気の置けない友
先日大学の研究室の先生の喜寿を祝う会に出席したが、その時に集まった同期の友とまたの再開の約束をしていた。
当日出席ができなかった仲間をさそってまた飲み会を今月末に開くことになった。
卒業以来あっていない友達もいるが、会うと懐かしさですぐに打ち解けてしまう。
気の置けない友達だ。
日本語も難しいが、最近のテレビ番組では知らないことを逆に売り込み材料にしている。
まったく困ったものである。「気が(の)置けない人」というと気をつけねばならない人などという有様である。
昔、大学受験前(高2の冬)に予備校の冬期講習を受けたことがある。
理科系ではあったが、国語の試験もあるので講習科目に取った。
そうしたら、ことわざをいくつか出されて、その時初めて覚えたことわざがいくつかあった。
「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」「待てば海路の日和あり」などであるが、このようなものは大学受験では一切問題にはでなかった。
正月休みを返上して受けたのにである。
しかし、この時に覚えたことを今も覚えているのは一体どうしてだろう。
微積分などは必要であったのに思い出すのに苦労する。困ったものだ。
石岡の町には大掾(だいじょう)氏や鈴姫の怨霊が出るなどといっている人もいるとか・・・・。
話としては面白いが、○○氏の子孫などということを特別のことと思って、思い込んでいると問題である。
他所から来た者にとっては甚だ迷惑千万である。(これも迷惑千番ではありません)
しかし、私も良くパソコンでは変換間違いをします。
後で読んで赤くなってしまうこともしばしばです。
このブログでもたくさん間違いがありそうです。
当日出席ができなかった仲間をさそってまた飲み会を今月末に開くことになった。
卒業以来あっていない友達もいるが、会うと懐かしさですぐに打ち解けてしまう。
気の置けない友達だ。
日本語も難しいが、最近のテレビ番組では知らないことを逆に売り込み材料にしている。
まったく困ったものである。「気が(の)置けない人」というと気をつけねばならない人などという有様である。
昔、大学受験前(高2の冬)に予備校の冬期講習を受けたことがある。
理科系ではあったが、国語の試験もあるので講習科目に取った。
そうしたら、ことわざをいくつか出されて、その時初めて覚えたことわざがいくつかあった。
「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」「待てば海路の日和あり」などであるが、このようなものは大学受験では一切問題にはでなかった。
正月休みを返上して受けたのにである。
しかし、この時に覚えたことを今も覚えているのは一体どうしてだろう。
微積分などは必要であったのに思い出すのに苦労する。困ったものだ。
石岡の町には大掾(だいじょう)氏や鈴姫の怨霊が出るなどといっている人もいるとか・・・・。
話としては面白いが、○○氏の子孫などということを特別のことと思って、思い込んでいると問題である。
他所から来た者にとっては甚だ迷惑千万である。(これも迷惑千番ではありません)
しかし、私も良くパソコンでは変換間違いをします。
後で読んで赤くなってしまうこともしばしばです。
このブログでもたくさん間違いがありそうです。
寒さは緩んだが、今朝も筑波山はきれいだった。
最近あまり晴れの日が少ないので朝の筑波山もはっきり見える日が少なかったが、今日はきれいに見えた。
カメラを持っていなかったし、朝は急いでもいるので目に焼き付けておいた。
恋瀬川が昔の歌の名所である男女川(みなのがわ)であろうと鈴木健氏はいっている。
ここからの筑波山が一番きれいだし、石岡に国府があったことを考えればそれは本当に違いないと思う。
しかし、もう少しこの川もきれいにしてもらえないだろうか。
昔を偲ぶには「背い高泡立ち草」がいっぱいでは興ざめしてしまう。
少し整備して、そこに生息する動物や魚を観察し、皆に知らせてほしいものだ。
「地域おこし」はそこを訪れた人をリピータとして大事にすることが本当の底流になければならない。
どうすればリピータが増えるか、これは海外の事例も含めたくさんの方法が紹介されている。
図書館の建設は地元の利用者は喜ぶが、これは文化の向上にはなってもリピータの確保・増加の観点からは町おこしの対象にはならない。
それよりも受験生などが気軽に利用できる勉強スペース(ボックス)などを街中に確保して、学力の向上に役立ててほしい。
来年は電子書籍が世界中に広まる。何処の図書館にどんな図書があるかがすぐにわかる。
図書館に行かなくても世界中の本が見られるようになるかもしれない。
少し将来を見据えた斬新な図書館(七重の塔の形をした電子図書館など)なら話題性もあり、良いと思うが・・・・。
これから年より社会で、暇な老人はクーラや暖房の効いている無料で利用できる図書館は良いが、街の発展にはあまり寄与できない。
昨日今日と以前石岡の歴史のHPで知り合った方からブログにコメントをいただいた。
うれしいですね。またこのブログも止めずに続けていけそうだ。
カメラを持っていなかったし、朝は急いでもいるので目に焼き付けておいた。
恋瀬川が昔の歌の名所である男女川(みなのがわ)であろうと鈴木健氏はいっている。
ここからの筑波山が一番きれいだし、石岡に国府があったことを考えればそれは本当に違いないと思う。
しかし、もう少しこの川もきれいにしてもらえないだろうか。
昔を偲ぶには「背い高泡立ち草」がいっぱいでは興ざめしてしまう。
少し整備して、そこに生息する動物や魚を観察し、皆に知らせてほしいものだ。
「地域おこし」はそこを訪れた人をリピータとして大事にすることが本当の底流になければならない。
どうすればリピータが増えるか、これは海外の事例も含めたくさんの方法が紹介されている。
図書館の建設は地元の利用者は喜ぶが、これは文化の向上にはなってもリピータの確保・増加の観点からは町おこしの対象にはならない。
それよりも受験生などが気軽に利用できる勉強スペース(ボックス)などを街中に確保して、学力の向上に役立ててほしい。
来年は電子書籍が世界中に広まる。何処の図書館にどんな図書があるかがすぐにわかる。
図書館に行かなくても世界中の本が見られるようになるかもしれない。
少し将来を見据えた斬新な図書館(七重の塔の形をした電子図書館など)なら話題性もあり、良いと思うが・・・・。
これから年より社会で、暇な老人はクーラや暖房の効いている無料で利用できる図書館は良いが、街の発展にはあまり寄与できない。
昨日今日と以前石岡の歴史のHPで知り合った方からブログにコメントをいただいた。
うれしいですね。またこのブログも止めずに続けていけそうだ。
忠犬タローの歌を聞いて
今日文化の日はスッキリと晴れて気持ちの良い一日となりました。
各地で文化祭などが行われました。ここ石岡でもあちらこちらで各種の行事が行われます。
商工祭はイベント広場で今度の週末。
今日はあるブログを見つけて、市民会館で行われた第41回市民合唱祭に顔を出してきました。
お目当ては地元幼稚園(善隣幼稚園)園児たちの「ここで君を待っているよ」の合唱を聞くためでした。
石岡駅で17年間主を待ち続けた「忠犬タロー」の話しを聞いて、坂本九さんの長女大島花子さんが作詞・作曲してくれたとても素敵な歌でした。

