常陸大宮・太田 まほらにふく風に乗って
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西山荘(常陸太田)(1)

 今日午後から、水戸光圀の隠居所「西山荘」に行ってきました。
ここは紅葉もきれいなのですが、まだ少し早かったようです。
まぶしいくらいの緑に、少し紅葉が混じっている程度でしょうか。

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入口駐車場わきにできている「西山の里 桃源」の池と庭
このお休み処は前には無かったと思うが、何時できたのだろう。きれいに手入れされた庭もいい。

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西山荘手前の梅の庭

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入口の通用門。この竹林と質素な門がいつ来てもいいですね。

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水戸黄門(光圀)は華美なことをきらい、僅かな身の回りの物だけを持ち込んで、この隠居所で73歳で亡くなるまで10年間過ごしました。
この場所で大日本史の編纂事業を行なったとされています。

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西山荘は光圀没後100年以上後に野火により西山御殿が焼失し、翌年規模は小さくなりましたが再建されたものです。

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常陸大宮・太田 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/11/03 20:17

西山荘(常陸太田)(2)

 西山荘(せいざんそう)の続きです。

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これは入口の通用門で裏門と呼ばれているものです。
家臣や近所の庶民が出入りするための門ですが、表門より立派なのです。庶民を大切にしたいとの思いが込められています。

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さて、これが表門です。一般に「突上御門(つきあげごもん)」と呼ばれているもので、非常に質素な門です。この門は昼は扉を上にはね上げて開けたままにしておくのです。
お城からの使者などはこちらから入ります。

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西山御殿の裏側に吊るされた半鐘。280年前の物だそうです。
何か家臣や奉公人に用事や知らせたいことがある時に鳴らしたようです。

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これが「西山御殿」です。左端の丸い採光の窓があるところが書斎(三畳)でその右が寝室です。
その右は御座の間(十畳)の居間。続いて家来たちが控えるお次の間ですが、この間には敷居がありません。
玄関はもう少し右側です。

さて茅葺屋根のてっぺんに草が生えていますが、これはわざと生やしているのです。
植えられているのは「いちはつ(別名しばきり)」で、根が張ることによって屋根が崩れにくくなり、水をやることで火災の防止にもなるそうです。

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突上御門手前側からみた西山御殿。落ち着いた佇まいです。
すべて苔むした地面がとても落ち着いた気分にしてくれます。

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入口駐車場の桜。こちらは色づいてきていましたが、西山荘の中はまだ少しでした。

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常陸大宮・太田 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/11/04 19:57

西山荘(常陸太田)(3)

先日から水戸黄門さんの隠居所「西山荘」を紹介してきましたが、今回で最後です。

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西山荘はまだ紅葉には早かったのですが、庭園内に小さな川があり、この場所は「洗耳滝」と書かれていました。
この水はすぐ上に「桜ヶ池」という湧水を貯めている池があり、この水を流しています。
「洗耳滝」の名前の由来は15代当主が光圀公ちなみ「桃源遺事」よりこの名をとったと書かれていました。

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ここは四季折々楽しめるようです。とてもきれいな場所ですね。
この梅の木も花が咲いているといいでしょうね。

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常陸大宮・太田 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/11/07 04:40

佐竹寺(常陸太田)(1)

 西山荘の帰りに佐竹寺に寄ってきました。

もちろん私がこの寺に寄ろうと思ったのは、ここが常陸国を統一した武将佐竹氏の菩提寺だったからです。
また、この佐竹氏が秋田に飛ばされてしまったのですが、源氏の直系として名前が刻まれていたからでもあります。

常陸国における源氏は新羅三郎(源)義光(しんらさぶろうよしみつ)が常陸介としてやってきたことに始まります。
この義光は八幡太郎義家の弟であるが笙(しょう)の名手であり、この笛についてのエピソードなども昔よく軍記物の昔話などに登場していたのを思い出します。

この義光の孫の昌義(まさよし)が1133年に常陸国佐竹郷(さたけごう・現茨城県常陸太田市)に居住し“佐竹氏”を名乗ったのにはじまるとされています。

この源義光の子供には常陸の武田郷に住んだ武田氏が甲斐に移って甲斐武田氏となっています。

佐竹氏は、その後、奥7郡を支配していましたが源頼朝の挙兵時に平家方に加わり所領を没収されてしまいます。

室町時代にようやく常陸太田城へ復帰し、1189年に秀義が源頼朝の奥州征伐に参加し、無印の白旗で参戦していたため、馬印に月印五本骨軍扇を与えられ、家紋となりました。(月丸扇とも、一部には日の丸扇とも呼ばれています。)

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佐竹寺山門。
この佐竹寺の創建については、985年に、現在地から西北西に700mくらい離れたところに元蜜上人により開山され、「観音寺」と称していたといいます。

先に述べた新羅三郎義光の孫の昌義が初代佐竹氏を名乗り、1177年にこの寺を祈願所と定めて繁栄していったと伝えられています。

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1543年に寺は兵火で焼失し、3年後に佐竹家18代義昭によって現在の場所に再建されたものだそうです。

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この本堂は明治39年に国指定重要文化財に指定されています。
とても見ごたえのある造りです。

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この続きは明日へ。



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常陸大宮・太田 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/11/08 07:02

佐竹寺(常陸太田)(2)

