不倫のライセンス 35 胸騒ぎ
35 胸騒ぎ
「何か、あったんスか?」
重ねた唇を離し、礼治はそっと囁いた。どことなく困ったような顔が、玄関の薄明かりに照らし出される。
私は無言でしがみついた。今は、答えを返す時間さえもどかしい。今は、二人の間にできたわずかな距離さえ狂おしく感じる。
「会いたかった」
何度目かのキスの後、ようやくそれだけを口にすることができた。
微笑する礼治。この前の試合でできたものだろうか。目尻に新しい傷があった。けれど、それ以外は何も変わらない。そこには、私の知っているままの成宮礼治が確かにいた。
「私、何かあったように見える?」
先ほどの質問が気になり、私の方からそう尋ねてみたものの、礼治はただ軽く首を傾けるだけだった。
もしかすると、ある種の覚悟のようなものが、私の表情には浮かんでいたのかもしれない。今夜、大事な話がある。そのことだけは、あらかじめ電話で伝えてあった。それを思い出したのだろうか。気がつくと、いつの間にか礼治の顔から笑みが消えていた。
部屋へと上がり、テーブルを挟んで、二人向かい合わせに座る。
「昼間、夫と話し合ってきたの……」
私はすかさず切り出した。話しにくいことというのは、後回しにすればするほど、なおさら口にしづらくなるもの。それは、この数カ月で私が学んだことの一つだった。
「私の方は、離婚するつもり……」
少し待ってみるも、礼治からの返答はない。ただ黙ってこちらを見つめるばかりだ。離婚を決意してくれて、本当にありがとう。といった感謝の言葉や、俺の方も、今すぐ離婚するよ。といった約束の言葉や、お互いの正式離婚が決まったら、すぐにでも一緒になろう。といったプロポーズの言葉は今のところなさそうである。
「旦那さんは、それで納得したんスか?」
返ってきたのは、そんな疑問の言葉だった。
「納得は、してないみたいだけど……。で、でも、私の意志は、もうはっきりしてるし……。時間は、離婚するまでの時間のことだけど、それは結構かかるかもしれない……。でもね、でも、私の気持ちは、もうはっきりと……」
なぜか胸騒ぎがする。それを打ち払おうと、無理矢理に言葉をつないでみるも、あまり効果はない。不安の虫は、私の胸の奥で成長し続ける一方だった。
彼は、お前と結婚したいわけじゃないんだ。
その虫が、敏明そっくりな声音で語り始める。
成宮礼治は、お前が思ってるような男なんかじゃない。
「れ、礼治は……」
思わず声が上ずってしまう。
「どうなの? 礼治は、どう思ってるの? これからのこと、二人の、これからのこと……」
考えこむように、礼治が座布団の上で膝を抱えた。答えが返ってくるまでの時間が、あまりにも長く感じられる。
「このままじゃ、駄目なんスか?」
「え? このままって……」
「このままで、俺、満足なんスけど」
「それって、離婚しないままでもいいってこと? お、お互いに……。今まで、はっきり聞いたことなかったけど、礼治、奥さんいるの?」
「ずっと、別居中のままですけど」
「子供も?」
礼治は黙ってうなずいた。
「ど、どうして……」
今まで教えてくれなかったの、と言いかけたものの、言葉は続かなかった。答えはわかりきっていたからだ。私が聞かなかったから。私が知ろうとしなかったから。知ることを恐れていたからなのだ。
「私は……」
、逃げちゃ駄目、と心の中で自らを叱咤し、なんとかして言葉を絞り出す。
「もっと、ちゃんとした方が、いいと思うの」
「ちゃんとって、何スか?」
「わかってるでしょ。ちゃんと、お互いに離婚して、それから、ちゃんと付き合った方が……」
「ぜんぜんわかんないっスよ。ちゃんとちゃんとって、何スかそれ? お互いに好きだから、俺たち今付き合ってるんスよね? それでいいじゃないっスか。それ以外、何が必要だって言うんスか? 離婚届を、役所に出すか出さないか、それだけで何が変わるって言うんスか?」
「こ、このままの状態じゃ、いろんな人に迷惑かけることになるでしょ? いろんな人を傷つけることになる。それはわかるでしょ?」
「セシルさんの旦那さんって、浮気しない日とっスか?」
「うん。いや、う、浮気ぐらいはあるかもしれないけど……」
「じゃあ、お互い様じゃないっスか」
「違う。浮気と不倫とじゃ、ぜんぜん……」
気がつくと、敏明と同じ言葉を口にしていた。目を伏せ、一つ息を吐き出す。今の私に、苦笑できるような心の余裕はなかった。
