常陸国における源平合戦(19) 島崎氏終焉の地
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ここからは常陸北部に残されている「南方三十三館仕置」の実体を見るために、残されている史跡を訪ねてみる事にします。
先ずは常陸太田の佐竹氏の本城から最も遠いところにある「島崎殿父子」の終焉の地です。
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場所は水郡線の「上小川駅」の少し南の高台です。
袋田の滝のある常陸大子、袋田駅のすぐ手前です。
久慈川がこの上小川駅の手前で大きく蛇行してこぶのようになっている場所があります。
国道を走っていると、久慈川に架かる橋があり、水郡線も川を渡る橋を通っているので、川の上の橋を渡る鉄道と、その周りの景色が絶景スポットにもなっている場所です。
国道もこの久慈川を2度わたりますが、その間のわずかな距離の中間に西のほうに入っていく道があります。
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この道を上っていくと、水郡線の線路の上を通ります。
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上にのぼると少し開けた場所に出ますが、上りきった辺りの右手にこんもりと少し高くなった広場があります。
この当りに昔城があったようです。
広場の奥から大子方面を眺めると、下の線路などがよく見えます。
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そして、その広場の片隅に「小川城主・館城主 山田左近太夫通定居城跡」という石碑が置かれています。
この場所は現在の地名では大子町頃藤(ころふじ)」といいます。戦国時代末期にはこの辺りには地元の人が「頃藤城」と呼ぶ館があったといいます。
潮来の島崎城の城主「島崎安定(やすさだ)」とその息子の「徳一丸」(六地蔵寺の過去帳では一徳丸)の二人がこの地で最後を迎えたという。
六地蔵寺の過去帳の記載では安定は「横死」、一徳丸は「生害」となっています。
二人の死をいたんで祀られたという石祠がこの城跡の西側の民家の畑先の竹薮の一角に残されているという。
今回少し捜したが、すぐにはわからなかったので諦めてしまった。
ただし常陽藝文(2017年6月号)には写真が掲載されている。
この冊子によると、この頃藤城主である小川氏は島崎安定の岳父(妻の父)であり、この地に逃げ込んで匿われたのではないかという。しかし小川氏は佐竹氏の部下であり、佐竹氏の圧力に屈し、家臣に命じて島崎氏父子を殺害せざるを得なかった。
ただ、この父子を弔って石祠を設けたのだろう。
地元の城跡の石碑に「山田左近太夫通定」とあるので調べると、この城が築かれたのは11世紀末から12世紀始めの頃で、芦野氏三代目の弟である芦野通定が陸奥国南端部(現在地?)に築き、そして、苗字を芦野から山田に改めたのだという。
ただこれも時代的には古くよくわからない。
その後、佐竹義胤第四男小川宗義が、建治年間(1275~78年)に再築城して小川氏を名乗り、小川城と呼ばれたという。また、一時山入の乱の混乱で白河結城氏に奪われたが、佐竹氏がこれを奪回し、小川氏(佐竹氏派)が再び城主となりこの支配が続いていたという。
佐竹氏の秋田移封で、この城も廃城となったという。
この頃藤地区もそれ程人家が多いわけではないが、少し西側に比較的大きな神社があったので紹介しておきます。
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<関戸神社>
社伝によると大同元年(806)の創建で、源義家(八幡太郎)北征に当たり、この地を白川郡と久慈郡の国境と定め、ここに「関戸米神社」を祀り戦勝を祈願したといわれています。(Wiki)
『今昔物語集』:陸奥国ヨリ常陸ノ国へ超ル山ヲバ、焼山ノ関トテ極ジク深キ山ヲ通ル也
『新編常陸国誌』:「焼山関」を「多岐也麻乃世幾」とよみ、「凡本国久慈郡ヨリ陸奥ノ白河郡ニ入ルベキ道ニアリ。今ノ久慈郡比藤村(古奥州白川郡)ニ関戸明神アリ、コレ其地ナリ」
と記されている(Wiki)
したがって、昔はこの地が陸奥・常陸両国の国境であったというようです。
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島崎氏は水戸の吉田氏(平氏)から別れた行方二郎の一族で、現在の行方から潮来あたりをその息子たち一族(行方四頭)で領して来ました。
行方四頭は小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏です。
最初はそれぞれが役職などを持ち回りで交代しながらやってきたようですが、次第に争うようにもなりました。
この島崎氏(本拠地は潮来地区・牛堀地区)は、その西側へ進出し、永山氏(行方一族の小高幹平の子知幹が築城)、麻生氏を滅ぼしてしまいました。
この永山氏を滅ぼした時が夜だったので、牛堀を流れる川の名前が「夜越川(よろこしがわ)」となったという説があります。
(参考記事 ⇒ こちら)
現在潮来の郊外に地元の方達がきれいに整備し、「島崎城跡」の見学ができるようになっています。
これによるとかなり大きな城であったと思われます。
前に私が訪れた時の記事 ⇒ こちら
(参考まで)
ただ、この主君父子が殺された後に、城に残された人々がどのような動きをしたのかはよくわかっていません。
もう少し知れべて見ないといけないのかもしれません。
この島崎氏の菩提寺は牛堀に長国寺(ちょうこくじ:島崎長国(ながくに)が建てた)と現在「あじさい寺」として有名になってきた潮来の二本松寺が残されています。
こちらも以前に訪れた記事を下記が下記にあります。
長国寺(潮来) ⇒ こちら
あじさいの杜(潮来) ⇒ こちら
常陸国における源平合戦(20) 鹿島氏終焉の地
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鹿島氏は水戸の吉田氏(平氏)から常陸南部に領土を拡大した常陸平氏の三男の位置づけです。
長男は府中(石岡)の常陸大掾(だいじょう)氏、二男は行方地方の行方氏(小高・島崎・麻生・玉造氏)、三男が鹿島氏です。
しかし、源氏の佐竹氏は新羅三郎こと源義光から始まっており、この常陸平氏の兄弟とおなじ姉妹をこの息子は妻に迎えて佐竹氏が始まりました。
当時は都で義光も暮らし、役職もあり、この初代鹿島三郎(平成幹)は京都で義光の家来として仕えていました。
しかし源氏の跡目をねらっていた義光の陰謀で、鹿島三郎は源氏の跡目を継いだ源義忠を暗殺してしまい、三井寺に逃亡したが、義光からの密書により三井寺の弟・快誉らの手によって生き埋めにされ殺害されたもいわれています。
当時はこれは表に出てきていなかったようで、鹿島氏はその後、跡目を継承し、鎌倉時代からは鹿島神宮の惣大行事職を世襲して、この地の名門として大きな力を持っていました。
天正19年2月9日に「南方三十三館仕置」とよばれる佐竹氏の一斉殺害事件の時には、恐らく佐竹氏にとって鹿島氏が一番の強敵だったと思われます。
これが行われたのが旧暦の2月9日ですから、大坂から戻った佐竹義宣により常陸太田の城に招かれた理由が、「梅見を口実に、秀吉からの通達があるから挨拶に来るように・・・」などと行ったものだったのかもしれません。
当然前年末に仲間の大掾氏が攻められて滅亡してしまったことがありますから、その誘いに乗れば何が起こるかわからないといった気持を持っていたことは確かだと思います。
誘いを断れば逆に攻めてくる。いけばもしかしたら領土を安堵される。・・・との思いもあったと思います。
嘘の情報を与えたとも考えられますが、残された資料がなくどうもこれは推察するのみのようです。
さて、この鹿島氏の最後の地というのが、水郡線の山方宿近くに2箇所残されていました。
一つは、山方宿駅からも比較的近い「常安寺」に残された大きな五輪塔です。これは常陸大宮市の文化財に指定されています。
この山方宿は現在は日本一大きな釜を使った芋煮イベントが行われるので、多少名前が知られるようになったのですが、このコロナでイベントも中止を余儀なくされています。
ただ、近くに日帰りの温泉健康センターとして「三太の湯」と「金砂の湯」の2箇所があり、共に泉質もよく地元以外からの観光客などからも人気の施設となっています。
そして、終焉の跡地としてもう一箇所がこの日帰り温泉施設「三太の湯」のすぐ近くの川近くの壁面に残されている仏堂です。
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三十三館仕置事件(天正19年2月9日)のときは、この山方(やまがた)に城を構えていたのは、佐竹派の重鎮・山方能登守である。
伝承によれば、鹿島氏親子はこの山方氏に預けられ、城(御城:みじょう)に通じる嘆願橋(領民が城主に嘆願をすることが許された橋)のところで鹿島氏は処刑され、近くの寺に供養の五輪塔が建てられたとされている。
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現在「常安寺」という町から少し上った高台の寺の入口階段脇にこの五輪塔が置かれ、この塔は常陸大宮市の文化財に指定されている。
この五輪塔は以前は「嘆願橋」の近くにあったものを道路拡張工事の為にこの寺の入口に移されたものだという。
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かなり大きな五輪塔で、少し変った形をしていて六輪にも見える。
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塔の後ろ側に置かれた盆供養の卒塔婆には「鹿島清房公」と書かれている。
ここで殺されたとする鹿島家当主は「鹿島清秀」であり、子供の名前はわかっていない。
この五輪塔がかなり立派であり、多くの文献ではこの「清房」は「清秀」の間違いだとされている。
しかし、常陽藝文の記載は、この清房はこの地に連れてこられた清秀の子供の名前ではないかという。
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この五輪塔から階段を上って上に常安寺という寺があるが、上った先に橋があり、下を水郡線が通っていた。
寺の説明によれば、
この寺は1470年に常陸大守佐竹義昭公が開基とされ、山方氏の菩提寺として創建された。1519年に東政義公がここに「白馬寺」を建立したが、1592年に東家の所領替えのため、白馬寺は城里町石塚に移された。
その後、佐竹義重公が、父義昭公の菩提を弔うために今の常安寺を建立したという。
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藝文の記事に寄れば、父の清秀はこの城を家臣とともに逃れ、久慈川を渡って諸沢川に沿って山へ逃げ、上流の山あいで追っ手につかまり殺されたのではないかという。
そしてその川に面した壁面に仏堂が建てられたという。これも言い伝えのようだが、現在温泉施設の「三太の湯」の少し手前の橋の横の壁面に2体の仏像が祀られている。
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2体の仏像の下には4個の湯のみが置かれていた。
また、藝文の写真には仏像の上には板で組んだ屋根がつけられていたが、今年私が訪れた時にはなかった。
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私もこの三太の湯は好きな場所で、もう5回以上訪れた事があったが、車で横を走っていたのだが、いままでこの仏像には気がつかなかった。
また以前近くの鏡泉院という寺があって、一度訪れた事がある。
そのときの記事を参考までにリンクしておこう。(写真が縦横表示がおかしくなっているが、直すのも面倒なのでそのままです)
十二所渕 ⇒ こちら
鹿島氏の城では、城主父子を殺されたことが伝わると、清秀の妻が中心となって篭城して佐竹氏に徹底抗戦となったという。
しかし、鹿島城は佐竹氏家臣の町田備前守が中心となり、大砲によって城壁を破壊して攻め込まれて妻は自刃下と伝わっている。
当時の鹿島城は現在の国道50号線脇の高台にあり、城山公園となって市民のいこいの場となっている。
敷地もかなり広く見晴らしもよい。
以前の記事
・鹿島城山公園(1) ⇒ こちら
・鹿島城山公園(2) ⇒ こちら
・鹿島城山公園(3) ⇒ こちら
今回鹿島氏の菩提寺が芭蕉の禅の師匠であった仏頂禅師のいた根本寺であると知って、前に行った事があるがまた訪ねてみた。この寺はかなり古い寺で、この城山公園の南麓にある。
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やはり鹿島紀行に芭蕉が記事や俳句を残しているので、この寺も芭蕉の月見の寺として知られている。
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境内には芭蕉の句碑「寺に寝てまこと顔なる月見かな」がある。
ただし、芭蕉が月見に訪れた時、仏頂禅師はすでにこの寺を弟子に譲って、北浦近くの草庵(現在の大儀寺?)にいたようだ。
芭蕉を慕う歌人たちがこちらの大儀寺へも沢山訪れている。
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鹿島家の墓所は、寺の山門から入って左側の一角にあった。
真ん中に「鹿島家之墓」とあり、周りに古い五輪塔のような塔がたくさん置かれていた。
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そして、そこに「鹿島前惣大行事」と刻まれた石板が置かれていました。
この鹿島氏は鎌倉時代初め頃から鹿島神宮の神領の検断を行い、神宮の振興を行う役職を代々担って来ました。
これは殆んど世襲で行われており、戦国時代も家督争いなどで揉め事はありましたが、この役職は守られてきたようです。
佐竹氏により鹿島氏は滅ぼされましたが、遺族の一部が下総の親類を頼って逃げており、江戸時代にお家再興を家康に願い出て、この鹿島神宮の守りを行う事として再興が許されています。
常陸国の源平合戦(21) 南方三十三館仕置(5)玉造氏終焉の地
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水戸の吉田氏から行方(なめがた)郡に入った行方二郎の4人の子供(兄弟)が小高、島崎、麻生、玉造氏に分かれたが、その玉造氏が一番西側の府中(石岡)に近い場所を領していた。
戦国末期は4人の中では、麻生氏は島崎氏に滅ぼされてしまったので、玉造氏が、島崎氏につぐ大きな勢力を有していたのではないかと思う。
佐竹氏に天正十八年2月9日に常陸太田城に呼び出された玉造重幹は和光院過去帳では父子で出かけたとなっているが、玉造町誌では、重幹は二人の家臣を(中田蔵之助と須賀隼人正常則)伴って出かけたそうだ。
そして、常陸太田についてすぐに軍勢に囲まれたが、日立市の大久保まで落ちのびたという。
そこで、寺の楼門に上り、
「かくとだに兼て覚悟の身なりしと泪はそれと知らぬものかは」
という辞世の句を残して自害し、家臣も続いてそれに殉じたという。(常陽藝文より)
日立市の手前(南側)、常陸多賀駅の西側に大久保という地区があり、その山側の麓に正伝寺がある。
現在、この寺の山側の墓地に玉造氏の供養塔といわれる比較的小さな石の塔が4基残されています。
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常陸太田からは山越えで逃げたのか?
ただ、この一帯は中世から大窪氏が領しており、大窪氏は佐竹氏の忠実な武将であったといわれているので、山方へ移送された鹿島氏と同様、玉造氏はこの大窪氏に預けられたと考えた方がよいかもしれない。
このお寺や周囲の状況は少し地形が分りにくいので、下記にもう少し細かな地図を載せておきます。

