雨と虹の日々 31 自殺が嫌い
31 自殺が嫌い
俺は自殺が嫌いだ。
人間ってのは、つくづく不可解な行動を取る動物だと思う。自殺もその一つだ。ある者は、貧乏だからと首を吊り、ある者は、失恋したからと手首を切り、ある者は、生きる意味がわからなくなったとビルから飛び降りる。放っておいても、いつかは死が訪れるってのに、なぜ? そんな疑問を感じたこともあったが、結局、答えはどうってことないものだった。
要は、臆病風に吹かれちまったってことさ。いくら強者を気取ったところで、しょせん連中の力などたかが知れてる。生きることを途中で放棄するなんて、いかにも肝っ玉の小さい人間が思いつきそうなことだぜ。
「私も、昔死んじゃいたいって思ったことがあったなあ」
そう呟いているのは宇佐美さんである。おのれの肝っ玉の小ささを、素直に認める人間ってのも珍しい。
「家族のことで、当時、いろいろと辛いことが重なってね」
虹子に向かって話しかけているらしいのだが、宇佐美さんの言葉は、今のところ一方通行でしかなかった。
もう昼過ぎだというのに、虹子はいまだ布団の中にいる。宇佐美さんが外から呼びかけようと、鍵を開け部屋に入ってこようと、ほとんど反応らしきものはなかった。猫もあきれるほどの睡眠量、と言いたいところだが、実際眠りについているかどうかはわからない。頭から布団をかぶっているため、表情の確認はいっさいできないのだ。それこそ、“死んだように”という表現がぴたりとくるほど、ただただじっと動かないままなのである。
「あの頃は、自分を犠牲にしてでも、家族を守らなきゃって思ってた」
盛り上がった布団に向かって、宇佐美さんはなおもしゃべり続けた。
「私、娘を一人、病気で亡くしてるから……。もし生きてたら、虹子ちゃんより二つ年上になるのかな」
布団は動かないままである。
俺は、ゆっくりとその盛り上がりへと前足をかけた。肉球に伝わるかすかなぬくもり。そして、生存の証でもある呼吸のリズム。虹子の無事を確認し終えると、俺は布団の上で宇佐美さんと対峙した。
「幸助君を思う虹子ちゃんの気持ち、私よくわかってるつもりなのよ」
瞳の奥を覗きこむも、なかなか宇佐美さんの本性を見抜くことができない。
「ある意味、今の虹子ちゃんがうらやましい」
俺の足元がわずかにぐらつく。
「誤解しないでね。今のは、ちょっと言い方が変だった。でもねえ……。魂の行方って、本当はそう簡単にわかるものじゃないの。実際、私の娘の場合がそうだから。それを考えると……。ごめんね。やっぱり虹子ちゃんがうらやましい。だって、幸助君の魂を、こんなにも近くに感じることができるんだもの」
足元が再びぐらつき、今度はそのまま大きく傾き始めた。
虹子がゆっくりと身を起こす。いったんその場から飛び降りた俺は、彼女の体勢が整うのを待ってから、特等席、つまりは虹子の膝へと座り直した。
「幸助は、今どこにいるっていうんですか?」
久しぶりに耳にする虹子の声には、弱々しくも、真剣さに満ちた響きが感じられた。宇佐美さんに対して懐疑的になっているのは、どうやら俺だけではなかったらしい。
「今はもう、レインちゃんの中に戻ってるんだと思う」
宇佐美さんが、顔色一つ変えずに言ってのける。
「さっき、先生の様子見てきたところなの。ようやく放心状態から抜け出せたみたいだった。今は落ち着いてるけど、やっぱりだいぶ疲れてはいるみたい」
「あ、あれは、昨日の、先生のあれは、いったい何なんですか?」
「うん。虹子ちゃんが驚くのも無理ないと思う。私は、もう何度も見てきたけど、初めてだとやっぱり……。あ、でも、虹子ちゃんも初めてじゃないはずよ。この部屋で、一度、確か、ここへ来たばかりの日じゃなかった? ほんの一瞬のことではあったけど……」
「だ、だから、あれは何だっていうんですか? もっとわかるように、わ、私にも、わかるように説明してください」
