橋門の八坂神社
今から10年近く前に、行方市の小高地区を「小高散歩」として6か所ほど紹介しています。
今年になって、常陸国風土記の遺称地などを巡る機会も増え、7月に行方地方も一度訪れましたが、時間の関係で予定の半分くらいしか訪れることが出来ませんでした。
これを、また少し涼しくなってから再訪問したいと考えていますが、気になる場所を少しずつ調べなおしたりしています。
この行方市の「小高地区」はそれほど広いわけでもなく、今は町としては小規模で、あまり注目される場所もありません。
きっと、平安や室町などの頃はもっと何かがあったのではないかと考えています。
1) 常陸国風土記には
「(行方)郡の南七里に男高の里あり。古、佐伯、小高といふももありき。其の居める処為れば、因りて名づく」
とあります。
行方郡の郡家が井上あたりにあったとすれば、南に七里(約3.5km)ですから、今の「小高」とみて間違いないでしょう。
2) 平安時代末期に多気大掾氏から水戸の吉田郷に入った吉田(平)清幹(きよもと)の次男(忠幹)が行方に入り、行方氏を名乗り、行方二郎と言われた。
この行方二郎の子供達4人、この地方に散らばって、行方四頭と称されるようになった。
この四頭は小高(長男)、島崎(二男)、麻生(三男)、玉造(四男)となるので、小高は長男ということは、この小高が行方の初期の中心地と考えてもいいと思う。
3) Wiki.を調べると、「1889年(明治22年)に、橋門村・小高村・井貝村・南村・島並村が合併し行方郡小高村が発足」
とあり、「1955年(昭和30年)にこの小高村は、 麻生町・大和村・太田村・行方村と合併し麻生町が発足した。」とあります。
この麻生町ですが、江戸時代は周り(玉造や潮来など)がほとんど水戸藩でしたが、この麻生町や羽生、沖洲、浜なども麻生藩の飛び地として新庄氏の所領となっていました。
上記のような歴史的背景を踏まえて、この小高地方をまた少し散策してみたくなったのです。
まずは、霞ケ浦沿いを走る国道355号線ぞいにある「橋門の八坂神社」から紹介します。
霞ケ浦沿いの国道355号線は、この辺りはほぼ南北に走っています。
石岡側から行くと玉造、手賀などを過ぎ、於下(おした)をすぐ手すぐに「橋門(はしかど)」という場所に出ます。
ここから左手(東側)に入ったの少し高台に中世の「小高城」がありました。
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橋門の国道沿いに「八坂神社」が置かれています。
ここを曲がって内陸側に入ると「常光院」という佐竹氏の菩提寺がありますが、佐竹氏が支配する前は、ここには皇徳寺という小高氏の菩提寺があった場所で、この寺の裏の台地の上に小高城があったようです。
まあ、八坂神社はこのあたりもたくさんありますが、そのほとんどが江戸時代までは「天王神社」「天王様」などと呼ばれた牛頭天皇を祀る社でした。
インドの祇園精舎の守護神が牛頭天皇ですが、日本では京都の八坂神社と同じく、明治維新後に祇園社、(牛頭)天王社はスサノオを祭神とする「八坂神社」(他に、須賀神社、素鵞神社など)に変わっていきました。
祇園社や天王社は寺院とされていますので、廃仏稀釈で、神社に形態を変えたのです。
この神社にも説明が以下書かれています。
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祇園祭で、荒魂、和魂などと表現されているのも、珍しいですね。
明治初めの廃仏稀釈は結構多くの反対も地方にはあったのでしょうね。
茨城地方などをこうして歩いてみて回っても、江戸時代に各地の天王社があって、そこで村の鎮守様としてまつられ、7月頃に祇園祭が盛大に行われていた痕跡が見て取れます。
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この八坂神社の境内には別に鳥居のある境内社が2つほどありました。
また古びた石碑などもあります。
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通り沿いには「天然記念物 小高のカヤ」なる看板石碑が置かれていました。
このカヤの木は奥に入った場所にあります。
今年になって、常陸国風土記の遺称地などを巡る機会も増え、7月に行方地方も一度訪れましたが、時間の関係で予定の半分くらいしか訪れることが出来ませんでした。
これを、また少し涼しくなってから再訪問したいと考えていますが、気になる場所を少しずつ調べなおしたりしています。
この行方市の「小高地区」はそれほど広いわけでもなく、今は町としては小規模で、あまり注目される場所もありません。
きっと、平安や室町などの頃はもっと何かがあったのではないかと考えています。
1) 常陸国風土記には
「(行方)郡の南七里に男高の里あり。古、佐伯、小高といふももありき。其の居める処為れば、因りて名づく」
とあります。
行方郡の郡家が井上あたりにあったとすれば、南に七里(約3.5km)ですから、今の「小高」とみて間違いないでしょう。
2) 平安時代末期に多気大掾氏から水戸の吉田郷に入った吉田(平)清幹(きよもと)の次男(忠幹)が行方に入り、行方氏を名乗り、行方二郎と言われた。
この行方二郎の子供達4人、この地方に散らばって、行方四頭と称されるようになった。
この四頭は小高(長男)、島崎(二男)、麻生(三男)、玉造(四男)となるので、小高は長男ということは、この小高が行方の初期の中心地と考えてもいいと思う。
3) Wiki.を調べると、「1889年(明治22年)に、橋門村・小高村・井貝村・南村・島並村が合併し行方郡小高村が発足」
とあり、「1955年(昭和30年)にこの小高村は、 麻生町・大和村・太田村・行方村と合併し麻生町が発足した。」とあります。
この麻生町ですが、江戸時代は周り(玉造や潮来など)がほとんど水戸藩でしたが、この麻生町や羽生、沖洲、浜なども麻生藩の飛び地として新庄氏の所領となっていました。
上記のような歴史的背景を踏まえて、この小高地方をまた少し散策してみたくなったのです。
まずは、霞ケ浦沿いを走る国道355号線ぞいにある「橋門の八坂神社」から紹介します。
霞ケ浦沿いの国道355号線は、この辺りはほぼ南北に走っています。
石岡側から行くと玉造、手賀などを過ぎ、於下(おした)をすぐ手すぐに「橋門(はしかど)」という場所に出ます。
ここから左手(東側)に入ったの少し高台に中世の「小高城」がありました。
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橋門の国道沿いに「八坂神社」が置かれています。
ここを曲がって内陸側に入ると「常光院」という佐竹氏の菩提寺がありますが、佐竹氏が支配する前は、ここには皇徳寺という小高氏の菩提寺があった場所で、この寺の裏の台地の上に小高城があったようです。
まあ、八坂神社はこのあたりもたくさんありますが、そのほとんどが江戸時代までは「天王神社」「天王様」などと呼ばれた牛頭天皇を祀る社でした。
インドの祇園精舎の守護神が牛頭天皇ですが、日本では京都の八坂神社と同じく、明治維新後に祇園社、(牛頭)天王社はスサノオを祭神とする「八坂神社」(他に、須賀神社、素鵞神社など)に変わっていきました。
