2012年07月16日 まほらにふく風に乗って
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稲敷散歩(18)-満願寺1

 旧江戸崎町中心に書いてきたが、この満願寺は少し離れている。不動院の末寺の有力寺院だったということで流れとしてここを紹介します。
場所は阿波崎(あばさき)という。阿波(アンバ)さんとして親しまれる天狗の神社大杉神社の少し先にある。

しかし、通りから霞ヶ浦の方にしばらく入ったところなのだが、何でこんな立派な寺が何もないような(失礼)この場所に立っているのだろうというのが最初の感想だ。

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「天台宗北須賀山嘉福院 満願寺」仁王門

「満願寺は天平12年(740年)4月8日 大僧正行基菩薩の開基にて、大同6年(811年)7月8日伝教大師天台宗に改め、文禄4年(1596年)2月江戸崎不動院末寺となる。
当寺は初め阿波崎字中妻にありしも天正18年(1590年)の戦火にて焼失し、元禄4年(1691年)不動院住職天海大僧正の法孫音海大僧都の中興によるも明治14年1月3日再度の火災に逢い本堂は焼失せしも境内の薬師堂、地蔵堂、仁王門等は其の尽なり、仁王門の金剛力士は元禄4年阿波村の仏師木村万之の作という。
星霜幾年 風雨の中にあり甚だしく老朽したる為、この度仁王門並びに金剛力士の修繕塗装を行なった。
昭和53年5月吉日」
(現地の看板より)

これによると、かなり古くからある寺のようだが、江戸崎城の土岐氏が滅ぼされて城が焼かれたときにこちらも焼けたとある。
この阿波崎にも阿波崎城と言うのがあったようなのでこちらも攻め滅ぼされたのだろう。
しかし、その後、昨日紹介した円密院の僧侶とともに不動院天海僧正を襲ったとする昔話はどの程度の信ぴょう性を持っているのか?

焼けた後、100年後に天海の後を継いだ僧正により中興されたとある。その間はどのような状況にあったのか?

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この金剛力士像は寺が中興された時(1691年)に地元も仏師により彫られたもののようです。
色を塗りなおしていたりするので昔の姿はどのようなものかはわからない。
貫禄としては少し見劣りする。

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仁王門をくぐると緑の中に赤い柱のお堂が見える。 なかなか素晴らしい眺めだ。

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堂は薬師堂のようだ。明日もう少しこちらは紹介します。

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「延命地蔵尊」 坐像三尺 室町時代

案内板によれば承久2年に北条政子が鹿島神宮にお参りに来てこの寺に寄った際、運慶に像を彫らせてここに安置したものだそうだ。(本当ならばかなりの価値があるのだが・・・)

家康はこの寺に源氏に所縁があるということで20石の御朱印を授けたそうだ。
この堂宇の中に地蔵尊があるのだろうと思うが中はみえなかった。

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明日に続きます。



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稲敷散歩(江戸崎周辺) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/07/16 19:12
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