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ホームチーム あとがき 彼らの観察を終えて

あとがき 彼らの観察を終えて

 細かなプロットは、登場人物の言動を阻害し、物語の自然な流れを狂わせる場合がある。
 それは以前から感じていたことだった。
 では、小説にとって、プロットは不必要なものなのか。
 イエス、とはなかなか言いにくい。私には失敗した経験があるからだ。
 プロットがなければ、キャラクターは行き先を見失い、物語は、終わりのないただの空想日記と化してしまう。
 それが失敗作から学んだことだった。
 しかし、学んだと思っていたそれは、ただの経験不足、力量不足からくるものでは? そんな気持ちもなくはなかった。
 そして私は、この長編第三弾で、大きな挑戦をすることにした。つまり、プロットなしでの執筆である。スティーブン・キングの、私はプロットを作らない、という言葉が、背中を強く押してくれた。
 親としての責任に頭を痛める卓真。思っていることを素直に言葉にできない大也。隠したい過去を持つ詩織。男性不信の孝子。メインキャラクターとなるのは、この四人だ。
 最初に決めておいたのは、三人称多視点で、四人それぞれの思いを描く、ということだけ。実は、この形式も、私が苦手とするものの一つだった。
 この“三人称”という表現。経験してみて、初めてその奥の深さに気づかされた。
 語り手と登場人物たちとの距離感。それをどう取るかによって、地の文のあり方も大きく変わっていく。
 この話の語り手には、主人公四人の代弁者、という役割に徹してもらった。結果として、非常に一人称と近い語り口となった。
 俯瞰での描写を入れなかったことで、三人称は苦手、という部分から、少しは抜け出せたような気がする。
 今作品の執筆で、もう一つ大きな発見があった。それは“伏線”についての考え方だ。
 先の展開を知った上で張るのが、プロットがある場合の伏線だ。
 それでは、今回のような場合はどうだったのか。
 すでに書き終えた部分を振り返り、あれこれと思案してみる。あの出来事、あの発言を、伏線として利用できないだろうか、と。つまり、伏線と意識していなかったものを、伏線にしてしまうという考え方だ。
 小説というものの奥深さを感じつつ、週一での連載を、どうにか最後まで続けることができた。
 子連れ同士の恋愛、というスタートから、ある程度のゴールをイメージすることはできていた。つまり、様々な困難を乗り越え、やがて再婚へとたどり着く、というゴールである。何となくではあるが、ハッピーエンドにしたい。ハッピーエンドになってほしい、という気持ちも強かった。
 とはいえ、物語の登場人物たちを、作者の思い通りに操ることは困難だ。それは、プロットの有無に関わらずである。キャラクターに魂を吹きこんでしまった以上、もうそこからは、ある程度彼らの自由意思に任せるしかない。
 だから、私は見守った。幸せになりますようにと願いながら、彼らをじっくりと観察した。物語を発展させるために、ちょっとした困難を与えることもあった。しかし、すっきりとした解決策は教えなかった。スーパーヒーローを登場させることもしなかった。
 そして、物語は幕を下ろした。
 さて、彼らは、困難を乗り越えることができたのだろうか。
 過去を消去することはできない。それを考えれば、彼らには、まだまだ乗り越えなくてはいけない問題が残されているはずだ。詩織の元夫は、これでおとなしく引き下がってくれるだろうか。卓真の元妻は、二人の再婚を邪魔しないだろうか。詩織の秘密は、やがて多くの人に知られてしまうのでは? 孝子や大也が、学校で嫌がらせを受けるのでは? 心配し出すときりがない。
 でも、きっと大丈夫。大丈夫だということに疑いはない。彼らの観察を終えて、今一番強く思う気持ちがそれだ。
 誰かの冗談に、笑い声をあげる別の誰かがいる。
 誰かの決意に、首を縦に振る別の誰かがいる。
 誰かの不安に、耳を傾ける別の誰かがいる。
 誰かの勇気に、拍手を送る別の誰かがいる。
 この四人は、そういう誰かで、そういう別の誰かなのだ。大丈夫な理由なら、それだけで十分だろう。
 そう。人と人との絆を深めるのに、スーパーヒーローの存在など必要ないのである。

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Author:片瀬みこと
札幌在住のアマチュア作家

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