稲敷散歩(12)-大念寺(江戸崎)
さて今日は江戸崎市内にあるもうひとつの寺大念寺を紹介します。
ここには徳川家康の植えたという「逆さ銀杏」があり、寺の紋にも三つ葉葵が使われています。
正式には正定山知光院と号する浄土宗の寺院で、この江戸崎に戦国時代末期に入ってきた佐竹氏の実弟である芦名重盛(義広改め)により天正18年(1590)に(もう少し湖岸よりの浜地区?)に建てられました。
正式には浄土宗の高僧(肥前国(佐賀県)生れ)源誉慶厳の開山といわれ、この僧も小田氏の下でつくばに大念寺を建てましたが、小田氏が戦いに敗れたため、下総松崎(しもうさまんさき)や隣の阿見町にも移り大念寺を建てたようです。しかし芦名重盛に請われてここ江戸崎に寺を建てたようです。
(恐らくそれだけ名前の通った高僧だったのでしょうね。)
しかし、寺は10年後の1600年に火災で焼け、1602年に現在地に再建されたものの、翌年の1603年には佐竹氏の秋田転封に伴って芦名重盛も秋田角館に移されました。
そして角館ではまた名前を変え、芦名義勝と改名しています。
芦名(蘆名)氏についてはまたの機会としますが、天台宗の不動院とこの浄土宗の大念寺を芦名氏が帰依することにより発展を遂げますが、この期間は13年間と短いものとなってしまいました。
これは石岡の場合と全く同じです。
しかし、この短い期間に寺院は大切にされたようで、戦国時代の中でかなり真剣に街並みの復興等を行なったように見えます。
石岡でも佐竹氏は町や寺を焼いてしまった張本人と思われ、どこかに不人気となっている感が拭えませんが、かなり寺や街並みの復旧に力を注いだように思われます。
大念寺の山門です。かなり大きな楼門です。
芦名氏が秋田に移ると、徳川家康から寺領(河内郡東条庄内、後に信太郡蒲ヶ山村)として50石の御朱印地の寄贈を受け、大いに発展を遂げます。
江戸時代には浄土宗の関東18壇林の一つとして、多くの浄土僧の修行の場として栄えていきました。
末寺は15ヵ寺数えたといいます。
また寺の住職も(江戸)芝の増上寺の伴頭の中から選ばれたといいます。結構格式が高かったようです。
この楼門は江戸時代に建てられたものというが、年代ははっきりしたものがなかった。
しかし、江戸崎の町の9割が焼けた大火事「大仏火事と呼ばれる)が文化6年(1809)に起こるが、この時にはここは焼けなかったそうである。
これが徳川家康が手植えしたという銀杏の木(逆さ銀杏)です。
現地にも説明板はなく、本当かどうかについても書かれたものはありませんでした。
しかし、この寺にはかなり貴重なものが残されており、本当と考えてもまあ良いのかな?などと思います。
これは?
