常陸国風土記と共に まほらにふく風に乗って
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鹿島神宮(1) 一の鳥居

 2月も気付けば今日で終り。
最近ブログも少し遠ざかってしまったが、忘れないうちにUPしておきたい記事もまだたくさんある。
少し別な仕事が少し忙しくなってしまって、でも忘れないうちに記事は書いておこうと思う。

今年に入り、ふるさと風の会で「常陸国風土記の勉強」と称して、本の読みあわせと、解釈などを微力ながら紐解き始めた。
それに合わせて、少し気になる場所などの散策もしている。

そのため、記事も早めにまとめておかないと忘れてしまう。
ということで、先日出かけた先を少しずつ紹介しておきます。

まずは、鹿島神宮の一の鳥居。

潮来の方から神宮に行くには、国道51号線で水戸方面に向かい、霞ヶ浦の北浦(鰐川入口)を渡って鹿島神宮の街中に入ります。
この北浦を渡る橋が3本きれいに並んでいて、少し見とれてしまうのですが、降りて写真を撮らないといけないのですが、時間がないと走りながらでも前後に車が無い時に少し立ち止まってパシャリ。

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この今撮っている場所が前からの「神宮橋」。確か塗装が剥げかかっている。
その一つ向こうの橋が、後からできた潮来の高速インターとつながっている「新神宮橋」。
更にその奥にJR鹿島線の鉄橋が見えます。

現在の(旧)神宮橋も昭和35年の建設ですから築60年以上になり、老朽化が問題となっているようです。
計画では現在の新神宮橋の隣にもう1本橋を架け(すでに工事中)、4車線化を実施させる計画で、それまではまだもう少し使うようです。老朽化が気になる方は是非新神宮橋をお通りください。

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この神宮橋の右手(南東)側の水面に鹿島神宮の一の鳥居があります。

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この鳥居も今は水の中に建てられていますが、一昔前は陸側に建っていました。
昔見たときは陸側にあったので調べてみると、平成25年6月に建てられたようです。
水面からの高さは18.5mで日本の水上鳥居としては一番高い(厳島神社の大鳥居:高さ16.6m 築約130年)そうです。

二の鳥居は神宮の入り口にありますが、こちらは東日本大震災で倒壊し、現在はコンクリート製から木造の鳥居に変っています。



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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/02/28 12:47

鳥羽の淡海

 最近少し真面目に読み始めた「常陸国風土記」だが、読み進めるに従っていろいろ疑問点が見つかってきた。
気がついたときにメモしておかないと後から探すのにも苦労すると思うので、このブログにメモ代わりに書いておきたいと思う。
最後は何かの形で書籍化をする予定だ。

今回は「騰波ノ江(とばのえ)」について
 この騰波ノ江は、風土記の「筑波郡」に出てくる。
「郡の西十里に騰波の江在り。長さ二千九百歩、広さ一千五百歩なり。東は筑波の郡、南は毛野河、西と北はともに新治の郡、艮(うしとら:東北)は白壁の郡なり。」

また、その風土記が書かれた時にこの常陸国にいたとされる万葉歌人の高橋虫麻呂は当時筑波山に登って、次のような歌を詠んだ。

   草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと
   筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る
   師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ
   新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ
   筑波嶺の 良けくを見れば 長き日に
   思ひ積み来し 憂へは止みぬ

この新治の鳥羽の淡海が、「鳥羽の淡海=騰波の江」だ。

この「淡海」は「うみ」「おうみ」などと読まれるが、京(奈良・京都)から琵琶湖のことを「近つ淡海」、浜名湖のことを「遠つ淡海」と呼んでおり、大きな湖を指しての言葉だった。
また、この「遠つ淡海」は「遠江(とおとうみ)」となり、淡海は「江」とも表現された。

風土記を読んでいると、これらの区別を少しずつ理解しておかないと、解釈が違ってしまうこともありそうだ。

少し言葉を整理しておこう
・大海 ・・・ 平洋などの海
・淡海(うみ、おうみ)、江 ・・・ 現在の湖(淡水湖)
・○○の流海 ・・・ 霞ヶ浦(昔は海水がかなりおくまで流れ込んでいた気水湖)
・津・・・舟着き場(湊)
・湖(みなと) ・・・ 川の河口付近(水戸のこと)
  :香島郡に「安是の湖」(銚子に近いところ)
  :香島郡に「阿多加奈の湖」(涸沼から那珂川河口付近)

まずはこんなところだろうか?
この鳥羽の淡海の南端部は「下妻」だが、この「妻」もこれらに何か関係した言葉なのだろう。

少し地図に鬼怒川や小貝川などを書き込みながら当時の川の様子を想像してみている。

筑波郡地図12

この鬼怒川は風土記の書かれた頃は「毛野河」で、この毛は昔の「毛国」を流れる川の意だった。
毛国は上下に別れ、上毛野国、下毛野国となり、2文字にする通達により、「上野(こうずけ)国」と「下野(しもつけ)国」になった。

2000年程前は、この鬼怒川は現国道125号線近くを西から東に流れ、小貝川と下妻の辺り(現:小貝川ふれあい公園)で、合流していたという。
またもっと昔は、この流れが現在の土浦市を流れる桜川に流れ込んでいたこともあったらしい。

現在の鬼怒川は守谷市あたりで利根川に合流し、小貝川はもう少し下流の利根町あたりで利根川に合流している。
この利根川は江戸時代に家康から3代にわたって東京湾への流れを銚子方面に人工的に付け替えたことはよく知られているが、この鬼怒川や、小貝川もこの流れの変更により大きく変化されているようだ。

江戸時代前は鬼怒川は守谷市手前辺りで小貝川と合流し、牛久沼の方に流れていた。
江戸時代の利根川東遷事業に伴ない、この守谷市付近で鬼怒川の流れを利根川まで掘削して流れを付け替える工事が行われた。
また、小貝川も牛久沼の先から霞ヶ浦に流れ込んでいたものを今の利根町あたりで利根川に流れを付け替える工事が行われた。

これは水害防止もあったが、船での物資運搬も考慮されたと思われる。

この鳥羽の淡海もいつ頃まであったのか、調べたがわからなかった。いつの間にかいくつかの沼になり、自然と湿地帯が広がっていき、そして最終的には江戸時代になって大規模な干拓が行われたようだ。



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常陸国風土記と共に | コメント(2) | トラックバック(0) | 2023/03/01 15:46

風土記とクジラ

 常陸国風土記を読み勧めていくと、クジラの話が何箇所かに出てくる。
このようなことも少しまとめておけば当時の様子も見えてくるかもしれない。
とりあえず気付いた箇所の3箇所です。

行方郡
1) 郡の西に津済(わたり)あり。謂はゆる行方の海なり。海松、及塩を焼く藻生ふ。
  凡て、海に在る雑の魚は、載するに勝ふべからず。
  但、鯨鯢の如きは、未だ曾て見聞かず。
  ・・・・当時内海で海水が流れ込んでいた霞ヶ浦にはいろいろな魚類がいるがクジラはいなかった。

  ただ、土浦などの貝塚ではクジラの骨が見つかっており食用にしていた時代も昔はあったと思われています。
  この漢字の鯨鯢はそれぞれ単独でもクジラと読みますが、鯨は雄、鯢は雌のクジラを指すようです。

2) 男高の里あり。・・・・南に鯨岡有り。上古之時、海鯨、葡匐(はらば)ひて来り臥せりき。

  鯨岡の地名由来として、「太古の昔に鯨が浜にはいつくばって死んでしまったことからその名前になった」と書かれています。
 しかし、この鯨岡という地名は今近くにありません。そこで、この場所の候補地として言われているのが次の場所です。

 このブログの後半でここを紹介します。

久慈郡
3) 郡より以南、近く小さき丘有り。体、鯨鯢に似たり。倭武の天皇、因りて久慈と名づけたまひき。

  ・・・確かに今でも鯨に似ていると言われれば、そんな岳は存在する。
 茨城県内の地名にクジラと付くのは、現在の郵便番号簿では次の3箇所です。
 勿論昔の字名などではたくさんあると思います。
  ・茨城県石岡市鯨岡 イバラキケンイシオカシクジラオカ
  ・茨城県下妻市鯨     イバラキケンシモツマシクジラ
  ・茨城県筑西市久地楽 イバラキケンチクセイシクジラ

 さて、2番目に書いた行方郡の「鯨岡」ですが、国道355号線を石岡の方から霞ヶ浦に沿って南(東)下して、行方市に入り、玉造を過ぎ、男高に近い旧麻生町に近い「橋門(はしかど)」という場所にあります。
この国道沿いに小さな小山があり、その上に祠がおかれています。

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案内版には「橋門の阿弥陀様」と書かれています。

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この国道側から上に登る階段がありますが、上にある社の向きは右手を向いており、そこに手水舎らしきものもあります。

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この右手側も広場となっていて、こんな感じですので、恐らくは昔はこちら側からお参りに上ったものだと思います。

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阿弥陀様となっていますが、この社の中は写真のようないくつかの石の板碑などが置かれています。
説明板に書かれているようにこの板碑に阿弥陀像が彫られているのかもわかりません。

説明にもありますが、この小山はどうみても古墳ですね。

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祠の建設時に古墳がけずられてしまっていますし、恐らく国道建設時にも古墳の一部が削られているかもわかりません。

鯨岡と言う名前は地名では残っていませんが、この場所の北東の近隣に「公事塚古墳群(くじつかこふんぐん)」という古墳群があったという。しかし、そこは砂利採取場として崩されてしまったという。

またこの橋門(はしかど)地名も気になりますね。入り江にでもなっていたのでしょうか。

さらに、直ぐとなりが「於下(おした)」と言う場所です。
ここでは於下貝塚があり、犬の骨がバラバラに見つかり話題にもなった場所のようです。

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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/02 13:00

