鴨の宮を探して(1)
常陸国風土記の行方郡では、
「倭武(ヤマトタケル)の天皇が、現原の丘から降りて、無梶河を郡境の果てまで行ったとき、鴨が飛びわたるのが見えた。そこで天皇が弓でそれを射ると、弓の弦の音に応じて鴨が地に落ちた。
鴨が落ちた場所を「鴨野」と言う。しかしそこは土地が痩せていて草木も生えない。」
その後、地元の人が鴨野の場所にお宮を建て祀ってきたという。
しかし、昭和2年に鹿島参宮鉄道は玉造駅までできていたが、玉造から船で鹿島参拝をすることとして、船着場を整え、鉄道は鉾田を目指す事に方針変更となり、この鴨の宮の敷地を通過する事になった。
その後、この前にあった鴨の宮の崖上近くに「鴨の宮再建」と刻んだ碑が建立されたという。
そしてその50年後の昭和53年に玉造第一保育園のすぐ北東の山側に「鴨の宮」が移されたという。
ここも地名は「加茂」と言う場所で、元々あった場所からは1km以上あるというが、あまり違和感はない。
ただ、元の場所を紹介しているサイト等が少なく、情報もよくわからない。
まだ、この元の場所も「鴨之宮神社」と称しているらしいので正確には2箇所となったということなのか。
そこで、この元あった場所を探してみる事にした。
まずは現在「鴨の宮」とされている玉造乙272−2の場所へ。
玉造市街方面から県道116号を梶無川に沿って上流へ進むと玉造甲から乙地域に入り、左側に「玉造第一保育園」があります。
この保育園の先の右手の細い道を少し行くとその左側の山の中腹に神社があります。
右手に入ってすぐにこのような案内矢印があります。
少し上れば神社の鳥居が見えます。
鳥居の横に彫刻家の宮路久子さんが作られたヤマトタケルの像が置かれています。
この神社に置かれた説明板には昭和50年3月9日に元の鴨の宮の地から遷宮されたと書かれています。
また前にあった鴨の宮地の地名に「鴨の宮」とあり、この遷された場所も「加茂」という地名であり、どちらも遺称地であるということができるということのようです。
ただ、この加茂地区には、以前「石神神社」という神社があったそうです。
何かスッキリしませんが、では昔鴨の宮が有ったといわれる場所を探してみましょう。
まずは、玉造郷校跡(玉造城跡)の地から東に250mくらいと聞いてたので、ここから・・・・
次回に続きます。
「倭武(ヤマトタケル)の天皇が、現原の丘から降りて、無梶河を郡境の果てまで行ったとき、鴨が飛びわたるのが見えた。そこで天皇が弓でそれを射ると、弓の弦の音に応じて鴨が地に落ちた。
鴨が落ちた場所を「鴨野」と言う。しかしそこは土地が痩せていて草木も生えない。」
その後、地元の人が鴨野の場所にお宮を建て祀ってきたという。
しかし、昭和2年に鹿島参宮鉄道は玉造駅までできていたが、玉造から船で鹿島参拝をすることとして、船着場を整え、鉄道は鉾田を目指す事に方針変更となり、この鴨の宮の敷地を通過する事になった。
その後、この前にあった鴨の宮の崖上近くに「鴨の宮再建」と刻んだ碑が建立されたという。
そしてその50年後の昭和53年に玉造第一保育園のすぐ北東の山側に「鴨の宮」が移されたという。
ここも地名は「加茂」と言う場所で、元々あった場所からは1km以上あるというが、あまり違和感はない。
ただ、元の場所を紹介しているサイト等が少なく、情報もよくわからない。
まだ、この元の場所も「鴨之宮神社」と称しているらしいので正確には2箇所となったということなのか。
そこで、この元あった場所を探してみる事にした。
まずは現在「鴨の宮」とされている玉造乙272−2の場所へ。
玉造市街方面から県道116号を梶無川に沿って上流へ進むと玉造甲から乙地域に入り、左側に「玉造第一保育園」があります。
この保育園の先の右手の細い道を少し行くとその左側の山の中腹に神社があります。
右手に入ってすぐにこのような案内矢印があります。
少し上れば神社の鳥居が見えます。
鳥居の横に彫刻家の宮路久子さんが作られたヤマトタケルの像が置かれています。
この神社に置かれた説明板には昭和50年3月9日に元の鴨の宮の地から遷宮されたと書かれています。
また前にあった鴨の宮地の地名に「鴨の宮」とあり、この遷された場所も「加茂」という地名であり、どちらも遺称地であるということができるということのようです。
ただ、この加茂地区には、以前「石神神社」という神社があったそうです。
何かスッキリしませんが、では昔鴨の宮が有ったといわれる場所を探してみましょう。
まずは、玉造郷校跡(玉造城跡)の地から東に250mくらいと聞いてたので、ここから・・・・
次回に続きます。
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