茨城の難読地名(その6)-河内
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シリーズ1回目からは ⇒ こちら
中河内 【なかがち】 水戸市
上河内 【かみがち】 水戸市
上河内 【かみがち】 那珂市
東河内 【ひがしごうど】 日立市
西河内 【にしごうど】 常陸太田市
油河内 【ゆごうと】 常陸大宮市
もともと「河内」は 【かわのうち(川の内)】が ⇒ 【かわうち】 ⇒ 【かわち】(一部ではコウチ)となったものでしょう。
いっぽう、茨城県の県北地方に「がち」「ごうど」なたは「ごうと」と読ませる地名も存在します。
その成り立ちを少し調べてみましょう。
まず水戸市にある「中河内町=なかがちちょう」、「上河内町=かみがちちょう」ですが、この場所は古代官道が常陸国国府の石岡から台渡里(渡里町)まで真っ直ぐにひかれていましたが、この台渡里に馬を常駐させる駅家(うまや)がありました。
そして那珂川(古代は粟川)を挟んで対岸側がこの「河内」地区です。
ここにも馬を常駐させておく駅家(うまや)があり、河内駅家(かわちのうまや)が置かれていました。
そして何時頃からかこの地は「河内村」と呼ばれていました。
「今昔水戸の地名」(堀口友一著)によると、この「河内村」は「カチ」と呼ばれており、これは「カワチ」の急呼だといいます。
カワチをせっかちな水戸っぽが呼んで「カチ」となったのでしょう。
そしてそれが上、中、下などとわかれ、「上河内=カミガチ」「中河内=ナカガチ」となったものと思われます。
この上河内町ですが、水戸市にある町ですが、一部が隣の那珂市にもまたがっているところがあるようです。
一方やはり里川の少し上流地域にも「河内」という地名があり、東側は日立市で「東河内(ひがしごうど)」、西側は常陸太田市で「西河内(にしごうど)」と呼んでいました。
しかし現在は常陸太田市の西河内(にしごうど)との呼称は「西河内(にしごうど)上町」「西河内(にしごうど)中町」「西河内(にしごうど)下町」などと分かれ、一部が市町村合併が繰り返されたため、旧水府村の領域に入っていた 「西河内上」は合併で「河内西(かわちにし)町」と変更になりました。
また常陸大宮市の国道293号線を常陸大宮から北上し、「道の駅みわ」の手前の小舟地区から「やすらぎの里公園」方面に進み、すぐに「油河内川(ゆごうとがわ)」という小舟川の支流があります。この川を西にさかのぼった先に「油河内」と書いて「ゆごうと」という地名があります。
「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、河内とは川を中心とした狭い平地を意味し、沢に温湯の湧く所があり、湯河内と名付けられ、後に油河内に改められた。(水府志料) と書かれています。
しかし、現在温泉のような施設も見当たりません。
河内を「ごうど」「ごうと」と読む由来についてはあまりはっきりしません。
ただ「河」は「こう」「ごう」とも読み、「内」も音読みでは「ない」「だい」「どう」ともよむため、「ごうどう」などとなり、「ごうど」とつまってなったものと考えられます。
しかし奈良時代に書かれた常陸国風土記の久慈郡には、「郡家(旧水府村付近)の西北二十里のところに、河内の里あり、もとは古々の村といった。(「ここ」は猿の鳴声からきたといふ。)里の東の山に石の鏡があり、昔、鬼が集まって鏡をもて遊んでゐるうちに、鬼は消えてしまった。「恐ろしい鬼も鏡を覗けばおのれを滅ぼす」といふ。そこの土は、青い色をしてゐて、良質の絵具として使へる。「あをに」とも「かきつに」ともいふ。朝廷の仰せで、都に献上しゐる。この里は、久慈河の源にあたる。」(口訳・常陸風土記)
とあり、猿の泣き声から「ここ」といい、「古々」となり、それが「河内」変わったと書かれています。
また参考までに、兵庫県には「染河内(そめごうち)」などと呼ばれる地名もあります。
その他茨城県にも「河内村(かわちむら)」などと呼ばれたところは数多くあるようです。
いまでも南部には稲敷郡「河内町(かわちまち)」がありますし、昔の真壁郡に「河内村(かわちむら)」(「かっちむら」とも呼ばれる)が存在していました。いまは関城町に組み入れられ、筑西市となり村名は無くなっています。
(関連地名)
・入四間 【いりしけん】
茨城の難読地名(その7)-廻戸
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廻戸 【はさまど】 阿見町
「廻戸」と書く地名は東北の方には結構あるようです。
福島県では、喜多方市に「東廻戸=ひがしまわりと」、南会津町に「糸沢廻戸=いとざわまわりつと」「川島廻戸=かわしままわりつと)」、昭和村に「野尻廻戸=のじりまわりと」、二本松市に小字で「廻戸=まわりと」などがあり、宮城県にも丸森町に「峠廻戸=とうげまがりど」、岩手県にも西和賀町川尻に「廻戸=まっと」などがあります。
しかしこれらはいずれも「まわりど」が語源の基であり、「まっと」などというのも言葉が詰まったことでそのようになったものと考えられます。
