稲敷散歩(8)ー(江戸崎)街中(2)
江戸崎の街中をもう少し歩いてみました。
古い建物が残っています。
「えどさき街並み遺産」として保存活動をされているようです。
霞ケ浦の水運で栄え、霞ヶ浦周辺の小麦と大豆を原料に醤油醸造業が栄えたそうです。
これは石岡、高浜、土浦なども同じです。
山口商店さん。野菜の種等が置いてあります。もとは何屋さんかはわかりませんが出桁造りですね。
場所は「切通し」となっています。
山口商店さんのとなりには「鰯屋薬局」さんです。土浦などにもある見世蔵作りというのでしょうか。
面白い文字の看板が掲げられたお店です。「江戸家猫八??」と思ったら・・・
「江戸文字職人梅八(うめはち)」さんでした。梅八さんは大学の落研の時に江戸文字を書いていていつの間にか独特の江戸文字の職人になってしまったようです。
昨日紹介した「笑遊館」の番頭さん役を週3日やっているそうです。
元は山口邸でしたが、今は「笑遊館」の施設の一部となっているのかもしれません。
このお店も石岡にも残る石蔵造りですね。
高尾米屋さんです。クリーニングの取次もされているようです。
「飯野屋旅館」さん。
「酒のいとう」さん。
さて、江戸崎は鉄道が通っていません。
しかし街の中心部に「江戸崎駅」があります。
JRバスで土浦と結ばれており、朝晩は2本/時、昼間は1本/時のバスが走っています。
駅と名前がつくのは鉄道ばかりではなく自動車駅といわれているもので、本来はここにキップを発売したりする職員や設備もあったようですが、今では無人で、クリーニング店?が併設されていました。
土浦まで美浦トレセン経由で50分だそうです。
佐倉方面もあったようですが、別なバス停も少し離れたところにもあるようですので詳しいことはわかりません。
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古い建物が残っています。
「えどさき街並み遺産」として保存活動をされているようです。
霞ケ浦の水運で栄え、霞ヶ浦周辺の小麦と大豆を原料に醤油醸造業が栄えたそうです。
これは石岡、高浜、土浦なども同じです。
山口商店さん。野菜の種等が置いてあります。もとは何屋さんかはわかりませんが出桁造りですね。
場所は「切通し」となっています。
山口商店さんのとなりには「鰯屋薬局」さんです。土浦などにもある見世蔵作りというのでしょうか。
面白い文字の看板が掲げられたお店です。「江戸家猫八??」と思ったら・・・
「江戸文字職人梅八(うめはち)」さんでした。梅八さんは大学の落研の時に江戸文字を書いていていつの間にか独特の江戸文字の職人になってしまったようです。
昨日紹介した「笑遊館」の番頭さん役を週3日やっているそうです。
元は山口邸でしたが、今は「笑遊館」の施設の一部となっているのかもしれません。
このお店も石岡にも残る石蔵造りですね。
高尾米屋さんです。クリーニングの取次もされているようです。
「飯野屋旅館」さん。
「酒のいとう」さん。
さて、江戸崎は鉄道が通っていません。
しかし街の中心部に「江戸崎駅」があります。
JRバスで土浦と結ばれており、朝晩は2本/時、昼間は1本/時のバスが走っています。
駅と名前がつくのは鉄道ばかりではなく自動車駅といわれているもので、本来はここにキップを発売したりする職員や設備もあったようですが、今では無人で、クリーニング店?が併設されていました。
土浦まで美浦トレセン経由で50分だそうです。
佐倉方面もあったようですが、別なバス停も少し離れたところにもあるようですので詳しいことはわかりません。
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稲敷散歩(9)-水辺の街(江戸崎)
江戸崎町(現稲敷市)は古代から中世、江戸、明治などにそれぞれ独特の文化が花開いた場所だと思う。
このように書くと、今の江戸崎を知っているだけの人はきっと不思議に思われるかもしれない。
私もつい最近までこの街をまともに見てこなかった。
古代縄文時代には霞ヶ浦(流海)による豊富な魚介類、製塩などで豊かな暮らしがあった。
律令制に入ると、そこには新たな人たちがやってきて支配した。
付近一帯は大きな入江のように静かな湖面(海面:昔は霞ヶ浦は海)が広がっていた。
古渡(ふっと)なんて珍しい地名にも首をフットフットと狩って付いたなどという話が残され、その本来の意味する縄文語(多分?)もちがった意味になっていった(個人的な想像です)。
この場所が下総国と常陸国の境をなす場所であって、物部氏の残した足跡などがそこらじゅうに散らばっている。
また平将門の孫が住み、相馬氏となったなどという話も伝わる。
戦国末期には芦名氏(佐竹氏の次男)が入り、天海僧正にまつわる話も多い。
霞ヶ浦水運により醤油産業が発達し、大豆問屋などで大きくなった問屋も多いようだ。
じっくり掘り起こせばいろいろなものがきっと出てくるに違いない。
この場所を知らない人も多いのだから、水辺の町の景色も紹介しましょう。
江戸崎市街地はすぐ小野川の分流川(正式には沼里川)に接しています。
右側の青い橋が「大正橋」で、その川の向こう側が旧市街地に当たります。
上の写真から見る角度をそのまま左に振ったところです。
写真に見える古めかしい建物は「稲敷市役所」です。
きっとこのあたりは大昔(1000年以上前)に「榎の浦」と呼ばれた場所なのでしょう。
もっともっと大きな水面が一面に広がっていたと思われます。
写真は「江戸崎総合運動公園」側から稲敷市役所側を見ています。
この運動公園内に江戸崎八景の一つ「高田の落雁」(高田の落雁芳洲を渡る)の碑があるとありましたが気が付きませんでした。この景色に近いのでしょう。
また、市役所の敷地内にも八景の碑「浜河岸の帰帆」(浜河岸(はまがし)の帰帆高楼に映ず)というのがあるそうです。
この大正橋あたりのことを詠んだものでしょう。
霞ヶ浦の水運が発達していた時には川岸がこの橋の近辺にあって賑わったのでしょう。
市街地から大正橋を渡って東に来ると小野川の本流があり、「高田橋」という橋があります。
この橋から眺めた小野川もゆったりと流れています。
上の写真は高田橋側より霞ヶ浦方面を見ています。