国道6号線の常陸多賀駅近くに「大久保二丁目」信号があり、この信号を西の山側に入って行きます。
正伝寺は大久保幼稚園を目指し、その横をさらに奥に回りこむように細い道を入っていくとほぼ突き当たり右上にあります。
車の場合はそのまま奥から急な坂を登って寺の境内に入れます。
ここの寺の西側の斜面に古くからある墓地が山の斜面に所狭しと並んでいます。
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玉造氏の供養塔はこの山側の墓地の真ん中附近に石組みで囲われた一角にあります。
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この場所は大窪氏の一族の墓所のようです。
この4基の供養塔(五輪塔)が真ん中で、両脇は大窪家の墓標です。
4基ありますので、玉造氏父子と家臣2人の4名でしょうか。
常陽藝文によれば、この地の城主で佐竹氏家臣でもある大窪久光が、大窪家の菩提寺である正伝寺に自害した玉造氏のために四基の供養塔を建て、当初は大窪家の墓所がもう少し高い所にあったという。
それを大窪家の子孫が平成2年(1990)に少し下の現在地に大窪久光の鎮魂碑を建て、この供養塔も今の場所に纏めて移動・整備したのだそうです。
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この寺は街からはかなり高台にあり、常陸多賀、日立の街並みが大変よく見渡せます。
ここの地名は大久保ですが、ここに戦国時代までは大窪氏がいて、城を築いていたといわれていますので、この大窪氏について少し調べてみましょう。
歴史を調べてみると、「常陸大掾忠幹の子宗幹が平安時代末期に現在地の少し南西側の山に「愛宕山城」を築き、応永年間(1394年〜1428年)に、陸奥の石川詮光の子茂光を養子に迎え大窪氏を称した。」という。
まてよ、この常陸大掾忠幹とは常陸平氏で行方郡に入った行方二郎のことだ。
ということはこの玉造氏とは同じ先祖に成る。親戚筋に当たる。
玉造氏と大窪氏は親しい交流があったのかもしれない。
さて、愛宕山城を築いた後、何時の時代かははっきりしていないが、この正伝寺の裏山(天神山)に山城を築き、さらに少し下がったところに大窪城を築いたという。 ただその頃には佐竹氏の重鎮として活躍しているようだ。
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(正伝寺境内に建てられていた天神山城の説明板)
天神山城はこの正伝寺の墓所に続く上側の山一帯が城域となっていて、愛宕山城、天神山城、大窪城の3つあわせて全体を大窪氏が納めていたといえそうだ。
では、近くで一番低い所にある大窪城跡を探して見ました。
この城跡には江戸時代に「暇修館(かしゅうかん)」という水戸藩の郷校が建てられていました。
日立市の説明では、「当初は「興芸館(こうげいかん)」といい、村医者の研修施設でした。その後、弘化元年(1844年)に暇修館と改め、学びたい者に広く門戸を開きました。「暇修」の名のとおり、庶民が余暇を利用して研修することができました。幕末、慶応年間に廃校となり、さまざまな変遷を経て、昭和48年に復元されました。」
とあり、見学ができるようになっていましたが、コロナの蔓延防止で閉鎖されており、見学は出来ませんでした。
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(暇修館)
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暇修館の入口附近に建てられていた大窪城跡の石柱と説明板
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大窪城の説明が書かれています。
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暇修館もこの周りの地域では少し高台にあり、庭から奥も木々が生い茂りこんもりとした森となっています。
このあたりに大窪城のやしきなどもあったのでしょう。
この大窪氏、先祖は常陸平氏一族であったが、佐竹氏の有力な家来でもあったようだ。
佐竹氏が「関が原の戦い」の後に家康より出羽国(秋田)へ移封(1602年)されると、この大窪家は2つに分かれてしまった。
大窪城の当主であった大窪種光は次男光遠を伴って秋田に移ったが、長男久光は大窪村に残り、7月10日車城の車丹波(車斯忠:くるま つなただ)とともに、佐竹氏の居城だった水戸城奪還を図った。
しかしこれは失敗して、車丹波と大窪久光は処刑されたという。
さて、では地元の(行方市)玉造ではどうだったのでしょうか。
玉造氏は行方四頭の4男ですが、最も府中(石岡)よりの領地を有していました。
佐竹氏のこの南方33館の仕置で玉造城の城内や領民たちはどうしたのでしょうか?
少し調べてみたいのですがあまり残された物は少ないようです。
玉造城は現在市内に県有形文化財として残されている「大塲(おおば)家」の屋敷の裏山にありました。
この大塲家は玉造家の家老のような地位の方だったようで、佐竹氏の支配になって、この地も佐竹氏が領しましたが、1602年に出羽(秋田)に佐竹氏が移されたのちに、水戸藩の領地となり、水戸藩からこの大塲家が周辺の領地の管理をする「大山守」に選ばれ、大塲家は地元で継続、発展したようです。
玉造城跡については前に書いた記事を参照ください ⇒ こちら
さて、では玉造氏の子孫はどうなったのでしょうか?
この玉造氏の菩提寺が玉造の町中の「一閑寺」ですので、先日こちらに行って墓石を捜してみました。
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一閑寺は玉造の市街地にあります。
少し高台となっていますが、古くからある墓の多くが墓所の山側に所狭しとあります。