鹿島神宮(2) 沼尾神社

 常陸国風土記の香島郡の最初の方に、
「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」
と書かれています。
現在の鹿島神宮の摂社である「坂戸神社」「沼尾神社」に「鹿島神宮」を3つ合わせて一体と見ています。

前にも訪れたことがありますが、これらの沼尾神社、坂戸神社、鹿島神宮と香島郡の郡家跡は一直線にほぼ等間隔に見事に並んでいます。そして鹿島神宮の拝殿の向きもこの方向と一致しています。
そのためもう一度これらを順番に見ていこうと、先月の銚子へ行く途中に立ち寄りました。
でもやはり時間がなく、2回に分かれてしまい、ここにUPするのも遅れてしまいました。

まずは一番北の沼尾神社から紹介します。

この沼尾神社の周りは、奈良時代には大きな沼(池)があったようです。
現在この神社の南西側に広く田が開けた場所(田谷沼)がありますので、ここあたりでしょうか?
この田谷沼の西側の北浦沿いには「塚原卜伝の墓」と長吉寺というお寺があります。

常陸国風土記にも、
「北に沼尾の池あり。古老の曰へらく、神世に天より流れ来し水沼なり。生ふる所の蓮根は、味気太異にして、甘きこと他所に絶れたり。病める者、此の沼の蓮を食へば、早く差えて験あり。鮒・鯉、多に住めり。前に郡の置かれし所なり。多く橘を蒔う。其の実味し。」
とあります。

香島の郡家が以前、この沼尾の地にあったが、この風土記が書かれた時にはすでに移された後だったことがわかります。
郡家が初期に置かれた場所にはこのように大切な池(沼)があり、食べるものの豊富で、灌漑用としても稲作にも優位な場所だったことが伺えます。

場所はサーカーの鹿島スタジアムの少し北側です。
神宮から行くと、県道245号線(鹿嶋-鉾田線)の「鹿嶋学園」の先の細い道を左(西)に入っていった先にあります。
その道を西に真っ直ぐ入っていくと、そのままこの沼尾神社入口にいきます。

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木々に覆われた真っ直ぐな参道が続きます。

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この入口の鳥居の近くに車は停められるようですが、私は手前で停めてこの参道を歩いて向かいました。

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沼尾神社はこのように樹叢に覆われていました。

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裏側にはこじんまりした本殿がありました。

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さて、説明にもあるとおり、この神社の祭神は香取神宮の神である「経津主神」なのです。

これらはもう少しじっくり考えてみる必要がありそうです。
次回は坂戸神社を紹介します。


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鹿島神宮(3) 坂戸神社

 常陸国風土記に「香島の天(あめ)の大神」と書かれている鹿島神宮の社を北から順に巡ってみました。
最初に経津主神を祀る「沼尾神社」を紹介しました。
今回は坂戸神社です。

場所は沼尾神社と鹿島神宮のちょうど中間あたりにあります。

沼尾神社も、坂戸神社も県道鹿嶋-鉾田線の西側にあり、鹿嶋サッカースタジアムに近い場所になります。

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県道側から西に入ると、沼尾神社はそのまま参道となり正面に神社の拝殿が迎えてくれるのですが、こちらの坂戸神社は正面ではなく、左を向いています。
要するに、鹿島神宮の方を向いているのです。
この辺りにあるはずだと近くに行って初めてその木々の茂みに神社の存在が分かり、手前の道を少し回って神社の鳥居のところに横から入ります。

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こじんまりした拝殿の後ろに少し大きな本殿があります。

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沼尾神社と同じように樹叢に覆われていますが、こちらの方が少し新しい感じがします。

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こちらはすぐ近くにある社なのですが、何に使われているのか・・・

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祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)です。
これはこの鹿島神宮の祭司を務めた家でもある中臣氏の祖神です。
中臣という名前も天の神と人との間を取り持つ(占い等で)という意味だと勝手に解釈しております。
勿論中臣鎌足が最後に「藤原氏」を賜って、後の藤原氏全盛時代が来て、春日大社を建立したことはよく知られています。

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私は各地の神社を訪ねていますが、御朱印にはあまり興味がないのですが、この三社をまとめた御朱印も鹿島神宮の方でいただけるようです。


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鹿島神宮(4) 神宮本殿

 香島の天の大神は「沼尾神社」「坂戸神社」「鹿島神宮」の3つを一つにして常陸国風土記で呼ばれているわけですが、これは現在の鹿島神宮の成り立ちにも大きく係わっていると考えられます。
そこでこの三社を順に回ってみているのですが、時間もなく見てまわるだけでも何かを感じないか・・・・・・・

今回は神宮を駆け足状態で見て来ました。

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香取神宮と違って、入口に無料の駐車場が無く、ほとんど1日いくら(殆んどのところが500円?)というところばかり。
平日はそれ程混雑はしていませんが、ここまでまわってきた沼尾、坂戸神社などと比べれば大違いで、やはりにぎわっていました。
入口の大鳥居は東日本大震災の時に倒壊して、その後境内の木を使って再建されたものです。

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鳥居をくぐると其の先に朱色の柱が目立つ大きな隋神門があります。

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結構立派ですね。
2階建てですからお寺で言えば阿吽の仁王像がいる楼門となるのでしょうが・・・

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 門をくぐってすぐ右側に拝殿と裏に本殿が並んでいます。
今は補修工事中で布がかぶされていました。

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本殿横にあるのは確か三笠社?
こちらは違いますね。本田の左側に比較的小さな社があるのが確か三笠社だったと思います。
この三笠社もとても気になります。
古くからあり意味合いがあると思うのですが・・・
奈良の三笠山(春日山、若草山)と関係しているのでしょうか?
藤原(中臣)氏は768年に春日山に春日神社を建立して「武甕槌命」を祀り、神鹿を奈良公園に置いた。
このときこの鹿島神宮から鹿が奈良まで運ばれた。

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こちらは門から入って正面近くにある仮殿。
徳川家康が1605年に本殿を寄進し、1618年に、徳川2代将軍秀忠がこの仮殿を造営しました。
そして、神宮の神様をこの一旦この仮殿に遷し、家康が寄進した本殿を奥宮として現在の奥宮の位置に曳いて行ったのです。
その後現在の本殿を造営し、完成したのは1619年だそうです。
この仮殿も、江戸時代には楼門を入った真正面にあったそうです。その後2回の移動で現在の場所となったと書かれていました。

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もう一つ気になる社があります。
高房社です。比較的小さな社ですから、観光で訪れる方もあまりこちらに足を止める方も少ないようです。

しかし、常陸国風土記を読み、タケカシマが水戸以北の進出に手こずり、建葉槌神の助けを借りたことを知れば少しわかってくるのではないでしょうか。
私も大甕神社に行ってこの関係がようやく理解されるようになりました。
大甕神社には星を信仰する部族である「天香香背男(あめのかかせお)」とこれを成敗した建葉槌神が祀られています。
ですから、神宮の案内版にも「古くから、まず当社(高房社)を参拝してから本宮を参拝する習わしがあります。」と書かれています。

map2000.png

さて、上の鹿島神宮の配置図は、神宮のHPから借用しています。
(図はサムネイルですから、クリックすれば拡大写真が見られます)
この配置を見て、違和感をもたれる方はあまりいないのでしょうか?
私はもう大分前になりますが、最初に訪れたときから気になっています。
一般的に神社は鳥居をくぐって、参道が続き、その参道の先に神社の拝殿、その裏に本殿となっていて、参道側から拝殿の向きは正面におかれている場合が多いと思います。
しかし、この鹿島神宮は参道から右手に拝殿、本殿とあり、拝殿の向きが北から少し西側を向いています。
これは奥宮も同じです。

先に紹介した沼尾神社、坂戸神社の方向を向いているのです。
(神社の社務所の裏手には「坂戸社・沼尾社遥拝所」という場所もあります)
これについてはまたもう少し後で地図で検証してみたいと思います。

次回はこの配置から見つけ出された香島郡の郡家跡を紹介します。


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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/06 11:08

鹿島神宮(5) 郡家跡

 古代香島郡の郡家は一体何処にあったのだろうか?
常陸国風土記には香島郡のところで
「香島の神の南に郡衙がある。また北には沼尾の池がある。
・・・・・・この沼尾の地は以前郡衙の置かれていた所である。」
と書かれている。

すなわち、鹿島神宮の南側に郡衙があったことはわかっていた。
神宮の南側は「宮中」という地名が広がっている。

じつは、香島の天の大神といわれる「沼尾神社、坂戸神社、鹿島神宮」三社の位置が並ぶように置かれているのですが、これをさらに南へ延ばしていくと今回説明する香島郡の郡家跡にたどり着くのです。

昭和54年度から63年度にかけて大規模な発掘調査が行なわれ郡家の跡である事が確認され、昭和61年に郡庁と認定され、「鹿島神宮境内附郡家跡」として国の史跡に登録されました。

この郡家跡は「神野向(かのむかい)遺跡」と呼ばれています。

国の史跡登録は「鹿島神宮境内」「沼尾神社境内」「坂戸神社境内」とこの「郡家跡=神野向遺跡」を全部まとめての指定となっています。そしてこれらの史跡が一直線にほぼ等間隔に並んでいるのです。

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この「郡家跡=神野向遺跡」の範囲は結構広く、かなり広大なものであったと思われます。
近くには住宅地も広がっており、看板も2箇所に立てられています。
1箇所目は郡庁のあった場所で、正殿などの建物が建っていた場所です。

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前殿と正殿の2つの建物の周りに、54m四方の回廊がめぐらされていたようです。
今では配置がわかるように、このような目印の赤い缶が置かれています。

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ここから南側には空き地が広がっています。

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ここまでが北側にある正殿などの遺跡群。
更に空き地の南側にもう一つの立て看板があります。