古渡(ふっと)を経由して霞ヶ浦に注ぎます。
こちらは少し下流から川の上流側を見たところです。この橋が「高田橋」です。
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このように書くと、今の江戸崎を知っているだけの人はきっと不思議に思われるかもしれない。
私もつい最近までこの街をまともに見てこなかった。
古代縄文時代には霞ヶ浦(流海)による豊富な魚介類、製塩などで豊かな暮らしがあった。
律令制に入ると、そこには新たな人たちがやってきて支配した。
付近一帯は大きな入江のように静かな湖面(海面:昔は霞ヶ浦は海)が広がっていた。
古渡(ふっと)なんて珍しい地名にも首をフットフットと狩って付いたなどという話が残され、その本来の意味する縄文語(多分?)もちがった意味になっていった(個人的な想像です)。
この場所が下総国と常陸国の境をなす場所であって、物部氏の残した足跡などがそこらじゅうに散らばっている。
また平将門の孫が住み、相馬氏となったなどという話も伝わる。
戦国末期には芦名氏(佐竹氏の次男)が入り、天海僧正にまつわる話も多い。
霞ヶ浦水運により醤油産業が発達し、大豆問屋などで大きくなった問屋も多いようだ。
じっくり掘り起こせばいろいろなものがきっと出てくるに違いない。
この場所を知らない人も多いのだから、水辺の町の景色も紹介しましょう。
江戸崎市街地はすぐ小野川の分流川(正式には沼里川)に接しています。
右側の青い橋が「大正橋」で、その川の向こう側が旧市街地に当たります。
上の写真から見る角度をそのまま左に振ったところです。
写真に見える古めかしい建物は「稲敷市役所」です。
きっとこのあたりは大昔(1000年以上前)に「榎の浦」と呼ばれた場所なのでしょう。
もっともっと大きな水面が一面に広がっていたと思われます。
写真は「江戸崎総合運動公園」側から稲敷市役所側を見ています。
この運動公園内に江戸崎八景の一つ「高田の落雁」(高田の落雁芳洲を渡る)の碑があるとありましたが気が付きませんでした。この景色に近いのでしょう。
また、市役所の敷地内にも八景の碑「浜河岸の帰帆」(浜河岸(はまがし)の帰帆高楼に映ず)というのがあるそうです。
この大正橋あたりのことを詠んだものでしょう。
霞ヶ浦の水運が発達していた時には川岸がこの橋の近辺にあって賑わったのでしょう。
市街地から大正橋を渡って東に来ると小野川の本流があり、「高田橋」という橋があります。
この橋から眺めた小野川もゆったりと流れています。
上の写真は高田橋側より霞ヶ浦方面を見ています。
古渡(ふっと)を経由して霞ヶ浦に注ぎます。
こちらは少し下流から川の上流側を見たところです。この橋が「高田橋」です。
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稲敷散歩(10)-リバーサイドパーク(江戸崎)
江戸崎駅から少し入ったところに「かぼちゃ公園」という案内矢印を見つけたので行ってみた。
地図には「リバーサイドパーク」となっている。
確かに川沿いなのでリバーサイドに違いない。
洒落たネーミングなのに「かぼちゃ公園」と案内にはあった。
駐車場脇にある入口の広場に丸い石のモニュメント。この上に登って遊ぶのだろう。
案内図には「かぼちゃ広場」となっています。
公園の周りに散策路があり、花も咲いています。
でもこの公園の特徴はここから直ぐに川が見えることです。
「展望デッキ」だそうです。
この日はお年寄り2人がのんびりと川から吹く風も気持ちよさそうにベンチに座っておりました。
ベンチの先は川沿いの道路がありその先は小野川(沼里川)です。
船が何艘も留っていました。
この川沿いの道もこの先を少し行くと車は通れなくなります。
江戸崎八景「洲崎の晴嵐」(遙かに望む洲崎晴嵐の後)という洲崎という昔は川に飛び出していた岬があるようですが(地図で洲崎が確認できませんでした)、今は干拓の田んぼが広がっています。
さて、「江戸崎かぼちゃ」としてブランド化されているかぼちゃ。
歴史をたどると40年ほどだといいます。
関東ローム層の畑で完熟してから収穫をするもので、美味しいのはもちろんですが、ブランド化されているのでお値段もそれなりにします。
何故この場所で「かぼちゃ」なのでしょうか?
どうやら近くにある美浦トレセン(競走馬トレーニングセンター)が関係していそうです。
このトレセンには競走馬が2000頭近く飼育されているようです。
そして、栄養たっぷりの餌で元気に飼育されている馬糞も栄養価も高く、トレセン内で微生物で発酵処理されて有機肥料に生まれ変わります。
この有機肥料が様々な農作物にとても良いそうです。
野菜、米、マッシュルーム栽培などにも使われているといいます。
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地図には「リバーサイドパーク」となっている。
確かに川沿いなのでリバーサイドに違いない。
洒落たネーミングなのに「かぼちゃ公園」と案内にはあった。
駐車場脇にある入口の広場に丸い石のモニュメント。この上に登って遊ぶのだろう。
案内図には「かぼちゃ広場」となっています。
公園の周りに散策路があり、花も咲いています。
でもこの公園の特徴はここから直ぐに川が見えることです。
「展望デッキ」だそうです。
この日はお年寄り2人がのんびりと川から吹く風も気持ちよさそうにベンチに座っておりました。
ベンチの先は川沿いの道路がありその先は小野川(沼里川)です。
船が何艘も留っていました。
この川沿いの道もこの先を少し行くと車は通れなくなります。
江戸崎八景「洲崎の晴嵐」(遙かに望む洲崎晴嵐の後)という洲崎という昔は川に飛び出していた岬があるようですが(地図で洲崎が確認できませんでした)、今は干拓の田んぼが広がっています。
さて、「江戸崎かぼちゃ」としてブランド化されているかぼちゃ。
歴史をたどると40年ほどだといいます。
関東ローム層の畑で完熟してから収穫をするもので、美味しいのはもちろんですが、ブランド化されているのでお値段もそれなりにします。
何故この場所で「かぼちゃ」なのでしょうか?
