潮来 まほらにふく風に乗って
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潮来のアヤメ

 今日も銚子に行っていました。
途中潮来のアヤメを見ておこうと思いましたが、雨が降ってなかなか止みません。

西の方は梅雨入りだそうです。
こちらの方ももうすぐですね。

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前川アヤメ園で今日の午前10時前頃。
花はきれいに咲いていました。
雨の中で観光客もまあまあですが、カメラと三脚を持った数人のグループが多くいました。

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皆さん雨合羽を着てカメラを一生懸命保護して大変ですね。
私は傘を片手にさしてカメラを片手に構え、レンズをハンカチで拭きながらすばやく撮ってすぐに引き上げました。

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どんな構図が良いのでしょうね。

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橋の上で観光ガイドさんに案内された6~7人ほどのグループの方がおりました。
ガイドさんいわく「花村菊枝さんの潮来花嫁さんの歌に唄われた・・・・・・・・・・」だそうです。

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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/06/03 21:17

大門河岸

 潮来のアヤメ園に昨年はアヤメ園入口近くの有料駐車場に車を停めましたが、今年は寄り道程度なので街中の長勝寺の方から真っ直ぐ歩いて前川に向かいました。

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長勝寺山門から街中の旧道(5号線)をわたってそのまま脇道を進みます。
なかなか趣のある通りです。

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このような蔵も古いものでしょうか?
きっとこの辺りも昔は潮来の港の問屋などがあったのでしょうか。

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ここにも地蔵さんがおられるようです。
河岸などの近くにあるのは昔からいろいろな信仰もあったのでしょう。

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前川の少し手前に小さな公園がありました。
テントを張って何かイベントをやる予定のようでしたが、雨でまだ準備も迷っているようです。


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「大門河岸公園」となっています。

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そしてアヤメ園のところにやってきました。
この橋はアヤメ園の中心にある「思案橋」だと思いますが、「此のあたり 旧跡大門がし」と石碑が立っています。

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そして橋のたもとに「大門河岸跡」とあります。

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橋の下から向こう側のアヤメ園を見ました。
大門河岸はこのあたりでは少し川が深くなっているようで潮来の中心の河岸だったようです。

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前川の川岸には多くの河岸があったようです。
ここが大門で一番下流側でここからすぐに常陸利根川に出ます。

前にこの上流の「辻」辺りにあった上米河岸跡を紹介しました。(記事はこちら

そしてこの上米河岸から大門河岸の間に津軽藩の津軽河岸、仙台伊達藩の仙台河岸などもすこしの間隔で並んでいたという。

東北地方から江戸に荷物を運ぶ時に水戸の那珂川から涸沼に入り、涸沼から鉾田まで陸送し、再び舟で北浦を通ってこの潮来に運んでいました。
そしてここで少し大きな船に積み替えていたようです。

そのためこのあたりは、多くの商人たちも行き来して賑やかだったようです。
もちろん潮来といえば昔は花街としてもにぎわったのでしょう。

いろいろな人間模様がそこにはあったのでしょうね。

潮来

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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/06/04 21:40

加藤洲

 潮来のアヤメ園の対岸は利根川と常陸利根川の間にできた中州で加藤洲と呼ばれる場所である。
ここは江戸時代になってからできた中州であり、広大な耕作地が作られ、いくつもの水路が張り巡らされている。

そして舟でこの加藤洲の水路の両側の家を行き来するために十二もの小さな橋が架けられており、この橋を巡る観光舟が運行されている。

元々この地の生活に舟が使われていた。今回雨の中でもあったが、潮来側からこちらの加藤洲へ行ってみた。

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常陸利根川からこちら側は千葉県香取市になる。
加藤洲の水路の入り口から潮来の前川方面を見た。

正面すこし左側の水門が前川の水門。右側の建物は潮来ホテル。

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加藤洲の入口水門。アヤメの絵が描かれています。

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この水門を加藤洲十二橋めぐりの舟が入っていきます。

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水門はもう一つあります。

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舟がやってくると開けるようです。
操作をする人がいましたが、操作小屋はありませんので、こんな雨の中では雨合羽に傘で椅子に腰かけておりました。
雨ではお客さんも少ないので大変です。

十二橋巡りは本当はこちらが昔からのメインのようですが、今では前川を行ったり来たりの十二橋巡りもあるようです。
休みの日には花嫁舟も出るそうです。

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ここから十二の橋が続くのですが、川沿いの道も車で行くのは狭くて大変です。
また川沿いは両側に民家が続き、橋も基本的にはこの民家の間をつなぐ生活橋だったようです。

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ここは2番目の橋の上から加藤洲入口側を眺めたところです。
橋にはいろいろ名前があるようですが、生活の橋であるせいか、橋をこのように陸から見物する人もめったにいないようで陸から見える場所には橋の名前表示はありませんでした。

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こちらが3つ目の橋です。
この橋は家の庭からつながっていますので一般の人は通れないようです。