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このあたりには穀物などを保管する正倉が25棟から30棟くらい置かれていたようです。
恐らく高床式の木造の倉庫だったと思われます。

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発掘された瓦の量が少なく、正倉の屋根はほとんどが萱葺きで1~2棟程度が瓦屋根だったのではないかと推定されています。
これは筑波郡の郡衙である「平沢官衙」でも同じでした。

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この100m~150m四方の間に25~30棟の正倉棟が並び、その周りを巾4mほどの溝がめぐらされていたようです。
この場所はかなり広く残されており、家を建てたりする制限が設けられたのでしょうか。
大変貴重な遺跡だと思われます。

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では次回この近くにある「跡宮」を紹介してから全体の配置を考えて見たいと思います。

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鹿島神宮(6 )跡宮

 鹿島神宮近くに「跡宮」という場所があるのをご存知ですか?
大生神社とは違います。大生神社は「元宮」などと呼ばれていますね。

場所は昨日紹介した「郡家跡:神野向遺跡」の丁度真西方向です。
鹿島小学校の脇の道を真直ぐに南に行く進み、高台の台地の先端部分です。
住所は「神野」です。

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現在はこの道も下へ降りて続いていますが、恐らく昔はこの下は一の鳥居のある大船津から水辺が広がっていたと思われます。

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跡宮はこの処をしたには降りずに、右手に曲がった所にあります。
このような鳥居があるのですぐわかると思います。

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少し行った所に神社がありますが、その手前に広場に木柵で四角く囲まれた場所があります。

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ここが跡宮といわれる場所でしょう。
ただ説明にもありますが、香島の天の大神がここに降り立った場所でもあり、鹿島から春日山にタケミカヅチの御分霊はここから飛び立ったといわれる場所です。

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説明にあるとおり、「物忌(ものいみ)」と呼ばれた巫女が住んでいた場所だそうです。
物忌は汚れ無き少女を亀も甲羅で卜して選んだそうで、少女の時から一生男子禁制の場所で過ごしたようです。
記録では全部で27人といいますので、それ程多くに人ではありませんが、一生を奉仕に捧げたそうですので大変なことだと思います。

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直ぐ横に、神社としての「跡宮」があります。

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ここは鹿島神宮の摂社の一つですが、地形を見ると、一の鳥居のある大船津にも近く、防人たちの「鹿島立ち」したのもこのあたりから下に下りて船で伊勢、奈良、大坂などに向かったのでしょう。
神野向遺跡とは東西関係にありますが、比較的近い場所でもありどのような関係にあったのかは大変興味をかんじる場所でもあります。

次回はここまで書いた香島郡の遺跡などを地図でその位置関係などを見てみたいと思います。


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鹿島神宮(7)拝殿の向き

 香島の天の大神の関係を追いかけてきて、やはりこれらの神社などの向きが気になります。
勿論これは鹿島灘や鹿島地方がある台地の方向に関係していると思われますが、一応検証してみましょう。

まず、神宮の拝殿の向きです。

鹿島神宮位置04

このように北北西を向いています。
ただこれも手で書かれた地図であり余り細かく見ても正確と言えるかどうかはわかりません。

鹿島神宮位置01

では、神宮本殿(拝殿)と郡家(神野向遺跡)などの位置関係です。
これも社殿の位置関係などで示していますが、大雑把であり、ほぼ北北西にほぼ等間隔に並んでいるといっていいでしょう。
ただ、前の境内の配置図の方向とは必ずしも一致せず、少しずれています。

鹿島神宮位置02

ではもっと広げて、常陸国一宮(鹿島神宮)と二宮(静神社)を結んでみました。
しかし前の地図の線とは少し方向がずれました。

まあ誤差範囲として大きくくって見ればほぼ同じ方向といえます。
ではこの地図に三宮(吉田神社)を載せると、ほぼこの直線の下にきます。
これも細かな話をすれば正確とまではいえません。

さらに鹿島から水戸方面に進出し、那珂国の国造(くにのみやつこ)に任じられたタケカシマの墓といわれる水戸市愛宕町にある「愛宕山古墳」を書いてみると、やはりこの線の下あたりに来ます。
地図には那珂郡郡家といわれる台渡里(長者屋敷跡)場所も示します。
少しずれはありますがやはり近くにきます。

これも三本の線の角度がみな微妙に違いますので、都合よく線を引いただけかもしれません。
しかし、タケカシマが制圧できなかった天香香背男(あめのかかせお)を倒した、建葉槌神が祀られている常陸国二宮の静神社
もこの鹿島神宮に高房神社が置かれた経緯もどこかでつながりがありそうです。

まあ一般には東北(蝦夷地方)へのにらみを利かせているなどと言われていますので、その程度に思うのも良いでしょうね。

また、三宮の吉田神社も常陸国へやってきた平氏一族がここに進出して吉田氏を名乗り、府中(石岡)の大掾(だいじょう)氏を輩出し、行方二郎、鹿島三郎と常陸国南部を排出した家柄ですので、常陸国には大いに関係があり、大昔に何かあったのかも気になる所です。佐竹氏もこの吉田氏から娘を嫁に迎えて勢力を伸ばしています。

また、石岡の鹿の子遺跡場所から台渡里まで昔の官道が通っていたことも確認されますので、この方向も反対方向ですが意味があるかもしれません。





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現原の丘

 常陸国風土記は現在完全な物はなく、全て省略本でしかない。
その中で「行方郡」は、今残されている写本で「不略之=略かず」と注記されている唯一の郡になる(総記も短いが省かれていない)。
そのため、結構細かなことまでを詳細に記述がされている。
恐らく、他の郡も同じように省かれる前は、細かなところまで記述されていたのではないかと考えても不思議儀ではない。
また、この行方郡も現在の玉造・井上・芹沢あたりから徐々に南下していき、潮来(板来)地方まで順番に書かれている。
1300年も前の事でもあり、当時の地形や町や集落の様子などは全く違っていたであろうから、書かれている場所を正確に探すことはかなり困難でもある。
地名として残されていたりしても、そこが当時からそのように呼ばれていたとは限らない。

まあ、それでもこのあたりのことを言ったのであろうと推察して楽しむことはできる。

そんなところを勝手に推察したりしていくのもまた良いだろうということで、勝手に決めた遺称地なるものをいくつか載せて見よう。

まずは、行方(なめかた)の地名由来とされている現原(あらはら)の丘からの眺めである。

風土記には
「倭武(ヤマトタケル)の天皇が、車駕(みこし)を廻らして、現原(あらはら)の丘に幸し、御膳を供へ奉りき。時に、天皇、四を望みまして、侍従を顧て曰りたまひしく、「・・・・・・此の地の名を、行細(なめくわし)の国と称ふべし」とのりたまひき。・・」

と書かれています。
この現原の丘からの眺めがまるで山や谷などが、細かなヒダのように織り成していて行細しと言う表現がぴったりするから「行方(なめかた)」と言うのだと・・・・
まあ、この名前の説明はこじつけであることは明らかですが、その話は別にして、この現原の丘がどこかと言うと、これは行方市の教育委員会で指定されている場所があります。

梶無川を上流に行った芹沢地区に近い場所です。
河童伝説でおなじみの手奪橋の直ぐ横に架かる橋を渡って、玉造工業高校の方へ少し進んだところに「現原の丘」の矢印看板が出ています。(玉造工業高校側からは約1.7kmです)
この看板にしたがって右に進むとこのようなゴルフコースの案内板があります。

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玉造ゴルフクラブの若海コース

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そして坂を登る道が続きますが、両脇はゴルフ場のきれいな芝のエリアが広がり、その間をこのような金網のフェンスで仕切られた道を進みます。

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途中に左右をゴルファーが行き来できる解放された場所もあり、また上を渡る歩行者用の橋もあります。

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そしてゴルフ場の途切れたあたりが水田(今は水は無い)となっていて、そこに「現原の丘」の看板があります。

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風土記の内容は説明看板を読んでください。
行方の名前由来は私も含めて、別な解釈もたくさんありますので、ここにはこのように書かれているとだけ書いておきましょう。

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それにしても現原の丘はこの看板のところと言うよりは、現在のゴルフ場そのものの場所でしょうね。
優雅にプレーをしておられる人たちもおられましたが、このように一部が残されているだけでも仕方ないかもしれませんね。

行政的な市町村合併の歴史を見て見ましょう。
1889年(明治22年)4月1日に「捻木村」・「若海村」・「芹沢村」・「谷島村」が合併し「行方郡現原村」が発足し、昭和30年に玉造町に編入されています。
常陸国風土記にはこの行方郡と隣の茨城郡との境はこの梶無川となっていますが、明治22年に発足した「現原村」のうち、捻木(ねじき)村と谷島村は川の西側ですので、昔は茨城郡であったかもわかりません。

現在の看板がある場所は昔は「若海(わかうみ)村」です。
もっとも地元の人は「わかうみ」とは発音しないようで「わごうみ?」と呼んでいるのかも知れません。
ただ住所表示のふりがなは「わかうみ」となっていました。




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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/09 11:56

鴨の宮を探して(1)

 常陸国風土記の行方郡では、
「倭武(ヤマトタケル)の天皇が、現原の丘から降りて、無梶河を郡境の果てまで行ったとき、鴨が飛びわたるのが見えた。そこで天皇が弓でそれを射ると、弓の弦の音に応じて鴨が地に落ちた。
鴨が落ちた場所を「鴨野」と言う。しかしそこは土地が痩せていて草木も生えない。」

その後、地元の人が鴨野の場所にお宮を建て祀ってきたという。
しかし、昭和2年に鹿島参宮鉄道は玉造駅までできていたが、玉造から船で鹿島参拝をすることとして、船着場を整え、鉄道は鉾田を目指す事に方針変更となり、この鴨の宮の敷地を通過する事になった。