どうやら近くにある美浦トレセン(競走馬トレーニングセンター)が関係していそうです。
このトレセンには競走馬が2000頭近く飼育されているようです。
そして、栄養たっぷりの餌で元気に飼育されている馬糞も栄養価も高く、トレセン内で微生物で発酵処理されて有機肥料に生まれ変わります。
この有機肥料が様々な農作物にとても良いそうです。
野菜、米、マッシュルーム栽培などにも使われているといいます。
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今日は満月、独立記念日
今日7月4日はアメリカのIndependence Day です。
今日のニュースで500年前の世界地図が発見され、そこにAmericaの文字があったそうです。
それまでアメリカの文字が書かれた一番古い地図だろうとのこと。
このアメリカという言葉は
新大陸を発見したとワルトゼーミュラーが勘違いしていたイタリアの
探検家アメリゴ・ベスプッチの名前から「アメリカ」と名付けた。
と書かれていました。(こちらの時事Comより)
それにしても、今日の満月は綺麗だった。
夜7時20分頃月が上り始めると赤みがかった大きなまあるい月が東の空にぽっかりと浮かんだ。
まるで別世界の風景のようだった。
月を追いかけて東に車を走らせたが、しばらくすると雲も架かり色も黄色に変色していった。
写真を撮ろうとしたが、まるでダメ。
(高浜入り、高崎地区で)
満月をながめ、人の独立とは何かなんて今更考えてもしょうがないかな。
(石岡中町金刀比羅神社の鳥居と月)
今日の日の入りから月の出までの間は15分位だと思う。
まだ少し空が明るい時に嘘のようなまんまるの月が出てきた。
今日はいつもの記事はお休みとしよう。
明日は夜に土浦でセミナーを聞きに行ってきます。
その内容は、夜遅くなってからUPします。
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今日のニュースで500年前の世界地図が発見され、そこにAmericaの文字があったそうです。
それまでアメリカの文字が書かれた一番古い地図だろうとのこと。
このアメリカという言葉は
新大陸を発見したとワルトゼーミュラーが勘違いしていたイタリアの
探検家アメリゴ・ベスプッチの名前から「アメリカ」と名付けた。
と書かれていました。(こちらの時事Comより)
それにしても、今日の満月は綺麗だった。
夜7時20分頃月が上り始めると赤みがかった大きなまあるい月が東の空にぽっかりと浮かんだ。
まるで別世界の風景のようだった。
月を追いかけて東に車を走らせたが、しばらくすると雲も架かり色も黄色に変色していった。
写真を撮ろうとしたが、まるでダメ。
(高浜入り、高崎地区で)
満月をながめ、人の独立とは何かなんて今更考えてもしょうがないかな。
(石岡中町金刀比羅神社の鳥居と月)
今日の日の入りから月の出までの間は15分位だと思う。
まだ少し空が明るい時に嘘のようなまんまるの月が出てきた。
今日はいつもの記事はお休みとしよう。
明日は夜に土浦でセミナーを聞きに行ってきます。
その内容は、夜遅くなってからUPします。
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稲敷散歩(11)-管天寺(土岐原氏の寺)
一昨日書いたリバーサイドパーク(かぼちゃ公園)のところを川沿いに少し北上(霞ヶ浦方面)した比較的低地にこの管天寺(かんてんじ)がある。
山号は「江崎山(こうきざん)」という曹洞宗の禅寺である。
この寺は江戸崎城主の土岐原景成(土岐原氏というが、土岐氏の方が一般的のようだ)が創建した寺だ。
この土岐氏は美濃に勢力を張った清和源氏系の土岐氏の一族で、南北朝時代の末期1423年に足利持氏の常陸小栗氏(旧協和町あたり?)討伐に関東に進出してこの江戸崎(信太荘)に入った。
その頃の話としては、このあたりは霞ヶ浦(内海)の一部で水運が発達しており、海賊も出没していたという。土岐氏はこの海賊も取締り、海の実権もにぎっていったようです。
少しそのような時代背景も見ないといけないでしょう。
この寺は、創建された時(1490年)は現在の場所ではなく、前に書いた五百羅漢山のある寺(瑞祥院)のその南側、今の鹿島神社があるところだそうです。
この鹿島神社は、市街地にある結構大きな神社です。また後で紹介します。
寺の入口に江戸崎八景の碑「江崎山の晩鐘」(江崎山の晩鐘幽壑(ゆうがく)に響き)があります。
この管天寺は、江戸崎城で戦国時代末期迄160~170年続いた土岐原氏の菩提寺(管天寺の名前も土岐原景成の法名からきています)として栄えますが、1590年に豊臣方(佐竹氏)により江戸崎城・龍ケ崎城とともに焼け落ちました。
上の句はこの時の想いを歌ったものでしょうか?
その後(いつ頃か明確でない?)現在の地に再建し、七堂伽藍も整備して元禄10年(1697)には郡内の中心寺院となりました。
しかし、1809年に寺堂は焼失し、1820年に再建されたそうです。
この寺は曹洞宗の禅寺です。「不許葷酒入山門」の戒壇石が置かれていました。
(1822年に、湯殿山・月山・羽黒山、西国・秩父・坂東巡礼供養塔として建立されたものだそうです。)
寺の裏手です。
竹林が綺麗です。
寺の歴代住職の墓が、裏手の墓地にあります。そこに行く道の脇にはたくさんの石仏が置かれています。
寺の境内に石が2つ置かれています。どうやら力石のようです。
力持ちが力比べをしたのでしょうか。持ち上げてみようとも思ったのですが石は見かけよりもとても重いのです。動かすことも出来そうにありません。
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山号は「江崎山(こうきざん)」という曹洞宗の禅寺である。
この寺は江戸崎城主の土岐原景成(土岐原氏というが、土岐氏の方が一般的のようだ)が創建した寺だ。
この土岐氏は美濃に勢力を張った清和源氏系の土岐氏の一族で、南北朝時代の末期1423年に足利持氏の常陸小栗氏(旧協和町あたり?)討伐に関東に進出してこの江戸崎(信太荘)に入った。
その頃の話としては、このあたりは霞ヶ浦(内海)の一部で水運が発達しており、海賊も出没していたという。土岐氏はこの海賊も取締り、海の実権もにぎっていったようです。
少しそのような時代背景も見ないといけないでしょう。
この寺は、創建された時(1490年)は現在の場所ではなく、前に書いた五百羅漢山のある寺(瑞祥院)のその南側、今の鹿島神社があるところだそうです。
この鹿島神社は、市街地にある結構大きな神社です。また後で紹介します。
寺の入口に江戸崎八景の碑「江崎山の晩鐘」(江崎山の晩鐘幽壑(ゆうがく)に響き)があります。
この管天寺は、江戸崎城で戦国時代末期迄160~170年続いた土岐原氏の菩提寺(管天寺の名前も土岐原景成の法名からきています)として栄えますが、1590年に豊臣方(佐竹氏)により江戸崎城・龍ケ崎城とともに焼け落ちました。
上の句はこの時の想いを歌ったものでしょうか?