「魂、幸助君の魂が、自立の意志を見せ始めたのよ。先生の肉体を借りて、あなたにメッセージを送ろうとしたんじゃない。それがわからないの? これはとてもいい傾向なのよ。誰もが救われるわけではない。そして、約束の地にたどり着けるのは、ごくわずかな人たちだけなの」
虹子は沈黙した。
見上げると、彼女もちょうど俺に視線を向けたところだった。宇佐美さんの話に、百パーセント納得したという表情には見えない。むしろ、疑念はますます深まったという風にさえ感じられる。
しかし、再び虹子の口から発せられた言葉は、俺を驚かせ、そして、おそらくは宇佐美さんを満足させることとなった。
「お金の方は、どうにか用意できると思います」
「そう。ありがとう。虹子ちゃんなら、きっとわかってくれると思ってた」
「ほ、他にも……。私にできること、他にも、何かありますか?」
「うん、そのことなんだけど……。お父さんと、直接連絡取ることは可能なの?」
「え? ああ、それは、ちょっとわかりません。連絡先がわかっているのは、父の代理の人だけで」
「じゃあ、間接的には伝えられるってことね」
「何を伝えればいいんですか?」
「捜査、私たちに対するこの不当な捜査を、今すぐにやめさせること。総理大臣だもん。それぐらいの力は持ってるはずよ。しかも、自分の娘のためにもなることなんだしね」
ややあってから、虹子はためらいつつも、「わかりました。やってみます」と、首を縦に振った。
満足そうに微笑む宇佐美さん。それから、顔の前で人差し指を立て、「もう一つだけ、お願い聞いてくれる?」と、今度は軽い調子で言った。
「は、はい。どんなことですか?」
「DVD。あの伯父さんが見たっていうやつ。あれ確認させてほしいの。虹子ちゃんの衣装は見たことあったけど、他のバンドメンバーのはまだだったから。それに、虹子ちゃんの演奏も聞いてみたいしね。どちらかといえば、そっちがメインかな」
いたずらっぽく笑う宇佐美さんに釣られるように、虹子も少し照れくさそうな笑みを浮かべた。
『自分を見つめる観客の多さに、タマゴからかえったばかりのヒナは、きっと驚き戸惑うことだろう。しかし、ヒナを見る観客の驚きは、間違いなくそれ以上だろう。黄金の翼を持ったその鳥に、ある者は、ただ茫然とその後姿を見送り。ある者は、おのれの夢をその翼にそっと乗せ。ある者は、嫉妬の炎でその鳥を焼きつくそうとし。ある者は……』
興奮気味に語り続けているのは、あのへんちくりんな男、宝田である。パソコン画面に映し出されているのは、今のところ彼の顔のアップだけだ。
『スターが生まれる、その瞬間に立ち会えるというのは、幸福でもあり、また不幸なことでもある。ある者は、自らの存在の小ささに落胆を覚え。ある者は、嫉妬の炎で……。あ、これはさっきも使ったフレーズだったな』
「なかなか、虹子ちゃん出てこないね」
宇佐美さんが、DVDを見ている全員の意見を代弁してくれた。
「私も、これ見るの初めてで……。まさか、こんな風になってるとは……」
虹子としては、苦笑するしかないようである。ばつの悪さをごまかすかのように、膝の上に抱いた俺の頭を、落ち着きのない手つきでしきりに撫で回す。
『この映像をご覧のあなたは、もう二度と忘れることができないだろう。オープニングアクトとして登場するバンドのことを。そして、この謎のマークのことを』
宝田が、自分の着ているTシャツの胸元を指差した。見覚えのある筆文字。そして、それを取り囲むSの字。
「ああ、これだけアップにされてたのね」と、苦笑いの宇佐美さん。
「すいません」と、消え入りそうな声で頭を下げる虹子。
『さあ、そろそろライブが始まりそうだ。歴史の幕が上がりそうだ。そして皆さんは、もうすぐ目撃者となる』と、絶好調の宝田。