こちらは井戸です。この辺の寺によくこの屋根のある井戸が置かれています。
楼門の近くには鐘楼が造られていたようですが、現在は残っていません。
こちらが楼門と本堂の全景です。なかなかいい風情ですよね。
さて、先ほど書いた200年ほど前の大火「大仏火事」というのが気になりました。
調べた結果、
「この大念寺の末寺の寿経寺で寺の普請中に火事が起こったそうです。
当時かなりの強風が吹いており、瞬く間に火が燃え広がり、この寺(寿経寺)には立派な大仏様が置かれていて、何とか持ち出そうとしましたが重くて持ち出せなくなり、首と胴を切り離して何とか持ち出したのだそうです。
その後この大念寺にも火が迫ったが風の向きが変わりなんとか大念寺は焼けずに済んだが、町の600戸や管天寺などが焼けてしまったそうです。
話はこれだけでは終わりません。この大仏様は元々鎌倉の寺で火災がおきて、筑波の寺に安置されたが、ここでも火事にあって焼け出され、この寿経寺に移されたのですが、ここでもこの大火が起こってしまったのだそうです。
そのため、この火事は大仏火事と呼ばれるようになったようです。
しかし、この大仏様はその後大念寺に安置されて、いまだ火事は起きていないそうです。
平成になってこの大仏様も大修理を終え、まばゆいほどの光彩を放っているそうです。
この大念寺には「大念寺文書」という貴重な古文書が残されているそうです。
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ここには徳川家康の植えたという「逆さ銀杏」があり、寺の紋にも三つ葉葵が使われています。
正式には正定山知光院と号する浄土宗の寺院で、この江戸崎に戦国時代末期に入ってきた佐竹氏の実弟である芦名重盛(義広改め)により天正18年(1590)に(もう少し湖岸よりの浜地区?)に建てられました。
正式には浄土宗の高僧(肥前国(佐賀県)生れ)源誉慶厳の開山といわれ、この僧も小田氏の下でつくばに大念寺を建てましたが、小田氏が戦いに敗れたため、下総松崎(しもうさまんさき)や隣の阿見町にも移り大念寺を建てたようです。しかし芦名重盛に請われてここ江戸崎に寺を建てたようです。
(恐らくそれだけ名前の通った高僧だったのでしょうね。)
しかし、寺は10年後の1600年に火災で焼け、1602年に現在地に再建されたものの、翌年の1603年には佐竹氏の秋田転封に伴って芦名重盛も秋田角館に移されました。
そして角館ではまた名前を変え、芦名義勝と改名しています。
芦名(蘆名)氏についてはまたの機会としますが、天台宗の不動院とこの浄土宗の大念寺を芦名氏が帰依することにより発展を遂げますが、この期間は13年間と短いものとなってしまいました。
これは石岡の場合と全く同じです。
しかし、この短い期間に寺院は大切にされたようで、戦国時代の中でかなり真剣に街並みの復興等を行なったように見えます。
石岡でも佐竹氏は町や寺を焼いてしまった張本人と思われ、どこかに不人気となっている感が拭えませんが、かなり寺や街並みの復旧に力を注いだように思われます。
大念寺の山門です。かなり大きな楼門です。
芦名氏が秋田に移ると、徳川家康から寺領(河内郡東条庄内、後に信太郡蒲ヶ山村)として50石の御朱印地の寄贈を受け、大いに発展を遂げます。
江戸時代には浄土宗の関東18壇林の一つとして、多くの浄土僧の修行の場として栄えていきました。
末寺は15ヵ寺数えたといいます。
また寺の住職も(江戸)芝の増上寺の伴頭の中から選ばれたといいます。結構格式が高かったようです。
この楼門は江戸時代に建てられたものというが、年代ははっきりしたものがなかった。
しかし、江戸崎の町の9割が焼けた大火事「大仏火事と呼ばれる)が文化6年(1809)に起こるが、この時にはここは焼けなかったそうである。
これが徳川家康が手植えしたという銀杏の木(逆さ銀杏)です。
現地にも説明板はなく、本当かどうかについても書かれたものはありませんでした。
しかし、この寺にはかなり貴重なものが残されており、本当と考えてもまあ良いのかな?などと思います。
これは?