祇園社や天王社は寺院とされていますので、廃仏稀釈で、神社に形態を変えたのです。
この神社にも説明が以下書かれています。
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祇園祭で、荒魂、和魂などと表現されているのも、珍しいですね。
明治初めの廃仏稀釈は結構多くの反対も地方にはあったのでしょうね。
茨城地方などをこうして歩いてみて回っても、江戸時代に各地の天王社があって、そこで村の鎮守様としてまつられ、7月頃に祇園祭が盛大に行われていた痕跡が見て取れます。
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この八坂神社の境内には別に鳥居のある境内社が2つほどありました。
また古びた石碑などもあります。
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通り沿いには「天然記念物 小高のカヤ」なる看板石碑が置かれていました。
このカヤの木は奥に入った場所にあります。
(小高)福岡観音とそのいわれ
国道355号線を、昨日紹介した「橋門の八坂神社」から左に曲がって、常光院の方に少し進んだ左側に小さな社が置かれています。
あまり、ここを通る人は地元の方でないと、気にもせずに前を素通りしていくと思います。
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今から十数年前にこの社を見つけた時はそれほど感じることもなかったと思いますが、その後常陸大掾氏や佐竹氏の南方三十三館仕置き事件をいろいろ知る中で、忘れられない記憶としてこの観音様が残っているのです。
1591年ですから今から400年以上前のこの地方で、いったいどのようなことが起きて、庶民はどんな感情を抱いていたのだろうかを想像する数少ない遺構と言えそうです。
天正19年(1591年)2月、佐竹氏に常陸太田の城へ呼び出された南方三十三館(実際の館数は不明)の中に、行方四頭の長男小高氏親子(小高治部大輔と子)の名前が和光院過去帳に残されています。
実際はどのように殺された(または自害)かはわかっていませんが、その知らせが、小高城に届いたときに、小高城内ではどのようなことが起こっていたのでしょう。
恐らく、太閤秀吉の命であり、すぐに城を明け渡すような指示もされたのだろうと思われます。
命に背けば、佐竹氏の軍勢が襲ってくる・・・ さあどうしよう。
ここに書かれた内容は、素直に城明け渡しの覚悟を決めたか、城にこもって戦いを挑んだのか、わかりませんが、城に残された奥方と腰元6人が、この何もないような城近くの原(昔の古墳などがあったようだ)で自害したという。
なんとも生々しく、400年以上も前の情景が浮かんでくるではありませんか。
そして、(北家)佐竹義憲のところから、大山城の「大山義則」が入って治めたようです。
その後、佐竹氏の秋田転封により、この常光院も佐竹北家の寺として、秋田県角館に移されています。
しかし、この小高の地でも、この常光院の法灯を守るために家臣10数人が残ったといわれています。
当然、これら家臣以外にも、佐竹氏派の遺臣などもたくさん残ったのでしょう。
それが、もともといた小高氏の関係者などとはお互いにあまり良い関係を築けないでいたようですね。
そのわだかまりを払しょくして、お互いに仲良くして暮らそうと、戦国末期からおよそ100年後に建てられた観音堂でしょう。
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ここに立つと、観音様も何かしゃべってくれそうなそんな気がするのです。おかしなものですね。
あまり、ここを通る人は地元の方でないと、気にもせずに前を素通りしていくと思います。
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今から十数年前にこの社を見つけた時はそれほど感じることもなかったと思いますが、その後常陸大掾氏や佐竹氏の南方三十三館仕置き事件をいろいろ知る中で、忘れられない記憶としてこの観音様が残っているのです。
1591年ですから今から400年以上前のこの地方で、いったいどのようなことが起きて、庶民はどんな感情を抱いていたのだろうかを想像する数少ない遺構と言えそうです。
天正19年(1591年)2月、佐竹氏に常陸太田の城へ呼び出された南方三十三館(実際の館数は不明)の中に、行方四頭の長男小高氏親子(小高治部大輔と子)の名前が和光院過去帳に残されています。
実際はどのように殺された(または自害)かはわかっていませんが、その知らせが、小高城に届いたときに、小高城内ではどのようなことが起こっていたのでしょう。
恐らく、太閤秀吉の命であり、すぐに城を明け渡すような指示もされたのだろうと思われます。
命に背けば、佐竹氏の軍勢が襲ってくる・・・ さあどうしよう。
ここに書かれた内容は、素直に城明け渡しの覚悟を決めたか、城にこもって戦いを挑んだのか、わかりませんが、城に残された奥方と腰元6人が、この何もないような城近くの原(昔の古墳などがあったようだ)で自害したという。
なんとも生々しく、400年以上も前の情景が浮かんでくるではありませんか。
そして、(北家)佐竹義憲のところから、大山城の「大山義則」が入って治めたようです。
その後、佐竹氏の秋田転封により、この常光院も佐竹北家の寺として、秋田県角館に移されています。
しかし、この小高の地でも、この常光院の法灯を守るために家臣10数人が残ったといわれています。
当然、これら家臣以外にも、佐竹氏派の遺臣などもたくさん残ったのでしょう。
それが、もともといた小高氏の関係者などとはお互いにあまり良い関係を築けないでいたようですね。
そのわだかまりを払しょくして、お互いに仲良くして暮らそうと、戦国末期からおよそ100年後に建てられた観音堂でしょう。
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ここに立つと、観音様も何かしゃべってくれそうなそんな気がするのです。おかしなものですね。
小高山不動院
もうだいぶ前に小高地方を歩いて記事を書いたが、その時に訪れていなかった(小高山)不動院に行ってみた。
すぐ近くだが少し奥まった感じの通りの曲がり角にこじんまりとあった。
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少し高台に鳥居のある神社と並んで、不動院があり、入り口に説明板が置かれていた。
しかし、字が薄れてしまってあまりよく読むことが出来ないが、ここに安置されている2体の小さな仏像(市指定文化財)の説明であった。
こちらは市のHPより転載させていただこう。
1)小高山不動院 木造不動明王坐像(市指定有形文化財)
指定年月日:平成17年7月21日
所在地:行方市小高1280 小高山不動院
「不動尊縁起」によると、この不動明王像は小高殿の守り本尊。
大永年中(1521~1527)字中城に城を構えた小高繁森殿の実子、小高太郎行方刑部少輔貞久殿の時代に、京都の東本願寺より不動尊の御姿を移し参らせて勧請しました。
