みことのいどこ 2013年11月

雨と虹の日々 31 自殺が嫌い

31 自殺が嫌い

 俺は自殺が嫌いだ。
 人間ってのは、つくづく不可解な行動を取る動物だと思う。自殺もその一つだ。ある者は、貧乏だからと首を吊り、ある者は、失恋したからと手首を切り、ある者は、生きる意味がわからなくなったとビルから飛び降りる。放っておいても、いつかは死が訪れるってのに、なぜ? そんな疑問を感じたこともあったが、結局、答えはどうってことないものだった。
 要は、臆病風に吹かれちまったってことさ。いくら強者を気取ったところで、しょせん連中の力などたかが知れてる。生きることを途中で放棄するなんて、いかにも肝っ玉の小さい人間が思いつきそうなことだぜ。
「私も、昔死んじゃいたいって思ったことがあったなあ」
 そう呟いているのは宇佐美さんである。おのれの肝っ玉の小ささを、素直に認める人間ってのも珍しい。
「家族のことで、当時、いろいろと辛いことが重なってね」
 虹子に向かって話しかけているらしいのだが、宇佐美さんの言葉は、今のところ一方通行でしかなかった。
 もう昼過ぎだというのに、虹子はいまだ布団の中にいる。宇佐美さんが外から呼びかけようと、鍵を開け部屋に入ってこようと、ほとんど反応らしきものはなかった。猫もあきれるほどの睡眠量、と言いたいところだが、実際眠りについているかどうかはわからない。頭から布団をかぶっているため、表情の確認はいっさいできないのだ。それこそ、“死んだように”という表現がぴたりとくるほど、ただただじっと動かないままなのである。
「あの頃は、自分を犠牲にしてでも、家族を守らなきゃって思ってた」
 盛り上がった布団に向かって、宇佐美さんはなおもしゃべり続けた。
「私、娘を一人、病気で亡くしてるから……。もし生きてたら、虹子ちゃんより二つ年上になるのかな」
 布団は動かないままである。
 俺は、ゆっくりとその盛り上がりへと前足をかけた。肉球に伝わるかすかなぬくもり。そして、生存の証でもある呼吸のリズム。虹子の無事を確認し終えると、俺は布団の上で宇佐美さんと対峙した。
「幸助君を思う虹子ちゃんの気持ち、私よくわかってるつもりなのよ」
 瞳の奥を覗きこむも、なかなか宇佐美さんの本性を見抜くことができない。
「ある意味、今の虹子ちゃんがうらやましい」
 俺の足元がわずかにぐらつく。
「誤解しないでね。今のは、ちょっと言い方が変だった。でもねえ……。魂の行方って、本当はそう簡単にわかるものじゃないの。実際、私の娘の場合がそうだから。それを考えると……。ごめんね。やっぱり虹子ちゃんがうらやましい。だって、幸助君の魂を、こんなにも近くに感じることができるんだもの」
 足元が再びぐらつき、今度はそのまま大きく傾き始めた。
 虹子がゆっくりと身を起こす。いったんその場から飛び降りた俺は、彼女の体勢が整うのを待ってから、特等席、つまりは虹子の膝へと座り直した。
「幸助は、今どこにいるっていうんですか?」
 久しぶりに耳にする虹子の声には、弱々しくも、真剣さに満ちた響きが感じられた。宇佐美さんに対して懐疑的になっているのは、どうやら俺だけではなかったらしい。
「今はもう、レインちゃんの中に戻ってるんだと思う」
 宇佐美さんが、顔色一つ変えずに言ってのける。
「さっき、先生の様子見てきたところなの。ようやく放心状態から抜け出せたみたいだった。今は落ち着いてるけど、やっぱりだいぶ疲れてはいるみたい」
「あ、あれは、昨日の、先生のあれは、いったい何なんですか?」
「うん。虹子ちゃんが驚くのも無理ないと思う。私は、もう何度も見てきたけど、初めてだとやっぱり……。あ、でも、虹子ちゃんも初めてじゃないはずよ。この部屋で、一度、確か、ここへ来たばかりの日じゃなかった? ほんの一瞬のことではあったけど……」
「だ、だから、あれは何だっていうんですか? もっとわかるように、わ、私にも、わかるように説明してください」
「魂、幸助君の魂が、自立の意志を見せ始めたのよ。先生の肉体を借りて、あなたにメッセージを送ろうとしたんじゃない。それがわからないの? これはとてもいい傾向なのよ。誰もが救われるわけではない。そして、約束の地にたどり着けるのは、ごくわずかな人たちだけなの」
 虹子は沈黙した。
 見上げると、彼女もちょうど俺に視線を向けたところだった。宇佐美さんの話に、百パーセント納得したという表情には見えない。むしろ、疑念はますます深まったという風にさえ感じられる。
 しかし、再び虹子の口から発せられた言葉は、俺を驚かせ、そして、おそらくは宇佐美さんを満足させることとなった。
「お金の方は、どうにか用意できると思います」
「そう。ありがとう。虹子ちゃんなら、きっとわかってくれると思ってた」
「ほ、他にも……。私にできること、他にも、何かありますか?」
「うん、そのことなんだけど……。お父さんと、直接連絡取ることは可能なの?」
「え? ああ、それは、ちょっとわかりません。連絡先がわかっているのは、父の代理の人だけで」
「じゃあ、間接的には伝えられるってことね」
「何を伝えればいいんですか?」
「捜査、私たちに対するこの不当な捜査を、今すぐにやめさせること。総理大臣だもん。それぐらいの力は持ってるはずよ。しかも、自分の娘のためにもなることなんだしね」
 ややあってから、虹子はためらいつつも、「わかりました。やってみます」と、首を縦に振った。
 満足そうに微笑む宇佐美さん。それから、顔の前で人差し指を立て、「もう一つだけ、お願い聞いてくれる?」と、今度は軽い調子で言った。
「は、はい。どんなことですか?」
「DVD。あの伯父さんが見たっていうやつ。あれ確認させてほしいの。虹子ちゃんの衣装は見たことあったけど、他のバンドメンバーのはまだだったから。それに、虹子ちゃんの演奏も聞いてみたいしね。どちらかといえば、そっちがメインかな」
 いたずらっぽく笑う宇佐美さんに釣られるように、虹子も少し照れくさそうな笑みを浮かべた。

『自分を見つめる観客の多さに、タマゴからかえったばかりのヒナは、きっと驚き戸惑うことだろう。しかし、ヒナを見る観客の驚きは、間違いなくそれ以上だろう。黄金の翼を持ったその鳥に、ある者は、ただ茫然とその後姿を見送り。ある者は、おのれの夢をその翼にそっと乗せ。ある者は、嫉妬の炎でその鳥を焼きつくそうとし。ある者は……』
 興奮気味に語り続けているのは、あのへんちくりんな男、宝田である。パソコン画面に映し出されているのは、今のところ彼の顔のアップだけだ。
『スターが生まれる、その瞬間に立ち会えるというのは、幸福でもあり、また不幸なことでもある。ある者は、自らの存在の小ささに落胆を覚え。ある者は、嫉妬の炎で……。あ、これはさっきも使ったフレーズだったな』
「なかなか、虹子ちゃん出てこないね」
 宇佐美さんが、DVDを見ている全員の意見を代弁してくれた。
「私も、これ見るの初めてで……。まさか、こんな風になってるとは……」
 虹子としては、苦笑するしかないようである。ばつの悪さをごまかすかのように、膝の上に抱いた俺の頭を、落ち着きのない手つきでしきりに撫で回す。
『この映像をご覧のあなたは、もう二度と忘れることができないだろう。オープニングアクトとして登場するバンドのことを。そして、この謎のマークのことを』
 宝田が、自分の着ているTシャツの胸元を指差した。見覚えのある筆文字。そして、それを取り囲むSの字。
「ああ、これだけアップにされてたのね」と、苦笑いの宇佐美さん。
「すいません」と、消え入りそうな声で頭を下げる虹子。
『さあ、そろそろライブが始まりそうだ。歴史の幕が上がりそうだ。そして皆さんは、もうすぐ目撃者となる』と、絶好調の宝田。
 映像が激しく乱れ出した。足早に移動する宝田の背中を、誰かが追いかけながら撮影しているのだろう。『ひ、控室の鍵、かけなくていいんですか?』という慌てたような声が聞こえる。『大げさなんだよ、まったく』という愚痴も聞こえる。
 やがて、ざわめきが聞こえ、画面いっぱいに大勢の人の後姿が映し出された。明るい光りに包まれた場所が、そのずっと奥の方に見える。おそらく、あれがステージってやつなのだろう。楽器やマイク、そして、数名の人物の姿を確認することができる。あの中に、きっと虹子もいるはずだ。
「やっと始まりそうね」
 宇佐美さんは、やれやれといった風に呟くと、隣に座っている虹子へと笑顔を向けた。
 ところが、虹子はなぜか上の空である。外の様子が気になるのだろうか。ドアや窓のあたりへ、落ち着きなく視線をさまよわせている。
「また、どこかのテレビ局かもね」
「は、はい……」
 注意してみると、確かに外が騒がしくなってきたようだ。映像の中から聞こえてくる音とは、まったく別の種類のざわめきである。
 演奏が始まると、虹子、宇佐美さん、俺の関心も、再び小さなパソコン画面に向かうこととなった。
『アップアップ』という宝田の声とともに、遠かったステージが、こちらに向かってみるみる近づいてくる。
 まずは、麗子の顔のアップ。やや緊張気味な歌声も聞こえてきた。
 お次は、麗子の上半身のアップ。やはりあのマークがプリントされた衣装を着ている。
 さらには、麗子の足元のアップ。リズムに合わせて小刻みなステップを繰り返していた そして、麗子の手のアップ。マイクを観客に向けたり、片手をグルグル振り回したりしている。
 やがて、麗子の顔のアップ。
「この後ろには、ちゃんと虹子ちゃんもいるのよねえ」
「た、たぶん……」
 部屋に漂う気まずい空気。それを感じ取ったわけではないのだろうが、ここでようやく映像が切り替わる。宝田が、『次は、ギターソロだぞ』と、新たな指示を出したためだ。
「直人君です」
 大写しになった直人を見るなり、虹子がすかさず説明を加える。自然と声にも明るさが戻ってきた。
「大学の一年下で、とっても真面目な子なんですよ。ギターだってうまいし。幸助に代わって、今はバンドの楽曲も、全部彼が……」
 しかし、そこまでだった。虹子もすぐに気がついたらしい。宇佐美さんが一瞬漏らした呻き声に。そして、その強張った表情にも。
「う、宇佐美さん」
 呼びかけるも、宇佐美さんからは何の反応も返ってこない。
 ライブの映像は、次々と変わり続けている。ベースの秋男、ドラムの広道、そして、わずかな時間ではあったが、キーボードを演奏する虹子の姿もしっかりと映し出された。
 それでもなお、宇佐美さんの様子に変化は見られなかった。凍りついたように動かないままである。目には何も映らず、耳には何も届かず、といった風だ。
 虹子としても、どうしていいのかわからないのだろう。宇佐美さんが動き出すのを、ただ息を呑んで見守るだけとなっている。
 この部屋の重苦しさとは逆に、パソコン画面の中は熱狂に包まれていた。『アンコール、アンコール』という声が繰り返し聞こえてくる。
 やがて、宇佐美さんの口がわずかに開いた。“SP”と呟いたように聞こえたが、はっきりとはわからない。
「そうか……。ストレートピープル」
 今度のはよく聞こえた。しかし、意味の方はさっぱりである。
「は、はい、そうなんですけど……」
 虹子が、戸惑いながらうなずく。そして、「今まで、教えてませんでしたっけ?」と、苦笑にも似た微妙な表情を浮かべる。
 その時だった。
 ドンドンという激しいノックの音に続いて、「う、宇佐美さん、いらっしゃいますか?」と、慌てふためく男の声。
「何? 鍵なら開いて……」
 宇佐美さんが言い終らないうちに、部屋のドアは勢いよく開けられ、坊主頭の若い男が顔を見せた。
「逮捕状、せ、先生に、逮捕状が出そうです」

