古東海道の終点
私がここ石岡の歴史に興味を持ったのは「古東海道の終点」がこの石岡の地にあったことでした。
しかし、茨城郡の郡衙が貝地の南側にある茨城廃寺あたりではないかということと、常陸国の国府が石岡小学校のところにあったことは知られていますが、律令制が始まって16km置きに設置されたという駅家(うまや)がどこにあったのか長い間知りませんでした。
駅鈴に使われていた鈴を奉納したのが始まりという鈴の宮神社(天狗党の決起したところとしても知られています)などは分かるのですが・・・・。
それが、昨年の茨石の広報紙「ワクワク通信」の8月号の記事に載っていました。(こちらです)
場所は、風の会でも使っている国府にある教室のすぐ裏です。
この間もここで機関紙の印刷を手伝ったばかりです。灯台もと暗しですね。
狭い裏通りの脇にあるわずかな空き地に「月読神」と「庚申塔」の石碑が2つぽつんと置かれています。
前にも前を通ったのですが、なぜこんな碑がここにあるのだろうとぼんやりと眺めただけでした。
今は草が生い茂り、トンボがのんびりと飛んでいました。
すぐ横には6号国道が走ります。貝地の交差点の近くです。
この場所には高浜の方から道が続いていました。土浦の方からではありません。
そして霞ヶ浦(当時は内海)を船でわたり、対岸の出島を通ったり、または美浦村や江戸崎の方に道は続いていました。
この道を追いかけて、江戸崎の街や出島の散策をする気になったのです。
もっとも、この常陸府中(常府)その頃呼ばれていたのかもわかりません。
武蔵国(東京府中)は最初は東海道の国ではなく、東山道に属していましたが、いつか東海道に組み込まれて、道も霞ヶ浦の水上から徐々に陸路に切り替わっていったのでしょう。
さらに、ここが終点だったのもそのうちに北にも伸びて東山道(仙台まで続いていた)とも結ぶ連絡道や日立や十王の方を通る海寄りのルートもできていったようです。
こんなことを感じさせてくれる駅家(うまや)がこんな形で知られずにいるのは残念なことです。
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しかし、茨城郡の郡衙が貝地の南側にある茨城廃寺あたりではないかということと、常陸国の国府が石岡小学校のところにあったことは知られていますが、律令制が始まって16km置きに設置されたという駅家(うまや)がどこにあったのか長い間知りませんでした。
駅鈴に使われていた鈴を奉納したのが始まりという鈴の宮神社(天狗党の決起したところとしても知られています)などは分かるのですが・・・・。
それが、昨年の茨石の広報紙「ワクワク通信」の8月号の記事に載っていました。(こちらです)
場所は、風の会でも使っている国府にある教室のすぐ裏です。
この間もここで機関紙の印刷を手伝ったばかりです。灯台もと暗しですね。
狭い裏通りの脇にあるわずかな空き地に「月読神」と「庚申塔」の石碑が2つぽつんと置かれています。
前にも前を通ったのですが、なぜこんな碑がここにあるのだろうとぼんやりと眺めただけでした。
今は草が生い茂り、トンボがのんびりと飛んでいました。
すぐ横には6号国道が走ります。貝地の交差点の近くです。
この場所には高浜の方から道が続いていました。土浦の方からではありません。
そして霞ヶ浦(当時は内海)を船でわたり、対岸の出島を通ったり、または美浦村や江戸崎の方に道は続いていました。
この道を追いかけて、江戸崎の街や出島の散策をする気になったのです。
もっとも、この常陸府中(常府)その頃呼ばれていたのかもわかりません。
武蔵国(東京府中)は最初は東海道の国ではなく、東山道に属していましたが、いつか東海道に組み込まれて、道も霞ヶ浦の水上から徐々に陸路に切り替わっていったのでしょう。
さらに、ここが終点だったのもそのうちに北にも伸びて東山道(仙台まで続いていた)とも結ぶ連絡道や日立や十王の方を通る海寄りのルートもできていったようです。
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