長勝寺(潮来)
数日前に銚子に行く時に何処か寄り道して桜を見るならどこが良いかと考えた。
そしてこの潮来の古刹「長勝寺」にやってきた。
この寺は潮来が源頼朝と縁が深かった由縁の寺だ。
1185年に源頼朝が創建したと伝わる。
寺の屋根の紋も源氏の笹竜胆だ。
でも何と言っても入口山門から本堂に続く間の桜並木が美しい。
今回も桜が散る時にきてしまった。
ひらひら舞い落ちる桜の花びら。
この楼門も移築したものとはいえ素晴らしい風情を感じる。
制作年代もあまりはっきりしないが室町時代と考えられている。(県指定文化財)
何回か訪れているので駐車場の場所なども比較的スムーズに入ることができたが、最初は結構手間取った。
前川アヤメ園まで行くのも5~600mくらいのはずなので寺の駐車場以外にもすぐ近くに大きな駐車場があるので観光もできるかもしれない。
ただ知らないと入り口がわかりにくいか? 近くの西円寺を目指すと良いかもしれない。
上の写真に駐車場の向こう側にあるのは国の重要文化財に指定されている鐘楼。
この鐘は1330年(元徳2)に北条高時が源頼朝の菩提の為に寄進したもので、鐘銘の作者は、鎌倉円覚寺十六世清拙和尚(大鑑禅師)で、鋳物師は甲斐権守ト部助光だそうだ。
そしてこの潮来の古刹「長勝寺」にやってきた。
この寺は潮来が源頼朝と縁が深かった由縁の寺だ。
1185年に源頼朝が創建したと伝わる。
寺の屋根の紋も源氏の笹竜胆だ。
でも何と言っても入口山門から本堂に続く間の桜並木が美しい。
今回も桜が散る時にきてしまった。
ひらひら舞い落ちる桜の花びら。
この楼門も移築したものとはいえ素晴らしい風情を感じる。
制作年代もあまりはっきりしないが室町時代と考えられている。(県指定文化財)
何回か訪れているので駐車場の場所なども比較的スムーズに入ることができたが、最初は結構手間取った。
前川アヤメ園まで行くのも5~600mくらいのはずなので寺の駐車場以外にもすぐ近くに大きな駐車場があるので観光もできるかもしれない。
ただ知らないと入り口がわかりにくいか? 近くの西円寺を目指すと良いかもしれない。
上の写真に駐車場の向こう側にあるのは国の重要文化財に指定されている鐘楼。
この鐘は1330年(元徳2)に北条高時が源頼朝の菩提の為に寄進したもので、鐘銘の作者は、鎌倉円覚寺十六世清拙和尚(大鑑禅師)で、鋳物師は甲斐権守ト部助光だそうだ。
西円寺(潮来)
昔の記事に拍手をいただくことが時々ある。
そして、その記事を読みかえしてどんなことを書いていたのかを振り返る。
ああ、「こんなことに興味を持っていただいたのか」、とか
「あの時に自分はこんな気持ちを持っていたのか」、とか
「結構良く調べて丁寧に書いていたな」、とか
「こんな程度しかかけていなかったな」、など
思い出している。
そして最近は自分はどうも昔より記事に対する姿勢が足りないのではないかと思ったりする。
桜めぐりなどと毎日のように桜を見せられたって読まれる方は飽きてしまうに違いないのだ。
記事の中に多少でもこちらの思いや歴史的な事柄を混ぜてはいるのだが、所詮は自己満足。
しかし今年は仕事のリタイヤと重なり精神的にも少し寂しさがあったせいで、今年の花見は自分にとっては少しいつもと違って見えた。
そしてこの風景を残しておきたくなった。
でも花見も終わり。
また気持も新たに次の目標に向かっていきたいと思う。
今日は昨日紹介した潮来の長勝寺近くにあった「西円寺」を少しだけ紹介します。
梅龍山西円寺 浄土真宗大谷派の寺です。 別名中寺(なかでら)。
元禄5年(1692)、如信の弟子、潤信が開基といわれている。
門の正面に大きな銀杏の木があります。
潮来市指定の文化財。
寺には遊郭の主人が亡くなった遊女を寺に弔って建てた墓がありますが、一回りしたがよくわからなかった。
「三味線で鴫(しぎ)を立たせる潮来かな」 漱石(一茶の句を夏目漱石が書いたもの)
小林一茶は文化14年(1817)5月26日に鹿島詣の後、大舟津より舟で板久(潮来)に来て俵屋に宿泊します。
そして翌27日に船で銚子に行ったのです。
句の下には小川芋銭の書いた絵が彫られています。
そして、その記事を読みかえしてどんなことを書いていたのかを振り返る。
ああ、「こんなことに興味を持っていただいたのか」、とか
「あの時に自分はこんな気持ちを持っていたのか」、とか
「結構良く調べて丁寧に書いていたな」、とか
「こんな程度しかかけていなかったな」、など
思い出している。
そして最近は自分はどうも昔より記事に対する姿勢が足りないのではないかと思ったりする。
桜めぐりなどと毎日のように桜を見せられたって読まれる方は飽きてしまうに違いないのだ。
記事の中に多少でもこちらの思いや歴史的な事柄を混ぜてはいるのだが、所詮は自己満足。
しかし今年は仕事のリタイヤと重なり精神的にも少し寂しさがあったせいで、今年の花見は自分にとっては少しいつもと違って見えた。
そしてこの風景を残しておきたくなった。
でも花見も終わり。
また気持も新たに次の目標に向かっていきたいと思う。
今日は昨日紹介した潮来の長勝寺近くにあった「西円寺」を少しだけ紹介します。
梅龍山西円寺 浄土真宗大谷派の寺です。 別名中寺(なかでら)。
元禄5年(1692)、如信の弟子、潤信が開基といわれている。
門の正面に大きな銀杏の木があります。
潮来市指定の文化財。
寺には遊郭の主人が亡くなった遊女を寺に弔って建てた墓がありますが、一回りしたがよくわからなかった。
「三味線で鴫(しぎ)を立たせる潮来かな」 漱石(一茶の句を夏目漱石が書いたもの)
小林一茶は文化14年(1817)5月26日に鹿島詣の後、大舟津より舟で板久(潮来)に来て俵屋に宿泊します。
そして翌27日に船で銚子に行ったのです。
句の下には小川芋銭の書いた絵が彫られています。
常州牛堀(潮来)-1
今日は朝から銚子に出かけていました。
朝、家を出る頃はそれほどでもなかったのですが、11時頃になると日差しが車の中に注いでかなり暑くなりました。
花粉が気になり窓は閉ざしていましたのでとうとう車のクーラを少しの時間ですが入れてしまいました。
寒暖の差が激しいですね。
前に銚子に行った時に書いたのですが、吉田松陰が水戸から鹿島を通り潮来で一泊して牛堀から舟で銚子の手前の松岸まで行っています。
最近この潮来(いたこ)周辺を少し調べ始めているのですが、江戸時代はかなりにぎわっていたようです。
江戸-銚子-潮来間は大型の船が行き来し、潮来で底の浅い高瀬舟に荷を詰め替え、各店の屋号をつけた高瀬舟がたくさん各方面に潮来から出ていたようです。
当時の様子を書いた絵や、神社の奉納絵などにもたくさんの高瀬船が描かれています。
それと、この水郷地帯の潮来や牛堀も風情があり、特に牛堀は葛飾北斎の富嶽三十六景にも描かれているのです。
葛飾北斎 富嶽三十六景 「常州牛堀」
葛飾北斎が書いた富嶽36景の1枚だが、このような富士からかなり離れた場所からも富士山が昔は良く見えた。
水郷牛堀地区の朝の風景を描いたもの。
今は霞ケ浦周辺からも天気が良いと時々富士山は見える。
舟で寝起きをし、朝早く米のとぎ汁を舟から川に流している。
今ではこのような行為は問題が多いが昔は普通であったのだろう。
川瀬巴水「雨の牛堀」 昭和初期の頃か?
巴水は霞ケ浦周辺の風景を版画に多くのこした。
特に牛堀を始め潮来の水郷地帯の風景を好んで描いた。
今の牛堀地区は常陸利根川に面した河岸を細長く整備して「北斎公園」と名付けられた緑の芝生の公園となっている。
少し絵に近いようなところを探してみた。
蔵を利用した喫茶&レストラン「蔵」
何とも無粋な自動販売機
千歳屋旅館側から隣りの「北斎遊学館」と常陸利根川
「北斎遊学館」:蔵を利用した地元のイベント会場施設。
もう少し活発に利用されているかと思ったが、この日も閉まっていた。
上の写真の左側の蔵がレストラン「蔵」
川沿いの公園横にある大谷石の建物だが、壁を白く塗りつぶされていた。
そして看板には「この建物は大谷石造りのため、地震の際危険ですので近づかないでください」と書かれていた。
何とも悲しい。
明日に続きます。
朝、家を出る頃はそれほどでもなかったのですが、11時頃になると日差しが車の中に注いでかなり暑くなりました。
花粉が気になり窓は閉ざしていましたのでとうとう車のクーラを少しの時間ですが入れてしまいました。
寒暖の差が激しいですね。
前に銚子に行った時に書いたのですが、吉田松陰が水戸から鹿島を通り潮来で一泊して牛堀から舟で銚子の手前の松岸まで行っています。
最近この潮来(いたこ)周辺を少し調べ始めているのですが、江戸時代はかなりにぎわっていたようです。
江戸-銚子-潮来間は大型の船が行き来し、潮来で底の浅い高瀬舟に荷を詰め替え、各店の屋号をつけた高瀬舟がたくさん各方面に潮来から出ていたようです。
当時の様子を書いた絵や、神社の奉納絵などにもたくさんの高瀬船が描かれています。
それと、この水郷地帯の潮来や牛堀も風情があり、特に牛堀は葛飾北斎の富嶽三十六景にも描かれているのです。
葛飾北斎 富嶽三十六景 「常州牛堀」
葛飾北斎が書いた富嶽36景の1枚だが、このような富士からかなり離れた場所からも富士山が昔は良く見えた。
水郷牛堀地区の朝の風景を描いたもの。
今は霞ケ浦周辺からも天気が良いと時々富士山は見える。
舟で寝起きをし、朝早く米のとぎ汁を舟から川に流している。
今ではこのような行為は問題が多いが昔は普通であったのだろう。
川瀬巴水「雨の牛堀」 昭和初期の頃か?