こちらは井戸です。この辺の寺によくこの屋根のある井戸が置かれています。
楼門の近くには鐘楼が造られていたようですが、現在は残っていません。
こちらが楼門と本堂の全景です。なかなかいい風情ですよね。
さて、先ほど書いた200年ほど前の大火「大仏火事」というのが気になりました。
調べた結果、
「この大念寺の末寺の寿経寺で寺の普請中に火事が起こったそうです。
当時かなりの強風が吹いており、瞬く間に火が燃え広がり、この寺(寿経寺)には立派な大仏様が置かれていて、何とか持ち出そうとしましたが重くて持ち出せなくなり、首と胴を切り離して何とか持ち出したのだそうです。
その後この大念寺にも火が迫ったが風の向きが変わりなんとか大念寺は焼けずに済んだが、町の600戸や管天寺などが焼けてしまったそうです。
話はこれだけでは終わりません。この大仏様は元々鎌倉の寺で火災がおきて、筑波の寺に安置されたが、ここでも火事にあって焼け出され、この寿経寺に移されたのですが、ここでもこの大火が起こってしまったのだそうです。
そのため、この火事は大仏火事と呼ばれるようになったようです。
しかし、この大仏様はその後大念寺に安置されて、いまだ火事は起きていないそうです。
平成になってこの大仏様も大修理を終え、まばゆいほどの光彩を放っているそうです。
この大念寺には「大念寺文書」という貴重な古文書が残されているそうです。
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井戸の屋根は太い4本の柱で支えられています。これは私の実家にもあった形式で、井戸の上に滑車を取り付けてつるべを下げて水を組み上げる、その荷重に耐えるために必要な形式なのでしょうね。水が入ったつるべの重さは10kgでしょうか。それ以外に、井戸浚い(いどさらい)をする時は人を釣り下ろすのにも使うので頑丈さが要るわけです。
もひとつ何か分からない台座のものは、おそらく銅像が乗っていたけれど、戦争中に供出されてその跡に適当なものを持ってきて乗せたのかもしれません。想像ですが、そのような例は他所にあります。
> 井戸の屋根は太い4本の柱で支えられています。これは私の実家にもあった形式で、井戸の上に滑車を取り付けてつるべを下げて水を組み上げる、その荷重に耐えるために必要な形式なのでしょうね。水が入ったつるべの重さは10kgでしょうか。それ以外に、井戸浚い(いどさらい)をする時は人を釣り下ろすのにも使うので頑丈さが要るわけです。
やはりお詳しいですね。たしかに丈夫でないと荷重に耐えられませんね。
昔は井戸もあちこちにあったのですが珍しくなりましたし、ここも今は形だけが残っているようです。
> もひとつ何か分からない台座のものは、おそらく銅像が乗っていたけれど、戦争中に供出されてその跡に適当なものを持ってきて乗せたのかもしれません。想像ですが、そのような例は他所にあります。
戦争中に鉄や銅のものがかなり供出されてなくなりました。ここの鐘楼もそうかな?なんて考えてしまいましたがわかりませんでした。
石岡の水は、酒や醤油の醸造所が沢山あったことから質量とも優良であったと思わされます。私の実家では敷地に在った4件の家が1つの井戸を使っていました。文字通り井戸端会議が行われていたのは、太い4本の柱がある井戸の屋根の下でした。
つるべ桶は木製で、鋳物の滑車を通る太い綱の両端に2個付いていました。(田舎ではつるべ竿の形式もありましたが、町中では大抵が滑車。)
水汲みは炊事、洗濯と、ほとんど主婦の仕事の中での作業なので、桶一杯には満たさず十キロぐらいが限度だったでしょう。父親が家に居る日は夕方、風呂を汲むのは父がしていました。木製の桶で井戸端から風呂場まで何十回も運ぶのですから、重労働です。
そういう生活はうちでも江戸時代からずっとあったのだと思います。それが昭和30年代には手押しポンプ、そしてモーターポンプへと急速に切り替わってゆきました。
井戸浚い(さらい)は職人を頼んで井戸がカラになるまで汲み出して底のゴミなども掃除する作業です。新しい地下水を入れてきれいにするためで、毎年というよりはもっと長い頻度だったようです。作業は桶屋が兼業していました。つるべ桶よりはるかに大きな桶を取り付けて屈強な男が数人がかりで井戸水を全部汲み出し、中に降りて底の掃除もするのです。