渋谷駅の「忠犬ハチ公」に似た感動のエピソードがありました。
テレビや新聞でもいくつか紹介されて話題ともなっているようですから、詳しく知りたい方はネットで検索してみてくださいね。
タロー(元の名前コロ)が当時(45年ほど前)電車(今は廃線となった鹿島鉄道)で通っていた飼い主(当時5歳の善隣幼稚園児)と一緒に電車で石岡まできてしまい、そしてはぐれてしまって以来、石岡東小の子供たちに可愛がられて育てられました。
それから死ぬまでの17年間、学校から石岡駅まで朝と晩に通っては、駅で飼い主を待っていたといわれています。

(写真は東小の入口にある卒業生の制作したもののようです。校舎は現在裏に新築のすてきな校舎に建て替え中でした)
石岡東小はジャスコの6号国道をはさんで反対側にあります。
通りは車が多くうるさいようですが、学校は周りは住宅街で静かな場所です。
ここから駅までは、学校を出るとすぐに6号国道を跨ぐ歩道橋があります。この歩道橋をいつも渡っていたといいます。駅までの距離を測ってみましたが約2.5kmと結構遠いです。
飼い主の少女が通っていた幼稚園は駅の近くの市街にあるので学校とは反対側ですね。
この話も、飼い主は卒園してからこちらの方に来る機会も少なくなり探したそうですがわからなくなってしまったといいます。
それが昨年の新聞記事で名乗り出たといいます。
このような話もまだ石岡にも活気があった時代ですが、語り継がれていくといいですね。
各地で文化祭などが行われました。ここ石岡でもあちらこちらで各種の行事が行われます。
商工祭はイベント広場で今度の週末。
今日はあるブログを見つけて、市民会館で行われた第41回市民合唱祭に顔を出してきました。
お目当ては地元幼稚園(善隣幼稚園)園児たちの「ここで君を待っているよ」の合唱を聞くためでした。
石岡駅で17年間主を待ち続けた「忠犬タロー」の話しを聞いて、坂本九さんの長女大島花子さんが作詞・作曲してくれたとても素敵な歌でした。

渋谷駅の「忠犬ハチ公」に似た感動のエピソードがありました。
テレビや新聞でもいくつか紹介されて話題ともなっているようですから、詳しく知りたい方はネットで検索してみてくださいね。
タロー(元の名前コロ)が当時(45年ほど前)電車(今は廃線となった鹿島鉄道)で通っていた飼い主(当時5歳の善隣幼稚園児)と一緒に電車で石岡まできてしまい、そしてはぐれてしまって以来、石岡東小の子供たちに可愛がられて育てられました。
それから死ぬまでの17年間、学校から石岡駅まで朝と晩に通っては、駅で飼い主を待っていたといわれています。

