潮来と延方(9)-潮来陣屋跡 まほらにふく風に乗って
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潮来と延方(9)-潮来陣屋跡

国道51号線を潮来方面に進み稲荷山の公園を過ぎて「土木事務所入口」という信号がある。
この信号を右に曲れば潮来の水郷地帯中心部に出るが、反対側の左手に入る狭い道がある。

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そして正面にはこんもりとした小山がある。
ここが潮来陣屋跡のある弁天山だという。
残念ながらこの通りの左右はゴミの集積場、処分場となりあまり景観としては良くない。
山の麓も捨てられたようなゴミが積み重ねられていた。

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この山の中腹に弁財天が祀られていて、そこに登る登り口がある。
あまり多くの人が訪れていないようで、道は石段で整備されているが寂しい山道だ。

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その道の入口付近に碑は建てられている。
「潮来鎮台(陣屋)跡 天狗党潮来勢集結の地 潮来弁天山」と書かれている。

その隣りには
「幕府の命により武田耕雲斉指揮のもと、治安沈静を目的に創建されたが、元治甲子の争乱で天狗党の拠点になり、幕府掃討軍によって焼き討ちされた。」と書かれている。

武田耕雲斉は水戸藩の三田(戸田忠太夫、藤田東湖、武田耕雲斉)と称される重鎮で、斉昭死後に水戸藩内の意見対立が激しくなり、藤田小四郎などが天狗党を旗揚げした時にはこれを諌め、早まった行動を鎮めようとしていました。
しかし、水戸藩にとって情勢が日々悪くなり、小四朗などから天狗党の党首を懇請されこれを引きうけてしまいます。
従って、この潮来陣屋も治安が目的でできたのですが次第に天狗党の人達の集結場に変わっていったのでしょう。

耕雲斉は最後は駿河で小四郎とともに降伏して斬首されましたが、悲惨なのはその家族です。
妻、妾、長男とその家族(11歳の娘もいた)、次男、六男(9歳)、七男(3歳)などことごとく斬首となりました。
時代の流れとはいえあまりにもむごいことです。
この多くが靖国神社に合祀されています。

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この陣屋は延方郷校や潮来郷校などの水戸学問所には幕末に尊王攘夷をかかげる急進派の天狗党が集結するようになりました。
これが筑波勢と行動を共にした潮来勢となりました。
そしてそこには多くの農民も加わっていました。

これを鎮圧するためにこの弁天山に幕府は陣屋を置いたようです。
しかし逆にこの陣屋は潮来勢の集結する場に変わってしまい、最後は新政府軍による掃討作戦で焼き払われてしまったようです。

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山道を登るとそこに小さな小屋が置かれています。これが弁財天のようです。

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「芸達者 商売繁盛」と書かれた木札が印象的です。

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潮来の街の方を見ることもできますが、木々に覆われて少し見通しは悪いです。
更に山道が続いていたので進んでみました。

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少し開けたところに「南無妙法蓮華経」の石碑が立てられていました。
天狗党の霊を鎮めるために置かれたものでしょうか。

でもいまでもこの天狗党は悲惨でどこかに亡霊が潜んでいる気がしています。

以前玉造でも大宮神社に「天狗党忠魂碑」がありました。(記事はこちら
こちらは玉造勢でした。
小川、玉造、延方(潮来)はそれぞれ水戸藩南領の領域で郷校が置かれていました。
小川の天聖寺跡(記事はこちら)などでも天狗党が棲みかとしていて焼き討ちされたことを書いていました。

この話はこれくらいでやめておきましょう。
暗くなるばかりです。

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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/02 18:06
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