巴水は霞ケ浦周辺の風景を版画に多くのこした。
特に牛堀を始め潮来の水郷地帯の風景を好んで描いた。
今の牛堀地区は常陸利根川に面した河岸を細長く整備して「北斎公園」と名付けられた緑の芝生の公園となっている。
少し絵に近いようなところを探してみた。
蔵を利用した喫茶&レストラン「蔵」
何とも無粋な自動販売機
千歳屋旅館側から隣りの「北斎遊学館」と常陸利根川
「北斎遊学館」:蔵を利用した地元のイベント会場施設。
もう少し活発に利用されているかと思ったが、この日も閉まっていた。
上の写真の左側の蔵がレストラン「蔵」
川沿いの公園横にある大谷石の建物だが、壁を白く塗りつぶされていた。
そして看板には「この建物は大谷石造りのため、地震の際危険ですので近づかないでください」と書かれていた。
何とも悲しい。
明日に続きます。
常州牛堀(2)
茨城県潮来市牛堀地区の紹介をしています。
あまり常州といういい方は目にしないのですが、常陸国のことを常州ともいうようです。
また江戸時代から江戸からは香取・鹿島詣での舟が出ていたようです。
江戸川で関宿まで上り、そこから利根川に入って銚子近くまで下ります。
香取神宮は佐原で陸に上がればよいですが、鹿島神宮は潮来で降りるのでしょう。
芭蕉が鹿島紀行で旅した時は、陸路を千葉県布佐の辺りまで行って、そこから利根川を舟で下って行きました。
関宿まで行くより、こちらの方が近いですね。
この牛堀は霞ケ浦の出口部分にありここから常陸利根川を下り、銚子の少し手前で利根川に合流します。
昔は霞ケ浦には大小さまざまな舟が行き来していたそうです。
しかし蒸気船が導入されたのは明治になってからで、江戸時代は大型の千石船や底の浅い高瀬舟がたくさん走っていたようです。
小林一茶が1817年に鹿島詣でのあと鹿島から潮来まで小舟に乗り(大舟津ヨリ舟渡 六十四文)、潮来から大きな船で銚子に行っている(卯上刻出船 二百六十四文 未下刻銚子ニ入)ようです。
銚子より少し西の牛堀からは今では横利根川が流れています。
昔もこの川はあったのだと思いますが、今の運河のような整備されたものではなく水郷の外浦などと繋がった入り組んだものだったのではないでしょうか。
この牛堀には現在北斎の絵にちなんで「北斎公園」という川沿いに細長い公園があります。
上の写真の右側の街路樹のある辺りが昔の河岸のようです。
この公園部分は川の部分にテトラブロックのようなものを沈めて、その上に土と芝生で公園部分を作りだした物のようです。
ここは右側が霞ケ浦で、この場所から川(常陸利根川)となって利根川にこの20kmほど先で利根川に合流します。
この川の対岸は上の写真の真中奥に水門が写っていますが、ここが横利根川の入口部分で右(西)側が茨城県稲敷市で左(東)側は千葉県香取市になります。
下流側は潮来まで3kmほどでしょうか、その先利根川と合流し銚子まで25~30kmほどあります。
上の写真を見れば、この芝生の公園が川の中に置かれたコンクリートブロックの上に造られたものであることがわかります。
この公園部分が無い方が昔の雰囲気は伝わるように思いますが、人を呼ぶためにはしょうがないでしょうか。
でもこの道もせまく、手前に駐車場は設けられていますがあまり訪れる人はいません。
釣りをやる方にとってはこの辺りも良い魚場のようです。
この公園わきの道路も整備はされていますが車が1台やっと通れる広さです。
この公園の潮来川の一角に昨日写真で紹介した蔵の建物があります。
正面が「蔵」という喫茶&レストラン、左側が「北斎遊学館」という施設で時々コンサートや地元野菜の市などのイベント会場に使われているようです。
蔵の壁は大谷石で造られており昭和初期に建てられているそうですから、川瀬巴水の版画にある建て物なのかもしれません。
ただ、昨日も書きましたがせっかくの大谷石の建物の風情を後からつけ足した造作物や自動販売機などで台無しにしてしまっているように思われます。(私の感想ですが)
入り口部分の屋根はしょうがないにしても壁際の物は別な場所に設けるなど工夫してもらいたいものです。
写真を撮る時に困ってしまいました。
あまり常州といういい方は目にしないのですが、常陸国のことを常州ともいうようです。
また江戸時代から江戸からは香取・鹿島詣での舟が出ていたようです。
江戸川で関宿まで上り、そこから利根川に入って銚子近くまで下ります。
香取神宮は佐原で陸に上がればよいですが、鹿島神宮は潮来で降りるのでしょう。
芭蕉が鹿島紀行で旅した時は、陸路を千葉県布佐の辺りまで行って、そこから利根川を舟で下って行きました。
関宿まで行くより、こちらの方が近いですね。
この牛堀は霞ケ浦の出口部分にありここから常陸利根川を下り、銚子の少し手前で利根川に合流します。
昔は霞ケ浦には大小さまざまな舟が行き来していたそうです。
しかし蒸気船が導入されたのは明治になってからで、江戸時代は大型の千石船や底の浅い高瀬舟がたくさん走っていたようです。
小林一茶が1817年に鹿島詣でのあと鹿島から潮来まで小舟に乗り(大舟津ヨリ舟渡 六十四文)、潮来から大きな船で銚子に行っている(卯上刻出船 二百六十四文 未下刻銚子ニ入)ようです。
銚子より少し西の牛堀からは今では横利根川が流れています。
昔もこの川はあったのだと思いますが、今の運河のような整備されたものではなく水郷の外浦などと繋がった入り組んだものだったのではないでしょうか。
この牛堀には現在北斎の絵にちなんで「北斎公園」という川沿いに細長い公園があります。
上の写真の右側の街路樹のある辺りが昔の河岸のようです。
この公園部分は川の部分にテトラブロックのようなものを沈めて、その上に土と芝生で公園部分を作りだした物のようです。
ここは右側が霞ケ浦で、この場所から川(常陸利根川)となって利根川にこの20kmほど先で利根川に合流します。
この川の対岸は上の写真の真中奥に水門が写っていますが、ここが横利根川の入口部分で右(西)側が茨城県稲敷市で左(東)側は千葉県香取市になります。
下流側は潮来まで3kmほどでしょうか、その先利根川と合流し銚子まで25~30kmほどあります。
上の写真を見れば、この芝生の公園が川の中に置かれたコンクリートブロックの上に造られたものであることがわかります。
この公園部分が無い方が昔の雰囲気は伝わるように思いますが、人を呼ぶためにはしょうがないでしょうか。
でもこの道もせまく、手前に駐車場は設けられていますがあまり訪れる人はいません。
釣りをやる方にとってはこの辺りも良い魚場のようです。
この公園わきの道路も整備はされていますが車が1台やっと通れる広さです。
この公園の潮来川の一角に昨日写真で紹介した蔵の建物があります。
正面が「蔵」という喫茶&レストラン、左側が「北斎遊学館」という施設で時々コンサートや地元野菜の市などのイベント会場に使われているようです。
蔵の壁は大谷石で造られており昭和初期に建てられているそうですから、川瀬巴水の版画にある建て物なのかもしれません。
ただ、昨日も書きましたがせっかくの大谷石の建物の風情を後からつけ足した造作物や自動販売機などで台無しにしてしまっているように思われます。(私の感想ですが)
入り口部分の屋根はしょうがないにしても壁際の物は別な場所に設けるなど工夫してもらいたいものです。
写真を撮る時に困ってしまいました。
常州牛堀(3)
潮来市牛堀の北斎公園をあとにして少し周辺を散策して見ました。
常陸利根川から脇道に入ると旧道沿いに昔のイメージを感じる建物が散見されます。
少し山側に入ったところに昔小学校であったところに出ました。
今は銚子市立図書館となっています。
図書館の建物です。
この建物は小学校の体育館を残して平成18年に図書館がオープンしました。
ここには牛堀第一小学校がありました。
平成16年(2004年)にこの牛堀第一小学校と第二小学校、八代小学校の3つが統合して新しい牛堀小学校を建設したようです。
この図書館の敷地にある人物の銅像が置かれていました。
小堀進画伯の銅像。絵筆を持って絵を書いている姿です。
昭和初期の代表的水彩画家で初の日本芸術院会員となった人だそうです。
潮来市大生の出身。1年の半分ほどは何処かに出かけていて風景などを好んで描いていたそうです。
作品はネットで見て見ました。 参考までの → こちら(天王崎) また、小堀進展(2012年)
空の構図が大胆なものが多いですね。
写真などでもとても参考になりそうです。
この地元の神社である「三熊野神社」です。
こちらは前にこの裏山の権現山公園から下りてきたことがあります。(記事は → こちら)
その時にこの神社もお参りしました(こちら参照)
この三熊野神社の鳥居は牛堀の昔の船着き場に向かっているようです。
明日はこの川の向こう側から見える景色を紹介します。
常陸利根川から脇道に入ると旧道沿いに昔のイメージを感じる建物が散見されます。
少し山側に入ったところに昔小学校であったところに出ました。
今は銚子市立図書館となっています。
図書館の建物です。
この建物は小学校の体育館を残して平成18年に図書館がオープンしました。
ここには牛堀第一小学校がありました。
平成16年(2004年)にこの牛堀第一小学校と第二小学校、八代小学校の3つが統合して新しい牛堀小学校を建設したようです。
この図書館の敷地にある人物の銅像が置かれていました。
小堀進画伯の銅像。絵筆を持って絵を書いている姿です。
昭和初期の代表的水彩画家で初の日本芸術院会員となった人だそうです。
潮来市大生の出身。1年の半分ほどは何処かに出かけていて風景などを好んで描いていたそうです。
作品はネットで見て見ました。 参考までの → こちら(天王崎) また、小堀進展(2012年)
空の構図が大胆なものが多いですね。
写真などでもとても参考になりそうです。
この地元の神社である「三熊野神社」です。
こちらは前にこの裏山の権現山公園から下りてきたことがあります。(記事は → こちら)
その時にこの神社もお参りしました(こちら参照)
この三熊野神社の鳥居は牛堀の昔の船着き場に向かっているようです。
明日はこの川の向こう側から見える景色を紹介します。
常州牛堀(4)
常州牛堀(潮来)は霞ケ浦が銚子の方に流れる常陸利根川の入口に当たります。
昔も霞ケ浦を通った高瀬舟はここから常陸利根川を通って途中利根川に合流して銚子または利根川を登って江戸まで船で行けました。
しかし銚子の方まで行くのは時間もかかり外浦なども通るため、ここから利根川まで繫ぐ運河の役目をする横利根川が整備されたのです。
でも利根川が多雨で氾濫するとここを通って霞ケ浦が増水して土浦や高浜は洪水被害が絶えませんでした。
高浜地区などの増水の記録は比較的最近まであったようです。
この横利根川に水門ができ、また常陸利根川と利根川が合流するところに水門ができ、さらに霞ケ浦の堤防の高さを整備して今ではほとんど水害は聞かなくなりました。
逆に門を締め切っていると霞ケ浦の水質がどんどん悪化して、以前海水浴ができたこの霞ケ浦も昔からは全く想像もできないような水質の悪化が起こってしまいました。
土浦も高浜も夏場にはアオコが発生して近くを通るにも悪臭がする状態が続いています。
世界湖沼会議なども開けれて何とかこの水を浄化する算段が取られてきてはいるのですが、政治的な利権も絡んでいるようであまり進展していないように思われます。
堤防も整備が行なわれたので水門の長時間開放を検討する時ではないかと思います。
今日は昔の牛堀のイメージが多少残る対岸に行って、反対側から牛堀を眺めてみました。
こちらは横利根川で茨城県と千葉県の境界になっています。
このあたりは常陸利根川の雰囲気が残っています。
川沿いには葦などの水草が生え、水鳥もたくさんいます。
近づくと一斉に逃げ出します。
対岸が牛堀地区です。
この下流側が水郷潮来です。
上流側には国道51号線の橋があり、この橋(北利根橋)の向こう側が霞ケ浦です。
前にここから霞ケ浦を眺めて「霞みの郷」の言葉を思い出していました。
国道51号線は水戸から千葉までを結んでいますが鹿島神宮と香取神宮を結ぶ道でもあります。
また成田も通ります。
ここから利根川まで横利根川が流れており、川の両端に水門があります。
こちらが新横利根閘門で、利根川側は国の重要文化財に指定されているレンガ造りの「横利根閘門」があります。
このブログでも何度か紹介しています。
段々とブログネタがつながってきます。
昔も霞ケ浦を通った高瀬舟はここから常陸利根川を通って途中利根川に合流して銚子または利根川を登って江戸まで船で行けました。
しかし銚子の方まで行くのは時間もかかり外浦なども通るため、ここから利根川まで繫ぐ運河の役目をする横利根川が整備されたのです。