その後(いつ頃か明確でない?)現在の地に再建し、七堂伽藍も整備して元禄10年(1697)には郡内の中心寺院となりました。
しかし、1809年に寺堂は焼失し、1820年に再建されたそうです。
この寺は曹洞宗の禅寺です。「不許葷酒入山門」の戒壇石が置かれていました。
(1822年に、湯殿山・月山・羽黒山、西国・秩父・坂東巡礼供養塔として建立されたものだそうです。)
寺の裏手です。
竹林が綺麗です。
寺の歴代住職の墓が、裏手の墓地にあります。そこに行く道の脇にはたくさんの石仏が置かれています。
寺の境内に石が2つ置かれています。どうやら力石のようです。
力持ちが力比べをしたのでしょうか。持ち上げてみようとも思ったのですが石は見かけよりもとても重いのです。動かすことも出来そうにありません。
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アフターファイブサロン(木曜夜話)
昨日の夜に友人に誘われて、土浦駅前のウララビルの会議室にアフターファイブサロン(木曜夜話)を聞きに行ってきました。
開始が勤めが終わってからの時間に合わせているので18:30からでした。
今回のテーマが「お醤油って素晴らしい!!」(土浦の醤油の歴史と美味しい醤油の見分け方)
となっおり、土浦で今も醤油作りをしている柴沼醤油18代当主の方というので聴きに行きました。
この講座は毎回テーマを変えて6月から月2回程度、隔週木曜日におこなわれているそうです。
今回が3回目でした。こんな企画があることも知りませんでした。
場所は土浦駅前のウララの5Fの「県南生涯学習センター 」の会議室です。
このビルは下がイトウヨーカドーと専門店が入っており、上の階はマンションです。
その5階を県南生涯学習センター として確保しています。
エスカレータを上ったところの広いスペースにテーブルと椅子がおいてあり、子供たちの学習スペースのようです。
図書館の中によく勉強スペースがありますが、そのようば感じなのですが・・・。まわりが広々しすぎて静かですが、私なら落ち着かないと思うかもしれません。
この階全部が県南生涯学習センターのスペースです。
そして、その脇の方をはいった奥に会議室がたくさん並んでいます。
今日は「中会議室1」という場所です。
入口で説明資料をもらって入ります。聴講料は無料です。
開始時間まで20分以上ありましたのでまだ席はガラガラです。でも驚いたことにこの100人ほど収容の会議室は始まるときにはほぼ満席で、少し遅れてきた人等もいてオーバーした人は隣の会議室でおおきなモニターで聴くことができたようです。
この方が、柴沼醤油の18代当主の方ですが、まだ32歳と若い人でした。
家業継いでからまだ3,4年くらいのようでしたので、昔のお話は少し物足りなかったかも。
土浦の醤油の歴史をわかりやすく伝えていただきました。
関東3大醸造地として「銚子・野田」にここ土浦で、歴史から見ると江戸時代には土浦が最も発達していたと。
前に「石岡の醤油産業が何故廃れてしまったのか?」(こちら)を書いたことがあります。
この時にこの柴沼醤油さんも見に行きました。
その後いろいろまた調べて、土浦の醤油も面白いことがわかってきたのですが、今回は聞けませんでした。
土浦の昔の蔵を観光用に開放していますが、これは大徳というおおきな着物やさんの見世蔵でした。
この大徳さんは土浦で醤油醸造をしていた大国屋さんから分かれてもので、この大国屋さんは江戸の町で醤油を販売するために江戸に問屋を起こしたのです。
この問屋が今は国分商店(問屋としては大きな会社です)として成功しています。
今でも木の樽でもろみ造りをしており、これからはオーストラリアや商品も美味しい醤油で勝負をしていくそうです。
土浦市虫掛の工場見学もできるようですし、工場の横の広場に江戸時代のもろみ用杉の木樽も置かれています。
でもここの「紫峰」という醤油は地元のお寿司屋さんなどでも多く使われており、確かに美味しい醤油です。
「はなまるマーケット」などでも紹介されたのですから、これからもさらなる発展を期待しています。
さて、跡取りがまだ娘2人ということでした。まだ若いですからこれから男の子も・・・・
最後に醤油の違いを知る試食にたくさん並びました・・・。私は時間も遅かったのでお土産に「紫峰」の小瓶をいただいて帰ってきました。
このような企画も面白いと思います。
次回は「シニアアスリートに学ぶ」、その次は「能楽鑑賞セミナー 能楽塾 in土浦」です。
どうですか面白そうでしょう。
無料で誰でも参加できますので近くの方は一度行ってみませんか?
