代田のダイダラボッチ
今日も1日中暑い日が続いた。例年高浜・三村地区の先にある井関地区代田の入口に藁に杉をつけてダイダラボッチを飾って無病息災を祈願する催しが行われており、今年も見に夕方出かけてきた。しかし今日はあまりの暑さで作業が遅れてしまったようで、夕方の5時前にはまだ藁人形しか完成していなかった。1年間飾られた人形は焼いているところで、これから杉を体に刺して大人形の形に作るのである。写真は昨日のものと、昔採ったほぼ完成した時のものを載せた。

ダイダラボッチの話は全国各地にあるが、ここの地域の名前が代田であり、何かいわくがありそうでもある。大足などという地名が水戸の方にあり、ダイダラボッチの話が尾ひれをつけて広がっていく。ここの井関地区は昔水戸藩の領地で独特の習慣などがあるようである。代田、長者峰、梶和崎、古酒の各地域に人形を飾る風習がそのまま残っているのも面白い。

ダイダラボッチの話は全国各地にあるが、ここの地域の名前が代田であり、何かいわくがありそうでもある。大足などという地名が水戸の方にあり、ダイダラボッチの話が尾ひれをつけて広がっていく。ここの井関地区は昔水戸藩の領地で独特の習慣などがあるようである。代田、長者峰、梶和崎、古酒の各地域に人形を飾る風習がそのまま残っているのも面白い。
ダイダラボッチの里(1)
今日もまた残暑が厳しいです。
頭の中も溶け出しそうですっきりしませんね。
さて、今日は、石岡市井関地区に伝わる少し変わった風習を紹介します。
この地区は、常陸府中(石岡)の歴史とは少し違った文化を持つ土地柄だと思う。
これは江戸時代に水戸藩の飛び地として管理されてきた歴史を知る必要があると思う。
毎年8月16日に、井関地区近隣の4箇所(昔は6箇所であったが、2箇所は止めてしまったようです)で「大人形=ダイダラボッチ」を作って街角に飾る風習が残されています。
今年もお盆明けの8月16日に現地を見に出かけてきました。
これも3度目になりますが、今までは代田地区のみを見てきたので今回はその他の地区のものも見てきました。

井関の少し先「代田」地区のダイダラボッチ=大人形です。
8月16日の夕方4時頃に行ってみました。
昨年も飾り付は夕方遅くやっていましたのでどうかなと思いながら到着すると、まだこんな状態でした。
胴体の形をしたわらの束に頭に籠をかぶせています。

地区の男衆が集まって、これから杉の枝を刺したり、手足などを取り付けて形を作ります。
奥の方に上る煙は去年の人形を燃やしています。
この人形は1年間ここに置かれてこの地区の人々が病気などに罹らないように守ってくれます。

さあ完成したダイダラボッチです。
何箇所かこの人形は作られているのですが、姿、形に顔も少しずつ違いがあります。
始まりは江戸時代に疫病がはやった時に、この地区にやってこないように守り神として飾るようになったと伝えられています。

胸の2箇所と下のシンボルは藁で形を作りナスを使います。

スギの青々しい緑色もこの道の角に1年置かれるとすっかり色あせてしまいます。
1年間お役目を終えると、毎年新しいものに交換します。

この地域は、石岡市のもっとも東南に位置しますが、江戸・明治はじめまでは井関村であり、明治22年に隣の石川村と合併して「関川村」として存在しました。
そして、昭和29年末に石岡市に編入となりました。
現在この人形が作られているのはこの「代田」とそのほかに「梶和崎」「古酒(ふるさき)」「長者峰」の各地域です。
残りの地域の大人形の写真は明日以降に順に紹介します。
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頭の中も溶け出しそうですっきりしませんね。
さて、今日は、石岡市井関地区に伝わる少し変わった風習を紹介します。
この地区は、常陸府中(石岡)の歴史とは少し違った文化を持つ土地柄だと思う。
これは江戸時代に水戸藩の飛び地として管理されてきた歴史を知る必要があると思う。
毎年8月16日に、井関地区近隣の4箇所(昔は6箇所であったが、2箇所は止めてしまったようです)で「大人形=ダイダラボッチ」を作って街角に飾る風習が残されています。
今年もお盆明けの8月16日に現地を見に出かけてきました。
これも3度目になりますが、今までは代田地区のみを見てきたので今回はその他の地区のものも見てきました。

井関の少し先「代田」地区のダイダラボッチ=大人形です。
8月16日の夕方4時頃に行ってみました。
昨年も飾り付は夕方遅くやっていましたのでどうかなと思いながら到着すると、まだこんな状態でした。
胴体の形をしたわらの束に頭に籠をかぶせています。

地区の男衆が集まって、これから杉の枝を刺したり、手足などを取り付けて形を作ります。
奥の方に上る煙は去年の人形を燃やしています。
この人形は1年間ここに置かれてこの地区の人々が病気などに罹らないように守ってくれます。

さあ完成したダイダラボッチです。
何箇所かこの人形は作られているのですが、姿、形に顔も少しずつ違いがあります。
始まりは江戸時代に疫病がはやった時に、この地区にやってこないように守り神として飾るようになったと伝えられています。

胸の2箇所と下のシンボルは藁で形を作りナスを使います。

スギの青々しい緑色もこの道の角に1年置かれるとすっかり色あせてしまいます。
1年間お役目を終えると、毎年新しいものに交換します。

この地域は、石岡市のもっとも東南に位置しますが、江戸・明治はじめまでは井関村であり、明治22年に隣の石川村と合併して「関川村」として存在しました。
そして、昭和29年末に石岡市に編入となりました。
現在この人形が作られているのはこの「代田」とそのほかに「梶和崎」「古酒(ふるさき)」「長者峰」の各地域です。
残りの地域の大人形の写真は明日以降に順に紹介します。


ダイダラボッチの里(2)-梶和崎
一昨日紹介した「代田」(だいだ)地区のダイダラボッチ。
名前がやはり似ているのは関係があるのかな?
このダイダラボッチは各地に伝説があるが、ここにも伝わっている。
「大男(ダイダラボッチ)が富士山と筑波山を比べようと天秤にかけた。
すると筑波山傾いて天秤から落ちてしまい、2つに分かれて女体山と男体山になった。」
これが普通のお話し。
ここではダイダラボッチがこの時に踏ん張った足跡が大きな窪地となって池となった。と言われている。
また、この池(窪地)はどうやら昔の製鉄の跡ではないかと言われている。
八郷地区などにも人工的な窪地があり、砂鉄を採った跡だと考えられているようです。

代田地区を含めて、街角に4箇所人形が飾られますが、メインの通りにあるのは昨日紹介した「代田」地区だけです。
その他の場所も、地元の方はすぐにわかるのですが、地元の方以外には普段通ることのない場所で直ぐにわからなかったので今まで行ったことがありませんでした。
今年は調べて4箇所全部を見てきました。
今日は「梶和崎」のダイタラボッチを見てみましょう。

やはり道の曲がり角に置かれています。
ここがこの地区の入口なのでしょう。

顔は紙?布?金属板?に書かれたものですが、皆4箇所別々の表情です。
また体(藁で作る)に指す杉の枝もここでは枯らした茶色くなったものを使うようです。

全体には「代田」のものとよく似ています。
ナスを使って乳と男性シンボルを作るのも同じです。
これをグロテスクだの、教育上よくないなどというように思うかもしれませんが、むかしの各地に残る民衆の行事には何らかのこれらの要素は多分に入っていました。
今は出来るだけこのようなものを排除する動きもありますね。
でも何も娯楽のなかった昔の地方では、これが自然なんです。
近くのかすみがうら市出島地区の牛渡(うしわた)にある鹿島神社に伝わる「へいさんぼう」というお祭りは、今では珍しいおおらかな営みを表現しています。
興味のある方は調べてみてください。

でも、知らない人が初めてここに来たら驚きますよね。
1年間置かれたままですから、見ようと思ったらいつでも見られます。

人形が置かれている場所は、曲がり角ですが、片側はこんな田んぼが広がっています。
稲も大分実ってきました。
このあたりは9月に入ればすぐ稲刈りになるところが多いようです。
実はこの先にある「八木地区」でも昔は作られていたと聞きました。
そしてどこも今から40年ほど前に作るのをやめたのだそうですが、それから働き盛りの人が何人も亡くなり、また復活したといいます。
また現在人形を作っている地区も後継者が問題のようです。
これらを作るのは昔は若い男性がやることになっていたようですが、今では年齢も上がっているようです。
でも女性は作るのを手伝ってはいけないようです。
明日は残り2箇所を紹介します。
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名前がやはり似ているのは関係があるのかな?
このダイダラボッチは各地に伝説があるが、ここにも伝わっている。
「大男(ダイダラボッチ)が富士山と筑波山を比べようと天秤にかけた。
すると筑波山傾いて天秤から落ちてしまい、2つに分かれて女体山と男体山になった。」
これが普通のお話し。
ここではダイダラボッチがこの時に踏ん張った足跡が大きな窪地となって池となった。と言われている。
また、この池(窪地)はどうやら昔の製鉄の跡ではないかと言われている。
八郷地区などにも人工的な窪地があり、砂鉄を採った跡だと考えられているようです。

代田地区を含めて、街角に4箇所人形が飾られますが、メインの通りにあるのは昨日紹介した「代田」地区だけです。
その他の場所も、地元の方はすぐにわかるのですが、地元の方以外には普段通ることのない場所で直ぐにわからなかったので今まで行ったことがありませんでした。
今年は調べて4箇所全部を見てきました。
今日は「梶和崎」のダイタラボッチを見てみましょう。