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近くに寺がありました。
「長善院」と地図にはあります。奥に見えるのは「加藤洲大観音」のようです。

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加藤洲十二橋めぐり動画はこちらで見られます。




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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/06/05 18:56

潮音寺(1)-薬師寺東関東別院

 潮来の日の出地区に奈良薬師寺の別院があるというので見に行った。
奈良薬師寺の別院は東京とここ東関東(潮来)の2か所である。

しかしこの寺を紹介するのは止めておこうとも思ったが、行ってみたらやはり紹介して残しておかねばという気になった。
最初はこの寺は新しいし、政治的な匂いがして神聖な寺をお参りするにはふさわしくないように感じていたのです。

この寺は「水雲山潮音寺」といい慈母観音を本尊として昭和50年(1975)に開山された新しい寺です。
でも時の潮来市出身の政治家「橋本登美三郎」がこの日の出地区の開発にあたってこの寺を建てたため、別名「ロッキード観音」などとも言われたのです。
この建設が決まったのは昭和46年でしたので橋本氏は運輸大臣でしたが田中角栄とともにロッキード事件で逮捕された。
逮捕されたのはこの寺の開山の翌年です。

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寺などは比較的高いところに建てられるのが一般的ですが、この日の出地区というのは新しく開発された低地の平地です。
しかしかなり広い敷地を一坪運動などで確保して、一大伽藍を建設したのです。

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開山当時は16もの建物があったそうです。
しかし2011年の東日本大震災でここはもろくもかなりが崩壊したり傾いてしまいました。
なにしろ液状化で地面はもう波を打ち、水も出てドロドロになったようです。
私が震災から半年くらい後で来た時にもこのあたりは道路も凸凹でした。

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本堂は残りました。
隣りにあった鐘楼は崩壊し、今は仮の鐘楼が組まれ、開山40周年(今年)に何とか再興をしたいと思っているようです。

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もう少し記事は明日に続きます。

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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/06/09 21:01

潮音寺(2)-鐘楼

 今年で開山40年を迎える潮来の潮音寺。
これだけの者を建設したが4年前の東日本大震災でもろくも多くの建屋が損壊したという。
古代はこのあたりは香取の海であったはず、
江戸初期の利根川の東遷により大量に運ばれた土砂で洲ができた場所か?
近くには外浪逆浦と呼ばれる波が渦巻いていたという大きな川の溜り池がある。

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慈母観音本堂の向かって左隣に不動明王像?が置かれていた。
ここにも建屋があったのだろう。

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本堂の向かって右隣りは立派な鐘楼があったらしい。
今はこのような鉄パイプによる応急処置の鐘楼が置かれている。

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梵鐘はかなり大きくて立派なものだ。

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こうして新しい鐘楼の建設資金のために鐘つきをさせてくれる。

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こちらは内部は見えなかったが薬師堂だ。

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現在この日の出地区は道路建設・整備が大規模に行なわれている。
潮来市内と高速道路潮来インターチェンジ、高速バスターミナル、道の駅「潮来」などがつながるエリアである。

今日は銚子で仕事の予定であったが延期になった。
つゆで雨も多くネタも切れてきた。 2000回まで持つかな?

こちらのブログネタ以外のも調べ物が多くなってきた。

疲れたら少し休むか?



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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/06/12 19:54

潮音寺(3)-東日本大震災

潮来の潮音寺(奈良薬師寺の東関東別院)は4年前の東関東大震災で大きな被害を受けました。
この日の出地区は昔は海だったのでしょう。
液状化で建物は傾き表面には泥が液状化して大変ひどかったといいます。
観音様のお力でもどうにもならなかったのですね。

それでも潮音寺では毎年夏8月にたくさんのキャンドルを灯し、万燈会が世界平和を祈願して夜10時まで行なわれています。

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そしてこの寺の建設時に隣りに幼稚園が併設されました。
その幼稚園側には大きな地蔵と子供の地蔵が祀られ、水子地蔵として多くの水子の冥福を祈っております。

そしてその隣りにひときわ大きな地蔵と80体の子供の地蔵が置かれています。
こちらを向いているのが41体、向こう側(幼稚園側)を向いているのが39体あります・

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この子供の地蔵は東日本大震災で石巻の大川小学校の生徒さんや先生の多くの人が犠牲になったことを供養するために全国の方々の支援で作られたものです。
そして大きな地蔵は今回の津波などで被害にあわれたすべての方々の供養と、まだ発見されていない不明者早く見つかるように供養して2012年9月に建立されました。

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そして翌年の2013年3月11日に震災の3回忌追悼法要が営まれました。
地震発生の時刻に合わせて梵鐘が鳴らされ、参列者も皆鐘をついたようです。