 佐竹寺の続きです。

 佐竹氏は戦国時代に常陸国を統一した武将としてその名が知られていますが、私のいる石岡(旧石岡市)では悪者扱いのようです。

これは、常陸国府(石岡)は平氏(平家とは言わない。平家はここから分かれた一派で、伊勢平氏のみを指すようです)の直系常陸大掾(だいじょう)氏が300年間この地で繁栄してきたのですが、この源氏の家系の佐竹氏に城や町も焼かれ「憎っくき佐竹」というところなのかもしれません。

そうはいっても、石岡の地でも秋田に転封になるまでの10年間は佐竹氏の支配下になっていて、寺も再興し、復興につとめたようです。(石岡での佐竹氏の菩提寺は市内の「清涼寺」です)

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佐竹氏の家紋は月丸扇(月印五本骨軍扇)で、扇の骨の本数が5本に赤い満月がえがかれています。

これは、源頼朝(八幡太郎義家の直系)の奥州征伐に佐竹秀義が印のついていない白旗(源氏は白旗)で参加し、源氏の旗と区別がつかないので、手に持っていた扇に丸を書いて渡したものだといわれています。

しかし、これは一般には「日の丸扇」と呼ばれるようです。

日の丸を家紋にすることは、戦国時代でも日本を表しているとの認識があり、天皇家に対して問題があり、月丸と称して、こっそりと「日の丸」と言ってきたのでしょう。

秋田には「日の丸醸造」なる古い歴史を持つお酒の会社があります。これもこの家紋から名付けたようです。

また秋田藩の江戸上屋敷があった東京神田には「佐竹稲荷神社」があり、この社紋は「扇に日の丸」といわれ、明治初めに付けられた新町名の(神田)旭町の由来はこの日の丸扇と言われています。

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お寺の柱や壁には一面に「千社札」が貼られています。
ものすごい数ですね。江戸時代中期頃から、このような自分の名前や屋号などを書いたお札を刷って(木版画)、おまいりした寺院に貼ることが流行ったそうです。

自分の名前を貼ることで、何時でもそこにいて、お参りしている気持ちになったのでしょう。
(日帰りで行っても、札を貼っておけば、貼ってあるあいだは功徳が続くと思われたようです)

今はこの本堂は国宝(室町時代の建造物)ですので、勝手に貼ったりはできないでしょう。

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佐竹氏の系図はかなり興味深いものがあります。

常陸介として常陸国にやってきた新羅三郎(源)義光の長男が後継のいなかった義光の兄 源義綱のところに養子に入り、義綱死去後に常陸国に常陸平氏の娘を妻にむかえていた縁で常陸に土着します。
そして佐竹郷に住み、「佐竹氏」となります。

一方本当の父義光はその後、次男を立てて常陸の武田郷に住み「武田氏」となります。
その後甲斐国に常陸より追われて行き、「甲斐武田氏」が誕生します。

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江戸時代にはすでに佐竹氏は秋田に行っておりましたが、この地には佐竹氏を偲んでいろいろなものが残っているようです。

この前に紹介した「西山荘」はこの佐竹の里に黄門さんこと水戸光圀は隠居所を建てたのです。

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常陸大宮・太田 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/11/09 06:14

額田城跡

 前回の額田の阿弥陀寺の記事から1週間ほど経ってしまいました。

今回は、その阿弥陀寺の裏山に中世の額田城の跡が残されていたのを紹介します。

寺の裏手から奥の林の中に入る道がついており、案内に従って進んだ。

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阿弥陀寺の入り口に掲げられた城跡の説明板。

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こちらが城跡の領域の地図。かなりの大きさがある。

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(サムネルです)

この城は中世のそれ程中心的な城ではなく、戦国末期にはなくなってしまったのに、これほど大きな遺構が残っているとは驚いた。

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(サムネルです)

5代佐竹義重の二男佐竹義直がここに城を築いて額田氏を名乗ったという。
しかし、佐竹氏同士で争いが起こり、この額田氏は10代で滅んだ。

その後に、佐竹氏の家臣小野崎氏が入り、この小野崎氏の懇請により、大山の阿弥陀寺がこの寺の守護として城内に建てられた。

しかし、戦国末期にはまたも佐竹氏に滅ぼされて廃城となった。今から450年ほど前である。
その後このように宅地化もされずそのまま残るのは珍しい。

阿弥陀寺は守護とされる城はなくなったが、そのまま信者に守られ残ったようだ。
この額田という地も面白い場所だ。

この額田城以上にもっと古い歴史が眠っているように思う。額田というのは額田氏を名乗る前にこの地は額田だったはずだから、きっと額田王との関係もどこかでつながってくるのだろう。

大和国平群郡額田郷などともつながってくるかもしれない。

万葉集に歌われた四国道後温泉近くの湊で読んだ

「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」

などが思い起こされる。つながれば面白いことだ。

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(サムネルです)

この地形を見ると平山城といったところだが、山城のイメージにも近い。
このように城の全容が残されているのは貴重な史跡と言える。

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(サムネルです)

現在、この城跡に遊歩道を作っていた。林の中に道を設け、そこに伐採した木々のチップを敷き詰めていた。
中世の城のファンであれば結構面白い場所ではないかと思う。
あまり観光化されるのも問題だが、それ程人が押し寄せるとは思われないので、適当に整備されるのは良いことではないかと思う。



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常陸大宮・太田 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2013/03/22 19:22

額田神社

 額田という地名が気になり地図を見ていたら「額田神社」が古そうな感じであった。
よく分からない時は行って見るに限る。

額田城の脇を北にクネクネとたどる昔の道が見てとれる。それが額田小学校に続いており、小学校のところから神社までとても長い参道が続いていた。

車ではこの道はたどれないので、街道を進んで、途中からこの参道に出た。

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参道の両側には杉の木が並び、広い参道が神社へ続いている。

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社務所の屋根は地震で壊れたのか、まだブルーシートが架けられていたが、鳥居も神社も影響はなかったようだ。

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この額田神社は「鹿嶋八幡神社」というようだ。
この神社の本殿を見て、名前の由来が理解できた。

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拝殿が一つで、本殿が二つある。
説明版のとおり、一つは鹿嶋宮で806年に鹿島神宮のタケミカズチを祀って創建された?