やはり道の曲がり角に置かれています。
ここがこの地区の入口なのでしょう。

顔は紙?布?金属板?に書かれたものですが、皆4箇所別々の表情です。
また体(藁で作る)に指す杉の枝もここでは枯らした茶色くなったものを使うようです。

全体には「代田」のものとよく似ています。
ナスを使って乳と男性シンボルを作るのも同じです。
これをグロテスクだの、教育上よくないなどというように思うかもしれませんが、むかしの各地に残る民衆の行事には何らかのこれらの要素は多分に入っていました。
今は出来るだけこのようなものを排除する動きもありますね。
でも何も娯楽のなかった昔の地方では、これが自然なんです。
近くのかすみがうら市出島地区の牛渡(うしわた)にある鹿島神社に伝わる「へいさんぼう」というお祭りは、今では珍しいおおらかな営みを表現しています。
興味のある方は調べてみてください。

でも、知らない人が初めてここに来たら驚きますよね。
1年間置かれたままですから、見ようと思ったらいつでも見られます。

人形が置かれている場所は、曲がり角ですが、片側はこんな田んぼが広がっています。
稲も大分実ってきました。
このあたりは9月に入ればすぐ稲刈りになるところが多いようです。
実はこの先にある「八木地区」でも昔は作られていたと聞きました。
そしてどこも今から40年ほど前に作るのをやめたのだそうですが、それから働き盛りの人が何人も亡くなり、また復活したといいます。
また現在人形を作っている地区も後継者が問題のようです。
これらを作るのは昔は若い男性がやることになっていたようですが、今では年齢も上がっているようです。
でも女性は作るのを手伝ってはいけないようです。
明日は残り2箇所を紹介します。


ダイダラボッチの里(3)
毎日暑い日が続き、このブログも書くのが進まない。書きたいことがあっても手が進まずボケ~としている。
これはとうとうボケが来ているのか? まあ暑さのせいだと思いたい。
ここ数日は日中は頭の上の空はきれいな青空で、これは地上より上の方の空気の温度が高いので、上昇気流が起こりにくいのだそうだ。
そのため暑さも抜けないらしい。
今日は多少雲も多く、筑波山の夕焼けも綺麗だった。
また夜になると月が綺麗だ。三日月より大分ふっくらとしたうっとりするくらいの美人顔の月が微笑んでいる。
調べてみたら、明日が旧暦の七夕だという。7月7日が今頃なのですね。(今年はすこし遅い方みたいです)
9月9日の重陽の節句も旧暦なら菊の花が綺麗に咲く頃で、十五夜に近いですね。
七夕と重陽の節句は旧暦の方が良い気がします。
さて、昨日の続きで、残りの2箇所のダイダラボッチを紹介します。
3)古酒(ふるさき)のダイダラボッチ

人形は三叉の道角に置かれていました。
でもこの人形には両胸の乳と男根のシンボルがありません。
でもきっと昔はあったのではないかと思います。

後ろの木々と色が同化して、知らずに急に現れたらすこしドキッとしそうです。

集落の曲がり角ですね。
この人形作りが始まったのは天明の大飢饉(1782~1788)の時だと言われています。
この飢饉は江戸時代で最大の飢饉が襲ったそうです。
浅間山も噴火し、北日本を中心に日本の人口が100万人近くも減少したのです。
すごいですよね。でもこの記録は本当のようですよ。
多くの地域では地元の神社・寺などを中心に信仰が盛んになったと思われますが、この地区ではこのような人形を信仰の対象に作っていったものと思われます。

4)長者峰のダイダラボッチ
ここの大人形(ダイダラボッチ)はこの写真の旧家から脇道に入ったところに置かれています。

手前の煙は今まで1年間役目をしてきた人形を焼いているものだと思います。
写真は8月16日の夕方に撮影しています。

この山道に入るような道の右側に座っている人形がわかりますか?

顔はそれぞれ地区により表情が違います。
紙か布またはブリキ板のようなものに昔は墨で書いたが、今はマジックか何かで書いたもののようです。
この顔はやはり地区毎に伝統があるのでしょう。
また顔は再利用が可能であれば、翌年も使われることもあるようです。

なかなかユニークな顔をしていますね。

どっしりと斜面に腰を下ろして、これから1年間この部落に入ってくるものを見張ります。
少し調べていたら、後継者がやはり問題らしい。
それと、昨日書いた八木地区以外にも、三村の御前山地区でも昔は作ったらしいが、後継者が不足して今は止めになったそうです。
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これはとうとうボケが来ているのか? まあ暑さのせいだと思いたい。
ここ数日は日中は頭の上の空はきれいな青空で、これは地上より上の方の空気の温度が高いので、上昇気流が起こりにくいのだそうだ。
そのため暑さも抜けないらしい。
今日は多少雲も多く、筑波山の夕焼けも綺麗だった。
また夜になると月が綺麗だ。三日月より大分ふっくらとしたうっとりするくらいの美人顔の月が微笑んでいる。
調べてみたら、明日が旧暦の七夕だという。7月7日が今頃なのですね。(今年はすこし遅い方みたいです)
9月9日の重陽の節句も旧暦なら菊の花が綺麗に咲く頃で、十五夜に近いですね。
七夕と重陽の節句は旧暦の方が良い気がします。
さて、昨日の続きで、残りの2箇所のダイダラボッチを紹介します。
3)古酒(ふるさき)のダイダラボッチ

人形は三叉の道角に置かれていました。
でもこの人形には両胸の乳と男根のシンボルがありません。
でもきっと昔はあったのではないかと思います。

後ろの木々と色が同化して、知らずに急に現れたらすこしドキッとしそうです。

集落の曲がり角ですね。
この人形作りが始まったのは天明の大飢饉(1782~1788)の時だと言われています。
この飢饉は江戸時代で最大の飢饉が襲ったそうです。
浅間山も噴火し、北日本を中心に日本の人口が100万人近くも減少したのです。
すごいですよね。でもこの記録は本当のようですよ。
多くの地域では地元の神社・寺などを中心に信仰が盛んになったと思われますが、この地区ではこのような人形を信仰の対象に作っていったものと思われます。

4)長者峰のダイダラボッチ
ここの大人形(ダイダラボッチ)はこの写真の旧家から脇道に入ったところに置かれています。

手前の煙は今まで1年間役目をしてきた人形を焼いているものだと思います。
写真は8月16日の夕方に撮影しています。

この山道に入るような道の右側に座っている人形がわかりますか?

顔はそれぞれ地区により表情が違います。
紙か布またはブリキ板のようなものに昔は墨で書いたが、今はマジックか何かで書いたもののようです。
この顔はやはり地区毎に伝統があるのでしょう。
また顔は再利用が可能であれば、翌年も使われることもあるようです。

なかなかユニークな顔をしていますね。

どっしりと斜面に腰を下ろして、これから1年間この部落に入ってくるものを見張ります。
少し調べていたら、後継者がやはり問題らしい。
それと、昨日書いた八木地区以外にも、三村の御前山地区でも昔は作ったらしいが、後継者が不足して今は止めになったそうです。


ダイダラボッチの里(4)-盛賢寺
先に3回にわたり石岡市の一番南東部にある「井関地区」を江戸時代から変わった大人形=ダイダラボッチを街角に飾るダイタラボッチの里として紹介してきました。
昔はこの地区の6箇所の地域で飾られていたものが、2箇所がやめになって残っているのは4箇所。
このブログもこのダイダラボッチを紹介するだけでは終われない。
私が石岡に来て1年ほど過ぎた頃、この地区が石岡市内とは違った文化を持っていることに少し関心を持ったことがある。
その時はよく理由がわからなかったが、この土地が江戸時代は水戸藩の飛び地であったことを知ってなんとなくわかってきたように思います。
少しでも紐解ければと思いその他のところも見ていきたいと思います。
まずは、とても立派な寺である「盛賢寺」を紹介しましょう。
ここを最初に訪れた時の説明でも、この寺は水戸光圀の命で那珂郡額田より引寺して建てられたとなっていたのです。

代田のダイダラボッチを見てその道(県道118号線)を進むと、かすみがうら市の方に道は曲がっていきます。すると右手に立派な寺が見えてきます。
この寺がこのあたりではかなり格式を持った「盛賢寺」(霊通山無量寿院)です。
このお寺は真言宗豊山派の寺院です。
引寺=曳き寺というのですから、寺を分解して移したのでしょうか?
どうもよくわかりません。

この山門(仁王門)には立派な木造仁王像があります。この門をくぐったところにある阿弥陀堂と並んで市の文化財に指定されています。

これが市指定文化財である「阿弥陀堂」です。
とても荘厳な屋根が目を見張ります。
もとは茅葺き屋根の阿弥陀堂でしたが、1983年(昭和58年)に銅板葺きに修理されたものだといいます。

この寺を訪れた時に、このお堂が寺その物だと思っていました。
ですからこの立派なお堂を額田(那珂市)より曳いてきたのでしょうか?
どうもそれは違うようです。

調べてみると、この阿弥陀堂はこの地に700年程前に建てられたといいます。
もと醍醐三宝院の末院とされた阿弥陀堂だといいます。
ものすごく立派なものです。
近くにおられてみておられない方は一度見ておかれることをお勧めします。
そして、この地が水戸藩ということで、光圀がやってきた時にこの阿弥陀堂がとても立派で驚いたことのようです。
そして、堂だけで、寺がないので額田より寺を持ってきてこの地の信仰の中心としたのだと思います。

