稲敷散歩(22)-飯名の社その1
この稲敷散歩も美浦村などを調べていく中で信太(しだ)郡と呼ばれていたところがどのようなところか知りたいと思い立ったことにあります。
今から1300年程前に、東北及びそれより北はまだ蝦夷地で大和朝廷の支配が及んでいなかった時、大和朝廷の一番北に位置したのがここ常陸国(今の茨城県)です。
そして、常陸国への入口が、この信太郡と言えます。
東北地方は陸奥(みちのく=道奥)と呼ばれていますので都から続く道も、その頃はこの常陸国(国府:石岡)まで続いていたのでしょう。
常陸(ひたち)という名前もなんでそのような名前になったのかが、なんとなくわかる気がします。
一般的な解釈では「常道」(ひたみち)=平に続く道 から来ているというのがある程度説得力を持って説明されています。その他にもヤマトタケルが袂を水に濡らして(浸して)しまったとかなんとかいろいろに言われますが、この信太郡を見ていると少しちがった解釈も出来そうに思います。
この常陸が大和朝廷の中に組み込まれ、律令制が施行された初期のころこの常陸国の手前には「流海」とか「香取の海」と名呼ばれた大きな内海が広がっていました。
また、日高見国(ひたかみのくに)というと東北地方にあったとの解釈がずうっと行われてきましたが、1300年程前はこの信太郡の地をそう呼んでいたと解釈できる記述が多く残っています。
「日高」と名前がつく地名が日本各地に存在し(道成寺のある和歌山県日高郡など)、大和朝廷の北進(東進)に従って、その名前が北や東に移って行ったようです。
日高見国が常陸(日の昇る地)となったというのもしっくりとすると思います。
成田空港などに行く時にこの近くも何度も通っているのですが、旧江戸崎町市街地へは足を運んだことがなくイメージがわかなかったのでまず江戸崎の探索から始めました。
中世以降の江戸崎の街についてはかなりイメージがわいてきたのですが、奈良、平安時代やそれ以前のイメージが伝わってきません。
それまで美浦村付近を大分探索をしていたので、そこで少し範囲を広げて、まずは昔常陸風土記に安婆島(あばじま)と言われていたという阿波(あば)や浮島、古渡(ふっと)などを見てきました。
稲敷市は2005年に江戸崎町・新利根町・東町・桜川村が平成の大合併でできた市です。
何故稲敷の名前を使ったのでしょうか? 当然昔はこの辺りはすべて稲敷郡という郡名がついていました。
稲敷市の一般的なホームページでは「稲穂が輝く、実り多い豊かな土地」ということが書かれているものが多いようです。
しかし、この稲敷郡というのは昔から使われていた名前で、牛久市、竜ヶ崎市、阿見町、美浦村、河内町などがこの地域に入っていました。
また、8世紀初めに書かれた常陸国風土記の逸文によれば白雉4年(653年)、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太郡を置かれたとされているようです。
しかし、正式に残されている風土記の信太郡の記述によると
「その里より西にある飯名(いひな)の社は、筑波の山の飯名の神を分祀したものである。
榎(え)の浦の津は、東海道常陸路の入り口で、駅家(うまや)が置かれてゐる。伝駅使(はゆまづかひ)らは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って香島の大神を遥拝し、そののちに国に入ることができる。」(口訳・常陸国風土記より抜粋)
となっています。
(榎の浦の津=江戸崎付近の小野川あたり?、香島の大神=鹿島神宮の神=武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ))
飯名の社というのは現在筑波山の麓にある古い神社「飯名神社」のことのようですが、「飯名(いいな)」の名前そのものが筑波山(神)を指しているように思います。
そして、『新編常陸国誌』(江戸時代後期~)には、「八代村(龍ヶ崎市)に稲塚(稲塚古墳)といふ丘あり」と書かれていると言います。
どうもこの信太郡の飯名はこの竜ヶ崎市の稲塚あたりにあった社で、筑波山の麓に残る「飯名神社」から分祀したようです。
現在は残っていないようなので確認ができませんが、飯名の神の敷地が稲敷となったのかもしれません。
稲作は現在では縄文時代から行われていたというのがどうやら定説になりそうなので、この辺りに南洋の島から伝わってきたのではないかなどと考えるのもロマンが広がります。
でもイネなどという言葉については「イナ」「伊奈」「イナバウアー(これは違うけど荒川静香さんよかったな~)」なんて言葉の連想するのも楽しそうです。
それではということで、早速、筑波山の「飯名神社」へ行ってみました。
北条市街から筑波神社に向かう「つくば道」(古道)(139号)を進み、神郡を過ぎ、六所神社跡方面へのわかれ道を過ぎて、山に登り始めたところに山を巻くような「関東ふれあいの道」がある。
この道を西側にしばらく行くと「飯名神社」入口というバス停がある。
このバス停から少し山の方に登ったところに神社はあります。
神社の紹介はまた明日書きます。
このバス停というのが「つくタク」となっていたので気になって写真に残してきました。
「つくタク」=「つくば乗り合いタクシー」だと言います。
都会に住んでおられる方はこんなものは知らないでしょうから、少し紹介します。
バスを運行するには乗客の人数が少ないので段々運行する本数が少なくなってしまったところで生まれたアイデアですね。
電話で予約できます。1週間前から30分前まで予約できるようです。