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一日も早い東北の復興をお祈りいたします。

今日もまた家内はいわきの仮設住宅数か所に出かけました。
まだ仮設から抜け出せない人がたくさんいます。
多くの年寄りたちは故郷を追われどうすればいいのでしょう。

皆の気持ちは「賠償金などいらないから故郷と昔の暮らしを返してほしい」ただそれだけなのです。
でも仕方がないとあきらめ、何とか前向きに進もうとしています。
東北人は辛抱強いですね。

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潮来 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/06/13 17:54

潮音寺(4)-三十三観音

 この潮音寺を4回にも分けて書くつもりはなかったが、多少ネタ切れで細かく分けてしまった。
本来100観音の寺を巡るという巡礼旅などが江戸時代は多く行なわれた。

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100観音は坂東33観音、西国33観音、秩父34観音をいい、それぞれかなり離れたお寺を巡るのである。

私のいる近くでは坂東であるが、雨引山楽法寺、筑波山大御堂、土浦清滝寺となりその次が銚子の飯沼観音となる。
やはり回るのはこれだけでも昔はかなり大変であった。

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ここにはその33観音がすべてある。これをどう考えるかはその人の自由だが、昔100の観音をすべて回り成就を祝って碑を建てたところがかなりあり、また100の観音の姿を鋳型におこし、これから観音像を製作して、各地の寺に祀った100観音の寺もある。

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若くて体力や時間もあるなら四国八十八か所巡り同様にこれらの寺を巡るのも良いだろうが、あまり動けなくなった人たちはこれらがまとまっていればお参りにも訪れるだろう。
この寺もこれから数十年、数百年と経てばきっともっと素晴らしいお寺になるに違いない。


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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/06/14 18:54

あじさいの杜

 今日また潮来の方に出かけたので紫陽花のきれいな場所として最近知られてきた二本松寺の「あじさいの杜」にいってみました。
5~6分咲きと聞いていたのですが結構満開に近かったです。

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道順は道路沿いにこの旗がたくさん出ていて迷いませんでした。

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山の斜面に一面に植えられたアジサイですが、種類が豊富で花の種類も楽しめます。

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今日は夜に帰ってきてあまり時間がありませんので、紹介も写真のみです。

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これからはこんなブログも増えそうです。
記事を調べたりして書いていくのに最近疲れを感じます。

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この紫陽花の杜の隣りはこのような田んぼが広がっています。

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寺の境内から続く山の斜面一面に紫陽花が植えられています。

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去年も確か来たと思いますが今年の方がきれいに感じました。

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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/06/16 22:02

潮来のアヤメ

10日くらい前に一度紹介していますが、前回は雨でしたので、また立ち寄りました。

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潮来と言えばこの前川のアヤメと舟ですね。

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アヤメは満開になり、一部公園の管理の方たちがしぼんだ花を取り除いておりました。

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アヤメ(菖蒲)とカキツバタ。さて区別は?

調べれば花弁の模様で違うとか載っていますが、全く覚えられません。
あまり覚える気もないのかも・・・・。

「いずれアヤメ(菖蒲)かカキツバタ(杜若)」といったところです。

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公園ではこうしてアヤメを売っています。
この前川アヤメ園や与田浦の水生植物園などでもたくさんのお店が出ていました。

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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/06/17 20:37

櫓漕ぎ舟

 潮来の前川アヤメ園の船着き場から前川十二橋巡りの櫓こぎ舟が出ています。
潮来花嫁さん♪♪の曲が今も流れています。

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この日はかわいい幼稚園生も観光船乗り場に並んでいます。

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しっかりライフジャケットをつけています。
でも舟の上だ騒いだらちょっと心配。

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舟に乗ったら皆座って恐々、興味津津外を眺めています。
一度に皆乗れないので2つの舟に分かれて乗るようです。

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どうですか。みな舟から顔をだす姿も可愛らしい?
でも櫓を漕ぐのはお兄さんでした。

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このアヤメ園の方から前川を上っていってまたかえってきます。
十二橋は本当は中洲の方の加藤洲十二橋をいうようですが、この前川十二橋巡りも人気です。

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このアヤメ園からは潮来花嫁さんのイメージで女船頭さんの櫓漕ぎ舟も出ていますが近くからはエンジン付きの舟もたくさん出ています。

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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/06/18 20:53

長勝寺の新緑

 潮来の前川アヤメ園から源頼朝が創建したと伝えられる長勝寺へ向かいました。

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沿道はあちらこちらに紫陽花の花が咲いてとてもきれいにしてあります。
観光客の女性グループが途中のお宅の紫陽花が綺麗なので「分けてもらえませんか?」などと聞いておりましたがこんなお願いしない方が・・・。
多くの観光客の目を楽しませてくれているのですから・・・・。

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長勝禅寺とあります。こちらが最初の山門です。

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ここは桜の名所ですね。前にも数回紹介しています。
今の時期はこの緑の葉が美しいです。

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この楼門形式の山門は普門院にあったものを移築したもの。(普門院はこちらの記事参照)

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山門と説明にはありましたが、下の両側には仁王のスペースが残されていますが、仁王像は置かれておりません。

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この楼門はとても姿がいいです。

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山門(楼門)を過ぎて本堂までまた美しい参道が続きます。

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この続きはまた少ししてから書きます。

明日・明後日はギター文化館で「ふるさと風の会」の9周年展とことば座公演を行います。
是非お出かけください。
私も10時からそちらに行く予定です。

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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/06/19 21:14

長勝寺本尊

 潮来市内にある古刹「長勝寺。
ここはやはり鎌倉界隈を彷彿させる。
緑も桜、紫陽花も美しい。

長勝寺は1185年に源頼朝が創建したといわれている。

どんな状況だったのか?