こちらの阿見町の「廻戸」は【はさまど】と読みます。
「角川日本地名辞典(茨城)」によれば、「迫戸とも書いた。霞ケ浦の南西岸に位置する。地名は海に挟まれた土地に由来するという(阿見町の生い立ち)。縄文時代の廻戸貝塚がある。」と書かれています。
また、江戸時代初めの慶長11年(1606)「常州知行目録」では「波佐間戸」との記載があり、江戸時代末期の「天保郷帳」には「波佐間戸村」とあり、古は廻戸村とあります。
ところが、阿見町教育委員会のまとめた「阿見の昔ばなし その6」によると、
慶長7年(1602)の検地帳には「廻戸村」とでてきており、それ以前は「波佐間戸」と書かれたり読まれたりしていたとなっています。
どうも大昔は「波佐間戸=はさまど」で、江戸の初め頃から「廻戸=はさまど」に変わったのでしょう。
でも江戸時代には「波佐間戸」も「廻戸」もどちらも使われていたのかもしれません。
また、阿見の昔ばなしの説明では、旧道をたどってみると谷津をはさむ坂道など曲がりくねった細い道だったことがわかるため、
廻戸の「廻」は、あたりをぐるぐるめぐる、まわるという意味があり、このようなところからとったのかもしれません。
また、「戸」は、霞ケ浦沿岸、利根川、その他の沼や川の近くの入りくんだ所に「戸」のついた地名を見つけることができます。
廻戸と向かい合う霞ケ浦対岸に「折戸」という所がありますが、「戸」は、昔入りくんだ地で河岸のあった所が多く、廻戸も河岸があったとされていますので、舟のつく所からきているのではないでしょうか。
と書かれています。
実際に行ってみました。この場所は国道125号線沿いに予科練平和記念館があり、その反対側の高台になっている場所です。
登ってみると高台と低地が入り混じった地域といえます。
坂道に沿うように住宅が並んでいて、裏手の山が中世に「廻戸城」があったという高台になっています。
上の台地の一角に「まほろば」という施設があり、そこから霞ケ浦が良く見渡せます。
また、この施設の入り口横に「廻戸貝塚」の説明看板がおかれていました。
この山一帯が中世の廻戸城の跡で、城の城主は土岐大善太夫(江戸崎の城主)の家臣「高野次郎八郎」という。
さてざっと見てきて「廻戸=はざまど」の名前の持つ意味を考えてみた。
霞ケ浦がまだ海だったころを想像してみるとこのあたりの地形はどんな様子だったのでしょうか。
恐らく、このあたりも入り江が入り込んだ地形で、一部は島のようになっていたのかもしれません。
入り江に舟着き場があって、ここから漁に舟が出て、島を廻っていたのではないでしょうか。
戸は江戸などと同じ戸口(河口)と思われます。
地形的にはこのような名前なのだと思います。
(関連地名)
・十三間戸 【じゅうさんまど】
茨城の難読地名(その8)-七五三場
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七五三場 【しめば】 結城市
この七五三は人のお名前(苗字)にも使われており、知っておられる方も多いかもしれません。
「しちごさん」ではなく「しめ」と読みます。
しめ縄(注連縄)の「しめ」です。
昔、しめ縄には三本、五本、七本というように紐をぶらさげたため、しめ縄のことを「七五三縄」とも書いていました。
この地が何故この名前になったのでしょう。
「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、鎌倉時代ころに毛呂(もろ)郷の南域に「志目波(しめは)郷」という郷名があったという。
また、戦国末期の秀吉が山川晴重に与えた知行目録には「志めは」と見えるとあります。
このため七五三場村(しめばむら)という名前は江戸時代初め頃から使われだしたようです。
「志目波」が「七五三場」に変わったいきさつが書かれたものは見つかりませんが、縁起の良い名前にしようとして変えたものと推察されます。
この地名が直接神社に結び付く記録は見つかりません。
茨城の難読地名(その9)-大角豆
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大角豆 【ささぎ】 つくば市
車で国道125号(354号)線を走っていると「桜土浦IC」の近くに「大角豆」という比較的大きな交差点がある。
茨城に来て頃に、最初に何て読むんだろうと気になった場所の一つだ。
「ささぎ」と読むのですが、これは赤飯に使う「小豆(あずき)」に似た「ささげ」のことだ。
漢字で書くと「大角豆」となる。
私など赤飯もほとんど小豆だと思っていたので、ササゲそのものを知らなかった。
見た目の区別もあまりできない。
茨城地方は赤飯には「ササゲ」を使うようだ。
これは地方によっても違うという。ササゲをほとんど使わない地方もあるそうだ。
区別は小豆に比べて豆が少し黒っぽく、芽のところが小豆は白いのに対して、ササゲは白い周りに黒い縁取りがある。
あまり煮崩れしないので祝い事の赤飯には多く使われる。
「ササゲ」を「ささぎ」となったのは、方言的な要素だといっても良いだろう。今でも各地で両方使われているようだ。
でもなぜこの場所が「大角豆=ささぎ=ささげ」なのだろうか?