いわゆる小高殿42歳の厄払い、守り本尊として城内より東方に位置する鍛城久保(カジヤ久保)というところに荘厳なる御堂を建立して、この不動尊を安置しました。
この不動尊は、親鸞上人自作の尊像と伝えられています。
像高は、41.5センチメートル。寄木造り。玉眼(欠落して破損しており、右眼のみ残っている)。
写真・記事は ⇒ こちら
2)小高山不動院 銅造十一面観音懸仏残欠(市指定有形文化財)
指定年月日:平成17年7月21日
所在地:行方市小高1280 小高山不動院
この「十一面観音」は、畑木氏伝来の家宝です。
畑木氏の先祖は山中三河守といい、小高城の客分でした。
天正年間に小高城落城後、高尾佐仲と改名して土着し、次いで畑木姓を称したと伝えられています。
像高は、9.4センチメートル。
背面に木片がはめ込んであり、「自浄造之」の4字が彫ってあります。
また、坐像底の部に「空海」の2文字が刻まれています。
写真・記事は ⇒ こちら
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この不動院の社の中に安置されているようだが、今まであまり大事にされてこなかったのかもしれない。
鎌倉室町時代の作であり、何処か空調に聞いた保管場所などで保管展示などをすることが出来ないものだろうか。

この不動院の隣には石造りの小さな社だが、色鮮やかな鳥居を有した稲荷神社が建っている。
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小高の地は、江戸時代にはあまり注目されてこなかったのかもしれない。
ここにあった神宮寺などの情報が全く得ることが出来ない。
すぐ近くだが少し奥まった感じの通りの曲がり角にこじんまりとあった。
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少し高台に鳥居のある神社と並んで、不動院があり、入り口に説明板が置かれていた。
しかし、字が薄れてしまってあまりよく読むことが出来ないが、ここに安置されている2体の小さな仏像(市指定文化財)の説明であった。
こちらは市のHPより転載させていただこう。
1)小高山不動院 木造不動明王坐像(市指定有形文化財)
指定年月日:平成17年7月21日
所在地:行方市小高1280 小高山不動院
「不動尊縁起」によると、この不動明王像は小高殿の守り本尊。
大永年中(1521~1527)字中城に城を構えた小高繁森殿の実子、小高太郎行方刑部少輔貞久殿の時代に、京都の東本願寺より不動尊の御姿を移し参らせて勧請しました。
いわゆる小高殿42歳の厄払い、守り本尊として城内より東方に位置する鍛城久保(カジヤ久保)というところに荘厳なる御堂を建立して、この不動尊を安置しました。
この不動尊は、親鸞上人自作の尊像と伝えられています。
像高は、41.5センチメートル。寄木造り。玉眼(欠落して破損しており、右眼のみ残っている)。
写真・記事は ⇒ こちら
2)小高山不動院 銅造十一面観音懸仏残欠(市指定有形文化財)
指定年月日:平成17年7月21日
所在地:行方市小高1280 小高山不動院
この「十一面観音」は、畑木氏伝来の家宝です。
畑木氏の先祖は山中三河守といい、小高城の客分でした。
天正年間に小高城落城後、高尾佐仲と改名して土着し、次いで畑木姓を称したと伝えられています。
像高は、9.4センチメートル。
背面に木片がはめ込んであり、「自浄造之」の4字が彫ってあります。
また、坐像底の部に「空海」の2文字が刻まれています。
写真・記事は ⇒ こちら
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この不動院の社の中に安置されているようだが、今まであまり大事にされてこなかったのかもしれない。
鎌倉室町時代の作であり、何処か空調に聞いた保管場所などで保管展示などをすることが出来ないものだろうか。
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この不動院の隣には石造りの小さな社だが、色鮮やかな鳥居を有した稲荷神社が建っている。
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小高の地は、江戸時代にはあまり注目されてこなかったのかもしれない。
ここにあった神宮寺などの情報が全く得ることが出来ない。
小高のカヤ
行方市旧麻生町)小高に「小高のカヤ」と呼ばれる大きなカヤの木が残されています。
県の天然記念物に指定されており、樹齢は650年ほどだとされています。
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この台地には昔小高小学校があったそうです。
この小高小学校は少し霞ケ浦寄りの側鷹神社に隣接する場所に移転し、2012年に麻生小学校に統合されて今はありません。
調べると、小高小学校の新校舎完成が昭和33年4月となっていましたので、この時にこのカヤの木がある場所から移転したのかもしれません。
ただ学校設立に対する記載が見つかりません。
2012年3月の最後の卒業式が65回目と書かれていましたので、昭和22年春の開校と言っていいのでしょう。
戦後間もない、昭和22年(1947)に急増する団塊世代の子供たちのために、この現在残されているカヤの木の場所に学校が建てられ、人口の増加に伴って、昭和33年に新校舎を建てて移転したのだと思います。
そして思い出のあるカヤの木を移転先の校庭にも新たに植樹して、校庭には芝生を植えたそうです。
今は逆に子供の人口が減り、学校は統廃合が進み、かなり少なくなりました。

さて、問題は下の説明看板にもありますが、この天然記念物のカヤの木があった場所には「天台宗神宮寺」があったと書かれています。
一般に神宮寺は神仏分離などがかなり昔から何度となく行われてきており、神仏習合であった神社などから寺を分離するために、神社境内などに作られた寺(別当寺)に付けられた名前です。
伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮などでも神宮寺(神社別当)が作られました。
でもこれらは明治の廃仏稀釈でほとんど残されているものは少ししかありません。
近くの鹿島神宮でも記録では749年に神宮寺(鹿島神宮寺)が建てられ、神宮境内にありましたが、江戸時代初期の1677年の神仏分離令で、境内から鹿島城跡に移され、明治3年(1870)に廃寺となってしまいました。
香取神宮でも別当として「金剛宝寺」が鹿島神宮寺と同じころに建てられたようですが、これも明治の廃仏稀釈で取り壊され廃寺となったといいます。
以前香取神宮に参拝し、裏手の奥宮近くに「祖霊社」という施設があり、神社に何故? などと思いましたが、この場所に「金剛宝寺があったようです。
この小高地区の神宮寺の記述を探してみましたが、ほとんど見つかりません。
ただ、平凡社の「茨城の地名」の行方郡小高村の記述の中に
享保七年(1722)熊野三社三山勧化御領内百姓並びに寺方よりの差出受数」に、皇徳寺(曹洞宗)100文、神宮寺(天台宗)100文、常光院(曹洞宗)150文とある。と書かれています。