源平の戦いで平氏を滅ぼしたのが1185年。
戦勝を祈願してこの寺を創建したというがこれは源平合戦のことか?
それとも義経討伐の時か?

なかなかこの年だけわかっても状況はよくわからない。

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この寺(長勝寺)の本尊は「釈迦如来」
アヤメ祭りのこの日は本堂の扉が開いていた。
数回訪れているが初めてのこと。

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こういう機会もあまりないのでじっくり拝ませていただいた。
鎌倉の長勝寺は日蓮宗であるがここは臨済宗妙心寺派。

この潮来の長勝寺は鎌倉の円覚寺と関係が深かったいう。

この寺も一時荒廃したが水戸光圀が京都の妙心寺の僧侶を招いて復興させた。
やはり黄門さんが出てくる・・・・。

板久を潮来にしたのも黄門さんだね。

♪♪ 潮来出島の まこもの中に あやめ咲くとは しほらしや ♪♪


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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/06/22 20:51

潮来出島(加藤洲)

潮来は常陸利根川に面しているがこの川向こうが加藤洲で、利根川と常陸利根川に囲まれた中洲である。

加藤洲は「かとうす」ではなく「かどうず」と読む。
江戸時代に徳川家康が利根川が江戸湾に注いでいたのを、銚子の方に流れをつけかえて今の利根川の流れとなった。
そしてこの地に広大な中州が誕生し肥沃な土地となった。

何故加藤洲というのか? よくわからない。
家康が名付けたとも??

加藤洲村といわれ、公官洲新田、附洲新田などという地名もあり新田が多く作られた。

♪♪ 潮来出島のよれ真菰(まこも) 殿に刈らせて我捧ぐ ささぎ揃いて船に積む 船は何船 宝船 船は出て行く森の影 此処は何処だよ船頭さん 此処は神崎森の下 森の下には狐 棲む 棲むや白狐 我も二三度騙された ♪ ♪

これは石岡市太田の善光寺の万燈祭で歌われたといわれる歌だ。

こんなところにまで潮来節は広がっていた。


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この新田の間をこのような水路がはしる。
移動は船の方が便利だったのかもしれない。

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2つの川(利根川、常陸利根川)の間の洲の中を大きな川のような与田浦が広がる。
上の写真は西側を眺めたところだが、遠くの橋は高速道路である。
写真の右側方面に潮来のインターがある。

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東側は与田浦は広く広がっている。
そしてその先の中州はは一ノ分目、三ノ分目などの地名が続く。

恐らくこれからもこのあたりをあまり通る機会は少ないと思う。
だがやはり一度見ておきたかった風景が広がっていた。



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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/06/23 21:15

妙光寺

 行方市麻生の潮来寄りにあった「一乗寺」は、「築地妙光寺二十一世の日孝上人を迎えて初祖とした」と書かれていた。

そこで昨日は隣りに建てたと言う羽黒神社(七面大明神)に行った。その足で、この「築地妙光寺」を見て見ることにした。

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築地は潮来市にあり大生の少し南側の地域で主要街道も走っていない場所だが、ここは実に不思議な場所だった。

妙光寺は道をグネグネとナビを頼りにたどり着いたが、実に立派な寺であった。

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現地の潮来市教育委員会の説明板の内容をそのまま書きだしてみます。
「本圀山妙光寺
 この寺は文永2年(1265)、宗祖日蓮大聖人の直弟子、中老僧一乗阿闍梨日門上人の開祖、当時隣村の水原村に居住していた油井但馬守国光、横山遠江守勝光が鎌倉参勤の際、日門上人を招聘し一宇を創立したのが始まりである。即ち本圀山妙光寺と号し、常陸国最初の日蓮宗の古刹である。
 その後、正応3年(1290)中道院日正上人によって現在地に移転される。往昔は朱印等があったが、記書焼失のため上地となるなど一時退転の形勢となりましたが、十六世日遙上人の時、代官矢野九郎右衛門、郡奉行萩原庄右衛門、芹澤伊賀守、三木五兵衛等の力により水戸藩から費用を仰いで九間二七間の客殿を建立した。
 元禄12年(1699)十九世徳大院日具上人の時、徳川光圀公より費用を下附され四間四面の本堂を造営した。堂内の日蓮大聖人の御尊像も同時に奉納され、また法華三昧堂の正面の額は光圀公自筆の書である。
 二十世日孝上人の時、徳川綱條公より祈祷料として玄米五十俵を下附された。現在の本堂は寛永年間(1624~1643)の再建にして、寺宝には日蓮聖人直筆の御本尊並びに御消息断片、日門上人直筆御本尊、徳川光圀の書簡、光圀拝領の蒔絵法衣箱・状箱・硯箱、紺紙金泥法華経開結十巻などがある。・・・・・・・・」