角川日本地名大辞典(茨城)によると、初めのころは「大角豆房村」と言っていたが、寛文年間~元禄年間に「大角豆村」に改称されたという。寛文年間の時は麻生藩で、元禄年間からは常陸府中藩(石岡)の領地であったという。
したがって、この大角豆は大角豆房が最初に名前についていたというので、小豆のようなイメージの「ささげ」ではなく、「いんげん」と同じような(房)形をした「ささげ」のことだったようです。
では「ささげ=大角豆」はいつごろから日本にあるのでしょうか?
Wikipediaによれば、平安時代に「大角豆」という記述が残されており、江戸時代の『農業全書』には「豇豆」という名前で書かれているという。
また、アズキは煮ると皮が破れやすい(腹が切れる=切腹に通じる)のに対し、ササゲは煮ても皮が破れないことから、江戸の武士の間では赤飯にアズキの代わりに使われるようになった。という。
では、戦国時代または江戸初期に、この地方で、いち早く、この大角豆(ささげ)が栽培され始めたのかもしれない。
また、大角豆の房のように土地がデコボコしていたからではないかという説もあるという。
安福寺と松尾神社(白鳥山・札)
このブログも先日から「茨城の難読地名」シリーズとして書き始めてしまいましたので、通常記事がおろそかになりそうです。
今日は久しぶりに歯医者に行って治療してもらいました。
いい加減にしていたので何箇所も直す所があってしばらく通うことになりそうです。
それにしても暑いですね。梅雨明けが早すぎます。
あまり暑いと何もやる気がなくなりますので困ります。
さて、先日、霞ヶ浦北浦の鉾田市(旧太陽村)札にある普門寺(白鳥山)の観音堂を訪れた記事を書きました。(こちら)
今回はその続きです。
この普門寺は札地区の少し高台にあり、ここには中世の城があったという。今は立派な観音堂が建っていたが、このすぐ下の所にお寺の小さなお堂の屋根が見えた。
地図には「安福寺」となっている。
この普門寺とは道もつながっているようだが、山道を下るのは少し不安であったので、通りに出て回っていった。
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写真の右手にあるのが安福寺(天台宗)で、お堂とお墓があるのみ。
まっすぐ山に登っていく道が確認できるが、これは恐らく普門寺へつながっていると思われる。
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このお寺は天台宗の寺だという。
情報では薬師観音を祀っているらしい。
ということは「、「南無薬師瑠璃光如来」と言うらしい。
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お堂の中をのぞくと正面に黒い厨子がおかれていて、この中に薬師様が祀られているのか?
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その厨子の右側に少し変わった形の仏像が安置されていました。
おくには神将像や何かの眷属(けんぞく)の像のような・・・ それにしても右端の2つの大きな顔の像は少し不気味だ。
どういう意味の像なのだろうか。
お堂の外には六地蔵の石造などが置かれていた。
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お堂の横から山の方に入っていく道があり、この上は普門寺があるからそこに出るのだろうが、すぐ左に曲がって山を登っていく道がもう1本ある。
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この道は古くからの参道の道で、脇の木の根がむき出しになり、踏み締められた道は下にかなり沈んでしまったようだ。
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両側に木々が繁っているのでこの道は2~3度気温が低いように感じる。
通りの暑い日差しの中を来たのでひんやりして気持ちがよい。
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竹林の中を登って行くと神社の鳥居があり、その先に階段を上った所に神社があった。
神社の名前は「松尾神社」となっていた。
この辺りではあまり聞かない神社の名前だが、京都の松尾神社の末社か?