このため、江戸時代中期頃までは少なくても存在していたであろうと考えられます。
恐らく明治初期の神仏分離令(廃仏稀釈)で消滅してしまったものと考えられますが、市の教育委員会などに問い合わせても確かな答えは得られませんでした。
少なくても関心を持っていればそのうちにひょいとしたところから情報が入るかもしれません。
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県の天然記念物に指定されており、樹齢は650年ほどだとされています。
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この台地には昔小高小学校があったそうです。
この小高小学校は少し霞ケ浦寄りの側鷹神社に隣接する場所に移転し、2012年に麻生小学校に統合されて今はありません。
調べると、小高小学校の新校舎完成が昭和33年4月となっていましたので、この時にこのカヤの木がある場所から移転したのかもしれません。
ただ学校設立に対する記載が見つかりません。
2012年3月の最後の卒業式が65回目と書かれていましたので、昭和22年春の開校と言っていいのでしょう。
戦後間もない、昭和22年(1947)に急増する団塊世代の子供たちのために、この現在残されているカヤの木の場所に学校が建てられ、人口の増加に伴って、昭和33年に新校舎を建てて移転したのだと思います。
そして思い出のあるカヤの木を移転先の校庭にも新たに植樹して、校庭には芝生を植えたそうです。
今は逆に子供の人口が減り、学校は統廃合が進み、かなり少なくなりました。
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さて、問題は下の説明看板にもありますが、この天然記念物のカヤの木があった場所には「天台宗神宮寺」があったと書かれています。
一般に神宮寺は神仏分離などがかなり昔から何度となく行われてきており、神仏習合であった神社などから寺を分離するために、神社境内などに作られた寺(別当寺)に付けられた名前です。
伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮などでも神宮寺(神社別当)が作られました。
でもこれらは明治の廃仏稀釈でほとんど残されているものは少ししかありません。
近くの鹿島神宮でも記録では749年に神宮寺(鹿島神宮寺)が建てられ、神宮境内にありましたが、江戸時代初期の1677年の神仏分離令で、境内から鹿島城跡に移され、明治3年(1870)に廃寺となってしまいました。
香取神宮でも別当として「金剛宝寺」が鹿島神宮寺と同じころに建てられたようですが、これも明治の廃仏稀釈で取り壊され廃寺となったといいます。
以前香取神宮に参拝し、裏手の奥宮近くに「祖霊社」という施設があり、神社に何故? などと思いましたが、この場所に「金剛宝寺があったようです。
この小高地区の神宮寺の記述を探してみましたが、ほとんど見つかりません。
ただ、平凡社の「茨城の地名」の行方郡小高村の記述の中に
享保七年(1722)熊野三社三山勧化御領内百姓並びに寺方よりの差出受数」に、皇徳寺(曹洞宗)100文、神宮寺(天台宗)100文、常光院(曹洞宗)150文とある。と書かれています。
このため、江戸時代中期頃までは少なくても存在していたであろうと考えられます。
恐らく明治初期の神仏分離令(廃仏稀釈)で消滅してしまったものと考えられますが、市の教育委員会などに問い合わせても確かな答えは得られませんでした。
少なくても関心を持っていればそのうちにひょいとしたところから情報が入るかもしれません。
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朝焼け・夕焼けもそろそろ終わりか。
今年は暑かったですね。
でもこれもあと1週間くらいの辛抱でしょうか?
夏の暑さに閉口してブログも更新が思うように進みません。
今朝は少し起きるのが遅かったせいかもしれませんが、朝焼けは見られませんでした。
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こちらは9月11日(月)朝5時半頃に、我が家から見た朝焼けです。
また、今年も夕方に空一面が茜色に染まった日が何日かありました。
うまく写真を撮れる場所にいなかったので、今日も茜色に染まったと頭上の空を眺めていました。
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こちらは2年前の8月11日に霞ケ浦側から筑波山方面を取った夕焼けの写真です。
この時は西方浄土を思い出したものです。
夏の暑い日が続くとこのような日が多く見られるようです。
「朝焼け」「夕焼け」ともに俳句では夏の季語だそうです。
でもこれもあと1週間くらいの辛抱でしょうか?
夏の暑さに閉口してブログも更新が思うように進みません。
今朝は少し起きるのが遅かったせいかもしれませんが、朝焼けは見られませんでした。
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こちらは9月11日(月)朝5時半頃に、我が家から見た朝焼けです。
また、今年も夕方に空一面が茜色に染まった日が何日かありました。
うまく写真を撮れる場所にいなかったので、今日も茜色に染まったと頭上の空を眺めていました。
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こちらは2年前の8月11日に霞ケ浦側から筑波山方面を取った夕焼けの写真です。
この時は西方浄土を思い出したものです。
夏の暑い日が続くとこのような日が多く見られるようです。
「朝焼け」「夕焼け」ともに俳句では夏の季語だそうです。
小高観音
行方市の小高地方を少し散策しています。
まあ、今日(午後)から地元石岡ではお祭りが3日間はじまります。
今年は私がいる若松町が年番で、近所は賑わいを見せております。
でも祭りネタは別な方に任せて、私は誰も訪れないようなところをひたすら探しながら記事を書いていきましょう。
小高小学校も2012年に廃校となり、麻生小学校へ吸収合併となりました。
その跡地を昨日眺めてきました。
側鷹神社のすぐ隣にまだ、昔の姿で残っていました。
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廃校から10年たちました。 校舎にさびなども目立ちます。また草も生えています。
何かでももったいないような・・・。
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さて、上の写真は2013年2月に撮影したもの。
廃校から1年たったものです。まあそんなに変わった感じもしませんが・・・・・
さて、この小学校の裏手に曲がる道角に手作りの「小高観音」という矢印案内板が置かれています。
これに従っていくと「かんのんさま→」などと分かれ道などに置かれており、これに従って、少し進んだところで住宅地で行き止まりのような場所に行きます。
さて、観音様はどこにあるのか??