← よろしければクリックお願いします。
今から1300年程前に、東北及びそれより北はまだ蝦夷地で大和朝廷の支配が及んでいなかった時、大和朝廷の一番北に位置したのがここ常陸国(今の茨城県)です。
そして、常陸国への入口が、この信太郡と言えます。
東北地方は陸奥(みちのく=道奥)と呼ばれていますので都から続く道も、その頃はこの常陸国(国府:石岡)まで続いていたのでしょう。
常陸(ひたち)という名前もなんでそのような名前になったのかが、なんとなくわかる気がします。
一般的な解釈では「常道」(ひたみち)=平に続く道 から来ているというのがある程度説得力を持って説明されています。その他にもヤマトタケルが袂を水に濡らして(浸して)しまったとかなんとかいろいろに言われますが、この信太郡を見ていると少しちがった解釈も出来そうに思います。
この常陸が大和朝廷の中に組み込まれ、律令制が施行された初期のころこの常陸国の手前には「流海」とか「香取の海」と名呼ばれた大きな内海が広がっていました。
また、日高見国(ひたかみのくに)というと東北地方にあったとの解釈がずうっと行われてきましたが、1300年程前はこの信太郡の地をそう呼んでいたと解釈できる記述が多く残っています。
「日高」と名前がつく地名が日本各地に存在し(道成寺のある和歌山県日高郡など)、大和朝廷の北進(東進)に従って、その名前が北や東に移って行ったようです。
日高見国が常陸(日の昇る地)となったというのもしっくりとすると思います。
成田空港などに行く時にこの近くも何度も通っているのですが、旧江戸崎町市街地へは足を運んだことがなくイメージがわかなかったのでまず江戸崎の探索から始めました。
中世以降の江戸崎の街についてはかなりイメージがわいてきたのですが、奈良、平安時代やそれ以前のイメージが伝わってきません。
それまで美浦村付近を大分探索をしていたので、そこで少し範囲を広げて、まずは昔常陸風土記に安婆島(あばじま)と言われていたという阿波(あば)や浮島、古渡(ふっと)などを見てきました。
稲敷市は2005年に江戸崎町・新利根町・東町・桜川村が平成の大合併でできた市です。
何故稲敷の名前を使ったのでしょうか? 当然昔はこの辺りはすべて稲敷郡という郡名がついていました。
稲敷市の一般的なホームページでは「稲穂が輝く、実り多い豊かな土地」ということが書かれているものが多いようです。
しかし、この稲敷郡というのは昔から使われていた名前で、牛久市、竜ヶ崎市、阿見町、美浦村、河内町などがこの地域に入っていました。
また、8世紀初めに書かれた常陸国風土記の逸文によれば白雉4年(653年)、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太郡を置かれたとされているようです。
しかし、正式に残されている風土記の信太郡の記述によると
「その里より西にある飯名(いひな)の社は、筑波の山の飯名の神を分祀したものである。
榎(え)の浦の津は、東海道常陸路の入り口で、駅家(うまや)が置かれてゐる。伝駅使(はゆまづかひ)らは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って香島の大神を遥拝し、そののちに国に入ることができる。」(口訳・常陸国風土記より抜粋)
となっています。
(榎の浦の津=江戸崎付近の小野川あたり?、香島の大神=鹿島神宮の神=武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ))
飯名の社というのは現在筑波山の麓にある古い神社「飯名神社」のことのようですが、「飯名(いいな)」の名前そのものが筑波山(神)を指しているように思います。
そして、『新編常陸国誌』(江戸時代後期~)には、「八代村(龍ヶ崎市)に稲塚(稲塚古墳)といふ丘あり」と書かれていると言います。
どうもこの信太郡の飯名はこの竜ヶ崎市の稲塚あたりにあった社で、筑波山の麓に残る「飯名神社」から分祀したようです。
現在は残っていないようなので確認ができませんが、飯名の神の敷地が稲敷となったのかもしれません。
稲作は現在では縄文時代から行われていたというのがどうやら定説になりそうなので、この辺りに南洋の島から伝わってきたのではないかなどと考えるのもロマンが広がります。
でもイネなどという言葉については「イナ」「伊奈」「イナバウアー(これは違うけど荒川静香さんよかったな~)」なんて言葉の連想するのも楽しそうです。
それではということで、早速、筑波山の「飯名神社」へ行ってみました。
北条市街から筑波神社に向かう「つくば道」(古道)(139号)を進み、神郡を過ぎ、六所神社跡方面へのわかれ道を過ぎて、山に登り始めたところに山を巻くような「関東ふれあいの道」がある。
この道を西側にしばらく行くと「飯名神社」入口というバス停がある。
このバス停から少し山の方に登ったところに神社はあります。
神社の紹介はまた明日書きます。
このバス停というのが「つくタク」となっていたので気になって写真に残してきました。
「つくタク」=「つくば乗り合いタクシー」だと言います。
都会に住んでおられる方はこんなものは知らないでしょうから、少し紹介します。
バスを運行するには乗客の人数が少ないので段々運行する本数が少なくなってしまったところで生まれたアイデアですね。
電話で予約できます。1週間前から30分前まで予約できるようです。
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