であれば「大山咋神(おおやまくいのかみ)」を祀っているのか。
大山に杭を打つ神様で、この山の所有者(神様)という。
酒造の神様でもあるという。
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境内の一角にはこのような小さな像が一杯。
大黒様や恵比寿様などが多そうだ。
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この札村もなかなか侮れない場所のようです。
今日は久しぶりに歯医者に行って治療してもらいました。
いい加減にしていたので何箇所も直す所があってしばらく通うことになりそうです。
それにしても暑いですね。梅雨明けが早すぎます。
あまり暑いと何もやる気がなくなりますので困ります。
さて、先日、霞ヶ浦北浦の鉾田市(旧太陽村)札にある普門寺(白鳥山)の観音堂を訪れた記事を書きました。(こちら)
今回はその続きです。
この普門寺は札地区の少し高台にあり、ここには中世の城があったという。今は立派な観音堂が建っていたが、このすぐ下の所にお寺の小さなお堂の屋根が見えた。
地図には「安福寺」となっている。
この普門寺とは道もつながっているようだが、山道を下るのは少し不安であったので、通りに出て回っていった。
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写真の右手にあるのが安福寺(天台宗)で、お堂とお墓があるのみ。
まっすぐ山に登っていく道が確認できるが、これは恐らく普門寺へつながっていると思われる。
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このお寺は天台宗の寺だという。
情報では薬師観音を祀っているらしい。
ということは「、「南無薬師瑠璃光如来」と言うらしい。
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お堂の中をのぞくと正面に黒い厨子がおかれていて、この中に薬師様が祀られているのか?
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その厨子の右側に少し変わった形の仏像が安置されていました。
おくには神将像や何かの眷属(けんぞく)の像のような・・・ それにしても右端の2つの大きな顔の像は少し不気味だ。
どういう意味の像なのだろうか。
お堂の外には六地蔵の石造などが置かれていた。
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お堂の横から山の方に入っていく道があり、この上は普門寺があるからそこに出るのだろうが、すぐ左に曲がって山を登っていく道がもう1本ある。
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この道は古くからの参道の道で、脇の木の根がむき出しになり、踏み締められた道は下にかなり沈んでしまったようだ。
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両側に木々が繁っているのでこの道は2~3度気温が低いように感じる。
通りの暑い日差しの中を来たのでひんやりして気持ちがよい。
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竹林の中を登って行くと神社の鳥居があり、その先に階段を上った所に神社があった。
神社の名前は「松尾神社」となっていた。
この辺りではあまり聞かない神社の名前だが、京都の松尾神社の末社か?
であれば「大山咋神(おおやまくいのかみ)」を祀っているのか。
大山に杭を打つ神様で、この山の所有者(神様)という。
酒造の神様でもあるという。
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境内の一角にはこのような小さな像が一杯。
大黒様や恵比寿様などが多そうだ。
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この札村もなかなか侮れない場所のようです。
茨城の難読地名(その10)-赤法花
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赤法花 【あかぼっけ】 守谷市
守谷市は平将門(10世紀前半)がここに城を築いたという伝説が語られていて、それにまつわる伝説がとても多い土地です。
この将門の城といわれる場所は、守谷駅のすぐ東側の「ひがし野」地区にある通称「平台山」と呼ばれる丘の上です。
ここに中世の土塁や堀の跡が残されており、「本守谷城址」または「守谷館跡」などと呼ばれています。
この「赤法花(あかぼっけ)」という場所は、この城跡から少し東の小貝川に沿った地域につけられた地名で、守谷市のホームページなどでは将門伝説の一つとしてこの名前の由来が書かれています。
