29平将門の乱
西暦930年平将門の乱に関する今昔物語集から記事を紹介します。この物語はここでは朝廷よりに書かれていますが、最後は将門も興世王らのはかりごとにのった結果としています。将門記などにはもう少し具体的な戦いの様子なども載っていますが、最後はどちらも仏教説話的な話で終わっています。
今昔物語集 巻25第1話 平将門発謀反被誅語
原話は⇒ やたがらすナビ 参照
<現代語訳(解説)>
今は昔、朱雀院(すざくいん)の御代(923-952年)のとき、東国に平将門(たいらのまさかど)という武人がいました。
これは柏原の天皇(桓武天皇)の孫の高望親王(たかもちしんのう)と申す方の子にあたる鎮守府将軍良持(よしもち)という人の子であります。将門は常陸・下総の国に住み、弓矢の道をよって立つものとして、多くの勇猛な武士を集め、これを部下として合戦するのを生業としていました。
はじめ、将門の父・良持の弟に下総介良兼(よしかね)という者がいました。将門は父の死後、その叔父・良兼とささいなことで良くない事があり、仲が悪くなりました。また、父の故良持の田畑の所有権争いにより、ついに合戦にまで至りましたが、良兼は道心が深く、仏法を尊んでいたので、合戦は好みませんでした。
その後、将門は常に事あるごとに親戚類とたえず合戦を続けていました。あるいは多くの人家を焼き払い、あるいは多くの人の命を奪いました。このような悪行ばかりをしたので、その近隣の国々の多くの民は田畠仕事忘れ、租税労役を勤めることもできません。
そこで、国々の民はこれを嘆き悲しみ、国司の上申書をもってこれを朝廷に報告したところ、天皇は聞いて驚かれ、すぐに将門を喚問せよとの宣旨(せんじ)を下されました。将門はお召しによって直ちに上京し、自分の無実を申し立て、数度にわたる審議の結果、「将門に過失はなし」とのご認定があり、数日後、許されて本国に帰ってきました。
その後、あまり時もたたぬうちに合戦に明け暮れるようになり、叔父・良兼や将門並びに、源護(みなもとのまもる)、扶(たすく:護の子)などと日々合戦を行いました。また、平貞盛は、以前、父の国香が将門に討たれたので、「この恨みをはらそう」と思い、当時、貞盛は在京していて朝廷に仕えており、左馬允(さまのじょう・左馬寮の三等官)でありましたが、その公務を捨てて急いで帰国したものの、将門の威勢に敵対できそうもないので、本望をとげられず、国内に隠れていました。
このように始終、合戦が行われていましたが、武蔵権守(むさしごんのかみ)興世王(おきよのおう)という者がありました。これは、将門と心を同じくする者です。正式に国司に任ぜられたわけではなく、押しかけて来て勝手に赴任してきました。その国の郡司がこれを例のない事だといって拒みましたが、興世王はこれを無視し、かえって郡司を罰しました。そのため郡司は身を隠してしまいました。
こうしている間、その国の介(すけ)である源経基(みなもとのつねもと)という者が、ひそかに京へ馳せ上り、朝廷に対し、「将門はすでに武蔵守興世王と共に謀反を起こそうとしております」と、訴えました。
天皇はこれを聞いて驚かれ、事の真偽を尋ねられましたが、将門は無実である旨を申し、常陸・下総・下野・武蔵・上総の五か国の国司が証明した上申書を取り集めて、朝廷に奉りました。天皇はこれをお聞きになり、将門の正当性を認められ、将門はかえってお褒めにあずかりました。
その後、また、常陸国に藤原玄明(ふじわらのはるあき)という者がいました。その国の守(国司)は、藤原維幾(ふじわらのこれちか)でありましたが、玄明は何事によらず反抗の態度を示し、租税を国司に納めません。国司は怒って罰しようとしましたが、どうしようもできません。ところが、この玄明が将門の配下になり、力を合わせて国司を国庁から追い払いました。国司は、そのままどこかに身を隠してしまいました。