でも利根川が多雨で氾濫するとここを通って霞ケ浦が増水して土浦や高浜は洪水被害が絶えませんでした。
高浜地区などの増水の記録は比較的最近まであったようです。
この横利根川に水門ができ、また常陸利根川と利根川が合流するところに水門ができ、さらに霞ケ浦の堤防の高さを整備して今ではほとんど水害は聞かなくなりました。
逆に門を締め切っていると霞ケ浦の水質がどんどん悪化して、以前海水浴ができたこの霞ケ浦も昔からは全く想像もできないような水質の悪化が起こってしまいました。
土浦も高浜も夏場にはアオコが発生して近くを通るにも悪臭がする状態が続いています。
世界湖沼会議なども開けれて何とかこの水を浄化する算段が取られてきてはいるのですが、政治的な利権も絡んでいるようであまり進展していないように思われます。
堤防も整備が行なわれたので水門の長時間開放を検討する時ではないかと思います。
今日は昔の牛堀のイメージが多少残る対岸に行って、反対側から牛堀を眺めてみました。
こちらは横利根川で茨城県と千葉県の境界になっています。
このあたりは常陸利根川の雰囲気が残っています。
川沿いには葦などの水草が生え、水鳥もたくさんいます。
近づくと一斉に逃げ出します。
対岸が牛堀地区です。
この下流側が水郷潮来です。
上流側には国道51号線の橋があり、この橋(北利根橋)の向こう側が霞ケ浦です。
前にここから霞ケ浦を眺めて「霞みの郷」の言葉を思い出していました。
国道51号線は水戸から千葉までを結んでいますが鹿島神宮と香取神宮を結ぶ道でもあります。
また成田も通ります。
ここから利根川まで横利根川が流れており、川の両端に水門があります。
こちらが新横利根閘門で、利根川側は国の重要文化財に指定されているレンガ造りの「横利根閘門」があります。
このブログでも何度か紹介しています。
段々とブログネタがつながってきます。
長国寺(潮来)
潮来の牛堀地区の旧道沿いをアヤメ園の方に少し行くと「長国寺」という曹洞宗の禅寺があります。
この長国という名前は戦国時代までこの地を治めていた行方四頭の一人島崎氏の島崎長国の名前からつけられた。
そのためここは島崎氏の菩提寺です。
大掾氏の一族で行方地方に進出した景幹の4人の子供が行方四頭(小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏)となり霞ケ浦北側と北浦の地域を鎌倉時代から長い間支配が行なわれた。
次男の島崎氏が領した土地がこのあたりにあったということのようだ。
島崎氏の城はもう少し北側の山の麓で地図に書き込んだが、お札神社がある辺りだという。
しかし道もせまくあまりこのあたりに行くこともない。
機会があればいつか行って見るつもりだが・・・。
観音寺は徳一法師が建てたといわれる古刹で前に記事を書いた。(こちら)
島崎氏は400年ほどこの地を領していたものと思われ、兄弟分の隣りの麻生氏などとも戦になり勝っている。
しかし最後は佐竹氏の南方三十三館の領主皆殺しで滅び去った。
実は前に小川(小美玉市)の江戸時代の稽医館(けいいかん)という医学の研究所を紹介した時にここで本間道悦という人の紹介をしたことがあります。(こちら)
そして天聖寺の墓地でこの本間家の墓と芭蕉の句碑を紹介したのですが、この本間家一世の「本間道悦」の墓がこの長国寺にあると書いたのです。
松尾芭蕉と交流のあったという本間道悦は潮来の医師で、芭蕉に「医術免許状」を書き与えたと伝えられる人物として知られ、芭蕉の鹿島紀行でも鹿島詣での帰りにこの道悦のところに宿したと思われる。(「帰路自準に宿す」と書かれている)
昔は潮来と言ってもこちらの牛堀方面にこのような著名人がいたのでしょう。
潮来ではもう一つ「延方」も気になる土地です。
この後にもう少し調べて見たいと思います。
寺の入口山門を入って両側にたくさんの石灯篭が並んでいます。
灯篭沿いの道を少し進んだところに戒壇石柱 『不許葷酒入山門』(文政十二年1829年建立)がおかれています。
なかなか立派なものです。
正面に本堂があります。
大興山長国寺の本尊は聖観音。
島崎城主第13代島崎長国が文明2年(1470年)に創建したとされ、永正年間(1504~21年)に現在地に移建した。
しかし火災で伽藍は焼失し、安政2年(1855年)に再建されたという。
樹齢約400年のイヌマキの木。
この長国という名前は戦国時代までこの地を治めていた行方四頭の一人島崎氏の島崎長国の名前からつけられた。
そのためここは島崎氏の菩提寺です。
大掾氏の一族で行方地方に進出した景幹の4人の子供が行方四頭(小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏)となり霞ケ浦北側と北浦の地域を鎌倉時代から長い間支配が行なわれた。
次男の島崎氏が領した土地がこのあたりにあったということのようだ。
島崎氏の城はもう少し北側の山の麓で地図に書き込んだが、お札神社がある辺りだという。
しかし道もせまくあまりこのあたりに行くこともない。
機会があればいつか行って見るつもりだが・・・。
観音寺は徳一法師が建てたといわれる古刹で前に記事を書いた。(こちら)
島崎氏は400年ほどこの地を領していたものと思われ、兄弟分の隣りの麻生氏などとも戦になり勝っている。
しかし最後は佐竹氏の南方三十三館の領主皆殺しで滅び去った。
実は前に小川(小美玉市)の江戸時代の稽医館(けいいかん)という医学の研究所を紹介した時にここで本間道悦という人の紹介をしたことがあります。(こちら)
そして天聖寺の墓地でこの本間家の墓と芭蕉の句碑を紹介したのですが、この本間家一世の「本間道悦」の墓がこの長国寺にあると書いたのです。
松尾芭蕉と交流のあったという本間道悦は潮来の医師で、芭蕉に「医術免許状」を書き与えたと伝えられる人物として知られ、芭蕉の鹿島紀行でも鹿島詣での帰りにこの道悦のところに宿したと思われる。(「帰路自準に宿す」と書かれている)
昔は潮来と言ってもこちらの牛堀方面にこのような著名人がいたのでしょう。
潮来ではもう一つ「延方」も気になる土地です。
この後にもう少し調べて見たいと思います。
寺の入口山門を入って両側にたくさんの石灯篭が並んでいます。
灯篭沿いの道を少し進んだところに戒壇石柱 『不許葷酒入山門』(文政十二年1829年建立)がおかれています。
なかなか立派なものです。
正面に本堂があります。
大興山長国寺の本尊は聖観音。
島崎城主第13代島崎長国が文明2年(1470年)に創建したとされ、永正年間(1504~21年)に現在地に移建した。
しかし火災で伽藍は焼失し、安政2年(1855年)に再建されたという。
樹齢約400年のイヌマキの木。
潮来と延方(1)-二十三夜尊と延方郷校孔子堂
潮来から鹿島神宮に向かう途中、北浦の手前に「延方(のぶかた)」という場所がある。
前から気になっていた名前だが、先日、吉田松陰が潮来-牛堀から銚子に行ったことを調べていた時に、この潮来の地で「宮本茶村」という名前を見つけた。
茶村は潮来村の名主であったが儒学者として名が知られているようだ。
松陰も鹿島から潮来経由で銚子に行った時にこの茶村や津宮(香取神宮の入口にある)の久保木清淵を訪ねているようだ。
この宮本茶村も津宮(つのみや)の久保木清淵(竹窓)もこの延方にあった水戸藩の郷校で教えていたという。
そこで延方にあった郷校とはどんなところか知りたくなった。
まずは今でもその建物が一部残されているというので潮来の街中にある「二十三夜尊」に行って見た。
石岡にも二十三夜尊があるのでそれほど不思議にも思わないが、あまり他所にこのようなものは残っていない。
上の写真が二十三夜尊堂といわれる旧延方郷校の聖堂で孔子の教えを説いていたので「孔子聖堂」という。
茨城県教育委員会の説明によると、「この堂宇は、茨城県における学校の始祖としてその偉容を誇った旧延方郷校の聖堂で、1807年(文化4)に水戸藩主徳川斉昭公が延方内田山に自ら篆書した「至聖先師孔子神位」の木碑を祀った建物であったが、1872年(明治5)廃校に伴い、1878年(明治11)現在地に移建されたものである」という。
石岡の二十三夜尊の本尊は「勢至菩薩」であるというが、ここの二十三夜尊は「月読尊」だという。
この違いがわからないのでネット検索した。
(真夜中に出る二十三夜の月の出を待つ)二十三夜講での信仰対象は、仏教では勢至菩薩を、神道では月読尊を祀ったということのようです。
さて、この二十三夜尊がここでは安産・子育てにご利益があるとして祀られているのですが、これについては
「神社としての創建は貞享2年(1685)、月読命の分霊を勧請したのが始まりとされ、古くから神仏習合し月読命の本地である勢至菩薩が同時に信仰されました。勢至菩薩は二十三夜講の本尊でもあり、周辺住民の講中の拠点として信仰され、特に月読命は女神で勢至菩薩は女性的な印象が強い事から安産、子育て、子授かりに御利益があるとして女性から支持されました」
という説明がありました。(茨城県:歴史・観光・見所<いば旅>:こちら)
今回のタイトルを「潮来と延方」として、この潮来から延方周辺を何回かに分けて紹介します。
前から気になっていた名前だが、先日、吉田松陰が潮来-牛堀から銚子に行ったことを調べていた時に、この潮来の地で「宮本茶村」という名前を見つけた。
茶村は潮来村の名主であったが儒学者として名が知られているようだ。
松陰も鹿島から潮来経由で銚子に行った時にこの茶村や津宮(香取神宮の入口にある)の久保木清淵を訪ねているようだ。
この宮本茶村も津宮(つのみや)の久保木清淵(竹窓)もこの延方にあった水戸藩の郷校で教えていたという。
そこで延方にあった郷校とはどんなところか知りたくなった。
まずは今でもその建物が一部残されているというので潮来の街中にある「二十三夜尊」に行って見た。
石岡にも二十三夜尊があるのでそれほど不思議にも思わないが、あまり他所にこのようなものは残っていない。
上の写真が二十三夜尊堂といわれる旧延方郷校の聖堂で孔子の教えを説いていたので「孔子聖堂」という。
茨城県教育委員会の説明によると、「この堂宇は、茨城県における学校の始祖としてその偉容を誇った旧延方郷校の聖堂で、1807年(文化4)に水戸藩主徳川斉昭公が延方内田山に自ら篆書した「至聖先師孔子神位」の木碑を祀った建物であったが、1872年(明治5)廃校に伴い、1878年(明治11)現在地に移建されたものである」という。
石岡の二十三夜尊の本尊は「勢至菩薩」であるというが、ここの二十三夜尊は「月読尊」だという。
この違いがわからないのでネット検索した。
(真夜中に出る二十三夜の月の出を待つ)二十三夜講での信仰対象は、仏教では勢至菩薩を、神道では月読尊を祀ったということのようです。
さて、この二十三夜尊がここでは安産・子育てにご利益があるとして祀られているのですが、これについては
「神社としての創建は貞享2年(1685)、月読命の分霊を勧請したのが始まりとされ、古くから神仏習合し月読命の本地である勢至菩薩が同時に信仰されました。勢至菩薩は二十三夜講の本尊でもあり、周辺住民の講中の拠点として信仰され、特に月読命は女神で勢至菩薩は女性的な印象が強い事から安産、子育て、子授かりに御利益があるとして女性から支持されました」
という説明がありました。(茨城県:歴史・観光・見所<いば旅>:こちら)
今回のタイトルを「潮来と延方」として、この潮来から延方周辺を何回かに分けて紹介します。
潮来と延方(2)-硯宮神社
昨日紹介した二十三夜尊堂の隣りに「硯宮(すずりのみや)神社」があります。
国道51号線を鹿島方面に向かい、潮来市役所を少し過ぎたところに「辻」という信号があり、そこを南に入って突き当った旧道沿いです。
この硯(すずり)の名前は源頼朝が戦勝祈願の為に鹿島神宮に参拝した時にこの地で祈願文を書いたとされ、この時に使った硯をこの神社に奉納したという言い伝えが残されており、それを知った水戸光圀が「硯宮神社」と命名したという。
元々は今宮八幡宮と言われたそうだ。
この潮来(いたこ)の名前も元々「板久」であったのを潮来に変更したのも光圀だといわれている。
このあたりは一体は水戸南領といわれた水戸藩の敷地で、黄門さんの領地でもあった。
水戸南領は玉造周辺一帯もそうであったが、潮来との間には麻生藩があった。
水戸南領を取りまとめていたのは大山守であったようで、玉造の大塲家(おおばけ)が代々水戸藩大山守をつとめていた。
しかし潮来にきて牛堀の治水事業で知られる須田誠太郎氏の須田家もつとめていたような記述を見かけた。