寺の本堂はこの仁王門の横から山に沿って少し登ったところにあります。
この写真はその登り道の途中から門を見たところです。

こちらが寺の本堂です。一般の観光客はこちらには来ないのかもしれません。
本堂と信徒会館などがあります。
盛賢寺となってからの天明4年(1784)に火災にあって焼けてしまったそうですが、その翌年に再建したものだといいますので、阿弥陀堂もその時の堂で、昭和になって屋根は銅板に作り替えたということでしょう。
この寺の説明看板に書かれていることで、一つ面白いことが書かれていましたので紹介しておきましょう。
阿弥陀堂の縁日は正月と七月にあるそうだが、その正月15日(旧暦)の縁日には、その年に嫁をもらった家では、この阿弥陀堂に参詣し、お互いに「嫁自慢」をしたのだそうです。
いまはこのような風習は残っていないのでしょうが、そのような気風は伝わっているのかもしれません。
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昔はこの地区の6箇所の地域で飾られていたものが、2箇所がやめになって残っているのは4箇所。
このブログもこのダイダラボッチを紹介するだけでは終われない。
私が石岡に来て1年ほど過ぎた頃、この地区が石岡市内とは違った文化を持っていることに少し関心を持ったことがある。
その時はよく理由がわからなかったが、この土地が江戸時代は水戸藩の飛び地であったことを知ってなんとなくわかってきたように思います。
少しでも紐解ければと思いその他のところも見ていきたいと思います。
まずは、とても立派な寺である「盛賢寺」を紹介しましょう。
ここを最初に訪れた時の説明でも、この寺は水戸光圀の命で那珂郡額田より引寺して建てられたとなっていたのです。

代田のダイダラボッチを見てその道(県道118号線)を進むと、かすみがうら市の方に道は曲がっていきます。すると右手に立派な寺が見えてきます。
この寺がこのあたりではかなり格式を持った「盛賢寺」(霊通山無量寿院)です。
このお寺は真言宗豊山派の寺院です。
引寺=曳き寺というのですから、寺を分解して移したのでしょうか?
どうもよくわかりません。


この山門(仁王門)には立派な木造仁王像があります。この門をくぐったところにある阿弥陀堂と並んで市の文化財に指定されています。

これが市指定文化財である「阿弥陀堂」です。
とても荘厳な屋根が目を見張ります。
もとは茅葺き屋根の阿弥陀堂でしたが、1983年(昭和58年)に銅板葺きに修理されたものだといいます。

この寺を訪れた時に、このお堂が寺その物だと思っていました。
ですからこの立派なお堂を額田(那珂市)より曳いてきたのでしょうか?
どうもそれは違うようです。

調べてみると、この阿弥陀堂はこの地に700年程前に建てられたといいます。
もと醍醐三宝院の末院とされた阿弥陀堂だといいます。
ものすごく立派なものです。
近くにおられてみておられない方は一度見ておかれることをお勧めします。
そして、この地が水戸藩ということで、光圀がやってきた時にこの阿弥陀堂がとても立派で驚いたことのようです。
そして、堂だけで、寺がないので額田より寺を持ってきてこの地の信仰の中心としたのだと思います。

寺の本堂はこの仁王門の横から山に沿って少し登ったところにあります。
この写真はその登り道の途中から門を見たところです。

こちらが寺の本堂です。一般の観光客はこちらには来ないのかもしれません。
本堂と信徒会館などがあります。
盛賢寺となってからの天明4年(1784)に火災にあって焼けてしまったそうですが、その翌年に再建したものだといいますので、阿弥陀堂もその時の堂で、昭和になって屋根は銅板に作り替えたということでしょう。
この寺の説明看板に書かれていることで、一つ面白いことが書かれていましたので紹介しておきましょう。
阿弥陀堂の縁日は正月と七月にあるそうだが、その正月15日(旧暦)の縁日には、その年に嫁をもらった家では、この阿弥陀堂に参詣し、お互いに「嫁自慢」をしたのだそうです。
いまはこのような風習は残っていないのでしょうが、そのような気風は伝わっているのかもしれません。


ダイダラボッチの里(5)-八木地区
石岡市井関地区(旧井関村)に4箇所の大人形を街角に飾る風習を紹介し、(2)に地図を載せています。
しかし、この他に2箇所(御前山地区と八木地区)が作るのをやめています。
地図で午前山と八木地区の場所を確かめると両端の2箇所がやめたことになります。

やめたことの理由は様々に言われていますが、他の地区もやめたことがあったそうですが、その年に働き盛りの人が何人か亡くなりまた始めたのだとか・・・・。
これはどの程度信用できるかは不明ですが、地図を見る限り、御前山地区は井関村ではなく石川村または三村村で、少し離れており、部落も崖が多い地区に入り組んで住居があるため、この地区で後継者などが減ってしまったためだと思う。
一方八木地区は霞ヶ浦に接しており干拓で埋めたてた田んぼが広がっています。
この八木地区から望む筑波山は手前に穏やかな霞ヶ浦があり、筑波山も姿が良いので写真撮影のポイントだといいます。
また今度写真を撮ったら紹介しましょう。

八木地区を南側から眺めたところです。(この地区を見に行ったのは4月末です)
この小高くなった丘の右端に「住吉神社」という神社があります。
どうやらこの神社があるために大人形作りはいらないとなった経緯もあるようなことも・・・。
(正確ではありません)

この高台に沿って道が続いています。そして右側(霞ヶ浦側)には家があり、霞ヶ浦漁と干拓などの水田やレンコンなどを作っているようです。

そのまま山に沿って進むと神社入口の鳥居が見えてきます。

今年鳥居を新しくしたようです。神社への石段も修理したようです。80段程の石段があります。

上に登ってみると、神社はこんな小屋が一つです。
山の上なので「山王さま」といわれており、どうも住吉は日吉の間違いではないかと石岡の歴史の説明にもありましたが、詳細は不明です。
たしかにこの近くには住吉神社はほとんどありません。

神社の前から霞ヶ浦が一望できます。
手前の住居のあたりは昔は霞ヶ浦の水面がきていたと思われるので、昔はこの高台が霞ヶ浦に突き出したような位置にあったようです。
意外に古い神社なのかもしれません。

下へ降りて近くにあった農村公園の片隅の気の脇に置かれていた石像です。
この先の霞ヶ浦は江戸時代に「御留川(おとめがわ)」と呼ばれていました。
この説明はまた明日にします。
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しかし、この他に2箇所(御前山地区と八木地区)が作るのをやめています。
地図で午前山と八木地区の場所を確かめると両端の2箇所がやめたことになります。

やめたことの理由は様々に言われていますが、他の地区もやめたことがあったそうですが、その年に働き盛りの人が何人か亡くなりまた始めたのだとか・・・・。
これはどの程度信用できるかは不明ですが、地図を見る限り、御前山地区は井関村ではなく石川村または三村村で、少し離れており、部落も崖が多い地区に入り組んで住居があるため、この地区で後継者などが減ってしまったためだと思う。
一方八木地区は霞ヶ浦に接しており干拓で埋めたてた田んぼが広がっています。
この八木地区から望む筑波山は手前に穏やかな霞ヶ浦があり、筑波山も姿が良いので写真撮影のポイントだといいます。
また今度写真を撮ったら紹介しましょう。

八木地区を南側から眺めたところです。(この地区を見に行ったのは4月末です)
この小高くなった丘の右端に「住吉神社」という神社があります。
どうやらこの神社があるために大人形作りはいらないとなった経緯もあるようなことも・・・。
(正確ではありません)

この高台に沿って道が続いています。そして右側(霞ヶ浦側)には家があり、霞ヶ浦漁と干拓などの水田やレンコンなどを作っているようです。

そのまま山に沿って進むと神社入口の鳥居が見えてきます。

今年鳥居を新しくしたようです。神社への石段も修理したようです。80段程の石段があります。

上に登ってみると、神社はこんな小屋が一つです。
山の上なので「山王さま」といわれており、どうも住吉は日吉の間違いではないかと石岡の歴史の説明にもありましたが、詳細は不明です。
たしかにこの近くには住吉神社はほとんどありません。

神社の前から霞ヶ浦が一望できます。
手前の住居のあたりは昔は霞ヶ浦の水面がきていたと思われるので、昔はこの高台が霞ヶ浦に突き出したような位置にあったようです。
意外に古い神社なのかもしれません。

下へ降りて近くにあった農村公園の片隅の気の脇に置かれていた石像です。
この先の霞ヶ浦は江戸時代に「御留川(おとめがわ)」と呼ばれていました。
この説明はまた明日にします。


ダイダラボッチの里(6)-御留川
ブログ記事を毎日書くのはやはり少し無理になって来たように思う。
夜が少し涼しくなってくれればゆっくり眠れて疲れも取れるのだが、夏場は疲れがたまってしまう。
時々は短い記事でも良いでしょう。
昨日書いた八木地区は霞ヶ浦に面しており、霞ヶ浦を一部埋め立てて干拓を行なった。
これは前に記事を書いた。(こちら)

大正から昭和にかけて高浜の醤油業「羽成卯兵衛」さんが政府の補助金と私財を投入して干拓事業を行ったが、この地は底なし沼のような土壌で杭は流され大変苦労したようだ。
今回見ている井関地区は前から書いているように「水戸藩」の領地であった。
石岡などは松平2万石の常陸府中藩であったが、殿様も家臣もほとんど江戸詰めでこちらに来ることはほとんどなかったようです。
そのため商人や町人、農民などが中心になっており、華やかな江戸文化がほとんど伝わっていないように思います。
江戸時代の文化などの特筆すべき事柄がほとんど無いに等しいのです。
一方水戸藩は前に紹介した小川から玉里そしてこの井関の地を押さえていました。
それには理由があったようです。
水戸から江戸に物資を運ぶには那珂川から涸沼に入り、途中陸路を使って小川よりまた園部川の船着場から船に乗せて霞ヶ浦-銚子-利根川をさかのぼって埼玉県関宿で江戸川に入り、江戸へ運んでいたのです。
このため、小川が必要だったのでしょう。
では玉里とここ井関はというと「御留川(おとめがわ)」なる制度のためだと思われます。
霞ヶ浦は豊かな漁場でした。どこのものと区別ができないようでしたが、それでも自主的に乱獲を防ぎ漁民たちの自治組織などが出来上がっていました。
しかし、この高浜入りと呼ばれる入江は両岸との幅が狭くなっており、両側の領地をもつことで川とみなしてこの領域の漁業権を独占したのです。