見渡すとその先の木の陰に石造りの観音菩薩像があるのがわかりました。
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説明によるとこの近くには天台宗の「明應寺」という寺があり、いつか無住の寺となっていて、この寺の保存されていた(木造)観音像が朽ちて修理不能と判断されたために、地元民で旅行積立などの費用や寄付などで、20世紀最後の年にこの石造りの観音像を建立したのだそうです。
この明應寺は、天台宗であり、近くの西蓮寺の末寺だったそうです。
でもこの近くには江戸時代の記述では天台宗の「神宮寺」があったとありますので、廃仏稀釈運動などもあり、神宮寺ではなく、名前を「明應寺」と変えたのかもしれません。
明應(めいおう)といえば年号で西暦1500年前後に数年間ありますので、この明應期に建立されたものかもわかりません。
ただ、明応というと1498年(明応7年)の東海大地震がありました。
マグニチュウードが8.2~8.6くらいあったといわれている東南海地震です。
鎌倉の大仏の建屋が流され、大仏も動いたりした地震です。
今から500年以上前の地震ですが、その後の江戸時代にも巨大な南海トラフの地震がありましたが、津波規模などではこちらの方が数倍も大きかったようです。
今後想定されtる南海トラフの地震時の対策として、現在の想定は江戸時代の地震を参考にしており、見直しが必要だともいわれています。西伊豆の戸田(へた)近くで36mくらいの津波があったのではないかと指摘されています。
心配ですね。
この観音様の裏手には子安講などの石像がありました。
江戸から明治時代の物のようです。一つには明治廿三年四月の年月が彫られていました。
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まあ、今日(午後)から地元石岡ではお祭りが3日間はじまります。
今年は私がいる若松町が年番で、近所は賑わいを見せております。
でも祭りネタは別な方に任せて、私は誰も訪れないようなところをひたすら探しながら記事を書いていきましょう。
小高小学校も2012年に廃校となり、麻生小学校へ吸収合併となりました。
その跡地を昨日眺めてきました。
側鷹神社のすぐ隣にまだ、昔の姿で残っていました。
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廃校から10年たちました。 校舎にさびなども目立ちます。また草も生えています。
何かでももったいないような・・・。
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さて、上の写真は2013年2月に撮影したもの。
廃校から1年たったものです。まあそんなに変わった感じもしませんが・・・・・
さて、この小学校の裏手に曲がる道角に手作りの「小高観音」という矢印案内板が置かれています。
これに従っていくと「かんのんさま→」などと分かれ道などに置かれており、これに従って、少し進んだところで住宅地で行き止まりのような場所に行きます。
さて、観音様はどこにあるのか??
見渡すとその先の木の陰に石造りの観音菩薩像があるのがわかりました。
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説明によるとこの近くには天台宗の「明應寺」という寺があり、いつか無住の寺となっていて、この寺の保存されていた(木造)観音像が朽ちて修理不能と判断されたために、地元民で旅行積立などの費用や寄付などで、20世紀最後の年にこの石造りの観音像を建立したのだそうです。
この明應寺は、天台宗であり、近くの西蓮寺の末寺だったそうです。
でもこの近くには江戸時代の記述では天台宗の「神宮寺」があったとありますので、廃仏稀釈運動などもあり、神宮寺ではなく、名前を「明應寺」と変えたのかもしれません。
明應(めいおう)といえば年号で西暦1500年前後に数年間ありますので、この明應期に建立されたものかもわかりません。
ただ、明応というと1498年(明応7年)の東海大地震がありました。
マグニチュウードが8.2~8.6くらいあったといわれている東南海地震です。
鎌倉の大仏の建屋が流され、大仏も動いたりした地震です。
今から500年以上前の地震ですが、その後の江戸時代にも巨大な南海トラフの地震がありましたが、津波規模などではこちらの方が数倍も大きかったようです。
今後想定されtる南海トラフの地震時の対策として、現在の想定は江戸時代の地震を参考にしており、見直しが必要だともいわれています。西伊豆の戸田(へた)近くで36mくらいの津波があったのではないかと指摘されています。
心配ですね。
この観音様の裏手には子安講などの石像がありました。
江戸から明治時代の物のようです。一つには明治廿三年四月の年月が彫られていました。
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棒ささら
今年の「石岡のおまつり」が昨日までの3日間(9/16~9/18)行われた。
ここ数年はコロナにより自粛されたり、雨天に悩まされたりしてきたが、今年は久しぶりに雨も降らず、晴天に恵まれ祭りはにぎわった。
また年番が「若松町」で、私の住む地区であり、連日多くの人出が出ていた。
しかも、町の主な道路は午後1時から夜9時まで交通止めとなり、我が家から出ようにも車だと細い道を迂回しながら回っていくしかない。
まあそれでも盛況に終わったのは喜ばしいことだと思う。
子供の頃からこの地で育てば、この祭りはDNAとしてその体にしみこみ、伝統がどうだこうだなどは嘘も何も関係なくそういうものだと思い込んでしまう。
私は16,7年前にこの地に越してきたので、まあ冷めた目で眺めるだけだが、もう少し伝統行事ならその歴史を理解した方がよいなどとついしゃべってしまうが、まあそんなことはよそ者のたわごとでしかないので、最近はあまり祭りの話題もしないようにしている。
さて、いま仕事場兼風の会の事務所として、国府公民館近くの事務所を借りているが、祭り初日に「富田のささら」が朝方各家を回ってささら舞を奉納して歩いている。
まつりの最初と最後には神社神輿の先頭を急いで車に乗って駆け抜けるために、あまり目にする機会が少ないのだが、町の人でもこのささらと呼ばれる三匹獅子のことを間違って解釈している方が多いのが気になっている。
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祭り初日の午前中に国府町の各御家庭を回ってささら舞を奉納している様子。
このささらは三匹の獅子(獅子人形は胸前に小さな太鼓を持っている)は、中にこの獅子を操るための棒が入っていて、後ろの白装束の人がささら獅子を持ち上げながらこの棒を操り、獅子にいろいろ回転や太鼓たたきなどのしぐさをさせて踊る。
こうして人が見えていればすぐにわかるが、車に乗って踊る場合はこの人の姿が見えず、獅子が踊ているように見える。
これは茨城県南部独特ではないかと思っている。
茨城県北部や東北などでは、この獅子を人が被って人が踊るので、基本的に構造が違う。
秋田のささら獅子舞はこの北部のささらが佐竹氏によって秋田にもたらされたものと言われている。
したがって、江戸時代より前からこのようなささら踊りはされてきたものと考えられている。
それにしても、全国にはいろいろな種類のささら舞があるようだ。
「ささら」とは、基本的には竹を細く裂いてこれを束ねて茶筅のような形状にして食器の洗浄などに使う道具であったようだ。
それが、くぼみをたくさんつけた棒(ささら子)でこの竹の箒のようなものをこすると、ササラササラなどと音がするので楽器となったとか。
また、竹の棒をたくさん縄で一列に結わいて並べてこれをしならせたりこすり合わせたりして音を出す楽器などもできたという。
このため、このような楽器を「ささら」と呼び、これを踊るときに使ったので「ささら」と呼ばれるというと一般には書かれている。
しかし本当にそうなのだろうか?
