相撲人成村の事 まほらにふく風に乗って
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相撲人成村の事

豆知識23

 平安時代中期の頃、常陸国出身の相撲人真髪成村(まかみなりむら)という男がいた。
この成村の話が、今昔物語集と宇治拾遺物語に書かれている。
永観2年(984)相撲の節会(せちえ)で左の最手(ほて:現在の横綱)となり,右の最手海恒世(あまのつねよ)と死闘をくりひろげたという。
当時の相撲取りがどのような扱いを受けていたか詳しくはわからないが、なかなか興味深い。

相撲節会(せちえ)
飛鳥時代から相撲は存在したが、奈良時代の宮廷でも、相撲が行われていたことは、『続日本紀』に、元正天皇の養老3年(719)の条に、初めて抜出司(ぬきでのつかさ)という、相撲人(すまいびと)(力士)を選抜する官職が設置されたとある。
 また神亀(じんき)・天平(てんぴょう)年間(724~749)に、聖武天皇は諸国の郡司に、相撲人を差し出すように勅令を出し、この命令に違反するものには厳罰を与えた。
そして相撲の始祖と言われる野見宿禰(のみのすくね)、當麻蹶速(たいまのけはや)の相撲伝説が7月7日であるところから、七夕(たなばた)祭の余興に相撲を観覧することが恒例となったという。
 奈良末期から催された余興相撲が端緒になって、平安時代に入ると天覧相撲はますます盛大になり、弘仁(こうにん)年間(810~824)には、宮中儀式の相撲節会(すまいのせちえ)という独立した催しに発展した。太古のころからの神事相撲が、宮廷において国々から相撲人を召し集め、相撲をとらせる相撲節会という大規模な国家的年占いに発展した。
 相撲節会ではまだ今のような土俵はなく、押し出しなどの技はなく倒した方が勝ちとなる。

平安時代の相撲

今昔物語集と宇治拾遺物語に左の最上位になった常陸国出身の成村という相撲人の話が載っているので紹介しよう。

 今昔物語集 巻第二十三 第二十五 「相撲人成村、常世、勝負の語」

 原文 ⇒ やたがらすナビ

<現代語訳(解説)>
 今は昔、円融天皇の御代、永観二年(948)七月□日に堀河院(平安前期に藤原基経が用いた邸宅)で相撲の節会(せちえ)が行われた。
しかるに、試合の当日、左の最手(ほて・最上位)である真髪成村(まかみのなりむら)と右の最手である海恒世(あまのつねよ)が取り組むことになった。成村は常陸国の相撲人で、村上天皇の御時から相撲を取り続けて最手にまでなった者であり、体格も力も並優れていて、かなう者はおりませんでした。
一方恒世は、丹後国の相撲人で、これも村上天皇の御代の末頃から取り続け、最手になった者であり、体格は、成村より少し劣っていたが、相撲の取り口はじつに上手でした。
今日2人が組み合えば、2人とも長い間、互いに好敵手をもって任じている者同士ですから、勝負の行方は、両者いずれにとっても大変悔しい結果をもたらすに違いありません。まして成村は、恒世よりは相撲歴が長く、もし負けたなら、本当に悔しいことになるでしょう。

さて取り組んでいるときに、成村は六度まで障(さはり)を申し出ました。(障(さはり):現在の「待った」ではなく、天皇に認められれば、試合は中止になる。)
恒世も障(さはり)こそ申し出ませんでしたが、成村は我よりずっと先輩であったため「ただちに、取り組むのも気の毒だ」と思い、「しいて勝負しよう」とも思えず、また、成村は非常に力が強いので、そう簡単には勝てそうではありません。
そこで、成村が六度まで障(さはり)を申し出てわきに離れるたびごとに、恒世は放してやりました。
七度目になり、成村は泣々障(さはり)を申し出ましたが、許されませんでしたので、成村は怒って立ち上がると、がむしゃらに寄って行きました。そして恒世は片手を成村の首に回し、もう一方の片手で脇をさしにいきました。
成村は前袋(まえみつ)を引き、横みつを取って、恒世の胸に、胸を押しつけ、がむしゃらに引きつけたので、恒世は小声で、「気が狂われたか。これはどうするおつもりか」と言ったが、成村は耳をも貸さず、強く引きつけ、外掛けを掛けてきたところを、逆に内掛けにからみ、のしかかるように体をあずけて浴びせ倒すと、成村はあおむけに倒れ、その上に恒世が横ざまに倒れました。