そうしている間、興世王は将門に相談をもちかけました。「一国を奪い取るだけといってもその罪は免れまい。そうであれば、坂東を奪い取り、その成り行きをみたらいかがでしょう」と。将門は、「わしの考えもまさにそのとおりだ。東八か国からはじめて、都をも奪おうと思っている。いやしくもこの将門は、柏原天皇(桓武天皇)五代の末孫だ。まず諸国の印鎰(いんやく・印璽と鍵)を奪い取り、受領を京に追い返そうと思う」と言い、謀議が終わって大軍を率い、下野国に渡りました。その国の国庁へ着き、国王即位の儀式を執り行いました。
このとき、国司・藤原弘雅(ふじわらのひろまさ)、前国司・大中臣宗行(だいなかとみのむねゆき)などが国庁(館)にいましたが、まえから将門が国を奪おうとする様子を見て取り、進んで将門を拝し、直ちに印鎰を捧げ、地にひざまずいてこれを献じ、逃げ去りました。将門は、ここから上野国へ移り、即座に上野介藤原尚範(ふじわらのたかのり)の印鎰を奪い、使者をつけて京へ追いやりました。そして国府を占領し、国庁へ入り、陣を固めて諸国の受領を任命する除目(じもく)を行いました。
そのとき、一人の男が、「八幡大菩薩の御使いなるぞ」と口走りながら、「朕が位を蔭子(おんじ・父祖の功によって位階を授けるべき子)平将門に授ける。すみやかに音楽を奏してこれを迎え奉るべし」と。これを聞いて、将門は二度礼拝しました。
まして彼に従う大勢の軍兵どもは皆、喜び合いました。ここに至って、将門は自ら上奏文を作って新皇と称し、これを直ちに朝廷に奏上しました。
そのとき、新皇の弟に将平(まさひら)という者がいました。新皇に言うには、「帝王の座につくことは天が与えるところです。このことをよくお考えください」と。新皇が言うには、「わしは弓矢の道に達している。今の世は、討ち勝つ者を君主とするのだ。何の遠慮があろうか」と言って承知せず、直ちに諸国の受領を任命しました。
下野守には弟の将頼(まさより)、上野守には多治常明(たじのつねあき)、常陸介には藤原玄茂(ふじわらのはるもち)、上総介には興世王、安房守には文屋好立(ふんやのよしたつ)、相模介には平将文(たいらのまさぶみ)、伊豆守には平将武(たいらのまさたけ)、下総守には平将為(たいらのまさなり)等であります。また、都を下総国の南の亭に建設するよう議定しました。
また、磯津(いそつ)の橋を京の山崎の橋に見なし、相馬郡の大井の津を京の大津に見立てました。また、左右の大臣・納言・参議・百官・六弁・八史など、みな定めます。天皇の印や太政官の印を鋳造するための寸法・字体も定めました。ただし、暦博士については、力及ばなかったか。
諸国の国司たちはこのことを漏れ聞いて皆、急いで京へ上りました。新皇は武蔵国・相模国に至るまで回って行き、国の印鎰(いんやく)を取り上げ、租税労役を勤めるよう国庁の留守居役の者に命じました。また、自分が天皇の位につく旨を、京の太政官に通達しました。このときになって、天皇をはじめとして百官ことごとく驚愕し、宮廷内は大騒動になりました。
天皇は、「今は仏力を仰ぎ、神の助けをこうむるほかはない」とお思いになり、山々寺々に対し、顕教・密教を問わず、数多くの祈願を行わせ、また神社という神社に祈願を命ぜられたことは、愚かしい事でありました。
而る間、新皇、相模国より下総国に返て、未だ馬の蹄を休めざるに、遺る所の敵等を罸失なはむが為に、多くの兵を具して常陸国に向ふ時に、有る藤原の氏の者共、堺にして、微妙の大饗を儲て、新皇に奉る。新皇の云く、「藤原の氏の輩、平貞盛等有らむ所を教よ」と。答て云く、「彼等が身、聞く如くば、浮たる雲の如して、居たる所を定めず」と。