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開始が勤めが終わってからの時間に合わせているので18:30からでした。
今回のテーマが「お醤油って素晴らしい!!」(土浦の醤油の歴史と美味しい醤油の見分け方)
となっおり、土浦で今も醤油作りをしている柴沼醤油18代当主の方というので聴きに行きました。
この講座は毎回テーマを変えて6月から月2回程度、隔週木曜日におこなわれているそうです。
今回が3回目でした。こんな企画があることも知りませんでした。
場所は土浦駅前のウララの5Fの「県南生涯学習センター 」の会議室です。
このビルは下がイトウヨーカドーと専門店が入っており、上の階はマンションです。
その5階を県南生涯学習センター として確保しています。
エスカレータを上ったところの広いスペースにテーブルと椅子がおいてあり、子供たちの学習スペースのようです。
図書館の中によく勉強スペースがありますが、そのようば感じなのですが・・・。まわりが広々しすぎて静かですが、私なら落ち着かないと思うかもしれません。
この階全部が県南生涯学習センターのスペースです。
そして、その脇の方をはいった奥に会議室がたくさん並んでいます。
今日は「中会議室1」という場所です。
入口で説明資料をもらって入ります。聴講料は無料です。
開始時間まで20分以上ありましたのでまだ席はガラガラです。でも驚いたことにこの100人ほど収容の会議室は始まるときにはほぼ満席で、少し遅れてきた人等もいてオーバーした人は隣の会議室でおおきなモニターで聴くことができたようです。
この方が、柴沼醤油の18代当主の方ですが、まだ32歳と若い人でした。
家業継いでからまだ3,4年くらいのようでしたので、昔のお話は少し物足りなかったかも。
土浦の醤油の歴史をわかりやすく伝えていただきました。
関東3大醸造地として「銚子・野田」にここ土浦で、歴史から見ると江戸時代には土浦が最も発達していたと。
前に「石岡の醤油産業が何故廃れてしまったのか?」(こちら)を書いたことがあります。
この時にこの柴沼醤油さんも見に行きました。
その後いろいろまた調べて、土浦の醤油も面白いことがわかってきたのですが、今回は聞けませんでした。
土浦の昔の蔵を観光用に開放していますが、これは大徳というおおきな着物やさんの見世蔵でした。
この大徳さんは土浦で醤油醸造をしていた大国屋さんから分かれてもので、この大国屋さんは江戸の町で醤油を販売するために江戸に問屋を起こしたのです。
この問屋が今は国分商店(問屋としては大きな会社です)として成功しています。
今でも木の樽でもろみ造りをしており、これからはオーストラリアや商品も美味しい醤油で勝負をしていくそうです。
土浦市虫掛の工場見学もできるようですし、工場の横の広場に江戸時代のもろみ用杉の木樽も置かれています。
でもここの「紫峰」という醤油は地元のお寿司屋さんなどでも多く使われており、確かに美味しい醤油です。
「はなまるマーケット」などでも紹介されたのですから、これからもさらなる発展を期待しています。
さて、跡取りがまだ娘2人ということでした。まだ若いですからこれから男の子も・・・・
最後に醤油の違いを知る試食にたくさん並びました・・・。私は時間も遅かったのでお土産に「紫峰」の小瓶をいただいて帰ってきました。
このような企画も面白いと思います。
次回は「シニアアスリートに学ぶ」、その次は「能楽鑑賞セミナー 能楽塾 in土浦」です。
どうですか面白そうでしょう。
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稲敷散歩(12)-大念寺(江戸崎)
さて今日は江戸崎市内にあるもうひとつの寺大念寺を紹介します。
ここには徳川家康の植えたという「逆さ銀杏」があり、寺の紋にも三つ葉葵が使われています。
正式には正定山知光院と号する浄土宗の寺院で、この江戸崎に戦国時代末期に入ってきた佐竹氏の実弟である芦名重盛(義広改め)により天正18年(1590)に(もう少し湖岸よりの浜地区?)に建てられました。
正式には浄土宗の高僧(肥前国(佐賀県)生れ)源誉慶厳の開山といわれ、この僧も小田氏の下でつくばに大念寺を建てましたが、小田氏が戦いに敗れたため、下総松崎(しもうさまんさき)や隣の阿見町にも移り大念寺を建てたようです。しかし芦名重盛に請われてここ江戸崎に寺を建てたようです。
(恐らくそれだけ名前の通った高僧だったのでしょうね。)
しかし、寺は10年後の1600年に火災で焼け、1602年に現在地に再建されたものの、翌年の1603年には佐竹氏の秋田転封に伴って芦名重盛も秋田角館に移されました。
そして角館ではまた名前を変え、芦名義勝と改名しています。
芦名(蘆名)氏についてはまたの機会としますが、天台宗の不動院とこの浄土宗の大念寺を芦名氏が帰依することにより発展を遂げますが、この期間は13年間と短いものとなってしまいました。
これは石岡の場合と全く同じです。
しかし、この短い期間に寺院は大切にされたようで、戦国時代の中でかなり真剣に街並みの復興等を行なったように見えます。
石岡でも佐竹氏は町や寺を焼いてしまった張本人と思われ、どこかに不人気となっている感が拭えませんが、かなり寺や街並みの復旧に力を注いだように思われます。
大念寺の山門です。かなり大きな楼門です。
芦名氏が秋田に移ると、徳川家康から寺領(河内郡東条庄内、後に信太郡蒲ヶ山村)として50石の御朱印地の寄贈を受け、大いに発展を遂げます。
江戸時代には浄土宗の関東18壇林の一つとして、多くの浄土僧の修行の場として栄えていきました。
末寺は15ヵ寺数えたといいます。
また寺の住職も(江戸)芝の増上寺の伴頭の中から選ばれたといいます。結構格式が高かったようです。
この楼門は江戸時代に建てられたものというが、年代ははっきりしたものがなかった。
しかし、江戸崎の町の9割が焼けた大火事「大仏火事と呼ばれる)が文化6年(1809)に起こるが、この時にはここは焼けなかったそうである。
これが徳川家康が手植えしたという銀杏の木(逆さ銀杏)です。
現地にも説明板はなく、本当かどうかについても書かれたものはありませんでした。
しかし、この寺にはかなり貴重なものが残されており、本当と考えてもまあ良いのかな?などと思います。
これは?