その後、この前にあった鴨の宮の崖上近くに「鴨の宮再建」と刻んだ碑が建立されたという。

そしてその50年後の昭和53年に玉造第一保育園のすぐ北東の山側に「鴨の宮」が移されたという。
ここも地名は「加茂」と言う場所で、元々あった場所からは1km以上あるというが、あまり違和感はない。

ただ、元の場所を紹介しているサイト等が少なく、情報もよくわからない。
まだ、この元の場所も「鴨之宮神社」と称しているらしいので正確には2箇所となったということなのか。

そこで、この元あった場所を探してみる事にした。

まずは現在「鴨の宮」とされている玉造乙272−2の場所へ。

玉造市街方面から県道116号を梶無川に沿って上流へ進むと玉造甲から乙地域に入り、左側に「玉造第一保育園」があります。
この保育園の先の右手の細い道を少し行くとその左側の山の中腹に神社があります。

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右手に入ってすぐにこのような案内矢印があります。

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少し上れば神社の鳥居が見えます。

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鳥居の横に彫刻家の宮路久子さんが作られたヤマトタケルの像が置かれています。

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この神社に置かれた説明板には昭和50年3月9日に元の鴨の宮の地から遷宮されたと書かれています。
また前にあった鴨の宮地の地名に「鴨の宮」とあり、この遷された場所も「加茂」という地名であり、どちらも遺称地であるということができるということのようです。

ただ、この加茂地区には、以前「石神神社」という神社があったそうです。

何かスッキリしませんが、では昔鴨の宮が有ったといわれる場所を探してみましょう。

まずは、玉造郷校跡(玉造城跡)の地から東に250mくらいと聞いてたので、ここから・・・・
次回に続きます。

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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/10 12:00

鴨の宮を探して(2)

 元あったという鴨の宮は江戸時代末期に存在した玉造郷校の跡地から東に250mくらいの場所にあると聞いていたので、まずは江戸時代に水戸藩の大山守をしていたという県指定有形文化財となっている「大塲(おおば)家住宅」へ。

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なかなか手入れも行き届いていて梅の花もきれいに咲いていた。
見学は申し込みが必要なのか? 門は開いてない。

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この大塲家の裏山に戦国時代末期まで玉造城があり、城は1591年に佐竹氏により滅ぼされたが、江戸の末期に玉造郷校が建てられた。
この大塲家住宅の右横の細い道が裏山に続いている。

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道を少し上った所に玉造郷校跡の説明看板が置かれていた。

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そしてこの看板から右手に上に上る道があり、この上に郷校があった。
以前ここを登って上の看板を見ているので今回はそのまま車で先へ。

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すると少し開けて、そこに今度は玉造城跡の看板があった。
前に「常陸国の源平合戦」などとしてまとめてもいるが、1591年の佐竹氏による南方三十三館主の誘殺と書かれているが、玉造氏親子は佐竹氏の呼び出しに応じて常陸太田へ出かけたが、そこから日立市南部の大久保城へ連れて行かれ、そこで殺された。
佐竹家臣の大久保氏は行方氏とは親戚関係だった。

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この土塁の上に昔城があった。

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道はぐるっと廻ってこの山の上に出られる。
町側は崖となり、一部フェンスなどでガードがされている。

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鴨も宮があったのはここから東に250mくらいだというが、・・・

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数十mくらい行った場所に一つ名もない神社があるが、どのような神社かはわからない。
そのままこの先を100mほど行って見たが、家や畑はあるがそれらしきところには道が続いていない。

この日は他の場所の散策もあり、探すのをあきらめてそこを後にした。

後日、場所を探すために鹿島鉄道がどのように通っていたのか地図で確かめてみる事にした。

(次回に続きます)


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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/11 05:42

鴨の宮を探して(3)

 前にもここで鴨の宮調査は終ってしまっているので、今回はもう一度チャレンジと言うわけで、GOOGL地図を広げた。
するとそこには「鴨之宮神社」なる場所が地図に載っていた。
最近のGOOGLE地図は誰かがこうして登録してくれたりする。
以前、私が銚子で「天狗湯」探しを下記事を書いたが、その後この場所がGOOGLE地図に書き込まれていた。
私は登録した覚えも無いので誰かが登録しているのだろう。

さて、地図には載っていたが、探すという作業は意外と楽しいもので、いろいろな別の知識も与えてくれる場合もある。
そこで、この航空写真の地図に、旧鹿島鉄道の線路らしきところを辿ってみた。

鴨之宮神社

上の赤い線のところが、旧鹿島鉄道の線路が走っていた場所と思われる。

旧玉造駅は鉄道廃止後に以前行ったことがあり、ぼんやりとしたイメージはあった。
玉造の先は、榎本駅だと思っていたが、このGoogle Map には上記の地図の右端部に「坂本駅跡」のマークがあった。
調べてみるとこの坂本駅は1957年に廃止された駅だという。
初めて知ったが、こんなものも一つの発見になる。

昨日書いた大塲家住宅の前の道をそのまま東方面に進むと、この鹿島鉄道の下を道路が通っている。
即ち道路の上を鉄道が通っていて、この鉄橋が壊されずに残っていた。

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脇からこの旧線路があった所まで登れるようなので、登ってみた。
梅の花が先、大きなイチョウの木がそびえその下は銀杏の実が地面にびっしり積もっていた。

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少し銀杏の実を踏みつけて、そのにおいを気にしたが、上に登ってみた。

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西側の旧玉造郷校(玉造城)方面は、こんな感じ。鴨の宮がこの線路で邪魔になり移転となったというのは昭和2年(1927)。
このまま進むには藪がきつすぎる。

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反対側も比較的きれいではあるが、鉄橋なので危ない。
そのまま下へ降りた。

下の通りを、大塲家方面に戻り、地図の鴨之宮神社の下辺りと思われる所に玉造郷土研究会が掲げた看板が置かれていた。

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この処に車を置いて、そのまま上に続く道を上った。

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道は山に入って行く。

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そのまま歩数で100~150歩程度でここの家の墓所に出た。

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代々続くこの方(関口家)の墓所のようだが、その一角にこの「鴨之宮跡」の石碑とヤマトタケルの像などが置かれていた。

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この石祠には菊の御紋と「鴨之宮神社」と彫られていた。

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ここでは、今の加茂にある「鴨の宮」は分霊されたものだということのようです。
今もこの地は「鴨の宮」というようです。

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「鴨の宮を探して(1)(2)(3)」終わり


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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/11 14:50

若海香取神社

 常陸国風土記の行方郡。
ここまで、現原の丘、鴨の宮と書いて来ましたが、この鴨野の北として書かれている場所を見てみましょう。
 「野の北に、櫟(いちい)・柴(くぬぎ)・鶏頭樹(かへりで)等の木、往々森々りて、自ら山林を成せり。即ち、枡の池有り。此は高向の大夫(まへつぎみ)の時、築きし池なり。北に香取の神子の社有り。社の側の山野は、土壌腴衍(こへ)て、草木密生れり。」
とあります。でもこの記述について、あまり詳しい記載がされているものもありません。

その前の文では、「鴨野」は土壌塉捔(やせ)て・・・・ とあるのに対し、こちらは土壌腴衍(こへ)て・・・と対照的に書かれています。
そこで、「鴨野=鴨の宮地区や加茂地区」に比べて当時、人々が暮らすには良い場所で、「香取の神子の社」があるところを探してみます。何か土地柄にそんな差がある場所なのでしょうか?

若海香取神社2

現在の地図(航空写真)で見てみましょう。
ここに前に書いた「現原の丘」看板位置と、鴨の宮の2箇所の場所を書き込み、今回書かれている「香取の神子の社」と思われる「若海香取神社」及び、「捻木香取神社」及び、この後に出てくる提賀の里の北にあるとされる「香島の神子の社」の遺称地という「大宮神社」の位置を記しておきます。
この大宮神社は確かに古社であり、タケミカヅチが祭られていますので、鹿島の神の神社ですが、こちらの風土記に書かれている場所は現在地よりもう少し東にあったように思われますので、後に現在地に移されたものかもわかりません。。

風土記の本に書かれている「香取の神子の社」が捻木と若海地区のどちかであろうとありますが、梶無川の東側が行方郡であったという推定により、若海香取神社がもっとも遺称地と考えられそうです。

ということで、この若海香取神社に行って見ました。

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県道116号を梶無川に沿って上流側に向かい、若海ゴルフコースという案内にしたがってきれいに舗装された道路を東へ登っていきます。
少し行った先に気になる社がありました。
「若海観音堂」となっています。
ただ、このお堂の謂れなどはまだよく知れべていませんのでわかりません。

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その観音堂から少し行った道沿いに「香取神社」の入り口看板があります。

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神社の本殿

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かなり古くからある神社のようです。

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道路とほぼ平行に参道があり、東側に鳥居があります。

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また、神社の入口に近い道路沿いに「若海貝塚」の立て看板が置かれていました。
この香取神社もこの貝塚の上に立てられているようです。
もちろんこの前の舗装されたきれいな道路も貝塚を削り取ってしまっているようにも思います。
ここも、ゴルフ場開発により作られた道路でしょう。

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この貝塚も規模が大きく、ここの発掘で、人骨、それも当時の人としてはかなり大柄な身長が170cm前後の男性の骨が見つかったというのです。
なぜ、貝塚に人骨があったのか、当時の埋葬形式ではないで棄てられたのか?
謎のようです。

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さてこの神社の下は、広々とした谷津田が広がっております。
神社から少し東へ進んだあたりから見下ろすと、枡池のような灌漑用の池もあります。
池が築かれたのは「高向の大夫(まへつぎみ)の時」とあります。
また、この行方郡は653年に茨城郡の国造らと那珂郡の国造らが惣領であった「高向の大夫(まへつぎみ)」らに申し出て、2つの郡の領地を分けて設けられたともあります。
時代はやはりこの653年頃だと思われます。
また高向(たかむく)氏族は武内宿禰後裔氏族の一つだそうです。
やはり灌漑用に作られた池だったのだろうと思われます。

