みことのいどこ 2013年07月

雨と虹の日々 14 外出が嫌い

14 外出が嫌い

 俺は外出が嫌いだ。
 もちろん、この間の長旅のせいもある。しかし、そんな風に感じるようになったのは、もっと前の話だ。虹子との生活。いや、この部屋の居心地の良さ。それが原因なのだろう。
 雨風をしのぐことのできる暖かな寝床。そのおかげなのか、最近では、悪夢を見ることも少なくなってきている。昨夜見たのは、でっかい図体した百獣の王ライオンを、コテンパンにやっつけるっていう、胸の空くご機嫌な夢だったっけ。
 飢えに苦しむこともなくなった。それどころか、栄養満点の食い物のおかげで、今じゃ俺の毛並はつやつやの一級品だぜ。
 外敵や交通事故に注意する必要もない。寝たいだけ寝て、食いたいだけ食う。そんな天国みたいな生活が、もうどれぐらい続いているのだろう。虹子はやっぱり天使だったのではないかと、いまだに勘違いしてしまうことさえあるぐらいだ。
 一方では、何か大事なものを失いつつあるような気もする。外での暮らしってやつは、確かに過酷だった。だが、そこには自由があった。何よりこの俺には、猫としての気概のようなものがあった。
「どう、ですか?」
 俺を膝に乗せたまま、直人は遠慮がちな口調で言った。部屋には、たった今まで音楽が流れていた。どうやら、その感想を求めているらしい。
「ちょっと待って。もう一回聴いてみたいから」
 虹子はいったんソファーから離れると、パソコンデスクへと向かい、何やらカチャカチャと操作し始めた。
「いきなり連絡したりして、今日はホントにすいませんです。すごくいい曲ができたんで、あ、勝手に僕がそう思っただけなんですけど。とにかく、虹子先輩に早く聴かせたくて、あ、聴いてもらいたくてです」
 虹子が、「直人君、猫好きなんだね」と言いながら、ソファーへと戻ってきた。俺と直人の斜向かいの位置に座る。
「あ、はい。小さい頃、うちで飼ってたことあって」
 直人の指先が、俺の耳の下をやさしく撫でる。確かに悪くない撫でっぷりだった。ツボを心得ていると言ってもいいだろう。再び流れ出した音楽を、名曲だと錯覚してしまいそうになるほどの心地良さである。
 いつもなら、麗子と一緒に来ることの多かった直人。珍しく、今日は彼一人での訪問だ。先ほどから、何度も頭を下げ、「すいませんです」を連発している。突然連絡したことについて。デモ演奏の音質が悪いことについて。一人暮らしの女性の部屋に、男一人でお邪魔することについて。履いてきた靴下に、穴が空いていたことについて。まあ、とにかく謝ることの大好きな男だ。
「何となく、直人君らしくない曲……」
 虹子はそこまで言うと、今度は慌てて、「悪い意味じゃなくてね」と付け加えた。
「今回、その辺は意識して変えてみたんです。虹子先輩の詞から、何となくインスピレーションが湧いて。それから、幸助先輩の曲も、ちょっと参考にさせてもらって……。あ、すいませんです」
「麗子には、もう聴かせたの?」
「あ、まだです。聴かせようと思っても、大学は休んでるみたいだし、電話しても、ぜんぜん繋がらないし、あれ以来……。あ、すいませんです」
 相変わらず、謝るのが大好きな直人である。そういえば、彼が部屋のギターをいじっていた時に、虹子が突然叫び声を上げる、という事件が以前あったっけ。そのことを直人は警戒しているのかもしれない。
「バンドをめちゃくちゃにしたの、私のせいだよね。せっかくのチャンス、みんなの夢も、台無しにしちゃった。直人君だって、ライブの話、すごく乗り気だったもんね」
 寂しげに言うと、虹子は大きく一度ため息をついた。
 音楽が鳴りやみ、部屋が静寂に包まれる。
「猫って……」
 俺の喉を撫でていた直人が、しばらくしてからポツリと呟いた。
「うちの中で飼われる方が、やっぱり幸せなのかなあ」
 伏し目がちだった虹子が、「どうして?」と顔を上げる。
「昔うちにいた猫、家出しちゃったんですよ」
「事故にあったとかじゃないの?」
「そうかもですけど、何となく、自分の意志で出て行ったような気がするんですよね。よく窓から外眺めてたし」
「それぐらいのことなら、レインにだってあるよ。でもそれは、ただ眺めてるっていうだけのことでしょ?」
「ううん。どう言えばいいんだろう。……外を見ていたその時のココアの、あ、ココアっていうのが猫の名前です。その時の顔が……」
「顔が?」
「ええと、笑われそうなんですけど、家を出ようかどうか、迷っているような顔だったんです。レインの顔見てたら、なぜかあの時のココアのこと思い出しちゃって……。すいませんです」
「レインも……」
 一瞬苦笑しかけた虹子だったが、すぐに表情を引き締め、「ここを出て行きたがっている、て言いたいの?」と、ややムキになったような口調で言った。
 もうこうなってしまうと、直人に残された言葉はただ一つ。
「すいませんです」
 ということになる。
 ある意味、直人は俺の心を読み取っていた。確かに迷っている。その通りだ。この場所には、求めている以上の安定と、必要以上の安全がある。その結果、俺は外出することを嫌うように、いや、正直に言えば、外出することを恐れるようにさえなってしまったのだ。外での生活が当たり前だった、この俺がである。おのれの生存能力だけを頼りに生きてきた、この俺がである。
「ニャッ!」
 直人の膝を飛び降り、俺は窓辺へと急いだ。矢も楯もたまらずに、というのはこういうことを言うのだろう。
「レイン、どうした?」という直人の声。
 どうしたもこうしたもない。こんな気持ちになるのは、俺だって初めてなのだ。
「もう、お腹空いちゃったの?」という虹子の声。
 腹の方はまだ空いちゃいない。ただ、とてつもなく空虚なだけだ。
 カーテンの隙間から覗く外の世界は、相変わらず危険に満ち溢れて見える。ほんの前まで俺が暮らしていた世界だ。今ではそれも、遠い昔の出来事のようにさえ思えてくるのだが。
 人に捨てられたのだと思えば、お前はただの捨て猫にしかなれない。人の助けを拒絶したのだと思えば、お前は誇り高き勇者になれる。
 記憶の底から、ふとそんな言葉が蘇ってくる。この俺に、生きる意味を教えてくれたのがそいつだった。薄汚れた茶色い毛の、かなり歳を食った猫だったっけ。やつも昔、人に飼われていたことがあったのだという。その時付けられた名前が“ココア”。確かそう言っていた。
「後姿が、ココアに似てるんだよなあ」
「レインは、外眺めるのが好きなだけだってば」
「あ、すいませんです」
「ここを出て行きたいだなんて思うはずない。レインには、何不自由ない生活させてあげてるんだから」
 虹子と直人のやり取りは、その後もしばらく続いた。最初は言い争っているように思えたが、実はそうでもないようである。虹子の声音は明るく、他のバンドメンバーに対するものとはまるで違っていた。直人も同様に、猫の思い出話に声を弾ませている。
「僕思うんですけど、きっとココアにとっては、それで良かったんだって、その、何というか、自分の居場所は、僕のうちではなかったってことに気づいたんじゃないかな、なんてこと言っても馬鹿みたいですよね。すいませんです」
「悪いけど、私には、その理屈ぜんぜんわかんない」
「理屈の話をしてるんじゃなくて……。たとえば、さっき聴いてもらった曲。虹子先輩に詞を付けてもらって、一つの作品として完成させたい。そう強く思ってます。それは、バンドがこのまま解散したとしても、一生誰にも評価されなかったとしても、その思いだけは変わらない。理屈じゃないんです。それは、自分の中の何かが、そうしたいと望んでいるから……。すいませんです。熱くなりすぎちゃったかもです」
 窓の向こう側の世界には、いったいどれだけの猫が暮らしているのだろう。少なくとも、そこにはもうココアの姿はない。やつは死んだ。直前に食った毒入りソーセージが原因だったらしい。人を信じた、その一瞬が、やつにとっての命取りだったわけだ。
「私、たった今思いついたんだけど」
「はい」
「これから、動物園行かない?」
「はい?」
「理屈じゃなくて、私のなかの何かが、動物園を望んでるんだから、しょうがないじゃない」
「すいませんです」
 どういう話の流れだったのか、虹子と直人は、いそいそと外出の準備をし始めた。
「レイン」
 サイドボードの上へと飛び乗った俺に、着替えを済ませた虹子が近づいて来る。
「ちょっと出かけて来るから、いい子に留守番しててね」
 笑顔でそう言うと、今度は、なぜか俺の耳に顔を寄せてきた。「ただの動物園だから、やきもち焼かないでね」と声をひそめる。
 それは、取り越し苦労ってもんだぜ。俺は猫だ。それ以上でも、それ以下でもない。他の動物に対するライバル意識なんてものは、鼻っから持ち合わせちゃいないのさ。
 ココアは死んだ。人の笑顔にだまされて命を落とした。しかし、やつは恨み言一つ口にしなかった。やつが残した最後の言葉を、俺は今でもはっきりと思い出すことができる。
 猫として死ねることを、俺は誇りに思う。

虹色日記

 今日、何年ぶりかで動物園に行って来ました。急に思いついちゃったんですよね。目的は、もちろん動物を見ること。でも今までとは、その見方っていうのがちょっと違うんです。興味があったのは、動物の表情。今、何を考え、何を望んでいるか。それを表情から読み取ろうと思ったんです。
 結論としては、成果ゼロでした。当たり前ですよね。動物が何を考えてるかなんて、人間にわかるはずがない。
 本当はみんな檻から出たがってるんだ。自由な世界を望んでるんだ。一緒に行ったSP君の目には、そんな風に見えたらしいですよ。これって、どうにでも見えちゃいますよね。それに、いかにもロック少年が言いそうなことだったんで、RC、思わず吹き出しちゃいましたよ。
 SP君については、前にも少し書いたことがあると思うんですけど、うちのバンドのギタリストです。二人っきりで会ったのは今日が初めて。まさか、こんなに話が盛り上がるとは思わなかったなあ。
 だからといって、この先恋愛に発展するとかはないですからね。皆さん誤解のないように。SP君は、ただのバンド仲間です。しかも年下。HAと比べると、やっぱり子供っぽい感じがする。
 バンドでは、RCが作詞、SP君が作曲を担当してる。いい作品を完成させるには、これからは、もっと二人で話し合った方がいいんでしょうね。たとえ、バンドが崩壊したとしても。
 そうなんです。実は今、バンドが危機的状態にあるんです。しかもそれは、RCのせいでした。BCの計画した通りにしてさえいれば、たぶんビッグチャンスを掴めたはずなんですよ。
 SP君が、今日すごく気になることを言ってました。
 理屈じゃなくて、自分の中の何かが、そうしたいと望んでいること。
 何だか、今頃になって、その意味がはっきりとわかってきたんです。
 ビッグチャンスを失うことになったとしても、RCの中には、絶対に譲ることのできない何かがあった。それは確か。
 それにしても、BC以外のバンド仲間、特にSP君には悪いことしちゃったなあ。今日初めて知ったんですけど、大学の授業料や生活費、結構苦労してるみたいなんですよね。親がいないから、しょうがないんだって言ってましたけど。
 SP君にお詫びするのに、何かいいプレゼントないですかね。猫好きみたいだから、いっそのこと、レインを引き取ってもらおうかな。なーんちゃって。レインごめん。今のは冗談。これからも、レインにはずっとRCのそばにいてもらうんだからね。
 皆さんの明日に、どうか虹色の橋がかかりますように!