この時、これを見ていた上中下のすべての人々は色を失いました。
相撲に勝つには、負けた方に対して、手を叩いて笑うというのが恒例なのですが、この勝負は重大事と思われていたからでしょうか、声も立てず、ひそひそと言い合っているだけでした。
その後、次の取り組みが始まるはずでしたが、この勝負について言い合っており、そのまま日が暮れてしまいました。
成村は起き上がって相撲部屋に駆け込むやいなや、狩衣の袴をつけて、すぐさま出て行きました。
そして直ちに、その日のうちに国へ帰ってしまいました。

一方恒世は、成村が起き上がっても、起き上ることができず倒れたままでいたので、右方の相撲の世話役たちが大勢そばに寄って助け起こし、弓場殿(ゆばどの)の方に連れて行き、そこにいた殿上人を外に出し、その席に寝かせました。
そのとき、右方の大将である大納言・藤原済時が階下の座から降り、下襲(したがさね)を脱いで、褒美として与えました。
また中・少将たちはそばに寄り、恒世に、「成村は、どうだったか」と尋ねると、ただ、「手」(よい最手)とだけ答えました。
その後恒世は、世話役たちに助け起こされ、皆でこの人事不省となった者を押し立たせ、控え所の方に連れて行くと、将たちは着ている物をある限り脱いで褒美として与えました。しかし恒世は、その着物さえ、ちゃんと着ることが出来ず、播磨国で死んでしまいました。胸骨をへし折られて死んだのだと、ほかの相撲人たちはうわさし合いました。

成村はその後、十余年生きてましたが、「恥をかいた」と言って、京に上ることもせず、やがて敵に討たれて死にました。その成村というのは、現在の最手、為成(ためなり)の父です。

左方右方の最手同士が勝負するのは、珍しいことではなく、普通のことです。しかし、天皇がその年の八月に退位されたので、「左右の最手が勝負するのは、不吉なことだ」と言い出す者があって、それ以後は勝負することがなくなりました。
これは、事の真相を知らないためであり、退位されたることと、この勝負にはまったくかかわりがないことです。
また、正月十四日の踏歌(とうか:集団が足を踏み鳴らして歌い舞う宮中行事で、正月十四日が男踏歌、十六日が女踏歌の節会)も昔から年中行事として行われていたのですが、大后(醍醐天皇后、藤原穏子)が正月四日に亡くなられたので、十四日は御忌日に当たるゆえをもって、行われなくなりましたが、おかしなことに人はこれを勘違いして、「踏歌は、后の御為に不吉なことだ」
と言い出し、現在では行われていません。これもまったく、心得ないことであります。

なお、成村と恒世は勝負するべきことではなかったと世間の人は非難した、とこう語り伝えられています。
それではもう一つ成村の話が今昔物語集にありますので、紹介します。
こちらは成村の出身国を「陸奥国」としています。

今昔物語集 巻二十三第二十一話 大学の学生、相撲人を投げ飛ばす

 原文 参照 ⇒ やたがらすナビ

 今は昔、陸奥国に真髪成村(まかみのなりむら)という老いた相撲人がいました。真髪為村(まかみのためむら)の父で、今いる経則(つねのり)の祖父にあたります。
その成村が、相撲の節会(せちえ)が行われたある年、国々の相撲人たちが京に集まって、節会の日を待っているある日、朱雀門(すざくもん)に涼みに行きました。各人が「宿所に帰ろう」と遊びながら歩いていくと、二条大路を東に行き、美福門の所から南に向かって列をなして進んで行き、大学寮の東門を通ろうとすると、大学の学生(がくしょう)たちが大勢、門に出て立って涼んおりました。そして、その前を通って行く相撲人たちの恰好は皆、水干装束(すいかんしょうぞく:平安時代の装束で雨・晴両用の簡素な衣装)で、その襟元はあけひろげ、烏帽子も押し入れて被った、だらしない格好のまま、ぞろぞろと群れて通り過ぎようとするのを、学生たちは心穏やかでなく思い「これは通すわけにはいかない」と、「やかましい。静かにしろ」と叫んで大路の真ん中に立ちふさがり、通そうとしません。
なにせ、こんな偉い所(大学寮は官吏養成機関)の学生たちのすることだから、押し破って通ることもできないでいると、この学生の中に、背が低く、冠・上衣が他の者よりいくぶん良いものを着た男がいて、それが特に前に出て、制止しています。
この成村は、それをじっと見初めておいて、「おい、みんな。引き返そう」と言って、もとの朱雀門に引き返しました。