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32 警察が嫌い
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不倫のライセンス 26 新しいプラン

26 新しいプラン

 眠りにつくまえに、箱の中身を確認しておこうか。それとも、明日の朝まで先送りにしようか。
 ベッドに腰を下ろしたままの姿勢で、私は大きく一つため息を漏らした。視線の先には、日中届けられた私宛の宅配便。夫からのものである。
 ためらいながらも、ゆっくりとその箱へ手を伸ばす。気は進まないものの、このままでは、とても眠れそうになかった。たとえ眠りにつけたとしても、そこには悪夢が待ち構えているに違いない。箱を覗くと、そこには爆発三分前の時限爆弾。おそらくそんな夢だろう。テレビのリモコンを耳に当て、必死になって警察に電話しようとする、そんな間抜けな自分の姿が思い浮かぶ。
 蓋を開けると、私宛の封筒がまず目に入った。二通ある。一つは、自宅に届けられたものなのだろう。差出人が母の名前になっている。そして、もう一通の方に夫の名があった。
 封筒の下には、丸めた新聞紙がいくつも敷きつめられている。割れ物なのだろうか。その中には、大きさにして握り拳二つ分ほどの物が、やはり新聞紙に包まれた状態で収まっていた。数にして五つ。そのうちの一つを手に取る。
 熊の親子が描かれたマグカップ。
 新聞紙の中から、見覚えのある物が姿を現した。それは、二度目の結婚記念日に買い求めた物だった。残りの四つも手早く確認する。想像通り、いずれも記念日に夫婦で選んだ品だった。中には、今年買ったライオンのカップもある。
 これは、いったいどういうメッセージなのだろう。やはり、手紙に目を通すしかないらしい。一呼吸置き、私は、敏明の名が記された封筒を手に取った。

 セシル、ふるさとの暮らしはどうだい?
 君が今、お父さんのところにいると知って、俺は正直ほっとしてるんだ。一時の感情に流され、自らを見失うようなことにならなくて、本当に良かったと思う。その意味では、家を飛び出していった君の判断、あれは間違いではなかったのかもしれない。
 そもそも、俺たち夫婦には、考えを整理する時間が必要だったんだろうね。頭のどこかでは気づいていた。それでいながら、何となくうやむやにしてきた。今回こうして距離を置くことで、一つ重要なことを学ばせてもらったよ。問題の先送りは、決して現状維持の手助けになどならないのだとね。
 君に、ここでいくつかの情報提供をしよう。成宮礼治に関してのものだ。ある人物に頼み、彼のことはいろいろと調べさせてもらった。こういった手段を取るのは、君にとって不愉快なことかもしれない。ただ、現実を把握せずして、より良い判断を下すことなど不可能だということは、どうか理解してもらいたい。
 あの日の俺の言葉は覚えてるかい? 君が家を飛び出して行く前の言葉だ。耳には届いていたはずだけど、念のために繰り返しておく。
 成宮礼治には、妻も子もいる。それは本当だ。彼の口から、今までにそんな説明はあったかい? おそらくなかっただろうと、俺は見ている。彼はそういうタイプの男だからね。
 そういうタイプとは、結婚しても、夫としての義務を果たせないタイプのことだ。遠くの夢ばかりを見て、近くの現実からは目をそむけるタイプ。精神論を口にすることで、生活力のなさをごまかしているようなタイプのことだ。
 十九歳の時に、同い年の女性と結婚。いわゆる“できちゃった結婚”というやつだ。それから一年も経たずに別居。その原因の一つには、どうやらDVの問題もあったらしい。現在は、少ない給料から、毎月養育費を支払うことになっているそうだ。その約束が、どの程度守られているかは怪しいものだが。
 こんな男の、いったいどこに君が引かれたのかはわからない。しかし、君の目には、成宮礼治の表面的な部分しか映っていなかったはずだ。彼が実はどんな人間であるかを知って、一刻も早く君の目が覚めることを願うよ。
 セシル、マグカップには、もう気づいてもらえたかい?
 それには、お金で買えない価値がある。その小さなカップには、俺たち夫婦の歴史がつまっているからね。ただし、その五つだけでは不十分なんだ。五組揃ってこそ価値がある。わかるだろ? それを持って戻って来てほしい。これからのこと、二人で話し合おう。ライオンのカップでコーヒー飲みながらさ。
 俺たち夫婦には、新しいプランが必要なんだ。君が思い描いていた結婚生活。俺が思い描いていた結婚生活。そこにはいろんな食い違いがあったのだろう。今回、はっきりとそのことに気づかされたよ。だからこそ、プランの変更が必要なんだ。二人の歴史に幕を下ろさないためにも。
 セシル、俺は、君と一緒に六組目のマグカップを探したいと思っている。

 読まずには眠れないと思っていた。しかし、読んだからといって、熟睡が保証されるわけでもなかった。眠れない、眠れない。お前は一生眠れない。手紙にはそんな呪いの文句が記されてあったのだから。
 パジャマ姿のまま、フラフラと部屋を出る。階段を下り、キッチンの方へと向かう。冷蔵庫のドアを開け、一つため息。ドアを閉め、またため息。手紙を読み終えたあとの、私の一連の動作に意味などなかった。
 今度は、水道の蛇口をひねり、「とりあえず、水でも飲もうかな」と、空っぽになりかけている自分に向って、そっと呟いてみた。今は、自らの行動に、何らかの意味を持たせなければいけない。思考停止に陥らないためにも。一刻も早く呪文を解くためにも。
 コップを取ろうと、食器棚へと手を伸ばす。そこで、ある物に目が止まった。私はついに発見したのである。呪文を解くための良薬を。
「予定変更」
 苦笑しつつ、私は、日本酒の入った一升瓶を手に取った。
 さて、何から考えよう。考えなければいけないことが、あまりに多すぎる。
 新しいプラン?
 手紙にはそうあった。敏明は、そのプランを持っているとでもいうのだろうか。この迷宮から、今すぐにでも脱出することのできるプランを。
 答えはノーだ。それはきっと、敏明にだけ都合のいいプランに違いない。証拠だってちゃんとある。謝罪の言葉がなかったのがそれだ。手紙のどこにも、反省の言葉がなかったのが何よりの証拠だ。
 私に向って、少しでも頭を下げてくれさえすれば。私に向かって、一言でも謝ってくれさえすれば……。
 許す? 許せるのか? 私は、敏明を許したいのだろうか。浮気問題はなかったこととして、敏明との結婚生活を続けたいのだろうか。
 答えはやはりノーだ。たとえ謝られたからといって、私の気持ちの針は、もはや敏明を指し示してはいない。激しく乱れていた針先も、たった一人の男性の前で、今はピタリと停止している。
 別居中の妻? 幼い子供? ドメスティック・バイオレンス?
 そんなの嘘だ。嘘に決まってる。私と礼治を引き離すためのでたらめに違いない。
「セシル……」
 今、誰かに呼ばれたような気がする。
「どうしたんだ、こんな時間に」
 顔を上げ、声の主を確認してみた。父の姿が、ぼんやりと目に映る。それとともに、自分がどういう状態にあったのかにも気づかされることとなった。いつの間にか、ダイニングテーブルに伏せたまま、気持ち良く、いや、気持ち悪くうとうとしていたらしい。
「おはよう、パパ」
「水が出しっ放しじゃないか」
「そうでしょ。だって私、今お水飲もうとしてたんだもん」
「そこに転がってる一升瓶は何だ?」
 理由はわからないが、今日の父は、何だか怒りっぽいような気がする。人を無理矢理起こしておきながら、文句ばかり言うなんて、やっぱりどうかしている。
「パパ……。もっと、娘にはやさしくしてよね」
「そんなになるまで飲んで……。まったく、しょうがないやつだな」
「文句ばっかり言わないで、もっとやさしくしてったら」
「いいから、部屋に戻って横になってろ」
「いいって、何がいいのよ。ぜんぜんよくないじゃない。パパはやさしくないし、ママはどこかに行っちゃったし、私は外人みたいな顔してるし……。パパ、何でママと別れたの? どうせパパのせいなんでしょ。パパがやさしくないから、ママ出て行っちゃったんでしょ。どうして、引き止めなかったの? 泣いて謝れば、ママだって許してくれたかもしれないじゃない。どうして、どうして……」
 先ほどから、何か余計なことを口走っている。そのことには気づいていた。しかし、どうしても自分をコントロールすることができない。これはたぶん、いまだに呪文が解けていないから。薬の量がまだ足りていないから。きっとそうに違いない。
「セシル、いい加減にしろ」
「そうっスかそうっスか。どうせ、私は悪い娘っスよ。誰からもやさしくされない、誰からも愛されない、どうせ、私なんてそんな女っスよ」
「もう、その辺にしておけ」
「やだ。まだお酒残ってるもん」
「おい、飲みすぎだぞ」
「おい、ハゲすぎだぞ」