八木干拓の手前石川地区から対岸の高崎地区を望む。
むかしこのあたりから下流の玉里地区までが御留川だった。
これにより、この領域で採れた魚はすべて水戸藩に運ばれ、水戸藩およびこの両岸の漁民に利益をもたらしたのです。
「こんなのずるいよね」と思いますが、今も昔もそんなものだったのでしょう。
しかし、統計によれば江戸時代に行われた地検により、この地の石高が150%程に上がってしまったようですので、豊かではあったでしょうが楽ではなかったのかもしれません。
そして大飢饉が起こったときにダイダラボッチ人形を作って街角においたのです。
少しこの地の人たちの気持ちもわかってくるような気もします。
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夜が少し涼しくなってくれればゆっくり眠れて疲れも取れるのだが、夏場は疲れがたまってしまう。
時々は短い記事でも良いでしょう。
昨日書いた八木地区は霞ヶ浦に面しており、霞ヶ浦を一部埋め立てて干拓を行なった。
これは前に記事を書いた。(こちら)

大正から昭和にかけて高浜の醤油業「羽成卯兵衛」さんが政府の補助金と私財を投入して干拓事業を行ったが、この地は底なし沼のような土壌で杭は流され大変苦労したようだ。
今回見ている井関地区は前から書いているように「水戸藩」の領地であった。
石岡などは松平2万石の常陸府中藩であったが、殿様も家臣もほとんど江戸詰めでこちらに来ることはほとんどなかったようです。
そのため商人や町人、農民などが中心になっており、華やかな江戸文化がほとんど伝わっていないように思います。
江戸時代の文化などの特筆すべき事柄がほとんど無いに等しいのです。
一方水戸藩は前に紹介した小川から玉里そしてこの井関の地を押さえていました。
それには理由があったようです。
水戸から江戸に物資を運ぶには那珂川から涸沼に入り、途中陸路を使って小川よりまた園部川の船着場から船に乗せて霞ヶ浦-銚子-利根川をさかのぼって埼玉県関宿で江戸川に入り、江戸へ運んでいたのです。
このため、小川が必要だったのでしょう。
では玉里とここ井関はというと「御留川(おとめがわ)」なる制度のためだと思われます。
霞ヶ浦は豊かな漁場でした。どこのものと区別ができないようでしたが、それでも自主的に乱獲を防ぎ漁民たちの自治組織などが出来上がっていました。
しかし、この高浜入りと呼ばれる入江は両岸との幅が狭くなっており、両側の領地をもつことで川とみなしてこの領域の漁業権を独占したのです。

八木干拓の手前石川地区から対岸の高崎地区を望む。
むかしこのあたりから下流の玉里地区までが御留川だった。
これにより、この領域で採れた魚はすべて水戸藩に運ばれ、水戸藩およびこの両岸の漁民に利益をもたらしたのです。
「こんなのずるいよね」と思いますが、今も昔もそんなものだったのでしょう。
しかし、統計によれば江戸時代に行われた地検により、この地の石高が150%程に上がってしまったようですので、豊かではあったでしょうが楽ではなかったのかもしれません。
そして大飢饉が起こったときにダイダラボッチ人形を作って街角においたのです。
少しこの地の人たちの気持ちもわかってくるような気もします。


ダイダラボッチの里(7)-浜卯干拓
昨日のニュースで「ニホンカワウソ」が絶滅種になってしまったといっていた。
ユーラシアカワウソなどはまだ結構見られるらしいのだが残念です。
1年ほど前に石岡の恋瀬川にカワウソらしきものを見かけたことがある。
その時もニホンカワウソだったらこれは大変だと話し合ったことがある。
恋瀬川や霞ヶ浦周辺にはまだまだたくさんの動物や鳥がいるが調査や保護などはどうなっているのだろうか?
さて、ダイダラボッチの里「井関」地区をみてまわり、最後に訪れた八木・石川地区は干拓事業が大正から行われてきた。
この事業が大変だったと「石岡の歴史」などの本にのっており、八木(関川)干拓のことを「浜卯干拓」というのだそうだ。
これはこの事業をした高浜の醤油業「羽成卯兵衛」の卯をとっているはずだが、浜は?
この事業は大正時代に政府の助成事業に私財もつぎ込んだ「羽成卯兵衛」さんと真壁の「猪瀬蔵太郎」さんの2人だ。
調べてみると確かにその頃は食糧難の時があったようだ。しかし今は??
この干拓地をもう一度見ておこうと行ってみた。
しかし、現在霞ヶ浦湖岸よりの堤防を工事中で車で湖岸を走ることができなかった。
そのため旧道をぐるりと回って一番奥まで行った。
そこに下記の石碑があった。
(写真はサムネルです。クリックで大きくなります)

「甦った浜卯干拓」と書かれています。 内容は下の拡大で読めると思います。

この護岸堤防工事をかなり前からやっています。
調べてみると霞ヶ浦の周りにはすべて基準高さが+3.15mとなったと書かれていたものがありました。
この基準の高さは江戸川河口の高さに対する高さを示したものだそうです。
この八木(関川)地区は対岸との距離が狭く、湖岸での水深も1m以上あるようです。
このため、風が強いと波が荒く、土を盛っただけの堤防ではないそうです。
鉄板を縦に埋め込んでそこにあとから土を盛っているようです。
霞ヶ浦の浄化についてはいろいろな意見が有り、遠く那珂川とトンネル水路をつないで水を流すことや、銚子川の水門を農閑期には開けたら良いなどの意見が交錯しています。
たしかにこの干拓地もコメが黄金色に実っていたが、果たして昔考えたほどの効果があったのか?
一部はレンコン栽培に、近く(石川地区)では生花などのビニール栽培なども行われているようだ。
そろそろ考えていかねばならないだろう。
霞ヶ浦の対岸の山の上の端には「愛宕神社」がある。
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ユーラシアカワウソなどはまだ結構見られるらしいのだが残念です。
1年ほど前に石岡の恋瀬川にカワウソらしきものを見かけたことがある。
その時もニホンカワウソだったらこれは大変だと話し合ったことがある。
恋瀬川や霞ヶ浦周辺にはまだまだたくさんの動物や鳥がいるが調査や保護などはどうなっているのだろうか?
さて、ダイダラボッチの里「井関」地区をみてまわり、最後に訪れた八木・石川地区は干拓事業が大正から行われてきた。
この事業が大変だったと「石岡の歴史」などの本にのっており、八木(関川)干拓のことを「浜卯干拓」というのだそうだ。
これはこの事業をした高浜の醤油業「羽成卯兵衛」の卯をとっているはずだが、浜は?
この事業は大正時代に政府の助成事業に私財もつぎ込んだ「羽成卯兵衛」さんと真壁の「猪瀬蔵太郎」さんの2人だ。
調べてみると確かにその頃は食糧難の時があったようだ。しかし今は??
この干拓地をもう一度見ておこうと行ってみた。
しかし、現在霞ヶ浦湖岸よりの堤防を工事中で車で湖岸を走ることができなかった。
そのため旧道をぐるりと回って一番奥まで行った。
そこに下記の石碑があった。
(写真はサムネルです。クリックで大きくなります)

「甦った浜卯干拓」と書かれています。 内容は下の拡大で読めると思います。

この護岸堤防工事をかなり前からやっています。
調べてみると霞ヶ浦の周りにはすべて基準高さが+3.15mとなったと書かれていたものがありました。
この基準の高さは江戸川河口の高さに対する高さを示したものだそうです。
この八木(関川)地区は対岸との距離が狭く、湖岸での水深も1m以上あるようです。
このため、風が強いと波が荒く、土を盛っただけの堤防ではないそうです。
鉄板を縦に埋め込んでそこにあとから土を盛っているようです。
霞ヶ浦の浄化についてはいろいろな意見が有り、遠く那珂川とトンネル水路をつないで水を流すことや、銚子川の水門を農閑期には開けたら良いなどの意見が交錯しています。
たしかにこの干拓地もコメが黄金色に実っていたが、果たして昔考えたほどの効果があったのか?
一部はレンコン栽培に、近く(石川地区)では生花などのビニール栽培なども行われているようだ。
そろそろ考えていかねばならないだろう。
霞ヶ浦の対岸の山の上の端には「愛宕神社」がある。


ダイダラボッチの里(8)-地蔵尊(八木)
八木干拓の里を探索していたら、先日紹介した「住吉神社」の山をぐるりと回ったところに道角に地蔵尊と書かれたお堂が置かれていた。

T字路の角に山側に比較的新しいお堂があった。
この前には八木公民館と書かれていた。

この石柱には「古酒馬場???」などと書かれている。古酒(ふるさき)地区は少し離れている。

「月読尊」「二十三夜供養塔」「十九夜尊」「庚申像」など古いものも比較的新しそうなものまでいろいろなものがまとめて置かれているようです。
きっと、近くの山や里の道端にでも置かれていたものをここに集めて置かれているのだろう。

お堂の額には「地蔵尊」と書かれているので、中には地蔵尊が祀られているものと思います。
この地区には道標の上に地蔵が彫られた石柱(花崗岩?)があるというので、この中にあるのかもしれない。
覗いていないので何があるかはわからない。

この地蔵尊のすぐ前に立派な家があった。
門や家屋、蔵などの瓦の模様が変わっていたので写真を撮ってみた。

立派な入口門の屋根です。模様が素敵ですね。どのような意味があるのでしょうか?