視界の隅に、立ち上がる礼治の姿が映る。足早にテーブルから離れていく。冷蔵庫が開けられる音。舌打ち。そして、乱暴に扉が閉められる音。
そちらを向くと、礼治の背中が目に入った。スポーツドリンクだろうか。手にしたペットボトルがチラリと見える。
「子供には、会いに行ってるの?」
背中へとそっと声をかけてみる。
「しばらく行ってないっス」
振り返らずに答える礼治。持ち上げたペットボトルを傾け、小さく喉を鳴らす。
「今は、会わない方がいいんスよ」
「どうして?」
「どうしてって……。今の俺、何者でもないじゃないっスか。ボクサーとして食っていけるようになるまでは、父親面なんてできないっス」
「父親面するかしないかじゃなくって、もう、すでに父親なんだから……」
ペットボトルが、勢いよくゴミ箱へ投げこまれる。
男は、プライドの動物だ。
胸の奥の虫が、再び騒ぎ始めた。
「こ、子供、特に小さい子には、両親の愛情が必要だと思うの。子供は、親を選ぶことができないんだし……。親としての責任だって……」
私が言うべきセリフではない。それはわかっている。しかし、止められなかった。
「パパとママが、離ればなれになってしまった子供の気持ち、考えたことある? それが、どんなに不安なことか。どんなに……」
鈍い衝撃音が、私の言葉を中断させた。身体に震動を感じるほどの激しい響き。礼治の拳が、部屋の壁に打ち当てられた音だった。
「礼治……」
彼は、妻に暴力を振るうような男だ。
そんな警告が、胸の奥から聞こえてくる。
礼治は、自らの拳を見つめたまま、小さく肩を震わせている。静まり返った室内で、荒い呼吸音だけがかすかに聞こえた。
私は、身動き一つ取ることもできずにいた。恐ろしかったからだ。この沈黙が。そして、礼治の存在が。
しばらくして礼治が行動を起こす。私を一瞥し、すぐに玄関へと向かう。
「少し、頭冷やしてきます」
やがて、ドアの開閉音がして、部屋はまた静かになった。
「どうして……」
ポツリと呟いてみる。こんなはずではなかった。こんなはずでは……。
俺の予言した通りだったじゃないか。
どこからか、またそんな声が聞こえてきたような気がした。
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「何か、あったんスか?」
重ねた唇を離し、礼治はそっと囁いた。どことなく困ったような顔が、玄関の薄明かりに照らし出される。
私は無言でしがみついた。今は、答えを返す時間さえもどかしい。今は、二人の間にできたわずかな距離さえ狂おしく感じる。
「会いたかった」
何度目かのキスの後、ようやくそれだけを口にすることができた。
微笑する礼治。この前の試合でできたものだろうか。目尻に新しい傷があった。けれど、それ以外は何も変わらない。そこには、私の知っているままの成宮礼治が確かにいた。
「私、何かあったように見える?」
先ほどの質問が気になり、私の方からそう尋ねてみたものの、礼治はただ軽く首を傾けるだけだった。
もしかすると、ある種の覚悟のようなものが、私の表情には浮かんでいたのかもしれない。今夜、大事な話がある。そのことだけは、あらかじめ電話で伝えてあった。それを思い出したのだろうか。気がつくと、いつの間にか礼治の顔から笑みが消えていた。
部屋へと上がり、テーブルを挟んで、二人向かい合わせに座る。
「昼間、夫と話し合ってきたの……」
私はすかさず切り出した。話しにくいことというのは、後回しにすればするほど、なおさら口にしづらくなるもの。それは、この数カ月で私が学んだことの一つだった。
「私の方は、離婚するつもり……」
少し待ってみるも、礼治からの返答はない。ただ黙ってこちらを見つめるばかりだ。離婚を決意してくれて、本当にありがとう。といった感謝の言葉や、俺の方も、今すぐ離婚するよ。といった約束の言葉や、お互いの正式離婚が決まったら、すぐにでも一緒になろう。といったプロポーズの言葉は今のところなさそうである。
「旦那さんは、それで納得したんスか?」
返ってきたのは、そんな疑問の言葉だった。
「納得は、してないみたいだけど……。で、でも、私の意志は、もうはっきりしてるし……。時間は、離婚するまでの時間のことだけど、それは結構かかるかもしれない……。でもね、でも、私の気持ちは、もうはっきりと……」
なぜか胸騒ぎがする。それを打ち払おうと、無理矢理に言葉をつないでみるも、あまり効果はない。不安の虫は、私の胸の奥で成長し続ける一方だった。