こちらは井戸です。この辺の寺によくこの屋根のある井戸が置かれています。
楼門の近くには鐘楼が造られていたようですが、現在は残っていません。
こちらが楼門と本堂の全景です。なかなかいい風情ですよね。
さて、先ほど書いた200年ほど前の大火「大仏火事」というのが気になりました。
調べた結果、
「この大念寺の末寺の寿経寺で寺の普請中に火事が起こったそうです。
当時かなりの強風が吹いており、瞬く間に火が燃え広がり、この寺(寿経寺)には立派な大仏様が置かれていて、何とか持ち出そうとしましたが重くて持ち出せなくなり、首と胴を切り離して何とか持ち出したのだそうです。
その後この大念寺にも火が迫ったが風の向きが変わりなんとか大念寺は焼けずに済んだが、町の600戸や管天寺などが焼けてしまったそうです。
話はこれだけでは終わりません。この大仏様は元々鎌倉の寺で火災がおきて、筑波の寺に安置されたが、ここでも火事にあって焼け出され、この寿経寺に移されたのですが、ここでもこの大火が起こってしまったのだそうです。
そのため、この火事は大仏火事と呼ばれるようになったようです。
しかし、この大仏様はその後大念寺に安置されて、いまだ火事は起きていないそうです。
平成になってこの大仏様も大修理を終え、まばゆいほどの光彩を放っているそうです。
この大念寺には「大念寺文書」という貴重な古文書が残されているそうです。
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ここには徳川家康の植えたという「逆さ銀杏」があり、寺の紋にも三つ葉葵が使われています。
正式には正定山知光院と号する浄土宗の寺院で、この江戸崎に戦国時代末期に入ってきた佐竹氏の実弟である芦名重盛(義広改め)により天正18年(1590)に(もう少し湖岸よりの浜地区?)に建てられました。
正式には浄土宗の高僧(肥前国(佐賀県)生れ)源誉慶厳の開山といわれ、この僧も小田氏の下でつくばに大念寺を建てましたが、小田氏が戦いに敗れたため、下総松崎(しもうさまんさき)や隣の阿見町にも移り大念寺を建てたようです。しかし芦名重盛に請われてここ江戸崎に寺を建てたようです。
(恐らくそれだけ名前の通った高僧だったのでしょうね。)
しかし、寺は10年後の1600年に火災で焼け、1602年に現在地に再建されたものの、翌年の1603年には佐竹氏の秋田転封に伴って芦名重盛も秋田角館に移されました。
そして角館ではまた名前を変え、芦名義勝と改名しています。
芦名(蘆名)氏についてはまたの機会としますが、天台宗の不動院とこの浄土宗の大念寺を芦名氏が帰依することにより発展を遂げますが、この期間は13年間と短いものとなってしまいました。
これは石岡の場合と全く同じです。
しかし、この短い期間に寺院は大切にされたようで、戦国時代の中でかなり真剣に街並みの復興等を行なったように見えます。
石岡でも佐竹氏は町や寺を焼いてしまった張本人と思われ、どこかに不人気となっている感が拭えませんが、かなり寺や街並みの復旧に力を注いだように思われます。
大念寺の山門です。かなり大きな楼門です。
芦名氏が秋田に移ると、徳川家康から寺領(河内郡東条庄内、後に信太郡蒲ヶ山村)として50石の御朱印地の寄贈を受け、大いに発展を遂げます。
江戸時代には浄土宗の関東18壇林の一つとして、多くの浄土僧の修行の場として栄えていきました。
末寺は15ヵ寺数えたといいます。
また寺の住職も(江戸)芝の増上寺の伴頭の中から選ばれたといいます。結構格式が高かったようです。
この楼門は江戸時代に建てられたものというが、年代ははっきりしたものがなかった。
しかし、江戸崎の町の9割が焼けた大火事「大仏火事と呼ばれる)が文化6年(1809)に起こるが、この時にはここは焼けなかったそうである。
これが徳川家康が手植えしたという銀杏の木(逆さ銀杏)です。
現地にも説明板はなく、本当かどうかについても書かれたものはありませんでした。
しかし、この寺にはかなり貴重なものが残されており、本当と考えてもまあ良いのかな?などと思います。
これは?
こちらは井戸です。この辺の寺によくこの屋根のある井戸が置かれています。
楼門の近くには鐘楼が造られていたようですが、現在は残っていません。
こちらが楼門と本堂の全景です。なかなかいい風情ですよね。
さて、先ほど書いた200年ほど前の大火「大仏火事」というのが気になりました。
調べた結果、
「この大念寺の末寺の寿経寺で寺の普請中に火事が起こったそうです。
当時かなりの強風が吹いており、瞬く間に火が燃え広がり、この寺(寿経寺)には立派な大仏様が置かれていて、何とか持ち出そうとしましたが重くて持ち出せなくなり、首と胴を切り離して何とか持ち出したのだそうです。
その後この大念寺にも火が迫ったが風の向きが変わりなんとか大念寺は焼けずに済んだが、町の600戸や管天寺などが焼けてしまったそうです。
話はこれだけでは終わりません。この大仏様は元々鎌倉の寺で火災がおきて、筑波の寺に安置されたが、ここでも火事にあって焼け出され、この寿経寺に移されたのですが、ここでもこの大火が起こってしまったのだそうです。
そのため、この火事は大仏火事と呼ばれるようになったようです。
しかし、この大仏様はその後大念寺に安置されて、いまだ火事は起きていないそうです。
平成になってこの大仏様も大修理を終え、まばゆいほどの光彩を放っているそうです。
この大念寺には「大念寺文書」という貴重な古文書が残されているそうです。
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稲敷散歩(13)-鹿島神社(江戸崎)
江戸崎の市街地に大きな神社がある。これが鹿島神社だが、どのような歴史があるものなのだろうか?
商店街などのある通りに面しているところに一の鳥居がある。
少し進んだところに上り階段がありその先に二の鳥居がある。
鳥居の脇には古くからの狛犬が置かれている。
いかにも神社に権威付けをしていると思われるような文字が鳥居に彫られている。
「東宮殿下渡欧祈念」(大正10年造立)のようです。
東宮殿下とは皇太子のことですから当時の皇太子は昭和天皇のことでしょうか?
鹿島神社は、旧江戸崎町内に10ヶ所あるそうで、その代表格がこの街中神社である。
元々この地区は物部氏の香取神が中心だと思ってきたが、どうやらこの街中にはその足跡は残されていないようだ。
先日紹介した江戸崎城主土岐原氏の菩提樹である「管天寺」がこの鹿島神社の場所にあったと紹介しました。
この鹿島神社は江戸崎城主6代目土岐治英(ときはるふさ)が、江戸崎城の守護神として鹿島神宮から勧請した神社だといいます。
やはりその時代のものなのだと変に納得です。
この神社には江戸時代の扁額なども残されており、ちょっと変わったところでは神紋が「さくら」の花のようです。
(訂正)この紋は土岐氏の家紋「土岐桔梗」だそうです。
本殿です。立派な造りです。
拝殿脇には欅の木でしょうか、かなりの古木が残されています。
境内に相撲の土俵がありました。毎年9月1日に奉納相撲大会が行われるようです。
石岡の総社宮の相撲大会は高校の相撲選手権というものですが、どうもこちらは地元の子供たちが参加して楽しく行う昔ながらの地区相撲大会のようです。
歴史については上の説明板を読んで頂ければよいとおもいます。
先日訪れた時には近くに7月末に行われる「祇園祭」のポスターが貼られていました。
地元ではかなり大きなお祭りのようです。
でも祇園祭は八坂神社や天王社などと思っておりましたが、鹿島神社でも行われるのですね。
(追記:この江戸崎祇園祭はここ鹿島神社と南西側に少し行った旧天王地区にある「八坂神社」との共同のお祭りだといいます。400年くらいの伝統のある祭りだそうです。)
調べると全国各地の鹿島神社でも祇園祭と称した祭りは多いようです。
ところで「いしおかのお祭り」を祇園祭というと、何故かキョトンとされてしまうようですが、基本構成は同じですね。
境内には「忠魂碑」などが置かれていますが、いろいろな神社を合祀してお祀りしているようです。
場所は江戸崎小学校のグランドと隣接しており、小学校の敷地は多分昔の江戸崎城の場所ではないかと思います。
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商店街などのある通りに面しているところに一の鳥居がある。
少し進んだところに上り階段がありその先に二の鳥居がある。
鳥居の脇には古くからの狛犬が置かれている。
いかにも神社に権威付けをしていると思われるような文字が鳥居に彫られている。
「東宮殿下渡欧祈念」(大正10年造立)のようです。
東宮殿下とは皇太子のことですから当時の皇太子は昭和天皇のことでしょうか?