私はまだつるべで水汲みが出来るほど成長していなくて、幸いにもその労働を経験することはありませんでした。記憶を書いておきたくなり、失礼しました。
貴重なお話嬉しくたまわりました。
私の井戸の記憶はほとんど手漕ぎポンプで、出口に布を巻いて、鉄錆で茶色くなった記憶でしょうか。
つるべも知ってはおりますがあまり実物では使ったものは見ておりません。
「つるべとられてもらい水」などというのもイメージでは捉えられますがもう記憶の外になってしまっていますね。
> 石岡の水は、酒や醤油の醸造所が沢山あったことから質量とも優良であったと思わされます。
そのようですね。井戸はもうほとんど見かけませんが、雨水を貯める大きな石鉢などはまだ残っていますね。そのような風情も消えないうちに残していきたいものです。
井戸端会議の話や井戸浚いの話などとても貴重なものになっていきますね。
ありがとうございました。
初めまして。ブログ拝見いたしました。
とても詳しく調べていらっしゃるので、たいへん感動いたしました。
「大念寺の逆さ銀杏」について→
なぜ逆さ銀杏といわれているかの由来なのですが、
徳川家康が植樹するさいに、銀杏の苗を上と下を逆に植えてしまったようです。
(つまり、根が上で木の先端が下という絵になりますよね。 想像すると面白い 笑)
それでも根付いた!という流れの「逆さ銀杏」らしいです。
ホントかよ・・・(笑)と思ってしまいますけどね。
私は地元なので、祖父・父親から聞いております。
昔からそう伝わっているそうです。
嘘かホントか、笑い話か分かりませんけど^^
家康が根っこを上にして植えたとき、お付きの人は笑い堪えるの大変だったんじゃないのかな?
でも笑ったら切腹だろうね とか
逆に、家康はお付きの人にツッコミを入れて欲しかったのかもよ?
ああ~ツッコミ入れなかったら切腹かもね とか
家では、ツッコミどころ満載なお話なので、盛り上がったりしています。
では では 余談でした^^ノ
コメントうれしく拝読しました。
地元の方より面白いお話教えていただき感謝です。
もう江戸崎の記事を書いてからもう4年ほど経ちますので、どのように書いたのかもあまり覚えていませんでした。
でもこのさかさ銀杏はどこが逆さなんだろうと疑問に思ったのは覚えています。
そうなんですね。
でもまさか根を上向けて植えるなんてことはないですよね。
それに家康が自らやるとなるとさらに不思議ですね。
葉の向きが少し違うのかななんて思っていましたが・・・
お葉付きイチョウなどというのがいくつかの神社にありますから・・・
面白い情報ありがとうございました。
こんばんは!
お葉付きイチョウ!! 画像検索してみました
えぇっ!! こういう銀杏あるんですね
すごい不思議です 面白いっ!
人生で一回は実物見てみたいです@v@
大念寺の鐘楼の中の鐘は、戦争で供出されて鐘のないまま立っていたのですが、時期は分からないのですが倒壊したようです。
資料集に鐘がついていない鐘楼の写真が載っていました。
そうして、新たな疑問がわいてきました。
そ・・そういえば・・
鐘楼と鐘つき堂の違いが分からない・・・
今まで意識してみていなかったな。
たぶん、鐘楼は2階建て楼門ぽぃ豪華なもの
鐘つき堂は、一階建てで、
昔話で宮大工が居ないような、山奥の村の和尚さんが撞いている見た感じがするので、
誰でも頑張れば作れそうな4本足の小屋のやつかな
それとも、
楼門は足元が見えないようにカバーされて台形に見えるもの
鐘つき堂は足元カバーがされていないもの
かな。
う~ん・・・
今夜は寝れなそうです。
> お葉付きイチョウ!! 画像検索してみました
> すごい不思議です 面白いっ!
こういうものは数が少ないので大事にされているようですね。
親鸞上人のいた稲田の草庵(笠間・西念寺)にもあったと思います。
是非調べて実物をみてください。
> 大念寺の鐘楼の中の鐘は、戦争で供出されて鐘のないまま立っていたのですが、時期は分からないのですが倒壊したようです。
やはり多くが戦争で玉になってしまったのですね。
鐘楼と鐘つき堂の違いなんて考えたこともありません。
違いもたぶんないと思いますよ。
楼門が2階建てのようですから、鐘楼も2階建てなのでしょうか?
寝られなくなりますので考えるのはやめますね。