もう一つは八幡宮で源氏のお社だ。
ここでは八幡太郎義家(源義家)が東北に蝦夷征伐に出かけて時に戦勝祈願したとあるが、その後にこの地を支配した佐竹氏は、この義家の弟新羅三郎義光の長男が起こした氏族で、次男は甲斐武田氏だ。

佐竹氏も源氏の正統家柄というわけだ。でもこんな本殿は見たことがない。

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こちらは拝殿。二つの神社が一つになっているが、お参りする人は同時に二つにお参りするのだろうか。

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狛犬(阿型)

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狛犬(吽型)。この他に説明では木製の狛犬1対と陶製の狛犬1体があるという。
昔の狛犬は屋外でなく屋内に置かれた木製や陶製のものであったようなので、これも見てみたいと思ったが、どこに保存されているのかわからなかった。

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 拝殿の彫刻も見ごたえのあるものであり、歴史的に大切にされてきた神社と思われた。

この拝殿に掲げられた神社の扁額は「額田神宮」とある。神社庁では一般の神社は神宮を名乗ることができない。

ネットで次のような記事があった。
「徳川光圀公の社寺改革で、那珂市額田の八幡宮は全て吉田神社、鹿島神社等に改められた。この社だけ特別で、八幡神を残し、鹿島神と合祀して「額田神宮」とするよう徳川光圀公より命じられたが、神宮は恐れ多いので額田神社としたようである。約200年後、寛政3年(1791)に「正名論」を著わした水戸学の祖 藤田幽谷(ゆうこく)の弟子、会沢正志斎先生(字は伯民)が額田神社を訪れた折り、光圀の命を重んじて「額田神宮」の額を送ったと言われている。」(額田神社HP http://www.nukadajinjya.e-naka.jp/)

少し興味深い。

この神社の裏手にスクナヒコナを祀る「淡島神社」がある。なぜ同じ敷地に続いてあるのか?

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スクナヒコナは大国主とともに国造りを成し遂げ、和歌山加太の淡島神社の粟の穂によじ登って、粟の弾力で常世の国に行ったと言われる。
その和歌山の淡島神社の末社である。

この額田を訪れることになったのは城里町(旧桂村)にあったとされる親鸞の大山草庵の寺「阿弥陀寺」がこの額田に移されたということを知って来たもので、この桂村の阿弥陀寺の隣に「阿波山上神社」があり、ここがスクナヒコナが祀られているのだ。

面白い関係だと思う。きっと額田の淡島神社が後なのだろうが、どこかで関係しているはずだ。

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しかし、神社のHPによるとこちらは「女性のための神社」と書かれている。これも面白い。
縁結び、子宝の守り神だそうです。

一般には薬の神様、温泉の神様とされています。

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額田神社をネットで検索してみると、出てきたのは伊勢の桑名市に額田神社があった。

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常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/03/23 17:25

毘慮遮那寺(額田)

 那珂市額田の額田神社はとても長い参道がある。
その途中(入り口脇)にこの毘慮遮那寺(真言宗)という寺がある。

何と読むのか気になるところだが、どうも「びるしゃな」と読むらしい。

Wikipediaではインドの仏教からきた「毘慮遮那教」(大日教)という密教に関係していそうだ。

奈良東大寺の大仏さんも毘慮遮那仏だそうだ。

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このようなサンスクリット語を漢字にあてはめるからこのような字になったのだと思うが、寺の名前にそのまま使っているのは珍しいのではないか。

この額田も何かあるに違いない。

額田は大和国の額田部氏と関係しているという記事もあった。
ということは皇族とつながっているのか?

日本もこれだけ年数が経てばどこかで色々な人がつながっていても不思議ではない。
源氏だって平家だって元をたどれば同じところに落ち着く。おかしなものだ。

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真言宗 雨部山寳光院 毘慮遮那寺

色々調べるがいわれがよくわからない。
嵯峨大覚寺の末寺だったというので、ここに書かれている1192年というのは鎌倉幕府が開かれた年である。
この時にこの地に建てられたものか?

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(サムネルです)

立派な本堂と観音堂?

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この寺に関しては全くわからなかった。また時間をかけているうちにわかるかもしれない。

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常陸大宮・太田 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/03/25 19:10

引接寺(額田)

 那珂市額田にあるもうひとつ気になった寺を紹介しておきます。

浄土宗 引接寺(いんじょうじ)です。正式には光圀山攝取院(こうこくざんせっしゅいん)引接寺というそうです。
名前に光圀が入っていることでわかるように水戸光圀に関係した寺です。

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神社のホームページによると、もともとこの場所には「広栄山心岸寺」という寺があったそうです。その寺を金砂に移して、この地に水戸光圀(黄門)が今の寺を建立して、瓜連にある関東十八檀林の一つである「常福寺」の末寺としました。
そしてこの寺に常福寺の第三世であった稱蓮社益誉上人を連れてきたというのです。

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そして、水戸徳川家の常陸太田の徳川墓所に埋葬する時にはここが宿泊所となったそうです。