鹿島神社は、旧江戸崎町内に10ヶ所あるそうで、その代表格がこの街中神社である。
元々この地区は物部氏の香取神が中心だと思ってきたが、どうやらこの街中にはその足跡は残されていないようだ。
先日紹介した江戸崎城主土岐原氏の菩提樹である「管天寺」がこの鹿島神社の場所にあったと紹介しました。
この鹿島神社は江戸崎城主6代目土岐治英(ときはるふさ)が、江戸崎城の守護神として鹿島神宮から勧請した神社だといいます。
やはりその時代のものなのだと変に納得です。
この神社には江戸時代の扁額なども残されており、
(訂正)この紋は土岐氏の家紋「土岐桔梗」だそうです。
本殿です。立派な造りです。
拝殿脇には欅の木でしょうか、かなりの古木が残されています。
境内に相撲の土俵がありました。毎年9月1日に奉納相撲大会が行われるようです。
石岡の総社宮の相撲大会は高校の相撲選手権というものですが、どうもこちらは地元の子供たちが参加して楽しく行う昔ながらの地区相撲大会のようです。
歴史については上の説明板を読んで頂ければよいとおもいます。
先日訪れた時には近くに7月末に行われる「祇園祭」のポスターが貼られていました。
地元ではかなり大きなお祭りのようです。
でも祇園祭は八坂神社や天王社などと思っておりましたが、鹿島神社でも行われるのですね。
(追記:この江戸崎祇園祭はここ鹿島神社と南西側に少し行った旧天王地区にある「八坂神社」との共同のお祭りだといいます。400年くらいの伝統のある祭りだそうです。)
調べると全国各地の鹿島神社でも祇園祭と称した祭りは多いようです。
ところで「いしおかのお祭り」を祇園祭というと、何故かキョトンとされてしまうようですが、基本構成は同じですね。
境内には「忠魂碑」などが置かれていますが、いろいろな神社を合祀してお祀りしているようです。
場所は江戸崎小学校のグランドと隣接しており、小学校の敷地は多分昔の江戸崎城の場所ではないかと思います。
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合歓の花
昨日の記事(江戸崎鹿島神社)で訂正があり記事は訂正しています。
一つは鹿島神社にあった紋は桜の花のようだと書きましたが、これは土岐家の家紋「土岐桔梗」だそうです。
もう一箇所はここの祇園祭りは「八坂神社」(南西の天王地区)との共同の祭りだそうです。400年続いている伝統ある祭りだと書かれていました。
まあ、どこの祭りも一時途絶えているところが多いので、ここのお祭りが途絶えずに続いていたかは知りません。
さて、今日は合歓(ねむ)の花の写真を載せます。
「象潟や雨に西施が合歓の花」(奥の細道 芭蕉)
この花を見るとどうしても西施の美しくも悲しい運命を思い浮かべてしまいます。
芭蕉の句がなければ「象潟(きさかた)」もどんなところかも知らなかったでしょうし、「西施(せいし)」がどのような運命をたどったのかも気がつかなかったに違いありません。
呉越同舟と言われるように中国で呉と越は敵対する相手でした。
「越」は「呉」に破れますが、越から贈られた絶世の美女「西施」の魅力に呉の国王はうつつを抜かし、国力は低下し越によって滅ぼされてしまいます。
しかし、その美貌を恐れた越の王妃により生きたまま袋に入れられて川に投げ込まれて死んでしまいます。
そして、その川(長江)からハマグリが取れたため西施は「蛤の舌」に生まれ変わったなんて言われているのだそうです。
もっともこの話も紀元前のことですから、本当のことはわかりません。
でもそのようなお話が残っていると楽しくなりませんか?
そういえば七夕(「棚幡、棚機」?)を何故旧暦でやらないのどろうか?
天の川のよく見える1ヶ月後の仙台七夕祭りの頃にやって欲しいものだ。
以前、9月9日に「重陽の節句」と書いたことがあった。
この時も菊の花はまだ咲いていないのだから、イメージがわかない。
旧暦にやれば重陽の節句がよくわかるようになるのにと思うのだが・・・・。
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一つは鹿島神社にあった紋は桜の花のようだと書きましたが、これは土岐家の家紋「土岐桔梗」だそうです。
もう一箇所はここの祇園祭りは「八坂神社」(南西の天王地区)との共同の祭りだそうです。400年続いている伝統ある祭りだと書かれていました。
まあ、どこの祭りも一時途絶えているところが多いので、ここのお祭りが途絶えずに続いていたかは知りません。
さて、今日は合歓(ねむ)の花の写真を載せます。
「象潟や雨に西施が合歓の花」(奥の細道 芭蕉)
この花を見るとどうしても西施の美しくも悲しい運命を思い浮かべてしまいます。
芭蕉の句がなければ「象潟(きさかた)」もどんなところかも知らなかったでしょうし、「西施(せいし)」がどのような運命をたどったのかも気がつかなかったに違いありません。
呉越同舟と言われるように中国で呉と越は敵対する相手でした。
「越」は「呉」に破れますが、越から贈られた絶世の美女「西施」の魅力に呉の国王はうつつを抜かし、国力は低下し越によって滅ぼされてしまいます。
しかし、その美貌を恐れた越の王妃により生きたまま袋に入れられて川に投げ込まれて死んでしまいます。
そして、その川(長江)からハマグリが取れたため西施は「蛤の舌」に生まれ変わったなんて言われているのだそうです。
もっともこの話も紀元前のことですから、本当のことはわかりません。
でもそのようなお話が残っていると楽しくなりませんか?
そういえば七夕(「棚幡、棚機」?)を何故旧暦でやらないのどろうか?