映像が激しく乱れ出した。足早に移動する宝田の背中を、誰かが追いかけながら撮影しているのだろう。『ひ、控室の鍵、かけなくていいんですか?』という慌てたような声が聞こえる。『大げさなんだよ、まったく』という愚痴も聞こえる。
やがて、ざわめきが聞こえ、画面いっぱいに大勢の人の後姿が映し出された。明るい光りに包まれた場所が、そのずっと奥の方に見える。おそらく、あれがステージってやつなのだろう。楽器やマイク、そして、数名の人物の姿を確認することができる。あの中に、きっと虹子もいるはずだ。
「やっと始まりそうね」
宇佐美さんは、やれやれといった風に呟くと、隣に座っている虹子へと笑顔を向けた。
ところが、虹子はなぜか上の空である。外の様子が気になるのだろうか。ドアや窓のあたりへ、落ち着きなく視線をさまよわせている。
「また、どこかのテレビ局かもね」
「は、はい……」
注意してみると、確かに外が騒がしくなってきたようだ。映像の中から聞こえてくる音とは、まったく別の種類のざわめきである。
演奏が始まると、虹子、宇佐美さん、俺の関心も、再び小さなパソコン画面に向かうこととなった。
『アップアップ』という宝田の声とともに、遠かったステージが、こちらに向かってみるみる近づいてくる。
まずは、麗子の顔のアップ。やや緊張気味な歌声も聞こえてきた。
お次は、麗子の上半身のアップ。やはりあのマークがプリントされた衣装を着ている。
さらには、麗子の足元のアップ。リズムに合わせて小刻みなステップを繰り返していた そして、麗子の手のアップ。マイクを観客に向けたり、片手をグルグル振り回したりしている。
やがて、麗子の顔のアップ。
「この後ろには、ちゃんと虹子ちゃんもいるのよねえ」
「た、たぶん……」
部屋に漂う気まずい空気。それを感じ取ったわけではないのだろうが、ここでようやく映像が切り替わる。宝田が、『次は、ギターソロだぞ』と、新たな指示を出したためだ。
「直人君です」
大写しになった直人を見るなり、虹子がすかさず説明を加える。自然と声にも明るさが戻ってきた。
「大学の一年下で、とっても真面目な子なんですよ。ギターだってうまいし。幸助に代わって、今はバンドの楽曲も、全部彼が……」
しかし、そこまでだった。虹子もすぐに気がついたらしい。宇佐美さんが一瞬漏らした呻き声に。そして、その強張った表情にも。
「う、宇佐美さん」
呼びかけるも、宇佐美さんからは何の反応も返ってこない。
ライブの映像は、次々と変わり続けている。ベースの秋男、ドラムの広道、そして、わずかな時間ではあったが、キーボードを演奏する虹子の姿もしっかりと映し出された。
それでもなお、宇佐美さんの様子に変化は見られなかった。凍りついたように動かないままである。目には何も映らず、耳には何も届かず、といった風だ。
虹子としても、どうしていいのかわからないのだろう。宇佐美さんが動き出すのを、ただ息を呑んで見守るだけとなっている。
この部屋の重苦しさとは逆に、パソコン画面の中は熱狂に包まれていた。『アンコール、アンコール』という声が繰り返し聞こえてくる。
やがて、宇佐美さんの口がわずかに開いた。“SP”と呟いたように聞こえたが、はっきりとはわからない。
「そうか……。ストレートピープル」
今度のはよく聞こえた。しかし、意味の方はさっぱりである。
「は、はい、そうなんですけど……」
虹子が、戸惑いながらうなずく。そして、「今まで、教えてませんでしたっけ?」と、苦笑にも似た微妙な表情を浮かべる。
その時だった。
ドンドンという激しいノックの音に続いて、「う、宇佐美さん、いらっしゃいますか?」と、慌てふためく男の声。
「何? 鍵なら開いて……」
宇佐美さんが言い終らないうちに、部屋のドアは勢いよく開けられ、坊主頭の若い男が顔を見せた。
「逮捕状、せ、先生に、逮捕状が出そうです」
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32 警察が嫌い