彼は、お前と結婚したいわけじゃないんだ。
その虫が、敏明そっくりな声音で語り始める。
成宮礼治は、お前が思ってるような男なんかじゃない。
「れ、礼治は……」
思わず声が上ずってしまう。
「どうなの? 礼治は、どう思ってるの? これからのこと、二人の、これからのこと……」
考えこむように、礼治が座布団の上で膝を抱えた。答えが返ってくるまでの時間が、あまりにも長く感じられる。
「このままじゃ、駄目なんスか?」
「え? このままって……」
「このままで、俺、満足なんスけど」
「それって、離婚しないままでもいいってこと? お、お互いに……。今まで、はっきり聞いたことなかったけど、礼治、奥さんいるの?」
「ずっと、別居中のままですけど」
「子供も?」
礼治は黙ってうなずいた。
「ど、どうして……」
今まで教えてくれなかったの、と言いかけたものの、言葉は続かなかった。答えはわかりきっていたからだ。私が聞かなかったから。私が知ろうとしなかったから。知ることを恐れていたからなのだ。
「私は……」
、逃げちゃ駄目、と心の中で自らを叱咤し、なんとかして言葉を絞り出す。
「もっと、ちゃんとした方が、いいと思うの」
「ちゃんとって、何スか?」
「わかってるでしょ。ちゃんと、お互いに離婚して、それから、ちゃんと付き合った方が……」
「ぜんぜんわかんないっスよ。ちゃんとちゃんとって、何スかそれ? お互いに好きだから、俺たち今付き合ってるんスよね? それでいいじゃないっスか。それ以外、何が必要だって言うんスか? 離婚届を、役所に出すか出さないか、それだけで何が変わるって言うんスか?」
「こ、このままの状態じゃ、いろんな人に迷惑かけることになるでしょ? いろんな人を傷つけることになる。それはわかるでしょ?」
「セシルさんの旦那さんって、浮気しない日とっスか?」
「うん。いや、う、浮気ぐらいはあるかもしれないけど……」
「じゃあ、お互い様じゃないっスか」
「違う。浮気と不倫とじゃ、ぜんぜん……」
気がつくと、敏明と同じ言葉を口にしていた。目を伏せ、一つ息を吐き出す。今の私に、苦笑できるような心の余裕はなかった。
視界の隅に、立ち上がる礼治の姿が映る。足早にテーブルから離れていく。冷蔵庫が開けられる音。舌打ち。そして、乱暴に扉が閉められる音。
そちらを向くと、礼治の背中が目に入った。スポーツドリンクだろうか。手にしたペットボトルがチラリと見える。
「子供には、会いに行ってるの?」
背中へとそっと声をかけてみる。
「しばらく行ってないっス」
振り返らずに答える礼治。持ち上げたペットボトルを傾け、小さく喉を鳴らす。
「今は、会わない方がいいんスよ」
「どうして?」
「どうしてって……。今の俺、何者でもないじゃないっスか。ボクサーとして食っていけるようになるまでは、父親面なんてできないっス」
「父親面するかしないかじゃなくって、もう、すでに父親なんだから……」
ペットボトルが、勢いよくゴミ箱へ投げこまれる。
男は、プライドの動物だ。
胸の奥の虫が、再び騒ぎ始めた。
「こ、子供、特に小さい子には、両親の愛情が必要だと思うの。子供は、親を選ぶことができないんだし……。親としての責任だって……」
私が言うべきセリフではない。それはわかっている。しかし、止められなかった。
「パパとママが、離ればなれになってしまった子供の気持ち、考えたことある? それが、どんなに不安なことか。どんなに……」
鈍い衝撃音が、私の言葉を中断させた。身体に震動を感じるほどの激しい響き。礼治の拳が、部屋の壁に打ち当てられた音だった。
「礼治……」
彼は、妻に暴力を振るうような男だ。
そんな警告が、胸の奥から聞こえてくる。
礼治は、自らの拳を見つめたまま、小さく肩を震わせている。静まり返った室内で、荒い呼吸音だけがかすかに聞こえた。
私は、身動き一つ取ることもできずにいた。恐ろしかったからだ。この沈黙が。そして、礼治の存在が。
しばらくして礼治が行動を起こす。私を一瞥し、すぐに玄関へと向かう。
「少し、頭冷やしてきます」
やがて、ドアの開閉音がして、部屋はまた静かになった。
「どうして……」
ポツリと呟いてみる。こんなはずではなかった。こんなはずでは……。
俺の予言した通りだったじゃないか。
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