天の川のよく見える1ヶ月後の仙台七夕祭りの頃にやって欲しいものだ。
以前、9月9日に「重陽の節句」と書いたことがあった。
この時も菊の花はまだ咲いていないのだから、イメージがわかない。
旧暦にやれば重陽の節句がよくわかるようになるのにと思うのだが・・・・。
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稲敷散歩(14)ー歴史の足跡(江戸崎)
今日は暑かったし、どうも調子がよくない。
今日書こうとしていたことがまとまらないので、少しあとに回して、せっかく江戸崎の街レポートを始めたので、この町の歴史を少しだけ紐解いておきたい。
この水辺の中心地を見てきたが、ここには古代の歴史が感じられない。
もう少し何か出てくるかと思ったのだが・・・・・。
古代はもっと山寄りの方が栄えたのだろう。少しずつこちらも紐解かねばならない。
私はどちらかというと1000年ほど前の方が興味がある。
ではこの都市は?
今まで歩いたところではやはり美濃(岐阜)の土岐氏(土岐原氏)が嘉慶1年(1387)室町幕府の関東管領上杉氏の求めにより、常陸大掾氏系の小栗氏(小栗判官(ほうがん)の話で有名な小栗氏です)の討伐に関東にやってきてこの江戸崎の地を得て、江戸崎城を築いたことが始まりのようです。
その城があったのは江戸崎小学校の場所で、土岐氏の菩提寺である「管天寺」が今の鹿島神社のところにあったようです。
そしてこの土岐氏による支配は戦国時代末期まで、約200年続きます。
しかし、私のいる石岡と同じく豊臣秀吉に常陸国を任せられた佐竹氏の軍勢に滅ぼされてしまいました。
当時佐竹氏は各地に血縁を送っており、佐竹氏の実弟が会津の芦名家を継いでおりました。
しかし、会津は伊達政宗に攻められて、会津芦名氏は常陸国の佐竹氏のもとに逃げてきていたのです。
そして、この江戸崎攻めに加わり、秀吉より江戸崎4万5千石をもらい、ここに入ることになります。
天正17年(1589)のことです。
そして芦名氏は会津より高僧「随風」(後の天海大僧正)を迎え入れ、不動院の僧正に迎えたのです。
しかし、徳川家康により佐竹氏が秋田に転封になると、ここの芦名氏も秋田の角館に移ることになります。
1602年(慶長7年)のことです。
(それまで角館にいたのは戸沢氏で、この時に常陸国茨城郡小河城(4万石)へ移り、少しして出羽新庄藩に移っています。)
このため、江戸崎の芦名氏は12年くらいしかいなかったことになりますが、今の街並み等の多くがこの時に作られたものと考えられます。
芦名盛重もこうして見ると角館の街作りも合わせて、大した人物だと思います。
随風(天海)はまだこの寺に残りますが、その頃の話はまた後でしましょう。
江戸時代には徳川家臣の青山氏が入り、老中まで栄進して石を増やし、1620年に武蔵国岩槻藩に行ったため、そのあとは古渡藩より丹羽氏が入るが1622年に棚倉藩に移動となって、ここの江戸崎藩は廃藩となってしまいます。
しかし、霞ヶ浦による水運が発達して醤油や問屋などが大いに発展を遂げていったのです。
江戸崎不動院
不動院の「吉祥妙童子像」
さて、ここで今日は終わりですが、芦名氏は会津と書いたが、その元をたどると三浦半島の三浦氏である。
常陸太田の1000年杉「三浦杉」の名前のもととなった那須の九尾の狐退治の三浦大介の弟の血筋である。
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今日書こうとしていたことがまとまらないので、少しあとに回して、せっかく江戸崎の街レポートを始めたので、この町の歴史を少しだけ紐解いておきたい。
この水辺の中心地を見てきたが、ここには古代の歴史が感じられない。
もう少し何か出てくるかと思ったのだが・・・・・。
古代はもっと山寄りの方が栄えたのだろう。少しずつこちらも紐解かねばならない。
私はどちらかというと1000年ほど前の方が興味がある。
ではこの都市は?
今まで歩いたところではやはり美濃(岐阜)の土岐氏(土岐原氏)が嘉慶1年(1387)室町幕府の関東管領上杉氏の求めにより、常陸大掾氏系の小栗氏(小栗判官(ほうがん)の話で有名な小栗氏です)の討伐に関東にやってきてこの江戸崎の地を得て、江戸崎城を築いたことが始まりのようです。
その城があったのは江戸崎小学校の場所で、土岐氏の菩提寺である「管天寺」が今の鹿島神社のところにあったようです。
そしてこの土岐氏による支配は戦国時代末期まで、約200年続きます。
しかし、私のいる石岡と同じく豊臣秀吉に常陸国を任せられた佐竹氏の軍勢に滅ぼされてしまいました。
当時佐竹氏は各地に血縁を送っており、佐竹氏の実弟が会津の芦名家を継いでおりました。
しかし、会津は伊達政宗に攻められて、会津芦名氏は常陸国の佐竹氏のもとに逃げてきていたのです。
そして、この江戸崎攻めに加わり、秀吉より江戸崎4万5千石をもらい、ここに入ることになります。
天正17年(1589)のことです。
そして芦名氏は会津より高僧「随風」(後の天海大僧正)を迎え入れ、不動院の僧正に迎えたのです。
しかし、徳川家康により佐竹氏が秋田に転封になると、ここの芦名氏も秋田の角館に移ることになります。
1602年(慶長7年)のことです。
(それまで角館にいたのは戸沢氏で、この時に常陸国茨城郡小河城(4万石)へ移り、少しして出羽新庄藩に移っています。)
このため、江戸崎の芦名氏は12年くらいしかいなかったことになりますが、今の街並み等の多くがこの時に作られたものと考えられます。
芦名盛重もこうして見ると角館の街作りも合わせて、大した人物だと思います。
随風(天海)はまだこの寺に残りますが、その頃の話はまた後でしましょう。
江戸時代には徳川家臣の青山氏が入り、老中まで栄進して石を増やし、1620年に武蔵国岩槻藩に行ったため、そのあとは古渡藩より丹羽氏が入るが1622年に棚倉藩に移動となって、ここの江戸崎藩は廃藩となってしまいます。
しかし、霞ヶ浦による水運が発達して醤油や問屋などが大いに発展を遂げていったのです。
江戸崎不動院
不動院の「吉祥妙童子像」
さて、ここで今日は終わりですが、芦名氏は会津と書いたが、その元をたどると三浦半島の三浦氏である。
常陸太田の1000年杉「三浦杉」の名前のもととなった那須の九尾の狐退治の三浦大介の弟の血筋である。
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