(写真は東小の入口にある卒業生の制作したもののようです。校舎は現在裏に新築のすてきな校舎に建て替え中でした)
石岡東小はジャスコの6号国道をはさんで反対側にあります。
通りは車が多くうるさいようですが、学校は周りは住宅街で静かな場所です。
ここから駅までは、学校を出るとすぐに6号国道を跨ぐ歩道橋があります。この歩道橋をいつも渡っていたといいます。駅までの距離を測ってみましたが約2.5kmと結構遠いです。
飼い主の少女が通っていた幼稚園は駅の近くの市街にあるので学校とは反対側ですね。
この話も、飼い主は卒園してからこちらの方に来る機会も少なくなり探したそうですがわからなくなってしまったといいます。
それが昨年の新聞記事で名乗り出たといいます。
このような話もまだ石岡にも活気があった時代ですが、語り継がれていくといいですね。
筑波山には尾花が似合う?
昨日の文化の日の私のブログはページアクセス数が130にもなった。
いつもはせいぜい20~30アクセス程度であるので一気に増えたことになる。
理由はある程度分かっているが、丁寧にナンページも見ていただいた方にはお礼を言いたい。
行徳在住者さんにはコメントもたくさんいただいた。
町おこしアドバイスも感謝!
まあ今日はいつものペースに戻ったようである。本ブログはブログ村やツイッターとも連動していない。
やり方はあるのだろうが、ノンビリマイペースでやることにしよう。
仕事を終えて外を見たら、まだ5時半だというのに真っ暗になっていた。
暗くなると寒さも増してくる。
今朝、恋瀬川の橋から筑波山をみたら、少し上の方にでていた雲の影響か、朝日がまだらに山に当たって、山の中腹は明るい緑色、少し上は濃い緑。山の二つの頂上も、手前の女体山は日が当らず、奥の男体山はキラキラと明るく輝いていた。
不思議な風景だあった。
昨日、恋瀬川の志筑寄りにある「粟田橋」付近で撮影したススキ(尾花)と筑波山の写真を載せておきます。

ここの橋は新しく架け直されて立派になり、常陸風土記の丘へとつながっている。
写真は昔の橋があった辺りの風景である。
筑波山には尾花が似合うのかもしれない。
もっとも万葉の頃の尾花は写真のようなススキ?ではないだろう。
このような細いススキでは茅葺の屋根は葺けない。
八郷地区には茅葺の家が何軒も残っている。
保存も大変なのだが、後世に残して行ってほしい。
「東京から最も近い田舎(里山)」をキャッチフレーズとしてPRしていこう!
いつもはせいぜい20~30アクセス程度であるので一気に増えたことになる。
理由はある程度分かっているが、丁寧にナンページも見ていただいた方にはお礼を言いたい。
行徳在住者さんにはコメントもたくさんいただいた。
町おこしアドバイスも感謝!
まあ今日はいつものペースに戻ったようである。本ブログはブログ村やツイッターとも連動していない。
やり方はあるのだろうが、ノンビリマイペースでやることにしよう。
仕事を終えて外を見たら、まだ5時半だというのに真っ暗になっていた。
暗くなると寒さも増してくる。
今朝、恋瀬川の橋から筑波山をみたら、少し上の方にでていた雲の影響か、朝日がまだらに山に当たって、山の中腹は明るい緑色、少し上は濃い緑。山の二つの頂上も、手前の女体山は日が当らず、奥の男体山はキラキラと明るく輝いていた。
不思議な風景だあった。
昨日、恋瀬川の志筑寄りにある「粟田橋」付近で撮影したススキ(尾花)と筑波山の写真を載せておきます。

ここの橋は新しく架け直されて立派になり、常陸風土記の丘へとつながっている。
写真は昔の橋があった辺りの風景である。
筑波山には尾花が似合うのかもしれない。
もっとも万葉の頃の尾花は写真のようなススキ?ではないだろう。
このような細いススキでは茅葺の屋根は葺けない。
八郷地区には茅葺の家が何軒も残っている。
保存も大変なのだが、後世に残して行ってほしい。
「東京から最も近い田舎(里山)」をキャッチフレーズとしてPRしていこう!
そばの製粉
今日は、先日市民会館の忠犬タローの歌をききに行った途中でみかけた「吉原製粉・製麺所」を紹介しておきます。
場所は若宮八幡宮前の八幡通りから市民会館方面に行く信号を曲がってすぐです。
電気屋さんの隣りです。同じ通りの並びには「青屋神社」があります。
この通りはせまいので信号で車が止まると、入口の出入りも困難になるような場所です。
3日の昼過ぎに前を歩いて通りかかると、丁度そば粉を挽いていました。

大分年季の入った石臼を使ってモーターが回っていました。
もう昔から同じような方法で挽いているようです。もちろん昔はモーターなどはなかったでしょうが・・・。
お店にはガラス戸越しにそば粉をビニール袋に入れて「1P300円」の張り紙がありました。
石岡近辺にはお蕎麦屋さんが多いと思います。
昔から営んでいるお店に、サラリーマンから独立したお店などたくさんあります。
そのようなお店にもそば粉を卸しているのでしょう。
ネットにはヤーコン茶を練りこんだ「やんちゃそば」なるものが紹介されています。
ヤーコンには血糖値を下げる効果があると一時テレビでも紹介され話題となりました。
この石岡地区でもヤーコン茶の販売も頑張っているところがあります。
興味のある方は調べてみてください。
しかし、今は薬事法で効能を直接表示することができないようです。
製粉の見学は1か月前くらいまでに商工会に申し込めばOKとなっています。
私などはこのような光景を見るのはとても好きですが、大きな近代化された工場に押されて無くなってしまう場合が多く、ここは頑張ってやっていってほしいですね。
今そば打ち教室なども多く、趣味でお蕎麦を作っている人も多くなりました。
そのような方は、そば粉を一度買ってみてください。
場所は若宮八幡宮前の八幡通りから市民会館方面に行く信号を曲がってすぐです。
電気屋さんの隣りです。同じ通りの並びには「青屋神社」があります。
この通りはせまいので信号で車が止まると、入口の出入りも困難になるような場所です。
3日の昼過ぎに前を歩いて通りかかると、丁度そば粉を挽いていました。