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俺は自殺が嫌いだ。
人間ってのは、つくづく不可解な行動を取る動物だと思う。自殺もその一つだ。ある者は、貧乏だからと首を吊り、ある者は、失恋したからと手首を切り、ある者は、生きる意味がわからなくなったとビルから飛び降りる。放っておいても、いつかは死が訪れるってのに、なぜ? そんな疑問を感じたこともあったが、結局、答えはどうってことないものだった。
要は、臆病風に吹かれちまったってことさ。いくら強者を気取ったところで、しょせん連中の力などたかが知れてる。生きることを途中で放棄するなんて、いかにも肝っ玉の小さい人間が思いつきそうなことだぜ。
「私も、昔死んじゃいたいって思ったことがあったなあ」
そう呟いているのは宇佐美さんである。おのれの肝っ玉の小ささを、素直に認める人間ってのも珍しい。
「家族のことで、当時、いろいろと辛いことが重なってね」
虹子に向かって話しかけているらしいのだが、宇佐美さんの言葉は、今のところ一方通行でしかなかった。
もう昼過ぎだというのに、虹子はいまだ布団の中にいる。宇佐美さんが外から呼びかけようと、鍵を開け部屋に入ってこようと、ほとんど反応らしきものはなかった。猫もあきれるほどの睡眠量、と言いたいところだが、実際眠りについているかどうかはわからない。頭から布団をかぶっているため、表情の確認はいっさいできないのだ。それこそ、“死んだように”という表現がぴたりとくるほど、ただただじっと動かないままなのである。
「あの頃は、自分を犠牲にしてでも、家族を守らなきゃって思ってた」
盛り上がった布団に向かって、宇佐美さんはなおもしゃべり続けた。
「私、娘を一人、病気で亡くしてるから……。もし生きてたら、虹子ちゃんより二つ年上になるのかな」
布団は動かないままである。
俺は、ゆっくりとその盛り上がりへと前足をかけた。肉球に伝わるかすかなぬくもり。そして、生存の証でもある呼吸のリズム。虹子の無事を確認し終えると、俺は布団の上で宇佐美さんと対峙した。
「幸助君を思う虹子ちゃんの気持ち、私よくわかってるつもりなのよ」
瞳の奥を覗きこむも、なかなか宇佐美さんの本性を見抜くことができない。
「ある意味、今の虹子ちゃんがうらやましい」
俺の足元がわずかにぐらつく。
「誤解しないでね。今のは、ちょっと言い方が変だった。でもねえ……。魂の行方って、本当はそう簡単にわかるものじゃないの。実際、私の娘の場合がそうだから。それを考えると……。ごめんね。やっぱり虹子ちゃんがうらやましい。だって、幸助君の魂を、こんなにも近くに感じることができるんだもの」
足元が再びぐらつき、今度はそのまま大きく傾き始めた。
虹子がゆっくりと身を起こす。いったんその場から飛び降りた俺は、彼女の体勢が整うのを待ってから、特等席、つまりは虹子の膝へと座り直した。
「幸助は、今どこにいるっていうんですか?」
久しぶりに耳にする虹子の声には、弱々しくも、真剣さに満ちた響きが感じられた。宇佐美さんに対して懐疑的になっているのは、どうやら俺だけではなかったらしい。
「今はもう、レインちゃんの中に戻ってるんだと思う」
宇佐美さんが、顔色一つ変えずに言ってのける。
「さっき、先生の様子見てきたところなの。ようやく放心状態から抜け出せたみたいだった。今は落ち着いてるけど、やっぱりだいぶ疲れてはいるみたい」
「あ、あれは、昨日の、先生のあれは、いったい何なんですか?」
「うん。虹子ちゃんが驚くのも無理ないと思う。私は、もう何度も見てきたけど、初めてだとやっぱり……。あ、でも、虹子ちゃんも初めてじゃないはずよ。この部屋で、一度、確か、ここへ来たばかりの日じゃなかった? ほんの一瞬のことではあったけど……」
