雪解け 4 いたずらっ子を探しに
4 いたずらっ子を探しに
慶次郎の還暦祝いは、唐突とも言える形での幕切れとなった。
結局、謙太の姿を見ることはなかった。そして今は、由香里と武志もいない。
いつもと変わらぬ、貴美子と慶次郎二人っきりの部屋。違っているのは、中途半端に残されたすき焼きと缶ビール。手のつけられていないぜんざいとシャンパン。そして、夫婦の間に漂う気まずい空気。
貴美子は、とりあえず後片付けをすることにした。テーブルへと歩み寄り、「人が来ると、後が大変なのよねえ」ぶつぶつ言いながら、チラリと慶次郎の様子をうかがう。
「ああ、俺のも頼む」
「もういいんですか? ビールまだ残ってますけど」
「いいんだ。風呂にでも入ろうかと思ってな」
「そう。じゃあ、今準備しますね」
「いや、それぐらい自分でするから、片付けの方頼むよ」
どこか落ち着きのない態度ではある。しかし、それは貴美子も同じこと。慶次郎の表情には、怒りも不満もない。今はそれさえわかれば十分である。
電話が鳴ったのは、貴美子がキッチンで洗い物を始めてすぐのことだった。急いで手の泡を水で流す。謙太かもしれない、という思いが真っ先に頭に浮かぶ。エプロンで手を拭いながら、足早にリビングへと向かった。
『ママ、私』
相手が由香里だと知り、貴美子の口から、思わず「ああ……」という気の抜けた声が漏れ出てしまう。
『パパに代わってくれる?』
「今、パパお風呂なのよ。何か急ぎの用なの?」
『うん。いや……』
そこで由香里は言いよどんだ。
『まあ、とりあえずママでもいいか』
「なに、そのとりあえずって言い方」
答えは返ってこない。その代わり電話の相手が変わった。
『あ、僕、武志です』
その声音は、無理矢理電話を押しつけられたといった風である。武志が、『どうもすみませんでした』と言えば、すぐさま、『声が小さい!』と由香里の声が続く。
「別にいいのよ。こっちこそごめんなさいね、そんな鬼軍曹みたいな娘で」
苦笑するしかない貴美子である。
武志に対しての悪い印象などなかった。それは本当だ。多くの人がそうであるように、きっと彼も、少しだけ理解が足りていない。ただそれだけのことなのだ。
『お父様には、また改めてお詫びにうかがいたいと思っています。本当に申し訳ありませんでした。僕のせいで、せっかくの祝いの席を、あんな風に滅茶苦茶にしてしまって……』
武志の謝罪はなおも続いた。その背後からは、由香里の、『何であんな馬鹿なことしたのよ』という非難めいた言葉や、『謝るだけで済まないんだからね』というヤクザめいた言葉や、『ぜんざいもアイスクリームも、食べ損ねちゃったじゃない』という食いしん坊めいた言葉が、かすかに漏れ聞こえてくる。
「武志君、本当にうちの娘と結婚したいの?」
やはり、苦笑するしかない貴美子である。
「なかなか、いい青年じゃないか」
貴美子が電話の件を話すと、慶次郎は穏やかな口調でそう言った。
静かな夜だった。すでに寝室の明かりは消えている。
「還暦、おめでとうございます」
目を閉じたまま、貴美子はそっと囁いた。「おめでとうというより、お疲れさまって感じでしたけどね」と、おどけた口調で付け加える。
慶次郎のかすかな笑い声。そして長い沈黙が流れた。
やや冷たさの残る部屋の空気に、貴美子は、布団の中で少しだけ身体を丸めた。
「一瞬だけ、思ったことなんだが……」
その呟きに、貴美子の口からも、「え?」と反射的に声が漏れる。うとうとしかけた意識が、ゆっくりと覚醒していった。
「何の話です?」
「あの彼、武志君のことだよ」と慶次郎。どうやら寝言ではないらしい。
「武志君がどうかしました?」
「ああいう青年が……」
どうも歯切れが悪い。
貴美子は、「はっきりと言ってください」と先を促した。
「あ、ああ……。一瞬だけ、思ったんだ。ああいう彼のような青年が、実の息子だったらってな。やっぱり、武志君みたいな息子がいたら、キャッチボールの一つぐらいはやってたんだろうなとか、まあ、そういう他愛のない話だ」
「本当ですか?」
「え?」
「一瞬だけっていうの、本当ですか?」
「ああ、本当だ。一瞬、ほんの一瞬思ったっていうだけのことだ」
「それだったら……、許します」
静かな、そして穏やかな夜だった。
外の騒がしさに、貴美子は重い瞼を開いた。枕元の目覚まし時計へと目をやる。セットした時刻までには、まだ一時間近くあった。
上半身を起こしたところで、隣の布団から、「何の騒ぎだ?」と慶次郎に声をかけられた。無理に目覚めさせられた、という不満のたっぷり詰まった口調である。