大分年季の入った石臼を使ってモーターが回っていました。
もう昔から同じような方法で挽いているようです。もちろん昔はモーターなどはなかったでしょうが・・・。
お店にはガラス戸越しにそば粉をビニール袋に入れて「1P300円」の張り紙がありました。
石岡近辺にはお蕎麦屋さんが多いと思います。
昔から営んでいるお店に、サラリーマンから独立したお店などたくさんあります。
そのようなお店にもそば粉を卸しているのでしょう。
ネットにはヤーコン茶を練りこんだ「やんちゃそば」なるものが紹介されています。
ヤーコンには血糖値を下げる効果があると一時テレビでも紹介され話題となりました。
この石岡地区でもヤーコン茶の販売も頑張っているところがあります。
興味のある方は調べてみてください。
しかし、今は薬事法で効能を直接表示することができないようです。
製粉の見学は1か月前くらいまでに商工会に申し込めばOKとなっています。
私などはこのような光景を見るのはとても好きですが、大きな近代化された工場に押されて無くなってしまう場合が多く、ここは頑張ってやっていってほしいですね。
今そば打ち教室なども多く、趣味でお蕎麦を作っている人も多くなりました。
そのような方は、そば粉を一度買ってみてください。
牛込・牛渡
旧水戸街道は現在の6号とほぼ似たような経路をたどっていますが、その昔の古道東海道の道を検証してみましょう。
石岡は古道東海道の終点の都市でした。
また江戸時代前までは、今の霞ケ浦を舟で渡っていたといわれています。
しかし、現在鎌倉街道の名前のついた道も多くあり、どれがメインの道かが判りません。
しかし、かすみがうら市(旧出島村)に牛渡(うしわた)という地名があり、古墳や神社などがあります。牛渡の鹿島神社では「へいさんぼう(平三坊)」なる変わった祭りが残されています。

映画「土」の舞台となり、貧しい農村が描かれていますが、昔はここらあたりに対岸から舟で渡ったものでしょう。
牛渡は対岸から牛が渡って泳ぎ着いてこの名前になったと考えられています。

その対岸ですが、美浦村です。
競馬馬のトレセンで名前は全国区ですが、ここに「陸平(おかだいら)貝塚」があるのです。
先日お邪魔した時は、夏の終わりで、地元の小学生たちも手伝って貝塚の発掘調査を行なっていました。
縄文前期から後期にわたり、5000年以上続いた縄文人の暮らした跡がはっきりと分かる貴重な場所です。
この貝塚のすぐ北側に「牛込(うしごめ)」という地名があります。
この場所から牛を対岸の牛渡に送っていたのでしょうか?
平安時代は貴族の移動は牛車で、馬ではありませんでした。
牛は牛込に残し、人だけが渡ったのでしょうか?
江戸時代の前はこの霞ケ浦は湖ではなく海(内海)でした。香取の海などと呼ばれていました。
現在よりも水面は数十センチ高かったようです。
ヤマトタケルの東方に来た時代の地形は、ぼんやり想像ができるようにも思いますが、縄文人が暮らした時代は現在の地形からは、まったく想像すらできません。
利根川を人工的に銚子の方にもっていき、江戸の治水対策にしたのですから・・・。
石岡は古道東海道の終点の都市でした。
また江戸時代前までは、今の霞ケ浦を舟で渡っていたといわれています。
しかし、現在鎌倉街道の名前のついた道も多くあり、どれがメインの道かが判りません。
しかし、かすみがうら市(旧出島村)に牛渡(うしわた)という地名があり、古墳や神社などがあります。牛渡の鹿島神社では「へいさんぼう(平三坊)」なる変わった祭りが残されています。

映画「土」の舞台となり、貧しい農村が描かれていますが、昔はここらあたりに対岸から舟で渡ったものでしょう。
牛渡は対岸から牛が渡って泳ぎ着いてこの名前になったと考えられています。

その対岸ですが、美浦村です。
競馬馬のトレセンで名前は全国区ですが、ここに「陸平(おかだいら)貝塚」があるのです。
先日お邪魔した時は、夏の終わりで、地元の小学生たちも手伝って貝塚の発掘調査を行なっていました。
縄文前期から後期にわたり、5000年以上続いた縄文人の暮らした跡がはっきりと分かる貴重な場所です。
この貝塚のすぐ北側に「牛込(うしごめ)」という地名があります。
この場所から牛を対岸の牛渡に送っていたのでしょうか?
平安時代は貴族の移動は牛車で、馬ではありませんでした。
牛は牛込に残し、人だけが渡ったのでしょうか?
江戸時代の前はこの霞ケ浦は湖ではなく海(内海)でした。香取の海などと呼ばれていました。
現在よりも水面は数十センチ高かったようです。
ヤマトタケルの東方に来た時代の地形は、ぼんやり想像ができるようにも思いますが、縄文人が暮らした時代は現在の地形からは、まったく想像すらできません。
利根川を人工的に銚子の方にもっていき、江戸の治水対策にしたのですから・・・。
酒米の取り組み(1)
ここ石岡は昔から関東の灘といわれるほど酒造りが盛んであった場所である。
醤油産業は現在ほとんど行われていないが、酒造りはまだ古くから受け継がれている。
地元の酒造所としては「府中誉」「石岡酒造」「白菊酒造」がありそれぞれ美味しいお酒を作っている。
もっともっと知っていただきたい石岡の名品です。
それらの発生をたどっていくとかなり古くから受け継がれてきたことがわかり、それぞれ特徴をもった活動を続けていることがわかります。
最近になって各社が取り組んでいる酒米作りに焦点を当てて少し調べた内容を紹介していきたいと思います。
まずは「府中誉(国府5-9-32)」さんです。