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15 料理が嫌い
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不倫のライセンス 9 乾杯の準備

9 乾杯の準備

 相手について、どれだけのことを知るべきか。自分について、どれだけのことを知らせるべきか。私にとって、その二つは難問だった。一から十まで互いのことを知りつくす。それがすべて幸福に繋がるとは限らない。男女関係においては特にだろう。知らなかった方が幸せ、ということは確実にある。たとえば、夫による不貞行為の数々。たとえば、妻による夫以外の男性とのデート。
「“プチアリン”っていうのが、最終的な呼ばれ方でした」
 礼治が、苦笑混じりに教えてくれたことによると、アリンコ、プチアリンコ、プチアリン、という一連の流れがあったのだという。彼に付けられた学生時代のあだ名についてのことである。
「かなりのチビだったんで、まあ、今もちっちゃいんですけど」
 いつもの居酒屋で、私はまた一つ、彼についての新たな知識を得ることとなった。
 いじめられっ子だった、と笑って話す礼治ではあったが、その瞳の色はどこか悲しげに見える。
 知っても害のない情報。いや、ぜひとも知っておくべき情報。私の脳は即座に判断を下した。今の礼治の姿から想像すると、意外とも思えるその事実は、私と彼との数少ない共通点でもあったからだ。
「ああ、小学生の頃思い出すなあ。私もそうだったからね。いじめられっ子」
 それは礼治にとっても意外なことだったらしい。どう言葉を返せばいいのか迷っているようである。結局、スルメを口にすることでどうにか落ち着いたようだ。
「礼治君は、そのいじめ、どう克服したの?」
「最初は、煮干しだとか、牛乳だとか、とにかくカルシウムをたくさん取って、何とか背を伸ばそうと思ったんですけど……」
「それ、失敗したんでしょ」
「はい。無駄でした。あれって、カルシウム取ったぐらいじゃ駄目っスね」
「そうそう。カルシウムの効果なんて信用しちゃ駄目よ。イライラにもいいって言うけど、あれもきっと嘘」
「ある時、いじめられてるところを見られちゃったんです、好きだった女の子に」
 照れくさそうに微笑む礼治だったが、別の思い出が脳裏をよぎったのか、すぐさま苦い表情へと変化していく。
「へえ。それでそれで?」
 ドラマチックな展開を期待しつつ、私はやや身を乗り出すようにして話の先を促した。
「その子に見られてると思ったら、何だか急に恥ずかしくなって、無我夢中で拳を振り回したんスよ」
「うんうん。それで、にっくきいじめっ子たちをやっつけちゃったわけね」
「やっつけられちゃいました。だって、相手は三人ですよ。勝てるわけないじゃないスか。青春ドラマじゃないんだから」
「そうかあ。まあ、現実はそんなに甘くはいかないか」
「はい。だから、正確には克服できてないんです。でも、今やってることの原動力にはなってるはず」
「相手ボクサーを、その時のいじめっ子だと思うわけね」
「そうじゃなくて……。みっともなく負ける姿を、好きな人に見られたくないってことです」
「ふーん」
 このあたりの男心は、女の私にはちょっと理解しにくい。女性よりも男性の方が、社会的評価に敏感である、というのはどこかで聞いたことがあった。今の話もそのことに繋がるのだろうか。
「セシルさんの方は? いじめに、どう対処したんスか?」
「ううん。そうだなあ。どうだったかな……」
 思わず言葉につまってしまう。いじめられた経験を、誰かに話すということは、とても勇気のいる作業だ。あの時の悔しさ。あの時の恥ずかしさ。口に出すことで、その記憶、その感覚を、再び自らの心身に呼び起さなければいけないからである。
 結局、私もスルメの力を借りることにした。噛みしめながら、大急ぎで頭を回転させる。おそらくこれは、知らせてもいい情報だろう。私という人間を理解してもらうためにもきっと。
「私の場合……」
 声の震えを感じつつ、「この顔が原因だったの」と続ける。やはり、うまく微笑みながら、というわけにはいかなかった。
「外人外人って、小学生の頃よく言われたなあ。膚が白くて幽霊みたいだとか、何で日本にいるんだとかね」
 真剣な表情をして、私の話に耳を傾ける礼治。ここまでくると途中で打ち切ることもできなくなる。つまり、ビールの力を借りなくてはいけなくなるということだ。
「対処したっていうのとは、ちょっと違うんだけど……」
 口に付いた泡を拭い、頭に幼き頃の記憶を蘇らせる。
「別のクラスにいる男の子、近所に住む幼馴染みなんだけど、その子が、いろいろと助けてくれたの」
「いじめっ子を、やっつけてくれたんですか?」
「そんな簡単にいくわけないじゃない。青春ドラマじゃないんだから」
 私と礼治との間に、心地の良い空気が広がる。
「その男の子、面白いことばっかり言う子だったの。私のこと、いつもお腹が痛くなるほど笑わせてくれて……。今考えれば、私、あれでずいぶん救われたんだと思う」
 その男の子は、やがて私の恋人となった、と心の中だけで付け加える。きっとこれは、知らせなくてもいい類の情報に違いない。
「いじめられっ子だったって話、私、人に打ち明けたの、きっとこれが初めてだったのかもしれない」
「あ、聞いちゃまずかったっスか?」
 慌てる彼の表情を見つめたまま、私は笑顔でかぶりを振り、「乾杯したい気分」と、ビールジョッキを持ち上げた。
「乾杯って、何に?」
「いいからいいから。早くジョッキ持って」
 話を聞いてもらった。たったそれだけのことで、何か、重い荷物を一つ下ろすことができたような、重い荷物を半分持ってもらったような、重いと思っていた荷物が、実はそれほどの重さではなかったということに気づかされたような、とにかく、今は何かに乾杯したい、そんな気分だった。
「あ、ごめん。ちょっと待って」
 ジョッキが触れ合う音よりも、若干早く、私の携帯電話の着信音が鳴った。
『俺だけど。お前、今夜も遅くなるのか?』
 夫の声。その後ろから小さく聞こえてくるのは、テレビのニュース番組の音。どうやら、自宅からかけてきているらしい。
「遅くって……」
 素早く腕時計を確認。まだ午後十時を回ったばかりである。
「もうそろそろかな」
 自分の口調の変化に気づきつつも、「どうしたの? 何か急用?」と、構わずぶっきらぼうに聞き返す。
『いや、そうじゃないんだ。……今、居酒屋だったよな?』
 敏明の声音には、まるで、何かを探り出そうとするかのような響きがある。
「そう。居酒屋」
『友達とだって言ってたもんな』
「そう。ジムのお友達」
『何人で飲んでるんだっけ?』
「五人」
『カウンター席か?』
「テーブル」
『テーブル席に五人だと、ちょっとバランス悪いな』
「二つのテーブルに、二人と三人で別れて座ってるから」
『お前はどっちだ?』
「え? 何が?」
『二人の方か、三人の方か』
「あ、そうか。それって重要だもんね。実は三人の方なの。どう? 驚いて腰抜かしたりしてない?」
「酒の肴は何だ?』
「あのねえ……」
 私の声に、向かいに座る礼治は、ジョッキを手にしたままの姿勢で固まっている。
「もしもし。あ、あのね……」
 一拍置いてもう一度言いなおしてみた。もちろん今度は、できる限り声のトーンを落としてである。できる限り穏やかな笑みをたたえてである。できる限りやさしい女に見えるようにである。
「もしも、私の自伝を書きたいんなら、今度ゆっくり答えるから、今は遠慮して。ちなみに、酒の肴はスルメ。忘れないようにメモしておいて」
 それだけ言って、私は一方的に通話を打ち切った。
 敏明はどういうつもりなのだろう。トレーニングの帰りには、決まって毎週飲み会がある。いつも同じ店。いつも同じジム仲間。そのことについてはすでに承知しているはずだ。今までにだって、不満めいたことを口にしたことすらなかったではないか。お互いの意志を尊重しよう、という自らの主張を、敏明は今まで頑なに守り続けてきているのだ。
「旦那さんですか?」
 その声に、一瞬ギクリとする。すぐ目の前にいたというのに、礼治の存在を認識するまでに、ほんの少々の時間を必要とした。
「今の電話、旦那さんからだったんですよね?」
「違う違う。そんなわけないもん。旦那なんて、番号知らないし、携帯持ってないし……。れ、礼治君、何でジョッキ構えてるの?」
「乾杯の準備っス」
「え、ええと、何に乾杯するんだっけ?」
 敏明に対して、礼治に対して、私は上手に嘘をつくことができているだろうか。今夜の私は、きっといつもよりまばたきの回数が増えていたに違いない。

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10 プライドの動物
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雨と虹の日々 13 狭い場所が嫌い