若海

このあたりに昔も枡の池があったのかもしれません。

風土記によればこのあたりは土地が肥えていて草木も密集していたと書かれています。
貝塚があり、かなり昔から縄文人が暮らしていたのでしょう。


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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/12 07:20

当麻の郷

 常陸国風土記の行方郡の後半の記述に現鉾田市あたりの事が書かれている。

「都より東北十五里に当麻(たぎま)の郷(さと)あり。古老の曰へらく、倭武の天皇(ヤマトタケル)、巡り行でまして、此の郷を過ぎたまふに、佐伯、名は鳥日子(とりひこ)と曰ふもの有り。其の命に逆ひしに縁りて、随便ち(すなはち)略殺したまひき。即(すなは)ち、屋形野の帳の宮に幸(いでま)ししに、車駕の経るところの道狭く地深浅しかりき。悪しき路の義を取りて、当麻(たぎま)と謂ふ。・・・野の土(つち)埆(や)せたり。然れども紫艸(むらさき)生ふ。二つの神子の社あり。其の周の山野に、櫟(いちい)・柞(ははそ)・栗・柴、往々林を成し、猪・猴(さる)・狼、多に住めり。」

この悪路でデコボコしている様を、この地方の言葉で「たぎたぎし」というともあり、この言葉から「当麻(たぎま)」となったとされ、今の鉾田市「当麻(とうま)」がその場所と考えられています。

そこに二つの神子の社があったということで、これは鹿島(香島)と香取の二つの社があったと解釈されるのですが、上記風土記の表現では2つの社なのか、1つの社に鹿島の神と香取の神が祀られているのがはっきりしない。

そこで、地図を頼りに少し探してみた。

当麻

この当麻地区の西側境界を「巴川」という一級河川が流れている。
この川沿いを上流に進むと、「鹿島神社」があり、その少し東に「黒栖神社」という神社があった。
この川沿いの道はそのまま少し行くと、先日紹介した親鸞上人ゆかりの「無量寿寺」に行く。

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この道から右に車がやっと通れるかどうかと言うくらいの比較的細い道がある。
その入口角に「村社鹿島神社」という石柱が立てられている。

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神社の社殿はここから少し山を登った所にあるが、余り道はよくなく、「危険登るな」などという地元小学校の立て看板などがあった。
私も、登りに適した靴もはいていなかったので、上に行くのはあきらめた。

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そこから地図ではこの細い道を少し行った所に「黒栖神社」があるはずで、車は通りの空き地において歩いて向かった。

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少し行った所に神社の鳥居が見えた。

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どういうことかわからないが、この黒栖神社と思われる神社は「村社鹿嶋神社」と書かれていた。
先程あった神社は同じ村社だが「島」と「嶋」と漢字が違っている。
昔も同じ村同士だと思うが、どちらも村社である。

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入り口にあった神社よりもこちらは拝殿・本殿ともに立派である。
地図を眺めていると、川の反対側(西側)に「香取鹿島神社」という神社もあった。

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少しわからなくなり通りへ戻ったが、巴川へ下っていくこの道も、昔はもっと河の水量も多かったであろうし、江戸時代には船で荷物を運ぶために、涸沼に注ぐ川とこちらの上流地点を水路で繋ぐ計画も進んでいたようだ。

常陸国風土記にはこの地方にいて、成敗された現地人(佐伯)の名が「鳥日子(とりひこ)」というと書かれている。
この当麻の北の地域は「鳥栖(とりす)」という。
どこか発音も似ている。

黒栖(くろす)と言う名前にも何か意味合いがありそうに思う。
現地に行く前は、この黒栖神社が香取神社から鹿嶋神社に変ってしまった(このありではよくあること)と思っていたのだが、もう少し深い意味合いがあるのかもしれない。

また、鹿島と鹿嶋だが、現在の鹿嶋市誕生時に九州佐賀県に「鹿島市」がすでにあったため、「鹿嶋市」となったと思い込んでいたが、市のHPなどを読むとそればかりともいえないようだ。
かなり昔から「鹿島」と「鹿嶋」は両方混在して使われていたという。

参考まで:鹿嶋の地名の由来と表記 ⇒ こちら



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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/13 05:50

麻績王(をみのみこ)のこと

常陸国風土記の行方郡の後半に、気になる記述があった。

「郡の南二十里(約10km)に、香澄の里あり。・・・・・・・・此の郷(霞の郷)より以西の海の中の北の洲を新治の洲と謂う。・・・・・・・・
此れより往南十里(約5km)に板来の村あり。近く海浜に臨みて、駅家を安置けり。此を板来の駅と謂う。その西、榎木、林を成せり。飛鳥の浄見原の天皇の世(天武天皇と持統天皇2台代)、麻続王(をみのみこ)を遣らひて居処らしめき。其の海に、塩を焼く藻・海松(みる)・白貝(おふ)・辛螺(にし)・蛤(うむぎ)、多に生へり。」

板来(潮来)の駅家(うまや)は府中(石岡)から鹿島への官道の途中に設置された陸路の駅だが、陸路は810年前後に廃止されたらしい。やはり荷物を運んだりするのも馬より船が良かったのだろう。
この板来の駅家がどこにあったかははっきりしていない。
現在潮来市街地にある「長勝寺」の境内にこの駅家(うま)跡の標識板が置かれている。

潮来駅家

ただ、廃止されたのも早く、実際の駅家のあった場所ははっきりしていないようだ。当時もう少し東側の内陸部にあったのではないかと推測している。潮来の町の東側に「辻」という場所がある。
この辻は昔は「津知村」と言っており、南北に細長い地形に広がっている。

近くに「津=湊」があったことを感じさせる。元々「辻」の言葉は、街道から津の方向に向かう分かれ道部分(津を知る)につけられて、それが「辻」に変わっていったのだと思っている。
この常陸国風土記には、この駅家の西に麻績王がここに派遣されて住んでいた。と書かれている。
これが問題の箇所だ。

麻績王は「麻続王」とか「麻續王」などとも書く。

1) 日本書紀の記述(天武天皇4年夏4月の条)では675年に罪があり、因播に流され、その子供2人が伊豆嶋と血鹿嶋に流されたとなっている。

原文から見てみましょう。

(原文)
庚寅、詔諸國曰「自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽及施機槍等之類。亦、四月朔以後九月卅日以前、莫置比彌沙伎理・梁。且、莫食牛馬犬猨鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。」
辛卯、三位麻續王有罪、流于因播。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋。
丙申、簡諸才藝者、給祿各有差。是月、新羅王子忠元到難波。

(現代語訳)
(夏四月)十七日、諸国に詔して、「今後、漁業や狩猸に従事する者は、檻や落とし穴、仕掛け槍などを造ってはならぬ。四月一日以後、九月三十日までは、隙間のせまい梁を設けて魚を獲ってはならぬ(稚魚の保護)。また牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食べてはならぬ。それ以外は禁制に触れない。もし禁を犯した場合は処罰がある」と言われた。
十八日(675年5月17日)、三位麻続王(おみのおおきみ)に罪があって因幡(いなば)に流された。一子を伊豆島(いずのしま)に、一子を血鹿島(ちかのしま)(長崎の五島列島)に流した。
二十三日、種々の才芸のある者を選んで禄物を賜わった。
この月、新羅の王子忠元(ちゅうげん)が難波(なにわ)に着いた。

このように、因播=因幡(いなば)=鳥取県で、伊豆嶋=伊豆島=伊豆のどこかの島で、血鹿嶋=値嘉島(ちかのしま)=(長崎の五島列島)と一般には解釈されています。値嘉島(ちかのしま)という島の名前はありませんが、昔の五島列島をそのように呼んでいたようです。NHKの朝ドラに出てくる五島列島の島の名前も「知嘉島」という名前ですが、実際には現在存在しません。

さて、常陸国風土記の地から見ると、因播=印旛(いんば、いには)? とか 血鹿嶋=鹿嶋 ではないかなどとも考えてしまいます。
それにこの風土記は麻績王が、板来(潮来:いたこ、いたく)にやって来て住んでいたとなると日本書紀の一般的な解釈の場所と違いがありすぎる。風土記が書かれたのは、この麻績王が流されて50年ほど後の事であり、それほど年数も経っていないので、意外にこの記述は正しいのではないかと思える。
麻続王は貴族でその位が三位というのでかなり上の位になる。一位、二位などは全部で3人ほどしかいないようなので、上位4~5番目くらいになるし、朝廷の一族とも考えられる。
一般的にはこの麻績氏は麻(を)を績(う)むということからの名前で、麻を細く裂いてより合わせて麻糸をつくることを職業とする集団と言われていますが、いわゆる「海人族」の共通の先祖としてあがめられているといいます。

2) 日本書紀の記述と違った記述が万葉集にある。

 (2-1) 万葉集 第一 23番 読人不知(麻績王を哀れんで人々が詠んだ歌)
(原文)
麻績王流於伊勢国伊良虞島之時人哀傷作歌

打麻乎 麻績王 白水郎有哉 
射等籠荷四間乃 珠藻苅麻須

(読み下し)
打麻を 麻績王 白水郎なれや 
  伊良虞の島の 珠藻刈ります

(意味)
麻績王が伊勢国の伊良虞島に流されたときを哀傷して作った歌(詠み人知らず)

麻績王は漁師(海人)であられるのか
 いいえ、漁師(海人)でもないのに伊良虞の島のよい藻を刈っておられる

(注)
伊良虞(いらご)の島:現在の渥美半島の伊良湖岬辺りではないかという。
この時代は伊勢とも距離は近く、この辺りの島は伊勢国に属していたようです。
伊賀国から行く古東海道も、伊賀から伊勢に行き、伊勢からは陸路より船で海路の方が一般的だったようです。
ここでは確かに伊勢国となっていますが、「いらご」という名前は昔の潮来も古代には呼ばれていたらしく、この「いらご」が「いたこ」となったという説もあるようです。ただこの「いらご」の意味はよく判っていません。またこの情報も、どこまでが正確な情報であるかもはっきりしません。