つい勘ぐってしまう。
もう少しよく全国の「ささら」をいろいろな角度から調べてみたいものだ。
神社などのささら獅子の役割は「先頭を行って、神輿の通る道を掃き清める」という役割があると感じている。
「笹で神社などの道を掃き清める」=「笹まつり」などからいろいろな要素が組み合わさって、五穀豊穣などの考えも組み合わさってこのような三匹獅子の舞が出来てきたのだろうと考えている。
さて、時間が出来たら全国の神事・祭りで行われている「ささら」に似た行事を地域などで分類してみたいものだなどと考えている。
ここ数年はコロナにより自粛されたり、雨天に悩まされたりしてきたが、今年は久しぶりに雨も降らず、晴天に恵まれ祭りはにぎわった。
また年番が「若松町」で、私の住む地区であり、連日多くの人出が出ていた。
しかも、町の主な道路は午後1時から夜9時まで交通止めとなり、我が家から出ようにも車だと細い道を迂回しながら回っていくしかない。
まあそれでも盛況に終わったのは喜ばしいことだと思う。
子供の頃からこの地で育てば、この祭りはDNAとしてその体にしみこみ、伝統がどうだこうだなどは嘘も何も関係なくそういうものだと思い込んでしまう。
私は16,7年前にこの地に越してきたので、まあ冷めた目で眺めるだけだが、もう少し伝統行事ならその歴史を理解した方がよいなどとついしゃべってしまうが、まあそんなことはよそ者のたわごとでしかないので、最近はあまり祭りの話題もしないようにしている。
さて、いま仕事場兼風の会の事務所として、国府公民館近くの事務所を借りているが、祭り初日に「富田のささら」が朝方各家を回ってささら舞を奉納して歩いている。
まつりの最初と最後には神社神輿の先頭を急いで車に乗って駆け抜けるために、あまり目にする機会が少ないのだが、町の人でもこのささらと呼ばれる三匹獅子のことを間違って解釈している方が多いのが気になっている。
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祭り初日の午前中に国府町の各御家庭を回ってささら舞を奉納している様子。
このささらは三匹の獅子(獅子人形は胸前に小さな太鼓を持っている)は、中にこの獅子を操るための棒が入っていて、後ろの白装束の人がささら獅子を持ち上げながらこの棒を操り、獅子にいろいろ回転や太鼓たたきなどのしぐさをさせて踊る。
こうして人が見えていればすぐにわかるが、車に乗って踊る場合はこの人の姿が見えず、獅子が踊ているように見える。
これは茨城県南部独特ではないかと思っている。
茨城県北部や東北などでは、この獅子を人が被って人が踊るので、基本的に構造が違う。
秋田のささら獅子舞はこの北部のささらが佐竹氏によって秋田にもたらされたものと言われている。
したがって、江戸時代より前からこのようなささら踊りはされてきたものと考えられている。
それにしても、全国にはいろいろな種類のささら舞があるようだ。
「ささら」とは、基本的には竹を細く裂いてこれを束ねて茶筅のような形状にして食器の洗浄などに使う道具であったようだ。
それが、くぼみをたくさんつけた棒(ささら子)でこの竹の箒のようなものをこすると、ササラササラなどと音がするので楽器となったとか。
また、竹の棒をたくさん縄で一列に結わいて並べてこれをしならせたりこすり合わせたりして音を出す楽器などもできたという。
このため、このような楽器を「ささら」と呼び、これを踊るときに使ったので「ささら」と呼ばれるというと一般には書かれている。
しかし本当にそうなのだろうか?
つい勘ぐってしまう。
もう少しよく全国の「ささら」をいろいろな角度から調べてみたいものだ。
神社などのささら獅子の役割は「先頭を行って、神輿の通る道を掃き清める」という役割があると感じている。
「笹で神社などの道を掃き清める」=「笹まつり」などからいろいろな要素が組み合わさって、五穀豊穣などの考えも組み合わさってこのような三匹獅子の舞が出来てきたのだろうと考えている。
さて、時間が出来たら全国の神事・祭りで行われている「ささら」に似た行事を地域などで分類してみたいものだなどと考えている。
獅子頭・・・大きいものはいいことだ・・・・?