大山守が良くわからず調べて見たがどうやらこの地方の20ヶ村以上にあった水戸藩の御立山(御留山)を管理するのが主の役目で、そのうち名主などを束ねて税の取り立てなどを行なっていたようだ。
神社の入口には「茨城百景水郷潮来硯宮神社」の碑が置かれています。
社殿は昭和54年(1979)に火災で焼失し、昭和56年に再建されたもの。
硯宮神社の裏手には「愛友酒造」という酒蔵所がありました。
創業文化元年(1804)というのでかなり古い。
無料で酒造見学なども年中やってくれるようですので潮来あやめ見物のついでにでも立ち寄って見るのもよさそうです。
(見学前には一度電話で確認して見る必要はあるかもしれません)
この硯宮神社の隣りが昨日紹介した二十三夜尊でその隣りの空地に「津知村役場跡」と書かれた碑が建てられていました。
この津知村(つじむら)は明治22年から昭和30年まで存在しました。
明治22年前は「辻村」があったようです。この近くの国道51号線の信号名は「辻」です。
明治22年に辻村・築地村が合併して「津知村」となったそうですが、この名前を検索すると神戸市芦屋に同じ津知村というのがあり、やはり辻村とも書いていたようなので名前の関連性がありそうです。
さらに調べて見ると芦屋の津知(つぢ・辻)の名前は交通上の交差点である「辻」がその名前の由来で、西国街道と浜へ向かう道の交わるところにだという。
恐らく潮来の「辻」も鹿島~玉造~石岡(常陸府中)を結ぶ街道から潮来の浜への分かれ道なのだろうと思う。
潮来のあやめ園に続く前川が近くを流れている。
硯宮神社のすぐ北側に地図に「鬼子母尊神社」という名前があったので寄ってみました。
通りから少し入ったところにありました。
由来やいきさつはわかりません。
雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)が有名ですが、安産・子育てとして昔から信仰されてきたのでしょう。
国道51号線を鹿島方面に向かい、潮来市役所を少し過ぎたところに「辻」という信号があり、そこを南に入って突き当った旧道沿いです。
この硯(すずり)の名前は源頼朝が戦勝祈願の為に鹿島神宮に参拝した時にこの地で祈願文を書いたとされ、この時に使った硯をこの神社に奉納したという言い伝えが残されており、それを知った水戸光圀が「硯宮神社」と命名したという。
元々は今宮八幡宮と言われたそうだ。
この潮来(いたこ)の名前も元々「板久」であったのを潮来に変更したのも光圀だといわれている。
このあたりは一体は水戸南領といわれた水戸藩の敷地で、黄門さんの領地でもあった。
水戸南領は玉造周辺一帯もそうであったが、潮来との間には麻生藩があった。
水戸南領を取りまとめていたのは大山守であったようで、玉造の大塲家(おおばけ)が代々水戸藩大山守をつとめていた。
しかし潮来にきて牛堀の治水事業で知られる須田誠太郎氏の須田家もつとめていたような記述を見かけた。
大山守が良くわからず調べて見たがどうやらこの地方の20ヶ村以上にあった水戸藩の御立山(御留山)を管理するのが主の役目で、そのうち名主などを束ねて税の取り立てなどを行なっていたようだ。
神社の入口には「茨城百景水郷潮来硯宮神社」の碑が置かれています。
社殿は昭和54年(1979)に火災で焼失し、昭和56年に再建されたもの。
硯宮神社の裏手には「愛友酒造」という酒蔵所がありました。
創業文化元年(1804)というのでかなり古い。
無料で酒造見学なども年中やってくれるようですので潮来あやめ見物のついでにでも立ち寄って見るのもよさそうです。
(見学前には一度電話で確認して見る必要はあるかもしれません)
この硯宮神社の隣りが昨日紹介した二十三夜尊でその隣りの空地に「津知村役場跡」と書かれた碑が建てられていました。
この津知村(つじむら)は明治22年から昭和30年まで存在しました。
明治22年前は「辻村」があったようです。この近くの国道51号線の信号名は「辻」です。
明治22年に辻村・築地村が合併して「津知村」となったそうですが、この名前を検索すると神戸市芦屋に同じ津知村というのがあり、やはり辻村とも書いていたようなので名前の関連性がありそうです。
さらに調べて見ると芦屋の津知(つぢ・辻)の名前は交通上の交差点である「辻」がその名前の由来で、西国街道と浜へ向かう道の交わるところにだという。
恐らく潮来の「辻」も鹿島~玉造~石岡(常陸府中)を結ぶ街道から潮来の浜への分かれ道なのだろうと思う。
潮来のあやめ園に続く前川が近くを流れている。
硯宮神社のすぐ北側に地図に「鬼子母尊神社」という名前があったので寄ってみました。
通りから少し入ったところにありました。
由来やいきさつはわかりません。
雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)が有名ですが、安産・子育てとして昔から信仰されてきたのでしょう。
潮来と延方(3)-内田山と延方郷校跡
水戸藩には藩校と郷校があった。
しかし各地を見ていくとどうもこの郷校がかなりの役割を担ったことを感じることができる。
藩校は主に藩士とその子弟の教育機関であったが、郷校は庶民教育のために各地に設置され、全部で15ほどあったという。
その中で三郷校というのが小川の稽医館(前に紹介した:こちら)と湊郷校(敬業館)(ひたちなか市)とここ潮来(延方郷校)だという。
この延方郷校の跡といわれる場所があまり良くわからなかったが、まずは内田山の麓に建てられたというのでこの内田山を探した。
調べると内田山には現在潮来高校があり、国道51号線の曲松信号に近い場所だ。
内田山にある潮来高校。
高校への登り坂の途中に「延方郷校跡」の碑が立てられている。
そこから山をまくように田んぼのあぜ道のような小道を進むと郷校跡があった。
山の麓にあるが本当にここに芹沢鴨も学んだというの延方郷校があったのかという思いがする。
この学校には2000冊近い蔵書があり、当時としてはかなり大きなものだったようだ。
水戸弘道館よりも30年以上前に設立されたという。
設立されたのは文化4年(1804年)に内田山に孔子を祀った孔子聖廊廟(せいびょう)を建て、文化7年(1807)に大成殿が建てられた。
文化14年(1814)に水戸藩主「徳川斉脩(なりのぶ)」親筆の「至聖先師孔子神位」の位碑(現在「潮来市立図書館」内の郷土資料室に展示)を納めた聖堂を建立した。
しかし各地を見ていくとどうもこの郷校がかなりの役割を担ったことを感じることができる。
藩校は主に藩士とその子弟の教育機関であったが、郷校は庶民教育のために各地に設置され、全部で15ほどあったという。
その中で三郷校というのが小川の稽医館(前に紹介した:こちら)と湊郷校(敬業館)(ひたちなか市)とここ潮来(延方郷校)だという。
この延方郷校の跡といわれる場所があまり良くわからなかったが、まずは内田山の麓に建てられたというのでこの内田山を探した。
調べると内田山には現在潮来高校があり、国道51号線の曲松信号に近い場所だ。
内田山にある潮来高校。
高校への登り坂の途中に「延方郷校跡」の碑が立てられている。
そこから山をまくように田んぼのあぜ道のような小道を進むと郷校跡があった。
山の麓にあるが本当にここに芹沢鴨も学んだというの延方郷校があったのかという思いがする。
この学校には2000冊近い蔵書があり、当時としてはかなり大きなものだったようだ。
水戸弘道館よりも30年以上前に設立されたという。
設立されたのは文化4年(1804年)に内田山に孔子を祀った孔子聖廊廟(せいびょう)を建て、文化7年(1807)に大成殿が建てられた。
文化14年(1814)に水戸藩主「徳川斉脩(なりのぶ)」親筆の「至聖先師孔子神位」の位碑(現在「潮来市立図書館」内の郷土資料室に展示)を納めた聖堂を建立した。
潮来と延方(4)-延方村役場跡
水戸藩潮来の延方にできた郷校は芹沢鴨も通い、宮本茶村や津宮(つのみや)の久保木清淵(くぼきせいえん)もここで教えていたという。蔵書の数もその当時では驚異的な2000冊近くを誇った。
その郷校も明治5年に延方小学校の分教場となったが明治10年に廃校となった。
しかし昔の面影を探してもあまりにも何もないようだ。
その原因が天狗党騒動にあるというのをあまりにも理解できていない。
このような藩の建物や塾などは天狗党が集まっていた。しかし政府軍によりそれらが焼き討ちされて無くなってしまったということに私は思いをいたすことができない。
まず、何かあるかもしれないと延方小学校も少し見ておきたくなり探してみた。
学校はもっと延方駅に近い場所にあった。
この学校が延方郷校を継承するものとして小学校になり、この現在地に移されたということのようだ。
現地にはそれを示すものは何もなかった。
小学校のホームページをのぞいてみた。
学校の沿革に書かれていた内容を転載します。
<沿 革>
文化の初めの頃 本校の前身の延方郷校,江戸より加賀藩士沢田平格氏をまねていて 内田山のふもとに塾を開く。
文化 4年 9月 水戸藩南領の郡宰小宮山楓軒,土地の父老と教育奨励のため,内田山に孔子の聖廟を建立した。
文化 7年 6月 水戸哀公の許しを得て,郷党より資金を集め藩の補助金と合わせて,豪壮な孔子 覇を建て,周りに教場群を配し,聖堂学校の体制をととのえる。
文化14年 3月 郷校聖廟内に,哀公筆聖碑が安置された。内容的にもっとも充実し,蔵書数は実に,354部1,960冊に達した。
明治 5年 学制発布により,郷校は廃止された。郷校は分教場の一つになり,郷校講師沢田平格氏はそのまま教師の辞令を拝命した。
明治10年10月1日 本校が現在の国道51号沿い,潮来市新宮南に設置された。明治19年までは郷校の先生,沢田平格氏の設けた干し飯倉を改築して教室にしていた。
と書かれている。
手前の国道に平行に走っている旧道を東に進むと、延方相撲で有名な「鹿嶋吉田神社」の一の鳥居があるが、そこを少し東に行くと旧延方村役場跡の碑が目には行った。
現在はここは延方公民館となっていました。
延方(のぶかた)村の名前は江戸時代から続いており、昭和30年に潮来町と合併した。
敷地内には大きなクスノキ(潮来市指定天然記念物)。樹齢は約200年くらいという。
その郷校も明治5年に延方小学校の分教場となったが明治10年に廃校となった。
しかし昔の面影を探してもあまりにも何もないようだ。
その原因が天狗党騒動にあるというのをあまりにも理解できていない。
このような藩の建物や塾などは天狗党が集まっていた。しかし政府軍によりそれらが焼き討ちされて無くなってしまったということに私は思いをいたすことができない。
まず、何かあるかもしれないと延方小学校も少し見ておきたくなり探してみた。
学校はもっと延方駅に近い場所にあった。
この学校が延方郷校を継承するものとして小学校になり、この現在地に移されたということのようだ。
現地にはそれを示すものは何もなかった。
小学校のホームページをのぞいてみた。
学校の沿革に書かれていた内容を転載します。
<沿 革>
文化の初めの頃 本校の前身の延方郷校,江戸より加賀藩士沢田平格氏をまねていて 内田山のふもとに塾を開く。
文化 4年 9月 水戸藩南領の郡宰小宮山楓軒,土地の父老と教育奨励のため,内田山に孔子の聖廟を建立した。
文化 7年 6月 水戸哀公の許しを得て,郷党より資金を集め藩の補助金と合わせて,豪壮な孔子 覇を建て,周りに教場群を配し,聖堂学校の体制をととのえる。
文化14年 3月 郷校聖廟内に,哀公筆聖碑が安置された。内容的にもっとも充実し,蔵書数は実に,354部1,960冊に達した。
明治 5年 学制発布により,郷校は廃止された。郷校は分教場の一つになり,郷校講師沢田平格氏はそのまま教師の辞令を拝命した。
明治10年10月1日 本校が現在の国道51号沿い,潮来市新宮南に設置された。明治19年までは郷校の先生,沢田平格氏の設けた干し飯倉を改築して教室にしていた。
と書かれている。
手前の国道に平行に走っている旧道を東に進むと、延方相撲で有名な「鹿嶋吉田神社」の一の鳥居があるが、そこを少し東に行くと旧延方村役場跡の碑が目には行った。
現在はここは延方公民館となっていました。
延方(のぶかた)村の名前は江戸時代から続いており、昭和30年に潮来町と合併した。
敷地内には大きなクスノキ(潮来市指定天然記念物)。樹齢は約200年くらいという。
潮来と延方(5)-前川の河岸
先日二十三夜尊と硯宮神社などを紹介した時に昔このあたりは「津知村(つじむら)」と言ったことを書きました。
この少し北に「津知小学校」と言う名前がのこさrていますが、地名としては「辻」に変わっています。
郵便番号一覧表の住所から「津知」と検索すると
・兵庫県芦屋市津知町
・京都府京都市伏見区津知橋町