それによると、「平将門が城内からあたりを見渡したところ、沼の向こう側にある壁が、唐土(もろこし:中国)の赤壁に似ていることから、「あかぼっけ」と呼ばれるようになった」とされています。
しかし、平将門がこの守谷(森屋)城を築いたという確証はなく、実際には将門の子孫を名乗る「相馬氏」の城であったと考えられています。
歴史を紐解いていくと、平安時代後期に実質的な千葉氏の祖といわれる「千葉常重」が上総氏(平常晴)からの相馬郡を譲られ、千葉氏を名乗りました。
そして、北相馬郡のあたりの土地一帯を伊勢神宮の領地として寄進し、「相馬御厨(そうまみくりや)」と呼ばれていた荘園(しょうえん)があったようです。
ただ、この後も源平の対立などもあり、この荘園の所領についてももめたようです。
その後、鎌倉時代になり、源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の次男・千葉師常(もろつね)が相馬氏を名乗りこの地を領しました。そして、この守谷城を築いたと言われています。
この相馬氏は、自らを平将門の子孫であると述べており、この城も後世に「将門の城」といわれたことから、「相馬内裏」または「相馬偽宮」と大いに喧伝されましたようです。
「角川日本地名大辞典」でもこの伝承を載せているだけで、地名のその他の由来は書かれていません。
では、将門伝説ではない地名の由来を見ていきましょう。
「赤法花」と今は漢字で書きますが、昭和21年の当用漢字が定められる前は「赤法華」と書かれていました。
この「あかぼっけ」と呼ばれる地名は結構各地に存在します。
・福島県桧枝岐村 赤法華 【あかぼっけ】、赤法華沢【あかぼっけざわ】 (燧ケ岳、桧枝岐川=実川の谷間)
・栃木県下都賀郡壬生(みぶ)町 赤仏 【あかぼっけ】(姿川の最上流部にある窪地)
・茨城県守谷市 赤法花 【あかぼっけ】(小貝川の右岸段丘)(今回の地名対象)
・茨城県筑西市 赤法花 【あかぼっけ】(小貝川の左岸大沖積地)
・茨城県猿島郡五霞町小手指(こてさし) 赤法花 【あかぼっけ】(利根川の右岸大沖積地)
などです。茨城県にも結構ありますね。
一般にはこれらの地名の由来は古アイヌ語(縄文語)ではないかと言われています。
「ボッケ」「ホッケ」「ポッケ」「ハケ」などが、pokであり、崖とか崖下を意味するとするいわれており、「アカ」については、「aka」で、魚の背の線を指す言葉で、地形に使われる時は「山の尾根(稜線)」を指すとされています。
「日本語になった縄文語」(鈴木健著)によると、この「アカ」とつく地名は南は沖縄から北は北海道までたくさんあるとされ、沖縄の久米島に「阿嘉:アカ」、慶良間(けらま)島にも「阿嘉:アカ」があり、土地の形状からしても「断崖」を意味すると考えられ、アイヌ語でも【aka地形では尾根(山稜)を指す。北千島にもある語で崖または岬を指す。】とあり、絶壁の下に住む集落民からの発想で、a われわれの ka 上方 というのが語源であろう となっています。
また赤薙山(あかなぎさん:栃木県)、赤城山(あかぎさん:群馬県)、赤倉山(栃木県)などの「赤:アカ」も崖地などを指している言葉ではないかとしています。
ただ、今の地形から考えても崖地というには少し異なる場所も散見されるため、もっと別の意味があるのかもしれません。
waka (わっか:水)から w が抜けて aka アカとなったことも考えられ、水に関した地名の可能性もあるようです。
その他
・宮城県栗原市 石法花 【いしぼっけ】
・栃木県下都賀郡岩舟町 法花 【ほっけ】
・愛知県岡崎市 法花 【ほっけ】
などという地名もあります。
なお、茨城県の石岡市鯨岡の小字名に「赤法ケ」という地名があります。地元の地名由来によると赤は土の色の赤茶色をした痩せた地土を意味し、「ボック・ホック」は茨城方言で、畑地の間に掘り下げた小さな水田をいう。と書かれています。
もうすでにこのブログでも採りあげていますが、水戸の「木葉下=アボッケ」地名などもこのアカボッケと発音は似ていますね。
関連もあるようですが、詳細はわかりません。
茨城の難読地名(その11)-安食
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安食 【あじき】 つくば市、下妻市
安食 【あんじき】 かすみがうら市
安食(あじき)は小貝川流域の東側がつくば市で、西側が下妻市である。
現在の住所表記では下妻市の大字名は消えている。
この安食地名は全国にあり、アジキ、またはアンジキと読む。
他の地域の例としては
<アジキ>
1、安食 (アジキ) - 千葉県印旛郡栄町 (他に安食台、安食卜杭新田 、安食卜杭(隣の印西市))
2、安食 (アジキ) - 岐阜県岐阜市(他に安食志良古 (アジキシラコ))
<アンジキ>
3、安食西、安食南(アンジキニシ、アンジキミナミ) - 滋賀県犬上郡豊郷町
4、安食中町(アンジキナカマチ) - 滋賀県彦根市
名前の由来についてはさまざまで、確定したものはありませんが、
1)、飢餓があった時でも安心して食べられる場所という説