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先の説明によればこの本堂は寛永年間(1624~1643)の再建という。

説明も長くて読むのも大変だが、この寺は日蓮宗の常陸国では一番古い寺だそうだ。

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本堂から少し上ったところにある「法華三昧堂」


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この法華三昧堂の額は光圀直筆だとの説明があった。

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この寺は緑も多くなかなか立派な寺であった。

この寺の説明では日孝上人は第二十世となっていた。一条寺には二十一世と書かれていた。

何故このような場所に寺ができたのだろうか。

「築地」という地名にすこしかかわっているような気がする。
もう少し調べて見よう。

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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/09/26 21:38

熱田神社(潮来市築地)

 昨日、日蓮宗の寺として常陸国で最初に建てられたと言う「妙光寺」を紹介しましたが、この寺も水戸光圀の書が残されているなど水戸藩の庇護を受けていたようである。

場所も元鹿島といわれる大生神社から南方へ2kmほどしか離れていない。

この寺から800mほど南に同じ築地地区に「熱田神社」がある。

地図を見ていると道路がこの場所に集中しているようだ。

ついでと思い立ち寄った。

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街道から少し脇に入った場所の少し高くなった場所にあった。
まわりは木々に覆われ古くからあることが分かる。

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鳥居のところに少し変わった表情の狛犬が置かれていた。

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大正9年

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本殿

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拝殿前の狛犬?はどうやら鹿を表わしているようだ。

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「日本武尊、東征の折当地に立ちより、東は鹿島、南向香取、西方遥かに筑波の霊峰を望み、北は北浦に接し展望絶景高燥の地なるを以って戦勝祈願を行ったという。この地にあって尊の命に従い功のあった三十番神を褒め称えた。
村人はその跡を都恵地(築地)と称し祠ありしが、大同元年(806)社殿をつくり日本武尊を祭神とし三十番神を合祀、尊崇した。
延宝3年(1673)水戸藩主・光圀公巡視の折、由来を尋ねられ熱田神社の神号を賜る。」

どうですか? 読む気になりますか。 でも少し面白い記述があります。

まず、
1)ヤマトタケルがこの地でこの辺りに住んでいた部族を退けたので、戦勝を祝って戦功のあった三十の勇者を讃えた。
2)そしてこの地の名前を「都恵地」と名付け、後に「築地」となった。
3)水戸黄門さんがヤマトタケルの戦勝記念の話を聞いて、草薙の剣が奉納されている熱田神宮と同じだと言うことで「熱田神社」と改名した。

簡単にわかりやすく書くとこんな意味でしょうか。

常陸国風土記では潮来については
「建借間命が兵を放って駆逐すると、賊は一斉に小城に逃げ帰って、門を固く閉ぢて立て篭もった。すぐさま建借間命は計略を立て、勇敢な兵士を選んで山の凹所に潜ませ、武器を造って渚に並べ整へ、舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴とりごと・天の鳥笛とりぶえは波の音と調べ合はせて潮と流し、杵島き しまぶりの歌を七日七夜歌ひ踊って、遊び楽しんだ。この楽しき歌舞を聞いて、賊どもは、家族も男女も揃って出て来て、浜辺に群れて楽しみ笑った。建借間命は、騎兵に城を封鎖させ、背後から賊を襲って捕らへ、火を放って滅ぼした。痛く討つ言った所が、今の伊多久(板来)の郷であり・・・」
(口訳・常陸国風土記より)

このあたりで地元部族をやっつけたのは「建借間命」であり、この後に水戸から那珂川へと攻め込んでいる。
ヤマトタケルはこの後にやってきたのか?

ヤマトタケルの記述はその後に書かれていて、
「田の里より南に相鹿(あふか)、大生の里がある。昔、倭武の天皇が、相鹿の丘前をかざきの宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひ ど の)を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生(おほふ)と名付けた。また、倭武の天皇の后の大橘比売(おほたちばなひめ)の命が、大和から降り来て、この地で天皇にお逢ひになったことから、安布賀(あ ふ か)の邑といふ。」

この「倭武の天皇」がヤマトタケルのことで、この地で東京湾で自ら海に入水して亡くなったとされる弟橘媛(おとたちばなひめ)に再会しています。

この築地という地名も考えるとかなり深いものがありそうです。

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さて、この神社の隣りが空地になっていますが、「津知第二小学校跡地」だそうです。

前に潮来の街散策していて二十三夜尊の隣りに「津知村役場跡」を見つけ記事(こちら)を書きましたが、津知=辻 で、港(津)に出る道路の辻という意味だろうとその時書いたことがあります。
その津知村の小学校だったようです。