地名では「砂」と書いて「いさご」と読むところは近くにもあります。これは「石子」が細かな石で「いさご=砂」となったといわれています。また砂鉄のことも「いさご」ともいうらしいです。
その他に浜の真砂(まさご)などという言葉もありますね。でも「いらご」と「いさご」は明らかに違いますね。

 (2-2) 万葉集にはこの詠み人知らずの麻績王を憐れんだ歌に対する麻績王の返答の歌も載っています。
実際に会っての歌ではなく、人伝に聞いて、それに寄せた返歌のようです。

 万葉集第1巻 24番 作者:麻績王

(原文)麻績王聞之感傷和歌

空蝉之 命乎惜美 浪爾所湿 
伊良虞能嶋之 玉藻苅食

(読み下し)
うつせみの 命惜しみ 浪にぬれ 
  伊良虞の島の 玉藻刈りをす
(意味)
 この世の命が惜しいので波に濡れて
伊良虞の草を刈って食べているのです

どうですか? 確かにこれだけでは、万葉集には伊勢国の伊良虞島とはっきり書かれていますので、万葉集の編者は渥美半島あたりを伊良虞島と思って書いていると思います。
因播に流されたといいながら、罪を軽減されて、近くの伊良虞へ流されたなどとも考える方もおられるようですが、常陸国風土記では潮来に来たといているのですから、どちらが本当なのでしょう。

ただ、潮来近辺を調べただけでは麻績王のいたと思われる地名などは見つかりません。
しかし、昔は舟で潮来からも近い下総国にはこの痕跡と思われる場所が存在します。

平安時代の倭名類聚抄(倭名称)に当時の郡名と郷名が書かれていますが、下総(しもふさ)国・海上(うなかみ)郡の中に15の郷名が書かれていますが、その一つに「麻續(をみ)郷」があるのです。
この場所は今の香取市小見川(旧小見川町)地域です。
例によってFlood Maps地図で海面の高さを+5mして見ました。

麻績郷

地図に示したように潮来からは昔の内海「香取の海」ではすぐ対岸になります。
ただ、5m海面が上昇するだけで、このあたりは殆んど水没してしまいます。
ただ、このように山側に入り込んだ内海の回りは獲物を取り過ごすにはとても良い環境だったのではないかと思われます。
現在、小見川駅方面から内陸のほうに進むと、あたり一面は水田が広がりその奥の山に府馬の大クスという古木があり、そこの公園の展望だからこの平野部が一望できます。
そこに書かれた説明にはこの平野部は「麻績千丈ヶ谷」と呼ばれているとありました。
(参考:以前書いた「麻績千丈ヶ谷」記事 ⇒ こちら

また、この麻績郷の隣の山側の地域はとても貝塚の多いところで、古代は「編玉郷」と呼ばれていた地域です。
貝塚としては国の史跡でもある「阿玉台貝塚」「良文貝塚」などがあり、中世の千葉氏の祖とも言われた平良文が住んだ場所でもあります。
この編玉郷にある「豊玉姫神社」はその名の通り「海人」族の象徴とも言える豊玉姫が祀られており、江戸時代までは編玉郷の総社で「編玉総社大宮大明神」といったそうです。
(参考:豊玉姫神社の記事 ⇒ こちら

まさにこのあたりには海人族がかなり前から移り住んでいたと思われます。

まあ、これだけではこれ以上の探求も難しそうですが、これからの展開もまたあるかもしれません。

<全国の地名> 参考まで

麻績の付く所:
長野県東筑摩郡麻績村 ナガノケンヒガシチクマグンオミムライカニケイサイガナイバアイ
愛知県稲沢市北麻績町 アイチケンイナザワシキタオウミチョウ
愛知県稲沢市南麻績町 アイチケンイナザワシミナミオウミチョウ

小見という地名
山形県酒田市小見 ヤマガタケンサカタシオミ
山形県西村山郡大江町小見 ヤマガタケンニシムラヤマグンオオエマチオオミ
福島県会津若松市神指町小見 フクシマケンアイヅワカマツシコウザシマチオミ
茨城県石岡市小見 イバラキケンイシオカシオミ
栃木県佐野市小見町 トチギケンサノシオミチョウ
埼玉県行田市小見 サイタマケンギョウダシオミ
埼玉県比企郡川島町小見野 サイタマケンヒキグンカワジママチオミノ
埼玉県比企郡川島町上小見野 サイタマケンヒキグンカワジママチカミオミノ
埼玉県比企郡川島町下小見野 サイタマケンヒキグンカワジママチシモオミノ
千葉県香取市小見 チバケンカトリシオミ
千葉県香取市小見川 チバケンカトリシオミガワ
新潟県新潟市南区中小見 ニイガタケンニイガタシミナミクナカオミ
新潟県新潟市西区小見郷屋 ニイガタケンニイガタシニシクオミゴウヤ
新潟県新発田市小見 ニイガタケンシバタシオミ
新潟県糸魚川市小見 ニイガタケンイトイガワシオミ
新潟県岩船郡関川村小見 ニイガタケンイワフネグンセキカワムラオウミ
新潟県岩船郡関川村小見前新田 ニイガタケンイワフネグンセキカワムラオウミマエシンデン
富山県富山市小見 トヤマケントヤマシオミ

 ~ 以上 ~


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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/14 12:51

鹿島灘沿い

 常陸国風土記の香島郡については、先日「香島の天の大神」や郡家跡(神向遺跡)などを紹介しました。
今回は、このさらに南部について書かれている辺りを散策して来ました。

まず、香島郡の成立については、西暦649年に下総国の軽野の南側の1里(さと)と那珂国の寒田より北の5里を割いて、香島の神の郡を設けたと書かれています。

この軽野という地名は現在神栖市の神之池(ごうのいけ)の南部に軽野という地名があります。小学校もあります。
恐らくはこのあたりから南の波崎あたりまで昔は下総国の海上(うなかみ)郡であったものと考えられます。
一方那珂郡に所属していた寒田(さむた)というのは、風土記に記載があり、「寒田の沼」と呼ばれているところが出てきますが、これは現在の神栖市中心部にある「神之池(ごうのいけ)のことを指していて、鹿島コンビナートが建設される前には現在の3倍ほどの大きさがあったとされています。
風土記の書かれた頃はもっと大きかったのではないかと思います。

まず、「郡の東二三里に高松の浜あり。大海の流れ着く砂(いさご)と貝と、積もりて高き丘と成り、松の林自ら生せり。東西の待つの下に出泉あり。八九歩ばかり、清渟(きよ)くして太(いと)好し。」とあります。
この高松といわれる場所を探してみました。
郡家のところから東に1~2km程のところですので、このあたりはまだ鹿島コンビナートの影響を受けていますが、「高松緑地公園」という大きな公園がありました。

鹿島郡高松浜

コンビナートにも近く、これらの施設は立派ですね。
野球場、テニスコート、プールなどの遊戯施設に、緑地公園もあわせている、かなりの大きさの公園です。

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(高松緑地公園案内版)

ただ、風土記が書かれていた頃は太平洋(鹿島灘)にも近く、砂が積もって小山になり、松の林があったようです。
また近くには小さなきれいな水の池もあったとなっています。
この清水も松も当時は重要なものだったと思います。
この高松の少し南に鹿島港がありますが、昔はこのあたりで陸地が途絶え、今の神栖や波崎地区とは離れており、現在の神栖市(波崎も含め)領域は島のようになっていたとも言います。
この鹿島港に近い場所に「国末(くにすえ)」という地名が遺されていますが、文字通りここが国の端部であった時代があるようです。

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(高松緑地公園駐車場と緑地)

高松の浜に続いて、風土記には若松の浜について書いています。
「(西暦704年に)国司采女朝臣・・・・鍛冶師・・・等を率て、若松の浜の鉄(まがね)を採りて、剣(つるぎ)を造りき。此より以南、軽野の里と若松の浜とに至る間、三十余里ばかり、此は皆山なり。伏苓(まつほど)と伏神(ねあるまつほど)とあり、年毎に掘る。
其れ若松の浦は、即ち、常陸・下総と二つの国の境なり。安是(あぜ)の湖(みなと)に有る所の沙鉄(すなのあらがね)は剣を造るに大きに利し。然れども、香島の神山なれば、輙(たやす)く入りて、松を伐り鉄を穿ることを得ず。」
とあります。

この文にある「此より以南」は高松の浜の南と言う事のようですので、鹿島神宮にも近い高松の浜から海岸(鹿島灘)沿いに三十余里(約16-17km)は山が続いているところで、そのあたりから銚子の方まで砂浜が続いているところといえそうです。

それらしきところを探してみると、神栖市に「若松」という地区があり、市の「若松公民館」という施設がある事がわかりました。
この風土記の記述を読むと、どうやら軽野の里というのはこの若松の浜あたりまでを呼んでいたようです。

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(神栖市若松公民館)

地区の公民館などといっても、神栖地区もかなりコンビナートで潤っているようで、立派な公園を有する広い敷地の公民館でした。

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神栖市の出張所も併設されていました。

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どこか南国風な造りで、昔の浜の砂鉄堀りなどを想像するには不向きですね。

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此のあたりから現在の波崎港あたりに続く砂浜は当時は剣を造る砂鉄と松が豊富にあった事になります。
鹿島神宮の宝物館には国宝の長剣がありますが、奈良朝の頃も、この砂鉄が大変重要視されていたことがうかがえます。
ただ、ここは神域なので、一般の人は勝手に入って砂鉄などを採ることは禁止されていたのでしょう。