玉造城主たちの墓所は、最も高い場所に近く寺からかなり上った場所にありました。
玉造城の主たちを供養する五輪塔や塔婆もありました。

その近くに玉造城の主たちの墓誌が刻まれていました。
下の段の中ごろに 15代重幹公 と書かれています。
ここには、
大宮神社奉納神面竝祈願文
逢佐竹義宣之謀 日立太田
於曹洞宗正伝寺
共子明幹家臣中田蔵之助
須賀隼人等切腹玉造城滅亡
維時天正十九年(1591)二月九日也
と刻まれています。
家臣2名(中田、須賀)の名前の前に「共子明幹」とありますので、
玉造重幹の連れて行った子供の名前は「明幹」というようです。
また、滅亡した後も
十六代 治武衛門道幹(1642年死亡)
十七代 左五衛門治幹(1653年死亡)
十八代 興左衛門(1642年死亡)
十九代 茂兵衛
以降数代茂兵衛が継承されたようです。
そして現遺族が横浜市におられるようです。
玉造家としてはここ玉造では、そのままの存続は出来なかったのかもしれません。
昔、この寺を訪れたときの記事が下記にあります。参考までにリンクを貼っておきます。
一閑寺(1) ⇒ こちら
一閑寺(2) ⇒ こちら
常陸国の源平合戦(22) 烟田氏、中居氏終焉の地

さて、戦国時代を終結させた、佐竹氏による常陸国統一は水戸以南を領していた常陸平氏からこの地に根を下ろしてきた南方三十三館といわれた領主(城主)たちの一斉仕置といわれる謀殺でした。
言ってみればだまし討ちのように城に呼び出して殺害したといわれています。
しかし、和光院過去帳に記載されたのは九氏、十六人です。
そのうち、常陸太田の北側には島崎、鹿島、玉造、烟田、中居の五氏の最後を示す痕跡が残されています。
前回まで島崎、鹿島、玉造氏の痕跡を伝えて来ましたが、今回は残りの烟田氏と中居氏の終焉の地を訪ねてみましたので紹介します。
この2氏の終焉地は常陸太田城(舞鶴城)からそれほど離れてはいません。
ともに里川沿いの旧棚倉街道(川と山との間の道で、山の裾を巻くように続いていたと思われる)を北に3~5kmほどいったところです。

烟田氏は常陸太田市常福寺町、中居氏はその手前の里野宮町にありました。
それでは少し遠い常福寺町にある烟田(かまた)氏の跡地から見ていきましょう。

この常福寺町にある森家にその当時の様子が伝えられているそうです。
常陽藝文の記事によると、この森家は明治以前は「南窓院」という修験者(山伏)の家で、当時の話として、
天正十九年二月九日に烟田氏兄弟と家来1名の3人が、常陸太田の城へ向かう途中に、謀殺を察知してこの修験者の家に逃げ込み匿われた。しかし探索の厳しさを知り、この地で三人とも自害したと言う。
そして近くに三人一緒に埋葬し、三本の杉の木を植えたとされています。

(南窓院跡(森家))
その埋葬された場所は、この場所から西側に行った旧棚倉街道に近い場所でその後「三本杉」という小字名があり、杉の木は既に現存していないが埋葬された塚とその上に小さな祠が残されています。
近くの佐都公民館の空き地に車を停めて、近くを散策してみました。
附近をうろうろしましたが、佐都公民館から比較的近い場所にありました。

烟田氏兄弟と家来1名を埋葬したという塚と祠
写真の後ろの家の手前を旧棚倉街道が走っています。
道幅は車1台がどうにか通れるくらい。

旧棚倉街道沿いの山側には、神社や墓、石仏など古い雰囲気が残されています。
続いて、中居氏の終焉地はここから南に2kmほど里川を下った所にあります。
場所は星野宮町の南部の里川に沿った民家の庭です。

そこには川沿いの狭い道や、田んぼのあぜ道のような比較的狭い道しか通じていません。
藝文には常陸太田市史の通史編に次のように記載されていると紹介がある。
「中居秀幹とその家臣沼里助左衛門は、星野宮村に逃れたところ同地の増子助左衛門にうちとられているという」
ただ、このご子息の話では、中居秀幹はこの地に逃れてきて、逃げ切れないと覚悟し、この近くの沼の岸で自決したそうで、増子助左衛門が遺体を埋め、供養塔を建てたという。
何処までが真実かはわからないが、この地に逃れてきた死んだということは間違いなさそうだ。
この民家の隅に供養の石祠は、藝文などには写真が掲載されているが、民家の庭先を歩き回る事もためらわれたので、聞くこともせずそっとしておく事にした。

(写真の奥が里川の堤防)
中居氏の終焉の地はこの里川の直ぐ近くであった。
川が迫っており、この先を逃げ切れないと思ったのだろう。
近くに里川、佐都などの地名の基になったともいえる古社「薩都神社」がある。
この近くには水戸徳川家の墓所「瑞竜山墓所」もあります。
常陸国における源平合戦(23) 常陸平氏の終焉

戦国時代に常陸国の覇者となった佐竹氏は新羅三郎(源義光)の長男から始まる源氏の家系。
一方水戸以南に勢力を張った常陸大掾氏一族は桓武平氏の家柄。
ただ、この佐竹氏もこちらの平氏一族から妻を迎えて、その領地を常陸国北部に広げていった。
昔は未開の土地も、耕せば自分のものになるといった時代もあった。
そして盗賊なども増え、それを取り締まってくれる武士の力も農民たちにとって必要だったのだと思う
源氏・平氏といってみてもいわば親戚関係のようなものだが、400年ほど経てばその兄弟子孫は山のようにいることになる。
そして、人々が集まって邑ができ、その地を管理する領主がいて、荘園となり、いざというときになれば農民も武器を持って戦う。
秀吉が天下統一して農民から武器を取り上げる「刀狩令」を出したのが1588年。
そして、1590年に小田原攻めや東国攻めがあり、この年の12月に佐竹氏は水戸城から江戸氏を追放し、府中(現:石岡)の常陸平氏の頭領である常陸大掾氏を攻め落とした。
残るはこの大掾氏の兄弟分行方(なめがた)二郎、鹿島三郎たちが開発した常陸国南部の地。
行方は四頭とよばれる兄弟が管理していたところ。
鹿島は鹿島神宮の管理を任された鹿島氏が頭領で、そこから分れた諸氏が鉾田、太陽村、鹿島地方のいわゆる鹿行(ろっこう)地域に広がっていました。
当時で思いつく城などからそれらの諸氏の名前を下記の地図に示してみました。