このような場所は何かの記事をきっかけにでもして出かけない限り、恐らく見ることも知ることもなかっただろうと思います。



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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/09/27 18:59

「道の駅いたこ」に立ち寄った

 今日は雪が舞い寒い一日でした。
暖かい日が続いていて急に寒くなると身体もおかしくなりそうですね。

昨日の成人の日に仕事で銚子に行く途中、トイレ休憩のため思いついたのがここ「道の駅いたこ」です。
通り道沿いではありませんが、ほんの数百m入れば到着します。

朝10時頃で、天気もあまり良くなかったのですが休日ということもありかなり人が来ていました。

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ここは足湯があったりして色々工夫しているようですが、時間もなく一通り売店など見て回っただけで何も買いませんでした。

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正月ということもあり地元の「愛友」という酒造所が樽を積み上げ、この裏で試飲を行なっていました。
もちろん車ですから飲むことはできません。

愛友は以前潮来の延方郷校を調べていた時に「辻」のところから川に向かって言った通りにありました。
記事はこちらを参照ください→ こちら

まあ今日は記事もなく時間もないのでくだらぬ記事になった。

石岡市では日曜日に成人式が行なわれた。
午後3時頃町に出たら市民会館からたくさんの晴れ着(振袖)姿の娘さんがたくさん歩いていた。
一時普段着の成人式などというものが叫ばれていたように思うが、こんな派手な格好して何が成人なのかという思いがしてならない。
こんな事を言うと天邪鬼なじじいだと思われるだろうからあまり多くは言いたくないが・・・・

このような行事を行政がやり、水戸市みたいに騒ぐ若者がいて、警備員に謝ったので警察も立件しない事となったと・・・
そこからが問題。これに対し水戸市の市長が御立腹。

どっちもどっちだという気がしてならない。
本当にこんな成人式が良いのだろうか?

昔の元服とまでは言わないが、選挙を18歳にするのだから成人も18歳にしたらどうか?
大人になるのに何もこんな行事をする必要など何もいらない。

福沢諭吉が言っていた「独立自尊」という言葉を心と身体(生活)で理解できるようにするには、この現在ではどんな方法が良いのかを問われているように思う。

こういう私は20歳前に家を変わったせいもあり、市(当時住んでいたのは東京都小金井市)の成人式は出席していない。


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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/01/12 22:18

夜越川(よろこしがわ)

 行方市麻生から潮来市に入って国道51号線をくぐると牛堀の街に入ります。

この旧道沿いを潮来の街の方にすこし進んだところに「夜越川」という少し名前の気になる川が流れています。
よくここを通るのですが、この川に白鳥がいつもいるので気になり、先日車を近くに停めて川沿いを歩いてみました。

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白鳥はいつも2羽。同じハクチョウでしょうか。
霞ケ浦やその周辺には渡りでなく棲みついた白鳥もいるようですので、この白鳥が冬場だけなのかどうかはわかりません。

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牛堀の街の通りに架かる橋(新東栄橋)にはこのように「夜越川 YOROKOSHIGAWA」と掲げられています。

名前が気になり調べて見ると、

この上流側の「香澄の里」公園に近いところにあった「永山城」(大掾流の行方一族の小高幹平の子知幹が築城し、永山氏を名乗った)が、同族の島崎氏がこの川を夜に渡って攻めてきて滅ぼされたことからこの名前がついたという説明がされている。

しかし、この説明はどうもしっくりしない。
「夜越」を「よろこし」と読むことからもすっきりしない。

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新東栄橋。 小舟が置かれている。

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穏やかでのんびりした風情だ。

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白鳥も鴨たちもみな仲良しのようで、人に驚いたりおびえたりする風もない。

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なかなかのどかだね。

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さて、この夜越川(よろこしがわ)をアイヌ語(縄文語)などであったらどういう意味になるのだろう。
調べると、岩手県盛岡市に近いところに「ヨロベツ沢」という名前があった。

この「ベツ」というのは北海道などの地名で「川」の意味のところが多いので川の意味とすると、「ヨロ」というのは「獲物のいる所の」というような意味もあるそうです。

では現在のこの川というと釣り場としても名がしれているようです。
バスやタナゴ、鯉などだそうです。

昔の人がこの川を獲物のいる川としてあがめていたとすればヨロというのはそんな意味もあるかもしれません。

まったく別な見方をすれば、霞ケ浦の水運が発達していた時に、帆を張った舟の風待ち港であった牛堀と潮来の間を人々が行き来していて、夜にこの川を渡ったのでついた名前かもしれません。

いずれにしても川の名前は時代や川の流域によって呼び方も変わっている場合が多いので何が正しいかはよく分かりません。

ただ色々考えを巡らせて想像するのも楽しいです。舟の出るのが朝早かったり、夕方遅かったり・・・・
今ではこの「風待ち」を想像するのもかなり厳しいですね。

小林一茶が潮来から銚子に行くために舟に乗ったのは「卯上刻」ですから朝の5時台です。旧暦の5月ですから朝5時台も明るかったでしょうが・・・・・・。

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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/01/28 21:48