の2か所が出てきます。
芦屋市の「津知」は国道2号線の旧西国街道から神戸港への分かれ道辺りにあたり、一般的な辻ではあるが湊に出る分かれ道である。湊は昔は津といった。
一方京都伏見の「津知橋(つちばし)」についても京都と奈良を結ぶ重要街道の現国道24号線の交差点付近にある。
湊がどれに当たるかはよくわからないがやはり港への分かれ道にあったように思う。
すると潮来の津知=辻も単なる辻ではなく、湊への分かれ道なのではないかと感じた。
そこで辻から「硯宮神社」の横から「愛友酒造」さんの工場前を通って前川に出た。
前川にはこのような太鼓橋がかかっていた。
この太鼓橋の手前に上記のような石碑が置かれていた。
「此のあたり 旧跡上米がし」と書かれていた。
橋の下の川岸には「上米河岸跡」という柱が立てられていた。
橋の上から前川の上流側を眺めた。(下の写真)
川の下流側はこんな感じだ。(下の写真)
橋の欄干にはアヤメの模様が描かれていた。
ここから前川アヤメ園までは約1.5kmくらいだろう。
前川は潮来名物の花嫁さんの舟が通るので有名になっているが、このあたりまでは来ないのだろう。
昔の河岸(かし)は大門河岸 、津軽河岸、天王河岸、仙台河岸、上米河岸などがあったという。
上米は城米とも書いたようなので城を意味知ったのかもしれない。
今日も予定外であったが急遽銚子に出かけた。
途中前回見損なった所を訪ねて歩きまわった。
おかげでブログ更新が遅れてしまった。
4月だというのに暑い。
山の緑は大分濃くなった。
一部ではあるが田植えも始まっていた。
八十八夜は5月2日だという。
もう天気も安定して寒くなる心配はないのだろうが、やはり今年もまた災害があるのかもしれない。
この冬は全く雪の心配をすることが無かった。
こんな年も珍しい。
夏の暑さが逆に思いやられる。
この少し北に「津知小学校」と言う名前がのこさrていますが、地名としては「辻」に変わっています。
郵便番号一覧表の住所から「津知」と検索すると
・兵庫県芦屋市津知町
・京都府京都市伏見区津知橋町
の2か所が出てきます。
芦屋市の「津知」は国道2号線の旧西国街道から神戸港への分かれ道辺りにあたり、一般的な辻ではあるが湊に出る分かれ道である。湊は昔は津といった。
一方京都伏見の「津知橋(つちばし)」についても京都と奈良を結ぶ重要街道の現国道24号線の交差点付近にある。
湊がどれに当たるかはよくわからないがやはり港への分かれ道にあったように思う。
すると潮来の津知=辻も単なる辻ではなく、湊への分かれ道なのではないかと感じた。
そこで辻から「硯宮神社」の横から「愛友酒造」さんの工場前を通って前川に出た。
前川にはこのような太鼓橋がかかっていた。
この太鼓橋の手前に上記のような石碑が置かれていた。
「此のあたり 旧跡上米がし」と書かれていた。
橋の下の川岸には「上米河岸跡」という柱が立てられていた。
橋の上から前川の上流側を眺めた。(下の写真)
川の下流側はこんな感じだ。(下の写真)
橋の欄干にはアヤメの模様が描かれていた。
ここから前川アヤメ園までは約1.5kmくらいだろう。
前川は潮来名物の花嫁さんの舟が通るので有名になっているが、このあたりまでは来ないのだろう。
昔の河岸(かし)は大門河岸 、津軽河岸、天王河岸、仙台河岸、上米河岸などがあったという。
上米は城米とも書いたようなので城を意味知ったのかもしれない。
今日も予定外であったが急遽銚子に出かけた。
途中前回見損なった所を訪ねて歩きまわった。
おかげでブログ更新が遅れてしまった。
4月だというのに暑い。
山の緑は大分濃くなった。
一部ではあるが田植えも始まっていた。
八十八夜は5月2日だという。
もう天気も安定して寒くなる心配はないのだろうが、やはり今年もまた災害があるのかもしれない。
この冬は全く雪の心配をすることが無かった。
こんな年も珍しい。
夏の暑さが逆に思いやられる。
潮来と延方(6)-鹿嶋吉田神社1
潮来という地区のイメージはやはり水郷やアヤメがすぐに浮かんでくる。
一昔前なら「潮来笠」や「潮来花嫁さん」などといういう歌が思い浮かんだが、それもはるか遠い昔の気がする。
今回ブログの地域紹介のタイトルを「潮来と延方」(いたことのぶかた)としたのは、この水郷のイメージとは少し異なる潮来周辺のイメージを持ったためである。
そのきっかけとなったのが「延方郷校」であった。
少し内容を知りたいと思って延方(のぶかた)と検索すると、たくさん「延方相撲」という言葉が出てきた。
確かにこれは聞いたことがある。
今日紹介するのはこの延方相撲が行なわれている「鹿嶋吉田神社」である。
先日紹介した旧延方村役場(現公民館)の前の通りに一の鳥居があり、そこから長い参道がずーと続いている。
参道の両脇には桜の並木が続く。
訪れたのは桜が大分散り始めた時。
この桜並木をしばらく進むと電車のガードをくぐり、二の鳥居が見える。
こちらの鳥居の横に「鹿嶋吉田神社」と書かれた石柱がある。
そして「県指定 民俗文化財 延方相撲」と書かれた看板が立っている。
そしてこの桜並木説明文があった。
「ふるさと創生 桜並木」の字は時の内閣総理大臣「竹下登」だ。
この桜並木の説明も色々感じる物がある。
この神社の歴史は少し後から書くとして、江戸時代には桜ではなく松並木があったようだ。
それを日露戦争の時に供出するために伐採されたという。
1904年のことですね。
そして桜が植えられて桜並木もできていたが馬場となり、次第に荒廃してこの桜もすべてなくなってしまった。
それを「ふるさと創生」で昔の桜並木を復活させようとし、今のこの並木ができたということのようだ。
この碑が建てられたのは昭和63年(1988)。それから今年で27年である。
桜は20年も立つとかなり立派な並木になる。
東北の復興なども20年ほどで立派な花見もできるようになるのだと思う。
参道わきには農村公園というアスレチックなどの遊具がある公園がある。
神社についてはもう少し調べたいこともあるので明日また書きます。
一昔前なら「潮来笠」や「潮来花嫁さん」などといういう歌が思い浮かんだが、それもはるか遠い昔の気がする。
今回ブログの地域紹介のタイトルを「潮来と延方」(いたことのぶかた)としたのは、この水郷のイメージとは少し異なる潮来周辺のイメージを持ったためである。
そのきっかけとなったのが「延方郷校」であった。
少し内容を知りたいと思って延方(のぶかた)と検索すると、たくさん「延方相撲」という言葉が出てきた。
確かにこれは聞いたことがある。
今日紹介するのはこの延方相撲が行なわれている「鹿嶋吉田神社」である。
先日紹介した旧延方村役場(現公民館)の前の通りに一の鳥居があり、そこから長い参道がずーと続いている。
参道の両脇には桜の並木が続く。
訪れたのは桜が大分散り始めた時。
この桜並木をしばらく進むと電車のガードをくぐり、二の鳥居が見える。
こちらの鳥居の横に「鹿嶋吉田神社」と書かれた石柱がある。
そして「県指定 民俗文化財 延方相撲」と書かれた看板が立っている。
そしてこの桜並木説明文があった。
「ふるさと創生 桜並木」の字は時の内閣総理大臣「竹下登」だ。
この桜並木の説明も色々感じる物がある。
この神社の歴史は少し後から書くとして、江戸時代には桜ではなく松並木があったようだ。
それを日露戦争の時に供出するために伐採されたという。
1904年のことですね。
そして桜が植えられて桜並木もできていたが馬場となり、次第に荒廃してこの桜もすべてなくなってしまった。
それを「ふるさと創生」で昔の桜並木を復活させようとし、今のこの並木ができたということのようだ。
この碑が建てられたのは昭和63年(1988)。それから今年で27年である。
桜は20年も立つとかなり立派な並木になる。
東北の復興なども20年ほどで立派な花見もできるようになるのだと思う。
参道わきには農村公園というアスレチックなどの遊具がある公園がある。
神社についてはもう少し調べたいこともあるので明日また書きます。
潮来と延方(7)-鹿嶋吉田神社2
今日も暑くなりました。
4月は今日で終わりですが、気温はそれほどでもなかったと思いますが日差しがもう夏日のようでした。
これから先が思いやられます。
潮来市延方(のぶかた)新宮にある「鹿嶋吉田神社」の紹介の続きの記事です。
この延方の鹿嶋吉田神社というのは、YAHOOの地図を見てもこれだけの大きな神社だが表記されていません。
下記地図はYAHOO地図にこの神社を書きこんだもの。
国道51号線のすぐ北側を走る旧道?沿いに一の鳥居があります。
そこから桜並木が続き「鹿島線」の線路が高架で上をまたぎます。
神社の場所は潮来二中の校庭に隣接しています。
社殿はまだ新しく、最近建て直したばかりのようです。
すぐ正面前にあるのは延方相撲が奉納される土俵です。
まだ真新しい社殿です。
この社殿は昨年6月に新築完成を祝って御神体の遷座の儀と社殿の竣工奉祝祭が行われました。
前の社殿はこの神社がこの場所に建てられた元禄年間の物だったのでしょうか。
見ていないのでわかりません。
さて、この神社は鹿島神宮の祭神である武甕槌命(たけみかずちのみこと)と. 水戸吉田神社の祭神である日本武尊(やまとたける のみこと)である。
名前の通り鹿嶋と吉田である。
鹿島神宮は常陸国一宮であり、吉田神社は常陸国三宮である。
しかしこの神社の歴史を見て見ると少し不思議な気がする。
下にもう一つ周辺の地図に地名などを書き込んだが、延方村の前には少し北側に「古高村」があり、南東側には「洲崎村」という2つの村があったようです。
この地が水戸藩の南領となって水戸光圀(黄門)がこの地の神社などの整理統合行なったようです。
そして元禄9年(1696)に古高村の産土(うぶすな)様として祀られていた鹿嶋明神と洲崎村の産土神であった諏訪明神を合祀してこの神社を建てたようです。新宮の地名もこの意味でしょうか。
しかし諏訪神社はいつの間にか吉田神社となり祭神も日本武尊になったようです。
やはり出雲系の諏訪神社と鹿島神社が一緒になるのはあまり見たことが無い。
まあそんなこともあって水戸の吉田神社の祭神に置き換わったのでしょう。
しかし地元ではこの神社は今でも「すわ様」と呼ばれているようです。
上の地図に外浪逆浦と北浦に挟まれたデルタ地帯(徳島)あたりの領有権を巡ってこの延方村と下幡木村側とが長い間争いを続けていたようです。
そして江戸幕府から「水戸南領に属す」との裁定が下り、延方側の勝利となりました。
この決定を喜んだ延方の人々が、寛文13年(1673年)に、この神社に相撲を奉納したのが(県の無形文化財に指定されている)延方相撲の始まりだそうです。
この神社の祭事として古式にのっとり毎年7月末の日曜日に「二番勝負」「一番勝負」「新手二人がかり」「小三番」「大三番」などの取り組み全48番が行なわれています。
そして地元の子どもたちによる「花相撲」が行なわれ、親に肩車されて行列でやってきた小さな子供の相撲は微笑ましいです。
神社の隣りにあるのは潮来第二中学校。
4月は今日で終わりですが、気温はそれほどでもなかったと思いますが日差しがもう夏日のようでした。
これから先が思いやられます。
潮来市延方(のぶかた)新宮にある「鹿嶋吉田神社」の紹介の続きの記事です。
この延方の鹿嶋吉田神社というのは、YAHOOの地図を見てもこれだけの大きな神社だが表記されていません。
下記地図はYAHOO地図にこの神社を書きこんだもの。
国道51号線のすぐ北側を走る旧道?沿いに一の鳥居があります。
そこから桜並木が続き「鹿島線」の線路が高架で上をまたぎます。
神社の場所は潮来二中の校庭に隣接しています。
社殿はまだ新しく、最近建て直したばかりのようです。
すぐ正面前にあるのは延方相撲が奉納される土俵です。
まだ真新しい社殿です。
この社殿は昨年6月に新築完成を祝って御神体の遷座の儀と社殿の竣工奉祝祭が行われました。
前の社殿はこの神社がこの場所に建てられた元禄年間の物だったのでしょうか。
見ていないのでわかりません。
さて、この神社は鹿島神宮の祭神である武甕槌命(たけみかずちのみこと)と. 水戸吉田神社の祭神である日本武尊(やまとたける のみこと)である。
名前の通り鹿嶋と吉田である。
鹿島神宮は常陸国一宮であり、吉田神社は常陸国三宮である。
しかしこの神社の歴史を見て見ると少し不思議な気がする。
下にもう一つ周辺の地図に地名などを書き込んだが、延方村の前には少し北側に「古高村」があり、南東側には「洲崎村」という2つの村があったようです。
この地が水戸藩の南領となって水戸光圀(黄門)がこの地の神社などの整理統合行なったようです。