ここで、常陸大掾氏、麻生氏、永山(長山)氏、林氏、徳宿氏などはこの33館仕置事件の時には既に滅んでいますので色を分けました。
・常陸大掾氏(常陸府中:現石岡市)・・・1590年12月 佐竹氏、園部氏などの攻撃で城は炎上し滅亡
・麻生氏(行方市麻生)・・・1584年 同族の島崎氏の攻撃で落城 滅亡
・永山氏(行方市永山)・・・1522年 同族の島崎氏の攻撃で落城 滅亡
・林氏(鹿嶋市林)・・・1589年 鹿島氏の一族だが、林弾正時国が札村で荒原五郎左衛門によって討たれ滅亡(新編常陸風土記)。ただし、別な話では、1591年の佐竹氏の呼び出しに出かける途中、家臣の荒原五郎左衛門に後ろから斬りつけ殺害されたとも。
・徳宿氏(鉾田市徳宿)・・・1486年 水戸にいた江戸氏の2000人ほどによる攻撃を受け300人の城兵は尽く殺され、滅亡。
徳宿氏は、鹿島氏の始祖・鹿島成幹の長男が北の守りにこの地に城を築いて住んだのが始まり。この徳宿氏からその南の烟田地方を分割されてそこを領したのが烟田氏です。
<参考までに以前書いた関連ブログ記事を下記に示します。>
前に徳宿を訪問した時の記事 ⇒ 徳宿沼尾神社(こちら)

この江戸氏との合戦を伝える神社 ⇒ 樅山(もみやま)神社(こちら)

さて、1591年2月の南方33館仕置で佐竹氏の太田城にまねかれそこで死亡したとされるのは、九氏 十五人となっています。
ただ、和光院過去帳は十六人ですが、カミと書かれている鹿島氏の妻と思われる人数があり、鹿島氏の妻は城に残り抵抗して死んだといわれています。
佐竹氏のこの仕置事件は、それぞれの兄弟、息子たちが跡を継げないようにすることで勢力をそぐ事が目的であり、妻や降参して味方になる家臣などにはそれ程危害は加えていないようにも思われます。
当然農民などの領民も、そこを新たに支配した佐竹の家臣団には抵抗しないように神社仏閣を整え、信仰心も守り、荒れた町並みを整備して人心の掌握に努めたようです。
ただ、この天正19年(1591年)2月9日の時には、城主たちの一斉の殺害を知った、城に残された人々はどのような思いをいだいたのでしょうか。
何か分るエピソードなどがないか探して見ましょう。
<鹿島氏の場合>:鹿島清秀父子・・・山方城に連行され殺害?
鹿島神宮に程近いところの高台に石垣を築いて広大な城がありました。鹿島氏は鎌倉時代頃から鹿島神宮の管理をする「惣大行事家」としてこの地におおきな力を有していました。

北部の鉾田地方までは、この鹿島氏の一族が散らばっており、上に載せた地図にも、林氏、中居氏、札氏、烟田氏、などみなこの鹿島氏がその頭領的な位置づけにいました。
大野村史に伝わる所によれば、悲報を受けて場内は大混乱に陥り、城を棄てて逃げるものも続出したが、鹿島清秀の妻は気丈で夫と息子の死を聞き、残兵を集め、城の明け渡しに反対し、篭城して徹底抗戦したという。
しかし、佐竹勢は大砲を使って城壁を破壊し、妻は自刀して果てたといわれています。
<烟田氏の場合>:烟田道幹兄弟・・・常陸太田城から逃げて常陸太田市常福寺町にて自害
烟田(かまた)氏は鹿島郡の北部を守っており、現在の鉾田市鉾田市烟田の少し高台に城がありました。
この地には「新宮小学校」がありましたが、2019年3月に廃校となり、130年の歴史を閉じました。
今も土塁が残されています。烟田氏兄弟が自害してからの細かな情報はありませんが、この地方では佐竹氏に最も近い場所にあり、高台とはいえ平城のようなもので、その時の佐竹氏の勢力には交戦する力も余りなかったように思います。
城は佐竹氏によって壊滅してしまいました。しかし、烟田氏は記録として「烟田文書(かまたもんじょ)」を残しています。
烟田氏は滅びましたが、関係する家臣は江戸時代も生き残り、これらの文書が残されたようです。
<中居氏の場合>:中居秀幹・・・常陸太田城から逃げて常陸太田市里野宮町にて自害または殺害
北浦に近い場所で、旧太陽村にある山城です。現在は孟宗竹で覆われていますが、昔の土塁や堀を確認する事ができます。
北浦と鹿島灘の中間あたりだったようです。山の中に当時の遺構が残されているだけで、詳しいことはよくわかりません。
「太陽村史」には、城主の悲報が城に伝えられたとき、城の堀を造る作業が行われていた。知らせを聞いた里人は作業を中止して悲嘆にくれ、念仏を唱えて秀幹の徳を偲んだそうで、その場所は念仏堀と呼ばれたという。
<札氏の場合>:札幹繁・・・常陸太田に向かうもそこから逃げて身を隠して生き延びる。
上記の中居氏の西側の北浦に近い札村の高台に城を築いていた。
33館仕置のときは、やはり常陸太田に出かけたという。しかし、異変に気付き、棚倉街道を北へ逃げ、現在の里美の北部に身を隠したという。
佐竹氏の追跡をのがれ、十五年ほど、じっとしてどなたかにかくまわれたのだろうか?
1602年に佐竹氏が出羽(秋田)に転封となった後に、地元の札村にもどったという。
しかし、その後間もなく病気で他界したと伝わっている。
札村にあった白鳥山普門寺(札城跡)の記事 ⇒ こちら

(普門寺観音堂)
少し長くなりましたので、その後の行方地方の領主たちについては次回に書きます。
常陸国における源平合戦(24) 常陸平氏の終焉 その2 ≪完≫

前回に続いて、今回は行方地方の城主たちを少し調べてみました。

行方(なめがた)地方は8世紀始めに書かれた常陸国風土記には白雉四年(653年)に、茨城郡と那珂郡からそれぞれ八里と七里(面積)、合計十五里(七百余戸)の土地を提供して、郡家を置いて行方郡としたのが始まりです。またこのときの郡衙は現在の玉造の南部あたりにあったとされています。
水戸の南部の吉田にいた桓武平氏の一族(吉田清幹)の子の平忠幹が平安時代後期にこの地方に入って行方氏を名乗りました。そして平忠幹の4人の息子が行方氏(小高氏)、島崎氏、麻生氏、玉造氏に分かれて行方四頭とよばれ、お互いに助け合い発展していきました。
しかし、南北朝から戦国時代になると次第にお互いが争うようにもなりました。
それでは行方四頭の戦国末期の様子を見て行きましょう。
<小高氏(長男)>:天正19年2月9日、小高治部少輔とその息子は佐竹氏の33館領主の誘いで常陸太田城に呼び出され、そこで殺害される。
小高城は行方郡の中間当りで、昔はここ辺りが行方郡の中心であったようだ。いまはあまり町としては発達していない。

小高城跡は、今は畑や山の中にその遺構が残されているだけで、古びた説明看板が置かれているに過ぎません。また御城などと呼ばれていたといわれる地域も畑が広がるばかりです。
小高氏の菩提寺は近くの「皇徳寺」と思われます。

(皇徳寺:寺の山名が「小高山」となっているだけで小高氏に関する遺構は余りありません。)
この小高氏の滅亡の後、小高城は佐竹の家臣大山義則が城代となった。
そして、常行院という寺を自身の地元より移して、佐竹氏の菩提寺とした。

常行院:佐竹氏の菩提寺、佐竹氏がこの地を領したのは10年足らずの短い時であった。しかし1602年に佐竹氏の出羽(秋田)転封が決まったときには、この地に佐竹氏家臣の18人が残って、この寺を守って江戸時代に続いていったという。
ただ33館の仕置後にこの地の様子を伝える遺構が道端に残されていました。道端の一角にちいさな社(観音堂)が一つ置かれていました。

福岡観音と呼ばれています。そこに書かれた説明では、この小高城が落城した時に、城主の妻と腰元6名がこの地で自害して果てたそうで、この小高の地も元からいた住民と佐竹氏などの家臣や住民などと江戸時代になっても細かな争いが続いたそうです。
そこで住民たちが相談して、元禄年間(1688~1704)にこの地で自決した奥方たちの霊を慰め、お互いの争いをしないように観音様を祀ったのだそうです。
それ以来安産や守護の神として祀ら、民衆の融和がはかれたと言います。
ただ当時の様子を伝える「福岡観音」
この小高地方をめぐったときの記事は下記にあります。
小高散歩 ⇒ こちら
<島崎氏(次男)>:島崎安定と息子徳一丸(和光院過去帳は一徳丸)・・・水郡線の大子の直ぐ手前の上小川の頃藤場の小川氏に預けられ、この地で殺害される。
島崎氏だけは水戸の六地蔵寺にその時の様子が残されている。
これは上小川の頃藤城の城主「小川大和守」と家臣たちは六地蔵寺にこの島崎氏の永代供養をし、家臣清水信濃守が現地に祠をたて、代々祀って供養を続けてきたためといいます。
地元の潮来市郊外にある御札神社が立つ山一帯が島崎氏の城跡だとされています。
最近ここに「島崎城跡を守る会」という会が設立され、この城跡を整理し、駐車場を設け、案内板を整備しました。
この会の中心は島崎氏家臣の子孫の方だといいます。
戦国末期、領地を西に広げ、同じ行方氏の麻生氏を攻撃して滅ぼしています。
東には鹿島氏がおり、行方四頭ではかなり大きな勢いのある城主であったようです。