13 狭い場所が嫌い

 俺は狭い場所が嫌いだ。
 もちろん、ダンボール箱や紙袋の中に入った経験なら、今までにだって何度もあった。ああいったところには、俺たち猫の好奇心、冒険心をくすぐる何かがある。しかし、それはあくまで自らの意志によるものだ。無理矢理どこかに閉じこめられるのとはわけが違う。自由なき冒険なんてものはありっこないのさ。
「レイン、大丈夫だった?」
 虹子は心配そうに言いながら、キャリーバッグの中の俺を覗きこんだ。
「もう、出てきてもいいんだよ」
 ようやく旅は終わったらしい。どれくらいの時間、バッグに閉じこめられていたのだろう。自由なき旅の終わりに、もちろん解放感などあるはずもない。
 首を巡らせ、とりあえずあたりを確認してみる。室内であることだけはわかった。が、それだけである。まったく見覚えのない畳敷きの部屋だった。
「ごめんね。窮屈な思いさせちゃって」
 俺の頭をやさしく撫でる虹子。その横で微笑んでいるのは宇佐美さんである。彼女の運転する車によって、俺はこの見知らぬ場所へと連れて来られたのだった。
「レインちゃん、意外と落ち着いてるみたいね。さすがは奇跡の……」
 宇佐美さんの言葉は、途中から尻すぼみになった。どうやら虹子の異変に気がついたらしい。正確には俺の異変なのだが。
「宇佐美さん、どうしよう……」
 困惑顔の虹子が、さらに声のトーンを落として、「レイン、おしっこ漏らしちゃったみたい」と続けた。
 一瞬の間を置いて、まずは宇佐美さんが「あらまあ」と思わず失笑する。次に虹子が、「こんなところで」と困ったように眉根を寄せる。そして俺は、「ニャーン」と羞恥と後悔の声を響かせた。
 これも、不幸中の幸いと言うべきだろうか。この部屋には、虹子と宇佐美さんしかいない。つまり、俺のしでかした大失態の事実を知る者も、この二人だけしかいないということになる。
 やがて、俺の身体は丁寧に清められた。いったん部屋を出て行った宇佐美さんが、どこからか水の入った洗面器とタオルを持ってきたのである。
「ああ、どうなることかと思った」
 濡れたタオルを絞りながら、虹子はほっとしたように呟いた。どうなることかと思った、というのは俺も同感である。
「だけど、どこも怪我してないようだし、その点は一安心ね」
 宇佐美さんの方は、いまだにクスクスと笑い続けている。深く傷ついた俺のプライドは、怪我したどころの騒ぎではないというのに。
「おしっこ漏らしちゃうぐらい、かわいいもんじゃない」
 慰めはよしてくれ。今の俺に必要なことはただ一つ。今日の出来事を一刻も早く忘れ去ることなのだ。
「お待たせしてしまったね」
 声とともに姿を現したのは、黒い着物を身にまとった恰幅のいい男だった。年齢は六十前後といったところだろうか。白髪混じりの長髪を、頭の後ろで尾っぽのように束ねている。
「は、はじめまして。お邪魔してます」
 慌てて虹子が立ち上がろうとするのを、男は「いいからいいから」と手を振って制した。
「虹子ちゃん。そしてレインちゃんです」
 宇佐美さんの紹介を受け、虹子がぎこちなく頭を下げる。
「その猫だね? 例の、奇跡の猫っていうのは」
 男は中腰の姿勢のまま、ジロジロと俺のことを観察し始めた。瞳の奥を覗きこむようにしてきたかと思えば、「ほう」だの、「へえ」だのと、何やら感心したような声を発している。
「間宮さん、もう何かわかったんですか?」
 宇佐美さんの興味深げな問いかけに、間宮さんと呼ばれたその男は、「いやいや、そんな簡単にはいかんよ」と軽くかぶりを振った。
「でも、少しは何か感じるものがあったんですよね? 間宮さんとのお付き合いも長いんですから、私にだって、その程度のことぐらいなら見抜けますよ」
 間宮さんは、肯定するわけでも否定するわけでもなく、ただ意味ありげな微笑みを浮かべるだけだった。
 その後、虹子と宇佐美さん、そして間宮さんの三人は、小さな座卓を囲み、それぞれの近況について語り出した。座卓の上には、麦茶の入ったコップが三つ。虹子の隣にいる俺の前には、ミルクの入った器が置かれた。ついさっき、坊主頭の若い男が、盆に乗せて運んできたものである。その男は、間宮さんのことを“お師匠さん”と呼んでいた。
 誰がこの家の主人であるかについては、何となく察しがついた。不可解なのは、虹子と、間宮さんとの関係についてである。はじめまして、と虹子は挨拶したはずだ。しかし、会話の内容を聞く限り、互いのことについては何一つわかっていない、というのとはちょっと違う。いや、かなり違うと言うべきだろう。
 特に間宮さんの方は、虹子の私生活について詳しかった。長い間休んでいた大学に、最近また通い出したこと。伯父さんとの一件について。バンド内でのいざこざ。ダイエットのために、何を食べているのかということまで知っていたのだ。
「レインちゃんって、牛乳苦手だったの?」
 宇佐美さんの言葉に、虹子は、「普段はそんなことないんですけど」と小首をかしげた。
 ミルクなんてものはガキの飲むものだ、と言いたいところだが、今の俺には大きな心配事があった。帰り道で失禁してしまわないかということである。喉の渇きは耐えられても、プライドがこれ以上傷つくことには、どうしても耐えられそうにない。俺が今日犯してしまった失態は、虹子と宇佐美さん二人の胸の中だけに、どうかそっとしまいこんでおいてもらいたい。
「間宮さんが来る前に、レインちゃん、おしっこ漏らしちゃったんですよ」
 胸の中にそっとしまいこんでおく意志は、宇佐美さんにはまるっきりないようだった。どうやら、猫にはプライバシーってものがないらしい。
「弟子たちから、さっき聞いたよ。猫には、ちょっと長旅だったかな」
 間宮さんが屈託のない笑顔で言った。ミルクの表面に映る俺の顔は、こんなにも悲しげに見えるというのに。
「ごめんなさい。この子、バッグに入ってお出かけするの初めてだったから、たぶん怖くなっちゃったんだと思います。あ、それから、タオルと洗面器、お借りしてたこと忘れてました。すいません。ありがとうございました」
 苦笑して話す虹子だったが、初め見せていたような堅い表情は、すでにその顔からは消えてなくなっている。驚いたことに、いつの間にか黒縁眼鏡まではずしていた。雲一つない晴れやかな表情とは、まさにこういう顔のことをいうのだろう。ミルクの表面に映る俺の顔は、雨雲にでも覆われているかのように暗く沈んで見えるというのに。
「今度は、牛乳じゃなくて、フライドチキン用意しておくよ。確か、彼の好物、フライドチキンで良かったんだよね?」
「え? あ、はい」
 戸惑う虹子に、宇佐美さんがいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「間宮さんにも、虹色日記のこと教えちゃったの。その方が、虹子ちゃんのこと早く理解できるんじゃないかと思ってね」
「そうだったんですかあ……」
「うん。いけなかった?」
「いいえ。そんなことないんですけど、何だか、ちょっと恥ずかしいなあ、と思って」
「まずは、そこからなんだよ」
 間宮さんが言った。今までとは違う力強い口調である。
 思わずといった風に、虹子が座布団の上で背筋を伸ばした。
「ブログを少し拝見させてもらったが、私には、素直でとてもいい文章に思えたよ。どこにも恥じるような部分はない。弱点があってこその人間だ。良くないのは、自分を偽ること。ごまかせばごまかすほど、魂は疲弊していくものだ。その点でいえば……」
 間宮さんは、そこでいったん口をつぐんだ。
「残念ながら、まだ十分とは言えないだろうね。心の開き具合、いや、魂に対してのやさしさ、と言った方がいいかな」
 虹子は、ただ黙って間宮さんを見つめるばかりである。
「私たちに、まだ話していない何か、それがどんなものなのかはわからないが、その何かが、虹子さんの魂を傷つけているようだ。どうだろう。心当たりはあるかな?」
「まだ話していないことなら、というより、誰にも話せないことなんですけど……」
 ようやく口を開いた虹子だったが、宇佐美さんの「私たちにも、話せないの?」という質問に、再び沈黙することとなった。
 これまでの三人のやり取りを聞いて、俺が唯一理解できたのは、虹子が発した一言である。誰にも話せないこと。そう彼女は言った。確かに、誰にも話せないことなら、この俺にだってあった。だからこそ、今の彼女のつらさは痛いほどわかる。もしかすると、俺と同じく、虹子の過去にもあったんじゃないだろうか。旅先でのおもらしの経験が。

虹色日記

 今日、初めてMさんのお宅にお邪魔しました。PCさんも一緒です。もちろんレインもですよ。RCも緊張してたけど、レインの方はそれ以上だったみたい。びっくりするようなことしちゃったんですよ。具体的なことは、レインの名誉のために内緒にしておきますけどね。
 PCさん同様、やはりMさんもすごく素敵な方でした。何だか、やさしく見守られているような、そんな安心感があるんですよ。そのおかげで、RCの緊張も最初だけでした。
 Mさんは、書道家としてもすごい人で、この日もたくさんのお弟子さんたちがいらっしゃってました。忙しい中、RCのために時間を作ってくれてありがとうございました。このブログ、Mさんも見てくれてたんですよね。何だか、ちょっぴり意識しながら書いてます。
 RC、自分ではずいぶん以前より変わってきてると思ってたんですが、Mさんから見ると、まだ十分じゃないみたいなんです。秘密を抱え続けることで、魂は疲弊していく。Mさんに、今日何度も指摘されたことです。
 その通りなんだと、RCも思います。MさんとPCさん、二人に対してだけでも、本当のことを打ち明けたい。それができれば、どんなに楽になれることか。RCの魂も、きっとそれを望んでいるに違いないんです。
 結局、HAの言葉を聞くことはできませんでした。HAの魂は、レインの意識の深い部分で、今はまだ眠り続けている。そして、解放されるのを待っている。いくらMさんの能力をもってしても、眠りを覚ますのは難しいのだそうです。
 かつて魂を通わせた相手でしか、その眠りを覚ますことはできない。Mさんが言いたかったことはそれなんです。
 ああ、これもその通りですよね。好きな人の気持ちを知りたかったら、まずは、自分が素直にならないと。
 マンションに戻ってから、ずっと同じようなこと考えてるんですけど、なかなかその答えがでません。いや、答えははっきりと出てるんです。勇気が出ないだけなんですよね。
 焦ることはない、ともMさんは言ってくれました。もうちょっとだけ、その言葉に甘えさせてもらうことにします。気持ちを整理する時間が、今のRCにはどうしても必要なんです。
 お土産だと言って、帰りに額縁に収めた書をいただきました。Mさんがその場で書いてくれたものなんですよ。大感激です。でも、申しわけないことに、どう読んでいいのかわからなくて、Mさんに笑われちゃいました。ごめんなさい。
 帰りの車の中で、PCさんがクスクス笑いながら教えてくれました。あれって、“開けゴマ”と読むんですね。お茶目なMさんが、ますます好きになりました。RCに、もうちょっとだけ時間をください。必ず心を開きますから。魂を解放しますから。そして、HAを眠りから覚ましたいと思います。開けゴマっていう具合にね。
 皆さんの明日に、どうか虹色の橋がかかりますように!

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14 外出が嫌い
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不倫のライセンス 8 嘘つき