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説明にあるようにこの木造阿弥陀如来像はご本尊のようですが、室町時代末期の作で徳川光圀により寄進されたものだそうです。

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境内にもうひとつ変わった説明板が置かれていました。
この額田に住んでいた「大谷達才」という人がとんちで有名になったそうで、「たっつあい」として知らしまれたのだそうです。

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裏の墓地に墓がありましたが、どの墓標がたっつあいのものかがわからないのでしょうか。
こんな人もいたのだと覚えておきましょう。



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常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/03/26 19:02

十二所渕(常陸大宮諸沢)

 久慈川を奥久慈地方に入ると山方の町がある。
最近は山形にあやかってかどうか知らないが日本一の大鍋による芋煮会を行っている。

もともとこのあたりは楮(こうぞ)が多く植えられ、和紙つくりが盛んで西ノ内和紙として知られている。
この先から東側の山あいに入ったところに「三太の湯」という温泉施設ができておりよく利用する。

この三太の湯に向かう途中にまず通るところが本来の西の内だと思う。この山あいに点在する集落を少し過ぎたところが諸沢という地区で、ここに「十二所渕」という矢印看板が出ていた。
小さな農村公園になっていて、したの川へ降りる鉄製の階段がある。

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(サムネルです)

階段のしたに降りると高さがわずか2m程の段々になった滝があった。
そして周りの岩肌の景観は素晴らしく、誰も来ないのはもったいないような感じだ。

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しかし、もう少し綺麗な清流であれば人にも薦められるが、あまり綺麗とは言えない。

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(サムネルです)

その十二所渕をさらに先に進むと「鏡泉院」という寺の看板があった。
名前が素敵なので何か見るものがあるかと細い道を入ってみた。

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大きな寺の門柱がすぐに見え別な寺院の名前が書かれていたが、ここが鏡泉院で間違いないようだ。

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古びた山門と大きなイチョウの木(樹齢300年以上)と杉の木があり、奥に寺の本堂があった。
まあ、訪れる人はほとんどいないようで、少し写真をてっていたら寺から人が出てきて怪訝な顔でこちらを見ていたのでそうそうに引き上げた。

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これは「宝筐印(ほうきょういん)塔」だと思うが、かなり年代も古そうだ。
鎌倉・室町のころのものかもしれないが・・・。
何も書かれたものはないのでわからない。



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常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/04/11 19:04

オカリーナの森

 昨日も今日も竜巻被害。
こんなことは今までになかった。
また今日の大きな地震。ゆらゆらと大きく揺れた。
こんな時の地震は少し遠いところで起きたとすぐわかるので心配はしないがやはりどこで起こったのか気になる。
すぐに震源地うを確認してひと安心。

朝早く雨が降ったが、夕方職場から帰ろうと思ったら夕日は眩しく輝き、向こうの空は青空なのに、頭の上は真っ黒い雲。あっという間に雨粒が・・・・。
あわてて鞄から折りたたみ傘を出した。

今日は心配で、折りたたみも持っていたので助かった。

ほんとに変な気候です。良くない不吉な感覚を持つのはどうしてだろうか?

関東大震災から90年です。いよいよここ2~3年で何かが起こりそうです。

何か丘っても被害を減らすにはどうすればいいのか。考えはまとまりません。



 常陸大宮市の旧緒川村にオカリナ奏者宗次郎の「オカリーナの森」がある。
宗次郎は地元出身ということで、この緒川地区の山の中にオカリナの聖地として2008年に音楽堂、野外ステージなどをオープンさせた。
(宗次郎のオフィシャルサイトに載っているオカリーナの森 → こちら

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県道293号線を美和、馬頭方面に北上し、緒川(おがわ)という街を少し過ぎた山の中である。

この辺りは大と川に囲まれた森林の豊かな場所で、この道は何度も通っているが通り沿いの森の入口に「オカリーナの森」という木の看板が目につく。

看板には「Sojiro」とオカリナのイラストにマークされた「宗次郎」のマークが飾られている。

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しかし、前から何度か通っていたが、入口は閉ざされていることが多く、さて何かこの先にあるのだろうかという程度の思いで通り過ぎていた。

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今回また前を通ったのだが、新しい看板が増えており、駐車場の入口が開けられていたので駐車場に車を止めて看板を撮影した。

調べてみるとここは西根口で他に2か所入口があるそうだ。
ただメイン通りから入ってところなのでここが一番わかりやすそうだ。

しかし、この駐車場から車は乗り入れ禁止でここから1.3km歩いていかなければならないそうだ。

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新しい看板は「筑波銀行」のもので、今年の7月に設置されたものだとわかった。
この常陸大宮市のおがわふれあいの森の一角にオカリーナの森と同じように筑波銀行の森を設置して森林の保全活動をするのだという。

良いことだと思うのでこれらの企業もがんばってもらいたいものだ。

ところで石岡の八郷地区には貴重な里山風情の残る場所が多いが、これらの保全は市でも是非知恵を出して活用するようにしていただきたい。

森林は手を入れなければ荒れ放題でキノコなども採れなくなる。
国の森林保護の補助金で伐採する時に出る木などもチェップ化したりすれば燃料としても活用できる。
雇用促進にもなる。
でもどういうわけか「この地域は○○年度の・・・助成金による・・・」というような看板が現場に立っているだけです。
私たちにはどのような仕組みになっているのかさっぱりわからない。