こちらは石蔵です。屋号は何んと書いてあるのか?

干拓ももう稲が黄金色ですね。ここに来るまで一部で稲刈り(早場米?)をし終わった田を見ました。
しかし、8月にはまだほとんど稲刈りはしません。
あと1~2週間くらいすると刈り取られているかもしれません。
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T字路の角に山側に比較的新しいお堂があった。
この前には八木公民館と書かれていた。

この石柱には「古酒馬場???」などと書かれている。古酒(ふるさき)地区は少し離れている。

「月読尊」「二十三夜供養塔」「十九夜尊」「庚申像」など古いものも比較的新しそうなものまでいろいろなものがまとめて置かれているようです。
きっと、近くの山や里の道端にでも置かれていたものをここに集めて置かれているのだろう。

お堂の額には「地蔵尊」と書かれているので、中には地蔵尊が祀られているものと思います。
この地区には道標の上に地蔵が彫られた石柱(花崗岩?)があるというので、この中にあるのかもしれない。
覗いていないので何があるかはわからない。

この地蔵尊のすぐ前に立派な家があった。
門や家屋、蔵などの瓦の模様が変わっていたので写真を撮ってみた。

立派な入口門の屋根です。模様が素敵ですね。どのような意味があるのでしょうか?

こちらは石蔵です。屋号は何んと書いてあるのか?

干拓ももう稲が黄金色ですね。ここに来るまで一部で稲刈り(早場米?)をし終わった田を見ました。
しかし、8月にはまだほとんど稲刈りはしません。
あと1~2週間くらいすると刈り取られているかもしれません。


ダイダラボッチの里(9)
石岡市の東南端の地区(旧井関村、石川村)は、江戸時代は、常陸府中藩(常府)とは違って水戸藩の飛び地であった。
この里をダイダラボッチ(大人形)を飾る地区や霞ヶ浦の干拓した地区と紹介してみたが、本当はもっと違った側面を紹介するべきだったかもしれない。
それは、この地区は多くの古墳が眠っている地でもあるが、江戸時代に「楢山塾」「長峰塾」という私塾が開設され、多くの子弟を育て、文化的にも大きな影響を与えた土地柄でもあったことだと思う。
これは、霞ヶ浦の対岸側の小川が水戸藩の医学校(稽医館)や小川郷校が作られていたことが非常に大きい。
この「楢山塾」は1840年に小川稽医館で学んだ鈴木文輔が起こしたものであり、「長峰塾」は小川郷校に学んだ鈴木銀四郎晩香が1858年に起こした。
明治5年に政府が学校制度を頒布して、続々と小学校が設立されたが、これらの私塾教育がすでに行われていたことは特筆されてもいいと思う。
これらは少しみな高台側であるが、霞ヶ浦に面したところの写真を少し紹介します。

石川地区の干拓入口部にあるモータープール。

この場所から土手が続き、右側には田んぼが広がります。
しかし、この土手の道は車は進入禁止になっていました。
これはこの先の八木地区の堤防を工事中のためだと思います。前は通れたように思います。

この場所は釣りの人も多いようですが、危険なので釣り禁止です。

西側には筑波山が見えます。この場所では手前の建物が邪魔です。
写真には八木地区入口の方が良さそうですが、工事中です。

この石川地区の田んぼには、写真のような比較的大きなビニールハウスが並んでいます。
中ではいろいろな花を育てているようです。

さて、前回紹介した八木地区の高台にあった「住吉神社」と同じように、石川地区から八木地区へこの山沿いの道を進むと高台に「鹿島神社」があります。
しかし、通りの道が狭く、手前も車を置く場所がないので、鳥居のところで写真を撮っただけで通り過ぎました。
これではこの神社に一人で登るのはためらわれます。
この里をダイダラボッチ(大人形)を飾る地区や霞ヶ浦の干拓した地区と紹介してみたが、本当はもっと違った側面を紹介するべきだったかもしれない。
それは、この地区は多くの古墳が眠っている地でもあるが、江戸時代に「楢山塾」「長峰塾」という私塾が開設され、多くの子弟を育て、文化的にも大きな影響を与えた土地柄でもあったことだと思う。
これは、霞ヶ浦の対岸側の小川が水戸藩の医学校(稽医館)や小川郷校が作られていたことが非常に大きい。
この「楢山塾」は1840年に小川稽医館で学んだ鈴木文輔が起こしたものであり、「長峰塾」は小川郷校に学んだ鈴木銀四郎晩香が1858年に起こした。
明治5年に政府が学校制度を頒布して、続々と小学校が設立されたが、これらの私塾教育がすでに行われていたことは特筆されてもいいと思う。
これらは少しみな高台側であるが、霞ヶ浦に面したところの写真を少し紹介します。

石川地区の干拓入口部にあるモータープール。

この場所から土手が続き、右側には田んぼが広がります。
しかし、この土手の道は車は進入禁止になっていました。
これはこの先の八木地区の堤防を工事中のためだと思います。前は通れたように思います。

この場所は釣りの人も多いようですが、危険なので釣り禁止です。

西側には筑波山が見えます。この場所では手前の建物が邪魔です。
写真には八木地区入口の方が良さそうですが、工事中です。

この石川地区の田んぼには、写真のような比較的大きなビニールハウスが並んでいます。
中ではいろいろな花を育てているようです。

さて、前回紹介した八木地区の高台にあった「住吉神社」と同じように、石川地区から八木地区へこの山沿いの道を進むと高台に「鹿島神社」があります。
しかし、通りの道が狭く、手前も車を置く場所がないので、鳥居のところで写真を撮っただけで通り過ぎました。
これではこの神社に一人で登るのはためらわれます。
今年もダイダラボッチの里へ
毎年旧盆明けの8月16日に部落の入口に厄除けの大人形を飾る地区へ見に行ってきました。
前の年に飾った人形は新しいのを飾る時に焼却されます。
1年間ありがとうございましたとお祈りを捧げます。
地元では大人形と言っていてダイダラボッチとは呼ばないという話も聞きましたが、やはり地名に代田がつくところもあり、ダイダラボッチが足を踏ん張って窪地になったなどというお話もあるようですから、これはダイダラボッチと呼んでいいでしょう。
その方がいろいろ話が膨らんで面白い。
今年は人形造りに地元の小学校の生徒さんも手伝ったと聞いています。
でもちょっと説明に困る形もあるんです。見てもらえばわかります。
今年は16日に行けなかったので15日の夕方と17日(今日)とで人形を見比べてきました。

代田地区の大人形(8/15)

代田地区の新しい大人形(8/17)

代田地区の入口のT字路の角におかれています。

古酒(ふるさき)地区の大人形(8/15)

古酒(ふるさき)地区の新しい大人形(8/17)

古酒地区もやはり道のわかれ道の隅におかれています。

長者峰地区の大人形(8/15)

長者峰地区の新しい大人形(8/17)

長者峰地区は山の起伏の多い場所です。
昔の地区の入り口はこの山道が入口だったのでしょうか?
知らない人がここを一人で歩いていて見つけたらさぞ驚くでしょうね。
手前の燃えた跡は前の人形を焼いた跡です。

どうですか、こんなところで1人で突然出くわしたら逃げ出しそうですよ。

梶和崎の大人形です(8/15)
8月16日に新しくするのは前の3か所のようです。ここは少し早く取り替えるようです。
1カ月前なのか2週間くらい前なのかははっきりわかりません。
去年行った時もすでに杉の葉の色が茶色に変色していました。

人形は江戸時代に疫病がはやった時から厄除けのために飾り始めたようです。
藁人形作りは男性に限られるそうですし、段々人手が少なくなるこのご時世にこのような貴重な風習がなくなってしまわないか心配です。
一時取りやめた時期があったようですが、縁起の悪いことが続いてまた復活したようです。
こ「なにこれ珍百景」候補でしょうかね。
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前の年に飾った人形は新しいのを飾る時に焼却されます。
1年間ありがとうございましたとお祈りを捧げます。
地元では大人形と言っていてダイダラボッチとは呼ばないという話も聞きましたが、やはり地名に代田がつくところもあり、ダイダラボッチが足を踏ん張って窪地になったなどというお話もあるようですから、これはダイダラボッチと呼んでいいでしょう。
その方がいろいろ話が膨らんで面白い。
今年は人形造りに地元の小学校の生徒さんも手伝ったと聞いています。
でもちょっと説明に困る形もあるんです。見てもらえばわかります。
今年は16日に行けなかったので15日の夕方と17日(今日)とで人形を見比べてきました。

代田地区の大人形(8/15)

代田地区の新しい大人形(8/17)

代田地区の入口のT字路の角におかれています。

古酒(ふるさき)地区の大人形(8/15)

古酒(ふるさき)地区の新しい大人形(8/17)

古酒地区もやはり道のわかれ道の隅におかれています。

長者峰地区の大人形(8/15)

長者峰地区の新しい大人形(8/17)

長者峰地区は山の起伏の多い場所です。
昔の地区の入り口はこの山道が入口だったのでしょうか?
知らない人がここを一人で歩いていて見つけたらさぞ驚くでしょうね。
手前の燃えた跡は前の人形を焼いた跡です。

どうですか、こんなところで1人で突然出くわしたら逃げ出しそうですよ。

梶和崎の大人形です(8/15)
8月16日に新しくするのは前の3か所のようです。ここは少し早く取り替えるようです。
1カ月前なのか2週間くらい前なのかははっきりわかりません。
去年行った時もすでに杉の葉の色が茶色に変色していました。

人形は江戸時代に疫病がはやった時から厄除けのために飾り始めたようです。
藁人形作りは男性に限られるそうですし、段々人手が少なくなるこのご時世にこのような貴重な風習がなくなってしまわないか心配です。
一時取りやめた時期があったようですが、縁起の悪いことが続いてまた復活したようです。
こ「なにこれ珍百景」候補でしょうかね。