その間、新皇は相模国から下総国へ帰り、いまだ馬の足を休めぬうちに、残りの敵をすべて討ち滅ぼそうと、大軍を引き連れて常陸国へ向かう時、これを知った藤原の一族たちは国境で待ち受けて、山海の珍味を備えて新皇をもてなしました。
新皇はこれに言う。「藤原氏の者どもよ、平貞盛らのいる所を教えよ」と。答えていうには、「彼らは、聞くところによりますと、浮雲のように居場所を転々と変えております」と。
やがて、貞盛・護・扶などの妻が捕えられました。新皇はこれを聞き、その女たちがはずかしめを受けないよう命じたのですが、この命令が届く前に、兵士たちによって犯されてしまいました。
しかし新皇はこの女たちを解き放ち、みな家へ帰してやりました。
新皇はその場所に数日、留まっていましたが、敵の居場所がわかりません。やむを得ず、諸国から集めた軍兵をみな帰国させました。残るところは、わずか千人足らずです。
このとき、貞盛および押領使(おうりょうし:凶徒の鎮定・逮捕を司る官吏)の藤原秀郷(ひださと)らがこれを耳にして、「朝廷の恥をすすごう」「身命を棄てて戦おうではないか」と語り合い、秀郷らが大軍を率いて進発したので、新皇は非常に驚き、軍勢を率いて向かって行きました。やがて、秀郷の軍と遭遇。秀郷は戦略にすぐれ、新皇の軍を撃破します。
貞盛・秀郷は逃げる敵のあとを追って、追いつき、新皇は踏みとどまり、相対して戦いましたが、兵の数がはるかに劣勢のため、「退却して敵を近くにおびき寄せよう」と謀り、幸島(さしま・猿島)の北に隠れている間、貞盛は新皇の屋敷をはじめ、その一族の者どもの家を片っ端から焼き払いました。
さて、新皇はいつも率いている軍勢八千余人がまだ集まらないので、わずか四百余人の軍兵で幸島の北山で陣を張って待ち構えていました。貞盛・秀郷らはこれを追って行き、合戦となる間、はじめは新皇が順風を得て優勢を保ち、貞盛・秀郷らの兵は撃退されましたが、その後、貞盛・秀郷らが逆順風を得て優勢となりました。互いに身命を惜しまず戦います。
新皇は駿馬を走らせ、自ら陣頭に立って奮戦しましたが、とうとう天罰が下り、馬も走らず、手もなえ、ついには矢に当たって野の中で最後を遂げました。貞盛・秀郷らは喜び、勇士にその首を切り落とさせました。そして直ちに、下野国から上奏文を添えて、その首を京へ送りました。新皇が名を失い、命を滅ぼしたのは、かの興世王らのはかりごとにのった結果であります。
朝廷ではこのことを非常に喜び、将門の兄弟および一族狼党を追捕(ついぶ)せよとの官命を東海道・東山道の諸国にお下しになりました。また、「この一族を殺した者には褒美を与える」との旨を公布されました。参議(さんぎ:公卿の一員)兼、修理大夫(しゅりのだいぶ:修理職の長官)右衛門督(うえもんのかみ:宮門守護の長官)の藤原忠文(ふじわらのただふみ)を征夷大将軍に任じ、刑部大輔(ぎょうぶたいふ:刑部省の次官)藤原忠舒(ふじわらのただのぶ・忠文の弟)らを添えて八か国に派遣したので、将門の兄・将俊(まさとし)および玄茂らが相模国で殺され、興世王は上総国で殺され、坂上遂高(さかのうえのかつたか)・藤原玄明らは常陸国で殺されました。また謀反人の一党を捜索し、討伐している間、将門の弟七、八人の中のある者は剃髪して深い山に入り、ある者は妻子を捨てて山野を放浪したのでした。
かかる間、経基・貞盛・秀郷らには賞が与えられ、経基を従五位下に、秀郷を従四位下に、貞盛を従五位上に叙しました。
その後、将門がある人の夢に現れ、「我れは生前、一善すら行わず、悪のみつくってしまった。この悪業の報いで、今一人堪えがたい苦を受けている」と告げました。 と語り伝えているということです。
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