島崎城跡:かなりの規模の城であったことがよくわかる。駐車場も案内板も整備されている。
訪れた時の記事は ⇒ こちら
<麻生氏(三男)>
行方氏の3男の家系で、麻生の街中にある羽黒山に城を築いていた。

現在、城跡一帯は羽黒山公園となっていて、桜などがきれいに植えられている。
この麻生氏は戦国末期の天正12年(1584)に、麻生之幹(これもと)が同族の島崎安定に攻められ、滅亡した。
江戸時代にはこの麻生は麻生藩となり、周りの地域がほとんど水戸藩であった中で独立した藩として続いた。
以前に訪れたときの記事:麻生城跡 記事は ⇒ こちら
<永山(長山)氏>:1522年東側の島崎氏に攻められ滅亡
永山(長山)氏は1200年頃、行方幹平の次子行方知幹がこの地を領し長山氏を名乗り長山城を築いたといわれている。
現在「香澄の郷」公園のある高台の東側に城があった。
潮来郊外にいた島崎氏(島崎利幹)は大永2年(1522年)、牛堀地区を流れる川を夜に渡り、この永山(長山)城を襲い、城主長山幹綱は自刃して、この永山(長山)氏は滅亡したが、幹綱の子政幹は城を脱して常陸太田の佐竹義篤を頼って落ち、その後佐竹氏の家来となり活躍している。
城が陥落した時に、島崎氏の軍勢が夜に渡った川は、「夜越川(よろこしがわ)と呼ばれるようになったと伝えられている。

夜越川の記事 ⇒ こちら
<島並氏>:島並氏も恐らく行方氏の一族だと思われるが、具体的に記載されているものがないという。
場所は麻生城の少し北西側です。島並城は、現在「是心院」という寺のある領域全体にあったようです。
この島並氏も佐竹氏の33館仕置時に攻められて滅亡したという。ただ余り資料がなく実体は不明。
その後、島並氏の家臣だった藤崎権右衛門により、天正19年7月8日に島並氏の菩提を弔うためにこの寺「登城山是心院」を建立したという。
以前にこの島並地区を散策した時の記事を参考にリンクしておきます。
・行方市島並の熊野神社(1) ⇒ こちら
・行方市島並の熊野神社(2) ⇒ こちら

(島並の熊野神社)
麻生氏とは行き来があったようなので、麻生氏関連の氏族かもしれません。
<手賀氏>:手賀高幹と弟は佐竹氏の招きに応じて常陸太田の城に向かった。その後の具体的な記録がないが、常陸太田城で二人とも殺されたのだと思う。
手賀氏は玉造城主・玉造幹政の次男政家が手賀郷に住して手賀氏を名乗ったとされる。
城跡は玉造から麻生方面に行った西蓮寺の少し手前の山の中にあった。
菩提寺は養徳寺で、この寺に手賀氏のは墓石がある。
天正19年の2月に兄弟で常陸太田に出かけ殺戮されたと考えられている。

(養徳寺:城はこの奥の東側の山の中にあったという)

寺には手賀氏の墓標が残されている。
<玉造氏(四男)>:玉造重幹父子は家臣2名と4人で常陸太田から日立市大久保の大窪氏に預けられここで自害した。墓は大久保にある正伝寺の大窪氏の墓所に4つの供養塔がある。
玉造氏についてはこの源平合戦(21)に詳しく載せているのでここでは省略します。
<相賀氏>:和光院過去帳ではアウカ殿と書かれており、この相賀(おうが)氏のことだと思われる。やはり常陸太田に招かれて殺害されているので、太田の場内で殺されたのではないかと思われるが詳細は不明。
場所は常陸国風土記に、ヤマトタケルが弟橘姫に再会したとして名前の出てくる「相鹿(あうか)の里」であり、ナウマンゾウの化石が発掘された場所でもある。
相賀(おうが)城は、平安時代に逢賀三郎親幹により最初に築かれ、それを戦国時代になり、手賀左近尉義元(相賀入道)によって再建され、相賀城と呼ばれるようになった。
玉造氏から分れた手賀氏のまた分家と行ったところだろうか。

(相賀城跡は山の少し開けた畑の広がる場所に説明板が置かれていた)
以前に散策した相鹿の里の記事(参考まで)
・相鹿の里(1) ⇒ こちら
・相鹿の里(2) ⇒ こちら
・相鹿の里(3) ⇒ こちら
<武田氏>:この武田氏は北浦武田氏の武田信房とおもわれ、北浦にかかる鹿行大橋の行方側にある木崎城の城主でした。
甲斐国の武田信玄を輩出した武田氏は、元をたどれば佐竹氏の祖とも言われる新羅三郎義光の次男が勝田の近くの武田郷に住して武田冠者と呼ばれていたが、領地争いに敗れて甲斐国(山梨)へ移動し甲斐武田氏となります。
そして、甲斐武田氏の10代(甲斐源氏13代)当主(武田氏の初代は義光の孫である源清光の次男とした)である武田信満が親戚関係にもあった上杉禅秀に味方して敗れ、木賊山(後の天目山)で自害するという事件が発生した。
この北浦の武田氏はこの武田信満の弟である武田信久が、兄が自害した時に千葉兼胤を頼って千葉に逃れてきて、その翌年の 応永24年(1417)にこの北浦の地に逃れ、ここに城(神明城)を築いて住み着いたと言われています。
この北浦武田氏も常陸平氏の一族ではありませんが、佐竹氏により33館仕置にて殺害されました。
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武田
木崎城跡の一部には現在「香取神社」が建てられています。
・木崎城跡と北浦武田郷 ⇒ こちら
さて、この武田氏は戦国時代初めころに、鉾田市二重作付近の山に武田城と呼ばれる城を築いています。ここには、武田次郎左衛門尉がいたが、佐竹義宣に服属し、但馬守と称したという。
また、鉾田市青柳地区にも堀之内館という館や蕨砦があり、武田大膳勝信が青柳氏と呼ばれ住していたという。
勝信はこの仕置事件では、ここから逃げて各地を転々として佐竹氏が出羽へ移った後、戻ってきて帰農したという。
<芹沢氏>: 芹沢氏も新撰組の芹沢鴨などと関係しており、江戸時代以降も存続しましたが、元を辿ればつくば市北条の多気氏(常陸大掾)が小田氏の換言により、源頼朝により鎌倉に呼び出され、所領没収となり滅亡しますが、この遺児の家系が駿河よりこの玉造近くの芹沢地区に入り、常陸府中(石岡)の常陸大掾(だいじょう)氏を支援していたといわれています。ただ、一時常陸国内でも転々としており、佐竹氏との関係も良かったようです。
この33館仕置事件でも、芹沢氏にも招待があったようです。しかし、城主は仮病を理由に出かけずに館に残り難を逃れたようです。
この後、この芹沢の館には近隣の常陸平氏の諸氏や血気盛んな人々も多く集まって、最後まで抵抗しようとする者、降伏して佐竹氏に従おうとする者などがいて、意見はまとまらず・・・・。
幸いこの芹沢氏と佐竹氏の関係は良かったらしく、佐竹氏に従うこととなり、芹沢氏も存続できたようです。