「きっと魔王じゃない? じっと動かないでいることに、とうとう我慢できなくなったのね」
貴美子は寝室を出た。すると、ガヤガヤとした騒がしさがさらに大きくなる。人の声。十数人、いや二十人以上はいるのかもしれない。しかも公園の方からだ。
本当に魔王が暴れてる? まさかねえ、と貴美子は苦笑いしながら、キッチンの方へと向かった。
いつも目にする窓からの眺めは、明らかにいつもとは違っていた。
魔王を取り囲む大勢の人影。中にはマスコミの姿も見える。それ以外にも、テレビカメラに手を振る人やら、携帯電話で魔王を撮影する人やらで、小さな公園は大賑わいになっていた。
マイクを向けられている中年男性は、マンションの住人の一人、花田さんに間違いない。早起きで有名な花田さんである。魔王を指差しながら、熱心にしゃべり続ける花田さん。彼は目立ちたがり屋としても有名だった。ついに、インタビュアーからマイクを取り上げてしまった花田さん。彼はカラオケ好きとしても有名だった。
慶次郎が、あくびをしながらキッチンに入ってきた。
「公園で何かあったのか?」と不機嫌そうに言う。
「そう。魔王が大変な目にあってるの」
わざと深刻そうな口ぶりで言い、貴美子はその場から一歩横へ移動した。
慶次郎がその空いたスペースへと入る。公園の様子が最もよく見える特等席である。
「ね、ひどいでしょ?」
窓を覗きこむ夫の表情に、貴美子は思わず吹き出した。
「どうせなら、ちゃんちゃんこにしてくれれば良かったのに」
恐ろしい形相で、今日も魔王はこちらを睨みつけていた。しかし、そこにいつものような迫力はない。それもそのはず。魔王の身体には、可愛らしい真っ赤なワンピースが着せられていたのである。
「人騒がせないたずらだ」
不愉快そうな口調で慶次郎は呟いた。もちろん、その口調とは正反対の表情を浮かべて。
貴美子は、再び魔王へと目をやった。そして、今日の予定を決めた。その予定には、無理にでも夫を誘うつもりである。
もう、春はすぐそこまで来ている。散歩がてら、いたずらっ子を探しに出かけるのも悪くないだろう。
完
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慶次郎の還暦祝いは、唐突とも言える形での幕切れとなった。
結局、謙太の姿を見ることはなかった。そして今は、由香里と武志もいない。
いつもと変わらぬ、貴美子と慶次郎二人っきりの部屋。違っているのは、中途半端に残されたすき焼きと缶ビール。手のつけられていないぜんざいとシャンパン。そして、夫婦の間に漂う気まずい空気。
貴美子は、とりあえず後片付けをすることにした。テーブルへと歩み寄り、「人が来ると、後が大変なのよねえ」ぶつぶつ言いながら、チラリと慶次郎の様子をうかがう。
「ああ、俺のも頼む」
「もういいんですか? ビールまだ残ってますけど」
「いいんだ。風呂にでも入ろうかと思ってな」
「そう。じゃあ、今準備しますね」
「いや、それぐらい自分でするから、片付けの方頼むよ」
どこか落ち着きのない態度ではある。しかし、それは貴美子も同じこと。慶次郎の表情には、怒りも不満もない。今はそれさえわかれば十分である。
電話が鳴ったのは、貴美子がキッチンで洗い物を始めてすぐのことだった。急いで手の泡を水で流す。謙太かもしれない、という思いが真っ先に頭に浮かぶ。エプロンで手を拭いながら、足早にリビングへと向かった。
『ママ、私』
相手が由香里だと知り、貴美子の口から、思わず「ああ……」という気の抜けた声が漏れ出てしまう。
『パパに代わってくれる?』
「今、パパお風呂なのよ。何か急ぎの用なの?」
『うん。いや……』
そこで由香里は言いよどんだ。
『まあ、とりあえずママでもいいか』
「なに、そのとりあえずって言い方」
答えは返ってこない。その代わり電話の相手が変わった。
『あ、僕、武志です』
その声音は、無理矢理電話を押しつけられたといった風である。武志が、『どうもすみませんでした』と言えば、すぐさま、『声が小さい!』と由香里の声が続く。
「別にいいのよ。こっちこそごめんなさいね、そんな鬼軍曹みたいな娘で」
苦笑するしかない貴美子である。
武志に対しての悪い印象などなかった。それは本当だ。多くの人がそうであるように、きっと彼も、少しだけ理解が足りていない。ただそれだけのことなのだ。