酒造所は石岡の街中にあり、安政元年(1854)創業といわれています。
昭和4年の大火の際も近くまで火の手がきましたがどうにか焼けずに残りました。
現在、主屋・長屋門・文庫蔵・穀蔵・仕込蔵・釜場・舂屋(つきや)の計7棟が市の登録文化財に指定されています。

製造工程の見学には予約が必要ですが、外から見たり、試飲してみることはできますので一度訪れて見てください。

さて、ここのお酒は大吟醸「渡舟」(わたりぶね)が有名です。
これは幻の酒米「渡船」を使って吟醸酒としており、日本ではここ1か所だけといわれています。
高級酒の原料となるお酒に適した酒米としては「山田錦」という品種が全国で使われています。
この渡船はこの山田錦の親に相当し、昭和の初め頃までは茨城県でも栽培されていました。
しかし、栽培が難しく、手間もかかるため次第に栽培されなくなってしまったのです。
あまり発表されることもないので一般には知られていませんが、「山田錦」は兵庫県(酒どころ)が全て取り仕切っているようです。
他県での栽培がほとんどできない状態なのです。
ですから、どこの酒造所もこの山田錦は兵庫県から買っているのでしょう。
従ってお酒の値段が上がってしまいます。
でもやはり、府中誉さんでは、地元でとれた安心できるお米を使ってお酒を作りたいと思いました。
そこで、幻の酒米といわれた渡船を探したのです。
探したところ筑波の研究機関「国立農業生物資源研究所」に種もみが冷凍保存されていることをきき、ほんの14グラムを分けてもらい、協力していただける農家の人を探し、1989年(平成元年)春に1坪くらいの田圃に蒔いたそうです。
そして2年目には12kgの収穫があり、平成3年に八郷の広い田圃で栽培を始めることになりました。
そして、ここから名酒「渡舟」が生まれました。
現在このお米作りに、一般の人が参加しています。
詳しくは所蔵元のブログ(蔵元便り)に書かれています。
春には田植え、10月には収穫祭を行い、稲刈りや美味しいお酒と料理を楽しんでいるようです。
益々、多くの市民の参加によって「渡舟」の名が広がって、草の根交流のような輪が広がってほしいですね。
先日蔵の方にお邪魔した時は、アメリカの方には輸出して評判も良いと伺いました。
お米を半分近くまで削った小さな粒をお酒造りに使うのですから、まだあまり有名になっても困るのかもしれません。石岡には名酒ありとして、こられた人をこれからも大切にしていけばよいのでしょう。
醤油産業は現在ほとんど行われていないが、酒造りはまだ古くから受け継がれている。
地元の酒造所としては「府中誉」「石岡酒造」「白菊酒造」がありそれぞれ美味しいお酒を作っている。
もっともっと知っていただきたい石岡の名品です。
それらの発生をたどっていくとかなり古くから受け継がれてきたことがわかり、それぞれ特徴をもった活動を続けていることがわかります。
最近になって各社が取り組んでいる酒米作りに焦点を当てて少し調べた内容を紹介していきたいと思います。
まずは「府中誉(国府5-9-32)」さんです。

酒造所は石岡の街中にあり、安政元年(1854)創業といわれています。
昭和4年の大火の際も近くまで火の手がきましたがどうにか焼けずに残りました。
現在、主屋・長屋門・文庫蔵・穀蔵・仕込蔵・釜場・舂屋(つきや)の計7棟が市の登録文化財に指定されています。