この緒川というところもあまり知られていないようだが、前に風車弥七の墓があり、紙すき場跡があると紹介した場所です。(こちら

また、最近近くのスーパーなどでも取り扱っている「奥久慈卵」と言うのは実はここ緒川で生産されている。
前に緒川養鶏組合の大きな建物を見たことがある。(下写真。数年前に撮ったものです。)

実は茨城は鶏卵の生産はおそらく日本一かもしれません。
それにもかかわらず、この地方は養鶏が盛んなところと、昔から鶏は飼わないというところが混在しています。
(たとえばこんな記事を書いていた。→ 目つぶれ観音

そんなことを考えていて、昔写真を撮ったものです。

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常陸大宮・太田 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/09/04 19:08

玉簾寺と玉簾の滝

 御岩神社より国道349号線に出て常陸太田の方に向かいました。

国道は里川沿いを走りますが、川の反対側に旧道がありそこにこの玉簾寺(ぎょくれんじ)があります。

玉簾寺01

ここは水戸光圀が裏手の玉簾(たまれん)の滝の美しさに霊感を受けて建立したと伝えられます。

臨済宗 瀑布山玉簾寺 延宝6年(1678)建立

安産祈願の寺として知られているそうです。

玉簾寺02

玉簾寺05

この寺は入口が閉ざされ、境内に入るには社務所で許可を受ける必要があります。

写真も外部からしか撮ることができません。

しかし参拝は良いが見学はお断りだそうです。
木造観音菩薩坐像(定朝作と伝えられる)が安置されています。

玉簾寺03

光圀がこの裏の滝の中に観音様を感じたといわれています。

玉簾寺04

寺の裏手に観瀑台の東屋がありますが、この場所には立ちいれません。
紅葉の時は特にきれいな場所のようです。

玉簾滝02

松風の於ち葉可水能音寿ヾし  松風の落ち葉か水の音すずし  (芭蕉)

玉簾滝01



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常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/10/29 18:27

中里と里川

 常陸太田と福島県矢祭町をつなぐ県道349号線がある。

ここ道路は常陸太田市街を流れている里川に沿って走っている。

日立鉱山側から西に御岩神社を通ってこの里川に出たところが「中里」という。

この川の少し上流が里美であるから里川の中流といった地名であろうか。

この里川はそれ程流れの早い川ではないが5つの発電所(中里・里川・賀美・小里川・徳田)がある。
作られたのは明治時代後期から大正時代とかなり古いもので、これらの水力発電所の建設にも日立鉱山などが関係したという。

中里01

この中里の街を少しだけ歩いてみました。

国道から町へは坂を下って行きます。

左手に小学校がありました。
地図では少し先に中学もあるようです。


中里05

のどかな良い街です。しかしこの街道沿いには鉄道は走っておりません。
大きな町は常陸太田ですが10km程離れています。

中里02

地図を見ていたら小学校の北側に「秋葉神社」とあり、千葉の方で先日同じ名前の神社を見かけたのでどのようなところか探してみました。

国道の下なのですが町からは裏山という感じの場所に鳥居がありました。

中里03

神社の祠などがその上にありましたが、古い小屋の方には通常の道がありません。
無理をすればいけるのですが何もありそうにありません。

中里04

しかし、ここから見下ろすと下の街の様子が見て取れます。
下にあるのが中里小学校です。


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常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/10/30 21:01

重盛の墓

 茨城県城里町にある「小松寺」の裏山には、平重盛(清盛の長男)といわれる墓があります。

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寺の本堂と観音堂とをつなぐ渡り廊下の下をくぐって裏山に向かいます。
裏山には急な石段があり、山の中腹まで100段ほど登ります。
途中の中段に幾つか石塔などがありますが、更に上に昇ると木の柵があります。

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その柵から中に入ることが禁止され、その上に3つの墓標があります。

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一番右に少し高くなった場所にある宝篋印塔が重盛の墓といいます。
また少し低くなった上の写真の真中が重盛夫人の得律禅尼の墓(五輪搭)で、その左に平貞能(さだよし)の五輪搭がある?
しかし見えるのは頭が丸くなった一般では、お寺の住職が使う墓石です。

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重盛の墓という宝篋印塔も苔むして・・・

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そしてその左側の少し下にあるのが、右の五輪搭が重盛夫人の墓。この寺にかくまわれ、少し北に相応院という尼寺を建て、尼として過ごした・・・・。
そして承久元年(1219)九月十一日に69歳で亡くなったとされています。
この重盛婦人は貞能の姉であったとも言われています。

また平貞能も建久九年(1198)二月十三日に89歳で亡くなってここに葬られたとされています。
ただこの貞能(さだよし)の墓(五輪搭?)が草に覆われて見えないのか、それともこの左の(頭の丸い)墓標(無縫塔)をさすのかは定かではありません。
この寺の2世といわれる大掾義幹の息子の墓ではないかとも考えられます。

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山の中腹から下を見下ろすとこんな感じです。
本堂が右にあり、左には立派な観音堂があります。
重盛の持念仏とされる小さな額に彫られた如意輪観音像が安置されているそうです。

ここにあるいきさつについては真偽も含めてはっきりしませんが、概ね以下のように言われています。

平貞能(さだよし)は、平清盛にもっとも信頼された腹心の家来でした。1167年に清盛が家督を長男の重盛に譲ると、この重盛につき、重盛の次男の平資盛(すけもり)の補佐役となり、九州などに出向き、平家の勢力拡大に奔走します。
しかし、1179年に42歳という若さで重盛が他界してしまい、1180年には源平合戦(治承・寿永の乱)が始まり、1181年に清盛が死去すると家督は清盛の三男・平宗盛が継ぐことになりました。