「石岡のおまつり」が無事終了し、やっと静かになった。
今年は年番町になり、動くに動けず、千葉にいる息子夫婦と孫娘が中日にやってきたが、車で家にたどり着くのに狭い道に苦労したようだ。
祭りは3日間とも正式には午後からなので、着いた日(2日目)は町中の祭りを見学して、夜に八郷温泉「ゆりの郷」へ行った。
祭り見物も時間が遅くなり、ゆりの郷に着いたのは夜の7時20分頃。
7時から少し料金が安くなるが、この日はたくさんのお客で混雑。
食事処「紫峰」も名前を書いて1時間ほど待たないと入れないとか・・・
待つ人が増えて、この受付も午後7時半で閉めるとかで、どうにかセーフ。
それならば名前を書いて、先に温泉に入ることにして、40~50分ほどのんびり湯につかって・・・・・
なんだか久しぶりに湯船にのんびり浸かった気分。
家だとこの暑さでほとんどシャワーで済ませていたから。
食事処ではどうにか8時半頃にやっと席に案内された。
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チキンカツ定食。カツが2枚入っている。新米でご飯も進む。それにしてもおなかがいっぱいになった。
結構ボリュームがあるね。
翌日は祭りの最終日。
祭りで混雑する前に孫を連れて風土記の丘の奥にある獅子頭の公園へ。
ここには比較的小さな子供用のアスレチック器具が置いてある。
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朝の9時前はまだ暑さもそれほどではなく、遊びに来ている子供らもほとんどまだいない。
この獅子頭も日本一の大きさだとか・・・・
どうも大きいことはいいことだと思い込んでいるのかもしれない。
最近の祭りにでる獅子頭も昔のような獅子舞をするには大きくて重すぎて全く踊りなどできない。
確かに重い物を若者が交代で担げば思い出や連帯は広まるのかもしれないが、祭りに獅子頭を出すなら少し芸術性を追求してほしいものだ。

この獅子頭(展望台)も扉が閉まっていて入れないかと思ったが、開いていて上ることが出来た。
孫も獅子に食べられたかな?
元気に育ってほしいものです。
今年は年番町になり、動くに動けず、千葉にいる息子夫婦と孫娘が中日にやってきたが、車で家にたどり着くのに狭い道に苦労したようだ。
祭りは3日間とも正式には午後からなので、着いた日(2日目)は町中の祭りを見学して、夜に八郷温泉「ゆりの郷」へ行った。
祭り見物も時間が遅くなり、ゆりの郷に着いたのは夜の7時20分頃。
7時から少し料金が安くなるが、この日はたくさんのお客で混雑。
食事処「紫峰」も名前を書いて1時間ほど待たないと入れないとか・・・
待つ人が増えて、この受付も午後7時半で閉めるとかで、どうにかセーフ。
それならば名前を書いて、先に温泉に入ることにして、40~50分ほどのんびり湯につかって・・・・・
なんだか久しぶりに湯船にのんびり浸かった気分。
家だとこの暑さでほとんどシャワーで済ませていたから。
食事処ではどうにか8時半頃にやっと席に案内された。
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チキンカツ定食。カツが2枚入っている。新米でご飯も進む。それにしてもおなかがいっぱいになった。
結構ボリュームがあるね。
翌日は祭りの最終日。
祭りで混雑する前に孫を連れて風土記の丘の奥にある獅子頭の公園へ。
ここには比較的小さな子供用のアスレチック器具が置いてある。
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朝の9時前はまだ暑さもそれほどではなく、遊びに来ている子供らもほとんどまだいない。
この獅子頭も日本一の大きさだとか・・・・
どうも大きいことはいいことだと思い込んでいるのかもしれない。
最近の祭りにでる獅子頭も昔のような獅子舞をするには大きくて重すぎて全く踊りなどできない。
確かに重い物を若者が交代で担げば思い出や連帯は広まるのかもしれないが、祭りに獅子頭を出すなら少し芸術性を追求してほしいものだ。
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この獅子頭(展望台)も扉が閉まっていて入れないかと思ったが、開いていて上ることが出来た。
孫も獅子に食べられたかな?
元気に育ってほしいものです。
小高城跡(行方市)
常陸国風土記を読んでいると、この行方(なめかた)地方に興味が行く。
何故ならこの昔には茨城の中心はこの行方あたりにあったのではないかとさえ思えるからだ。
現在残されている常陸国風土記はすべて写本であり、記述も「総記」部分以外は「行方郡」だけが省略なしで、他の郡はすべてが残されていない。また一切記述が残されていない郡もある。
また、この行方郡という郡名「なめかた」は、読み方についても変わっていて、意味合いのカイシャクモマチマチだ。
さらに、当時の陸奥国であった現在の福島県にも「行方郡」があり、そこに「小高郷」が存在した。
これは偶然の一致ではなく、まだ、常陸国と陸奥国の境界がはっきりしておらず、北部の蝦夷征伐における前線基地が、常陸国からこの陸奥国の南側の福島県相馬市あたりに前線基地ができて、この常陸国の行方地方から人が移り住んだものではないかともいわれる。
相馬氏が千葉、茨城からこの地方に移り住んだのも、ここに仲間がいたからであろう。
もう少し詳しく機会があれば調べてみよう。
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現在の行方市行方や小高地方は江戸時代は町としての繁栄はあまりなく、玉造、麻生に挟まれて今は見るべきものが少なくなってしまったのだろう。
この地に平安時代末期に水戸の吉田氏一族の吉田(平)忠幹(ただもと)(吉田清幹の次男)=行方二郎が、この行方郷に入り、城を築いたのが最初だという。
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そして、その子吉田景幹(行方郡地頭)は、源平合戦で源義経軍に加わり、屋島で戦死。
そのため、この景幹の4人の息子が領地を分割して小高(行方地方)、島崎(潮来地方)、麻生、玉造の各地を治めることになった。
鹿島神宮の行事などの取りまとめもこの4人が交代して行う仲の良さ。
でも時代が経つにつて、お互いに戦をするようになり、麻生氏は島崎氏により滅亡。
残された3氏も1591年に佐竹氏により滅ぼされてしまった。
この行方の地には、佐竹氏一族の大山氏が入り、佐竹氏の秋田転封により、この城も廃城となってしまった。
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現在城跡は畑や雑草などでおおわれて、遺構もよくわからないが、脇道から中に車も入れる。
良く調べれば中世の城の遺構がかなり残されているように思い。
まあ、中世の城マニュアではないので、詳しくはわからない。
この看板の場所は、現在の「常光院」の裏山の反対側にある。この場所と、常光院に挟まれた地域がこの城跡である。
何故ならこの昔には茨城の中心はこの行方あたりにあったのではないかとさえ思えるからだ。