製造工程の見学には予約が必要ですが、外から見たり、試飲してみることはできますので一度訪れて見てください。

さて、ここのお酒は大吟醸「渡舟」(わたりぶね)が有名です。
これは幻の酒米「渡船」を使って吟醸酒としており、日本ではここ1か所だけといわれています。
高級酒の原料となるお酒に適した酒米としては「山田錦」という品種が全国で使われています。
この渡船はこの山田錦の親に相当し、昭和の初め頃までは茨城県でも栽培されていました。
しかし、栽培が難しく、手間もかかるため次第に栽培されなくなってしまったのです。
あまり発表されることもないので一般には知られていませんが、「山田錦」は兵庫県(酒どころ)が全て取り仕切っているようです。
他県での栽培がほとんどできない状態なのです。
ですから、どこの酒造所もこの山田錦は兵庫県から買っているのでしょう。
従ってお酒の値段が上がってしまいます。
でもやはり、府中誉さんでは、地元でとれた安心できるお米を使ってお酒を作りたいと思いました。
そこで、幻の酒米といわれた渡船を探したのです。
探したところ筑波の研究機関「国立農業生物資源研究所」に種もみが冷凍保存されていることをきき、ほんの14グラムを分けてもらい、協力していただける農家の人を探し、1989年(平成元年)春に1坪くらいの田圃に蒔いたそうです。
そして2年目には12kgの収穫があり、平成3年に八郷の広い田圃で栽培を始めることになりました。
そして、ここから名酒「渡舟」が生まれました。
現在このお米作りに、一般の人が参加しています。
詳しくは所蔵元のブログ(蔵元便り)に書かれています。
春には田植え、10月には収穫祭を行い、稲刈りや美味しいお酒と料理を楽しんでいるようです。
益々、多くの市民の参加によって「渡舟」の名が広がって、草の根交流のような輪が広がってほしいですね。
先日蔵の方にお邪魔した時は、アメリカの方には輸出して評判も良いと伺いました。
お米を半分近くまで削った小さな粒をお酒造りに使うのですから、まだあまり有名になっても困るのかもしれません。石岡には名酒ありとして、こられた人をこれからも大切にしていけばよいのでしょう。
酒米の取り組み(2)
今朝は寒さも緩んだためか、筑波山はぼんやりかすんでやっと見える程度であった。
今日は昨日に続いて、石岡の酒造会社における酒米作りの取り組みについてお伝えします。
昨日は幻の酒米「渡船」をみごと復活し、一般の人の参加を得て酒米作りをしている府中誉さんの話をしました。
今日は、高浜で古くから地元に愛されるお酒を作っている「白菊酒造」さんの取り組みです。
先日NHKのラジオを聞いていましたら、先日名古屋で開催されていました「生物多様性」(COP10)の会議に合わせ、その取り組みの例として紹介されたのです。
それは霞ケ浦のアサザを守り自然環境を守ろうと活動する「アサザプロジェクト(NPO法人アサザ基金)の取り組みの一環でした。
活動の発端は「霞ケ浦の荒れた地を田圃に変え、そこに無農薬のコメを栽培し、それをお酒にしたい」ということでした。
それに協力したのがNECの環境事業部と白菊酒造さんでした。


白菊酒造さんの創業は約200年前といいます。お酒「白菊」は生酒など茨城県内では比較的良く売られています。
美味しいお酒です。私も昔はよく居酒屋さんで飲みました。
この酒米作りはNECの従業員及びその家族を中心に田んぼの整備から田植え、収穫まで無農薬で行っているといいます。始まったのは2006年頃です。
お酒造りもまだ始まって年月は浅いですが、出来たお酒が「田んぼ物語 愛酊で笑呼(ITでエコ)」というそうです。
活動はNECの社員教育の一環に組み込まれ、今後は酒造りのために精米して残った白糠を使ったクッキーなども製造し始めています。
このような活動も石岡で行われていることを皆さんにも是非知っていていただきたいと思っています。
今日は昨日に続いて、石岡の酒造会社における酒米作りの取り組みについてお伝えします。
昨日は幻の酒米「渡船」をみごと復活し、一般の人の参加を得て酒米作りをしている府中誉さんの話をしました。
今日は、高浜で古くから地元に愛されるお酒を作っている「白菊酒造」さんの取り組みです。
先日NHKのラジオを聞いていましたら、先日名古屋で開催されていました「生物多様性」(COP10)の会議に合わせ、その取り組みの例として紹介されたのです。
それは霞ケ浦のアサザを守り自然環境を守ろうと活動する「アサザプロジェクト(NPO法人アサザ基金)の取り組みの一環でした。
活動の発端は「霞ケ浦の荒れた地を田圃に変え、そこに無農薬のコメを栽培し、それをお酒にしたい」ということでした。
それに協力したのがNECの環境事業部と白菊酒造さんでした。