『お父様には、また改めてお詫びにうかがいたいと思っています。本当に申し訳ありませんでした。僕のせいで、せっかくの祝いの席を、あんな風に滅茶苦茶にしてしまって……』
武志の謝罪はなおも続いた。その背後からは、由香里の、『何であんな馬鹿なことしたのよ』という非難めいた言葉や、『謝るだけで済まないんだからね』というヤクザめいた言葉や、『ぜんざいもアイスクリームも、食べ損ねちゃったじゃない』という食いしん坊めいた言葉が、かすかに漏れ聞こえてくる。
「武志君、本当にうちの娘と結婚したいの?」
やはり、苦笑するしかない貴美子である。
「なかなか、いい青年じゃないか」
貴美子が電話の件を話すと、慶次郎は穏やかな口調でそう言った。
静かな夜だった。すでに寝室の明かりは消えている。
「還暦、おめでとうございます」
目を閉じたまま、貴美子はそっと囁いた。「おめでとうというより、お疲れさまって感じでしたけどね」と、おどけた口調で付け加える。
慶次郎のかすかな笑い声。そして長い沈黙が流れた。
やや冷たさの残る部屋の空気に、貴美子は、布団の中で少しだけ身体を丸めた。
「一瞬だけ、思ったことなんだが……」
その呟きに、貴美子の口からも、「え?」と反射的に声が漏れる。うとうとしかけた意識が、ゆっくりと覚醒していった。
「何の話です?」
「あの彼、武志君のことだよ」と慶次郎。どうやら寝言ではないらしい。
「武志君がどうかしました?」
「ああいう青年が……」
どうも歯切れが悪い。
貴美子は、「はっきりと言ってください」と先を促した。
「あ、ああ……。一瞬だけ、思ったんだ。ああいう彼のような青年が、実の息子だったらってな。やっぱり、武志君みたいな息子がいたら、キャッチボールの一つぐらいはやってたんだろうなとか、まあ、そういう他愛のない話だ」
「本当ですか?」
「え?」
「一瞬だけっていうの、本当ですか?」
「ああ、本当だ。一瞬、ほんの一瞬思ったっていうだけのことだ」
「それだったら……、許します」
静かな、そして穏やかな夜だった。
外の騒がしさに、貴美子は重い瞼を開いた。枕元の目覚まし時計へと目をやる。セットした時刻までには、まだ一時間近くあった。
上半身を起こしたところで、隣の布団から、「何の騒ぎだ?」と慶次郎に声をかけられた。無理に目覚めさせられた、という不満のたっぷり詰まった口調である。
「きっと魔王じゃない? じっと動かないでいることに、とうとう我慢できなくなったのね」
貴美子は寝室を出た。すると、ガヤガヤとした騒がしさがさらに大きくなる。人の声。十数人、いや二十人以上はいるのかもしれない。しかも公園の方からだ。
本当に魔王が暴れてる? まさかねえ、と貴美子は苦笑いしながら、キッチンの方へと向かった。
いつも目にする窓からの眺めは、明らかにいつもとは違っていた。
魔王を取り囲む大勢の人影。中にはマスコミの姿も見える。それ以外にも、テレビカメラに手を振る人やら、携帯電話で魔王を撮影する人やらで、小さな公園は大賑わいになっていた。
マイクを向けられている中年男性は、マンションの住人の一人、花田さんに間違いない。早起きで有名な花田さんである。魔王を指差しながら、熱心にしゃべり続ける花田さん。彼は目立ちたがり屋としても有名だった。ついに、インタビュアーからマイクを取り上げてしまった花田さん。彼はカラオケ好きとしても有名だった。
慶次郎が、あくびをしながらキッチンに入ってきた。
「公園で何かあったのか?」と不機嫌そうに言う。
「そう。魔王が大変な目にあってるの」
わざと深刻そうな口ぶりで言い、貴美子はその場から一歩横へ移動した。
慶次郎がその空いたスペースへと入る。公園の様子が最もよく見える特等席である。
「ね、ひどいでしょ?」
窓を覗きこむ夫の表情に、貴美子は思わず吹き出した。
「どうせなら、ちゃんちゃんこにしてくれれば良かったのに」
恐ろしい形相で、今日も魔王はこちらを睨みつけていた。しかし、そこにいつものような迫力はない。それもそのはず。魔王の身体には、可愛らしい真っ赤なワンピースが着せられていたのである。
「人騒がせないたずらだ」
不愉快そうな口調で慶次郎は呟いた。もちろん、その口調とは正反対の表情を浮かべて。
貴美子は、再び魔王へと目をやった。そして、今日の予定を決めた。その予定には、無理にでも夫を誘うつもりである。
もう、春はすぐそこまで来ている。散歩がてら、いたずらっ子を探しに出かけるのも悪くないだろう。
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