2)、アジ(崖)、キ(処)という意味で、アイヌ語由来の崖地の意味とする説
3)、安食地名の中の滋賀県犬上郡豊郷町にある「 阿自岐神社(あじきじんじゃ)」がその名前の元になっているとする説
特にこの3)の説は、この豊郷町にある「阿自岐神社(あじきじんじゃ)」はかなり古い神社で、1500年前の名園が残されているといわれています。神社に祀られているのは古事記などに登場する「阿遅鉏高彦根命(アジスキタカヒコネノミコト)」です。阿治志貴高日子根、味耜高彦根などとも書きます。
この神様は、大国主神と宗像三女神のタキリビメの間の子供とされ、日本の神の中では素性の良くわからない謎の多い神とされています。詳細はここでは省きますが、この神社の説明によれば、
この場所は、応神天皇の頃(5世紀頃か?)百済から渡来人であるアジキ氏が住んだところとされ、そのアジキ氏が祖先を祀るために阿自岐(あじき)神社が建立されたといわれています。池泉多島式と呼ばれる古式庭園の中に社殿はが鎮座しています。
この庭園は周辺の田畑を灌漑する用水池を原型とし、これを荘厳したしたものと考えられていますが、別な言い伝えでは、日本に漢字を伝えた王仁(わに)氏を招いて庭園を造ったとも言われています。
王仁(わに)氏は日本書紀や古事記に登場する百済から日本にやってきた渡来人で、日本に『論語』『千字文』(儒教と漢字)を日本に伝えたとされる人物です。
地名としての「安食(アジキ)」はこの「阿自岐(アジキ)氏」が由来というわけですが、何しろ5世紀頃の話ですので、明確にはわからないといったところでしょう。
しかし、この滋賀県豊郷町は「近江商人(おうみしょうにん)」発祥の地とも言われる街です。
この近江商人が「三方よし(売り手によし、買い手によし、世間によし)」を商売の心得として説き、各地を行商して歩き、商売の基本が広がりました。
このアジキ、アンジキ地名もその近江商人と関係があるのかもしれません。
また古事記などでは「アジ」=「可美しき(うましき)」と同意語として使われていますので、「アジキ」の「アジ」には美しいというような意味が込められていたのかもしれません。このため「アジキ=美しい処」などという意味があるのかもしれません。
かすみがうら市(旧出島村)の安食(あんじき)地名については、明治22年に安食村・柏崎村・岩坪村・下軽部村が合併して「安飾村」ができました。この「安飾」という名前がしばらく使われていたので、「安食」ではなく、いろいろな施設に「安飾」の名前が残されています。
地元の説明ではこの安飾を村の名前に使う時に、古代・中世の名前を復活させたとしていますので、大昔は「安飾=アンジキ」があって、それが「安食=アンジキ」に変わっていったのかもしれません。
茨城の難読地名(その12)-大歩
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大歩 【わご】 猿島郡境町
この「大歩」と書いて「わご」と読む地名は全国の地名を調べてみましたが、他には見つかりませんでした。
各、難読地名の紹介がなされているサイトなどでもほとんど意味不明なものばかりです。
産経ニュース「難読地名を行く-茨城編」の中で、境町歴史民俗資料館の初代館長、椎名仁氏の著書「境町の歴史散歩」の内容を紹介しています。 これによると
「アイヌ語の『湿地』を意味する地名だともいわれています」
とあり、 「わご」はアイヌ語で「湿地」を意味しており、土地柄から名付けられたのではないかという説が紹介されています。
また、その中に
「永禄10(1567)年の文書に『泉田郷の内宇和後』、元和6(1620)年の文書に『泉田の内うわこ村』とあります」。
とも書かれています。
この大歩(わご)地区の南に、現在も「西泉田」という大字があるため、この「内宇和後」(うちうわこ)が 「わご」 に変化したものではないかと書かれていました
でも「大歩」という漢字が当てられた理由はどこにもありません。
わけがわからない地名の多くが、「アイヌ語」「古アイヌ語」「縄文語」ではないかといわれ、それで何となく納得させられてしまうのですが、ここに書かれている話はどうにも理解ができません。
上に紹介されている内容からわかるのは、「わご」または「わこ」と呼ばれる地名が江戸時代の前からあり、昔は「和後」と漢字で書かれていたということです。
「わご」そのものに「湿地」という意味が、私にはアイヌ語で結びつかないのです。
湿地を意味する言葉として使われている「アイヌ語」として調べてみると、「トマム」「ニタツ」「サル」などがあります。
これらは北海道にこの語がもとになったという地名がたくさんあるようです。
では、この「大歩(わご)」のあたりを地図で見てみましょう。
この場所は「関宿(せきやど)」という、江戸時代の水運の一大基地であった場所の少し東側です。
この地で利根川は荒川と分かれるのです。
でもこれは徳川家康から3代に亘っての大工事であった「利根川東遷」事業によるものです。
この事業の前の地形はどのようになっていたのでしょうか?