そこで成村は、相撲人たちを集めて相談し、「この大学の学生の輩らが我らを通さぬというのは、じつにけしからんことだ。強引に通り抜けようとは思ったが、ともあれ今日は通らずに帰った。明日また来て、必ず通ってやろうと思う。あの中に特に大きな声で『静かにしろ』と言って立ちふさがっていた男がいた。じつに出しゃばりな奴だ。明日通るときにも、今日のように邪魔をするに違いない」
こう言って、□□国出身の□□□という相撲を指さし、「その中で特に邪魔をしたあの男の尻っぺたを血が出るほど蹴飛ばしてやりなされ」と、成村が言うと、こう言われた相撲人は得意になって、「この俺が蹴飛ばそうものなら、とても生きてはおれまい。必ず蹴飛ばしてやりましょう」と言った。
この相撲人は同輩の中でも特別に強いと評判の男であり、足も速く、気の荒い男であったので、そのあたりを考えて、成村も言ったのでしょう。さて、その日は各々自分の宿所に帰りました。
翌日になると、昨日は来なかった相撲人たちもみな集まって来て、非常に人数が増えました。
今日はこんな具合に通ろうかと計画していることを、大学の学生連中もは分かったのか、昨日よりも大人数でがやがやと繰り出して、「やかましいぞ。静かにしろ」と、大路に出て叫んでいるので、相撲人たちも共に群がって、昨日のように歩いて近寄って来ると、昨日、邪魔をした学生が大路の真ん中に出て、「通さん」という顔つきをありありと見せました。
そのとき、成村が、「彼の尻を蹴飛ばせ」と言っておいた相撲人に、急いで目くばせをすると、この相撲人は、人より背が高く大きく、若く血気盛んな男であったので、袴の裾を高々とくくり上げ、真っ直ぐに学生に歩み寄ると、それに続いて、他の相撲人たちもしゃにむに押し通ろうとしたので、学生たちは通すまいと立ち塞がりました。
この尻を蹴ろうとする相撲人が、例の学生衆に走り掛かり、蹴倒そうと足を高く持ち上げたところを、それを見はからって、学生がさっと背をかがめ、体をかわしたので、蹴るのが外れ、足だけが高く上がり、仰向けざまに引っくり返りそうになったのを、学生はその足を取り、この相撲人を、ちょうど人が細杖でも持つように引っさげて、他の相撲人たち目がけて走り掛かったので、皆、これを見て、走り逃げてしまいました。こうしておいて、この引っさげた相撲人を投げとばすと、くるくる回りながら、二、三丈(約6から9メートル)ほど飛んで行って倒れ伏し、体が砕けて起き上がることもできなくなりました。
それを目にもかけず、成村のいる方に走り掛かってきたので、成村がこれを見て、「思いもよらず力の強い男だ」と思い、呆れ返って、相手の様子をよくうかがいながら逃げ出しましたが、すぐに追いかけてきました。成村は朱雀門の方に走り、脇戸から中へ逃げ込みました。やがて、相手は追いせまって飛び掛かってきたので、成村は「つかまってしまう」と思い、目の前の)築地壁を飛び越えようとした時、「待て」と(相手が)手を伸ばすと同時に(成村が)飛び越えたので、相手は体には手が掛からず、残された片足のかかとを沓(くつ)をの上からつかまれてしまました。
そして、沓のかかとに足の皮をつけたまま、沓もかかとも刀で切ったように、すぱっと切り取られ、成村が築地壁の内側に飛び込んだ後、足を見ると、血がほとばしって止まらず、沓のかかとともも切れてなくなっていした。
成村は、「俺を追ってきた大学の学生は、おっそろしく力の強いやつだな。尻を蹴飛ばそうとした相撲人をもつかんで、人を杖代わりに使うように投げ捨てた。世の中は広いから、こんな男もいる。なんと恐ろしいことよ」と思い、そこからこっそり宿所に帰って行きました。
あの投げられた相撲人は、そのまま気絶していたので、従者たちが来て、物に入れ、かついで宿所に帰って行きました。そしてその年は、相撲の取り手には出ませんでした。
その後、成村は自分の属する方の(近衛の)中・少将に対して、「じつは、このようなことがありました」と語ると、中・少将も聞いて驚きました。また成村が言うには、「この成村でも、とうてい彼の力に及びません。あの大学の学生は、昔の名だたる力士にも恥じぬ素晴らしい相撲人でしょう」と申し上げたので、中・少将がこのことを天皇に奏上すると、宣旨(せんじ:天皇などからの命令文書)に「『式部丞(しきぶのじょう・式部省の三等官で学生たちの先輩)といえども、その道(相撲)の達人を召し出せ』ということがあり、まして大学の衆くらいどうとでもなろう」とて、その学生を尋ね捜しましたが、どういうわけなのか、その人が誰であるかは分からず、そのままになってしまいました。

これは実に驚くべきことである、とこう語り伝えています。

また、これと同じ話が宇治拾遺物語にもあります。
宇治拾遺物語 【三十一話 成村強力の学士に逢ふ事】

 原文 ⇒ やたがらすナビ



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常陸国のマメ知識集 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/11/25 06:30
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