8 嘘つき

 窓辺に並べられた観葉植物。色とりどりの熱帯魚が泳ぎまわる水槽。おそらくこれらは、部屋に訪れた人を、少しでもリラックスさせようとする配慮なのだろう。残念ながら、今の私にはあまり効果がなかったようだが。
 生き生きと育って見える植物も、やがては輝きを失い枯れ果てていくだろう。仲良さそうに泳ぐペアの魚も、やがてはその良好な関係にヒビが入るに違いない。メス魚の方は妊娠しているように見えるが、果たして生まれてくる子供は幸せになれるだろうか。
 法律事務所の応接室で、私は一人苦笑を漏らしていた。ネガティブな発想も、ここまでくると重病である。私は、これほどまでに悲観的な性格だっただろうか。そして、こんなにも脆い人間だっただろうか。
 人前で、思いがけなく流してしまった涙。友人夫婦の口喧嘩をやめさせるには、十分すぎるほどの威力はあった。しかし、その涙で一番のショックを受けたのは、間違いなく私自身だったのである。
「ごめんね、待たせちゃって」
 ドアの開く音に続いて、私の耳に、聞きなれた女性の声が飛びこんできた。
「こっちこそごめん。忙しかったんでしょ」
 立ち上がりかけた私を見て、彼女は、「いいからいいから」と軽く微笑み、足早にソファーへと腰を下ろした。
 新山瞳子。弁護士として働く彼女との付き合いは古い。最近では、二人で会って話す機会も、以前よりだいぶ少なくなっていたが、その颯爽とした雰囲気は、女子高時代と何も変わってはいない。いや、むしろ女性としての強さに磨きがかかったようにさえ見える。
「この忙しさは、私が望んだものだから。それに、セシルに一度見せたかったの、この城をね」
「自分の事務所なんて……。やっぱり瞳子はすごいよ」
 素直にそう思えた。努力家で、何事にも動じない彼女の性格を考えれば、現在のこの成功も、驚くようなことではないのかもしれない。瞳子は昔から、常に私よりも一歩か二歩前を行くような存在だった。そんな思いにかられるのは今でも変わらない。弁護士としてさらなる成長を遂げようと、全速力で駆けていく彼女の後姿を、専業主婦の私は、買い物かごを抱えたままの頼りない足取りで、歯ぎしりしながら必死に追いかけている。
 トレーを手にした若い男性が、「失礼します」と部屋の中に入ってきた。紅茶と星形のクッキーが、テーブルの上に置かれる。私が礼を言うと、彼も軽く頭を下げすぐに出て行った。
「お城を守る兵隊さん?」
 私はおどけた口調で瞳子を見やった。
「彼、加藤君。私の男なの」
「はあ……」
 予想外の答えに、思わずつまんだクッキーを落としてしまいそうになる。どうやら私は、星を掴めない運命にあるらしい。
「そ、そうなんだ。じゃあ、兵隊さんと言うよりは、白馬に乗った王子様ってとこかな」
「まあ、彼がそうなれるかどうかは、これからのしつけ方にかかってるんだろうけどね」
「しつけ方って、白馬の? 違うよね」
「男のしつけに決まってるでしょ。重要よ。もし、夫にしようと思うんならね」
「はあ……」
 一歩や二歩どころではない。瞳子は、私のはるか前を疾走していた。後姿がみるみる遠ざかって行く。
「そんなことより、相談あるんじゃなかったの? 友達夫婦のことだっけ?」
 瞳子に言われ、私はようやく今日の目的を思い出した。
「そうなの。私が、その夫婦喧嘩の仲裁役みたいなことになっちゃって……」
 泉美と勉の畑中夫妻のことについてである。ある程度のことは、前もって電話でも説明してあった。私一人では抱えきれなくなってきているので、弁護士の立場として何かいいアドバイスはないか、というのが今日の目的だったのである。あくまでも表面上のことなのだが。
 瞳子は、紅茶を飲みながら、黙って私の話に耳を傾けていた。ため息を漏らしたり、微笑したり、またため息を漏らしたり、小首をかしげたり、やっぱりため息を漏らしたり。
 やがて、「私に言わせれば」と、ティーカップをそっとテーブルの上に置いた。
「結婚して仕事をやめたっていう時点で、すでにその彼女の間違いは始まっていたの。専業主婦という立場。社会的にそれが、どれだけ不安定なものなのか。どれだけの不利益をもたらすものなのか。きっとわかっていなかったのね。と言うより、わかろうとしなかっただけかもね」
「それじゃあ、彼女の場合、また何か仕事持った方がいいのかなあ」
「そういうことじゃなくて……」
 今日何度目かになる大きなため息をついて、瞳子は、「意識の問題よ」と続ける。
「男性に幸せにしてもらおう。そう思ってるうちは、何をやっても駄目。自立するって、経済的なことだけじゃないのよ。むしろお金は二の次」
 人差し指で眼鏡の位置を直し、瞳子は言い聞かせるような口調で、「意識の問題よ」と繰り返した。まるで、出来の悪い生徒に対する教師のようである。
「なるほどねえ。意識の問題ねえ。なるほどなるほど。意識かあ。うん。そうじゃないかなとは、私も思ってたり思ってなかったりしてたんだけどねえ。なるほど。深いなあ。なるほどなるほど」
 出来の悪い生徒には、その程度の感想しか言えない。他にできることといえば、「ところで、別の友達の話なんだけど」と、唐突に話題を変えることぐらいである。
「お前も浮気すればいいだろうって、旦那さんから言われたらしいんだけど……。瞳子、それどう思う?」
 さりげなさを装って聞いてみた。本来の目的を果たさないまま帰るわけにはいかない、と心の中で呟く。
「へえ。相当な自信家みたいね、その旦那」
「うん。やっぱりそう思うでしょ。奥さんには、どうせ浮気なんかできっこないんだ、ていう自信があるのよ。きっときっと、その旦那さんにはね」
 話している私の顔を、なぜか瞳子は、口元に薄い笑みを浮かべながらじっと見つめていた。私の額に、“嘘つき”という文字でも浮き出しているのだろうか。
「もしも、もしもよ。もし、もしもの話として、たとえば、もし……」
「わかったから。もしも、何なの?」
「も、もし、旦那の言う通りに浮気したとしたら……。それって、何かの罪になる?」
「妻の浮気を容認したのかどうか、その後、はっきりと旦那に確認したことはあるの?」
「それはまだない。ないらしいの。友達の話ではね」
「そのお友達は、これからどうするつもりだって言ってる?」
「迷ってるって言ってた」
「それは、自分も浮気する可能性が、あるかもしれないってことよね」
「さ、さあ。どうなのかな。いいなって思う男の人はいるみたいなんだけど」
「セシル」
「はい?」
「もし、離婚するつもりなら、私がいつでも力になるからね」
「はい?」
「お友達に、そう伝えておいて」
「はい?」
 微笑する瞳子に見つめられる中、私は額の汗を拭いつつ、むかし彼女に言われた言葉を思い出していた。
 嘘つく時のセシルって、急にまばたきする回数が増えるんだよね。

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9 乾杯の準備
不倫のライセンス 目次

テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

雨と虹の日々 12 宝石が嫌い

12 宝石が嫌い

 俺は宝石が嫌いだ。
 あの小さな石っころ。人間にとって、ことに女にとっては、何やら特別な価値があるらしい。指にはめたり、耳や頸からぶら下げたりすることで、自分の美しさを引き立てているのだという。その目的がうまく果たされているかどうかは別として、私は強欲な人間です、というアピールには成功しているようだ。
「さっきも言いましたけど、モデルのお仕事は、ただのバイトですよ。ああいう世界が、私に向いてるとも思えないですし」
 はしゃいだ声を上げつつ、麗子は大げさにかぶりを振った。耳たぶにぶら下がっている石っころが、そのたびに目障りな光を放つ。
 部屋には、バンドメンバー全員が顔を揃えていた。さらにもう一人、宝田と名乗る男が、先ほどから、麗子のことをしきりにほめそやしているところだった。
「何もバンド活動だけにこだわらなくたって、麗子ちゃんぐらいのルックスがあれば、それを利用しない手はないよ」
 宝田は、斜向かいに座る麗子の方へ、半ば身を乗り出すようにしている。年齢はよくわからない。ジーンズにTシャツという格好と、目尻にはっきりと刻みこまれた皺とが、妙にアンバランスに見える。
「もし、バンドにとってプラスになることなら、私、どんなことでもするつもりではいますけど……」
 麗子は首を傾げ、困ったような微笑みを浮かべた。すぐさま、「そうこなくっちゃ」と宝田が声を弾ませる。
 麗子と宝田。今は完全に二人だけの世界になっていた。直人は、ただ黙って麗子の隣でギターをいじくっている。秋男は、居心地の悪そうな顔をして宝田の隣で貧乏揺すりをしている。広道は、退屈そうにピアノの前の椅子で大あくびをかいている。そして虹子は、立ったままサイドボードの上の俺を撫で続けている。
「何といっても、ボーカルはバンドの顔だからね。まずは麗子ちゃんを前面に出して……」
「そ、そんなことより……」
 麗子は、宝田の前で軽く片手を上げ、いつまでも続きそうなそのおしゃべりを中断させた。「デモテープ聴いてくれました?」と、早口で続ける。
「ああ、もちろん聞かせてもらったよ。そのせいだよ。ついついこんなに興奮してしゃべっちゃってるのも」
 うれしそうに眼を細める宝田。他のメンバーが、ますます視界に入らなくなりそうなほどの細さだ。
 それとは逆に、瞳を大きく見開いたのは麗子である。宝石のように輝くその瞳には、やはり他のメンバーの姿は映らないようだった。
 ややあって、大きな咳払いが聞こえた。全員の視線が広道に集まる。
「で、どうなんですか、俺らの音楽は? ボーカリストが美人だっていう以外に、何か一つぐらいいいとこありますか?」
 頬のあたりをかきながら、広道が面倒くさそうに言った。秋男も、「良く聴かないと、ベースは目立たないからなあ」と小声で付け足す。
「麗子ちゃん以外のことで上げるとすれば……」
 もったいつけるように、宝田はそこでいったん言葉を切った。全員の視線が、広道から宝田へと移る。秋男の、「もしかして、ベースのテク……」という声がかすかに聞こえた。
「直人君は、なかなかのセンスをしてると思うよ。ギターというより、作曲についてのことだけど」
 直人が、照れくさそうにペコリと頭を下げた。隣では、麗子が満足そうにうなずいている。一人うなだれているのは秋男だ。
「幸助君が残した楽曲が月だとすると、直人君の作品は太陽、いや、このたとえはちょっと陳腐すぎるかな。とにかく、この対比が面白い。二つの異なるカラーを持ってる。これは、このバンドとしての、かなりの強みになるはずだよ。幸助作品が、森に囲まれた湖だとすると、直人作品は、海に浮かぶ小島。いや、ちょっと違うな。幸助作品が……」
 納得のいくたとえが見つからないのだろう。胸の前で腕を組んだまま、宝田は口の中でブツブツと言い続けている。
 メンバーの反応は、真っ二つに分かれていた。麗子と直人の満足顔チームと、広道と秋男の不満顔チームである。
 虹子はといえば……。俺にはよくわからない。その顔からは、どんな感情も読み取ることができなかった。俺のことをじっと見つめたまま、先ほどから何やら小声で言い続けている。「私にはできる」だとか、「私は戦士」などと聞こえるのだが気のせいだろうか。
「宝田さん?」
 麗子に声をかけられ、宝田がハッと我にかえったような顔つきになる。
「ごめんごめん。つい自分の世界に入りこんでしまった」
「アーティスト魂、蘇ってきたんじゃないんですか?」
 いたずらっぽく微笑する麗子に、宝田は苦笑し、直人は「アーティスト?」と首を傾げている。
「宝田さんも、プロを目指して、バンド活動やってたことあるらしいの」
 麗子がすぐさま説明を加えた。
「昔も昔、大昔の話だよ。自分には、とんでもないほどの才能があるって、そう信じていた頃の、いや、あれは単なる自惚れだな」
「そんなあ。今度、ぜひみんなにも歌声聞かせてあげてくださいよ」
「おだてるなよ。だんだんその気になってきたじゃないか。夢を追いかけていても許される歳は、もうとっくに過ぎてるんだ」
「生意気言うようですけど、年齢制限なんてものはありませんよ。夢を追うこと、あと、恋をすることにもね」
「まいったな。どんどん話が脇道にそれていくじゃないか」
「ごめんなさい。出しゃばりすぎでした。うちのメンバーにも、早く宝田さんのことわかってもらいたくて」
 麗子と宝田。再び二人だけの世界へ入りこんでしまったようだ。秋男の、「ベースは損だよなあ」という呟きなど、まったく耳には届いていないらしい。
「麗子からは、何かビッグニュースがあるって聞いてたんですけど……」
 広道の問いかけに対しては、すぐに反応があった。「そうなんだ」と、宝田は一度部屋にいる全員の顔を見渡した。
「近く、大きなライブイベントがあってね。もちろん、プロミュージシャンもたくさん参加するイベントだ。そのステージに、何組かのアマチュアバンドを出そうってことになってて……」
 話を聞いてる途中から、広道の表情はみるみる変化していった。先ほどまでの不満顔は、どこかへ飛んで行ってしまったらしい。秋男も、「ついに、ベーシストにも光が」などと声を震わせている。
「夢を追いかけていても許される歳は、もうとっくに過ぎてるってさっき言ったけど、実は、まだ俺の夢は終わりじゃない。いや、一度消えかけた何かが、再燃したと言った方がいいかな。うん、今の表現はしっくりくるな。火をつけたのは君たちだ。俺はその火を、でっかい炎にまで育て上げるつもりだ。君たちを必ずビッグにする。それが、俺の夢の続きだ。ううん。今のはちょっとくさすぎるかな」
 ややあってから、麗子が、「というわけなの」と声を弾ませた。
「私たちのバンドのマネージメント、宝田さんに任せようと思ってるの。全面的にね。何か異議ある人いる? いるはずないか。ああ、今日は何だかすごい日になっちゃった。記念すべき日。船出の瞬間って感じ。宝箱を探しに行く冒険家かなあ。大きな宝石がいっぱい詰まった宝の箱。ああ、今のこの気持ち、どう表現すればいいんだろう」
「さすが麗子ちゃん、表現力豊かだね。作詞をやってるだけのことはある」
 その瞬間、今まで俺の頭を撫でていた虹子の手がピタリと止まった。広道、秋男、直人の三人が、チラリとこちらに目を向けた。
「表現力豊かなのは、宝田さんの方ですよ」
 麗子はなおも興奮状態にあるようだ。いつも以上に甲高い声。そして満面の笑み。
「そんなに感激したんだったら、今日のことも、いつか詞にするといい。亡くなった幸助君のエピソードも、一つ二つ絡めて書くといいんじゃないかな。実際この幸運は、幸助君の魂が引き寄せてくれたのかもしれないしね」
「違う!」
 突然の叫びだった。
 俺を含め、すべての視線が、いっせいに虹子へと向けられる。口をポカンと開けっ放しにしている宝田。キョロキョロとあたりを見回し始める直人。眉根を寄せたまま微動だにしない広道。「お腹が痛くなってきた」と小声で訴える秋男。そして、中途半端な笑顔を凍りつかせている麗子。
 重たい静寂が室内を占拠している。沈黙を作り出したのは虹子だ。そしてこの沈黙を、彼女自らが破ることとなった。
「麗子なんかじゃない。詞を書いたのは私。こ、幸助の、幸助の恋人だったのも、この私なんだから!」