源氏に対して劣勢となった平家の宗盛は1183年に都を捨てて九州へ撤退することを決めます。

しかし、九州の情勢に詳しい貞能はこの九州行きには従わず都での決戦を主張します。
しかし、九州行きが決定すると、単独でも関東へ落ち延びることを決めました。

そして貞能は、一門が都を捨てた後、源氏に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こし、その遺骨を髙野山に分骨し、辺りの土を川へ流して、残りの骨を持ち重盛夫人を伴って関東へ逃げたといわれています。

そして関東では清盛たちの本家である常陸大掾(だいじょう)平義幹(よしもと)を頼ったのです。
この大掾(だいじょう)平義幹(よしもと)はつくば市北条にある多気太郎といわれている人物です。
多気(大掾)氏はこのあと、鎌倉時代になると小田氏の換言により鎌倉に呼び出されて、お家没収となりました。

石岡の大掾氏はこの後、多気大掾氏の支族で水戸にいた吉田氏が継いで国府のあった石岡に住むようになったものです。

さて、多気大掾・義幹は、この地(茨城郡金伊野村白雲山)を貞能に譲り、重盛の遺骨を山中に埋めてここに寺を建立したのです。
そしてその後、義幹の二男をこの寺の僧(2世)とし、重盛の霊をとむらったとされています。

いろいろこの頃の話は伝説として語られ、各地に平家の落人伝説が残されています。
この話もそんな一つと捉えるのも勝手ですが、真実味もおびた話しだと思います。

 『 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
 猛き者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ
 ・・・・・・・・・』
 平家物語の冒頭文は本当に名文ですね。

 重盛が生きていればもう少し情勢は変わっていたかもしれません。
 小松寺は小松殿と呼ばれた清盛の嫡男・平重盛をまつる寺です。

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常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/03/06 12:05

御前山・那珂川大橋へ

 水曜日に城里町旧桂村を通って、御前山手前にある「道の駅かつら」脇の河原へ立ち寄ってみました。

天気も良く川の水がきらきら輝いていました。

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那珂川の河原に降り立つと 左手にこれから渡る中川大橋が、空と水の青さの中に紅い鉄橋が輝いています。

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そして流れる川の水は透き通ってきれいです。

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この道の駅はこじんまりとしていますが、訪れる人は多いようです。
橋の手前左側に御前山があります。
橋を渡って左に行くと少し上流側に日帰り温泉「御前山温泉四季彩館」があり、その少し先に、戦国時代末期に八郷柿岡の城主となった長倉義興がいた長倉の町があります。

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駐車場の奥に見えるのが御前山です。





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常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/23 10:40

上小川橋

 美和の町からタバッコ峠を越えて昔、金山のあった栃原へ。
そして、袋田の滝のある大子町の手前の上小川へでました。

上小川の手前で、久慈川を渡ります。
今架かっている大きな橋は建て替えられたもので、現在の橋のすぐ横にしその前に架かっていた橋の跡記念にが残されています。

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今の橋はこの左側(川の上流側)で、前の橋の有ったところに記念碑が建てられています。

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左側には「上小川橋」

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右側には「久慈川」の文字が彫られた橋の入口石柱です。
ごらんのように車社会になりこの幅では狭くて、老朽化したので隣に大きな橋を建て替えたのです。

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こちらが新しい上小川橋。 川の中に昔の橋を支えた柱の跡が見えます。

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少し木々の紅葉も始まったようです。
久慈川が悠々と流れ、奥の山波に日が当たっています。

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川の中に入って釣りをしている人の姿が2~3人。

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上小川橋の所で、栃原方面からの支流の大沢川が合流します。
橋の少し手前、大沢川の脇の大きな岩の前に地蔵像、子安観音像?が祀られていました。
右側の石碑は何と書かれているのでしょうか。馬頭観音かと思いましたが少し違いますね。

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その横には久慈川漁業国愛の立て看板が・・・・
「ヤスによる漁法の禁止」
どうもそれぞれの地区の魚業組合などが、ヤリや、ヤス(銛)の漁法の禁止などの決まりを作っているようです。
海は別として、川魚を銛で今でもとる方がいるのですかね。この川は禁止されています。



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常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/24 14:49

岩崎堰(久慈川)

 袋田の滝方面から水戸方面に水郡線に沿って南下し、山方宿を過ぎたあたりに「岩崎堰」の看板が見えて。
何度も通っていた道だが、今までこの存在に気がつかなかった。
コメりのホームセンターがある裏側だが、少し通り過ぎて戻ってみた。

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この水戸藩の久慈川や那珂川流域では、江戸時代初期に大干ばつがあり、これを契機に灌漑用水を確保するために久慈川や那珂川に堰(せき)を作って川から農業用水を引く計画が実施されたという。

この久慈川ではこの岩崎地区と少し下流の辰ノ口にそれぞれ、1652年、1650年にそれぞれ固定式の堰が設けられました。
堰作りを任されたのは、鉱山技術者であった永田茂衛門という人が選ばれたそうです。

茂衛門は、これにより、この地域の旱魃を救った「那珂川・久慈川沿岸灌漑の父」と呼ばれているそうです。


ただ、現在のこの岩崎堰は可動式で、季節や水量により堰き止める高さが調整できるようになっています。
可動堰への改修には、平成元年から平成8年の工事期間がかかったとなっていました。

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堰で堰き止められた水は、写真手前の岩崎用水へ導かれて、農業用の水に使われます。
これにより干ばつでの水不足が解消されたようです。