白菊酒造さんの創業は約200年前といいます。お酒「白菊」は生酒など茨城県内では比較的良く売られています。
美味しいお酒です。私も昔はよく居酒屋さんで飲みました。
この酒米作りはNECの従業員及びその家族を中心に田んぼの整備から田植え、収穫まで無農薬で行っているといいます。始まったのは2006年頃です。
お酒造りもまだ始まって年月は浅いですが、出来たお酒が「田んぼ物語 愛酊で笑呼(ITでエコ)」というそうです。
活動はNECの社員教育の一環に組み込まれ、今後は酒造りのために精米して残った白糠を使ったクッキーなども製造し始めています。
このような活動も石岡で行われていることを皆さんにも是非知っていていただきたいと思っています。
酒米の取り組み(3)
今朝起きたら、濃霧で7~8m先が見えない。
気温が高いためだと思うが、予報では急に寒くなるとか・・・。
昼間は暖かだったが、夜になって、風が強くなって寒さも増してきたようである。
今夜の月は三日月で、細い眉のような月だ。
さて、今日も酒米の取り組みの続きであるが、今日は石岡酒造さんについて少し書いてみます。
東大橋に工場はあります。生板池に近い場所です。
生板などと少し生臭い名前ですが、これは八幡太郎が奥州征伐(2度目)に来た時にここ府中には約5万の兵が集まっていました。
この炊事場としてここが使われ、昔は「まな板」は「生板」が変わったといわれています。
このまな板を洗った池から名前がついたのです。
さて、石岡酒造さんは地元府中で200年~300年前から酒造りを行なってきた蔵元4社が合併して昭和47年に創業されました。
ここの昔からの銘柄「白鹿」は、灘の「白鹿」から、名前の差し止め訴訟が昔あり、創業の歴史を争う裁判がありました。結果は訴えは認められず、逆に石岡の白鹿に軍配が上がった形になりました。
昭和29年から15年も裁判で争われたのです。
灘は「黒松白鹿」と縦書き、石岡は「白鹿」と横書きで決着したのです。
この事件はあらためて石岡の酒造の歴史の古さを知らしめることとなりました。
さて、石岡酒造さんの白鹿は今も主銘柄ですが、大衆向けです。
新たな銘柄「吟醸酒筑波」などを美味しいお酒として品評会などでも高い評価を得ています。
今回の主題である、酒米については、今まで山田錦などは兵庫県から、また他のお米も主として茨城県や岡山県産などのお米を購入し、全て自家精米にて酒造りをしています。
また数年前から「酒造り体験」として地元の人達と共に酒造りを行ない、3年前には米作りから自分たちの酒を作る手伝いもしてきました。
こうした取り組みにより、やはり商品の酒にに使う米も自分たちの手で行おうと今年から栽培に着手しました。
まずは八郷地区に23aの田圃でコシヒカリの栽培を始め、この秋収穫が終わりました。
お酒になるのは来年春頃でしょうか?
そして将来的には酒造りに使うお米を全て自家でまかなおうとしているそうです。
石岡は米作りにもとても適したところです。
3社3様の取り組みですが、これからが楽しみですね。
蔵見学なども出来るようですが、事前に予約が必要です。
気温が高いためだと思うが、予報では急に寒くなるとか・・・。
昼間は暖かだったが、夜になって、風が強くなって寒さも増してきたようである。
今夜の月は三日月で、細い眉のような月だ。
さて、今日も酒米の取り組みの続きであるが、今日は石岡酒造さんについて少し書いてみます。
東大橋に工場はあります。生板池に近い場所です。
生板などと少し生臭い名前ですが、これは八幡太郎が奥州征伐(2度目)に来た時にここ府中には約5万の兵が集まっていました。
この炊事場としてここが使われ、昔は「まな板」は「生板」が変わったといわれています。
このまな板を洗った池から名前がついたのです。
さて、石岡酒造さんは地元府中で200年~300年前から酒造りを行なってきた蔵元4社が合併して昭和47年に創業されました。
ここの昔からの銘柄「白鹿」は、灘の「白鹿」から、名前の差し止め訴訟が昔あり、創業の歴史を争う裁判がありました。結果は訴えは認められず、逆に石岡の白鹿に軍配が上がった形になりました。
昭和29年から15年も裁判で争われたのです。
灘は「黒松白鹿」と縦書き、石岡は「白鹿」と横書きで決着したのです。
この事件はあらためて石岡の酒造の歴史の古さを知らしめることとなりました。
さて、石岡酒造さんの白鹿は今も主銘柄ですが、大衆向けです。
新たな銘柄「吟醸酒筑波」などを美味しいお酒として品評会などでも高い評価を得ています。
今回の主題である、酒米については、今まで山田錦などは兵庫県から、また他のお米も主として茨城県や岡山県産などのお米を購入し、全て自家精米にて酒造りをしています。
また数年前から「酒造り体験」として地元の人達と共に酒造りを行ない、3年前には米作りから自分たちの酒を作る手伝いもしてきました。
こうした取り組みにより、やはり商品の酒にに使う米も自分たちの手で行おうと今年から栽培に着手しました。
まずは八郷地区に23aの田圃でコシヒカリの栽培を始め、この秋収穫が終わりました。
お酒になるのは来年春頃でしょうか?
そして将来的には酒造りに使うお米を全て自家でまかなおうとしているそうです。
石岡は米作りにもとても適したところです。
3社3様の取り組みですが、これからが楽しみですね。
蔵見学なども出来るようですが、事前に予約が必要です。
工場誘致
雪印メグの新工場が阿見町の星の里工業団地に来年建設されることになった。
阿見東インターから2km位の好立地だという。また阿見にはこの近くにもう一つ工業団地がある。
この高速道路は常磐高速のつくばジャンクションから成田空港の方に徐々に延長されている。
ここ阿見東インターを下りた所に大きなアウトレットモールがオープンしている。
茨城県が誘致しているのだが、阿見には大きな雇用も生まれる。
石岡のスマートインターチェンジも決まり、柏原工業団地をもっと活性化させて雇用を生み出さなければ本当に歴史だけで生き残ることは不可能に近い。雇用が生まれれば石岡駅にももっと人が増える。
歴史を大事に、観光も多くの人に来ていただきたい。
外国人も同様だ。日本人の興味の持ち方とは全く違うところに興味を持つ。
日本人のおもてなしの心を皆がとても興味を持つという。