虹色日記

 RC、今日はブログお休みしようかと思いました。へとへとなんです。でも、報告ぐらいはしなきゃ、応援してくれる皆さんに申しわけないですからね。もうちょっとだけ気を失うの我慢します。
 真実を口にするって、こんなにエネルギーがいることなんですね。そのことがよくわかりました。ということは、やっぱり今日は、RCにとってすごく重要な日だったってことなんですよね。
 皆さんにどう伝えればいいんだろう、この感じ。長い間いじめられっ子だった子供が、いきなり逆襲に出たとしたら、きっとこんな空気になるんじゃないのかなあ。みんなの顔、写真に撮っておきたいぐらいでしたよ。何か、起きてはいけないことが起きてしまったような、自分たちの耳を疑ってしまうような、伝説上の生物を目撃してしまったような、全員そんな表情してましたね。もちろんBCもですよ。あの気位が高いBCもです。
 でも、さすがにその後は気まずい空気でした。よくあるヒーローものみたいにはいきませんね。戦いが終わっても、すぐにその場から姿を消すなんてことは無理です。現実にはそんなカッコよくいきません。だいたい、戦いの舞台がRCのマンションなんですから。
 今日のところは、いったん解散しよう。もし、WRのその言葉がなかったとしたら、今頃どうなっていたことか。百パーセント修羅場だったと思います。BCの瞳もメラメラしてましたしね。ああ、思い出しただけでも恐ろしい。胃腸を壊したAMにも、ちょっとだけ助けられた感じ。
 RC、最後はかなり情けない女戦士になってしまいました。レインが、王子様にでも変身してくれれば心強いのになあ。
 そういえば、今度ついにレインを見てもらえることになりました。Mさんにですよ。もしかしたら、そこでHAの言葉を聞くことになるのかも。期待しすぎないようにって、PCさんには言われてるんですけどね。Mさんも、猫に乗り移った霊魂と交信するの、どうやら初めてらしいんです。どうなっちゃうんだろう。うまくいってほしいけど、何だかそれも怖い気がする。
 PCさんには、一緒に付いて来てもらいたいって、さっきメールしたんですけど、無理ばっかり言ってごめんなさい。いいお返事待ってます。その代わりと言うわけじゃないんですけど、レインの写真アップしておきますね。PCさんが好きだって言ってたポーズです。
 「見返りレイン」は、窓の外を眺めている時に、後ろからキャットフードの音で振り向かせました。大成功です。PCさん、もしこの写真気に入ってもらえたら、RCの我儘許してください。一人でMさんに会うなんて、あまりにもハードル高すぎます。たぶん緊張で倒れてしまうかも。何しろRC、女戦士としては、まだ若葉マークなんですから。
 皆さんの明日に、どうか虹色の橋がかかりますように!

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13 狭い場所が嫌い
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テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

不倫のライセンス 7 不毛な論争

7 不毛な論争

 自分自身が抱えている問題だけでも精一杯だというのに、今の私はいったい何をやっているのだろう。泉美と勉。初々しい似合いのカップルだった。二人の結婚を後押しするのにも、何の迷いも感じなかった。そして私は今、そんな二人の対決を、レフェリーとして見守ることになってしまったのである。
 戦いの舞台は、杉本家のリビングルームと決まった。テーブルの上には、クッキーとカフェオレ。クッキーは、意識してハート形のものを用意した。〈幸せになれる洋菓子99〉という料理本を見ながら、私が今朝早起きして作ったものである。つい最近、この本の著者が、不倫をしたとかでずいぶんワイドショーを騒がせていたようだが、とりあえず気にしないことにした。著者自身が、幸せになれる洋菓子を口にしているとは限らない。不倫をしたからといって、幸せになれないとも限らないのだ。
 カフェオレは、ミルクたっぷりのものにした。これはもちろん、イライラを抑えるとされるカルシウム効果を期待したからである。イライラしたあげく、凶器を振り回して大暴れする子牛の姿など、私は一度たりとも見た覚えがない。
「釣った魚に餌をあげないって、こういうことだったのね」
 泉美はため息混じりに言った。幼児向けアニメの声優にでもなれそうな、場合によっては微笑ましささえ感じる声である。もちろん今は、その声に微笑んでいられるような場合ではない。
「最初は、可愛らしいエンゼルフィッシュを釣ったつもりだったのが、気がついてみると、いつの間にかそれが、見たこともないような深海魚に変わってた、てことあるんだよなあ」
 勉は皮肉混じりに言った。チラリと私の方へ視線を向け、僕、うまいこと言うでしょ、という表情をする。うまいこと言っているような気もするが、もちろん今は、ご褒美の座布団を差し出している場合ではない。
「見たこともないような深海魚だったら、それって結構貴重じゃない? あ、でも、どんな餌あげたらいいのか、やっぱり迷うのかも」
 私はおどけて言った。そして、両サイドから冷たい視線を浴びることとなった。
 とりあえず、クッキーとカフェオレを二人に勧めることにした。どちらも二十七歳の立派な大人だ。年齢相応の自制心は、しっかりと持っているに違いない。持っていてもらわないとこっちが困る。
「これ、手作りなの。食べてみて。ハート形、かわいいでしょ。あ、ちょっとヒビが入ってるやつもあるけど、気にしない気にしない」
「セシルさんのダーリンって……」
 泉美は、ヒビ割れしていないハートを一つつまみ上げ、「結婚前と後で、何か変化ありました?」と、私に訴えるような視線を向けてきた。
「そりゃあまあ、あったりなかったりで……。失敗したやつ、食べちゃおうっと」
 ヒビの入ったハートが、私の口の中で、あっという間に粉々になっていく。
「たとえば、どんなところが変わったんですか? 具体的に教えてください」
 ハートを一つ犠牲にしたぐらいでは、泉美の好奇心をそらすことはできなかったようだ。いくら可愛らしいしゃべり方をしていても、いくら頭の上に大きなリボンを付けていても、こうしたごまかしの効かないあたりは、やはり二十七歳の立派な大人なのである。
「変わったというより……」
 泉美の視線から逃れるように、私は勉の方へと顔を向けた。
「知らなかったことに、気づかされた、ていう感じかな。たぶん、お互いになんだろうけどね」
「わかりますわかります。僕も、結婚した後にたくさん気づかされましたから。隠し続けられていた、恐るべき真実ってやつをね」
 得心がいったとばかりに、勉が大きく二、三度うなずいて見せる。
「こ、この際だから、その恐るべき何とかっていうの、思い切って言っちゃえば……」
 決して聞きたかったわけではないが、話しの流れ上、こうなるともう聞かざるを得なくなってくる。たとえどんなに泉美から睨まれようとも。
「結婚前は、金の話なんて、ほとんど口にすることなかったんですよ。それが、今じゃあ……」
 勉はそこでいったんため息をつき、チラリと泉美の方へ目をやった。二人の間で火花が散ったように見えたが、きっと私の気のせいだろう。何しろ二十七歳にもなる立派な大人同士なのだ。しかも、すでにカルシウムを摂取している身である。子供じみた喧嘩に発展するわけがない。発展してもらってはこっちが困る。頑張れカルシウム!
「新しいお洋服を買う余裕がないだとか。洗濯機を買い替えないとそろそろ故障しそうだとか。いつになったら一軒家持てるのだとか。たまには外食したい。たまには旅行したい。たまには……」
「ストップストップ! もういい。持ち時間終了。しゃべりすぎで反則負け」
「何言ってんだよ。セシルさんがどうしてもって言うから説明してるんじゃないか。お前がどんなに欲張りかってことを」
「今のはどう聞いたって、自分の稼ぎの少ないせいで、妻にみじめな生活をさせてます、ていう懺悔の言葉にしか聞こえないんだけど」
「お前の、そういうものの言い方が、まず許せないんだよ。働きもしないで、毎日ボケッとしてるくせに」
「何言っちゃてるわけ? 仕事やめて、家庭に入ってくれって言ったの誰でしたっけ? あれは、私の幻聴? しかも、専業主婦の大変さをまったく理解してない。ねえ、セシルさん」
「は、はあ……」
 いきなり同意を求められても困る。今の私は、カルシウムにイライラを抑える効果などない、という新事実に打ちのめされている最中なのだ。
「私たち主婦っていうのはねえ……」
 泉美が、私の肩に手を乗せてきた。“仲間”という意味らしい。
「食事の用意とか、掃除とか、洗濯とか、食器洗いとか、食事の用意とか……」
「あのお、今の泉美ちゃんの話しの中で、食事の用意っていうのが、二回出てきたと思うけど、それは、朝と晩っていう意味だから」
 主婦仲間としての私の解説は、畑中夫妻の前ではカルシウム以上に無力だった。泉美も勉も、興奮のせいで顔が赤くなってきている。
「恩着せがましいなあ」
「それ、こっちのセリフ。俺が養ってやってる、みたいなことダーリンいつも言ってるじゃない。俺のおかげで生活できてる、みたいなこともね。あれこそ、恩着せがましいんじゃない? 恩着せがましいプラス、身の程知らずよ。威張りたいんだったら、セシルさんのダーリンと同じぐらい稼いできてよね」
「お前が、セシルさんぐらいの美人妻だったら、俺だってもっと仕事に力入れてたはずだ。身の程知らずなのはどっちなんだよ。お前の初めて化粧落とした顔を見て、俺がどれだけ衝撃を受けたと思ってるんだ。せめて、亭主の顔を立てるぐらいの、そんな気配りができる妻になれないのか? 今のお前は、ただの重荷でしかないんだよ」
「お、重荷? 今、重荷って聞こえたんだけど、私の聞き間違いかなあ。夫が妻に対して、絶対言ってはいけないセリフ、トップテンに、確かそんな言葉があったような気がしたんだけど。ねえ、セシルさん?」
「第十一位だ。ギリギリセーフだ。ねえ、セシルさん?」
「ど、どうかなあ。重荷ねえ……」
 もうここまで来ると、とても私の手には負えない。逆に、変な笑いまでもがこみ上げて来さえする。犬も食わぬ、とされるものを、私はもう満腹になるまで食べてしまったのだ。わけのわからない笑いがこみ上げてきたところで、それはそれで仕方がないことである。
「重荷は重荷でも、今のはきっと、大きなリボンの付いた可愛らしい荷物のことでしょ。きっときっと、クリスマスプレゼントみたいな、ね、ね」
 残念ながら、畑中夫妻とその笑いを共有することはできなかったが。
「許せない」と、目を血走らせる泉美。
「こっちだって」と、鼻の穴を膨らませる勉。
「この試合、時間切れ引き分けね」と、決着を先送りする私。
 電話が鳴ったのは、その時だった。
 ようやくこの場から抜け出すことができる、私にとってはまさに救いの電話。間違い電話であろうと、いたずら電話であろうと大歓迎である。
『何だか、騒々しいな』
 相手は夫だった。
「う、うん。今、DVD見てたとこなの。劇場未公開のB級アクション映画」
 受話器を手にしたまま、私は、たった今抜け出してきたばかりの戦場に目をやった。不毛な論争は、なおも続行中である。
「ああ、もう少しで、血しぶきが上がる場面になりそう」
『動物が出てこないのは、ぜんぜん興味ないからなあ……。そんなことより、今日は遅くなりそうだから、晩飯はいいよ。これから残業なんだ』
「そう。わかった」
 受話器を置き、私は一度大きく深呼吸をした。視線の先には、激しい言葉をぶつけ合う一組の夫婦。
「ちょっと二人とも、私の悩みも聞いて」
 パンッパンッと掌を打ち鳴らし、「私にだって悩みぐらいあるんだから。人に分けてあげたいほどのね」と二人に向かって続けた。
 静寂を取り戻した我が家のリビングルーム。私の口元に、視線が集中しているのがわかる。
「今の電話、主人からだったんだけど……。内容は、今夜は残業で、帰りが遅くなるってことなの……。だけど、違うの。たぶんね。残業っていうのは嘘。ほ、本当は……」
 なぜか、それ以上は続けられなかった。私の意志を無視して、吐き出すはずのものが、喉の奥でUターンし始める。
「セシルさん」
 二人の声が、ほぼ同時に聞こえた。その声音には、明らかに気遣いの響きが感じられる。どうしてだろう。今の私が、そんなに人を心配させるような表情をしているはずはない。私はただ、夫の浮気話をネタに、二人のことを驚かせてやろうと思っただけだ。どこの夫婦にだって、問題の一つや二つぐらいあるのよ。そう軽く笑って見せ、二人の気を少しでも楽にしてやろうと思っただけなのだ。
「だ、大丈夫ですか?」
 泉美が戸惑いの声をあげる。勉が困惑したように眉根を寄せている。そんな二人の姿が、ゆっくりと霞んでいく。私は泣いていた。声もなく、ただ立ちつくし、理由もわからないままに、私は涙を流し続けていたのだった。