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27 思い出のケーキ屋
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雨と虹の日々 30 演技が嫌い

30 演技が嫌い

 俺は演技が嫌いだ。
 人間の職業の一つに、“俳優”というものがある。他人になりすますことで、利益を得るという怪しげな商売だ。連中、よっぽど自分って存在に自信が持てないのだろう。それとも、やはりすべては金のためってことだろうか。
 俺は今、その“演技”ってやつの真っ最中だ。もちろん、嫌々ながらである。もちろん、やむをえない事情があるためである。自分に自信がないわけでもなければ、当然金なんかのためでもない。すべては、虹子の幸せのため。虹子の笑顔を守るためなのだ。
 間宮さんの家を訪れるのは、俺にとって久しぶりのことだった。思い出したくもないが、あのキャリーバッグ事件の日以来である。本当に悲しい事件だった。俳優が他人を演じるのも、もしかすると、悲しい過去を一時でも忘れ去りたいがためなのかもしれない。
 室内には、宇佐美さんの姿もあった。どこか表情が冴えない。俺と虹子を部屋に迎え入れたときの、「レインちゃんは、この部屋久しぶりよね」という声にも、まったく明るさが感じられなかった。
 間宮さんに至っては、こちらを振り向こうとすらしない。部屋の隅っこで、何やら一人黙々と書をしたためている。「先生、いらっしゃいましたよ」と、宇佐美さんが声をかけると、ようやく手を止め、俺たちを振り返った。
「ああ、よく来てくれたね」
 やはり、力のない声音だった。
 要は、みな疲れているのである。ここ数日の騒がしさは、都会での暮らしをはるかに超えるものだった。原因は警察。そして、何といってもマスコミの存在が大きい。カメラやマイクを手にした人間は、日を追うごとに増え続け、ヘリコプターが上空を飛び回る様子も、今では決して珍しいことではなくなった。
 しかも俺には、幸助役を演じ続けるという、これ以上ないというほどの重責があるのだ。目の前に用意されたミルク。これ一つとってみても、果たしてあっさりと口をつけていいのだろうか。幸助という男は、ミルクが好きだったのだろうか。などと、いちいち周りの空気を読まなければいけないのである。
「ここまで来るの、大変じゃなかった?」
 お茶を一口飲んだ後で、宇佐美さんがそっと尋ねる。
「あ、大丈夫でした」
 虹子は、小さくかぶりを振り、「男の人たちが、ちゃんとガードしててくれましたから」と、ぎこちなく微笑んで見せた。
「まさか、ここまで大事になるとはねえ」
「でも、警察の姿は、あんまり見なくなりました」
「うん、そうね。前も言ったと思うけど、私たち、法に触れるようなことは、何もしてないんだし。後はもう、この馬鹿騒ぎをどう静めるかってことだけ」
 そこで、宇佐美さんの口からため息が漏れる。チラリと間宮さんを一瞥してから、「その、マスコミ対策が大変なんだけどね」と、苦々しく呟いた。
 座卓を間に話し合いを続けているのは、虹子と宇佐美さん二人だけである。間宮さんは、相変わらず書道に没頭し、俺は、相変わらずミルクを前に思案を巡らせている。
「今日、虹子ちゃんに、こうして来てもらったのは……」
「は、はい」
 宇佐美さんが、真剣な眼差しを向けたせいだろう。座布団の上で、虹子の背筋がピンと伸びるのがわかった。
「私に出来ることないかって、前に言ってくれたでしょ。あれ覚えてる?」
「覚えてます」
「そう、良かった。どうしても、虹子ちゃんの協力が必要になってきたの」
「はい。どんなことですか? 私に出来るようなことなら、喜んで」
 虹子は、戸惑い半分、期待半分といった表情で、宇佐美さんの答えを待った。
「お金。ずばり言って、今、お金が必要なの」
 そして、虹子の表情に、戸惑いだけが残った。
「もちろんそのお金は、ここを守るため、私たちの生活を守るためのものよ」
「で、でも……」
「マスコミの、あのエスカレートぶりを見ると、もしかすると今後は、弁護士やガードマンも必要になってくるかもしれない」
「でも、私……」
「こういう騒ぎに便乗して、私たちを理由もなく攻撃しようって考える人たちもいるの。被害者を演じて金儲けしようって人たちもね」
「う、宇佐美さん。私、決めたんです」
「え? 決めた? 何を決めたっていうの?」
 今度は、宇佐美さんが答えを待つ番だった。それは、間宮さんも同じらしい。いつの間にか手を止め、横目だけで虹子の様子をうかがっている。
「もう、あの人の、世話になるのやめようって、そう決めたんです」
 それが、虹子の答えだった。
 宇佐美さんと間宮さんとが、一瞬顔を見合わせる。どちらの表情にも、納得の色は浮かんでいない。
「ああ、それね。この間見たっていう夢の話でしょ」
「違うんです。あ、あれは、きっと夢なんかじゃないんです」
 虹子が激しくかぶりを振る。そして、訴えるような眼差しを宇佐美さんに向け、「私、思い出したんです。今まで、ずっと忘れていたことを」と、涙声になりながら続けた。
「あのね、虹子ちゃん」
 宇佐美さんは、いったん立ち上がると、すぐに虹子の隣へと腰を下ろした。片手をそっと延ばし、虹子の震える肩に添える。
「あなたの気持ちも、わからないわけではない。お金を要求するってことに、きっと後ろめたさを感じてたのね。虹子ちゃん、とってもやさしい子だから。そういう気持ちは、そういう気持ちで大事にしていてほしい。だけど、やっぱり夢は夢でしょ? 自分の父親は、そんなに悪い人ではない。そういう願望が、きっと夢になって現われたんだと思う」
 虹子の瞳から、ついに涙が流れ落ちた。「違うんです、違うんです」と、声にならない声で繰り返す。
「もしかすると、私たち、このまま潰されてしまうかもしれない。今この危機を乗り越えるには、どうしても虹子ちゃんの協力が必要だったんだけどね。ああ、残念だなあ。もうすぐだったかもしれないっていうのに。約束の地で再会できるのはね。私たちにとって、その日は、確実に近づいていた。私とあなたは、そこで本物の母と娘になり、そして、レインちゃんは、本物の幸助君として蘇る。そのはずだったっていうのに。もう少しでそうなれたっていうのに……」
 虹子はうつむいたまま、ただじっと宇佐美さんの話を聞くだけとなっている。今すぐにでも、激しく泣き叫び出すのではないだろうか。そんな危うさが全身から漂っていた。
 これほどの無力感を、俺はいまだかつて味わったことはないだろう。いくら人間を演じたつもりでいても、しょせん肉体は猫のまま。虹子をやさしく抱きしめてあげることも、気の利いたジョークで笑わせてあげることも、今の俺には何一つできやしない。
 やがて、俺の耳はその音をとらえた。
 すすり泣きが始まったかと思えば、あっという間にそれは号泣へと変化していった。しかも、野太い声で。
「ど、どうしてなんだ。虹子は、虹子はどうして、俺たちを見捨てるんだ」
 声の主は、虹子ではない。意外にもそれは、間宮さんが発したものだったのである。
「もうすぐ、君と再会できるんだったのに。ひ、人として、君に会えることを楽しみにしてたっていうのに。どうして、どうしてなんだ」
 泣き叫び続ける間宮さん。四つん這いの姿勢となり、目の前の半紙を、次から次へと狂ったように破り始める。
 信じがたい光景とはこのことだろう。虹子だって、もちろん目を丸くしている。あまりの驚きに、声も出せない、身体も動かせないといった風だ。
 ただ一人、宇佐美さんだけが違っていた。「大丈夫、大丈夫なのよ」と、子供をなだめるような口調で、素早く間宮さんのそばへと駆け寄る。
「俺なんて、もうどうでもよくなったんだ。に、虹子は、俺のことなんか、忘れてしまったんだ」
 嗚咽を漏らしながら、畳の上でもがき続ける間宮さん。その背中を、やさしくさすり続ける宇佐美さん。
 この二人、一体全体どうなっちまったってんだ? いくら金が必要だからといって、この騒ぎようはないぜ。これじゃあまるで、間宮さんが別人にでも変身しちまったみたいじゃないか。
 しかし、俺の混乱もそう長くは続かなかった。宇佐美さんの次の言葉で、俺はすべてを理解することとなったのである。
「幸助君、落ち着いて。大丈夫だから。虹子ちゃんが、幸助君のこと忘れるわけないんだから。きっとわかってくれるはず。虹子ちゃんは、きっと幸助君を救ってくれるはずよ」
 虹子がよろけるように立ち上がった。間宮さんと宇佐美さんのやり取りを見つめたまま、まるで何かに操られているかのように、ゆっくりと二人の方へ向かって歩を進める。
 しかし、二歩目を踏み出したところで、虹子の足はすぐに止まった。ミルクの入った皿を、ひっくり返してしまったからである。
 虹子の視線が、畳の上にこぼれたミルク、そして俺の方へと移動する。困惑の色をにじませる瞳。今この部屋で起きている状況を、その虚ろな瞳は、何一つ正確にとらえてはいないのかもしれない。
 そう。虹子は、まだ気づいていないのだ。二人のやり取りが、大根役者によるインチキ芝居だってことに。間宮って男が、とんでもないイカサマ野郎だってことに。