安是(あぜ)の湖(みなと)は、湖=水戸(みずと:水の戸口)の意で、現在の利根川河口附近と考えられます。

波崎の松林

現在この鹿島灘に面したあたりは砂浜と低い松林が続きます。
この砂地も外洋からの砂の移動で吹き溜まったもので、鎌倉時代頃に今のような砂地が出来、そこに育つ木が黒松だけだったということで、人が黒松を植えて行ったとも言われています。
風土記が書かれていた頃の松林はもう少し今の内陸側だったようです。
当然童子女の松原というのももっと内陸側に有ったのでしょう。
海岸側は外洋からの砂の移動で砂浜や砂山ができ、利根川沿いの方は、川からの体積土砂が積もり陸地化して行ったもののようです。

波崎の風車

また、海岸沿いに風力発電の風車が並んでいるのも、昔の人が見たら驚くでしょうね。
遠くに鹿島工業地帯の高い煙突が並んでいます。

常陸国風土記にはこの後、「童子女の松原伝説」の話しが載っていますが、此れについては前に書いているので省きます。

 童子女(うない)の松原と手后前神社 ⇒ こちら
(少し長いです。また、今となったら訂正したい箇所もたくさんありそうです)




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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/15 10:41

難破船とうつろ舟

 さて、常陸国風土記も一般によく引用やお話しに扱われる話も結構ありますが、全く無視されている箇所もたくさんあります。
まあ、ここでは余り説明も殆んど無い箇所を主に取り扱っていますが。
昨年くらいから、この江戸時代にUFOか? とか 養蚕伝承との関係は? とか 瀧澤馬琴の話し とか新聞や展示会などいろいろ取り上げられています。
どこまでが本当にあった話なのかはここでは検証はしませんが、常陸国風土記に書かれている記事の中に少し気になる箇所がありました。
一般にはただ素通りして読み進める程度なのですが・・・・・・・

「軽野より以東の大海の浜辺に、流れ着ける大船あり。長さ一十五丈(つえ)、濶(ひろ)さ一丈余、朽ち摧(くづ)れて砂に埋り、今に猶遺れり。淡海の世に、国覔(くにま)ぎに遣されむとして、陸奥の国の石城(いはき)の船造に令せて、大船を作らしめしに、此に至りて、岸に着き、即て破れきと謂ふ。」

この後に、「童子女の松原」伝説の話が書かれています。
ですから、この一つ前の話しは、ただそうですか・・・と読み通して終ってしまうのです。

銚子沖は親潮と黒潮がぶつかり、潮の流れが陸から外側に流れますので、昔から幾度と無く船の難破の話しは尽きません。
南北朝時代に神皇正統記を表わした北畠親房も、難破して陸奥にはいけずに常陸国南部に上陸。国木田独歩の父も船が難破して銚子に漂着し、そこで独歩が産れた。

この風土記の話は、天智天皇の時代(668年~672年)に住むのに良い国土を探すために、岩城国の船造者に依頼して大船を造らせたが、都にもって行く途中でこの鹿島灘南部の浜に打ち上げられて大破してしまったものが今もこの浜に遺されているという。
長さが15丈、船の内側の幅が1丈余という。
今参考にしている風土記では「丈=つえ」と読ませているが、当時中国から伝わっていた長さの単位は1丈=10尺=約3mくらいではないかと思う。すると船の長さは45m、巾は3mくらいとなる。

神栖市波崎の南東端に波崎かもめ公園があるが、そこにコンクリートの船の模型が置かれている。
これは、大きな漁船をイメージして「はさき丸」としているが、これくらいの船ではないかと思う。

はさき丸
(波崎かもめ公園の漁船モニュメント「はさき丸」)

さて、私が、今回この風土記の記述から、江戸時代初期に記録として書かれた、円盤型の舟に異国の女性が乗っていたという「うつろ舟」の話がどこかで繋がっていないかなどとつい発想を膨らませてしまったには理由がある。

江戸時代に滝沢馬琴が1825年「兎園小説」という中に書かれているというのですが、このうつろ舟が漂着した場所は「常陸原舎り浜」だという。これを常陸国の原舎り浜として、「原舎り=はらやどり」と解釈したようなのです。
「はらやどり浜」と思われる地名はありません。
しかし常陸原「舎り浜」ならばあります。 波崎の鹿島灘沿いに「舎利浜(しゃりはま)」があり、陸側に「舎利」があります。

ちょうど、常陸国風土記香島郡に書かれているこの難破船の残骸が残っていたのもこの舎利浜辺りだと推測されます。
むかしは良い砂鉄がとれる場所だが、鹿島の神の領地なのでむやみに人は立ちることができないとされている砂浜です。

ただ、昔は波崎も一昔前は「羽崎」と書き、そのもっと大昔は「刃先」と書かれていたような時代もありそうで、現在の姿になるにはかなり変貌を繰り返していたと考えられます。

太平洋からこの海岸には砂が運ばれ、それがまた風で内陸部に砂山を築いていきました。

神栖市にある市立図書館は中央図書館ともう一つ「うずも図書館」とい図書館があります。
この「うずも」という意味は「砂の丘」という意味だといいます。
このあたりはこの砂丘が広がり、砂山ができ、一時はここでサンドスキーなども行われたようです。
この風土記の頃から余り農業には適さず人も余り住んでいなかったようです。

このようにその土地の地形や成り立ちも理解しながら古書は読まなければならないのでしょう。

また滝沢馬琴は、うつろ舟の話と養蚕信仰の話を調べていたようです。
茨城県神栖市日川720に「蚕霊(さんれい)神社」(「日本養蚕事始」)がありますが、この神社が群馬県などの「絹笠神社」の始まりだといわれているようで、馬琴もこのあたりを探っていたのではないかと思われます。
(参考:「養蚕信仰について 宗教法人咲前神社」より)
【御祭神】大気津比売神、【御本尊】馬鳴菩薩(蚕霊尊)の神仏習合

蚕霊神社
(蚕霊神社)


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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/16 11:57

白鳥の里

 この記事は以前書いたものの再話ですが、こちらにも少し変えて残しておきます。

常陸国風土記の香島郡の記述
「郡の北三十里に、白鳥(しろとり)の里あり。古老の曰へらく、伊久米の天皇の世に、白鳥有り。天より飛び来たり、僮女(をとめ)と化為りて、夕に上り朝に下る。石を摘(ひろ)ひて池を造り、其が堤を築かむとして、徒(いたづら)に日月を積みて、築きては壊えて、得作成さざりき。僮女等、
 白鳥の 羽が 堤を つつむとも あらふまもうきはこえ
斯く口口に唱ひて、天に升りて、復降り来ざりき。此に由りて、其の所を白鳥の郷と号く。(以下省く)」
とあります。

(現代語訳)
鹿島郡の郡家の北三十里のところに、白鳥の里というところがあります。
第11代天皇の垂仁天皇の代の頃のお話です。
あるとき、天より飛来した白鳥の一群がありました。
白鳥たちは、朝に地上に舞ひ降りて来て、乙女の姿になり、石を拾い集めては水をせき止めて、池の堤を少しづつ築き、夕方になると、また白鳥の姿にもどり、天へと帰っていくのでした。
しかし、池の堤は、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりでなかなか池の堤は完成できませんでした。
さうしてこの白鳥たちは、

  「白鳥の 羽が堤を つつむとも あらふ真白き 羽壊え」
(小石を集めて池の堤を作らうとしても、白鳥の羽を抜いて積み上げるようなもので、この真白き羽はすっかり損はれてしまった。)

 と歌いながら天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはありませんでした。
この謂れにより、白鳥の里と名付けられました。
--------------------------------------------------------

さて、この話は第11代天皇の垂仁天皇の頃に池を造るというお話です。
垂仁天皇(すいにんてんのう)は実在した可能性が高い天皇と考えられてもいますが、紀元前の生まれではなく、時代としては3世紀後半から4世紀前半の天皇だと思われます。
垂仁天皇は崇神天皇の3番目の子供で、大和朝廷の生産力の拡充や、新羅などとの交流も積極的に行ったと言われています。
特に水田開発を熱心に行い、諸国に800余りの池・溝を作りました。
この白鳥伝説も、こ白鳥や乙女の美化された話ではなく、水田に使う水を貯める池の構築が、かなりの難事業であったことを物語る話としてみると、内容が少しわかってくるように思います。

また、垂仁天皇は天皇などが亡くなった時に、人の殉死などの風習があったのを排除し、代わりに埴輪を使うことをはじめたとされています。

なんかとてもいろいろな事が想像される話に思えます。

この白鳥の里ですが、旧太陽村(現鉾田市)の中居あたりではないかとされています。
というのもこの中居地区の西側の霞ヶ浦北浦近くには「白鳥西小学校、東側の鹿島灘近くには「白鳥東小学校」があります。
遺称地として、地元などに看板などがある場所は、この中居に「白鳥山大光寺照明院」という天台宗のお寺があります。

昔行ったときの写真ですが、

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(白鳥山大光寺照明院)

寺は無住で、人の気配はない。
寺の入り口に置かれている石像はほとんどが子安観音像で女人講中などの文字が読めるが年代はよく読めない。
一番手前には文政11年(1828)の銘がある念仏供養塔である。

もう1箇所の候補地が、北浦に架かる鹿行大橋に近い札村の「白鳥山普門寺」である。

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(白鳥山普門寺 白鳥観音堂)

こちらも昔訪れた時の写真だが、忘れ去られたように残されていた「白鳥観音堂」が記憶に残っている。
この札村は芭蕉の禅の師である「仏頂禅師」が江戸初期の1642年2月18日に生まれている。
仏頂禅師は、大田原の雲厳寺裏の山の草庵で禅の修行をしたといわれる。
その後潮来の根本寺の住職をしていた。寺領の争いのため、江戸を訪れていたときに芭蕉と知り合った。
また、小林一茶が1817年5月に鹿島詣での途中に、この地を訪れている。
いろいろあるが、今この地を訪れる人はあまりいないようだ。