そして元禄9年(1696)に古高村の産土(うぶすな)様として祀られていた鹿嶋明神と洲崎村の産土神であった諏訪明神を合祀してこの神社を建てたようです。新宮の地名もこの意味でしょうか。
しかし諏訪神社はいつの間にか吉田神社となり祭神も日本武尊になったようです。
やはり出雲系の諏訪神社と鹿島神社が一緒になるのはあまり見たことが無い。
まあそんなこともあって水戸の吉田神社の祭神に置き換わったのでしょう。
しかし地元ではこの神社は今でも「すわ様」と呼ばれているようです。
上の地図に外浪逆浦と北浦に挟まれたデルタ地帯(徳島)あたりの領有権を巡ってこの延方村と下幡木村側とが長い間争いを続けていたようです。
そして江戸幕府から「水戸南領に属す」との裁定が下り、延方側の勝利となりました。
この決定を喜んだ延方の人々が、寛文13年(1673年)に、この神社に相撲を奉納したのが(県の無形文化財に指定されている)延方相撲の始まりだそうです。
この神社の祭事として古式にのっとり毎年7月末の日曜日に「二番勝負」「一番勝負」「新手二人がかり」「小三番」「大三番」などの取り組み全48番が行なわれています。
そして地元の子どもたちによる「花相撲」が行なわれ、親に肩車されて行列でやってきた小さな子供の相撲は微笑ましいです。
神社の隣りにあるのは潮来第二中学校。
潮来と延方(8)-潮来郷校跡
潮来市延方にあったという郷校の跡を追いかけてみたのですが、やはりあまりその姿は見えてきませんでした。
先日郷校跡の碑がある内田山(現在の潮来高校のあるところ)を見ました(こちら)。
しかし別なところを歩きまわっているうちにもう一つ郷校跡と書かれた場所がありました。
場所は潮来市役所の少し手前の潮来第一中学入口近くです。
中学校は高台の上にありその隣りには潮来の祭りで知られた素鷲熊野神社があります。
その中学校への上り坂の途中に建てられていました。
「潮来郷校跡 潮来天王台下」と書かれています。
延方ではなく潮来郷校となっています。
また潮来天王台下とありますが、これはこの写真左手から階段があり素鷲熊野神社境内に続いています。
明治10年に二つの神社が合併するまで素鷲神社と熊野神社と別々の神社であり、素鷲神社は牛頭天王を祀る天王社(天王宮)であったためだと思います。
「安政4年(1857)1月 武館開館 安政4年9月 文館開館」と書かれています。
恐らくこの場所に武館と文館が建てられたのでしょう。
呼び名もの潮来郷校と呼ばれ、延方郷校とは違った扱いのようです。
延方郷校(医学館)が始まったのが1807年です。そしてその内田山に現在二十三夜尊のあるところに移された「孔子聖堂」が造られたのが1820年ですので、 この潮来郷校は幕末に近い頃です。
このあと、天狗党事件でこの場所も潮来勢の集まる場所になったのでしょうか。
水戸藩の郷校を調べてみると下記の記述がありました。
(水戸弘道館の教育を広めるために各地に建設された。弘道館には文館・武館・医学館・天文館などがあった。)
・ 稽医館(小川郷校):文化1 茨城郡小川村
・ 延方学校(延方郷校): 文化3 行方郡延方村
・ 敬業館(湊郷校):天保6 那珂郡湊村
・ 益習館(太田郷校):天保8 久慈郡太田村
・ 暇修館(大久保郷校): 天保10 多賀郡大久保村
・ 時雍館(野口郷校) 嘉永3 那珂郡野口村
・ 大子郷校 安政2~4 久慈郡大子村
・ 小管郷校 安政2~4 久慈郡小管村
・ 小宮郷校 安政2~4 那珂郡大宮村
・ 町田郷校 安政2~4 久慈郡町田村
・ 秋葉郷校 安政2~4 茨城郡秋葉村
・ 鳥羽田郷校 安政2~4 茨城郡鳥羽田村
・ 玉造郷校 安政2~4 行方郡玉造村
・ 潮来郷校 安政2~4 行方郡潮来村
・ 馬頭郷校 安政2~4 下野国那須郡馬頭村
またこの潮来郷校に関係する人物を調べていたら下記の人物が出てきました。
林五郎三郎(正徳) 1832-1864 幕末の武士。
天保3年生まれ。常陸水戸藩士。弘道館舎長、潮来郷校掛などをつとめる。
天狗党の乱に呼応し、潮来勢をひきいて松平頼徳軍を支援、元治元年9月19日戦死した。33歳。
この郷校などを追いかけると必ず天狗党に行きあたる。
そして悲惨な最期を遂げた話を思い出しこれ以上話は進めなくなる。
茨城県が県別魅力度ランキングが最下位だといつも言われるが、これは県の魅力がないというのではなくこの事件により明治政府からは茨城県の有力者を排除させられたり、ほとんどが処刑されたり・・・というようなことで表舞台から消されてしまったことが大きく影響していると感じている。
茨城などという名前もこの大昔の話からとってつけたように県名したのも仕組まれたものと感じる。
県名発祥の地などという看板も石岡駅前にあるが・・・・。
この潮来郷校跡のすぐ近くの国道51号線沿いに「恵雲寺」(えうんじ)という日蓮宗の寺がある。
寛政9年(1797)鋳造の鐘銘によれば、元禄年間、潮来の北部に小さな庵があって、人々はこれを談義所とよんでいた。
談義所に恵雲と名のる僧がどこからかやってきて滞在し、近在の人々に説教をはじめた。この談義所は藩の政策によって処分の対象となったが、妙光寺の日具上人の努力によって同寺の付属仏舎となって破却から免れた。
この庵は後日、藩主光圀の命により寺院となり日具上人の号である、徳大と僧恵雲の名をつけ徳大山恵雲寺と呼ぶようになった。
恵雲寺は元禄10年(1697)除地4石1斗8升を得て栄えたが、元文2年(1737)火災にあい撞鐘楼はかすべてを焼失した。
しかし60年後の寛政9年(1797)に建物の一部が再興された
恵雲寺本堂。
この本堂裏手の奥まったところに七面堂というお堂があります。
このお堂は内田山にあった延方郷校の最初に建てられた孔子聖堂のようです。
現在二十三夜尊堂として使われている孔子聖堂が建てられた時(1820年)にその前にあった仮聖堂がこの寺に移されたと書かれていた記事がありました。
先日郷校跡の碑がある内田山(現在の潮来高校のあるところ)を見ました(こちら)。
しかし別なところを歩きまわっているうちにもう一つ郷校跡と書かれた場所がありました。
場所は潮来市役所の少し手前の潮来第一中学入口近くです。
中学校は高台の上にありその隣りには潮来の祭りで知られた素鷲熊野神社があります。
その中学校への上り坂の途中に建てられていました。
「潮来郷校跡 潮来天王台下」と書かれています。
延方ではなく潮来郷校となっています。
また潮来天王台下とありますが、これはこの写真左手から階段があり素鷲熊野神社境内に続いています。
明治10年に二つの神社が合併するまで素鷲神社と熊野神社と別々の神社であり、素鷲神社は牛頭天王を祀る天王社(天王宮)であったためだと思います。
「安政4年(1857)1月 武館開館 安政4年9月 文館開館」と書かれています。
恐らくこの場所に武館と文館が建てられたのでしょう。
呼び名もの潮来郷校と呼ばれ、延方郷校とは違った扱いのようです。
延方郷校(医学館)が始まったのが1807年です。そしてその内田山に現在二十三夜尊のあるところに移された「孔子聖堂」が造られたのが1820年ですので、 この潮来郷校は幕末に近い頃です。
このあと、天狗党事件でこの場所も潮来勢の集まる場所になったのでしょうか。
水戸藩の郷校を調べてみると下記の記述がありました。
(水戸弘道館の教育を広めるために各地に建設された。弘道館には文館・武館・医学館・天文館などがあった。)
・ 稽医館(小川郷校):文化1 茨城郡小川村
・ 延方学校(延方郷校): 文化3 行方郡延方村
・ 敬業館(湊郷校):天保6 那珂郡湊村
・ 益習館(太田郷校):天保8 久慈郡太田村
・ 暇修館(大久保郷校): 天保10 多賀郡大久保村
・ 時雍館(野口郷校) 嘉永3 那珂郡野口村
・ 大子郷校 安政2~4 久慈郡大子村
・ 小管郷校 安政2~4 久慈郡小管村
・ 小宮郷校 安政2~4 那珂郡大宮村
・ 町田郷校 安政2~4 久慈郡町田村
・ 秋葉郷校 安政2~4 茨城郡秋葉村
・ 鳥羽田郷校 安政2~4 茨城郡鳥羽田村
・ 玉造郷校 安政2~4 行方郡玉造村
・ 潮来郷校 安政2~4 行方郡潮来村
・ 馬頭郷校 安政2~4 下野国那須郡馬頭村
またこの潮来郷校に関係する人物を調べていたら下記の人物が出てきました。
林五郎三郎(正徳) 1832-1864 幕末の武士。
天保3年生まれ。常陸水戸藩士。弘道館舎長、潮来郷校掛などをつとめる。
天狗党の乱に呼応し、潮来勢をひきいて松平頼徳軍を支援、元治元年9月19日戦死した。33歳。
この郷校などを追いかけると必ず天狗党に行きあたる。
そして悲惨な最期を遂げた話を思い出しこれ以上話は進めなくなる。
茨城県が県別魅力度ランキングが最下位だといつも言われるが、これは県の魅力がないというのではなくこの事件により明治政府からは茨城県の有力者を排除させられたり、ほとんどが処刑されたり・・・というようなことで表舞台から消されてしまったことが大きく影響していると感じている。
茨城などという名前もこの大昔の話からとってつけたように県名したのも仕組まれたものと感じる。
県名発祥の地などという看板も石岡駅前にあるが・・・・。
この潮来郷校跡のすぐ近くの国道51号線沿いに「恵雲寺」(えうんじ)という日蓮宗の寺がある。
寛政9年(1797)鋳造の鐘銘によれば、元禄年間、潮来の北部に小さな庵があって、人々はこれを談義所とよんでいた。
談義所に恵雲と名のる僧がどこからかやってきて滞在し、近在の人々に説教をはじめた。この談義所は藩の政策によって処分の対象となったが、妙光寺の日具上人の努力によって同寺の付属仏舎となって破却から免れた。
この庵は後日、藩主光圀の命により寺院となり日具上人の号である、徳大と僧恵雲の名をつけ徳大山恵雲寺と呼ぶようになった。
恵雲寺は元禄10年(1697)除地4石1斗8升を得て栄えたが、元文2年(1737)火災にあい撞鐘楼はかすべてを焼失した。
しかし60年後の寛政9年(1797)に建物の一部が再興された
恵雲寺本堂。
この本堂裏手の奥まったところに七面堂というお堂があります。
このお堂は内田山にあった延方郷校の最初に建てられた孔子聖堂のようです。
現在二十三夜尊堂として使われている孔子聖堂が建てられた時(1820年)にその前にあった仮聖堂がこの寺に移されたと書かれていた記事がありました。
潮来と延方(9)-潮来陣屋跡
国道51号線を潮来方面に進み稲荷山の公園を過ぎて「土木事務所入口」という信号がある。
この信号を右に曲れば潮来の水郷地帯中心部に出るが、反対側の左手に入る狭い道がある。
そして正面にはこんもりとした小山がある。
ここが潮来陣屋跡のある弁天山だという。
残念ながらこの通りの左右はゴミの集積場、処分場となりあまり景観としては良くない。
山の麓も捨てられたようなゴミが積み重ねられていた。
この山の中腹に弁財天が祀られていて、そこに登る登り口がある。
あまり多くの人が訪れていないようで、道は石段で整備されているが寂しい山道だ。
その道の入口付近に碑は建てられている。
「潮来鎮台(陣屋)跡 天狗党潮来勢集結の地 潮来弁天山」と書かれている。
その隣りには
「幕府の命により武田耕雲斉指揮のもと、治安沈静を目的に創建されたが、元治甲子の争乱で天狗党の拠点になり、幕府掃討軍によって焼き討ちされた。」と書かれている。
武田耕雲斉は水戸藩の三田(戸田忠太夫、藤田東湖、武田耕雲斉)と称される重鎮で、斉昭死後に水戸藩内の意見対立が激しくなり、藤田小四郎などが天狗党を旗揚げした時にはこれを諌め、早まった行動を鎮めようとしていました。
しかし、水戸藩にとって情勢が日々悪くなり、小四朗などから天狗党の党首を懇請されこれを引きうけてしまいます。
従って、この潮来陣屋も治安が目的でできたのですが次第に天狗党の人達の集結場に変わっていったのでしょう。
耕雲斉は最後は駿河で小四郎とともに降伏して斬首されましたが、悲惨なのはその家族です。
妻、妾、長男とその家族(11歳の娘もいた)、次男、六男(9歳)、七男(3歳)などことごとく斬首となりました。
時代の流れとはいえあまりにもむごいことです。
この多くが靖国神社に合祀されています。
この陣屋は延方郷校や潮来郷校などの水戸学問所には幕末に尊王攘夷をかかげる急進派の天狗党が集結するようになりました。
これが筑波勢と行動を共にした潮来勢となりました。
そしてそこには多くの農民も加わっていました。
これを鎮圧するためにこの弁天山に幕府は陣屋を置いたようです。
しかし逆にこの陣屋は潮来勢の集結する場に変わってしまい、最後は新政府軍による掃討作戦で焼き払われてしまったようです。
山道を登るとそこに小さな小屋が置かれています。これが弁財天のようです。
「芸達者 商売繁盛」と書かれた木札が印象的です。