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8 嘘つき
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雨と虹の日々 11 仕事が嫌い

11 仕事が嫌い

 俺は仕事が嫌いだ。
 食うために働くのだと、人は言う。しかし、食うだけで満足している人間など、果たしているのだろうか。少なくとも、俺はまだお目にかかったことがない。どうやら人って動物は、おのれの胃袋に収まりきらないような、何か得体の知れないものを求め働いているに違いないのだ。
 俺がガキの頃暮らしてた家の主人も、朝になるといつも背広に着替えてたっけ。あれもきっと仕事に行くためだったのだろう。「休みたい、休みたい」が口癖の主人だった。「家のローンを払い終ってからね」が得意な妻だった。いったいどんな仕事をしていたのだろう。やつれ果てた主人の顔を見る限り、食うために働いてるとはどうしても思えなかったのだが。
 それはそうと、俺にとって重要なのは今の暮らしだ。何らかの仕事をしているという気配を、虹子の生活ぶりから感じ取ることはできない。これは実に不可解なことである。人は、働かなければ、食ってはいけないはずではなかったか。最近の彼女はいつも腹を空かしているようだが、それは決して食えないのではなく、ただ単に食うのを我慢しているにすぎない。
 今のところ、生活に困ってる様子もなければ、俺のキャットフードが減らされるということもない。だからといって、もちろん安心するわけにはいかないだろう。近頃の俺は、虹子に対して無警戒すぎていたのかもしれない。彼女の収入源はいったいどこにあるのか。少なくとも、そのことだけでもはっきりさせておきたいもんだ。
「珍しいなあ」
 ドアの向こうから、伯父さんの声が聞こえてきた。陽気な口調が、「虹ちゃんの方から呼んでくれるなんて」と続ける。
 確かに珍しいこと、いや、初めてのことではないだろうか。俺の知る限り、間違いなく虹子は、伯父さんの訪問を迷惑がっていた。大事な話があるから、と今朝の電話で虹子はしゃべっていたが、まさかその相手が伯父さんだったとは思わなかった。
「よお、クロスケ」
 部屋に姿を現すなり、伯父さんは軽く片手を上げた。どうやら、俺に向かっての挨拶らしい。そのまままっすぐ、俺がいるサイドボードへと近づいてくる。
「レインには、かまわないで」
 その鋭い声に、ピタリと伯父さんの動きが止まった。振り返った先にいるのは、もちろん虹子である。伯父さんとともに部屋に入ってきた彼女は、すでにソファーへ腰を下ろしていた。
「あ、ああ。わかってる。何か、大事な話があるんだったよな」
 慌てたようにサイドボードから離れて行く伯父さん。リビングテーブルを挟んで、虹子と向かい合う位置に座る。表情には、明らかに戸惑いの色が浮かんでいた。
「今いろいろと忙しくて、ゆっくりしてる時間ないの」
 厳しい口調だった。ここにいるのは、本物の虹子なのだろうか。ふとそんな疑問さえ湧いてくる。伯父さんが戸惑うのも無理はなかった。いつも一緒にいる俺ですら、こんな彼女を見るのは初めてなのだから。
「虹ちゃん、いったいどうしたってんだ? そんなおっかない顔して」
「いつになったら田舎へ帰るつもり? 仕事だってほったらかしのままなんでしょ? この辺ぶらぶらしてたって、しょうがないじゃな……」
「お、おいおい。落ち着きなさい。どうしたんだ、虹。やっぱり、今日のお前ちょっと変だぞ」
 伯父さんは手の平を虹子へ向けた。黙らせようという目的のようだったが、彼女にはあまり効果がなかったようだ。
「ぜんぜん変なんかじゃない」
 虹子の勢いは止まらない。むしろ激しさを増したようにさえ見える。
「逆に今までが変だったの。我慢ばっかりしてきた今までがね」
「な、何を我慢してきたってんだ? つらいことがあるんなら、いつだって聞いてやるから、まずは少し落ち着きなさい」
「伯父さんに……」
 そこでいったん間を取り、虹子は、「一つお願いがあるの」と続けた。先ほどよりも、やや抑えた声音になっている。
「お願い? ああ、言ってみなさい。……どうした? 伯父さんに遠慮なんかいらないぞ。まあ、私と結婚してくださいっていうのだけは困るけどな」
 伯父さんの口調にも、やっと余裕が出てきたようだ。手の甲で額の汗を拭い、ほっとしたような笑みを虹子へと向ける。
 しかし、伯父さんの笑顔が長続きすることはなかった。
「私に、これ以上付きまとわないでください」
 虹子の言葉が、その場の空気を凍りつかせる。
 絶句する伯父さん。頬のあたりが、ピクピクと数回痙攣した。額からは、また新たな汗が滲み出てきているようだ。
「付きまとわないでってか……」
 ポツリと呟き、伯父さんは大きくため息をついた。顔色がみるみる赤くなっていく。
 何か嫌な予感がする。こういう状態に陥った人間を、俺は今までにも何度か見てきた覚えがあった。とんでもないことをしやがって。昔そう言って俺のことを追いかけてきたやつも、確か真っ赤っ赤なな顔をしてたっけ。彼の植木鉢をトイレ代わりに利用したのが、よっぽどお気に召さないらしかった。
「迷惑なんです」
 虹子がきっぱりと言い放つ。彼女はまだ気づいていないのだろうか。自分のしていることが、火に油を注ぐようなものだということに。植木鉢をトイレ代わりに利用するようなものだということに。
「まさか、たった一人の姪っ子から、そんなこと言われるとは……」
 声が小刻みに震えだす伯父さん。まさに噴火寸前の状態である。
「もう、私の前に姿を見せないでください」
 さらに追い打ちをかける虹子。まさに、銀食器をトイレ代わりに利用するも同然の行為である。
 怒りの打ち上げ花火は、間もなく点火されることになるだろう。
「虹、いい加減に……」
 しかし、俺の予想した通りにはいかなかった。確かに点火されたのだろうが、どうやらそれは線香花火だったらしい。
 中途半端な表情のまま、不意に口を閉ざしてしまった伯父さん。その視線の先は、テーブルの上に置かれた茶封筒に向けられていた。たった今、虹子が差し出したものである。
「な、何だ、これは?」
「伯父さんの大好きなもの」
 その説明だけで、伯父さんには封筒の中身がわかったらしい。表情にあった怒りの色も、今ではすっかり消えてなくなっている。
「ただでとは言わない。これ持って田舎へ帰ってほしいの。ただし、もうここへは来ないで。それが条件」
 伯父さんは、虹子と封筒を交互に見比べながら、必死に何かを思案しているようだった。
 ややあってから、静かに口を開く。
「金の出どころは、いったいどこなんだ?」
 その質問は、まさしく俺が知りたかったことでもある。伯父さんの存在も、たまには役に立つこともあるものだ。
「もちろん、ママが残しておいてくれてたものです」
 即答だった。
「ママがねえ……」
 納得できないといった風に言うと、伯父さんはテーブルの上の茶封筒を手に取った。すぐに封を開け、中身を覗きこむ。
「二百万ある。私が出せるのはそれだけ。それだけあれば、もう十分でしょ」
 早口で言うと、虹子は急に立ち上がり、サイドボードの方へと歩み寄った。「そろそろ、お腹空いたかな」などと俺に話しかけてくる。
「妹が、そんなに貯めこんでたなんて話、俺はまったく聞いてなかったぞ」
「そんなこと、いちいち話すわけないじゃない。伯父さんの金遣いの荒い性格、ママ、すっごく心配してたもん」
 俺の頭を撫でながら、虹子は言った。伯父さんの方を振り返らないまま、「ホステスって、やっぱり儲かるみたい」と続ける。
「ここの家賃も、大学に通う金も、全部ママの遺産ってわけか?」
「そうだってば」
「パパからじゃないのか?」
「違う」
 きっぱりとした返答ではあったが、虹子の手の動きが、ほんの一瞬だけ止まったような気がした。
「俺だって……」
 そこでいったん間を取り、伯父さんは、「ある程度のことは知ってるんだ」と意味ありげに続けた。
「何のこと?」
「もちろん、お前のパパのことだ。お偉い政治家先生のことだよ」
「し、知ってるんなら、その人に、直接聞いてみればいいじゃない」
 虹子の表情には、今やはっきりとした動揺の色が浮かんでいた。室内は、時が止まったように静まり返っている。
 しばらくして、虹子は大きく一度息を吸いこみ、それから、意を決したかのように伯父さんの方を振り返った。
「それ、いらないんだったら、返してもらうけど」
 結局、その言葉が決め手になったようだ。
 茶封筒を慌ててポケットにしまいこむと、伯父さんはようやく重い腰を上げた。部屋を出ていく前に、一度だけ虹子を振り返る。そして、苦々しげに呟いた。
「妹を自殺に追いこんだやつのこと、俺は絶対に許さねえ」