常陸国風土記では鹿島郡の郡家から北三十里(約16km)と書かれており、郡家跡とされる場所から16kmというのは「大光寺照明院」の方が近い。

ただ、白鳥(はくちょう)の里という名前は結構あちこちで使われるので、混乱も起きる。


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常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/17 17:10

角折の浜

 この角折の浜についても今まで何回か書いてきたが、いろいろ調べていくと知らない話しも出てきて面白い。
1300年以上も経つとその間に歴史変わっていくものなのだろう。

さて、常陸国風土記には昨日書いた「白鳥の里」の話の後に、
「以南に有る所の平原を、角折(つのをれ)の浜と謂う。謂へらくは、古(いにしへ)、大蛇(をろち)有り。東の海に通る(いた)らむと欲ひて、浜を掘りて穴を作りしに、蛇の角折れ落ちき。因りて名づく。或ひと曰へらく、倭武の天皇、此の浜に停宿りまして、御膳を薦め奉りし時、都(かつ)て水無かりき。即ち、鹿の角を執りて地を掘りしに、其の角折れ為りき。この所以に名づくといひき。(以下略く)」
と書かれています。

この後半の倭武の天皇(ヤマトタケル)の話はとくに、当時の謂れでわからないことは凡てヤマトタケル伝承にしてしまっているところが感じられますので、この前半の角のある大蛇(をろち)の話が面白いですね。

角のある蛇の話は「行方郡」の中に「夜刀の神」として出ています。
この大和朝廷の東北方面の蝦夷征伐では、原住民たちは山の佐伯、野の佐伯、土蜘蛛などと表現されていますが、の夜刀神(やとのかみ)なども谷津に住む原住民たちを表現しているものと考えられますが、これを「角のある蛇」と表現したものでしょう。
鬼に角があり、蝦夷征伐も「鬼退治」などと言う表現もあるように思いますので、蛇は神でもあり、そこに角を生やして退治すべき対象と区別するために表現したものでしょうか。

風土記の文章ではこの角のある大蛇が「東の海に通る(いた)らむと欲ひて」と書かれています。
このあたりの内海などの周りには海の恵みで生活する縄文人といわゆる九州あたりからやってきた海神族が住んでいたと思われます。するとこの角のある蛇は森や谷で生活していた原住民のことだったのでしょうか。
外洋に出ようと、山から下り、谷から這い出して、浜砂の地にやってきたが、力尽きて?角が折れてしまったのか、または海神族になったのか? いろいろ解釈できそうです。

現在、鹿島灘の鹿嶋と鉾田の中間くらいに鹿嶋臨海鉄道の「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前」という長い名前の駅があります。
この名前はいろいろなことを教えてくれます。
長者ヶ浜:御伽草子の文正草(双)紙の話しの元となった塩焼きで財を成し、貴族に上り詰めた文太こと「文正長者」のいたところ
はまなす:ここが日本のハマナスの南限地とされていること。
ですが、この角折伝説でいう「角折」という名前が残っている場所でもあります。

ただ、この文太は鹿島大宮司家に仕えていたが、大宮司より暇をもらって「つのおか」村に住み、製塩で巨財をなしたという話として伝わっています。したがって、奈良朝頃は「角折=つのをれ」で、中世には「つのおか」となり、また「つのおれ」に戻ったという様な経緯が見て取れます。

草紙の文の中では、文太は「つのをかヾ磯」にやって来て塩で財を成し、「文正つねおか」と名乗る長者となったとあります。
従って、江戸時代後期の則孝公の考察があり、そこに
「此村の名も今は、「つのをれ」と、云なり。皇學者中山信名、平四郎、氏が考には、昔は大方、假名文字を用ひしゆゑ、「を可」と書しを「をり」と、語り出て、又、真名に「折」と書き、それより「折」と称し、終に、今のごとく、「角折」になりしならん。「り」と「れ」と通音なれば、然か、称来りしならんと。此説當れりとおもはる。」と書かれています。
すなわち「文太長者の時代に「つのおか村」だった村名が「つのおれ村」に変化していった原因について国学者の考察が引用紹介されているのです。)
鹿嶋デジタル博物館 七、角折村(つのれむら)の昔話 より)

でももっと前のこの風土記の時代に「角折」と書かれていたことは考慮されていません。

一方角川の「日本地名醍辞典 8茨城県」には
『主人公の文正(文太)は鹿島大宮司に仕えていたが、ある時大宮司よりいとまを申し渡され、やむなく「いづちともなく行く程に、つのをかヾ磯、塩焼く浦に着きにけり」とある。角折は太平洋に面し、鹿島半島の太平洋側は古くから塩の産地だったと思われる。角折も「塩焼く浦」であり、文正はそこで塩売りとして大成功し「つのをかが磯の塩屋ども、みなみな従ひける」ほどになって、名を改めて「文正つねおか」と名乗ったという。この名乗りにあわせて、角折という地名を物語上「つねおか」と変えたのであろう。』
と書かれており、上記の角折(つのれ)村の昔話の解説をひていしています。
私もこの角川の地名辞典の内容を支持したいと思います。

江戸時代から明治22年まで「角折村」がありましたが、明治22年に近隣の村が合併して「大同村大字角折」となりました。
その後昭和30年に中野村と合併し「大野村(大同の大と中野の野)」となり、平成7年に鹿島町に編入され、同時に鹿嶋市となりました。

では以前訪れたこのあたりにある「大野潮騒はまなす公園」に立ち寄ったときの記事を参考に復UPします。

非常に大きな公園で整備もされているのですが、水戸と鹿島を結ぶ国道51号線沿いから公園へのアクセスはあまりよくありません。
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西側の駐車場近くには大きなタワーが建っており展望台と2F部分にプラネタリウムができています。

ハマナスは自生するものとして太平洋側はこの鹿島灘近くに南限地とされている場所があります。
ここより少し北の鉾田市と鹿嶋市の境付近です。(日本海側の南限は鳥取です)

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こうしてプラネタリウムなども見られるのですが、平日となるとほとんどお客さんはいません。
お掃除の人と散歩をしているの数人だけです。
公園内部は遊具などもあり子供連れでも一日楽しめそうです。

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公園の中に入ってみます。
山の地形を利用したように高低差があり川や池などが周りにあり中央に広場がある構成です。

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森の中を下っていくと弁天池と名のついた池に赤い橋。
この公園には昔、大きな寺があったようです。

公園内には、日本一長いともいうジャンボローラー滑り台(長さは154m)があります。

公園内の美術館の建物裏に回ってみたら、そこに文正長者の屋敷跡の石碑がおかれていました。

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文太長者屋敷跡

 夕日かがやく
   この岡に
 黄金せんばい
   にせんばい

屋敷の由来
「鹿島大明神 宮司の下僕であった文太が下僕をやめて角岡ヶ磯 角折の浜に来て塩炊き の家に雇われ 薪取りや、塩水汲みの仕事をするようになりました。
 陰日向無く誰よりも良く働く文太の姿を見ていた主人から褒美に釜を上げるから自分で塩を作ってみないか と言われ釜をもらって塩を炊きはじめました。 
 作るからには 他の塩に負けない良い塩を作ろうと くふうをこらして作りました。 文太の作った塩は、真白で味も良く、その上病気もなおったと 大変な評判になりました。 そのため 作っても作っても間に合いません。 雇い人達にも屋さしく暖かい言葉をかけていたわったり励ましたりしました。 働いている人達も一生懸命働きましたので ますます良い塩ができたのです。 
 こうして何年も立たないうちに 大金持ちになり長者と呼ばれる身になりました。
 名を文正角岡と改め 何の不自由も無かったのですが 何年たっても子供に恵まれませんでした。
そこで夫婦は鹿島大明神に子供が授かりますようにとお参りをしました。 そのかいがあって、翌年美しい女の子が生まれ、蓮華と名をつけました。その翌年 また女の子が生まれました 蓮御前と名をつけ可愛がった育てました。
 姉妹ともに美しく成人し その噂が塩の評判とともに京の都まで届きました。 姉の蓮華は関白殿下の二位の中将の妻になり京に上りました。
 妹の蓮御前は帝の后に迎えられ、都に上りました。
その後 文正夫婦にも京に上るようにとの使いが来ましたので角折をはなれました。
後に文正は 大納言にまで出世したということです。
この美術館、民俗資料館は文太長者の屋敷の跡に建てたのです。

  平成二年三月 大野村教育委員会 大野村長 生井澤健二」 (現地石碑より)

一方、この角折にこのはまなす公園の東側の国道51号線に面した一角に「霜水寺(すいそうじ)」という真言宗の寺がある。

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どうやらこの寺が昔、この公園となった場所にあったようで、かなり大きな寺であったようだ。
しかし今ではこの公園の一部を占めるだけで寺は無住であり、角折公民館と敷地が一体となっている。

寺はこのお堂の前に古びた石碑がおかれているが、よく読むことができない。
少し新しい石碑もあるが、こちらは「大野東部土地改良区完成記念碑」であった。

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鹿嶋市の文化財に「霜水寺西堂跡」というものが登録されており、公園の西の方にこの場所があって礎石が確認されているそうだが、これが黄金輝く文太屋敷のお堂なのではないかとも言われているようだ。

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広い公園の広場の一角にこの寺のものだと思われる墓地がひっそりと残っていた。
記録によると、寛政11年(1799)に、クジラ漁船七隻が遭難し57人が犠牲になったという。このときの墓がこちらにあるという。

この寺は文太の屋敷跡と言われていて、はまなす公園の敷地内にあったという。現在は霜水寺西堂跡が市指定史跡として公園内に残っています。

また、鹿島灘での製塩については前に書いた下記の記事を参照ください。

鹿島七釜 ⇒ こちら


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