家康は東京湾に注いでいた利根川を、このあたりで銚子の方に流れていた常陸川につなぎ変えるために「赤堀川(あかほりがわ)」を掘削して利根川の一部にしました。
確かに昔の地形を想像すると「湿地」であったのかもしれません。
でも「輪(わ)河(ご)」、「和(わ)河(ご)」として、河(川)の曲がっている場所、または河が合流している場所などにつけられたのではなかと思われます。
全国の郵便番号簿で「わご」「わこ」などの付く地名を探してみると、たくさん「和合」「和郷」(わごう)という地名が見つかりました。
・秋田県大仙市 和合
・山形県山形市、朝日町 和合
・新潟県新潟市 和合
・富山県上市町 和合
・長野県阿南町 和合
・岐阜県大垣市、瑞浪市、 和合 、各務原市 蘇原和合町
・静岡県浜松市 和合
・愛知県東郷町 和合
その他、「和郷(わごう)」という地名も広島県と長崎県にありました。
この「和合」という地名もおそらく 河の曲がっているところや、川が合流したりする場所に多くつけられていた名前のようです。
しかし、「和合」という漢字の持つ魅力で、いつの間にかこの字が充てられたものが多いように思われます。
ところで埼玉県の和光市の名前は、市になる前は「大和町」でしたが、神奈川県にすでに「大和市」があったために、公募でつけられた名前です。
しかし、このあたりは新羅の人たちが開墾した土地で「新座」「志木」などは「新羅」(しらぎ)が関係している地名のようです。
さて、では「大歩」という漢字が何故この地に充てられたのでしょうか。
前に述べたように、豊臣秀吉の「安土桃山時代」から家康の「江戸時代」頃には「内宇和後」「内うわこ村」などと記載されていたといいます。
これについては何も資料がないので、大胆な推測をしてみました。
豊臣秀吉が行った太閤検地で全国の田畑の測量がなされました。
この時に、田んぼの大きさによく使われる面積である「1反(たん)」が、それまで360歩(ぶ)であったのを300歩(部)に変更したのです。
今でいえば1歩は約1坪です。畳でいえば2畳ですね。ですから1反は300坪 (約1000 m2 )です。
しかし、これ以外に1反の2/3、1/2、1/3という単位が存在していました。
これを「大歩」「半歩」「小歩」と書き、特に関東では良く使われていたようです。
これによれば「大歩」は約200坪の面積となります。
太閤検地後のこのあたりの田んぼが「大歩」すなわち、約200坪単位で区切られていたなどということはなかったのでしょうか?
これは私の単なる想像にしかすぎませんが、地名を考える時に一つの参考にはなるかもしれませんね。
ところでこの堺町は「猿島郡」にあるのですが、この地も他所の地域の人は読めないようです。
「猿島=さしま」と読みます。
「猿島茶=さしまちゃ」としての茶どころとして有名ですので知っておられる方も多いかもしれません。
でもこの「猿島郡」は常陸国ではなく、下総国です。
利根川上流域は昔は下総国が多いのです。神社も鹿島神社は少なく、香取神社がたくさんあります。
<関連地名>
猿島郡五霞町幸主 【こうしゅ】
猿島郡五霞町小手指 【こてさし】
猿島郡境町内門 【うちかど】
猿島郡境町下砂井 【しもいさごい】
猿島郡境町百戸 【もど】
茨城の難読地名(その13)-圷
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圷 【あくつ】 城里町(上圷、下圷)、水戸市(圷大野)
この「圷(あくつ)」という字は茨城以外ではあまり読めないでしょう。
しかし茨城県には「圷:あくつ」というお名前の方が多いため、一般に読める方もたくさんいます。
「圷」の意味は漢字が示す通り「下の土」です。 これもその言葉を表すために作られた造語が元なのではないかと思います。
この反対語は「塙(はなわ)」です。
でもなぜ、この漢字が茨城県に多いのでしょうか。
柳田國男が昭和10年に「地名の研究」という本を書いていますが、この中に「アクツ、アクト」という名前の地名を探して研究しています。
その中で、下総に「阿久津(アクツ)村」地う地名を取り上げて、こも阿久津は水運の発達していたときに重要な船着き場であったがこらは違うだろうという。一般に漢字の「津」というのは湊(みなと)を意味することが多いのだが、「アクツ」という言葉そのものが「低地」(特に川の近くの少しジメジメした場所)を指していると述べています。
この中に常陸国志第三、那珂郡常石郷(トキハ)の條に「阿久津は常陸の俗にいう低き地をさして呼ぶ名にて、多くは川に添ひたる所なり、或は圷の字を用ふ。今も常盤村の内にて那珂川に添ひたる地をなべて阿久津と称す。」
また、アクツと同意語として「アクト」「アクド」などをあげていて、「阿久戸」「悪戸」「悪土」「悪田」「悪田原」安久田」などの地名を列挙しています。
城里町にある「圷」「上圷」「下圷」と呼ばれる場所ですが、石岡の方から北へ真っ直ぐ続く「石塚街道」の石塚地区から先は急激ながげとなって下っていて、その下にある地区の名前です。の場所も那珂川に添った場所です。