虹色日記

 “死”には、どんな意味があるんだろう。
 最近、気がつくとそんなことばかりを考えてる。もちろん、いくら頭を働かせたところで、RCなんかに答えを出せるわけがない。
 “死”には、どんな意味もないのかもしれない。“死”の先には、何もないのかもしれない。あるのは“無”だけ。あとはただ“何にもない世界”があるだけ。
 だけど、その“何にもない世界”というものが、どうしてもイメージできない。
 HAの葬儀のあと、RCは確かに死のうとしていた。あの夜、すぐにでもHAの後を追うつもりだった。死んだらどうなるのか。そんなこと何も考えずに、ただ生きるのをやめようと思った。もし、あのまま死んでいたら、HAとどこかで再会できたのかなあ。ああ、それもよくわからない。
 天国とか、地獄とかいうのも、やっぱりよくわからないなあ。良い人、悪い人、いったい神様はどう見分けるんだろう。百パーセント良い人、百パーセント悪い人なんて、絶対いるわけないのに。人の弱みにつけこんで、お金を要求するぐらいの罪なら、大目に見てもらえるのかな。
 それにしても、神様も神様だと思う。どうしてすべての人を救ってあげないんだろう。せめて、忠告ぐらいしてくれたっていいのに。それをやったら地獄行きだよとか、その程度なら、まあギリギリセーフかな、とかね。
 生まれてすぐ、病気で死んでしまうような子供には、少なくとも何の罪もないはず。だけど、神様は手を差し伸べようとしない。それはなぜ? 信じる者は救われるっていうけど、信じる時間さえ与えられていない人だっている。
 神様、一つだけでいいので教えてください。RCが死んだあとの世界、そこに、HAはいますか?
 皆さんの明日に、どうか虹色の橋がかかりますように!

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31 自殺が嫌い
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不倫のライセンス 25 いつまでも変わらないもの

25 いつまでも変わらないもの

 よちよち歩きのペンギンのおもちゃ。
 それを掌に乗せたまま、私はしばらくの間思案に耽っていた。頭の中のキャンバスは、いまだに絵筆を受け入れず、何かが足りない、何かが足りないと、ただ満たされぬ思いを訴え続けるばかりである。
 しかし、たった今、何かひらめきのようなものがあった。古い校舎と、ぜんまい仕掛けのおもちゃという組み合わせにである。これから描く絵の構成が、おぼろげながらもようやく形になりそうだった。
 巨大だが、やがて壊される運命にある校舎と、頼りない足取りだが、前進することをやめようとしないおもちゃのペンギン。作品のモチーフとして、この組み合わせ、この対比には、やはり大きな魅力がある。
「それ、気に入ったか?」
 その声に振り返ると、私の背後には巨大な影。いつの間にか、このおもちゃ屋の経営者、木之下智美がすぐそばまで来ていた。
「さっきから、何思いつめたような顔してんだよ」
「うん。まあ、ちょっとね……」
「わかった。昔、そいつに似たペンギンに、命を救われた経験があるんだろ」
「残念でした。これ見ながら、晩ごはんのおかず考えてたとこなの。今夜は、鳥の唐揚げにでもしようかなってね」
「野蛮人め。それ食うなよ。大事な商品なんだから」
 小さな店内、おもちゃの熊が叩くにぎやかな太鼓の音に、私と智美との笑い声が混ざり合う。他に客の姿はない。幼馴染みと無駄話を続けるのには、あまりに条件が揃いすぎていた。
 ふるさとの景色が、少しずつ変化していく中、いつまでも変わらないものも確かにあった。私にとってその象徴といえるのが、このおもちゃ屋、そして智美の存在だった。
「そういえば……」
 何かを思い出したというような口ぶりで、智美が、不意に店の外へと視線を向ける。学校帰りだろうか。そこには、ランドセルを背負った数人の子供たち。
「近いうちに、同窓会があるらしいんだ」
「それって、小学生時代のってこと?」
 私も、子供たちの姿を、ぼんやりと目で追いながら言った。
「ああ。あの学校、もうすぐ廃校になるだろ。だから、同窓会というより、お別れ会みたいな感じになるんじゃないのか」
 子供たちの姿が、私と智美の視界からゆっくりと消えていった。
「入ってくれなかったね、お店」
 私が呟くと、隣から智美の苦笑いが聞こえてきた。
「最初っから、子供なんて当てにしてねえよ」
「へえ。ここ、いつからおもちゃ屋さんじゃなくなったの?」
「ウチの店は、大人をターゲットにしてんだ。時代だよ、時代。子供の数がどんどん減ってるっていうのに、いつまでも子供相手にってわけにはいかないだろ。こういう時代なんだよ」
 そう話す智美の横顔が、私の目にはどことなく寂しげに映った。
 改めて店内を見渡してみる。確かに智美の言葉通りではあった。大人が見て、思わず表情が緩んでしまうような、懐かしさを感じさせる商品の数々。ここなら、一日中いたって飽きることがない。とそう思えるのは、やはり私がもうすぐ三十を迎えるせいなのだろう。
「あれ、もらおうかなあ」
 私の指差す先にあるのは、大きなリボンを付けたうさぎのぬいぐるみ。高い商品棚、その一番上で、彼女はどれほど長い時を過ごしてきたのだろう。と、つい勝手な想像を働かせてしまう。
「こういうのって、赤ちゃんが喜びそうじゃない?」
 智美から手渡されたぬいぐるみを、私は胸にギュッと抱きしめて見せた。
 何かを訝るような智美の表情。その視線の先は、私の腹部へと向けられていた。
「違う違う。私の子供ってことじゃなくて……」
 誤解を正そうと、慌ててかぶりを振る。
「私の知り合いがおめでたなの。出産はまだまだ先なんだけどね」
「なんだ、そうか……。それって、瞳子ちゃんのことでもないよなあ」
「違うよ。瞳子まだ独身だもん。泉美ちゃんっていう、前に勤めていた職場で一緒だった子。この大きなリボン見てたら、急に彼女のこと思い出しちゃって。出産祝いに、これいいんじゃないかなと思ってね」
 ぬいぐるみを包装してもらっている間、私はポケットからデジタルカメラを取り出し、いくつか気になる商品の写真を撮っていた。
 店の奥から、智美の妻、真琴の声が聞こえてきたのはその時だった。
「銀行、どうしたの? 約束してたの今日なんでしょ?」
 不機嫌そうな顔が、半開きになったドアから覗いている。私には見向きもせず、智美に向かって、「お店なんていいから、銀行行く時間、もうとっくに過ぎてるじゃない」と、厳しい口調で続けた。
 一瞬目が合い、私は笑顔で頭を下げた。しかし、次に耳に届いたのは、挨拶の言葉ではなく、勢いよく閉められるドアの音だけだった。
「悪いな」
 智美が、ばつの悪そうな表情で言う。
「ううん。私の方こそごめん。ちょっとお邪魔しすぎたみたい」
「それより、同窓会。せっかくだから参加してみないか?」
「え? ああ、それね。うん、どうしようかなあ……」
「まあ、考えといてくれよ。じゃあ、これな」
 包み終えた商品を受け取る。代金を支払い、店の出口へと向かいかけたところで、私は足を止めた。
「ペンギン」
「え?」
「そっちがメインだったはずなのに……」
 苦笑する私を見て、智美もすぐに気がついたらしい。踵をかえしたかと思うと、素早くぜんまい仕掛けのおもちゃを手に戻ってきた。
「それ、いくら?」
「いいから、持ってけよ。俺からのプレゼントだ」
「駄目よ、そんなの。商売にならないじゃない」
「いいって言ってるだろ。こんなことでもめてたら、また怖い顔したやつが出てくるだろうが。さっきの、あの頭の角、お前だって見ただろ?」
 半ば追い出されるようにして、私はその店を後にした。
 少し歩いたところで、何気なく後ろを振り返ってみる。もともとは、智美の父親がやっていたおもちゃ屋。やはりそこにも、“老い”というものが、はっきりと見て取れた。余計なことだと知りつつも、どうしても経営状態のことが気になってしまう。
「お別れ会かあ……」
 ため息とともに、ポツリと呟きが漏れた。“別れ”という言葉から、真っ先に私が連想するのは、やはり“離婚”の二文字だった。
 敏明の顔が脳裏に浮かぶ。しかし、それは“ロッキーのテーマ”によって、一瞬でかき消されることとなった。
 その音源を、急いでポケットから取り出す。電話の相手が、礼治であることはもうわかっていた。
『来週の試合までには、戻って来てくれるんスよね?』
 いきなりの質問。いや、その口調は、質問というよりも懇願に近い。
 黙っている私に、礼治はさらに早口で続けた。
『駄目っスか? セシルさん、駄目なんっスか? 試合も、試合も見に来てくれないん……』
「ちょ、ちょっと待ってよ。私にだって、いろいろ都合が……。ち、父の具合が、あんまりよくないの。歳が歳だから、もうあっちこっち弱っちゃって……。やっぱり、歳取るって大変なのね」
 ヘタな言い訳を並べ立て、礼治との通話を無理矢理に打ち切る。携帯電話をポケットに収め、顔を上げた私の視界に、今度はいきなり父の顔が飛びこんできた。
「パ、パパ。驚かさないでよ」
「お前が勝手に驚いてるだけだ」
「う、うん。まあ、そうなんだけど……。それよりパパ、どこ行くつもり? 買い物?」
「そうだ。これから、若返りの薬を買いに行くところだ」
 父の背中を、私は笑顔で見送った。もちろん、作り笑顔でである。もちろん、嫌な汗を大量に滴らせながらである。