しかし、これも日本人から見て判らない部分でもある。
外人が話しかけてきたら石岡の人はどうするのだろうか?
私も英語は苦手だ。娘の旦那(イギリス人)の相手をしても日本語だ。
意味は通じていないことも多いがそんなことはどうでもよいのである。
私が初めて海外に行った時、イタリアのフィレンチェにたった一人ででかけた。
とても心細いものであった。これが二人ならそんな気持ちにもならないだろう。
ロンドンのヒースロー空港での乗り換えは、いわばヨーロッパ国内便ターミナルに、バスで移動する。
乗り場が判らない。また乗ったは良いが、何処で降りたらいいかわからない。
飛行機は平気で出発時間が過ぎても案内がない。
イタリアのピサまで飛行機で行った、そこからフィレンチェまではリムジンバスだ。
やっと着いたが、今度はタクシー乗り場がわからない。聞くとタクシーはそこの電話から呼べという。
電話のかけ方もわからない。やっぱりはじめての時はだれか知った人といくべきだ・・・。
まあ死ぬわけでもないので何とかなったが、満足にしゃべれない悔しさがこみ上げる。
もう30年以上前のことだ。当時はヨーロッパへ行くのもアラスカのアンカレッジ経由であった。
フィレンチェまで20時間くらいかかった。
仕事での出張であったが、心細さも徐々に癒され、段々と厚かましさも出てくるものだ。
しかし、はじめてのフィレンチェの町はゴシック建築など、とても素晴らしい連続であった。
歴史の重さを感じたものである。
帰国時にはピサではなくフィレンチェよりミラノへ飛行機(国内便)で出てミラノでイギリス行の国際線に乗り換えたのだが、飛行場が少し離れているため、どちらへ行けばよいかわからない。そこでその辺で数人いたタクシーの運ちゃんに、拙い英語で話しかけた。
そうしたら、皆逃げ出してしまった。こちらはやっとの思いで尋ねたというのに・・・。
そう、イタリア人の英語レベルは日本と同じようなものだったのである。
今の石岡ももしかしたら同じようなものではないかと思う。
自分がこのような目にあうと判るのだが、日本語で堂々としゃべればよいのである。
身振り手振りでどうにか通じるし、気持ちは伝わるのである。
でも本当に英語はうまくならなかった。昔から本当に大嫌いな科目であった。
まあ、今は自分の代わりに子供たちは結構喋れるようになったからよいと自分を慰めているのである。
あっ。それから一人で行ったので良いこともあった。帰国便のイギリスのBA航空で、ビジネス切符であったが、どういう訳かファーストクラスにのせてくれた。
空港でチケットをにっこり渡された理由が判ったのである。搭乗案内が一番最後でドキドキしたが、機長のすぐうしろの2階席であり、機長の挨拶や食事も別メニューであった。
阿見東インターから2km位の好立地だという。また阿見にはこの近くにもう一つ工業団地がある。
この高速道路は常磐高速のつくばジャンクションから成田空港の方に徐々に延長されている。
ここ阿見東インターを下りた所に大きなアウトレットモールがオープンしている。
茨城県が誘致しているのだが、阿見には大きな雇用も生まれる。
石岡のスマートインターチェンジも決まり、柏原工業団地をもっと活性化させて雇用を生み出さなければ本当に歴史だけで生き残ることは不可能に近い。雇用が生まれれば石岡駅にももっと人が増える。
歴史を大事に、観光も多くの人に来ていただきたい。
外国人も同様だ。日本人の興味の持ち方とは全く違うところに興味を持つ。
日本人のおもてなしの心を皆がとても興味を持つという。
しかし、これも日本人から見て判らない部分でもある。
外人が話しかけてきたら石岡の人はどうするのだろうか?
私も英語は苦手だ。娘の旦那(イギリス人)の相手をしても日本語だ。
意味は通じていないことも多いがそんなことはどうでもよいのである。
私が初めて海外に行った時、イタリアのフィレンチェにたった一人ででかけた。
とても心細いものであった。これが二人ならそんな気持ちにもならないだろう。
ロンドンのヒースロー空港での乗り換えは、いわばヨーロッパ国内便ターミナルに、バスで移動する。
乗り場が判らない。また乗ったは良いが、何処で降りたらいいかわからない。
飛行機は平気で出発時間が過ぎても案内がない。
イタリアのピサまで飛行機で行った、そこからフィレンチェまではリムジンバスだ。
やっと着いたが、今度はタクシー乗り場がわからない。聞くとタクシーはそこの電話から呼べという。
電話のかけ方もわからない。やっぱりはじめての時はだれか知った人といくべきだ・・・。
まあ死ぬわけでもないので何とかなったが、満足にしゃべれない悔しさがこみ上げる。
もう30年以上前のことだ。当時はヨーロッパへ行くのもアラスカのアンカレッジ経由であった。
フィレンチェまで20時間くらいかかった。
仕事での出張であったが、心細さも徐々に癒され、段々と厚かましさも出てくるものだ。
しかし、はじめてのフィレンチェの町はゴシック建築など、とても素晴らしい連続であった。
歴史の重さを感じたものである。
帰国時にはピサではなくフィレンチェよりミラノへ飛行機(国内便)で出てミラノでイギリス行の国際線に乗り換えたのだが、飛行場が少し離れているため、どちらへ行けばよいかわからない。そこでその辺で数人いたタクシーの運ちゃんに、拙い英語で話しかけた。
そうしたら、皆逃げ出してしまった。こちらはやっとの思いで尋ねたというのに・・・。
そう、イタリア人の英語レベルは日本と同じようなものだったのである。
今の石岡ももしかしたら同じようなものではないかと思う。
自分がこのような目にあうと判るのだが、日本語で堂々としゃべればよいのである。
身振り手振りでどうにか通じるし、気持ちは伝わるのである。
でも本当に英語はうまくならなかった。昔から本当に大嫌いな科目であった。
まあ、今は自分の代わりに子供たちは結構喋れるようになったからよいと自分を慰めているのである。
あっ。それから一人で行ったので良いこともあった。帰国便のイギリスのBA航空で、ビジネス切符であったが、どういう訳かファーストクラスにのせてくれた。
空港でチケットをにっこり渡された理由が判ったのである。搭乗案内が一番最後でドキドキしたが、機長のすぐうしろの2階席であり、機長の挨拶や食事も別メニューであった。