・法眼寺(芹沢家の菩提寺)(1) ⇒ こちら
・法眼寺(芹沢家の菩提寺)(2) ⇒ こちら
この佐竹氏による「33館の仕置」後には、佐竹氏に抵抗した勢力も、この常陸平氏一族ばかりではなく、つくばの小田氏(八田氏)の一族などもまままだ多くいたようです。
これらの館主も連携して反旗を掲げて抵抗したようですが、勢いのある佐竹軍の前に皆滅ぼされていったといわれています。
33という数値は単なる多くを示すに過ぎないといわれていますが、調べていくとかなりの数に上ることがわかりました。
この数値もあながち誇張したものでもないのだと感じます。
この「常陸国における源平合戦」も今回で一旦終わりにしたいと思います。
調べながらの記事で、長く引きずってしまい、読み苦しい点が多々あったことをお詫び申しげます。
下記のリンクから25回分(10回分づつ)を順に読むことができます。
常陸国の源平合戦(はじめから) ⇒ こちら
薩都神社
佐竹氏が戦国時代末の正十九年(1591)に行った「南方三十三館仕置」事件を調べて、常陸太田から北方面を散策していて、久慈郡の古い神社「薩都神社」にたどり着きました。
この里川沿いの道(旧棚倉街道)を通る事も少なかったので、名前は知っていましたが今までお訪れた事がなかったのです。
この「薩都神社」は「さとじんじゃ」または「さつじんじゃ」と読むようです。
神社の案内板にはこの二つの読みがふられていました。
近くの里川、佐都、里美などの地名の基になったとも考えられています。
この近くには水戸徳川家の墓所「瑞龍山墓所」もあります。
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県道から東に少し入ったところから脇に入る道があります。
しかし、道には案内看板がありません。
地図を頼りに少し進むと、神社の社が見えて来ました。
でも、私が想像していた神社よりは少し規模が小さく感じます。
「式内郷社」と頭につけられています。
延喜式の式内社(小社)で、久慈郡二宮となっています。
久慈郡には常陸国二宮である「静神社」があり、その他小社が6箇所あります。
入って右手に社務所のような建物がありますが、誰もいないようでした。
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神社拝殿。形のよい拝殿です。
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(本殿です)
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説明板には神社名の「薩都」の読みを「さと」「さつ」と2つ左右に書かれていました。
常陸国風土記には
「此より、北に、 薩都里 あり。 古(いにしへ )に 国 栖(くず )有りき。名をば 土 雲(つちくも) と 曰 ふ。 爰(ここ )に、 兎上命(うなかみのみこと) 、 兵 を 発(おこ) して 誅(つみな) い 滅(ほろぼ) しき。時に、 能 く殺して、「 福 (さち)なるかも」と言へり。 因(よ) りて佐都(さつ)と名づく。… 小水(おがは) あり。薩都河と名づく。」
とあります。
ここでは「薩都」の里を「佐都(さつ)」と名付け、小川を「薩都川」と名付けたとあります。
また佐都の意味は福=幸(さち)の意からきていると書かれています。
勿論これも当時の古老の話しですから別な意味(国栖などの原住民が使っていた言葉など)があるのかもしれません。
神社のいきさつは常陸国風土記に書かれていて、
「この里の東に、大きな山があり、かびれの高峯といひ、天つ神の社がある。昔、立速男の命(またの名を速経和気)が、天より降り来て、松沢の松の木の八俣の上に留まった。この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち病の災を起こす。里には病人が増え続け、困り果てて朝廷に報告し、片岡の大連を遣はしてもらって、神を祭った。その詞に、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでゐるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ。」と申し上げた。神は、これをお聞きになって、かびれの峯にお登りになった。その社は、石で垣を廻らし、古代の遺品が多く、様々の宝、弓、桙、釜、器の類が、皆石となって遺ってゐる。鳥が通り過ぎるときも、この場所は速く飛び去って行き、峯の上に留まることはないといひ、これは、昔も今も同じである。」(口訳・常陸国風土記より)
とあり、これを纏めると
・延暦7年(788年):(常陸太田市)松澤にある松の木の八俣の上に天津神の「立速日男命(たちはやびおのみこと)」が降り立ったという。そしてその地に社を建てたのが創祀とする。
・延暦19年(800年):しかし、この地に住む百姓などが小便をしたりするので、村人の奏上により大連を派遣したところ「穢れ多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と託宣があり賀毘礼(カビレ)之峰(日立市入四間町)に遷座した。
現在の御岩神社の裏手の山、御岩山がその遷座した山といわれ、御岩神社もパワースポットとして有名になっている。
・大同元年(806年)には山が険しく人々の参拝が困難であるから小中島(常陸太田市里野宮町)へ遷座(分霊)した。
・正平年間(1346年~1370年)に佐竹義宣が社殿を修造し、大永2年(1522年)に佐竹義舜により現在地に遷座された。
すなわち、御岩神社の奥宮(山全体が神とも)には、「かびれ神宮」と「薩都神社中宮」があります。
そのため、この神社も元を辿れば御岩神社と同じになりそうです。
この里川沿いの道(旧棚倉街道)を通る事も少なかったので、名前は知っていましたが今までお訪れた事がなかったのです。
この「薩都神社」は「さとじんじゃ」または「さつじんじゃ」と読むようです。
神社の案内板にはこの二つの読みがふられていました。
近くの里川、佐都、里美などの地名の基になったとも考えられています。
この近くには水戸徳川家の墓所「瑞龍山墓所」もあります。
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県道から東に少し入ったところから脇に入る道があります。
しかし、道には案内看板がありません。
地図を頼りに少し進むと、神社の社が見えて来ました。
でも、私が想像していた神社よりは少し規模が小さく感じます。
「式内郷社」と頭につけられています。
延喜式の式内社(小社)で、久慈郡二宮となっています。
久慈郡には常陸国二宮である「静神社」があり、その他小社が6箇所あります。
入って右手に社務所のような建物がありますが、誰もいないようでした。
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神社拝殿。形のよい拝殿です。
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(本殿です)
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説明板には神社名の「薩都」の読みを「さと」「さつ」と2つ左右に書かれていました。
常陸国風土記には
「此より、北に、 薩都里 あり。 古(いにしへ )に 国 栖(くず )有りき。名をば 土 雲(つちくも) と 曰 ふ。 爰(ここ )に、 兎上命(うなかみのみこと) 、 兵 を 発(おこ) して 誅(つみな) い 滅(ほろぼ) しき。時に、 能 く殺して、「 福 (さち)なるかも」と言へり。 因(よ) りて佐都(さつ)と名づく。… 小水(おがは) あり。薩都河と名づく。」
とあります。
ここでは「薩都」の里を「佐都(さつ)」と名付け、小川を「薩都川」と名付けたとあります。
また佐都の意味は福=幸(さち)の意からきていると書かれています。
勿論これも当時の古老の話しですから別な意味(国栖などの原住民が使っていた言葉など)があるのかもしれません。
神社のいきさつは常陸国風土記に書かれていて、