現在残されている常陸国風土記はすべて写本であり、記述も「総記」部分以外は「行方郡」だけが省略なしで、他の郡はすべてが残されていない。また一切記述が残されていない郡もある。
また、この行方郡という郡名「なめかた」は、読み方についても変わっていて、意味合いのカイシャクモマチマチだ。
さらに、当時の陸奥国であった現在の福島県にも「行方郡」があり、そこに「小高郷」が存在した。
これは偶然の一致ではなく、まだ、常陸国と陸奥国の境界がはっきりしておらず、北部の蝦夷征伐における前線基地が、常陸国からこの陸奥国の南側の福島県相馬市あたりに前線基地ができて、この常陸国の行方地方から人が移り住んだものではないかともいわれる。
相馬氏が千葉、茨城からこの地方に移り住んだのも、ここに仲間がいたからであろう。
もう少し詳しく機会があれば調べてみよう。
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現在の行方市行方や小高地方は江戸時代は町としての繁栄はあまりなく、玉造、麻生に挟まれて今は見るべきものが少なくなってしまったのだろう。
この地に平安時代末期に水戸の吉田氏一族の吉田(平)忠幹(ただもと)(吉田清幹の次男)=行方二郎が、この行方郷に入り、城を築いたのが最初だという。
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そして、その子吉田景幹(行方郡地頭)は、源平合戦で源義経軍に加わり、屋島で戦死。
そのため、この景幹の4人の息子が領地を分割して小高(行方地方)、島崎(潮来地方)、麻生、玉造の各地を治めることになった。
鹿島神宮の行事などの取りまとめもこの4人が交代して行う仲の良さ。
でも時代が経つにつて、お互いに戦をするようになり、麻生氏は島崎氏により滅亡。
残された3氏も1591年に佐竹氏により滅ぼされてしまった。
この行方の地には、佐竹氏一族の大山氏が入り、佐竹氏の秋田転封により、この城も廃城となってしまった。
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現在城跡は畑や雑草などでおおわれて、遺構もよくわからないが、脇道から中に車も入れる。
良く調べれば中世の城の遺構がかなり残されているように思い。
まあ、中世の城マニュアではないので、詳しくはわからない。
この看板の場所は、現在の「常光院」の裏山の反対側にある。この場所と、常光院に挟まれた地域がこの城跡である。
側鷹神社(行方市)
7月初旬に「ふるさと風の会」で、勉強中の「常陸国風土記」の現地見学の第1回目を実施した。
風土記に書かれた内容が最も多く残されている「行方郡」の遺称地を全部回ろうと考えたが、朝9時から夕方の5時頃までにまわれた範囲は予定の半分くらいしか回れなかった。
そこで、回ることが出来なかった小高、麻生、大生、相賀、古高、藝都の里などを来月にまた回ろうと考えています。
実際に食事の時間や、往復の移動時間を考えると、あまり欲張ってもしょうがないですね。
私は何度か訪れている場所が多いので、理解もできますが、初めての方にそれなりに知ってほしい点などをまとめて資料旁などもしています。
なんだかんだと時間を取られます。また風の会の会報(秋号)もその前に原稿をまとめて印刷もしてしまわないとなりません。
さて、8月に訪れた小高地方散策で、今回は「側鷹神社」を紹介します。
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この「そばたか(側高、側鷹、・・・・」と名の付く神社は千葉県にはかなりあり、千葉氏関連の城では昔からかなりあったようです。
総本山として考えられるのは、香取市大倉にある「側高神社」です。(昔書いた記事⇒こちら1、こちら2)
丁度香取神宮の東北(鬼門)に位置する場所にあります。
常陸国風土記には「・・・・池の北には、香取の神を分祀した社がある。・・・・」とかかれた社がこの側鷹神社だといわれているのです。
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すぐ隣を通る道路も以前に来た時より広く拡張されて、神社も明るくなりました。
そのせいかもしれませんが、昔からの「古社」のイメージは薄らいでしまったようです。
上の写真の右側に道路があり、その先の方に建物が見えますが、これが先日紹介した「小高小学校(廃校)」です。
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以前そばたか神社を調べて、茨城県にもこの側鷹神社と、浮島の広畑貝塚のすぐ上の「脇鷹神社」、河内町金江津の利根川の茨城県側の岸に「側高神社」の3つを載せていたのですが、その後旧小川町立延地区(小美玉市)にもあることが後から判明しました。
それにしてもよくわからない神社です。
風土記に書かれた内容が最も多く残されている「行方郡」の遺称地を全部回ろうと考えたが、朝9時から夕方の5時頃までにまわれた範囲は予定の半分くらいしか回れなかった。
そこで、回ることが出来なかった小高、麻生、大生、相賀、古高、藝都の里などを来月にまた回ろうと考えています。
実際に食事の時間や、往復の移動時間を考えると、あまり欲張ってもしょうがないですね。
私は何度か訪れている場所が多いので、理解もできますが、初めての方にそれなりに知ってほしい点などをまとめて資料旁などもしています。
なんだかんだと時間を取られます。また風の会の会報(秋号)もその前に原稿をまとめて印刷もしてしまわないとなりません。
さて、8月に訪れた小高地方散策で、今回は「側鷹神社」を紹介します。
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この「そばたか(側高、側鷹、・・・・」と名の付く神社は千葉県にはかなりあり、千葉氏関連の城では昔からかなりあったようです。
総本山として考えられるのは、香取市大倉にある「側高神社」です。(昔書いた記事⇒こちら1、こちら2)
丁度香取神宮の東北(鬼門)に位置する場所にあります。
常陸国風土記には「・・・・池の北には、香取の神を分祀した社がある。・・・・」とかかれた社がこの側鷹神社だといわれているのです。
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すぐ隣を通る道路も以前に来た時より広く拡張されて、神社も明るくなりました。
そのせいかもしれませんが、昔からの「古社」のイメージは薄らいでしまったようです。
上の写真の右側に道路があり、その先の方に建物が見えますが、これが先日紹介した「小高小学校(廃校)」です。
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以前そばたか神社を調べて、茨城県にもこの側鷹神社と、浮島の広畑貝塚のすぐ上の「脇鷹神社」、河内町金江津の利根川の茨城県側の岸に「側高神社」の3つを載せていたのですが、その後旧小川町立延地区(小美玉市)にもあることが後から判明しました。
それにしてもよくわからない神社です。