「だ、だから、あれは何だっていうんですか? もっとわかるように、わ、私にも、わかるように説明してください」
「魂、幸助君の魂が、自立の意志を見せ始めたのよ。先生の肉体を借りて、あなたにメッセージを送ろうとしたんじゃない。それがわからないの? これはとてもいい傾向なのよ。誰もが救われるわけではない。そして、約束の地にたどり着けるのは、ごくわずかな人たちだけなの」
虹子は沈黙した。
見上げると、彼女もちょうど俺に視線を向けたところだった。宇佐美さんの話に、百パーセント納得したという表情には見えない。むしろ、疑念はますます深まったという風にさえ感じられる。
しかし、再び虹子の口から発せられた言葉は、俺を驚かせ、そして、おそらくは宇佐美さんを満足させることとなった。
「お金の方は、どうにか用意できると思います」
「そう。ありがとう。虹子ちゃんなら、きっとわかってくれると思ってた」
「ほ、他にも……。私にできること、他にも、何かありますか?」
「うん、そのことなんだけど……。お父さんと、直接連絡取ることは可能なの?」
「え? ああ、それは、ちょっとわかりません。連絡先がわかっているのは、父の代理の人だけで」
「じゃあ、間接的には伝えられるってことね」
「何を伝えればいいんですか?」
「捜査、私たちに対するこの不当な捜査を、今すぐにやめさせること。総理大臣だもん。それぐらいの力は持ってるはずよ。しかも、自分の娘のためにもなることなんだしね」
ややあってから、虹子はためらいつつも、「わかりました。やってみます」と、首を縦に振った。
満足そうに微笑む宇佐美さん。それから、顔の前で人差し指を立て、「もう一つだけ、お願い聞いてくれる?」と、今度は軽い調子で言った。
「は、はい。どんなことですか?」
「DVD。あの伯父さんが見たっていうやつ。あれ確認させてほしいの。虹子ちゃんの衣装は見たことあったけど、他のバンドメンバーのはまだだったから。それに、虹子ちゃんの演奏も聞いてみたいしね。どちらかといえば、そっちがメインかな」
いたずらっぽく笑う宇佐美さんに釣られるように、虹子も少し照れくさそうな笑みを浮かべた。
『自分を見つめる観客の多さに、タマゴからかえったばかりのヒナは、きっと驚き戸惑うことだろう。しかし、ヒナを見る観客の驚きは、間違いなくそれ以上だろう。黄金の翼を持ったその鳥に、ある者は、ただ茫然とその後姿を見送り。ある者は、おのれの夢をその翼にそっと乗せ。ある者は、嫉妬の炎でその鳥を焼きつくそうとし。ある者は……』
興奮気味に語り続けているのは、あのへんちくりんな男、宝田である。パソコン画面に映し出されているのは、今のところ彼の顔のアップだけだ。
『スターが生まれる、その瞬間に立ち会えるというのは、幸福でもあり、また不幸なことでもある。ある者は、自らの存在の小ささに落胆を覚え。ある者は、嫉妬の炎で……。あ、これはさっきも使ったフレーズだったな』
「なかなか、虹子ちゃん出てこないね」
宇佐美さんが、DVDを見ている全員の意見を代弁してくれた。
「私も、これ見るの初めてで……。まさか、こんな風になってるとは……」
虹子としては、苦笑するしかないようである。ばつの悪さをごまかすかのように、膝の上に抱いた俺の頭を、落ち着きのない手つきでしきりに撫で回す。
『この映像をご覧のあなたは、もう二度と忘れることができないだろう。オープニングアクトとして登場するバンドのことを。そして、この謎のマークのことを』
宝田が、自分の着ているTシャツの胸元を指差した。見覚えのある筆文字。そして、それを取り囲むSの字。
「ああ、これだけアップにされてたのね」と、苦笑いの宇佐美さん。
「すいません」と、消え入りそうな声で頭を下げる虹子。
『さあ、そろそろライブが始まりそうだ。歴史の幕が上がりそうだ。そして皆さんは、もうすぐ目撃者となる』と、絶好調の宝田。