潮来の街の方を見ることもできますが、木々に覆われて少し見通しは悪いです。
更に山道が続いていたので進んでみました。
少し開けたところに「南無妙法蓮華経」の石碑が立てられていました。
天狗党の霊を鎮めるために置かれたものでしょうか。
でもいまでもこの天狗党は悲惨でどこかに亡霊が潜んでいる気がしています。
以前玉造でも大宮神社に「天狗党忠魂碑」がありました。(記事はこちら)
こちらは玉造勢でした。
小川、玉造、延方(潮来)はそれぞれ水戸藩南領の領域で郷校が置かれていました。
小川の天聖寺跡(記事はこちら)などでも天狗党が棲みかとしていて焼き討ちされたことを書いていました。
この話はこれくらいでやめておきましょう。
暗くなるばかりです。
この信号を右に曲れば潮来の水郷地帯中心部に出るが、反対側の左手に入る狭い道がある。
そして正面にはこんもりとした小山がある。
ここが潮来陣屋跡のある弁天山だという。
残念ながらこの通りの左右はゴミの集積場、処分場となりあまり景観としては良くない。
山の麓も捨てられたようなゴミが積み重ねられていた。
この山の中腹に弁財天が祀られていて、そこに登る登り口がある。
あまり多くの人が訪れていないようで、道は石段で整備されているが寂しい山道だ。
その道の入口付近に碑は建てられている。
「潮来鎮台(陣屋)跡 天狗党潮来勢集結の地 潮来弁天山」と書かれている。
その隣りには
「幕府の命により武田耕雲斉指揮のもと、治安沈静を目的に創建されたが、元治甲子の争乱で天狗党の拠点になり、幕府掃討軍によって焼き討ちされた。」と書かれている。
武田耕雲斉は水戸藩の三田(戸田忠太夫、藤田東湖、武田耕雲斉)と称される重鎮で、斉昭死後に水戸藩内の意見対立が激しくなり、藤田小四郎などが天狗党を旗揚げした時にはこれを諌め、早まった行動を鎮めようとしていました。
しかし、水戸藩にとって情勢が日々悪くなり、小四朗などから天狗党の党首を懇請されこれを引きうけてしまいます。
従って、この潮来陣屋も治安が目的でできたのですが次第に天狗党の人達の集結場に変わっていったのでしょう。
耕雲斉は最後は駿河で小四郎とともに降伏して斬首されましたが、悲惨なのはその家族です。
妻、妾、長男とその家族(11歳の娘もいた)、次男、六男(9歳)、七男(3歳)などことごとく斬首となりました。
時代の流れとはいえあまりにもむごいことです。
この多くが靖国神社に合祀されています。
この陣屋は延方郷校や潮来郷校などの水戸学問所には幕末に尊王攘夷をかかげる急進派の天狗党が集結するようになりました。
これが筑波勢と行動を共にした潮来勢となりました。
そしてそこには多くの農民も加わっていました。
これを鎮圧するためにこの弁天山に幕府は陣屋を置いたようです。
しかし逆にこの陣屋は潮来勢の集結する場に変わってしまい、最後は新政府軍による掃討作戦で焼き払われてしまったようです。
山道を登るとそこに小さな小屋が置かれています。これが弁財天のようです。
「芸達者 商売繁盛」と書かれた木札が印象的です。
潮来の街の方を見ることもできますが、木々に覆われて少し見通しは悪いです。
更に山道が続いていたので進んでみました。
少し開けたところに「南無妙法蓮華経」の石碑が立てられていました。
天狗党の霊を鎮めるために置かれたものでしょうか。
でもいまでもこの天狗党は悲惨でどこかに亡霊が潜んでいる気がしています。
以前玉造でも大宮神社に「天狗党忠魂碑」がありました。(記事はこちら)
こちらは玉造勢でした。
小川、玉造、延方(潮来)はそれぞれ水戸藩南領の領域で郷校が置かれていました。
小川の天聖寺跡(記事はこちら)などでも天狗党が棲みかとしていて焼き討ちされたことを書いていました。
この話はこれくらいでやめておきましょう。
暗くなるばかりです。
潮来と延方(10)-素鷲熊野神社1
潮来には佐原と同様に江戸と水運でつながり、それによりもたらされたと思われる山車や囃子による祭りがある。
潮来祇園祭(8月初めの金土日の3日間)に14台の山車がでる。
また潮来節の発祥の地でもある。
潮来の祇園祭はこの素鷲熊野神社(そがくまのじんじゃ)の祭りで天王祭(津島神社の系統)だ。
この神社は素鷲神社と熊野神社が一体となっているが、祀られているのは別々のようだ。
素鷲神社の祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)。
熊野神社の祭神は伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉册命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(ことさかおのみこと)である。
いずれも日本神話の神様。
素鷲神社はこの神社の場所が天王山と呼ばれているので、これは元は天王社(牛頭天王)であろう。
牛頭天王は院殿神様であるが江戸時代は各地にたくさんあり、愛知県の津島神社が総本山であるが、元々は神社ではなく寺院とされていた。
神仏分離により仏教的なものが排除されて神社となり、全国の多くの天王社が素鷲神社や八坂神社に名前を変えた。
石岡の中町にも中心に天王社があったが八坂神社となり常陸国総社宮に合祀された。
この全国の天王社はもともと祇園祭が行なわれていて、八坂神社の祭りと同じであったことも名称変更に抵抗が無かったようだ。
そして祭神もほとんどのところがスサノオとクシイナダヒメに変わった。
スサノオは朝鮮半島から対馬を経由して出雲国にやってきた。今の津島神社はこのスサノオの荒魂が出雲にあり和魂が紀元前245年にいったん対馬に鎮まった後に西暦540年に愛知県の津島にやってきたとされている。
このあたりはどう解釈したらよいかわからないが面白い。
この潮来素鷲熊野神社の現地に書かれた由緒によると、
「素鷲神社は天安2年(857~858)潮来町地先浪逆浦より出現。
始め辻村天王原に奉祀す。
その後文治4年(1185)6月に至り潮来天王川岸地内に祠を営み遷し祀り板久牛頭天王と称し4丁目以西の鎮守となす。
元禄5年水戸義公封ない巡視の折町内に在りては火災の憂いあると以て、今の地に遷すべしとの命により別当職佐竹祐宜新たに宮を造営元禄9年(1696)遷宮す。
熊野神社は天正年中(1573~1586)村人紀州熊野三社を信仰同行の者其の霊験を尊び御分霊を迎え来りて5丁目地内に宮を建て奉斎熊野三社大権現と称し5丁目以東の鎮守として尊崇祭祀せり。
元禄5年水戸義公の命により今の地に遷すこととなり、新たに宮を建てて元禄9年素鷲神社と同時に遷宮す。
両者共に天保15年(1843)水戸藩内一律に神仏分離の令により牛頭天王を素鷲神社と改称。
熊野三社大権現を熊野神社と改称。
明治10年(1877)に至り素鷲熊野神社と合名し明治12年4月郷社に昇格せり。」
とかかれています。長々と書かれていますが注釈を加えずにそのまま載せました。
入口鳥居のすぐ脇にとても大きな欅の木が聳えています。
「茨城県指定文化財 天然記念物 潮来大欅」とかかれています。
樹齢は不明となっていますが推定で500年以上とか800年以上とか書かれている物もありました。
かなり見事な巨木である。
山の上にある神社の登り口まで鳥居が4つ?
途中に古びた石灯篭に狛犬が置かれています。
口を閉じた吽型。
口を開けた阿型。表情が面白いですね。
こちらは階段を少し上ったところにある鳥居のところに置かれている威嚇したような狛犬です。
階段を登ったところにある神社は明日紹介します。
潮来祇園祭(8月初めの金土日の3日間)に14台の山車がでる。
また潮来節の発祥の地でもある。
潮来の祇園祭はこの素鷲熊野神社(そがくまのじんじゃ)の祭りで天王祭(津島神社の系統)だ。
この神社は素鷲神社と熊野神社が一体となっているが、祀られているのは別々のようだ。
素鷲神社の祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)。
熊野神社の祭神は伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉册命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(ことさかおのみこと)である。
いずれも日本神話の神様。
素鷲神社はこの神社の場所が天王山と呼ばれているので、これは元は天王社(牛頭天王)であろう。
牛頭天王は院殿神様であるが江戸時代は各地にたくさんあり、愛知県の津島神社が総本山であるが、元々は神社ではなく寺院とされていた。
神仏分離により仏教的なものが排除されて神社となり、全国の多くの天王社が素鷲神社や八坂神社に名前を変えた。
石岡の中町にも中心に天王社があったが八坂神社となり常陸国総社宮に合祀された。
この全国の天王社はもともと祇園祭が行なわれていて、八坂神社の祭りと同じであったことも名称変更に抵抗が無かったようだ。
そして祭神もほとんどのところがスサノオとクシイナダヒメに変わった。
スサノオは朝鮮半島から対馬を経由して出雲国にやってきた。今の津島神社はこのスサノオの荒魂が出雲にあり和魂が紀元前245年にいったん対馬に鎮まった後に西暦540年に愛知県の津島にやってきたとされている。
このあたりはどう解釈したらよいかわからないが面白い。
この潮来素鷲熊野神社の現地に書かれた由緒によると、
「素鷲神社は天安2年(857~858)潮来町地先浪逆浦より出現。
始め辻村天王原に奉祀す。
その後文治4年(1185)6月に至り潮来天王川岸地内に祠を営み遷し祀り板久牛頭天王と称し4丁目以西の鎮守となす。
元禄5年水戸義公封ない巡視の折町内に在りては火災の憂いあると以て、今の地に遷すべしとの命により別当職佐竹祐宜新たに宮を造営元禄9年(1696)遷宮す。
熊野神社は天正年中(1573~1586)村人紀州熊野三社を信仰同行の者其の霊験を尊び御分霊を迎え来りて5丁目地内に宮を建て奉斎熊野三社大権現と称し5丁目以東の鎮守として尊崇祭祀せり。
元禄5年水戸義公の命により今の地に遷すこととなり、新たに宮を建てて元禄9年素鷲神社と同時に遷宮す。
両者共に天保15年(1843)水戸藩内一律に神仏分離の令により牛頭天王を素鷲神社と改称。
熊野三社大権現を熊野神社と改称。
明治10年(1877)に至り素鷲熊野神社と合名し明治12年4月郷社に昇格せり。」
とかかれています。長々と書かれていますが注釈を加えずにそのまま載せました。
入口鳥居のすぐ脇にとても大きな欅の木が聳えています。
「茨城県指定文化財 天然記念物 潮来大欅」とかかれています。
樹齢は不明となっていますが推定で500年以上とか800年以上とか書かれている物もありました。
かなり見事な巨木である。
山の上にある神社の登り口まで鳥居が4つ?
途中に古びた石灯篭に狛犬が置かれています。
口を閉じた吽型。
口を開けた阿型。表情が面白いですね。
こちらは階段を少し上ったところにある鳥居のところに置かれている威嚇したような狛犬です。
階段を登ったところにある神社は明日紹介します。
潮来と延方(11)-素鷲熊野神社2
潮来の祇園祭の祭神となっている天王山に鎮座する素鷲熊野神社の紹介の続きです。
小山の上にありますので階段を上ります。
上には拝殿とその右側に社務所、左側に額殿や境内社が並んでいます。
階段を登ったところに鳥居がありこちらにも狛犬が置かれています。
また拝殿前にもいます。
このように置かれている場所で狛犬も表情が違いますので面白いですね。
奥に見えるのが社務所です。
その更に向こう側は中学校が見えます。
右手にはもう一つにの参道がありそちらが前に紹介した潮来郷校の跡に出ます。
素鷲熊野神社(そがくまのじんじゃ)の拝殿です。
御鎮座八百年と書かれています。
熊野神社はまだ500年程ですから、素鷲神社が文治4年(1185)6月に潮来天王川岸地内に祠を営み遷し祀り、板久牛頭天王と称した時からの年数でしょうか。
「額殿」 昔からの奉納扁額などが飾られているようです。
中に昔の「牛頭天王」と書かれた額も残されています。
境内社としては神明神社、第六天神社、松尾神社、 淡島神社、金比羅神社、八子神社、疱瘡神社、稲荷神社等が祀られている。
?霊殿・・・
この潮来の祇園祭はこの神社の2神(天王さまと熊野さま)を神輿で山を下りて御仮屋に2日間移して御まつりします。
各町内からの14台の山車が町を練り歩きます。
山車のは佐原と同じで上は回転しませんので長い棒で回転させます。
これをのの字回しと呼ぶのは佐原と同じです。
この石柱や雰囲気は熊野神社の感じがします。
神社本殿。中は覆われていて見えません。
天王さんと熊野権現が祀られているのか?
