう。虹子にとって、あれは生きる意味になりうるだろうか。バンドのメンバーだって、彼女を必要としていた。そう、あの意地悪な麗子さえそうだったのだ。音楽は、きっと生きる力になってくれるはず。きっと幸助のことを忘れられるはず……。いや、駄目だ。そもそも、バンドに入ったきっかけが幸助だったのだ。忘れられるどころか、まったくの逆効果になる可能性があるではないか。
 それにしても、虹子の父親は、いったい何をやってんだ。人間ってのは、家族単位で群れを作る動物のはずだ。総理大臣なんてろくでもない仕事、とっととやめちまえってんだ。もしも、虹子に何かあったら、俺は絶対に許さないぜ。その面にションベンひっかけられるだけで済むと思うな。この動物界一のアンポンタン野郎め。
 駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ。
 こうして、考えれば考えるほど、良からぬことばかりが頭に浮かんできちまう。
 虹子は、あの村へ戻って、俺と一緒に死ぬつもりだったのかもしれない。きっとそうだ。一度死んでも、すぐにまた蘇るだなんて馬鹿なことを信じていたぐらいなのだから。
 俺がいなくなったことで、彼女が正気に戻ってくれる保証などどこにもない。むしろ、死を速めることになるのかもしれないのだ。いや、もう手遅れになっているのかも。すでに、虹子は……。
 気がつくと、俺はベンチを飛び出していた。
 雨はいまだに止む気配を見せない。こいつが降っている日には、何か不吉なことが起きる。それはわかっていたはずだ。わかっていながら、俺は今までのんきに雨宿りをしていたのだ。俺って猫は、本物の大馬鹿野郎だぜ。身体が濡れるぐらいなんだってんだ。俺は虹子に命を救われたのだ。
 こんな俺に、もしも生きる意味ってものがあるとすれば、それはただ一つ。
 虹子の無事を確認し、彼女のその笑顔を、一目、そう、一目だけでいいから見届けることだ。虹子に会いたい。もう一度虹子に会いたい。

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次回、いよいよ最終章です。

37 虹が嫌い
雨と虹の日々 目次

テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

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片瀬みこと

Author:片瀬みこと
札幌在住のアマチュア作家

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