平維叙(貞盛の子)の話
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今昔物語の中に平貞盛の嫡子「平維叙(これのぶ)」の話が載っていますので紹介しましょう。
平将門を倒し、朝廷から褒美をたくさんもらったと言われる平貞盛は国香の嫡男であり桓武平氏の棟梁です。
常陸の国にいると、この貞盛の弟・繁盛の子供である「維幹(これもと)」が貞盛の養子となり、常陸国の平氏の長として大掾氏が誕生しますが、貞盛の直接の嫡子とされる維叙(これのぶ)はいったいどのような人物だったのでしょう。
都にいて結構出世して行ったようです。
陸奥守となり、役職を重ね、藤原道長にも仕えたようです。また常陸国にいた「平維幹(多気維幹)」などの役職依頼などもしていたようです。
ただ「維叙(これのぶ)」は貞盛の跡を継いでいますが、貞盛直接の嫡子ではなくやはり養子であるとの説もあるようです。
今昔物語 巻十九 第32話 陸奥国神報平維叙語(平維叙、神に恩返しをされる話)
原文はこちらを参照 ⇒ やたがらすナビ
<現代語訳(解説)>
今は昔、陸奥守(むつのかみ・現在の東北地方の国司)平維叙(たいらのこれのぶ)という者がいました。
貞盛朝臣(さだもりのあそん・平将門を誅殺した勲功者)の子であります。
任国にはじめて下り、神拝(じんぱい・新任国司の行事)ということをしようと、国内のほうぼうの神社に参詣して歩いたのですが、□□郡の道のほとりの木が三、四本ほどある所に小さな祠(ほこら)がありました。
人がお参りに来た気配もありません。
守はこれを見て、お供をしている国の者たちに、「ここには神様がおられるのか」と尋ねると、国の者の中で年老いた「古いことなど知っているように」見える国府の役人が言いました。
「私の祖父で八十歳になる者が言っていました。『ここには尊い神様がおいでになりましたが、昔、田村の将軍(坂上田村麻呂)がこの国の守でおられたとき、神社の禰宜(ねぎ)・祝(ほふり)の中から思いがけぬ不祥事を起こした者があり、それが大事に発展し、朝廷に奏上されなどして、神拝もなくなり、朔幣(さくへい・毎月一日に国司が神社に供物を奉ったこと)なども停止されてからのち、社殿も倒れ失せ、長い間、人の参拝も絶えてしまったと聞いている』と申しておりました。それから二百年ほど経っておりましょう」
守はこれを聞き、「それはまことにお気の毒なことだ。神様の過ちではないのになあ。この神様を元のように崇め奉ろう」と言って、そこにしばらく留まり、藪を切り払わせなどした上、その郡に仰せつけて、直ちに大きな社殿を造らせ、朔幣に参拝し、神名帳(じんみょうちょう・神社名簿)に記載などしました。
「このように崇められたので、神も定めしお喜びになったであろう」と思って日を過ごしていましたが、任期中にはこれという霊験も現れず、夢などに見えることもありませんでした。
こうしているうち、いつしか守の任期も終わり、上京しました。
守が国府の館を出て、二、三日ほどになるころ、この神のことを守にお話しした庁官の夢に、誰とも知らぬ者が突然、家の中に入って来て、「この家の門の外においでになって、お召しになっておられる。すぐ来るように」と言います。
庁官は、「いったい誰がお召しなのだろう。陸奥守さまはすでに上京なさったのに、この国で『召す』など言える人がいるはずはない」と思い、しばらく出て行かないでいると、しきりに、「早く来い。早く来い」と言うので、「何事だろう」と思って出て見ると、二、三尺(60~90センチ)ほどの大きさのなんともいえず美しく飾った唐車(からぐるま・貴人の乗る車)に乗っておられる方がいます。
気高く尊げな様子です。
お供の人が土の上にたくさん居並んでいました。
「何かわけがあるのだろう」と思い、畏まって控えると、大きな車箱の側に控えている人が、「その男、こちらへ参れ」と言って召します。
恐ろしいので、すぐには行かないでいましたが、強いて召すので、恐る恐る近くに寄って行くと、車の簾を少し動かして、「わしを知っているかな」と仰せになります。