スサノオが祀られているのですがここの祭りでは天王さんが神輿で街に下りるというので、スサノオも牛頭天王も区別はなさそうです。
この天王山も昔は鬱蒼とした山だったのでしょう。
今はこの神社の隣りに「潮来第一中学校」があります。
小山の上にありますので階段を上ります。
上には拝殿とその右側に社務所、左側に額殿や境内社が並んでいます。
階段を登ったところに鳥居がありこちらにも狛犬が置かれています。
また拝殿前にもいます。
このように置かれている場所で狛犬も表情が違いますので面白いですね。
奥に見えるのが社務所です。
その更に向こう側は中学校が見えます。
右手にはもう一つにの参道がありそちらが前に紹介した潮来郷校の跡に出ます。
素鷲熊野神社(そがくまのじんじゃ)の拝殿です。
御鎮座八百年と書かれています。
熊野神社はまだ500年程ですから、素鷲神社が文治4年(1185)6月に潮来天王川岸地内に祠を営み遷し祀り、板久牛頭天王と称した時からの年数でしょうか。
「額殿」 昔からの奉納扁額などが飾られているようです。
中に昔の「牛頭天王」と書かれた額も残されています。
境内社としては神明神社、第六天神社、松尾神社、 淡島神社、金比羅神社、八子神社、疱瘡神社、稲荷神社等が祀られている。
?霊殿・・・
この潮来の祇園祭はこの神社の2神(天王さまと熊野さま)を神輿で山を下りて御仮屋に2日間移して御まつりします。
各町内からの14台の山車が町を練り歩きます。
山車のは佐原と同じで上は回転しませんので長い棒で回転させます。
これをのの字回しと呼ぶのは佐原と同じです。
この石柱や雰囲気は熊野神社の感じがします。
神社本殿。中は覆われていて見えません。
天王さんと熊野権現が祀られているのか?
スサノオが祀られているのですがここの祭りでは天王さんが神輿で街に下りるというので、スサノオも牛頭天王も区別はなさそうです。
この天王山も昔は鬱蒼とした山だったのでしょう。
今はこの神社の隣りに「潮来第一中学校」があります。
潮来と延方(12)-愛染院1
潮来周辺の紹介が途中となっておりましたのでもう少し続けたいと思います。
天狗党や水戸藩郷校などはもう置いておいて、少し気になる場所を何箇所かまわりました。
延方(のぶかた)から北浦に沿って北上するとこの通り沿いに「愛染院」というお寺が立っています。
場所は北浦の入り江のようになった場所で「根本」と言う地名がついています。
まえに仏教伝来で、その地域の最初の中心地が根本(ねもと、こんぽん)ではないかと考えて、地名を追いかけたことがありました。
この寺は「東雲山愛染院根本寺」(真言宗)と言うのが正式名称ですが、地元では水原の観音様と親しまれています。
水原はこのあたりの地名です。
北浦がすぐ近くで、寺やすぐ裏山が聳えています。
入口に立派な楼門があります。
この楼門は鐘楼となっていて上部には釣鐘があります。この鐘楼門は潮来市指定文化財です。
享保年間(1716~1735)の建立。
愛染院と呼ばれる寺院は全国にたくさんあり、ほとんどは愛染明王を祀っています。
ここも愛染明王と観音様が祀られています。
てらの由緒などは上記記載の通りで、
「天喜5年(1057)年陸奥征伐(前九年の役)に出陣の途中、八幡太郎義家がこの地で難風に遭い、やむなく滞在したが、その夜、不思議な仏夢により深く感ずるところがあって、後冷泉天皇から賜った守護仏、如意輪観世音菩薩を安置し、武運を祈願したところ、難風がおさまったという。 このため、衆生済度の根本の地として円通閣主を招き草庵を建立した。その後本堂を建立し、義家公の守護仏を胎内仏として如意輪観世音菩薩を安置している。
元禄7年(1694)から堂宇の再建が行なわれ、宥範(ゆうはん)和尚を中興開山として迎えた。
宝永元年(1704)には、麻生藩主新庄直隆公から再建記念として愛染明王像が寄進され、以後麻生藩主新庄家の祈願所となった。」
とされる。
宝物収蔵庫? この寺には数多くの文化財がありようだ。
この宝物館もお願いすれば見せてもらえるそうです。
正面に立派な観音堂があります。潮来市指定文化財。
享保4年(1719)の建立とされる。
源義家(八幡太郎)の守護仏を胎内仏とした如意輪観世音菩薩像は県指定文化財と言う。
見てみたいですね。
時間が無くなりました。明日もう少し書きます。
天狗党や水戸藩郷校などはもう置いておいて、少し気になる場所を何箇所かまわりました。
延方(のぶかた)から北浦に沿って北上するとこの通り沿いに「愛染院」というお寺が立っています。
場所は北浦の入り江のようになった場所で「根本」と言う地名がついています。
まえに仏教伝来で、その地域の最初の中心地が根本(ねもと、こんぽん)ではないかと考えて、地名を追いかけたことがありました。
この寺は「東雲山愛染院根本寺」(真言宗)と言うのが正式名称ですが、地元では水原の観音様と親しまれています。
水原はこのあたりの地名です。
北浦がすぐ近くで、寺やすぐ裏山が聳えています。
入口に立派な楼門があります。
この楼門は鐘楼となっていて上部には釣鐘があります。この鐘楼門は潮来市指定文化財です。
享保年間(1716~1735)の建立。
愛染院と呼ばれる寺院は全国にたくさんあり、ほとんどは愛染明王を祀っています。
ここも愛染明王と観音様が祀られています。
てらの由緒などは上記記載の通りで、
「天喜5年(1057)年陸奥征伐(前九年の役)に出陣の途中、八幡太郎義家がこの地で難風に遭い、やむなく滞在したが、その夜、不思議な仏夢により深く感ずるところがあって、後冷泉天皇から賜った守護仏、如意輪観世音菩薩を安置し、武運を祈願したところ、難風がおさまったという。 このため、衆生済度の根本の地として円通閣主を招き草庵を建立した。その後本堂を建立し、義家公の守護仏を胎内仏として如意輪観世音菩薩を安置している。
元禄7年(1694)から堂宇の再建が行なわれ、宥範(ゆうはん)和尚を中興開山として迎えた。
宝永元年(1704)には、麻生藩主新庄直隆公から再建記念として愛染明王像が寄進され、以後麻生藩主新庄家の祈願所となった。」
とされる。
宝物収蔵庫? この寺には数多くの文化財がありようだ。
この宝物館もお願いすれば見せてもらえるそうです。
正面に立派な観音堂があります。潮来市指定文化財。
享保4年(1719)の建立とされる。
源義家(八幡太郎)の守護仏を胎内仏とした如意輪観世音菩薩像は県指定文化財と言う。
見てみたいですね。
時間が無くなりました。明日もう少し書きます。
潮来と延方(13)-愛染院2
茨城県潮来市の北浦沿いにある真言宗の古刹「愛染院」(根本寺)の紹介をしています。
北浦沿いにこのような寺があることを知らなかったので最初に緒訪れた時に少し驚いた。
四国の霊場と同じように山にへばりついたような寺ではあるが入口の門が3つにわかれているようだ。
3つの要素の寺院が一つになったものかもしれない。
正面に観音堂がありその前庭に空海(弘法大師)?像が置かれ、北浦の方を眺めている。
北浦は写真にあるようにすぐそこにある。
空海の像の下には足形が置かれていて、きっとこの下の石や砂は四国霊場88か所から持って来たものだろう。
この足型に乗って「南無大師遍照金剛」を唱えれば四国霊場の御利益もいただけるのだろうか。
足型には「佛足跡」となっていました。
この足型にのるとあたまの上に弘法大師さんが立っていることになります。
やはり恐れ多くてこの上には乗れません。
正面(写真左側)が観音堂、右側に「金蘭?」と扁額のかかった建物があります。
そして通りに沿ったところにはこちらの門も別にあります。
七福神が彫られた石像がおかれています。
その隣りにこの寺の由来が彫られています。
「本寺は真言宗豊山派東雲山愛染院根本寺と称し、本尊は大聖如意輪観世音菩薩で本堂(観音堂)に祀られ、金剛愛染明王は金堂に祀られている。
寺伝によれば本尊如意輪観世音菩薩(高さ5.4cm)は歴代の天皇の守護佛であり、平安後期天喜2年(1054)に後冷泉天王より源氏八幡太郎義家公に武運の守護佛として賜り、義家公兜の八幡座に奉持され、坂東武士一軍を率いて、奥州の安倍氏征伐に向かい、この水原の郷に来りしも、鹿島の郷に渡るとき難風にあい北浦を渡れず、やむなく数日滞陣され、里人の食糧などの持て成しをうけ、将軍その忠勤奇特を思い召された。ある夜不思議な霊夢により衆生済度の根本の地であることを感ずることあり、守護佛に深く帰依し、一軍の武運長久を祈り、草庵を建て観音菩薩を祀られたのが当寺の開基とされる。・・・・・・・・・・」
少し長いのでカットします。
そしてその隣りに観音堂の脇から裏山に続く真っ直ぐな急な登り階段があります。
この正面入り口の門には金毘羅大権現とあります。
ここが北浦の漁が盛んな場所であったのでしょう。金毘羅さんは漁の関係者の鎮守で、どこも海を見下ろせる場所に建っていることが多いようです。
やはりこれだけ長い階段を登るとなると少し勇気が必要です。
やはり歳には勝てませんね。
少し息が切れましたがやっと登りました。
上には小さな赤い鳥居。
こちらは八幡様です。
こちらの堂宇が金毘羅宮のようです。
上からは木々が邪魔して遠くを見はらすことはできません。
それでは来た階段を下ります。
向かって一番左側に「弘法大師堂」の建物がありました。
こちらにもまた入口の門が別にあるようです。
北浦沿いにこのような寺があることを知らなかったので最初に緒訪れた時に少し驚いた。
四国の霊場と同じように山にへばりついたような寺ではあるが入口の門が3つにわかれているようだ。
3つの要素の寺院が一つになったものかもしれない。
正面に観音堂がありその前庭に空海(弘法大師)?像が置かれ、北浦の方を眺めている。
北浦は写真にあるようにすぐそこにある。
空海の像の下には足形が置かれていて、きっとこの下の石や砂は四国霊場88か所から持って来たものだろう。
この足型に乗って「南無大師遍照金剛」を唱えれば四国霊場の御利益もいただけるのだろうか。
足型には「佛足跡」となっていました。
この足型にのるとあたまの上に弘法大師さんが立っていることになります。
やはり恐れ多くてこの上には乗れません。
正面(写真左側)が観音堂、右側に「金蘭?」と扁額のかかった建物があります。
そして通りに沿ったところにはこちらの門も別にあります。
七福神が彫られた石像がおかれています。
その隣りにこの寺の由来が彫られています。
「本寺は真言宗豊山派東雲山愛染院根本寺と称し、本尊は大聖如意輪観世音菩薩で本堂(観音堂)に祀られ、金剛愛染明王は金堂に祀られている。
寺伝によれば本尊如意輪観世音菩薩(高さ5.4cm)は歴代の天皇の守護佛であり、平安後期天喜2年(1054)に後冷泉天王より源氏八幡太郎義家公に武運の守護佛として賜り、義家公兜の八幡座に奉持され、坂東武士一軍を率いて、奥州の安倍氏征伐に向かい、この水原の郷に来りしも、鹿島の郷に渡るとき難風にあい北浦を渡れず、やむなく数日滞陣され、里人の食糧などの持て成しをうけ、将軍その忠勤奇特を思い召された。ある夜不思議な霊夢により衆生済度の根本の地であることを感ずることあり、守護佛に深く帰依し、一軍の武運長久を祈り、草庵を建て観音菩薩を祀られたのが当寺の開基とされる。・・・・・・・・・・」
少し長いのでカットします。
そしてその隣りに観音堂の脇から裏山に続く真っ直ぐな急な登り階段があります。
この正面入り口の門には金毘羅大権現とあります。
ここが北浦の漁が盛んな場所であったのでしょう。金毘羅さんは漁の関係者の鎮守で、どこも海を見下ろせる場所に建っていることが多いようです。
やはりこれだけ長い階段を登るとなると少し勇気が必要です。
やはり歳には勝てませんね。
少し息が切れましたがやっと登りました。
上には小さな赤い鳥居。
こちらは八幡様です。
こちらの堂宇が金毘羅宮のようです。
上からは木々が邪魔して遠くを見はらすことはできません。
それでは来た階段を下ります。
向かって一番左側に「弘法大師堂」の建物がありました。
こちらにもまた入口の門が別にあるようです。