ただこの上流側では昨年も大きな洪水被害が出て、水郡線の鉄橋も流されたことは記憶に新しいものとなっています。
普段は奥久慈の清流として知られる風光明媚な地域ですが、昨年の大型台風19号のような被害がまたでないような対策も必要です。水郡線は今も一部でバスの代行運転が行われています。

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可動堰の上はこのように生活道路の橋として使われています。
車も通れる幅です。

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岩崎堰

(環境百科 久慈川 第4章 久慈川の利水 より転載)

この場所のすぐ南側に常陸太田の道の駅があります。
矢張り結構多くの車が来ていました。



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常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/25 11:00

百観音(常陸大宮)

 石岡から真っ直ぐ北へ向かい、御前山で那珂川大橋を渡り、そのまま県道12号線を北進すると美和の手前に「旧緒川(おがわ)村」を通る。
県道12号線は栃木県の烏山(からすやま)から県道12号線で、栃木県側は栃木県県道12号線、茨城県側は茨城県県道12号線と2つの県をまたいでいる。
一般には県をまたぐ道路は国道になるが、馬頭・烏山地区はもともとは常陸国で、水戸藩だったと思う。
この頃からの名残であろう。

また、緒川の街はあまり知られていないが、緒川村農協が「奥久慈卵」のブランド発祥地である。

ここを流れているのは那珂川の支流でこの町に付けられた名前と同じ「緒川(おがわ)」である。
そして、県道12号の緒川の町に入る少し手前に「百観音」という案内看板がある。

もう10年ほど前に1度訪れたことがあるが、山の中腹の洞窟に何十体もの観音像が彫られていたが、入り口で引き返したことがあった。
一人で天気が悪い日で、あまり気分も良くないからと引き返してしまったが、その後数回この場所を通っているのだが、一度もよらずに来てしまった。
今回来て、寄らなければこれから先も多分よることはないだろうと、一呼吸して車をその公園の方へ向けた。

しばらく行くと緒川の川を橋で渡り、そのすぐ先の山の麓に整備された駐車場が出来ている。

誰もいないかと思ったが、ここにトイレがあり、これを利用する釣り人の車が時々来ているようだ。
しかし、観音のある山の方に行く人は誰もいない。

一般に百観音といえば、坂東33、西国33、秩父34の観音様の霊地をまわる百観音巡りと、これらの百か所の観音霊場の観音像の鋳型でこしらえた観音像を1か所のお寺に安置し、この1か所だけで百か所を回ったというご利益が得られるというお寺などを拝することを指すのが普通だ。

しかし、ここ緒川(常陸大宮市)の百観音は少し違う。

この正面の山(川向男体山)全体に100体近くの観音像が祀られているという。

入口の百観音自然公園駐車場に車を止めて、先ずは少し上の洞窟観音を目指します。

百観音01

この百観音巡りはこの山に設けられたハイキングコースを観音像を見つけながら一周するというコースです。
一周するには少し体力と、時間もかかりそうですので、まずは一つ上にある最大の目玉の観音洞窟まで行くことにしました。
先ず少し緩やかな階段が100段ほど続きます。

百観音02

そしてその先に見晴らし台(東屋)と観音洞窟のある場所までまた100段ほどの急な階段があります。
少し足元がおぼつかない気もしましたが、手すりにつかまり1歩1歩上り何とか到着。

百観音04

東屋となっているお休み処。見晴らしは・・・ 思ったほどよくはありませんでした。

百観音03

そのすぐ前に「観音洞窟」があります。
頭上注意と書かれた看板があり、確かに頭がぶつかりそうです。
でも少し頭をかがめれば、通れます。

百観音05

中は思ったほどじめじめしてはいません。
またトンネル(穴)の中には灯りがともされています。
一人だと少し怖いのですが、中には誰もいないようなので入ってみましょう。

百観音06

左右に数十体の観音像が安置されています。

百観音09

説明ではこの洞窟の観音像は全部で36体だそうです。

百観音07

一番奥の観音像がこちら向きに1体あり、大日如来だそうです。
この穴の入り口部は150cmほどの高さだそうですが、この一番奥は少し高くなっていて、背を伸ばして立っていても頭はぶつかりません。

百観音10

なんとか入口に戻ってきました。
やはり太陽の光は嬉しいですね。

百観音11

ハイキングコースはこの脇から山の上の展望台の方に続いていますが、私はまだこれから先がありますので、ここでギブアップ。
今登ってきた階段を戻りました。

この山には同じような洞窟(穴)がいくつかあるようです。
観音像はその洞窟には安置されていないようですが、山の中に、全部で100体程が点在しているようです。


洞窟に観音像がたくさん祀られたところとして、思い出すのは千葉県銚子の常世田薬師(観音)があります。
そちらは寺の裏山を掘った穴に造られ、土を掘った感じで、少し水が染み出て足元がぬかるんでいて中には入りませんでした。
こちらは、穴の表面を見るとこの山が石の塊のような山であることが分ります。
固い石をコツコツと掘って穴を作っていたようです。

調べてみるとどうやらこのあたりの山がメノウ(瑪瑙)=火打石の産地であったようです。
常陸国風土記にも久慈郡の所に「郡家の西十里のところに、静織の里がある。ここで初めて倭文を織る機が使はれたことから、名付けられた。北の小川には、青色の瑪瑙がとれ、良い火打石になる。よって玉川と名付けられた」と書かれています。
この玉川は、今の常陸大宮市から那珂市との界を流れ久慈川に合流する川です。