四角地蔵尊
石岡市のダイダラボッチの里を散策しているとなぜか懐かしくなる風情が多く残っている。
もちろん街角に大人形(ダイダラボッチ)を飾る風習は独特のもので、独特の文化が脈々と続いているのも珍しい。(こちら)
藁でできた大人形を飾る風習は各地にもあると言う。
特に秋田の南部や千葉の君津で「鹿島様」と呼ばれる人形が知られている。
何故「鹿島様」と呼ばれるのかは定説はないが、鹿島神宮の蝦夷征伐(統一)とかかわっているものだと思う。
秋田も佐竹氏が常陸から行ったので「鹿島」だと言う説が書かれてもいたが、この秋田南部の鹿島様を見ているともう少し土着した文化が伝わってくる。
秋田から佐竹氏の入れ替わって常陸国宍戸にやってきた「秋田氏」は数年で福島県三春に移転となったが、ここの田んぼに天狗の土面を作って田植えをやったという風習があった。(記事こちら)
この秋田氏は蝦夷(アテルイたち)の末裔である安倍貞任の後裔を称した安東氏の後身であるといわれている。
平安時代頃はまだ歴史的に残されている物はほとんど貴族たちの世界でしかない。
農民・庶民の感情がどうなっていたのかはあまり分からない。
大人形が鹿島様と呼ばれるのがどのような気持ちが込められているのか?
石岡のダイダラボッチ(地元では大人形と読んでいるようだ)人形は流行病の侵入を防ぐ厄除けの意味合いが強いと言うが、農民芸能の一つと考えてみたい。
さて、話は石岡のダイダラボッチの里に十字路(ほとんどただの曲がり角)の角に「四角地蔵堂」がある。
この字を何と読むのかは知らないが「しかく」ではなく「よつかど」だろう。
どこの田舎道でも昔は道のわかれ道などにはお地蔵さんなどがおかれていた。
あの地蔵さんのところを右に曲がって、などと目印になったのだろう。
そんな名前の地蔵堂だ。


石岡や高浜方面からこちらに来るとまず代田地区で「ダイダラボッチ」が町の見張りに立っている。
そのまま進むと次の曲がり角にこの地蔵堂がある。
右に曲がると立派な阿弥陀堂を持つ「盛賢寺」がある。
その他のダイダラボッチ人形はこの道を曲がらずにもう少し先に進んだ場所にある。

昔からこの場所で見守ってきた地蔵さんはどんな物語をしてくれるのでしょうか。

地蔵堂の中には木箱に入れられた大切な地蔵尊が格納されているのでしょうか。

木仏なのかもしれませんね。
あまり見る人もいないのでしょうが、何か語りかけてきそうで面白いですね。
この少し先にやはり大人形を飾る「古酒」と書いて「フルサキ」と読む地名があります。
縄文語の研究などをされる人にはきっと興味深い地名なのではないでしょうか?
「古=ふる=hur=丘、酒=さき=san-ke=サカ(坂)のところ 」だと言います。
そんなものかなと思うとそう思えてくるんですね。
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もちろん街角に大人形(ダイダラボッチ)を飾る風習は独特のもので、独特の文化が脈々と続いているのも珍しい。(こちら)
藁でできた大人形を飾る風習は各地にもあると言う。
特に秋田の南部や千葉の君津で「鹿島様」と呼ばれる人形が知られている。
何故「鹿島様」と呼ばれるのかは定説はないが、鹿島神宮の蝦夷征伐(統一)とかかわっているものだと思う。
秋田も佐竹氏が常陸から行ったので「鹿島」だと言う説が書かれてもいたが、この秋田南部の鹿島様を見ているともう少し土着した文化が伝わってくる。
秋田から佐竹氏の入れ替わって常陸国宍戸にやってきた「秋田氏」は数年で福島県三春に移転となったが、ここの田んぼに天狗の土面を作って田植えをやったという風習があった。(記事こちら)
この秋田氏は蝦夷(アテルイたち)の末裔である安倍貞任の後裔を称した安東氏の後身であるといわれている。
平安時代頃はまだ歴史的に残されている物はほとんど貴族たちの世界でしかない。
農民・庶民の感情がどうなっていたのかはあまり分からない。
大人形が鹿島様と呼ばれるのがどのような気持ちが込められているのか?
石岡のダイダラボッチ(地元では大人形と読んでいるようだ)人形は流行病の侵入を防ぐ厄除けの意味合いが強いと言うが、農民芸能の一つと考えてみたい。
さて、話は石岡のダイダラボッチの里に十字路(ほとんどただの曲がり角)の角に「四角地蔵堂」がある。
この字を何と読むのかは知らないが「しかく」ではなく「よつかど」だろう。
どこの田舎道でも昔は道のわかれ道などにはお地蔵さんなどがおかれていた。
あの地蔵さんのところを右に曲がって、などと目印になったのだろう。
そんな名前の地蔵堂だ。


石岡や高浜方面からこちらに来るとまず代田地区で「ダイダラボッチ」が町の見張りに立っている。
そのまま進むと次の曲がり角にこの地蔵堂がある。
右に曲がると立派な阿弥陀堂を持つ「盛賢寺」がある。
その他のダイダラボッチ人形はこの道を曲がらずにもう少し先に進んだ場所にある。

昔からこの場所で見守ってきた地蔵さんはどんな物語をしてくれるのでしょうか。

地蔵堂の中には木箱に入れられた大切な地蔵尊が格納されているのでしょうか。

木仏なのかもしれませんね。
あまり見る人もいないのでしょうが、何か語りかけてきそうで面白いですね。
この少し先にやはり大人形を飾る「古酒」と書いて「フルサキ」と読む地名があります。
縄文語の研究などをされる人にはきっと興味深い地名なのではないでしょうか?
「古=ふる=hur=丘、酒=さき=san-ke=サカ(坂)のところ 」だと言います。
そんなものかなと思うとそう思えてくるんですね。


代田のダイダラボッチ(大人形)
今年もこの大人形に会いに行ってきました。
毎年8月16日の夕方に代田地区の街角(入口)に置かれます。
これから1年間、雨の日も風の日も、外からやってくる悪霊や災いを中に入れないように見守り続けます。
代田だからダイダラボッチ? 地元では大人形と呼んでいるようですがダイダラボッチでいいですよね。
千葉や新潟、秋田には藁で作ったもっと大きな人形があり、「鹿島さま」と呼ばれていますが、ここのダイダラボッチは杉の葉で毛もくじゃらな独特の人形です。

独特の顔、槍のような長い竹を持ち、腰には刀をさしています。

昨年の8月に作られた人形は役目を終えて燃やされます。

置かれているのは地区の入り口の曲がり角。
疫病を村に入れないように見張ります。

この人形を作って飾るのは男の仕事。
とはいえ、この乳と男性シンボルはナスで・・・・
そしてその付け根の支えにトウモロコシが使われていました。
むかしからのこれが姿なのでしょう。
他の地区では少しずつ変化しているようです。

顔も地区ごとに少し異なります。
これも伝統があるのでしょう。
顔は数年使いまわすこともあるようですが皆きれいでしたので、毎年新しく書かれるのかもしれません。
毎年8月16日の夕方に代田地区の街角(入口)に置かれます。
これから1年間、雨の日も風の日も、外からやってくる悪霊や災いを中に入れないように見守り続けます。
代田だからダイダラボッチ? 地元では大人形と呼んでいるようですがダイダラボッチでいいですよね。
千葉や新潟、秋田には藁で作ったもっと大きな人形があり、「鹿島さま」と呼ばれていますが、ここのダイダラボッチは杉の葉で毛もくじゃらな独特の人形です。

独特の顔、槍のような長い竹を持ち、腰には刀をさしています。

昨年の8月に作られた人形は役目を終えて燃やされます。

置かれているのは地区の入り口の曲がり角。
疫病を村に入れないように見張ります。

この人形を作って飾るのは男の仕事。
とはいえ、この乳と男性シンボルはナスで・・・・
そしてその付け根の支えにトウモロコシが使われていました。
むかしからのこれが姿なのでしょう。
他の地区では少しずつ変化しているようです。

顔も地区ごとに少し異なります。
これも伝統があるのでしょう。
顔は数年使いまわすこともあるようですが皆きれいでしたので、毎年新しく書かれるのかもしれません。
古酒のダイダラボッチ
石岡市井関地区に伝わるダイダラボッチ(大人形)。
今日は2軒目の「古酒(ふるさき)」地区。

この顔も毎年書くのだそうだが、毎年少しずつ違っているように思う。

人形の芯となる体もどことなく華奢のようだ。
男根、乳のシンボもないようです。


通りの曲がり角で、日当たりもよさそうだ。
手前に昨年の人形を燃やした跡がある。
この場所は何度か言っているのでわかるが、最初は何度も探してウロウロしたものだ。
井関地区は江戸時代は水戸藩の飛び地。
古酒(ふるさき)という地名の由来は不明だが気になる地名だ。
今日は2軒目の「古酒(ふるさき)」地区。

この顔も毎年書くのだそうだが、毎年少しずつ違っているように思う。

人形の芯となる体もどことなく華奢のようだ。
男根、乳のシンボもないようです。


通りの曲がり角で、日当たりもよさそうだ。
手前に昨年の人形を燃やした跡がある。
この場所は何度か言っているのでわかるが、最初は何度も探してウロウロしたものだ。
井関地区は江戸時代は水戸藩の飛び地。
古酒(ふるさき)という地名の由来は不明だが気になる地名だ。
長者峰のダイダラボッチ
古酒から少し入ったところにある長者峰。
ここでもダイダラボッチ大人形を飾っています。