虹色日記

 勇敢な女戦士は、早くもバテバテです。だけど、RCやりましたよ。第一の難関は無事突破です。伯父さん追っ払い作戦は、一応成功しました。あくまでも一応ですけどね。
 こうしてパソコンの前に座ってる今でも、まだ心臓のドキドキが続いてます。伯父さんと対決してる時も、いつ倒れてしまっても不思議じゃない状態でした。
 今回も、Mさんのアドバイスが効きました。呼吸法と自己暗示プラス、途中からはレインの力も借りちゃった。呼吸に合わせて、規則正しくレインの頭を撫でることで、どうにかパニックを起こさずに済んだ。
 ちょっと前のRCだったら、こんなこと絶対無理だったなあ。自分にもこんな勇気があるんだって、そう教えてくれたMさんに感謝です。それから、RCの一番の理解者、PCさん。そして、RCの守り神、レインにももちろん感謝ですよ。
 夕食のフライドチキン。あれがRCからの感謝の印だってこと、レイン気づいてくれたかな? 今は、骨を掴んだままぐっすり寝てます。すごく満足そうな顔してる。
 RCも、本当はのんびりしたいところなんだけど、なかなかそうもいかない。次なる敵が、すぐ目の前まで迫ってきてますからね。もちろんそれはBCのこと。彼女は強敵です。もしかしたら伯父さん以上かも。
 BC姫には、たくさんの兵隊がついてますからね。ちょっと前までは、RCもその兵隊の一人だった。いや、家来って言った方がいいのかな。とにかく、BCには逆らえなかった。
 だけど、これからはそうはいかない。もうBCの思い通りなんかにはさせない。今までと違って、RCには、頼りになる強い見方がついてるんだもん。
 たった今、レインが目を覚ましたみたいです。大きなあくびしてる。それから、また骨をペロペロしてる。食いしん坊さん、これからも頼りにしてるからね。RCのこと、しっかりと守ってね。
 皆さんの明日に、どうか虹色の橋がかかりますように!

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12 宝石が嫌い
雨と虹の日々 目次

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不倫のライセンス 6 男女の違い

6 男女の違い

 専業主婦である以上、その義務を放棄するような真似だけはするまい。夫に対して、たとえどんなに不満があろうとも、私のその考えだけは不思議と変わらなかった。
 家事をいっさい拒否するのも、家庭内別居の形を取るのも、その気になればいくらでもできただろう。しかしそうはしなかった。私は、まったく別の選択肢を取ることにしたのだった。
 だからこそ夫は、今夜も私の手料理を口にできるのである。
「豚の角煮って、時間かかるんだろうな」
 たまにそんな呟きを漏らしたりもする。
「味付けもちょうどいいなあ」
 たまにそんなお世辞を言ったりもする。
「こんなおいしい角煮になって、死んだ豚も本望だろうな」
 たまにそんな無茶なことを口走りもする。
「中には、しょうが焼き希望の豚さんもいたんじゃないの」
 私もひとつ無茶な意見を返してみた。
 敏明は愉快そうに笑い、私も釣られるように微笑む。ごく自然に振る舞えていた。まるで、何のわだかまりもない夫婦のように。
 これもボクシング効果なのだろうか。それとも、居酒屋デートの効果か。どちらにせよ、私の精神状態はそれほど悪くはない。いや、どうにかバランスを取っている、というだけのことなのかもしれない。
「ごはんの、お代わりは?」
 浮気夫に対して、とりあえずそんなやさしい言葉をかけることぐらいはできる。
「うん。もう一杯もらおうかな」
 しかし、うれしそうに茶碗を差し出す敏明を見ると、どうしても腹立たしい気持ちも沸き起こってくるのだった。
 浮気夫に食べさせるごはんなどない。浮気夫に持たせる茶碗などない。浮気夫に座らせる椅子などない。浮気夫に住まわせる家などない。と、いくつものセリフが頭に浮かんでくる。
「どうぞ」
 結局そう言った。熟慮に熟慮を重ねた末に、ようやく導き出された奥深い一言である。
 食後のコーヒーは、珍しく敏明が入れてくれた。今日はやけに機嫌がいい。
 理由はすぐにわかった。
「久しぶりに、新しいの手に入れたんだ」
 DVDプレイヤーをセットすると、敏明はリビングソファーに腰を下ろした。私とは、クッション二つ分離れた位置である。
 テレビ画面に浮かび上がるアフリカの大自然。予想通りの映像だった。夫のコレクションが、また一つ増えたということなのだろう。野性動物の姿を見ていると、嫌なことを忘れられると言っては、新たな動物ドキュメントのDVDを、せっせと買い集めているのである。
 嫌なことを忘れられるかどうかは別として、私もこの手のDVDは嫌いではない。結婚前には、動物園や水族館へ、よく二人して出かけたものだった。
 シマウマを捕獲するチータ。遠くから心配げに見つめるキリンの親子。おこぼれに預かろうと集まる数匹のハイエナ。お馴染みのシーンが展開されていくうちに、私も徐々にその世界へ引きこまれていった。
 特に、猫科の動物の俊敏さには、目を奪われるものがある。しなやかで引き締まった筋肉の動きは、力強く、なおかつ美しい。そんなところは、ちょっとだけボクサーを連想させる。成宮礼治の顔が、頭の片隅にチラリと浮かんだ。
「かしこいなあ」
 敏明が感嘆の声を漏らした。画面では、ハイエナによる連携プレイが、見事成功したところである。せっかく苦労して捕えた獲物を横取りされ、チータは少し離れた位置から、悔しげな唸り声を上げた。
「かしこいと言うより、ずるがしこいって感じ」
 私の感想に、敏明は「ずるいなんて概念はないよ、野生の世界はね」と、すぐさま反論する。
「こんな時に、他のチータが助けにくることもないんでしょ? それって、家族愛という概念もないからってこと?」
「家族愛はあるよ。まあ、それを愛と呼べるかどうかは別として、子供の命を守るためなら、母親は必死になるからね」
「父親は?」
「父親は関係ない。子育てはメスの役割だからね。特に哺乳類の場合はそうだよ」
「それって、何課ずるい」
「だから、ずるいなんて概念、最初っからないんだって。男女平等なんて馬鹿なこと言ってるのは、人類ぐらいだよ。文明人と言うべきかな」
「敏明さんは……」
 話が横道にそれていきそうな空気に、私はいったん口を閉ざしかけたが、結局は、敏明の「何?」という言葉にうながされてしまう。
「男と女は、平等じゃないと思ってるの?」
「平等だとは思う。ただし、同類では決してないよ。平等と同類の言葉の違いは、きちんと区別しておかないとね」
「同類?」
「どちらが上とか下とか言うわけじゃなくて、男と女とでは、本質的に明らかな違いがあるって意味だよ。たとえば、そう、わかりやすいことで言えば、子育てがそれに当たる。哺乳類のメスにしか母乳を出す機能が備わってないということは、少なくとも、その役割は女のものだといえるだろうね」
「哺乳瓶を使えば、男だってそれぐらいのことできるでしょ?」
「できるということと、それが望ましいということとでは、ぜんぜん意味合いが違うよ。哺乳瓶を使っても、必要な栄養素はあたえられる、というのは単に大人の都合であって、子育てを軽視した考え方だと言わざるを得ないね。子供は、本能的に母親とのスキンシップを欲しているのだから、その欲求を満たしてあげられる存在は女でしかないはずだ。違うかい?」
 画面では、ちょうどライオン親子の授乳場面が映し出されていた。オスライオンだけは、近くの木陰でのんびりと昼寝をしている。
「それじゃあ……」
 ずるい、という言葉をいったん呑みこみ、私は、「男の本質的役割っていうのは?」と質問をぶつけた。
「ううん。本質的役割ねえ……」
 テレビ画面に目を向けたまま、敏明は、考えこむように胸の前で両腕を組んだ。なぜか、口元に小さな笑みを浮かべている。
「特に、何もないかな」
「何それ」
 夫は苦笑を漏らし、オスライオンは大あくびをかいている。
「男には、役割なんてないってこと?」
 私からしてみれば、こんな大事な話をしている時に、笑ってごまかされるわけにはいかない。あくびなどもってのほかだ。
「強いて言うなら……」
 敏明は笑いを引っこめ、「他のオスよりも強くあることかな」と、テレビ画面を顎でしゃくった。
「この群れの中には、大人のオスは一匹しかいないだろ?」
「そうね」
「他のオスライオンはどうしてると思う?」
「どうって……。群れには入れないから、自分で餌探ししてるんでしょ」
 私にもその程度の知識ならあった。群れを追われ、みじめに痩せこけた放浪ライオン。そんな映像を何度か見た覚えがある。
「そう。人間で言えば失業者みたいなものだな。再就職するには、他のオスよりも強くなる必要がある。逆に言えば、強ささえあれば、複数のメスと数多くの子供を持つことができる。その権利が与えられる、というわけだな」
 敏明の声音には、どこか自慢げな響きがあった。何を言いたいのかぐらいは、私にだって見当はついている。
「だから、仕事のできる男は、複数の奥さんをもらったっていいじゃないか、てこと?」
「そこまでは思ってないけど……」
 再び苦笑する敏明。そこまでは思ってないけど、という表情にはとても見えない。
「ただ、野生動物の世界を見ると、一夫多妻制度というのは、非常によくできたシステムだとは思うよ。現実の世界を見渡してみろよ。いわゆるフェミニズムってやつが浸透した国では、必ずと言っていいほど少子化の問題を抱えてるじゃないか。それこそが、男女の違いを無視したことによる結果だ。文明人が背負う重い代償ってやつだな」
 テレビ画面の中のオスライオンが、大きく伸びをしながら立ち上がる。敏明の意見に同意するかのように、こちらへ向かって一度咆哮を響かせた。

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7 不毛な論争
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雨と虹の日々 10 爪が嫌い