比較的近いこのあたりにもきっと瑪瑙が採れたのではないでしょうか。

この洞窟に観音像を彫って安置したのは、文化6年(1809)、那賀在住の小森清蔵という盲人が、地域の有志から浄財を募って、諸国の有名な観音像を彫ったものだと緒川村史に書かれているそうです。
恐らく、その前に掘られていた穴に観音像を彫って安置した物でしょう。

この彫刻家のいた「那珂」はこの小川の南にあり、那珂川大橋を渡ってここに来るまでに通ってきました。
この那珂地名が那珂川の地名の由来の元だと私は考えている場所です。

興味がありましたらハイキングとしてもよさそうです。
下草などはきれいに刈り取られていて、整備状態は比較的良いように思います。
今はよくわかりませんが、春夏の年2回ほど祭礼がおこなわれていたとの説明がありました。



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常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/26 17:16

延喜式式内社 立野神社

 常陸大宮市緒川に延喜式の式内社とされる立野神社(たつのじんじゃ)がある。
もう何年も前に一度訪れていたが、この前の日曜日に近くまで来たついでにまた立ち寄ってみた。

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神社は緒川の町の県道(栃木県道・茨城県道12号那須烏山御前山線)の案内板から西に入って直ぐの所にある。
入口参道と駐車場が手前にあり、少し奥まって神社がある。
通りの反対側は「緒川小学校」である。
たしか前回来た時は合併したすぐ後で、バス停は、まだ昔の「小瀬小」の名前が残っていた。

また前に比べて通り側の広場(駐車場)あたりが広くなった気がした。
少し建物を壊したのかも知れない。

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入口に昔から苔生した屋根の境内社が置かれていたが、こちらは手前に木が植えられ、少し陰に隠れた感じとなっていた。

寺伝では、物部氏の族である立野の連(久自<久慈>国造)が、大同年間(806~810年)に現在地から東に1kmほど離れた立野山に自分たちの神を祀ったのが最初だとされる。
それを、戦国末期に佐竹氏の小瀬庄三郎義隆が白旗山の鹿島社と合祀して、「立野鹿島神社」として現在地に移したといいます。

現在の祭神は、級長津彦命(ツナツヒコ) 級長戸邊命(シナトベ)で、男女一対の風の神様です。

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丁度神社には七五三参りの親子連れが来ていました。
日本の伝統ですが、ほほえましいですね。
思わず顔がほころんでしまいます。

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この神社も佐竹七福神の神社の1つで、大黒天が祀られていました。

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狛犬さんもどこか風格があります。

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常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/11/14 10:09

西ノ内和紙(五介)

 先日、常陸大子の方に用事があって行って来た。
まあ紅葉シーズンも終わりになってきて、袋田の滝や大子の街中の混雑も収まり、平日だったので今回は久慈川沿いを行く事にした。

途中の常陸大宮道の駅を過ぎ、芋煮でも有名な山方宿入口手前に「国県無形文化財指定 元祖 西ノ内紙 五介和紙」の看板が目に入る。

西ノ内はこれより東側の少し山側地域だが、昔から和紙つくりが盛んで今でも残っている。
この場所は和紙の体験場、製品の展示売店、食事処を合わせた施設だが、大子に朝方向かう時に大型バスが止まっていたので、昼ころに戻るときに立ち寄ってみた。

すでにバスや他の車はあまりなく、人の気配もあまり感じなかった。

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そして、建屋に近づいて中を覗き込んだが、外の太陽の光が反射して中がよく見えない。
そしてカメラを向けたら・・・・
中に人いて、手招きされた。

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中には4~5人ほど人がいて、作業を終えて、一休みしている感じだった。
中に入れていただけたので内部の写真を撮らせていただいた。

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お話によると、丁度地元の小学生たちが今帰ったところだそうで、ここで卒業証書を各自が手作りで作ったのだとか・・・・

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こちらが、紙を漉いたところだそうで、まだ溶かした材料が付いていた。

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作っていた卒業証書がこちらで、学章マークはプリントしたものだそうだ。
そして、マークだけのもののほかに、自分で作ったことがわかるように、自分の名前を手書きで書き込んだものもあった。


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そのほかに、学章を透かしで入れたものもあるということで見せていただいた。
まあ、こちらは高校? 写真では透かしはよく映らないが、透かしてみればよく見えた。
来年の3月の卒業証書にこれが使われるのでしょう。

和紙の里ということで、今ではこの地域が茨城県では有名ですが、この地方の和紙には「楮(こうぞ)」が使われているという。
この材料も年々栽培農家が減ってて厳しさが増しているそうだ。

そこで、小美玉市小川で生産されているトロロアオイという植物の根が、和紙つくりのねりに欠かせないそうで、小川地区では5軒の農家のみで全国の8割ほどがまかなわれている。
しかし昨年6月に、重労働と高齢化で今年の秋で生産をやめるとニュースに流れた。

今ではこのトロロアオイに変る化学材料もあるようだが、天然の素材にこだわる和紙作りもまだまだ多い。
そして、このニュースがきっかけで、福井の越前和紙の職人たちが農作業(トロロアオイの根を太らせるために夏場に新芽摘み取り作業)の忙しい時に応援にやってくることになった。

そして何とかこれからもトロロアオイの生産を続けてもらえる事になったようだが、これが一時しのぎになれば、また元に戻ってしまうことだろう。

常陸大宮地区の和紙つくりについては以前こちらのブログで以下の記事を書いています。(参考まで)

 紙街道 ⇒ こちら

和紙の歴史などもまとめていますので、よかったら読んでみてください。




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常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/19 10:59
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