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雨と虹の日々 29 テレビが嫌い

29 テレビが嫌い

 俺はテレビが嫌いだ。
 もちろん、映像によっては興味をそそられることだってある。鳥や魚の群れを目にすれば、自然と心は踊り出し、キャットフードのCMを見れば、勝手に胃袋のやつが騒ぎ出すってもんさ。
 しかし、それらはいずれも遠い世界の現実。しかも、あっという間に姿まで変えちまう。魚の群れは、車の渋滞シーンに。キャットフードは、チョコレートのCMに。こちらの希望などお構いなしに、テレビは次から次へと垂れ流し続けるばかりだ。腹の足しにもならない映像を。手の届きようもない幻を。
 虹子も、テレビはあまり好きではないのだろう。たまに、政治家連中がたくさん出てくる番組を見るぐらいだった。確か、国会中継とか何とかいうやつである。
 今思えば、あれだって、別に好きで見ていたわけじゃないはずだ。おそらくは、自分の父親の姿を確認していたのだろう。どんなでたらめを口にしているか。どんな間抜け面をしているか。
 そんなテレビ嫌いの俺と虹子だが、今日ばかりはいつもとは事情が違っていた。朝っぱらから、揃ってテレビの映像に釘付けなのである。テレビとは言っても、それは虹子の小さなパソコンの画面のこと。パソコンにそんな機能があることを、俺は今日初めて知った。
 しかし、そんなことぐらいで驚いている場合ではなかった。本当に驚くべきは、その映像の中身なのである。
 丘の上から眺めるいつもの景色。その中には、もちろん俺と虹子の家も確認できる。カーテンで遮られているため、さすがに室内をうかがうことまではできない。
 見慣れた景色であっても、やはりそれは奇妙な映像だった。ただの幻とは違う。第二の現実とでも言えばいいのだろうか。もしも俺が今、カーテンの隙間から顔を出そうものなら、おそらく虹子は、テレビを通して俺の姿を発見することになるのだろう。
『ご覧いただいてわかるように、ここからですと、同じような形の丸太小屋が、いくつも確認することができます』
 画面の中では、マイクを持った厚化粧の女が、深刻そうな口ぶりで説明を続けていた。
『どの部屋も、窓にはしっかりとカーテンが引かれ、ここからでは、中をうかがい知ることはできません。カーテンの色にも、何か決まりがあるんでしょうか。いずれも黒で統一されているようです』
 女は見落としている。俺の家のカーテンには、小さな魚のイラストが描かれているということを。
『朝から取材を続けてるんですが、いまだに人の姿を確認することができません。警察官は別ですよ。ここで暮らしているはずの若者たち、という意味です。彼ら、彼女らは、いったいどこへ消えてしまったのでしょうか。カーテンの向こう側で、みな息をひそめているだけなのでしょうか。こうして見ていると、何か不気味な印象さえ感じてきます』
 女は気づいていない。強い日差しで化粧崩れした顔の方が、よっぽど不気味だということを。
『田所さん、信者の若者たちは、普段そこで暮らしていると考えていいんですか?』
 今度は別の女の声。ただし、映像には姿を見せない。テレビを見ていると、たまにこういう場面に遭遇することがある。特権を持った一部の女は、スタジオとやらで、ただのんびり椅子に腰をかけているだけでいいらしいのだ。
『おそらくは、そうであろうということぐらいしか、今のところは言えません。何しろ、警察発表の予定が、だいぶ遅れていまして。それに……』
 田所と呼ばれた女の映像は、ここで唐突に切り替えられた。特権を持たない女の、悲しき宿命ってやつだ。
 パソコン画面に、今度はCMが連続して映し出される。
『あなたは、一週間後に気がつくはずです。なぜ、こんなにも女性にモテるようになったのだろうかと。なぜ、こんなにも娘に好かれるようになったのだろうかと。さあ、薄毛とは今日でお別れです。あなたを変えるのは、このかつらだけ!』
 二週間後には、きっと別のことにも気がつくはずだ。なぜ、こんなまがい物にすがりついてしまったのだろうかと。薄毛のいったい何が悪いのだろうかと。
『全米ナンバーワンヒット映画。ついに日本上陸。死んだはずの恋人は、私の前に再び姿を現した。しかも、ワニの体を借りて。<恋人はクロコダイル>。大爆笑公開中!』
 大爆笑してる場合じゃないだろ。虹子には、絶対に見せられない代物だぜ。
『あなたの大切な猫ちゃんは、最近太り気味になってませんか? 猫にだって、ダイエットは必要。猫にだって、野菜は必要。八種の野菜をブレンドしたこの<緑の猫まんま>で、あなたの猫ちゃんは、長生き間違いなし!』
 俺は改めて思った。テレビってのは、ろくでもない情報しか流さないのだということを。
『ここから先は、スタジオの皆さんとともに話を進めていきたいと思います』
 悪夢のようなCMが終わり、今度は明るい室内へと画面が切り替わる。複数の人物、その中心にいるのが声の主だ。先ほどの、姿なき特権階級の女である。『何か動きがありましたら、すぐに現場の方とつなぐ予定でいます』と、決勝崩れのいっさいない涼しげな顔で続ける。
「えっ? う、嘘でしょ……」
 虹子が、ここで突然声を上げた。何か重大な発見をしたらしい。前屈みになって、パソコン画面を覗きこむ。膝の上にいた俺は、当然たまったものではない。押し潰される前に、大慌てでその場から脱出した。
「ど、どうして、伯父さんが……」
 虹子の影になって、俺には画面を確認することができない。どうして、どうしてと、虹子の動揺は激しさを増す一方だ。
 “伯父さん”とは、あの酔っぱらいの伯父さんのことだろうか。もしそうだとすれば、虹子の驚きようもうなずける。それにしても、そんなことがあり得るだろうか。あの伯父さんが、テレビに出て、どんな芸当を披露しようってんだ? 虹子の単なる見間違いとしか思えない。
 弁護士、犯罪学者、ジャーナリストと、司会役の女が、出演者を順番に紹介していく。元政治家、元アイドル、元オカマバーのママという、どうでもいいような連中が続き、そして最後に、被害者の会代表という肩書で、一人の男が紹介された。
『どうもどうも。いやあ、スタジオってのは、意外と狭っこいもんなんですなあ』
 伯父さんの声だった。虹子が元の姿勢に戻ったことで、その映像もはっきり確認することができた。
『ええと。今回は、被害者のご家族ということで出演していただいたんですが、お嬢様の行方が、わからなくなってどれぐらいに……』
 司会の女が、やや戸惑ったような声音で番組を進行していく。
『お嬢様なんかじゃねえですよ。姪っ子だ。妹の娘だよ。まあ、俺にとっては、我が子同然。お嬢様ってのも、まんざら間違ってもいねえけどよお。そうはいっても、情報は性格じゃねえと、こういう番組としては、やっぱりまずいんじゃねえかな。ところで、もうレコードは出さねえんですか?』
 伯父さんが、周りをキョロキョロしながら言う。最後の質問は、元アイドルに対してのものらしい。
『し、失礼いたしました』と、司会の女が、慌てて資料らしき紙に目を走らせる。
『今のところ、特に予定は……』と、元アイドルが、助けを求めるような視線を隣に向ける。
『レコードって言葉、あたし、久しぶりに耳にしたわ』と、元オカマバーのママが、その隣席で甲高い声を響かせる。
 そんな様子を、虹子はただ呆然と見つめるだけだった。
『先ほどご覧いただいた教団施設には、今現在も、多くの信者が共同生活していると考えられていますね』
『そうですね。人数を把握するのは難しいんですが、今のところ数十人単位、百は超えてないと思います。特に、二十代の若者が中心となって……』
 ジャーナリストと紹介された男と、司会の女とのやり取りが続いている間も、画面の隅では、伯父さんが相変わらず落ち着かない態度を見せていた。不満げな面持ちで、何やら一人ぶつぶつと呟いているのがわかる。
『入信のきっかけとしては、やはり書道教室というのが多いんでしょうか』
『必ずしもそうではないようなんです。入信してから書を学ぶというケースもあるようでして……』
『うちの姪っ子が、妙な服を着てやがったんだ』
 伯父さんが、いきなり大声で会話に割りこんできた。
『みょ、妙な、服といいますと?』
 困惑気味に尋ねる司会の女。それが合図だったかのように、伯父さんの顔がアップになった。
『詳しいことは今は言えねえけど、うちの姪っ子は音楽やってたんだ。バンドってのか? あれで、コンサートすることだってあるんだぜ。まあ、詳しいことは言えねえがな。あれだ、あれ。プライバシーってのがあるからよお。でも、結構な腕前なんだぜ。小さい頃からピアノやってたからな。そもそも、俺が妹に言ってやったんだ。娘に、何か習い事させた方がいいってな。別に、恩着せがましいことを言うつもりねえけどよ。あれは、やっぱりいいアドバイスだったんだろうぜ。何しろ、性格が暗くて、人前に出るのが苦手な……』
『あの、あのですね。その、先ほど言われた妙な服というのは?』
『ああ、そうそう。それだったな。こりゃあ申しわけない。テレビ番組には尺ってもんがあるからな。こう見えても、マスコミには何人か知り合いがいるからよお。その辺の事情ぐらいは、ちゃんと……』
『服のことを教えてください』
『服。そう。妙な服ってのは、ステージ衣装のことなんだ。コンサートで着るやつだな。ある人物、もちろん名前は言えねえが、その人物から、コンサートのビデオを見せてもらったんだ。そこで見つけたってわけよ。妙な服、いや、正確には、妙な印の付いた服だな』
『妙な印というのは?』
 司会の女が先お促す。そこに、『ビデオって言葉、あたし、久しぶりに耳にしたわ』と、元オカマバーのママの声が重なる。
『ビデオじゃなくて、あの、レコードを小さくしたみたいなやつ、あるだろう。あれのことだ』
 ママを一睨みすると、伯父さんは司会の女の方へと向き直った。
『その印の元になったのが、有名な書道家の字だって、っ広道から聞いたもんだからよお。知り合いのマスコミにも、すぐに確認してもらったんだ。そこでだ。そこでようやく、はっきりしたわけさ。俺の大切な姪っ子と、頭のいかれた宗教団体とのつながりをだな。そこで俺は、被害者の会とかいう連中の……』
 伯父さんの姿は、そこで突然見えなくなった。番組が終了したからではない。虹子がパソコンの蓋を閉めたからである。
 その後、しばらく放心状態だった虹子も、やがては立ち上がり、いつもの準備に取りかかった。つまりは、間宮さんが書いたという本を読むこと。間宮さんから教わったという書を練習することである。
 筆を手にしているときの、真剣な虹子の表情を見ると、書道もそう悪いものではないような気がする。テレビによって乱された心を、落ち着かせるにはちょうどいいのかもしれない。
 もし、嫌な記憶までをも、黒く塗りつぶすことができるってことなら、俺だって二、三本筆を持ちたいぐらいだぜ。今真っ先に塗りつぶしたいのは、もちろん<緑の猫まんま>の記憶だ。