城里町の前は「桂村」でした。
また水戸市の「圷大野」ですが、ここは那珂川の河口の方に近く水戸駅の東側です。
<参考地名>
福島県郡山市阿久津町
栃木県さくら市上阿久津
栃木県塩谷郡高根沢町上阿久津
栃木県塩谷郡高根沢町中阿久津
群馬県高崎市阿久津町
群馬県太田市阿久津町
群馬県渋川市阿久津
秋田県横手市大雄阿久戸(あくど)
青森県弘前市悪戸(あくど)
秋田県能代市悪戸(あくど)
秋田県能代市鵜鳥悪戸(あくど)
秋田県能代市下悪戸(あくど)
秋田県能代市中悪戸(あくど)
秋田県大仙市南外悪戸野(あくとの)
秋田県能代市上悪土(あくど)
山形県東置賜郡高畠町安久津(あくつ)
岐阜県郡上市八幡町安久田(あくだ)
静岡県磐田市安久路(あくろ)
茨城の難読地名に思うこと
茨城の難読地名シリーズとしてブログを書いているが、対象となる地名が100以上あるのでどこまでまとめられるかわからない。はじめてから後悔する有様で情けないやら・・・・
ところで、私の名前「進」という単純な名前。進なんて当時流行っていたような名前だったように思う。まあ親としては確り考えてもらってつけていただいたに違いない。両親共に他界してしまっているが感謝である。
だが、この名前で社会人と成ってから今まで笑われたことが2度ある。
1度目は会社に入って数年後の40年近く前のこと。関西方面のお客さんの所に打ち合わせに行ったときに名刺を出した時に、相手はすぐに笑顔に成られた、あ、あの方と同じお名前ですね」と。
東京ではあまり吉本のお笑いはテレビ放映もしていなかったが、関西はこの名前は超有名だった。でもお笑いではあったが、悪く言う人はおらず、みな褒めていた。23歳の若さで吉本新喜劇の座長となった喜劇役者だった。とうとう今にいたるまでこちらの地域では放送されず、直接お笑いを聞いたことがない。
もう一つは、インドネシアでのこと。海外出張でジャガルタのホテルに宿泊したときのこと。宿泊者名簿に名前を記入し、部屋にはいった。すると夜中に見知らぬ男から部屋に電話がかかってきた。「susumu susumu・・・」と連呼された。そしてなんとなく笑い声も・・・・・
夜中だし、仕事の準備もあり電話は適当に切ったが、後からこの名前がいけないのだということが分かった。
susu=おっぱい、mu=あなた で「susumu=あなたのおっぱい」だという。
現地のことばを知らないと、自分の名前を連呼してしまうかも知れず、これはまた困ったことである。この時ばかりは自分の名前が違うほうがよいと思ったものだ。
でもこのsusu(スス)という発音は口をつぼめるので赤ん坊が最初に乳を吸う口元に似ている。
赤ん坊が最初に発することばはできるだけ簡単なことばになるだろう。「アバ」「アッパ」などこれらのことばは数千年も前の日本に住んでいた縄文人の言葉を理解するにも役に立つと思う。
英語のwater(水)もアイヌ語のwaka(水)もどこか似た発音だと思う。
ところで、私の名前「進」という単純な名前。進なんて当時流行っていたような名前だったように思う。まあ親としては確り考えてもらってつけていただいたに違いない。両親共に他界してしまっているが感謝である。
だが、この名前で社会人と成ってから今まで笑われたことが2度ある。
1度目は会社に入って数年後の40年近く前のこと。関西方面のお客さんの所に打ち合わせに行ったときに名刺を出した時に、相手はすぐに笑顔に成られた、あ、あの方と同じお名前ですね」と。
東京ではあまり吉本のお笑いはテレビ放映もしていなかったが、関西はこの名前は超有名だった。でもお笑いではあったが、悪く言う人はおらず、みな褒めていた。23歳の若さで吉本新喜劇の座長となった喜劇役者だった。とうとう今にいたるまでこちらの地域では放送されず、直接お笑いを聞いたことがない。
もう一つは、インドネシアでのこと。海外出張でジャガルタのホテルに宿泊したときのこと。宿泊者名簿に名前を記入し、部屋にはいった。すると夜中に見知らぬ男から部屋に電話がかかってきた。「susumu susumu・・・」と連呼された。そしてなんとなく笑い声も・・・・・
夜中だし、仕事の準備もあり電話は適当に切ったが、後からこの名前がいけないのだということが分かった。
susu=おっぱい、mu=あなた で「susumu=あなたのおっぱい」だという。
現地のことばを知らないと、自分の名前を連呼してしまうかも知れず、これはまた困ったことである。この時ばかりは自分の名前が違うほうがよいと思ったものだ。
でもこのsusu(スス)という発音は口をつぼめるので赤ん坊が最初に乳を吸う口元に似ている。
赤ん坊が最初に発することばはできるだけ簡単なことばになるだろう。「アバ」「アッパ」などこれらのことばは数千年も前の日本に住んでいた縄文人の言葉を理解するにも役に立つと思う。
英語のwater(水)もアイヌ語のwaka(水)もどこか似た発音だと思う。