「この里の東に、大きな山があり、かびれの高峯といひ、天つ神の社がある。昔、立速男の命(またの名を速経和気)が、天より降り来て、松沢の松の木の八俣の上に留まった。この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち病の災を起こす。里には病人が増え続け、困り果てて朝廷に報告し、片岡の大連を遣はしてもらって、神を祭った。その詞に、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでゐるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ。」と申し上げた。神は、これをお聞きになって、かびれの峯にお登りになった。その社は、石で垣を廻らし、古代の遺品が多く、様々の宝、弓、桙、釜、器の類が、皆石となって遺ってゐる。鳥が通り過ぎるときも、この場所は速く飛び去って行き、峯の上に留まることはないといひ、これは、昔も今も同じである。」(口訳・常陸国風土記より)
とあり、これを纏めると
・延暦7年(788年):(常陸太田市)松澤にある松の木の八俣の上に天津神の「立速日男命(たちはやびおのみこと)」が降り立ったという。そしてその地に社を建てたのが創祀とする。
・延暦19年(800年):しかし、この地に住む百姓などが小便をしたりするので、村人の奏上により大連を派遣したところ「穢れ多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と託宣があり賀毘礼(カビレ)之峰(日立市入四間町)に遷座した。
現在の御岩神社の裏手の山、御岩山がその遷座した山といわれ、御岩神社もパワースポットとして有名になっている。
・大同元年(806年)には山が険しく人々の参拝が困難であるから小中島(常陸太田市里野宮町)へ遷座(分霊)した。
・正平年間(1346年~1370年)に佐竹義宣が社殿を修造し、大永2年(1522年)に佐竹義舜により現在地に遷座された。
すなわち、御岩神社の奥宮(山全体が神とも)には、「かびれ神宮」と「薩都神社中宮」があります。
そのため、この神社も元を辿れば御岩神社と同じになりそうです。
甲子夜話の面白き世界(第1話)天狗にまつわる話
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昨年春より江戸時代に書かれた「甲子夜話」(かっしやわ)をFBの友人が物語の語りのお稽古と称して毎日のように紹介していただいている。
書かれたのは長崎(肥前)平戸藩の藩主であった松浦清(まつらきよし=静山)公で、内容も藩制のこと、歴史のこと、動物の事、地理のこと、文化芸能のこと、自然のこと、超自然現象や庶民の暮らしまでありとあらゆる事が紹介されている。
藩主を辞した1806年から15年後、1821年から約20年間の間書き綴った随筆であり、その量は実に膨大で、当時の文を読みなれていなければ、理解も難しいところも実に多い。
それを、平易に直しながらFBでUPしていただいているので、それを許可を頂いて、新たなブログを作成してそちらに順番にUPさせていただいている。(ブログ:甲子夜話のお稽古・・・こちら)
ただ、面白い内容もじっくり読まないと理解に苦しむ事もあり、ここに面白そうな内容を少しずつピックアップして、これからすこしずつ紹介していきたいと思います。
<甲子夜話の面白き世界(第1話) 天狗にまつわる話(その1)>
《1》 天狗にさらわれた男の話し
わしの下僕で、上総(かずさ:現千葉県の一部)生まれの男がいる。
年は56歳だそうだ。その男がかつて天狗にさらわれたという。
その男の話しはこうである。
『今から15年ほど前の春3月5日のお昼少し前のことでした。
両国橋を歩いていますと、急に気持が悪くなってきたのです。
すると見知らぬ者から声をかけられました。
そして、その者の方に行くと・・・ もうその後のことは何も覚えておりません。
気が付いた時には、信濃の善光寺の門前に立っていたのでございます。
着ている着物は前に覚えのある着物ですが、もうあちらこちらが破けてばらばらになっておりました。
また頭は禿げ上がり、さかやき(月代)をそりあげたような姿で、脇の髪は伸びてバラバラでした。
そして日時を確かめると10月28日ですので、8ヶ月以上経っていたのです。
そして、ぼんやりと辺りを眺めていると、偶然にも、故郷でかつて知っていた人に遭ったのです。
そして、その人の助けで、なんとか一緒に江戸にもどってくる事ができたのです。
ただ、8ヶ月以上も何処でどうしていたのかまったく記憶になく、何か食べようとすると胸がムカムカして何も食べられません。
特に五穀の類はまったく口に入れることが出来ませんでしたが、サツマイモだけは食べる事ができました。
そしてしばらくの間、便には木の実のようなものが混じって出てきて、それが暫く続きました。その木の実の便が出なくなると腹の調子は元にもどり、普通の穀の食に戻ったのでございます』
この話しが本当ならば、天地間には人類に非なるものもあるのかもしれない。
天狗にさらわれたのか、または山の中で木喰(もくじき)上人のような生活を送っていたのか・・・・
(巻之七 〈ニ七〉 ← クリック 元話)
《2》 天狗にとりつかれた若い尼僧の話し
嵯峨天竜寺の瑞応院から印宗和尚が下記のような文をよこした。
『天竜寺の領内に遠離庵と云う尼庵があり、そこに始めて仏門に入りたての年のころは十九の尼がいた。
それが、今年の3月4日の日暮れ時に、他の尼4~5人と連れ立って、山に蕨採りに出かけたときのこと。
蕨をそれぞれ採り終って、バラバラに庵に戻ったのだが、この若い尼だけが帰ってこなかった。
庵では狐タヌキに惑わされたのか、はたまた何か事故にでもあったのかと心配して、皆で一心に祈願していた。
そうした中、17日の夕暮れになって、隣村(清滝村)の樵(きこり)が薪を採りに山に入り、深い谷間で、若い尼が布を洗っているのを見つけた。ぼんやりとした様子を不審に感じて、「どうしてこんな山奥にこられたのか」と尼に声をかけた。
すると「私は愛宕山に籠もっている者です」との返事。
こんな娘尼が山に籠もっているとは、半ばあきれて村(清滝村)につれて帰った。
帰ってくると「私は遠離庵の尼です」というので、夜に籠を呼んで乗せて庵に帰した。
庵にもどると、普段無口なこの尼は何かわからぬ事を大声でしゃべり出した。
そこで、侠気の藤七を呼び、尼と対峙させると、尼は「帰る、帰る。 まず飯を食いたい」と云った。
飯を用意すると、なんと山盛りの飯を三椀も平らげた後に、気を失ってしまった。
暫く気を失って眠っていたが、その後目を覚ましていつもの様子に戻った。
そして、山で何があったのかを聞くと、次のように話した。
『山で蕨(わらび)を採っていたら、年の頃は四十ばかりの杖をついた僧侶があらわれ、こちらへ来いと声をかけてきた。
どことなく貴い僧侶に見えたので近づくと、「この杖を持ってみよ」と云うので、持つと「目をつぶりなさい」と言われたので、その通りにした。
そのままじっとしていると、どこか遠くへ来たと感じた。
目を開けると、そこには金の御殿や宝の仕舞ってある宝閣があった。
そして、「ここはみだりに中に入る事を禁ずる」と申し聞かされ、団子の様な物を「食うべし」と与えられた。
この団子を口に入れると、とても美味く、今でもその甘さが忘れら得ない味で、ほかに何も食べなくても、少しも空腹にならないと云う。
またこの僧侶は、「汝は節操がある正しき者なので、愛宕山へ行って籠って修行をすればきっと良い尼になるだろう。
また、修行の間には、時々諸国を見物させてもやろう。 そうだ讃岐の金毘羅様へもお参りさせよう」と言った。
この若い尼が庵に戻ってからも、次の日には「僧が御入りです」と言うのだが、他の人にはその姿は見えなかった。
そのため、これは天狗の仕業に違いないといい定めて、この新尼には親里へ戻して庵から出てもらった。
これまで天狗は女人には取り行かぬものだったが、世も末、天狗も女人を愛する様になったのか・・・。
(巻之四十九 〈40〉 ← クリック 元話)
《3》 寺の木陰に天狗を見たという話し
最近、ある老医から聞いた話だが、この7月13日の前日の朝八時頃の話だが、
御箪笥町に真言宗の千手院と云う大きな寺があり、ここに、大きな樅(もみ)の木がある。
その樹の影に不審な人が見えたという。
その人物は樅の木の枝の間に腰かけて厳然としていて、顔赤く、鼻高くて、世にいう天狗というものの様だった。
これを見た人は皆、大いに驚いたという。
これはまさに、真の天狗であろうと思う。
また、この姿を見たものは、鵜川内膳と云う人の婢僕がまず見つけて、その他に数人が見たという。
(巻之五十 〈八〉 ← クリック 元話)
(続く)
甲子夜話の面白き世界(第2話)天狗にまつわる話(2)