顔はブリキ板に書いているようで、黒だけでなく赤色も入っています。
できるだけ怖い顔を書いているということですが、歌舞伎の化粧を思い浮かべます。

置かれているのはこのように森の入り口の木の下。
暗くなったら少し不気味です。
でもあまり日が当たらないので、比較的葉が茶色になるのも遅いようです。
また比較的形が崩れるのも遅いようです。

乳の部分にナス。
説明では男根がないと書かれているのですが、小さなものがついているようでもあります。


訪れたのは8月16日の午後5時半過ぎです。
まだ前の人形の燃えカスがくすぶっていました。
藁などで形造った大人形を現地で飾り付けるのはどこも夕方3時過ぎから5時ころの間のようです。
杉の葉などは前もって用意すると色があせてしまうので、飾り付けの日に用意するようです。

ここでもダイダラボッチ大人形を飾っています。

顔はブリキ板に書いているようで、黒だけでなく赤色も入っています。
できるだけ怖い顔を書いているということですが、歌舞伎の化粧を思い浮かべます。

置かれているのはこのように森の入り口の木の下。
暗くなったら少し不気味です。
でもあまり日が当たらないので、比較的葉が茶色になるのも遅いようです。
また比較的形が崩れるのも遅いようです。

乳の部分にナス。
説明では男根がないと書かれているのですが、小さなものがついているようでもあります。


訪れたのは8月16日の午後5時半過ぎです。
まだ前の人形の燃えカスがくすぶっていました。
藁などで形造った大人形を現地で飾り付けるのはどこも夕方3時過ぎから5時ころの間のようです。
杉の葉などは前もって用意すると色があせてしまうので、飾り付けの日に用意するようです。

梶和崎のダイダラボッチ
石岡市井関地区で毎年8月に飾られているダイダラボッチ(大人形)の最後です。
梶和崎地区の道の曲がり角に飾られます。
代田地区からそのまま道を真っ直ぐに進んだところにありますので比較的わかりやすいです。

この地区だけが8月の第一日曜に飾るそうです。
残りの3か所は8月16日です。

顔の表情はまた違っていますね。
この表情を昔と比べてみると、表情は似ているのですが、前は白黒のみだったようです。
いつからか赤や青色も使われてきたようです。

やはり飾ってから10日ほど経つと、葉はだいぶ茶色く変色します。

藁で作る人形は韓国にもあるそうで、また道祖神などとして飾られたりする地域もあるようです。
魔よけの風習がどこもあるようです。
近くでは鹿島様と呼ばれる大人形が千葉から新潟や秋田などへ伝わって広がっていますが、このように青々した杉の葉を使った毛むくらじゃのムックのような人形はここだけではないかと思います。
また、この井関地区では他に「八木地区」「御前山」地区でも作っていたそうです。
しかし江戸時代に常陸太田の方から持ってきたという立派なお寺「盛賢寺」のある地域では仁王様がいるので人形は作ってこなかったともいわれているようです。
40~50年前頃に一度人形つくりをやめたことがあったようですが、偶然かどうかはわかりませんが不幸が続いたので復活したとも言われています。
説明では江戸時代の天明の大飢饉の時に村を守るために考えられたようです。
関東から東北などは大変な冷害で大飢饉となった過去最大級の飢饉です。
「寒さの夏はおろおろ歩き・・・・」といった冷害は時々あったようですが、天明の飢饉では餓死者が2万人以上で、人肉を食う者まで現れたと記録にあるほどです。
この大人形を見て、昔の人の苦労も想像してみたいですね。
梶和崎地区の道の曲がり角に飾られます。
代田地区からそのまま道を真っ直ぐに進んだところにありますので比較的わかりやすいです。

この地区だけが8月の第一日曜に飾るそうです。
残りの3か所は8月16日です。

顔の表情はまた違っていますね。
この表情を昔と比べてみると、表情は似ているのですが、前は白黒のみだったようです。
いつからか赤や青色も使われてきたようです。

やはり飾ってから10日ほど経つと、葉はだいぶ茶色く変色します。

藁で作る人形は韓国にもあるそうで、また道祖神などとして飾られたりする地域もあるようです。
魔よけの風習がどこもあるようです。
近くでは鹿島様と呼ばれる大人形が千葉から新潟や秋田などへ伝わって広がっていますが、このように青々した杉の葉を使った毛むくらじゃのムックのような人形はここだけではないかと思います。
また、この井関地区では他に「八木地区」「御前山」地区でも作っていたそうです。
しかし江戸時代に常陸太田の方から持ってきたという立派なお寺「盛賢寺」のある地域では仁王様がいるので人形は作ってこなかったともいわれているようです。
40~50年前頃に一度人形つくりをやめたことがあったようですが、偶然かどうかはわかりませんが不幸が続いたので復活したとも言われています。
説明では江戸時代の天明の大飢饉の時に村を守るために考えられたようです。
関東から東北などは大変な冷害で大飢饉となった過去最大級の飢饉です。
「寒さの夏はおろおろ歩き・・・・」といった冷害は時々あったようですが、天明の飢饉では餓死者が2万人以上で、人肉を食う者まで現れたと記録にあるほどです。
この大人形を見て、昔の人の苦労も想像してみたいですね。
ダイダラボッチ大人形
今年も少し遅くなりましたが代田地区の大人形(ダイダラボッチ)を見てきました。
代田、古酒(ふるさき)、長者峰、梶和崎の4地区の入り口隅に毎年お盆休みの終わり8月16日に藁や杉の葉などで大人形を作って悪災を防止し無病息災を祈るために飾ることが行われています。
代田と梶和崎は比較的わかりやすい通り沿いなので、古酒(ふるさき)と長者峰を見ようと出かけたのです。
まずは長者峰の大人形です。地元の人たちは皆大人形と言いますが、私たち見物人は何故かダイダラボッチといいますね。
代田地区にあることや、ダイダラボッチの伝説もこの近くにあることにもよります。

今年も無事飾り付けられていました。毎年8月16日に飾り付けられます。
(梶和崎地区だけは1週間くらい早い週末の休みに飾るようです)
地区の方達は大変でしょうが、こうしてまた会えることがうれしいです。

ここの大人形は少し薄暗い森の入り口で、大きな頭に、いかつい顔が特徴でしょうか。
顔などは場所によっては変わったりしますが、この場所の人形はあまり変わらないようです。
最も特徴があり一番好きですね。

少し北側の古酒(ふるさき)地区の大人形を次に見ようと思ったのですが、今年は飾られていませんでした。
昨年作った人形を燃やした跡がありましたので、昨年の人形の供養は終わったようです。
人手不足でつくるのをやめてしまったのかもしれません。
段々少なくなり4か所が3か所になってしまったかもしれませんね。寂しいですね。
昔は5カ所で飾っていたそうですが、あるときに一斉にやめてしまったときがあるそうです。
その時に、いろいろ悪いことが起きたため厄病防止のこの人形が4か所で復活したのです。

昨年度1年間飾られていた人形が燃やされた跡がありました。

以前人形が置かれていた森の反対側に「愛宕神社の御守り札」が置かれていました。

昨年の古酒地区の大人形を載せておきます。(男性シンボルや胸などの表現は無かったように思われます。)

(昨年 2017年8月17日撮影)
代田、古酒(ふるさき)、長者峰、梶和崎の4地区の入り口隅に毎年お盆休みの終わり8月16日に藁や杉の葉などで大人形を作って悪災を防止し無病息災を祈るために飾ることが行われています。
代田と梶和崎は比較的わかりやすい通り沿いなので、古酒(ふるさき)と長者峰を見ようと出かけたのです。
まずは長者峰の大人形です。地元の人たちは皆大人形と言いますが、私たち見物人は何故かダイダラボッチといいますね。
代田地区にあることや、ダイダラボッチの伝説もこの近くにあることにもよります。

今年も無事飾り付けられていました。毎年8月16日に飾り付けられます。
(梶和崎地区だけは1週間くらい早い週末の休みに飾るようです)
地区の方達は大変でしょうが、こうしてまた会えることがうれしいです。

ここの大人形は少し薄暗い森の入り口で、大きな頭に、いかつい顔が特徴でしょうか。
顔などは場所によっては変わったりしますが、この場所の人形はあまり変わらないようです。
最も特徴があり一番好きですね。

少し北側の古酒(ふるさき)地区の大人形を次に見ようと思ったのですが、今年は飾られていませんでした。
昨年作った人形を燃やした跡がありましたので、昨年の人形の供養は終わったようです。
人手不足でつくるのをやめてしまったのかもしれません。
段々少なくなり4か所が3か所になってしまったかもしれませんね。寂しいですね。
昔は5カ所で飾っていたそうですが、あるときに一斉にやめてしまったときがあるそうです。
その時に、いろいろ悪いことが起きたため厄病防止のこの人形が4か所で復活したのです。

昨年度1年間飾られていた人形が燃やされた跡がありました。

以前人形が置かれていた森の反対側に「愛宕神社の御守り札」が置かれていました。

昨年の古酒地区の大人形を載せておきます。(男性シンボルや胸などの表現は無かったように思われます。)

(昨年 2017年8月17日撮影)
ダイダラボッチ大人形2
大人形を飾る残りの地区の人形も載せておきます。

代田地区の大人形です。
去年はシンプルな顔だったともいますが、今年は歌舞伎の隈取(くまどり)を思い浮かべる顔です。
ブリキなどに手書きしているようで毎年? 新しくしているのでしょうか。

江戸時代に疫病が流行った時に地区の各部落が入口にこの大人形を置いて部落を守ってもらったことが始まりだといいます。
毎年8月に人形を製作し、夕方に部落の角に設置して1年間飾ります。
胴体や頭などは藁を組んで作り、そこに杉の葉を刺して毛むくじゃらの大人形が出来上がります。
人形を設置するのは男衆だけで行うそうです。
この後継者も徐々に厳しくなりますね。