虹色日記

 今日は、RC、あんまり書く元気が残ってません。一つどうしても言いたいことがあったので、そのことに関してだけ少し触れますね。
 いただいたコメントの中に、いくつかマスコミ関係者のものがありました。その内容は、どれも似たようなもの。つまり、取材依頼ですね。ここでの暮らしぶりを知りたいってことらしいんですけど、そんなのは表向きのことでしかない。それぐらいRCにだってわかりますよ。
 何か、良からぬ計画を立てているんじゃないか。きっとそう思ってるんでしょうね。今日のワイドショーでもそんな感じでした。最初っから、歪んだ視点でしか物を見ていない。テレビを見て、改めてそのことがわかった。
 取材については、もちろんお断りです。あなたたちは、本当にかわいそうな人たちですね。約束の地にたどり着くことができないのですから。汚れた魂は、決して救われることがないのですから。
 皆さんの明日に、どうか虹色の橋がかかりますように!

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30 演技が嫌い
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不倫のライセンス 24 老いていく町

24 老いていく町

 毎朝のランニングには、二つの目的があった。
 一つは、もちろん健康のため。そこには“心の健康”も含まれている。私にとって、この“走る”という単純作業には、精神的安定を得る上で、ジムでのトレーニングと同様の効果があった。
 もう一つの目的とは、これから描く作品の材料を集めることである。気になる物を見つけては、いったん足を止め、その映像をデジタルカメラへと収めていく。シャッターを切るごとに、作品イメージも少しずつ形になりつつあった。
 老いていく町。そんなフレーズが頭に浮かぶ。久しぶりに描く作品は、私にとってあまり楽しいものにはならないだろう。しかし、それでいいと思う。今心をとらえた物。それを描きたかった。それこそが、私自身を描くこと、私自身を見つめ直すことにつながるはずだから。
 私の視線は、前方にある古い木造建築をとらえていた。ランニングを中断し、トレーニングウエアのポケットからカメラを取り出す。
 それは私の母校。早朝ということもあって、まだ子供たちの姿は見当たらない。そのせいもあるのか、今日は一段と寂しげに映る。来年度で廃校になるという話は、以前から聞いていた。これから先の運命を、この学校自身も気づいているのではないか。私にはそんな風に見えた。
 小学生の頃に、あまりいい思い出はない。いじめを受けていたのも、両親が離婚したのもこの時期だった。早くこの学校を卒業したいとばかり考えていた。早く家を、早くこの町を出て行きたいとも。
 様々な記憶が蘇る中、私は夢中でシャッターを切り続けた。

「敏明君から、電話があったぞ」
 父の言葉に、私は一瞬絶句した。ランニングを終え、これからシャワーを浴びようとしたところである。運動後の心地良い疲労感は、あっという間にただの疲労感へと変わってしまった。
 しばらくは実家で過ごします。敏明にはメールでそう知らせてある。とはいえ、今のような状況では、夫の方から父へ連絡は取りにくいはず。そう決めつけていただけに、たった今耳にした言葉を、素直に受け入れることができなかった。
「そ、それで……、敏明さん、何だって?」
 恐る恐る尋ねる私に、「妻のことを、よろしくお願いしますだとか言ってたな」と、ぶっきらぼうな父の答え。
「それだけ?」
「それだけだ」
「嘘。もしもしぐらいは、普通言うでしょ」
「そうだな。もしもしぐらいは言っていたな。危うく、重要なことを忘れるところだった」
 父は面倒くさそうに言うと、踵を返し、キッチンの方へと歩き去った。「あ、パパ。朝食は私作るから、ちょっと待ってて」と、慌ててその背中に声をかける。
 ここで世話になっている間は、食事の支度ぐらいはしよう。それも、私の立てた計画の一つだった。
 大急ぎでシャワーを浴び、着替えを済ませキッチンへ。そうしている間も、先ほどの電話の件で、私の頭の中は混乱していた。夫と父との間で、本当はどんなやり取りがあったのだろうと、ついつい勘ぐってしまう。
 もし離婚するということになれば、いつかは父にもちゃんと説明しなければならないだろう。いや、それは父に対してというだけで済む話ではない。少なくとも、結婚式に来てくれた人たちへの報告義務はあるはず。そうとわかっていても、やはり今の私には荷が重すぎる。正式に離婚が決まるまでは、正直誰にもそのことに触れてもらいたくなかった。
 私と敏明の似顔絵が描かれたペアのマグカップ。
 ふと頭の中に、式の出席者に配った引き出物の映像が浮かぶ。最悪だ。今思えば、これほどひどい引き出物はない。出来ることなら、一軒一軒の家へ忍びこみ、すべて盗み出してしまいたくなるほどである。
「おい、セシル。さっきから焦げ臭いぞ」
 その声に、私は慌てて手元へと視線を落とした。フライパンの中の黒い物体。間に合わなかった。確かこれは、一般的に“目玉焼き”という名で呼ばれている料理だったはず。
「おかしいなあ。これ、最初から黒かったみたい。もしかして、カラスの玉子?」
 ヘタな言い訳を口にしながら、チラリと父の反応をうかがう。どうやら、娘の手料理はあきらめたらしい。眉間に深い縦皺を刻み、無言でクロワッサンにかじりつく人間というのは、たいていが娘の手料理をあきらめた人間である。
 これもきっと敏明のせい。心の中で八つ当たりしながら、私もサラダとクロワッサンだけの朝食を済ませた。

 作品のモチーフになりそうな写真もだいぶ集まってきた。
 老いていく町。そのテーマにふさわしいといえば、やはりあの小学校ということになるだろうか。プリントアウトした母校の写真と私との間で、先ほどから長い睨み合いが続いていた。
 これだけでは何かが足りない。そんな気がする。もう一つ印象的なモチーフさえあれば、木造校舎との組み合わせも生きてくるはず。老いていくイメージとは対照的な何か。この作品を描く上で、それがどうしても不可欠に思える。
 とりあえず、小学校のデッサンから始めることにした。思案してばかりいても、なかなか前に進むことはできない。
「しばらく描いてなかったんだろうな」
 私のスケッチブックを覗きこんでいた父が、ため息混じりに呟いた。
「しょうがないじゃない。主婦だもん。忙しいんだからね。主婦っていろんな……」
「手を止めるな」
「あ、うん。わかってる」
 ぶつぶつと不満を漏らしつつも、私は鉛筆を持った手を動かし続けた。デッサンの腕が落ちているのは自覚している。かつて在籍していた女子高の美術部。その頃と同じ技術を、この手に蘇らせるのは容易なことではないだろう。とにかく今は、描いて描いて描きまくるしかない。
「最初から強く描きすぎだ」
「うん」
「もうちょっと、肩の力を抜いた方がいい」
「うん」
「デッサンなんだから、怖がらずにもっと大胆に鉛筆を走らせるんだ」
「うん」
 こうしていると、十代の頃を思い出す。作品制作に夢中になっていたあの頃。絵を描くことで、嫌なことを忘れようとしていたあの頃。そして、私にとっての芸術とは、寡黙な父との、数少ないコミュニケーション手段の一つでもあった。
「ねえ、パパ……」
 手を止めず、後ろを振り返らず、私はそっと囁いた。
「聞きたいことがあるんだけど」
「何だ?」
「離婚って、やっぱり大変だった?」
「もう、覚えとらん」
「どっちが、先に言い出したの?」
「それも忘れた」
「原因は、何だったの?」
「さっきから、愚問ばかりだな」
 愚問だということぐらい承知の上である。答えを聞いたからといって、過去を変えることなどできない。私には十分すぎるほどわかっている。それでも知りたかった。今だからこそ、父の口から聞きたかった。
「ちょっと、買い物に行ってくる」
 一言言い残して、父は足早にアトリエを出て行った。
 いつもそう。父は昔からそうだった。都合が悪くなるたび、すぐにその場から逃げ出してしまう。決して現実と向き合おうとしない。それはまるで……。
 そう。それはまるで、私自身の姿を見ているかのようだった。