島崎城址と御札神社(潮来)

 中世に行方地方を支配していた大掾氏(だいじょうし)系の行方四頭の二男島崎氏は潮来市(牛堀)の山間に居を構えていた。
通りから少し入った狭苦しい場所だということでなかなか足が向かなかった。

昨日銚子に出かけた時に途中で立ち寄ることにした。

ナビに近くの住所を登録して出かけた。
前に来たときに道がわからずに途中で引き返したためだ。

今度は無事に到着したが、ナビがなければたどり着けたかどうか?
見学時間も朝方の1時間程度で数カ所立ち寄るというのだから道を間違えると途中でタイムアップになってしまう。

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 関東平家の直系である「常陸大掾(だいじょう)氏」の多気大掾氏四代目の平致幹(むねもと)の弟である平清幹は水戸に進出していたが、清幹には三子がおり、長男盛幹は吉田太郎、次男忠幹は行方次郎、三男成幹は鹿島三郎となり吉田氏・行方氏・鹿島氏となった。
この吉田氏は水戸を本拠地にして多気大掾が滅びた時に大掾を受け継ぎ常陸大掾氏を継承した。そして国府のあった石岡(府中)にも城を築いて二つの城を行き来していたが、水戸を奪われると佐竹氏に敗れるまで石岡(府中)がその根拠地となった。
一方、この次男忠幹(行方氏始祖)の子景幹が地頭職に任じられ、行方地方で勢力を拡大し開拓していった。
しかし、このあちこちには鹿島の神宮の領地もあり、争いも頻繁に起こっていた。この景幹には4人の息子がおり、小高氏(行方氏)・島崎氏・麻生氏・玉造氏になっていった。

この二男が島崎氏となったのだが、場所は一番鹿島寄りの牛堀である。
いまは牛堀も潮来市となっている。

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行方四頭が支配を始めたのは鎌倉時代の始まるころである。
この島崎城は鎌倉時代始め頃(13世紀?)と考えられている。

戦国時代には行方四頭の間でも争いは起こっており、島崎氏は大永5年(1525)に鹿島氏を攻め、鹿島郡をほぼ領有し、天文5年(1536)には玉造宗幹を攻め、行方郡を一時ほぼ制圧した。
天正12年(1584)に麻生城を攻略し、里見義弘の弟義政を井関氏と改めて城主とした。
同十七年には小高城を攻めて坂氏兄弟を戦死させた。

こうしてこのあたりを制圧した島崎氏ではあったが、佐竹氏が秀吉から常陸国の統一を任され、この南方33館の城主が一斉に常陸太田に呼びつけられてすべて誅殺されて一族皆滅んでしまった。

助かったのは呼び出しに応じなかった芹沢氏くらいだ。

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この島崎城もこの佐竹氏の呼び出しで殺されて、城も滅んでしまったが、残された人々はどうしたのであろうか?

今この城跡の一角(本丸跡)に「御札(みふだ)神社」が建っている。

水戸藩の開基帳には島崎城構築の際、本丸に取構え城の鎮守として崇拝したと記され、祭神は武甕槌命である。
当社所蔵のものとして、大べし・抜頭・貴徳・翁・醜男の五つの古面があり県指定の文化財(工芸品)になっている。
(潮来市HP)

この古面は結構面白い。かなり古い面だ。

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4-81-5.jpg 茨城県教育委員会HPより





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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/11/22 18:33

国神神社

 島崎氏の城跡に立つ「御札神社」の近くにもう一つ気になる神社があります。
「国神神社」なのですが、ここに文化財として「上戸の獅子舞」というのがあります。

前に「御札神社」には鎌倉期のお面が5点残されており、かなり興味を惹かれるのですが、ここの獅子舞も古くから伝わるもので昔の獅子舞を考える上でも貴重なものです。

市のHPには
「国神神社は嘉歴元年(1326年)大洗磯前神社のお分霊を迎えて鎮斎、
応永2年(1395年)氏子が雄獅子、雌獅子、中獅子の三体を寄進したことから始まり、
笛、太鼓、舞手、天狗、おかめ、ひょっとこから組み立てられ奉納されています。
獅子舞保存会が代々地区の嫡男によって運営され、この伝承が継承されています。
この獅子舞は、県内では猿島郡堺町、久慈郡大子町にだけ伝わる貴重なものです。
舞は、巫女舞を最初にし、天狗の道割、芝寄せから雌獅子、中獅子、雄獅子の舞、
最後に激しく乱舞し、ひょっとことおかめの掛け合いという順で終わります。

この獅子頭は、応永2年(1395年)に氏子が三体の獅子を寄進し、社宝になったと伝えられ、
また、元禄3年(1690年)に水戸藩主水戸光圀が、旧暦卯の日に奉納することを定めたと言います。」

と書かれています。
どうです? 結構興味深い内容だと思いませんか?