少し先の梶和崎地区の大人形です。
毎年1週間ほど早く飾り付けが行われています。
でも杉の葉が枯れているのは最初からかれた葉を使うのかもしれません。
秋田、新潟、千葉などに「鹿島様」と呼ばれる藁の大人形がありますが、ここの大人形と違ってこのような毛むくじゃらの直ぐの葉などは使われていませんし、顔などもこんなにリアルな表現はされていないと思います。
いずれにしても面白い習慣ですね。
この代田、梶和崎、長者峰、古崎、八木、井関の地区は江戸時代は水戸藩の領地でした。
八木のあたりには昔は島があって水戸の政治犯などが流されてきていました。
井関地区には大きな寺「盛賢寺」があり、人形は飾りません。

代田地区の大人形です。
去年はシンプルな顔だったともいますが、今年は歌舞伎の隈取(くまどり)を思い浮かべる顔です。
ブリキなどに手書きしているようで毎年? 新しくしているのでしょうか。

江戸時代に疫病が流行った時に地区の各部落が入口にこの大人形を置いて部落を守ってもらったことが始まりだといいます。
毎年8月に人形を製作し、夕方に部落の角に設置して1年間飾ります。
胴体や頭などは藁を組んで作り、そこに杉の葉を刺して毛むくじゃらの大人形が出来上がります。
人形を設置するのは男衆だけで行うそうです。
この後継者も徐々に厳しくなりますね。

少し先の梶和崎地区の大人形です。
毎年1週間ほど早く飾り付けが行われています。
でも杉の葉が枯れているのは最初からかれた葉を使うのかもしれません。
秋田、新潟、千葉などに「鹿島様」と呼ばれる藁の大人形がありますが、ここの大人形と違ってこのような毛むくじゃらの直ぐの葉などは使われていませんし、顔などもこんなにリアルな表現はされていないと思います。
いずれにしても面白い習慣ですね。
この代田、梶和崎、長者峰、古崎、八木、井関の地区は江戸時代は水戸藩の領地でした。
八木のあたりには昔は島があって水戸の政治犯などが流されてきていました。
井関地区には大きな寺「盛賢寺」があり、人形は飾りません。
井関盛賢寺の観音堂
ダイダラボッチ大人形をまちかどに飾る地域の中心に井関の街があります。
しかし、この土地は昔から大人形は飾りません。この地域に大きなこの盛賢寺という真言宗豊山派の寺があるからだといわれています。
今から700年ほど前にこのとても立派な阿弥陀堂(市指定文化財)が建てられたといわれています。
700年前というと鎌倉時代の終わり頃でしょうか。
そして、この地域が水戸藩の一部であったということで、藩内を巡航した水戸光圀(黄門)がこの阿弥陀堂にふさわしいように額田からこの盛賢寺という寺を移したといわれています。
額田(那珂市)にも何度か訪れましたが、なかなか面白い地域だと感じました。
親鸞の大山草庵があった旧桂村にありましたが、ここには浄土宗の阿弥陀寺があり、ここで親鸞は法然の三回忌法要をおこなったとされます。その阿弥陀寺は1392年に額田城の守護寺として額田に移されたのです。
今でもここの枝垂桜は有名ですが、この歴史的な背景はあまり知られていません。
いくつも寺が額田にはありますが、その中の一つを光圀はここへ移したようです。
ただこの阿弥陀堂は700年ほど前に建てられたといわれていて、かなり立派で、京都三宝院の流れをくんだ祈祷道場として建立された修行の場であったといわれています。

屋根が1983年に茅葺きから銅板に葺きかえられました。瓦屋根などにしなくてよかったですね。
瓦では重さに耐えられないでしょう。
内部の屋根の天井裏には、天女の彩色画が描かれているそうですがまだ拝見したことはありません。

龍の大きな彫刻は見ごたえがあります。
少し修理をすればよいのでしょうが、木の割れ目などが気になります。

しかし、この土地は昔から大人形は飾りません。この地域に大きなこの盛賢寺という真言宗豊山派の寺があるからだといわれています。
今から700年ほど前にこのとても立派な阿弥陀堂(市指定文化財)が建てられたといわれています。
700年前というと鎌倉時代の終わり頃でしょうか。
そして、この地域が水戸藩の一部であったということで、藩内を巡航した水戸光圀(黄門)がこの阿弥陀堂にふさわしいように額田からこの盛賢寺という寺を移したといわれています。
額田(那珂市)にも何度か訪れましたが、なかなか面白い地域だと感じました。
親鸞の大山草庵があった旧桂村にありましたが、ここには浄土宗の阿弥陀寺があり、ここで親鸞は法然の三回忌法要をおこなったとされます。その阿弥陀寺は1392年に額田城の守護寺として額田に移されたのです。
今でもここの枝垂桜は有名ですが、この歴史的な背景はあまり知られていません。
いくつも寺が額田にはありますが、その中の一つを光圀はここへ移したようです。
ただこの阿弥陀堂は700年ほど前に建てられたといわれていて、かなり立派で、京都三宝院の流れをくんだ祈祷道場として建立された修行の場であったといわれています。

屋根が1983年に茅葺きから銅板に葺きかえられました。瓦屋根などにしなくてよかったですね。
瓦では重さに耐えられないでしょう。
内部の屋根の天井裏には、天女の彩色画が描かれているそうですがまだ拝見したことはありません。

龍の大きな彫刻は見ごたえがあります。
少し修理をすればよいのでしょうが、木の割れ目などが気になります。

香勢堂
お盆明けの16日に今年もそろそろ代田、井関方面の大人形(ダイダラボッチ)を見ようかと、石岡市内から三村方面に車で向かった。
途中に思い出してこの「香勢堂墓地」に立ち寄ってみた。
何時もは素通りするのだが、前に私が書いた記事を読んで電話をくれた方がいたことを思いだしたから・・・
この墓所も、昔に図書館で読んだ本にあったので、行ってみようとして場所がわからずに近くをうろうろしてしまったが、わかってしまえば非常にわかりやすい場所にある。
また三村城の城主であった平常春(府中大掾氏の弟)の墓(五輪塔)もその頃何度となく探し回ったことなどを思い出していた。

ここでは、府中(石岡)の大掾氏が小川の園部氏や土浦の小田氏などと争っていた戦国末期に事件が起こった。
詳しくは前に書いた「三村城秘話」に詳しく載せてある
三村城秘話は ⇒ こちら

燃え落ちる味方の三村城を恋瀬川の対岸に眺め、府中城より援軍に駆け付けた兵士300名がこの近くで自害したとされる。
そして後に、ここに 一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれておりましたが、時が過ぎ、堂宇はなくなり、元禄年間(1688-1703)に六地蔵作られ、現在の場所(崖の下 北根本)に移されたものと考えられます。
香勢堂=高野勢堂=国府(こう)勢堂 ではないかと言われています。
この六地蔵の裏には197名と記載されており、昔の記録にあった300人とは違っています。
もっともこの頃の兵士がこのことで自害して見な果てたなどというのもどの程度の信ぴょう性があるかは不明です。
府中城が佐竹・園部氏らにより攻められて落城したのは三村城落城(1574年)から16年後(1590年)のことであった。
それにしてもこの三村城落城秘話に出てくる「大鷲と大鰻の格闘」の話は、昔話として実に面白い話(とても具体的で)なのだが・・・・・
あまり評判を呼ばないのは何故かな~
まあ、「鷲塚」「鰻塚」と呼ばれた古墳は高浜付近に常磐線の鉄道を通す時に削られて、湿地の埋め立てに使われてしまったので一緒に話も埋められてしまったのかもしれない。
また掘り起こしてみても面白い話だと思う。
途中に思い出してこの「香勢堂墓地」に立ち寄ってみた。
何時もは素通りするのだが、前に私が書いた記事を読んで電話をくれた方がいたことを思いだしたから・・・
この墓所も、昔に図書館で読んだ本にあったので、行ってみようとして場所がわからずに近くをうろうろしてしまったが、わかってしまえば非常にわかりやすい場所にある。
また三村城の城主であった平常春(府中大掾氏の弟)の墓(五輪塔)もその頃何度となく探し回ったことなどを思い出していた。

ここでは、府中(石岡)の大掾氏が小川の園部氏や土浦の小田氏などと争っていた戦国末期に事件が起こった。
詳しくは前に書いた「三村城秘話」に詳しく載せてある
三村城秘話は ⇒ こちら

燃え落ちる味方の三村城を恋瀬川の対岸に眺め、府中城より援軍に駆け付けた兵士300名がこの近くで自害したとされる。
そして後に、ここに 一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれておりましたが、時が過ぎ、堂宇はなくなり、元禄年間(1688-1703)に六地蔵作られ、現在の場所(崖の下 北根本)に移されたものと考えられます。
香勢堂=高野勢堂=国府(こう)勢堂 ではないかと言われています。
この六地蔵の裏には197名と記載されており、昔の記録にあった300人とは違っています。
もっともこの頃の兵士がこのことで自害して見な果てたなどというのもどの程度の信ぴょう性があるかは不明です。
府中城が佐竹・園部氏らにより攻められて落城したのは三村城落城(1574年)から16年後(1590年)のことであった。
それにしてもこの三村城落城秘話に出てくる「大鷲と大鰻の格闘」の話は、昔話として実に面白い話(とても具体的で)なのだが・・・・・
あまり評判を呼ばないのは何故かな~
まあ、「鷲塚」「鰻塚」と呼ばれた古墳は高浜付近に常磐線の鉄道を通す時に削られて、湿地の埋め立てに使われてしまったので一緒に話も埋められてしまったのかもしれない。
また掘り起こしてみても面白い話だと思う。