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25 いつまでも変わらないもの
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雨と虹の日々 28 片思いが嫌い

28 片思いが嫌い

 俺は片思いが嫌いだ。
 昔、一度だけ一目惚れしたことがあった。ふわふわとした真っ白な毛並。遠くを見つめる寂しげな瞳。そのメス猫には、俺の心を落ち着かなくさせる魔力みたいなものがあった。彼女見たさに、よくその家の庭を横切ったもんさ。
 あの頃は俺も若かった。窓ガラス越しに、たまたま彼女と目が合うようなことがあれば、もうそれだけで、歩き方までがぎこちなくなっちまうほどだった。もしかしたら、彼女も俺のことを? そんな思いを抱いたこともあったっけ。
 だが、別れは突然やって来た。窓越しに見るその日の彼女の隣には、もう一匹別の猫が寄り添っていたのである。大きな身体をしたオスの白猫だった。
 俺はすぐに悟った。彼女がたまに見せるあの視線。あれは、恋だの愛だのといった代物なんかじゃなかった。あれは、宿無しの猫に対する憐れみ。おのれの勘違いに気づかぬ猫への蔑みだったのだ。
「レイン、ごはんだよ」
 虹子が声をかけてきた。窓辺の方からである。俺をそちらへ誘導するかのように、手にした器を、指先でコツコツと叩いている。
「どうしたの? こっち、日当たり良くて気持ちいいのに」
 どうしたもこうしたもない。幸助のギターのそばが、今日からの俺の定位置なのだ。
「そこで食べたいってこと?」
 小首をかしげつつも、虹子の表情はどこかうれしそうにも見える。やはりそうなのだ。彼女の瞳に映っているのは、俺ではなく、幸助の幻なのだ。
「あんまり、周りにこぼさないでね」
 器が俺の前に置かれた。言われた通り、こぼさないように慎重に口をつける。幸助という男は、食事のマナーがきっと良かったのだろう。カリカリが好きだったかどうかはわからないが。
 間もなくして、ドアにノックの音がした。
「今、先生から話聞いてきたとこなんだけど……」
 宇佐美さんだった。いつものような穏やかな笑みはなく、なぜか深刻そうに眉根を寄せている。
「結構な騒ぎだったみたいね」
「そうなんです。私も、帰って来てびっくり……。あ、私、昨日はちょっとここ離れていて」
「うん。それも聞いた。驚いたでしょ?」
「はい。何が何だかわからなかったし……。というより、今でも、まだよくわかってないんですけど」
 どうやら、昨夜の騒動のことについてらしい。そういえば、パトカーのサイレンが、ずいぶん長い間鳴っていたっけ。
「結局は、何でもなかったの。こことは関係ないってこと。その容疑者……。今朝のニュースは見た? 発電所に侵入したっていう男の事件」
 うなずく虹子を見て、宇佐美さんは、「その犯人っていうのが、昔、先生の弟子だったことがあったってわけ」と、ため息混じりに続けた。
「教室の方は、お休みだって聞いたんですけど」
 虹子がお茶の準備をしながら言った。
「うん。しばらくはそうみたい。それから、あんまり外へも出ないようにね。どうやら、マスコミの人間も、何人かウロウロしてるみたいだから」
「それらしき人、私も見ました」
「ホント嫌な連中。虹子ちゃん、落ち着かないと思うけど、少しの間我慢してね」
「はい。でも、ちょうど良かったかも。最近、あんまりレインのこと、かまってあげられなかったから」
 二人の視線が、突然俺の方へ向けられた。慌てて器の周りを確かめてみる。もちろん、カリカリがこぼれていないかどうかの確認である。
「ちょっとこぼしちゃったね」
 虹子が苦笑する。確かに、ちょっとこぼしちゃっていた。ほんのちょっとだ。前足で急いで隠してみたが、間に合わなかったらしい。
「今朝からずっとなんですよ。なぜか、ギターのそばから離れないんです」
「やっぱり、虹子ちゃん、ここへ来たのが正解だったのね」
 二人の顔色をうかがう限り、俺の食事のマナーに大きな問題はなさそうだった。そりゃそうだろう。幸助だって、ちょっとぐらいこぼすこともあったはずだ。カリカリが好きだったかどうかはわからないが。
「宇佐美さん、あ、あの……」
 何かを言いかけたようだが、虹子の口からなかなかその続きが出てこない。表情もやや曇りがちになっている。
「どうしたの?」と宇佐美さん。手にしていた湯呑み茶碗を盆の上へ置き、心配そうに虹子の顔を覗きこむ。
「ネットでも、調べてみたんです。今回の事件のこと」
 宇佐美さんには、もうそれだけで、虹子が何を言わんとしてるかの見当がついたらしい。「ああ、そういうことね」と、再び湯呑み茶碗を手に取った。
「ここのこと、いろいろ書いてあって、先生のことも……」
「そうでしょうね」
「もちろん、ネットの情報だから、いろいろと嘘もあると思うんですけど……」
「そうでしょうね」
「は、はい。それで……」
 徐々に小さくなっていく虹子の声に、宇佐美さんの大きなため息が重なった。
「私、いちいちそういうのまでチェックはしてないんだけど、だいたいどんなことが書いてあるかぐらいは想像がつく。どうせ、怪しげな集団みたいな書かれ方してるんでしょ? 過去の裁判記事なんかも載ってるのかな。今朝のニュースでも、しつこく取り上げてたからね。言っておくけど、私たちが負けた裁判は、今までに一つもないのよ。ここの土地だって、きちんと譲り受けたものだし、先生の書作品だって、だまして売ってるわけじゃない。物の価値がわからない人たちが、勝手に騒いでるだけなの。魂を救済することの意味を理解できない人たちが、先生を悪人に仕立て上げようとしてるだけなのよ」
 興奮気味にしゃべり続ける宇佐美さんを、虹子はただ呆然と見つめるしかない様子である。
「あなたはどちらを信じるの? 先生の教えなのか。それとも、悪意に満ちた愚者の言葉なのか。こんなこと、本当は言いたくなかった。虹子ちゃんなら、もうとっくにわかってると思ってたから。心配するのはわかるけど、それでもやっぱり残念だなあ。今すごく悲しい。虹子ちゃんが、他人の言葉に左右されちゃうなんて。虹子ちゃんに、わかってもらえてなかったなんて……」
「わ、わかってます。私、ちゃんとわかってるつもりです」
 虹子が激しくかぶりを振る。そして、震える声で続けた。
「私に、何か出来ることないかって、ただ、そう思っただけなんです。ここで暮らすようになってからも、何だか、私、お世話になってばかりいるし。それに、先生のことが、他の人たちに誤解されたままっていうのも、すごく悔しい」
「誤解ねえ……」
 宇佐美さんがポツリと呟く。表情には穏やかさが戻っていた。
「そんなに長くは続かないと思う。やがて誤解は解け、それに代わって、今度は大きな後悔に苦しむことになる。そういう人たちはね」
「先生の力で、もっとたくさんの人を救ってあげることはできないんですか?」
「それは無理よ。裁くのは先生じゃないんだから。先生は、ただ知っているだけ。これから先どうなるかをね」
 二人のやり取りは、そこで一段落ついたようだった。内容はさっぱりわからなかったが、そう悪い話ではなかったのだろう。虹子の表情には、はっきりと納得の色が見て取れる。
「また、ゆっくり話しましょ。私、しばらくはここへとどまるつもりだから」
 玄関へ向かいながら、宇佐美さんがそう言うと、虹子は、「えっ、そうなんですか?」と、うれしそうに声を弾ませた。
「約束の地で、再会できますように。幸助君もね」
 ここで流行っているらしい言葉を最後に、宇佐美さんは部屋を出て行った。“幸助君もね”の部分は、はっきりと俺に向かって発した言葉だった。どうやら、宇佐美さんまでもが、俺のことを幸助だと思いこんでいるようである。
 かつて片思いしたあの白猫は、今頃どうしてるだろう。もしも、必死に人間を演じようとしている今の俺を見たとしたら、やはりあのときと同じように、憐れみと蔑みの眼差しを俺に向けることになるのだろうか。