10 爪が嫌い

 俺は爪が嫌いだ。
 たとえその気がなくとも、使い方を一歩誤れば、他者を深く傷つけることさえある。いざという時のために、普段は決して表には出さないもの。それが爪である。むやみやたらに見せびらかすなど、とうてい考えられないことだ。
 その、とうてい考えられないような、危険でみっともない真似を、平気でできてしまうのが人間なのである。
「レインちゃん、居心地はどうでちゅか?」
 頭上から麗子の声が降ってきた。それだけでも十分居心地が悪い。俺の気分をさらに曇らせるのが、彼女の真っ赤に塗られた長い爪である。そのむき出しの凶器が、いつ俺の喉笛に襲いかかってくるのか。想像しただけで、肉球に汗が滲んでくるってもんだぜ。
「飼い主に似て、ずいぶんおとなしいでちゅね。ここはどうかな? チョン、チョンっと。ウフフッ」
 指先が俺の鼻を突っつくたび、眼前で赤い凶器がチラついた。まったく、ヒヤヒヤもんである。何がチョンチョンだ。何がウフフだ。
 虹子はといえば、やはり相変わらずの様子だった。重い口。沈んだ表情。そして黒縁眼鏡。おそらく、今鼻をチョンチョンされたとしても、絶対麗子には逆らえないことだろう。
「結構、いいんじゃないかなあ、それ」
 麗子が、テーブルの上へ顎をしゃくる。太腿がわずかにグラつき、俺は反射的に前足を踏ん張った。
「あ、爪なんて立てて、レインちゃん、いけない子でちゅねえ」
 魔の手が離れた一瞬の隙をついて、俺は麗子の膝から駆け下りた。俺のようないけない子は、こんな居心地の悪い場所でじっとなどしてはいられないのだ。
「虹子、こういう前向きなやつも、ちゃんと書けるんじゃない」
 幸い追いかけられることはなかった。振り返ってみると、麗子の手には数枚のコピー用紙が握られていた。先ほどまで、テーブルの上に置かれていたものである。俺に対する興味は、すでにどこかへ飛んで行ってしまったらしい。
「何か、心境の変化でもあった?」
 麗子はそう言って、空いた方の手で膝上の毛をはらった。こういった仕草一つ一つが、本当に無礼な女である。
「うん、いや、何となくだけど……」
 気のない答えを返す虹子。眼鏡越しの視線が、俺の動きを追っているのがわかる。
「私も……」
 サイドボードへ飛び乗った俺を確認すると、虹子は視線を麗子に向けて、「バンド、頑張りたいし……」と続けた。
「へえ。虹子にしては、それって、すごい革命的変化じゃない」
 麗子の口調は、感心しているようにも、からかっているようにも聞こえる。
「やっぱり何かあったのね。まあ、言いたくなければそれでもいいんだけど」
「このままじゃ、いけないって思っただけ。ようやく、そのことに気づいたの」
 虹子の言葉に、再び麗子が「へえ」と呟いた。そして、何やら意味ありげな笑みを浮かべる。ついに獲物を追いつめた。まるでそんな表情だ。
「それって、バンドのためにはってことよね?」
 念を押すような麗子の口調。ややあって、虹子がうなずく。
「虹子がそういうことなら、私も話しやすいなあ」
 鋭い爪で、獲物の首根っこを押さえつけている時のような、勝利者が浮かべる余裕の笑みだった。
「バンド活動を再開、いや、再出発って言った方がいいのかな。とにかく、私からメンバーに、一つだけ提案があるの。まずは虹子に、と思って」
「う、うん……。どんなこと?」
「ズバリ言うと、作詞の方も、私が担当してるってことにしたらいいんじゃないかなって、そう思ったの。もちろん虹子には、今まで通り書いてもらうことには変わりないんだけどね」
「ええと。何か、よくわかんない」
 虹子が、困惑したように眉根を寄せている。無理もないことだ。俺にだって、麗子の提案の意味は、さっぱり理解できない。
「これから先のことを、想像してもらいたいんだけど……。いい? たとえば、誰かにインタビューされたとする。詞についてよ。その時、虹子、ちゃんと説明できる自信ある? ただ質問に答えればいいってもんじゃないのよ。アピールできるかってこと。答え方一つで、バンドのイメージだって、ぜんぜん違ってきちゃうんだから」
「ちょ、ちょっと待って、麗子……。私たち、単なる学生バンドじゃない」
「今はね。でもねえ……」
 そこで麗子は、隣に置いてあった自分のバッグに手を伸ばした。中から取り出したものを、虹子の眼前へと差し出す。
「これって……」
 どうやら名刺だったらしい。虹子が目で文字を追っている。戸惑いのせいなのか、続きの言葉がなかなか出てこない。
「この芸能事務所の名前、聞いたことぐらいあるでしょ?」
 麗子は楽しげに言うと、その名刺を再びバッグの中にしまいこんだ。
「もしかしたら私たち、単なる学生バンドで終わらないかもね」
 虹子の反応を楽しむかのように、少し間を置いてから、「向こうから連絡があったのよ」と麗子は続ける。
「私、前に雑誌の読者モデルやったことあったじゃない。そこのプロフィール見て、興味を持ったらしいの。ちょこっとだけ、私たちのバンドのこと書いておいたからね」
 虹子は沈黙したままだったが、珍しいことに、その視線はまっすぐに麗子の瞳を捕えていた。
「最初のうちは、デモテープあったら聞かせてほしいって、それだけのことだったのが、いろいろと質問攻めにあっちゃってさ。大変だったなあ」
 その口調からは、大変だった様子はまったく伝わってこない。むしろ、愉快でならないといった風だ。
「それから、作詞作曲は誰がって話になってね。それで、私言っちゃったの。作詞は私で、作曲の方は、死んだ恋人がやってたってね」
 瞬間、虹子の目が大きく見開かれたのを、俺は見逃さなかった。
「というわけで……」
 麗子は、一度ハアーと息を吐き「わかるでしょ?」と首をかしげた。
「もう、後に引けなくなっちゃってさ。宝田さんも、宝田さんって、さっきの名刺の人ね。彼の話もどんどん暑くなっていって、これはイケる、これはイケるって具合にね。難病で命を落とした若き天才アーティスト。そして、その彼の意志を継ぎ、バンド活動を再開させようとしている恋人。気がついてみたら、そんなシナリオができちゃってたのよ。怖いぐらいの勢いでね。もう、笑っちゃうなあ」
 何を考えているのか。虹子は身動き一つせず、ただ黙って麗子を見据えている。
「とりあえず、今のところはそれぐらいかなあ……。実は、今日も呼ばれてるの、宝田さんにね」
 麗子は腕時計に目を走らせると、「もう、そろそろ行かなきゃ」と、ハンドバッグを手に立ち上がった。虹子が向ける鋭い視線には気づいていないらしい。
「私たちのバンド、もしかしたら今、ビッグチャンスを掴みかけてるのかもしれない」
 はしゃいだ声で言うと、麗子は、ウキウキと飛び跳ねるようにして歩き出した。ドアの前で、いったんくるりと振り返る。視線は虹子ではなく、なぜかサイドボードの上の俺に向けられていた。
「レインちゃんも、あんまり食べすぎてばかりいると、人前に出られなくなっちゃいまちゅよお」
 その言葉を最後に、麗子はドアの向こうへと姿を消した。
 大きなお世話である。確かに最近、少し太り気味かなと、自分でも感じることはあった。だからといって、いったいそれがどうしたというのだ。誰かに迷惑をかけたなんて覚えはないぜ。そもそも、手土産一つ持ってこないような人間に、そんなことを言う資格なんてものはないのさ。せめてフライドチキン、それが無理なら、唐揚げの一つや二つ、持ってきやがれってもんだ。まったく、不愉快極まる女だぜ。焼き鳥ぐらいなら、どこにだって売ってるだろ。何がチョンチョンだ。何が……。
 何かを引き裂く音に、俺は慌ててソファーの方を見やった。
 それは、先ほどまでテーブルの上に置かれていた紙、虹子の書いた詞が、印刷されていたコピー用紙のはずだ。今は、見るも無残な状態になっている。虹子本人の手によって、ビリビリに破かれ、ぐしゃぐしゃに丸められてしまっているのだった。
 俺同様、いや、その怒りは、俺以上なのかもしれない。とにかく、こんな虹子を見るのは初めてだった。彼女にも、こんな激しい一面があるのだということがよくわかった。
 散らばった紙屑を前に、肩を震わせ立ちつくす虹子。今の彼女に、もし俺が慰めの言葉をかけるとしたら、迷わずこう言うだろう。
 ヤケ食いなら、朝までだって付き合ってやるぜ。

虹色日記

 RC、明日から生まれ変わります。そう決心しました。決別宣言です。今日までのRCは、今日限りのRCです。ダイエットのことを言ってるんじゃないですよ。もちろんそれも含まれてるんですけどね。もっともっと、大きな意味のことです。
 今日、突然スイッチが入りました。きっかけはBC。彼女の身勝手さには、今までずっと我慢してきましたが、それももう終わりです。いつまでも、お姫様のわがままに付き合うわけにはいきません。
 どんな人間にでも、学ぶべき点、感謝すべき点が必ずある。そうかもしれない。この言葉、Mさんからのメールにあったんです。
 BCからは、自己主張の大切さを学んだ。そして、今までのRCが、いかに駄目な人間だったか、そのことに気づかせてくれた。これはやっぱり感謝すべきかもしれない。きっと今日が、RCの人生のターニングポイントだったような気がする。
 奴隷は、決して王様になることはできない。されど、戦士になることはできる。
 これもMさんの言葉です。RC、明日からなりますよ。戦士にです。わがまま王妃が支配する国から、必ず宝物を奪い返してみせます。HAが残してくれた宝物をね。
 ああ、何だか最近、自分が変わっていくのがすごくよくわかる。これもMさんとPCさんのおかげ。それから、もちろんレインもね。
 大学にも、久しぶりに顔出してみようかと思ってます。もうずいぶん休んじゃったんですよね。皆さんにもご心配かけました。将来のためにも、大学ぐらいは、ちゃんと卒業しておいた方がいいって、たくさんの人からコメントもらってたんでっすよ。やっぱりそういうものなんですかね。“将来”のことなんて、今まで真剣に考えたことなかったなあ。どんな職業につきたいとか、どんな生活をしたいとか、どんな家庭を持ちたいとか、RCには、ぜんぜん未来へのビジョンというものがない。
 大学に通ってる人って、みんな何かの目標をを持ってるんですかね。RCにはそれがない。だから、将来のために、と言われてもあまりピンとこないんですよ。
 たとえば、政治家の人たちってどうなんでしょう。世の中をもっとよくしたいという目標があったからこそ、政治家になったんじゃないんですかね。政治家になるために、苦労していい大学に入って、苦労してたくさんのこと勉強してきたんじゃないんですかね。
 だけど、RCが知っている政治家は、世の中のことなんてまったく考えていない。それどころか、平気で人を傷つけられるような人なんです。
 ああ、いっそのこと、このブログで全部言ってしまいたい。もしも、本当にそんなことしたら、RC、どうなっちゃうんですかね。謎のスナイパーなんかに、命狙われたりってことになるのかなあ。
 なーんちゃって。これは、RCの単なる妄想。大丈夫ですよ。スナイパーだろうと、BCだろうと、伯父さんだろうと、誰でもかかってこいって感じです。何しろRC、明日からは勇敢な女戦士なんですから。
 皆さんの明日に、どうか虹色の橋がかかりますように!

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11 仕事が嫌い
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片瀬みこと

Author:片瀬みこと
札幌在住のアマチュア作家

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