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御札神社からは潮来の方に800~900m位しか離れていません。

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通り沿いに神社はありました。

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もう少しうっそうとしたところを想像していたのですが、意外にカラッとした場所でした。
この横の街道できっと敷地が削られてしまったのでしょう。

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神社の横の通りの反対側の畑にはきれいな花が咲いていました。
皇帝ダリアでしょうか? これだけまとまっていると見ごたえがありますね。

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(上戸の獅子舞:潮来市産業観光課HPより)


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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/11/24 21:15

大生古墳群(1)-鹿見塚古墳

 潮来市の北部、北浦沿いに元鹿島と呼ばれる「大生神社」があります。(前の記事は ⇒ こちら

ここは大和朝廷のタケカシマの種族オフ氏(多氏・飯富氏)が集落を作って住んでいたと思われ、茨城県としては最大級の古墳群(約110基)があります。

大生神社には数回来ていたのですが古墳がよくわからずに素通りしていました。
今回少し調べてやって来ました。

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「鹿見塚古墳」 前方後円墳 全長58.1m 茨城県指定史跡

通りからも見えるのに前には気が付かなかったのです。
それほど大きいものではありませんが、形は少し特徴的です。
古墳時代中期(5世紀頃)の築造とみられていますが、発掘調査はされていないようです。
古びた看板がありますがよく読めません。

茨城県教育委員会の説明では
「大生地方は、古くはオフ氏の根拠としたところで、大生神社を中心に一大文化圏をなしていたと思われます。
 この環境を背景として北浦に面する大生原台地には、110余基からなる古墳群が存在し、旧時の状態を良好にのこす古墳群として、また県下最大の規模を誇る古墳群として極めて貴重です。
 この鹿見塚古墳は、大生西部古墳群内に存在する盟主的な片耳式前方後円墳です。
 主軸は北西より東南に走り、全長約58m、前方部巾約32m、後円部直径約34m、同高さ約6mを有し、墳丘西側括部中央よりやや南に低い造出しを付設しています。
 さらに後円部がとくに高く突き出していることで特異な墳形をしています。 」
と書かれています。

この古墳の向きは鹿島神宮方向を向いているといわれています。


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東南方向に向いています。

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常陸国風土記では「昔、斯貴(しき)の瑞垣の宮に大八洲知ろし食しし天皇(崇神天皇)の御世に、東の国の荒ぶる賊を言向けんとして、建借間(たけかしま)命を遣はされた。建借間命は、軍を率ゐて賊を言向けつつ、安婆(あば)の島に宿を設けたとき・・・・」

と書かれており、潮来方面の賊を皆殺しにしたりした様子が書かれている。

この建借間命(タケカシマ)はその後水戸方面から那珂川をさかのぼり上流の地域を制圧していきました。
そしてその功績から初代仲国造(那珂)になったとみられています。

何処からどうやってこの地に攻め入ったのでしょうか。

風土記には「安婆島」にやってきてここから船で潮来に渡ってきています。
安婆島は現在大杉神社がある「阿波(あば)」に地名が残されていますが現在の浮島あたりでしょう。

ではこの浮島までの道は?

これは大和から陸路ではなく海路を通って九十九里浜の横芝光町あたりで上陸し、栗山川などを通ってやってきたように思われます。
(何処にも書かれたものがないので推論です)

海路があったことは確かで3世紀初め頃に四国の阿波から館山あたりにやってきた民族から「安房国」が始まっており、上総国国府の市原にある古墳はやはり古くて、3世紀初め頃のものがあります。

常陸国風土記ではこのタケカシマが賊をおびき出すために

「舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴・天の鳥笛は波の音と調べ合はせて潮と流し、杵島(き しま)ぶりの歌を七日七夜歌ひ踊って、遊び楽しんだ」

と書かれています。
杵島地方は今の佐賀県(旧肥後国)にある場所で、この近くに「鹿島市」があります。
タケカシマと鹿島の名前が一致していますのでかなりの関係性がありそうに思いますが、どのように関係してくるのかはよくわかりません。大変興味深いと思います。

茨城県の鹿嶋市は後からできたので島の漢字を「嶋」に変えていますが、鹿島神宮などは元のままです。

しかし常陸風土記では「香島」と表現されており鹿の字は使われていません。

さて、ではタケカシマが東国にやってきた時代はというと(10代)崇神天皇17年頃?ということのようですので、3世紀後半から4世紀にかけたあたりだと考えられます。(古事記や日本書紀などに書かれた年代とは当然ながら合いません)

ここの大生古墳群は5世紀頃からのものだそうですので、ここに住んでいたのオフ氏一族はタケカシマがやってきた時より100年以上後になるのでしょうか。

まわりの古墳ももう少し見ていきましょう。

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潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/28 06:46
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