虹色日記

 嫌な夢を見ました。目覚めてみると全身汗びっしょり。これは、ちょっと不安な夜を過ごしてしまったせいなんでしょうか。それとも、ただ単に長旅で疲れていたせい? なぜか、どちらでもないような気がするんです。
 夢の中のRCは、まだ幼い女の子でした。何歳ぐらいだったんだろう。たぶん、うまくおしゃべりもできないぐらいの年齢だったんじゃないかな。
 見覚えのあるその部屋は、昔ママと二人っきりで暮らしていたマンションです。小さな布団の中には、小さなRC。だけど、寝てるわけじゃないんです。目をつぶり、寝息をたてているのは、ママに怒られないため。ママを困らせないためです。
 責任、お金、あの子、マスコミ、裁判……。
 聞き耳を立てていると、そんな言葉が途切れ途切れに聞こえてくる。電話をしているママの声です。そして、その相手はパパ。まだ一度もあったことのないパパ。なぜか、そのことははっきりとわかるんです。
 それから、はっきりとわかることがもう一つ。ママがパパを脅迫してるってこと。しかも、RCのことを武器にして。
 そっと薄目を開けて確認してみると、ママがすごく嫌な笑みを浮かべていた。声には激しい怒りがあるのに、なぜか、口元だけが変な形に歪んで見える。そんな表情が、あの伯父さんにすごく似ていた。
 夢の内容はこれでおしまい。だけど、やっぱりこれはただの夢じゃないと思う。突然蘇った古い記憶。どうしてもそんな気がする。もしそうだとすると、今まで抱いていたパパのイメージって、いったい何だったんだろう。
 パパはずるい人間。パパは、私たちを捨てて逃げた。あなたのパパは、私たち親子に対して、一生かけてでも償わなければいけない。
 それが、ママから聞いた言葉。それが、ママから繰り返し教えられたパパのイメージ。本当にそうだったんだろうか。そのあたりが、よくわからなくなってきてるんです。
 人の記憶って、すごく曖昧なものだと思う。勝手な思いこみや、都合のいい想像が、いつの間にか事実に置き換わってしまうってこと、絶対ありますよね。特に、テレビを見てるとそう感じるんです。どんな人間でも、ニュースの取り上げ方次第で、善人にも悪人にも見えてくる。そうじゃないでしょうか。
 RCの尊敬する先生が、今、まさに餌食にされようとしています。マスコミに。そして、そのマスコミに、無抵抗に操られていく哀れな民にも。
 ブログを見てくださっている皆さんから、たくさんのコメントをいただいています。ニュースを見て、もしかしたらRCはここに? とそう気づかれたんだと思います。ほとんどが、RCのことを心配してのコメントでした。ありがとうございます。でも、RCとしては、逆に皆さんのことが心配です。
 時に偉大な人物は、誤解を受け、迫害され、最悪の場合は、命まで奪われることさえある。それは歴史が証明しています。皆さんには、その加害者になってもらいたくない。自らの魂を、汚すようなまねだけはしてもらいたくない。それが、今のRCの切なる願いです。
 皆さんの明日に、どうか虹色の橋がかかりますように!

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不倫のライセンス 23 少女との再会

23 少女との再会

 笑顔の母と、しかめっ面の父。
 目覚めた私の目に、最初に飛びこんできたのがそれだった。小学生の頃に、私が描いた絵である。
 高校を卒業してから、家を出て行くまでの十八年間、私の生活の中心にあったのがこの部屋。智美とは、散々ふざけ、お腹が痛くなるほど笑い合った。瞳子とは、芸術のこと、男の子のこと、そして将来のことについて語り合った。悲しみに、一人閉じこもって泣いたのもこの部屋だった。
 ぼんやりとあたりを見渡してみる。背伸びをし、真剣な表情で母親の耳元で内緒話する女の子。脱ぎ捨てられた真っ赤なドレスの裾から、こっそり小さな顔をのぞかせる黒猫。玉子を間に、睨み合いを続けるニワトリとコック。いずれも私の手による作品だ。読書をする瞳子の姿もあった。一度だけ、お互いをモデルに描いたときの絵である。記憶が蘇るとともに、思わず頬が緩む。
 置時計に目が止まり、私の笑顔はたちまち苦笑へと変わった。急いで上半身を起こす。午前十時を過ぎたところである。こんなはずではなかった。こんなだらけた生活をするために、わざわざ実家へ帰ってきたのではなかったのだ。
 まず、朝六時には目覚め、さわやかな風を感じながらの早朝ランニング。予定ではそのはずだった。実際の私といえば、決して早朝とは呼べない時間に目覚め、お酒臭さを身にまとい、二日酔いにふらつく足取りで、ようやく今ベッドから抜け出したところである。
「とりあえず、ランニングは明日からでもいいかなあ」
 ブツブツと言いわけを口にしながら、着替えを済ませ階下へと降りていく。一歩足を踏み出すごとに、頭がズキズキと痛んだ。「ランニングは絶対明日からだ。もう決めた。これだけは誰にも譲れない」と、呪文のように呟きながらキッチンへと向かう。
 ダイニングテーブルでは、父が一人コーヒーを飲んでいるところだった。一声かけ、私も向かいの席に腰を下ろした。
「私、ひどい顔してるでしょ?」
「そうだな」
 父がそっけなく同意する。そして、テーブルに置かれたポットに向かって顎をしゃくった。
「冷えてるぞ」
「アイスコーヒー? いいねえ。食欲もないことだし……、これ、朝食代わりにしようっと」
 コップに注いだコーヒーを、一気に喉へと流しこむ。
「ちょっとは、顔、ましになった?」
「あまり変わらん」
「じゃあ、もう一杯」
 二杯目を注ぎ、今度はゆっくりと味わうことにした。この時間を使って、これからの予定を、頭の中できちんと整理しておかなくてはいけない。
 それにしても、昨夜は飲み過ぎた。智美と久しぶりに会えたうれしさもあって、幼い頃に戻ったかのように、無邪気にはしゃぎ笑い合った。いつの間にか父の姿は消え、いつの間にかお酒とカニも消え、そして、いつの間にか明け方を迎えることとなったのである。
「パパ、昨日いつ頃寝たの?」
「お前たちが、大声で歌い始めた頃だ」
「そうだっけ? ごめん。うるさかったでしょ」
 こういうときは、素直にあやまるに限る。かすかな記憶なら残っていた。智美と二人で熱唱したロッド・スチュワートの<セイリング>が、ゆっくりと脳裏によみがえってくる。確か、カニの足がマイク代わりだったはず。
「久しぶりに飲んだ日本酒が効いたのかなあ。パパが、あんなお酒用意するんだもん。主婦になると、普段はあんまりアルコール飲めなくなるから」
 今日の私は、どうも言いわけばかりを繰り返しているようだ。
 気を取り直し、これからの予定を思い浮かべてみる。
「アトリエ、借りてもいいかなあ」
「好きに使えばいい」
「ありがとう。私、今無性に絵が描きたいの」
 本音だった。キャンバスに向かって絵を描くという作業は、心の中をリセットするのに、最も適した方法だといえる。幼い頃からそのことには気づいていた。悩みができるたび、私はアトリエにこもり、無心に絵を描き続けてきたのだった。

 いまだズキズキと痛む頭に顔をしかめつつ、私はその扉を開いた。懐かしい油絵具のにおい。壁には見覚えのある作品の数々。私はふるさとへ帰ってきた。本当の意味で、そう実感できる瞬間だった。
「何を描くつもりだ?」
 振り返ると、父がすぐそばまで来ていた。気のせいだろうか。こうして並んでみると、去年会ったときよりも小さくなったように見える。頭髪の量も、だいぶ少なくなってきたようだ。
「パパの肖像画でも描いてみようかなあ」
 父は、面白くなさそうにフンと鼻を鳴らすだけだった。
「そんな嫌な顔することないでしょ。可愛い娘からそんなこと言われたら、普通の親なら、泣いて喜ぶところ……。あ、あの絵」
 思わず彼女を指し示していた。私の視界に突然飛びこんできた彼女。絵画展で私の目を釘付けにした彼女。私とそっくりな顔をした彼女。
 松葉杖をつく少女との再会だった。
「あの子、あ、あの絵の……。パパが描いた、わ、私の……。彼女、彼女は誰? どうして松葉杖? ど、どうして私の……」
「落ち着け」
 落ち着けるわけがない。あの少女が、私を落ち着かなくさせるのだ。言葉にするまえから、頭の中にいくつもの質問が湧き上がってくる。先に何を口に出せばいいのかがわからない。
「私にちょうだい」
 結局、それが優先順位一番の言葉となった。
「駄目だ」
「ケチ」
「あれは、売り物じゃないんだ」
「売ってだなんて言ってないでしょ。ちょうだいって言ってるの」
「駄目だ」
「ケチ」
「まだ、完成してないんだ」
「完成してないぐらいのことは我慢するから、ちょうだい」
「駄目だ」
「ケチ」
「駄目なものは駄目だ」
「ケチケチケチ」
 なぜこんな気持ちになるのか、自分自身でもよくわからなかった。
 暗闇を背に、頼りない足取りで歩く松葉杖の少女。か弱い身体に、不安げな表情。
 決して、部屋に飾って楽しめるようなタイプの作品ではない。心を癒してくれるものとも違う。しかし、これは私の手元に置いておくべき作品だ。私以外の誰の物でもない。誰かの物であってはいけないのだ。理由はわからなくとも、そのことだけははっきりしている。
「パパ……」
 一呼吸置き、しかめっ面の父にそっと尋ねてみた。
「こんな絵、どうして描いたの?」
「愚問だな」
 予想通りの答えだった。
 芸術家に向かって、作品の意味を尋ねるなどナンセンスだ。昔からよく父が口にしてきた言葉である。作品の意味は、それを見た人間が決めるべきだというのが、父の芸術家としての変わらぬ信念だった。
 私からすると、少々、いや、かなりサービス精神が不足しているような気がする。もしそうでなければ、もっと有名な画家になっていたかもしれないというのに。もっと一人娘とうまくやってこられたかもしれないというのに。
「セシル……」
 私が黙って絵を見つめていると、やがて父が声をかけてきた。静かなやさしい口調だった。
「完成したら、これはお前にやる」

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札幌在住のアマチュア作家

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