<甲子夜話の面白き世界(第2話)天狗にまつわる話(その2)>
《4》 天狗が吉原へ見物に出かけた話し
「笑い話を一つ」
普段仙境にいるといわれる天狗だが、あるとき人界に現れ、吉原町というところを一度見ておきたいと吉原に出かけた。
だが、人に顔を見られるのを恐れ、手ぬぐいで頬かむりをしたがのだが、長い鼻はでてしまう。
まあこれは仕方がないと、両手で鼻をかくして、吉原の店前にある格子から中を覗いて見ようとした。
しかし、鼻が格子につかえて、よく見る事が出来ない。
ではと、格子の間から鼻柱を入れた。
すると中からこれを少妓が見つけて叫んだ。
「あれあれ、何者かが格子からおしっこをするよ」。
(続 巻之十七 〈一〉 ← クリック 元記事)
《5》 天狗になった住持の話し
永禄の頃の話だというが、川越の喜多院の住持(住職)が天狗になって、妙義山に聳える岩の上に飛び去ったという。
そのため、寺(院)にある住職代々の墓の中にこの住持の墓だけがないという。
またこの住持が使っていた小僧も天狗になって同じように飛び立ったが、庭前に墜落して死んでしまった。
その死んだ場所には今小祠が建っている。
この小僧は飛び立つ直前まで味噌をすっていたが、この擂粉木(すりこぎ)をなげ捨てて飛んだのだという。
そのためか、今ではこの院内で味噌をするのを見れば、必ず擂粉木を取りあげるという。
まあ、味噌をすらなくとも、槌(つち)で打って汁にするのだそうだ。
このようなことが伝わっているのも、何かがあってのことであろう。
(巻之52 〔14〕 ← クリック 元記事)
《6》 少年時代に天狗にさらわれた男の話し
私の屋敷にいる下男で、今53歳になる源左衛門という男がいる。
この男は昔天狗に連れ去られたという。
その話によると
7歳の少年の祝いの時に、馬の模様が染め抜かれた着物を着て八幡宮に詣でていた時の事。
八幡宮の社のあたりから急に山伏が現れて、少年を誘い、そして連れ去ったのだと。
連れ去られてから山伏と共にいたが、8年が経った頃、山伏は、おまえの家族で仏事があったので、お前の身は不浄になった。
そのため、このままここに置いておくわけにはいかないので人間界に返すと云って、相州(相模国)の大山に置いていかれた。
それを里人が見つけてくれ、腰には札が取り付けられていて、そこには国郡の名まで書いてあったので、宿から宿を通して家に戻ってくることができた。
その時に、持って帰った着物は、7歳の時に着ていた馬染めの着物であり、それは少しも損なっていなかった。
その後3年間はそのまま家にいたが、18歳になった時に、例の山伏が「迎えにきたよ」と云って現れた。
そして、「一緒に来なさい。しっかり目をつぶっていなさい」といって、山伏はその青年を背負うと、帯のようなものを肩にかけ、あっという間に飛び立ち、風の鳴る音が聞こえたという。
そして、着いたところは越中の立山の大きな祠のある場所だった。
そこから加賀の白山に通じている途中に畳を二十畳ほど敷いた場所があった。
ここには僧や山伏が合わせて十一人が座っていた。
源左衛門を連れてきた例の山伏の名は「権現」と云った。
権現は源左衛門を「長福房」と呼んで、十一人の天狗の上座に「権現」が座し、「長福房」をすぐその傍に座らせた。
この時、初めて乾菓子を食べた。
また十一人の天狗は各々口の中で呪文を唱えるようにしていたが、いきなり笙(しょう)と篳篥(しきりき)の音(ね)が聞こえてきて、天狗たちは皆たちかわり踊り、唄った。
「権現」は白髪で髭(ひげ)は長く膝まで及んでいた。
表情は温和で、慈愛な感じで、あまり天狗らしくなく、ゆらゆらした感じであった。
話しによると天狗たちは、諸国を廻るうちに、奥の国(魔界)の昔の大将の陰者になる者が多いという。
また源左衛門は、山伏に伴なわれて鞍馬の貴船に行った。
そこの千畳敷には僧達が大勢座っていて、貴船に参詣する人々の様々な祈り、願い事が心の中によく伝わり聞こえてくるという。
聞こえてくる願い事について、天狗は皆で話しており、この願いは妥当だからかなえてやろうとか、また願い事を聞いて愚かな者よと大笑いする天狗もいる。
または中には極めてかなえられない願いもある。
また叶えられないものに見えても、何かの呪文を誦することもある。
周りの山に連れていかれたが、そこには様々な天狗がいて、剣術をやり、兵法を学んでいた。そして源左衛門もそれを伝授された。
申楽、宴歌、酒席にも連れて行かれた。
天狗の「権現」師匠は、毎朝天下安全を祈り、勤行するようにと教えられた。
またある時、昔の源平合戦のときの「一の谷の合戦」の状態を見せようではないかと云う事があった。
山頭に色鮮やかな旗を翻しながら、人馬が群れて走り、ときの声が上がり、その場の様子はまさにその場でおこっているように見えた。しかしこれは妖術である。
また、世の中には木葉天狗と云う者もいる。
あの世この世の境ではハクロウと呼ぶ。この者は狼として生きた経歴がある。白い毛が生えている老狼なので、白狼である。
また十九歳の時に人間界へ還されたが、その時に天狗の類を去る証明書と兵法の巻物二つを与えられ、脇差を帯させ、袈裟を掛けて帰したという。
始め魔界に入った時に着ていた馬の絵柄の着物、兵法の巻物とこの証明書の三品は、上総(かずさ)の氏神に奉納し、授けられた脇差と袈裟は今度お見せします、と云ったが、わしはまだ見ていない。
聴き及んだ話では、ある日、奉納した巻物をその神社の社司が秘かに見ようとしたが、眼がくらみ見ることはできなかったという。そのため、そのまま納められているのこと。巻物はすべて梵字で書かれているという。
また天狗も物を買うことがあるが、この銭は、白狼どもが薪を採って売ったり、または人に肩を貸すなどしてその駄賃を集めたもので賄っていると。
また天狗は酒を嗜むと云う。
また南部におそれ山という高山がある。この奥十八里に天狗の祠があり、これを「狗賓(ぐひん)堂」と称する。
ここに毎月下旬に信州から善光寺の如来を招き、このご利益を願い、白狼の輩の三熱の苦を免れるように祈る。
その時は、天狗権現師匠とその仲間達で皆を出迎える。
善光寺の如来が来向するときはまるで白昼のともし火の様だという。
また源左衛門がこの魔界にいた時、菓子を一度食べてからというもの、物を食べたことはない。
だから両便(大便、小便)の通じがなかったという。
以上の説は、かの下男が云うことであるが、そこに虚偽疑がないとは思わない。
しかし話す内容は妄想だけとも思われない。
何もかにも天と地の間にこの様な妖魔の一界があるのだなあと思ったことだ。
(注:平田篤胤が天狗にさらわれて江戸の町に戻ったという少年の話を聞き取った「仙境異聞」を書いたのは、1822年のこと。この松浦静山公がこの甲子夜話を書いたのは1821年から30年間である。話の内容はかなり似通ったものがあるが、時代も近い。似たような話もまだ多くあったのかもしれない。)
(巻之七十三 六 ← クリック 元記事)
甲子夜話の面白き世界(第3話)天狗にまつわる話(3)
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<甲子夜話の面白き世界(第3話)天狗にまつわる話(その3)>
《7》 空中を逆さに行く婦人の話し
5、6年前のある席上で坊主衆が語った。 高松侯の世継ぎ貞五郎が語られた話だという。
貞五郎が幼児時に矢ノ倉の邸に住んていて、風鳶(たこ)をあげて遊んでおられた。
すると、向こうの方からなにやら空中を来るのものがいた。
何んなのかと不審に思い見ていると、それが近づいて来た。
それはどうしたことか、婦人が逆さまになって動いてくる。
両足は天に向けて、首は下になり、衣服はまくれていた。
またはっきりとは分らないが女であると見え、号泣する声もよく聞こえた。
どうもこれは、天狗が人をつかみ上げて空中を動いて行っているところと思われたが、天狗の姿は見えず人だけが見えていたという。
またこのことは、そのそばにいた家臣たちも見たという。
これとは別に、『池北偶談(中国の怪奇小説集)』に次のような話がある。
『文登の諸生の段階を終わり、夢を求める9歳の時に庭で遊んでいた。
時はお昼頃、天は青く澄みわたり、雲はなかった。
空中を見ると1人の婦人が白馬に乗り、華やかな袿(うちかけ)に白い裾で、馬の手綱をひいて、北から南に非常にゆっくりと移って行った。暫く見ていたが、そのまま遠くまで行き、姿が見えなくなった。
わしの従妹が永清県(中国の県)にいるが、かつて晴れた昼のこと、空中を仰ぎ見ると、美しく艶やかな1人の少女が、朱の衣に白い裾に手には団扇を揺らして南から北へ向かっていったという。久しく見ていたがやがて見えなくなった』
これも同じような話だが、これらの話は仙人の所為なのか。
(巻之30 〔23〕 ← クリック 元記事)
《8》 天狗が炎の中を走り廻る話し
我が荘内にある天祥庵の守僧に、昌信と云う者がある。
この僧とは、日夕の参拝の時に時々はなしを交わす。
ある日、わしは何かの話の中で「どこかで聞いた事があるのだが、出火して大火になると、天狗が炎の中を走り廻って火を延(ひ)くというそうだね」と云うと、「では私の聞いたお話をいたしましょう」と云い、次の話を語った。
「長門侯の家臣の者が江戸から国にもどる途中、侯の命によって伊勢に参詣し、その後で京に行き、各所を見て回った後、正月13日の夕に愛宕山に登った。
すると日暮れ時の午後4時ころになり、街中の宮川町1丁目荒物屋から出火して、洛中に火が広がり、またたくまに延焼した。
この時、この火災の火は光天を焦がし、満炎はまるで雲のようだった。
この長門侯の家臣の者が愛宕山の山上から街を見下ろすと、その燃えさかる炎の上を、異形非類の者が群れを成して走り回っているのが見えた。
よく見ると、その面には知った者がおり、多くは甲冑を身に着け馬に騎(の)っていた。
まるで戦場のようであった。
この有り様は、この家臣の士ばかりではなく、従僕の輩にもよく見えたという。
そして、この怪は夜が明けて、日が射し始めると、みな消え去ってしまったという。」
これは如何なる者なのか。
はじめにわしが聞いた、火中を天狗が走って火を延(ひ)くと云うのもあながちごまかしの嘘の話しではないのかもしれない。
また世に名高い、昔土佐氏が描いた百鬼夜行という図の中にもこれと同じような見覚えのある怪があった。
これ等は虚謔の為に図にしたものではないだろう。
まったく、奇怪不思議のことだ。
またこんな事も聞いた。
その大火の起こる前の早朝に、12,3ほどの少女が火盆に、燃灰を累々と積み上げて、この火災が起きた荒物屋の中に入っていったという。
隣の家の者たちは、これを見て皆いぶかったが、その火元の家人はまったく気付かなかったという。
ならばこれも、また妖魔天狗の類になるのだろうか。
(三篇 巻之67 〔10〕 ← クリック 元記事)
《9》 山の中で天狗の宴に遭遇した話し
ある飛脚か2人づれで箱根を越えているとき、夜も大分更けて、あたりはひとしお凄惨なじょうきょうであった。
そんな中で、山上の方から人の話す声が騒々しく聞こえてきた。
飛脚の2人はこんな夜中にと不審に思いながら声の方に近づいていくと、しばらくすると山上の路傍の芝生に、幕がぐるりと張られており、そこで数人が集まって宴をしているのが見えた。
どうも酒に酔いながら、舞ったり、歌をうたったり、それに弦の音も加わっていた。
通り道ににも幕が張られていて、2人は先に行く事が出来なかった。
そこで、2人は声をそろえて中の者に「通れませぬ」と告げた。
すると幕の中から「通行しておくれ」という声が聞こえた。
それではと、2人が幕に入ると、幕はこつ然と消えてしまった。
そして今までしていた笑い声や歓声も絶えて、2人は元の寂々した深山の中に立っていた。
2人は驚き、怖くなって急いでそこから走った。
すると、しばらく後に、前の弦や歌を歌う人達の声がまた聞こえてきた。
そして、元の場所にはまた幕が前と同じように張られていた。
2人は益々驚いて、飛ぶようにして山を下り、ようやく人の居る所にたどり着いた。
これは世のいわゆる「天狗」であろうか。
(巻之23 〔10〕 ← クリック 元記事)
《10》 天狗の品、飛銚子の話し
千石和州は伏見奉行で、この地に没したが、この人が日光奉行の時に本当に接したいう逸話がある。
日光の山上に何とかと云う祠があった。
そここに参詣して、願いをかけて、この銚子に酒を入れて置くという。
またそこから一里くらい離れたところにも、また同じような祠が一箇所あった。
前の祠での願いがかなえられた時に、祠の木銚子が自ら一里先のこちらの祠に移り、いつの間にかこちらの祠の中に在るという。
土地の者によると、これは「飛銚子」と呼ばれるものだという。
そのため、山の修験者たちは、ここに信仰拝詣する者が絶えないという。
また、この飛銚子は天狗の品であるのではないかと云っている。
まことに奇異なことである。
(巻之二十五 〈13〉 ← クリック 元記事)