映像が激しく乱れ出した。足早に移動する宝田の背中を、誰かが追いかけながら撮影しているのだろう。『ひ、控室の鍵、かけなくていいんですか?』という慌てたような声が聞こえる。『大げさなんだよ、まったく』という愚痴も聞こえる。
やがて、ざわめきが聞こえ、画面いっぱいに大勢の人の後姿が映し出された。明るい光りに包まれた場所が、そのずっと奥の方に見える。おそらく、あれがステージってやつなのだろう。楽器やマイク、そして、数名の人物の姿を確認することができる。あの中に、きっと虹子もいるはずだ。
「やっと始まりそうね」
宇佐美さんは、やれやれといった風に呟くと、隣に座っている虹子へと笑顔を向けた。
ところが、虹子はなぜか上の空である。外の様子が気になるのだろうか。ドアや窓のあたりへ、落ち着きなく視線をさまよわせている。
「また、どこかのテレビ局かもね」
「は、はい……」
注意してみると、確かに外が騒がしくなってきたようだ。映像の中から聞こえてくる音とは、まったく別の種類のざわめきである。
演奏が始まると、虹子、宇佐美さん、俺の関心も、再び小さなパソコン画面に向かうこととなった。
『アップアップ』という宝田の声とともに、遠かったステージが、こちらに向かってみるみる近づいてくる。
まずは、麗子の顔のアップ。やや緊張気味な歌声も聞こえてきた。
お次は、麗子の上半身のアップ。やはりあのマークがプリントされた衣装を着ている。
さらには、麗子の足元のアップ。リズムに合わせて小刻みなステップを繰り返していた そして、麗子の手のアップ。マイクを観客に向けたり、片手をグルグル振り回したりしている。
やがて、麗子の顔のアップ。
「この後ろには、ちゃんと虹子ちゃんもいるのよねえ」
「た、たぶん……」
部屋に漂う気まずい空気。それを感じ取ったわけではないのだろうが、ここでようやく映像が切り替わる。宝田が、『次は、ギターソロだぞ』と、新たな指示を出したためだ。
「直人君です」
大写しになった直人を見るなり、虹子がすかさず説明を加える。自然と声にも明るさが戻ってきた。
「大学の一年下で、とっても真面目な子なんですよ。ギターだってうまいし。幸助に代わって、今はバンドの楽曲も、全部彼が……」
しかし、そこまでだった。虹子もすぐに気がついたらしい。宇佐美さんが一瞬漏らした呻き声に。そして、その強張った表情にも。
「う、宇佐美さん」
呼びかけるも、宇佐美さんからは何の反応も返ってこない。
ライブの映像は、次々と変わり続けている。ベースの秋男、ドラムの広道、そして、わずかな時間ではあったが、キーボードを演奏する虹子の姿もしっかりと映し出された。
それでもなお、宇佐美さんの様子に変化は見られなかった。凍りついたように動かないままである。目には何も映らず、耳には何も届かず、といった風だ。
虹子としても、どうしていいのかわからないのだろう。宇佐美さんが動き出すのを、ただ息を呑んで見守るだけとなっている。
この部屋の重苦しさとは逆に、パソコン画面の中は熱狂に包まれていた。『アンコール、アンコール』という声が繰り返し聞こえてくる。
やがて、宇佐美さんの口がわずかに開いた。“SP”と呟いたように聞こえたが、はっきりとはわからない。
「そうか……。ストレートピープル」
今度のはよく聞こえた。しかし、意味の方はさっぱりである。
「は、はい、そうなんですけど……」
虹子が、戸惑いながらうなずく。そして、「今まで、教えてませんでしたっけ?」と、苦笑にも似た微妙な表情を浮かべる。
その時だった。
ドンドンという激しいノックの音に続いて、「う、宇佐美さん、いらっしゃいますか?」と、慌てふためく男の声。
「何? 鍵なら開いて……」
宇佐美さんが言い終らないうちに、部屋のドアは勢いよく開けられ、坊主頭の若い男が顔を見せた。
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