麻績千丈ヶ谷
香取市小見川の奥の台地に聳える府馬の大グスへ行くのに、今回小見川駅側から真っ直ぐ北に進み、府馬の大グス公園の台地下にある駐車場に車を停めて下から歩いて登りました。
麓はおそらく標高は4~5m位しかないと思いますので、大地の上の標高40mくらいまで坂道を上りました。
雨が降った後で、少しぬかるんだところもあり、必ずしも歩きやすいとは言えませんが高さを実感できました。
府馬の大グスの横には広場があり木製の展望台が置かれています。
展望台からの眺めは現地の説明看板の写真をお借りしました。
この「麻績千丈ヶ谷」と書かれた部分のイメージを得るために、Flood Maps で水面の高さを5mほど上げて地図を眺めてみます。
このように今の小見川の街や駅の方からこの下までは香取の海(現在の霞ケ浦)と続く下総台地に入り込んだ谷であったことがわかります。
そしてこの地が次第に陸地になり、江戸時代には干拓事業で広い田畑に変身したのでしょう。
阿玉台貝塚は縄文時代の貝塚、久保神社はこの「麻績千丈ヶ谷」の窪地の様に少し入りこんだ場所に建つ神社(神仏習合)、大原幽学は江戸時代の農事改革者(現在のJA:農協を作った人)で、天保水滸伝ではここも襲われた。
この麻績千丈ヶ谷の開拓や、椿の海と呼ばれる銚子、旭など九十九里浜川に広がっていた大きな内海の開拓などにも大きな影響があったのでしょう。
さて、今回の記事は「麻績千丈ヶ谷」についてです。
「麻績」というのが気になります。
まず、読み方がわからない・・・・・・・・・
どうやら「麻績=おみ」と読むようです。
長野県には善光寺街道に麻績宿(おみじゅく)、麻績村などという地名もあるようです。
麻績(おみ)は麻を細くたたいて、それをより合わせて糸にする事のようです。
またはその作業をする時の道具なども呼んでいます。
発音も「おうみ」と言っていたのがしだいに「おみ」に変わっていったようです。
「小見川(おみがわ)」の「小見」はどうやらこの「麻績」から発生した地名のようです。
この小見川町も平成の大合併で隣の佐原市と一緒になって「香取市」となってしまいましたので、小見川町の名前も消えてしまいました。
次第に時代を残した名前が薄れてしまうことはさみしいですね。
でも何故ここに「麻績」の地名があるのでしょうか?
あまり紡績が盛んな土地といったイメージは湧いてきません。
もともと「房の国=総の国」の総は麻のこと。
四国の阿波(徳島)から舟で房総半島の先端にやってきた阿波忌部氏(古代の朝廷祭祀を担当した)一族がやってきたことを考えればこのあたりでもその名残の名前だったと考えれば納得です。
安房は阿波から来た名前だし、阿波ももとは1字の粟でした。これを2字の名前にしろと命令されて阿波になりました。
千葉県にはたくさんの「あわ」「ふさ」などに関係した地名があります。「布佐」なども「総」と同じですね。
茨城県にもたくさんあります。
水戸にそそぐ大きな川の「那珂川」がありますが、この川の名前は常陸国風土記では「粟川」です。
この川の上流の旧桂村(現城里町)に「粟」という場所があります。
四国吉野川流域には昔「「麻植(おえ)郡」という地名がありました。
それが「吉野川市」となり地名から消えていきました。
昔をたどるにはこれらの古い地名が消えることはとても残念なことです。
是非いろいろなところでこれらの地名も残していってほしいと思います。
麓はおそらく標高は4~5m位しかないと思いますので、大地の上の標高40mくらいまで坂道を上りました。
雨が降った後で、少しぬかるんだところもあり、必ずしも歩きやすいとは言えませんが高さを実感できました。
府馬の大グスの横には広場があり木製の展望台が置かれています。
展望台からの眺めは現地の説明看板の写真をお借りしました。
この「麻績千丈ヶ谷」と書かれた部分のイメージを得るために、Flood Maps で水面の高さを5mほど上げて地図を眺めてみます。
このように今の小見川の街や駅の方からこの下までは香取の海(現在の霞ケ浦)と続く下総台地に入り込んだ谷であったことがわかります。
そしてこの地が次第に陸地になり、江戸時代には干拓事業で広い田畑に変身したのでしょう。
阿玉台貝塚は縄文時代の貝塚、久保神社はこの「麻績千丈ヶ谷」の窪地の様に少し入りこんだ場所に建つ神社(神仏習合)、大原幽学は江戸時代の農事改革者(現在のJA:農協を作った人)で、天保水滸伝ではここも襲われた。
この麻績千丈ヶ谷の開拓や、椿の海と呼ばれる銚子、旭など九十九里浜川に広がっていた大きな内海の開拓などにも大きな影響があったのでしょう。
さて、今回の記事は「麻績千丈ヶ谷」についてです。
「麻績」というのが気になります。
まず、読み方がわからない・・・・・・・・・
どうやら「麻績=おみ」と読むようです。
長野県には善光寺街道に麻績宿(おみじゅく)、麻績村などという地名もあるようです。
麻績(おみ)は麻を細くたたいて、それをより合わせて糸にする事のようです。
またはその作業をする時の道具なども呼んでいます。
発音も「おうみ」と言っていたのがしだいに「おみ」に変わっていったようです。
「小見川(おみがわ)」の「小見」はどうやらこの「麻績」から発生した地名のようです。
この小見川町も平成の大合併で隣の佐原市と一緒になって「香取市」となってしまいましたので、小見川町の名前も消えてしまいました。
次第に時代を残した名前が薄れてしまうことはさみしいですね。
でも何故ここに「麻績」の地名があるのでしょうか?
あまり紡績が盛んな土地といったイメージは湧いてきません。
もともと「房の国=総の国」の総は麻のこと。
四国の阿波(徳島)から舟で房総半島の先端にやってきた阿波忌部氏(古代の朝廷祭祀を担当した)一族がやってきたことを考えればこのあたりでもその名残の名前だったと考えれば納得です。
安房は阿波から来た名前だし、阿波ももとは1字の粟でした。これを2字の名前にしろと命令されて阿波になりました。
千葉県にはたくさんの「あわ」「ふさ」などに関係した地名があります。「布佐」なども「総」と同じですね。
茨城県にもたくさんあります。
水戸にそそぐ大きな川の「那珂川」がありますが、この川の名前は常陸国風土記では「粟川」です。
この川の上流の旧桂村(現城里町)に「粟」という場所があります。
四国吉野川流域には昔「「麻植(おえ)郡」という地名がありました。
それが「吉野川市」となり地名から消えていきました。
昔をたどるにはこれらの古い地名が消えることはとても残念なことです。
是非いろいろなところでこれらの地名も残していってほしいと思います。
また読めた後もこの「小見川」の地名(漢字が違うので)とは気が付かずにいました。
つい先日この名前が気になって調べていて初めて知りました。
それぞれの地元で少なくともこうした情報がたくさん発信されるといいと思います。
コメントありがとうございました。