「どうして存じ上げましょう」とお答えすると、「わしは長い年月、見捨てられたままになっていた某地の神だ。ところが、ここの守が冷遇されていたわしを思いもかけず、このように崇めてくれたので、そのお礼に、守が上京するのを送って行こうと思っている。わしとしては、京に送りつけてすぐに立ち返るべきではあるが、この守をもう一度何とかして国司にならせてから帰って来ようと思うので、その間はわしはこの国にいないだろう。『そなたがこのわしのことを詳しく守に語った結果、守もこのようにわしを崇めてくれたのだ』と思うから、こうしてそなたにこのことを告げてやるのだ。そなたにも感謝しているので、いつかは自然にそれがわかることもあろう」と、おっしゃって京に上っていかれました。
庁官はこういう夢を見、汗びっしょりになって目が覚めました。
「さては夢だったのか」と思うと、この神の御心(みこころ)がまことにかたじけなく尊く思われ、その後、この夢を人に語ると、聞く者はみな感激し尊び奉りました。
その後、実方(さねかた)の中将(藤原実方)という人がこの国の守になって下って来たので、忙しさに紛れてこの夢のことも忘れてしまいました。
何年か経って、思いがけず、この庁官は前のように夢を見ました。
例の人が入って来て、門の所においでになり、「お召しである」と言います。
夢見心地に、「前においでになった神様がいらっしゃったのであろうか」と思い、急いで参上すると、本当に前と同じ唐車であります。
前の時より車も古めかしくなっていたし、神も旅やつれした様子をしておられます。
「まさに前の時の神だ」と思い、かしこまって控えると、以前のように召し寄せ、「わしを覚えているか」と仰せられたので、「前のお話は承っております」と申し上げると、「よく覚えていたな。わしはこの国の前の国司について、この三、四年京に住んでいたが、いろいろ手を尽くして、あの者を常陸守(ひたちのかみ)に任じさせて帰って来たのだ。『このことをどうしてもそなたに知らせぬ訳にはゆかない』と思って告げるのだ」と仰せになります、とこういう夢を見て目が覚めました。
その後、怪しく思い、前に夢を語った人びとに会って、「今度またこのような夢を見た」と言うと、「本当に前の国司様が常陸守になられたとするならば、神様の霊験は何と素晴らしいことだろう」と言い合っているうちに、京から任官の書状を持って使者が下って来ました。
見れば、この陸奥国の前の国司がまさに常陸守になっていました。
これを思うと、じつに何とも尊いことであります。
そこで、この国の人も皆いっそう心を込めて、この神にお仕えすることになりました。
神にも真心がおありなので、恩を知って、このように明らかに報いなされたのであります。
それ以後は、霊験あらたかなことが多くありました。
この夢を見た庁官も、うって変ったように幸せな生活を送るようになりました。
恩を報ずることは仏もお喜びになることであるから、神もこれによって苦しみの境界から離れなされただろうと、ものの道理のわかる人は褒め尊んだ、とこう語り伝えているということです。
(注)平維叙の若いころは父に従軍して、外従父の平将門と戦って功績を残したため順調に昇進し、義兄の藤原実頼(忠平の子)とその孫の実資(斉敏の子)に仕え、相模国高座郡鎌倉郷を本拠地としたという。
父の貞盛が高齢のために隠居すると、その後を継いだ。後に老衰で父の貞盛が逝去すると、武家平氏の棟梁となったが
維叙 - 貞叙 - 信盛 (嗣子がなく断絶)
信盛の族弟である貞方(直方)が、武家平氏の棟梁となった。
官歴
973年(天延元年)以前 : 前兵衛尉
973年(天延元年) : 右衛門少尉
996年(長徳2年) : 陸奥守
999年(長徳5年) : 常陸介
1005年(寛弘2年) : 検非違使
1012年(寛弘9年/長和元年) : 上野介
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